アプリールの吟遊詩人
解決編
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   3


 森の中を歩いて行くと、いつしか木々の間から零れる光の粒子に気がつく。
 そして、視界が開けると、陽の光を反射してきらきらと星を撒き散らしている、大きな湖が目前に現れた。
 ――これが、妖精の瞳――
 しばらくの間、息をするのも瞬きをするのも忘れて、フィードはその銀色に輝く湖面を呆然と見つめていた。
 小さな村の1つくらいなら裕に包んでしまえるほどに広い湖は、上空から見たら本当に目の形をしているのではないかと思えるような楕円形で、時おり吹く風が水面を揺らすたびに舞う反射光は、さながらその1つ1つが100年に1度のダイアモンドのような輝きを放っている。
 風が止み、揺れる水面がしっとりと落ち着くと、今度は、すぐ近くまで迫った森の木々や、その向こうにどっしりと座っているラグーナ山の威容が、鏡で映したかのように、くっきりと湖面に再現される。
 つい先ほどまで、湖に着いたらどんな詩が浮かぶのだろう、どんな曲を奏でることができるのだろうと、胸を躍らせていたフィードだったが、いざ実際に目の当たりにすると、まるで言葉が自分の意味を忘れたかのように、旋律が恥ずかしがって物陰に隠れてしまったかのように、何ひとつとして浮かんでこない。
 様々ないわれを持つ湖、カルナス湖――妖精の瞳。
 世界に人間という存在がまだなく、神々が大地を統べていた時代にはすでにそこにあったと言われる湖。1人の妖精が、悲しみの涙を溶かして以来、今日までその水が曇ったことがないと言われる湖。湖面が光り輝く聖なる夜に、闇を裂く銀色の龍が天空を舞うと言われる湖…。
 ふと、頬に何か温かいものが流れているような感覚。
 気がつくと、フィードは渾身の力を込めて歯を食いしばり、ただひたすらに泣いているのだった。
 それがどういう理由によるものなのか、フィード自身にも判らない。感動している、という単語は頭に浮かぶけれども、何かそれひと言では収まらない、大きな力によって、自分はこんなにも涙を流させられているのだと、そう思う。
 生まれて初めて――
 彼は、世界が自分の瞳の中には入りきらないものだと思った。
 自分の心の中には入りきらないものだと思った。
 そして、座ることも忘れて、ただひたすら立ち尽くしたまま、ずっと泣いていた。


 どのくらいの時間が経ったものか、気がつくと、東寄りに位置していたはずの太陽が、西の方へと移動してしまっている。空は青々としているが、昼時と言うには若干遅い時間にはなっているようだ。
 そう思うと、現金なもので、先ほどまではどうと言うこともなかった腹の虫が、我先にと一斉に騒ぎ始める。
 空腹のまま我慢していたところで意味はないので、フィードは出がけに夫人が持たせてくれたサンドイッチを取り出して、遅い昼食を採ることにした。
 …と
 名を呼ぶ声がかすかに聞こえたような気がして振り向くと、先ほど自分が歩いてきた林道を辿って、見覚えのある金色の髪が歩いてくるのが見えた。ミリア=マーグレットである。
 瞳と同じ色のコートに身を包み、木洩れ日に彩られながらこちらに歩いてくるその様は、油断していると、指が勝手にリュートの弦を弾いてしまいそうになるほど完成されている。
 それと…彼女の横にもう1人、見慣れない少女がついてきていた。
 おそらく友人なのだろう、橙色のパーカーを着た元気そうな女の子で、ミリアと一言二言会話を交わしたと思うと、やおら猛スピードでこちらへ向かって走ってきた。遅れて「待ってぇ!」と叫びながら、ミリアも駆けてくる。
「こんにちは!」下が砂地だったら、もうもうと砂埃を上げながら10メートルは吹っ飛んだのではないかと思えるほど豪快に急停止して、少女は天真爛漫に微笑んだ。「えっと、フィードさんですよね?吟遊詩人の…」
「ええ、そうですけど…」
 目を白黒させていると、少女に数秒遅れて、ミリアが到着した。
「もう!待ってって言ってるのに!」
「ごめんごめん。でも、ミリアももうちょっと、走るの速くならなきゃ」
「おかげさまで、女の中では速い方だよ。男の人より速いなんて方のがおかしいの」
「そうかなぁ? このくらい普通だよ、普通」
 首を傾げているが、フィードの目から見ても、かなりの足の速さだと思えた。いちおう諸国を放浪してきた足にはそこそこ自信があるので負けるつもりはないが、それでもぶっちぎりで勝つのは難しそうだ。
「えっと…ミリアさんのお友達?」
「あ、はい。その…昨日の話…置物の話をしたら、どうしても、会わせろって言い出して」
「置物の話?」
 改めて少女を見てみる。背はミリアより少し低くて、おそらく160センチ弱というところだろう。こげ茶色の、くりくりと猫のように大きな瞳が活発さをアピールしているかのようで、ツンと上向きの鼻と薄い唇がますますそれを助長していた。首の後ろのバレッタでまとめられているセミロングの髪の毛は、瞳の色を薄くしたような栗色で、少女の動きに合わせてぴょんぴょんと元気よく揺れている。
 全体的にしっとりとした美少女である友人とは対照に「健康美」を絵に描いたような雰囲気の少女だった。
 しかし、昨日の置物の話とは…何か聞きたいことでもできたのだろうか?
 そう聞くと、ミリアがいくらか困惑したような顔で「その…あの謎が、判ったっていうんですよ」と言った。
「え?あれが…?」
 昨日、ずいぶん遅くまでマーグレット家の3人と一緒に話し合ったが、結局最後まで謎は解けなかった。
 いや、そもそも、あんな曖昧な謎など、解けるはずがない。解けないからこそ、フィードは話したのだ。すぐに判ってしまう謎より、それこそ妖精のイタズラとでも解釈するしかないような、解けない謎の方が余韻を残すから。
 それが…判らないという前提の下に話した謎が…あんな手がかりのない話が解けた? とうてい信じられない。
「あの、それは本当に? 何かの勘違いとかではなくて?」
「うーん、勘違いかもしれない」
 即答されてしまった。
「は?」
「ちょ、ちょっと。さっきは判ったって言ったじゃない!」
 慌ててミリアが友人を問い詰める。
「うん、判ったことは判ったんだけど…。でもさミリア、あの話って、それこそ『誰か、置物の裏面をこよなく愛する人が、わざと裏向きに置いていた』っていうのでも、完全に否定することはできないじゃない?」
「でもそんな、むりやりな答えなんか…」
「いや、私もそんなことは考えてないけど…なんて言うのか、どんな解答であれ、いちおうの正解にはなっちゃうはずじゃない。答えを導き出す材料が少ない代わりに、否定する材料も極端に少ないんだし。だから私が考えたのも、その『いちおうの正解』の範疇でしかないかもしれないわけね。本当にそれが正解かなんて、私には判らないから、ひょっとしたら勘違いかもしれないっていうわけ」
「うーん…そうか…」
 なにか釈然としない様子ながらも、話の内容は把握したらしく、ミリアはそこでいちおう納得したようだった。
 そんな2人の様子を見ながら、フィードは内心、この元気少女を見直した。どうやら、頭はかなり回るようだ。
「あ、フィードさん、お昼はまだなんですね」握っていたサンドイッチの包みに気がついたらしい。ミリアが少し心配げな顔になった。「あの、ひょっとして、苦手なものが…」
「ああ、いや、まだ包みを開けてもいません。ずっと、湖に見惚れていました」
 そう言うと、2人の少女も、妖精の瞳に目を向けた。
 日が少し傾いたせいで、向かって右側の湖面に少し、高い針葉樹の影がかかっていた。目を射るほど眩しかった陽光の反射も、角度が変わって、いささかおとなしくなっている。
「じゃあ、私が話してる間に、遅いお昼ごはんにしましょ。ミリアのお母さんのサンドイッチ、すっごく美味しいんだよ」
「でも、私だけ何か食べていたのでは失礼ですし…」
 そう言うと、ミリアが「あ、それなら、私たちも少しお菓子を持ってきていますから大丈夫です」と言って、持っていたカバンから菓子包みを取り出した。「パンケーキですけど、フィードさんもよろしかったらどうぞ」
「じゃあ、まだちょっと寒いけどピクニックだね。向こうの方の草は丈が低いから、そこに座ろ!」


「まずフィードさんに聞きたいんですけど…」子供のこぶし大ほどのパンケーキをひとつまみむしって口に運びながら、少女が口を開く。「子供の頃、どんな遊びしてましたか?」
「え?」
 のっけから意味不明の質問だった。置物と関係があるようには思われない。
「遊び?」
「そう、遊び。外で遊んでばっかりでした?」
「そう…ですね。木登りとか虫取りとか、そういうおとなしいものから、玄関の前に落とし穴を掘ったりとか女の子にカエルを投げつけたりとか、そういった目に余るイタズラまでいろいろと」
 カエルのくだりで、ミリアが顔をしかめたのが見えた。
「んー…すると、家の中ではさっぱり?全然?」
「いや、全然ということはないですけど…トランプ遊びとかもしましたし」
「あと、遊びに行く時って、現地集合でしたか?」
「は?」
 ますます意味不明だ。
「だから、リーザさんとかみんなと遊びに行く時は、もうさっさと表に出て、手当たり次第そこらへんで遊んでる子達を呼び集める方でしたか?それとも、誰それの家にまず集合という形?」
「そうですね…たいていは、私の家に集まってきましたよ。リーザなんかは、朝早くから『フィードくーん!あーそーぼ!』で、他の子達が来る予定の時は、部屋でババ抜きとか、7ならべとか」
「ふんふん…なるほどなるほど」
「ねえ、それってなんの意味があるの?」
 ミリアが当然とも言える質問を、友人に向ける。
「ちょっと待って、あと2つだけ」
「なんですか?」
「フィードさんの部屋の窓って、どこを向いてましたか?」
「窓?」
 遊びうんぬんよりは、置物に近い質問だ。
「西向きでした。夕方ごろ、とても眩しくて、夏は辛かったですね」
「あ、そうじゃなくて、例えば窓の外はすぐ林とかになってるのか、ある程度村の内側を向いているのかということで」
「内側向きでしたね。もっとも、外側と言っても畑ばかりで、森などはずっと向こうでしたけど。なんにせよ、内か外かと問われれば、内側だったはずです。マリークレアほど密集してはいませんが、すぐ近くに他の人の家がありました」
「最後に1つ。置物は、必ず裏向きだったんですか? 横向きとかはなかったんですか?」
「ひょいと取って、その後置くときにひょっとしたら横に置いたかもしれませんけど、私が知らない内に向きが変わる時は、たいがい背中向きでした」
「うんうん、だいたい思った通り」
「判っていたんですか?」
「判っていたって言うか…そうじゃないと、私が考えたのって、ぜんぜんダメになっちゃうから」
 すると、4つの質問が、置物と関連するということになる。
 だが、後者2つはともかく、最初の2つの質問…遊びうんぬんが関係してくるなどは、いまだに信じられない。
「まず、私が考えたのは」組んだ腕の片方…右手の人差し指をぴっと立てながら、少女が語り始める。「本当に、向きを変えることに意味はなかったのか?っていうこと」
「それは、昨日の夜、ミリアさんたちといろいろ話し合いましたが…」
 ミリアの方を向くと、彼女が「結局、意味なんかないんだろうな、って言う話になったわ」と、後を引き継いだ。「少なくとも、フィードさんがそれで被害をこうむったわけでも、ましてや利益を得たというわけでもない。気味悪がらせるにはあまりにも効果が薄いし、意味なんかぜんぜん思いつかないよ」
「それはまったくその通りだと思うよ」
「その通りって…じゃあ、やっぱり意味なんかないんじゃないの?」
「でもね、例えば、他の人はどう? …あ、クルミが入ってるね?」
 どうやら、パンケーキの中に、クルミの実が入っていたらしい。芸の細かいことだ。サンドイッチの方は、特別隠し味が入っているというわけではなかったが、卵は卵、レタスはレタスの、個々の素材の味が際立っていて、いかにも卵サンド、いかにもレタスサンドといった具合で、食べていて気持ちが良い。特に、卵サンドの塩加減が絶妙だった。
「うん、ちょっとアクセント。…他の人っていうと、お兄さんたちとか?」
「でも、兄貴たちや両親にしたって、私と同じで、さしたる影響は与えられないと思います。…うーん、むりやり考えるとすると、私が持ち込んだ得体の知れない置物が勝手に動いたと言って、怖がらせることが可能かもしれないですが…でも、そういうこともなかったですし」
「あ…ここで、さっきの質問が意味を持ってくるとか? 遊びに来る子供たちが怖がるとか…」
「いや、別にそんなことはなかったと思いますよ」
「うーん…じゃあ、やっぱり意味はないということじゃないのかなぁ…」
「そういう考え方で行くと、何ひとつ意味はないって、私もそう思うよ。つまり、それを確認する側、向きを変えた人…妖精とか神さまとかを省いて、人って限定しちゃうけど、その人ではない、別の人たちにとっては、なんら意味のないことだと」
「すると…」友人に、湖で汲んできた水を差し出しながら、ミリアが確認するように言う。「仕掛けた側にとっては、意味があると?」
「そう、仕掛けた側には、ね。…うひゃ、やっぱりまだ冷たいね、水」
「フィードさんもどうぞ。この湖の水は、すごく美味しいんですよ」
「ありがとう、いただきます」
 渡る風がまだ肌寒いので、少々冷たさが染みるが、味は確かに美味しい。夏に、氷を持参してまた来たくなる味だ。
「でも、仕掛けた側と言っても…、それを見る人たちが、何がなんだか判らないんじゃ、意味も何もないんじゃないの?」
「私も、最初はそこで行き詰まった」
「すると…、あなたにはそこから先が見えた、ということですね?」
 少女に言葉を向けると、また再び右手人差し指をぴっと立てて「見えたと言うか、その意味に気付いてくれないことを判っててやってたのかも…意味に気付いてくれなくても仕方ないかなって考えてたのかも…って考えたんですよ」と、謎めいたことを言う。
「…どういうことです?」
「まず、さっきも言いましたけど、これは妖精や神さまじゃない、人間がやったことなんだ、って限定しちゃいます。人間以外の動物たちってことは考えられないし、これは良いですよね?」
「ええ。構いませんよ」
「ミリアも、それで良い?」
「うん。…あ、ケーキ、まだあるよ」
 見ると、包みの中には、まだ3つほどのパンケーキが残っていた。1つ1つが小さい分、多めに作ったのだろう。
「じゃあ、もう1つ。…えっと、それでね、さらにこれを『なにか意味のあること』とおおざっぱに仮定しちゃう。それは、イタズラでもなにかのメッセージでもなにかの暗号でも良いんだけれど、とにかくそういう類のものだとする。でも、さっきまで話してたみたいに、それが何のためのものかは、表面上だけ見たんじゃさっぱり判らない。ここまでは良いよね?」
 それは、昨夜から先ほどまでかけて散々話し合われたことだったので、ミリアと2人同時にうなずく。
「でもさ、例えばミリアがその仕掛け人だったとしてさ、そのことに…向きを変えたくらいじゃあ、意味がさっぱり判らないっていうことに気付かないと思う?」
「え?それは…気付く…んじゃないかな」
「フィードさんは?」
「気付くと思いますね。誰が見たって、意味不明なのですし、だとすれば当然、やった当人も気付いているはず…」
 だんだん、少女の言う意味が判ってくる。要するに「誰にも判ってもらえない」と判り切っていることをわざわざやるのだから、それは本人にとって「気付いてもらえてももらえなくてもどちらでも構わない」「気付いてもらえなくても仕方ない」、ということになる…そういう理屈だ。
 フィードがそう言うと、少女は我が意を得たりとばかりに「そうそう、そう考えたんですよ」と、大きく首を縦に振った。
「でもさ…」ケーキを食べ終わった後の指をハンカチで拭きながら、ミリアが呟く。「そんなことってあるのかしら? 置物の向きを変えるなんてたいした労力じゃないけど…気付いてくれようとくれまいとどちらでも良いなんて。それじゃあ、やるだけ無駄じゃない?」
「できれば気付いて欲しかったんだとは思う。そうでなければ、確かにやる意味なんかないもん。その上で、気付いてくれなくても仕方ない…って考えたんじゃないかな」
「うーん…ますます判らないよ」
 首を傾げながら、ミリアは長い髪をひと房つまんで、くるくると巻いたりしてもてあそび始めた。
 確かに、言いたいことは判っても、にわかには理解できない話だ。
 だが、元気少女は、いまいち理解できていない様子の友人を見ながら「いやー…ミリアなら絶対判ると思うんだけどなぁ」と言う。
「え?なんで?」
 意表を突かれたように、ミリアが問い返す。
「似たようなこと、やったことあるもん、ミリア」
「えええ?ウソだぁ」
「ウソじゃないって、だから判ったんだもん、私」
「えー…?」
 頭を傾げて考え込む風だったが、しばらくしても何も言わないところを見ると、どうやら覚えがないようだった。
「うーん…ミリアって、こういうことになると記憶力が鈍るのかなぁ…フィードさんの話なんか、一語一句全部覚えてたみたいなのに」ため息をついて、少女は2つ目のパンケーキを指でちぎる。「覚えてない? ほら、ずっと前にさ、村にフィードさんみたいな旅の人が来たでしょ?」
「あ、うん…それは覚えてる。マルク=キャメリアさんっていう、巡礼の人」
「あれは、正確にはいつのことだっけ?4〜5年前くらいだよね?」
「11歳の時だったから、5年前。そろそろ6年になるけどね。森の道の中で落馬してるところを、アルスさんが助けてあげたのよね」
「そうそう。で、そのままお父さんが村まで運んできて、村長さんの家に担ぎ込んで…」
 アルスと言うのは、どうやらこの少女の父親らしい。
「ひどく足を捻ってて歩けそうにないから、あの後しばらくこの村にいたんだよね。…でも、それがどうかしたの?」
「…その時さ、ミリア…毎日毎日本を届けてたよねぇ? お見舞いだって言って、家にあった本を片っ端から」
「う、うん…退屈してるかな…って思って」
「ウソだね」
「え?」
「もっと別の目的があったでしょ?」
「べ、別のって、別に、そんな…」
「退屈を紛らすためなら、ちょっと厚い本が1、2冊あれば充分のはずだよね。ずっと部屋に1人っきりっていうわけでもない、村長の家族だって家にいたし、話相手くらいはいたはずでしょ?なんなら、ミリア自身が話し相手になってあげても良かったじゃない?」
「そ、それは、そう、だけど…」
 声が、だんだん途切れ途切れになる。なにか思うところがあるようだ。
「それを、わざわざ本を持参して、渡してくるやいなやさっさと帰ってきちゃう。はたからみたら『何やってんだろう?』って思うよ」
「それは、だから、私、話し下手だし、本の方が、面白いかな、って」
 だが、しどろもどろになっている友人の言葉を、少女は言下に「ウソだね」と切り捨てた。
「ウソって…」
「好きだったんでしょ?」
「はい?…え?なに?」
「愛しい愛しいマルクさま、あなたの顔をちらりと見ただけで、ミリアの胸は飛び上がりそうなくらいに鼓動を打ってしまいます」
 妙に抑揚をつけて、少女がニヤニヤしながら歌うように話す。それを受けてか、ミリアの顔が真っ赤に染まるのが見えた。
「ちょ、ちょっと!」
 だが、少女の話は止まるどころか、ますますテンションアップして、さらに大胆な抑揚を伴って流れる。リュートを持たせたら様になるだろうか、と下らないことを考えてみた。
「ミリアは病気になってしまったのでしょうか?いえ、そうではありません。でも、あなたのそばに長くいると、死んでしまいそうなほど苦しくなってしまいます。せめて、ああ、この本を私だと思って、見つめていてください。ぽっ…」
「も、もう、やめてってば!怒るよ!」
 とうとうミリアが我慢できなくなったようだ。頬をぷっと膨らませて、げんこつを振り上げる真似をする。
「あはは、ごめんごめん。でも…そうだったんでしょ?私にも話してくれなかったけど、たぶん…」
「まったく…お見通しなんだから、もう…。でもやめてよ、男の人がいるところで…恥ずかしいなぁ、もう」
「良いじゃないの、もうずっと前のことなんだし。それにフィードさんは吟遊詩人なんだから、このくらいの話なら慣れっこだよ、きっと。…あ、ひょっとしてミリア…フィードさんみたいな人も好み?」
「もうっ!しらない!」
 そうであってくれれば、かなり幸せな話なのだが…と、心の中だけで呟いてみる。
「やだ、もう怒らないで。あいた!いたいいたい、叩かないでぇ。この通り!謝るからさ」
「調子良いんだから…」
「それは生まれつきそうだから仕方ないよ。それに、無駄な話ってわけでもないよ。だって…あの時のミリアも、そうだったでしょ?」
「そうだった…って?」
「マルクさんが好きだけど、でも面と向かってそんなことは言えない。…やだ、ちょっと怒らないでってば。必要な話、必要な話。…えっと、とにかく、そんなことは言えない。でも、言わなかったら伝わらない。言うのは恥ずかしい…ジレンマだよね。で、とりあえず、本だけは本棚にいっぱいあるし、これを持って行けば、会う口実くらいはできる。毎日行けば、ひょっとして気付いてくれるかも。でも、このくらいじゃ気付いてくれないかもしれない。いや、たぶん気付かない。でも良いや、会う口実くらいになれば。でも、気付いてくれたら嬉しいな…って、ね。まあ、結局伝わらずじまいだったのか、マルクさんはまた旅に出ちゃったんだけど…どう?まさに『できれば気付いて欲しいけれど、気付いてくれなくても仕方ない』の状況だよね」
 確かに…相反する2つの気持ちが、ここに同居している。
 だが、もしこの状況を、自分の話に当てはめるとすると…。
 解答は…。
「た、確かにそうだけど」先ほどまでぷいと横を向いていたミリアも、どうやらそのことに気付いたらしい。「…じゃあ、この置物の話も…まさか……?」
「フィードさん」
 不意に、少女に名を呼ばれる。
「はい…」
「窓の向こうには…何が見えましたか?」
「……」
「置物の視線は、どこを向いていましたか? …多少の誤差はあっても…たぶん、ある人の家を向いていたはずです」
 なるほど…だからこそ、最初にあんなことを聞いていたのだ。
 遊びに行く時に――と言うのは、機会があったかどうかという確認だろう。

 この少女は…

 不意に、幼なじみの顔が、少女の顔に重なって見えた。
 いつも、一緒に遊んでいた女の子。
 いつも、一緒に悪いことばかりしていた女の子。
 気がつけば、いつもそばにいた女の子。
「リーザの家が…あの子の家が、あります。少し離れた所に。そして、窓から見える真正面に、リーザの部屋があって…」


   ※


「フィードくーん!あーそーぼ!」
 今日で何百回目になるか判らない呼び声が、周囲にこだまする。リンゴの摘果などでどうしても家のお手伝いをしなければいけない日以外は、ほぼ毎日のようにここに…いちばんの友達、フィード=サテンフォールの家に来ているから、何百どころか、千に届くかもしれない。日課と言っても良いだろう…と言うか、まさに日課である。朝になれば必ず鳴き声をあげるニワトリのように、リーザ=セントポールのこの呼び声も、付近の村人たちには思われているのだろう。
「まだみんな集まってないから、あがってこいよ!」
 今日は、村の子供たち数人で、近くの雑木林まで木イチゴを摘みに行くのである。フィードの返答を聞いて、リーザはいそいそと扉を開け、家の中に入っていく。
 玄関の中に入ってすぐの広間兼食堂にいるおばさんに挨拶して、右手にある扉を開けると、ベッドに腰かけた友人はすでに準備万端で、他の子達が来るのを今か今かと待ち構えているようだった。木イチゴは、彼の大好物の1つなのだ。
「あー、もう、早くみんなこねえかなぁ!」
「あはは、やる気まんまんだねフィード」
「あったりまえじゃん!虫に食われないうちに行かないとマズイだろ?」
 そう言って、にっと笑う少年の顔に、最近少しどぎまぎするようになった自分がいる。最近…というのも嘘かもしれない。1年くらい前から、そんなことがたびたびあったのだから。
 そのせいかどうか判らないが、どうも最近、顔を見るたび憎まれ口を叩いてしまう。
「怪我しないようにしてよ? 運んでくるのが大変だから」
「お前こそ、すべって転んで泣いても知らないからな」
「その時は、おんぶくらいしてよ。力もちなんでしょ?」
「やだ、つぶされそうだもん」
「ひっどーい! フィードなんか、蜂に刺されて泣いちゃえ」
「へっ、リーザなんか、蛇にかまれて死んじゃえ」
 その時、不意に後ろから怒鳴り声が響いた。
「こら、フィード!」見ると、おばさんが怖い顔をして立っている。「女の子になんてこと言うんだい、このバカ!」
「だって、リーザが先に言ったんだもん!」
「リーザちゃんは良いんだよ、お前はダメ」
「なんだよそれ!」
「文句言ってないで、お菓子くらい出してやんな! アップルパイ焼いといたから、台所に行って持っておいで!」
「へいへい」
「返事は1回」
「へい」
「ったく、誰に似たんだか…」
 ぶつぶつ言いながら、おばさんもフィードの後を追って台所に向かって行った。その後すぐに、なにやら大きな声が聞こえてくる。たぶん、台所で、またフィードを叱っているのだろう。
 相変わらず、賑やかな親子だと思う。自分の母親も、あんな風に威勢の良い人だったら、どんなだったろうか? もっとも、おてんば娘を笑って容認してくれる人だから、ある種豪快な人ではあるのだろうが。
 …と、窓際にちょこんと鎮座ましましている置物に目が留まる。
「あ…」
 この間、港に行った時に、リーザが買ったものだった。
「飾っておいてくれたのか…」
 幸運を呼ぶお守り…と、店主は言っていた。どんないわれがあるのか何をかたどったものなのか、リーザは知らなかったが、どことなく可愛げのある造形が気に入って、リンゴを売ったお金で買ったのだ。そしてその後フィードが買ってきた帽子と交換した。
「どんな幸せを運んでくれるのかなぁ?」
 いちおう、もうこれはフィードのものなので、ご利益があるとしたらリーザではなく彼の方だろうが、もし霊験あらたかな不思議な力を持っているのなら、買った自分にも少しくらい幸運を分けて欲しいと思う。
 幸運を運んでくるのがだめなら…恥ずかしくて言えない言葉を1つ2つ運んで欲しい。
 言えない言葉…?
 それはなんだろう?
 そこまで思って、自分の顔が熱くなっているのに気付く。
「ダメダメ、だめだよリーザ…」
 ペチペチとほっぺたを叩いてみる。それで熱が発散されないかという目論見だ。もちろん、叩けば叩いた部分が熱を持つから、逆効果なのだが。
「だめだよ―…」
 ますます熱くなる頬を意識しながら、そっと置物を元の所に戻す。
 その時、窓の向こうに、自分の家が見えた。
 板葺きの屋根と、そして開け放した部屋の窓…。
「…運んでくれる…かな?」
 窓の向こうの、自分の部屋まで…。
 自分の思ったことに、くすくすと笑ってみる。
 もう10歳なのに…子供っぽいな。
 でも…
 少しくらい、幸運を分けてもらっても…
 そっと、置物の向きを変える。
 誰も、こんなことの意味には気付かない。
 自分だけが知っている。
 でも…
 もしも、ほんの少しでも幸運を分けてもらえるなら…
 あの子に、この意味を気付かせてくれる…かな?
 ホントに…子供っぽいな。
「あれ?なにやってんの?」
 不意に、後ろで声がする。
 フィードが、アップルパイを載せたトレイを持って立っていた。
「ううん、外見てただけ」
 顔が赤くなっていないか、少し心配だった。
「ふーん。あ、これどうしようか。今食べる?それとも、向こうに持っていこうか」
「そうだなぁ…まだお腹空いてないしなぁ…」
 思案していると、玄関の方から、元気の良い声が聞こえてきた。
「フィードくーん!」
 1人ではない、何人かが一斉に声をあげているようだ。どうやら、メンバーが揃ったらしい。
「あ、もう来たか。じゃあ、やっぱりこれは持っていこう。あっちで食べれば良いよな」
「じゃあ、行こ! 早くしないと、置いて行くよ!」
「あ、待てよリーザ! ああ、もう…」
 ぐずぐずしているフィードを残して、リーザはさっさと玄関まで走って行く。いちばんの友達の部屋に…密かに胸がドキドキする男の子の部屋に、想いのかけらを、ひとつだけ残して。


   ※


「言いたくても言えないことって…やっぱり、あるよね」
 何かを思い出しているかのような表情で、ミリアが髪の毛を撫でている。それを受けて、少女も口を開く。
「まあ…最初にも言ったけど、こうも考えられるっていうだけだし、正解とは限らないけど」
 いや…と思う。
 たぶん、この少女の言うことは正鵠を射ている。少なくとも、フィードにはこれ以上の解答は思いつかなかった。
「でも…もしその通りだったとしたら…」ミリアもそう思っているのだろう、湖を見ながら、呟くように口を開く。「リーザさんは、今どんな想いなのかしら。まだ、フィードさんのこと、好きなのかな」
「どうかな…もう12年も前の話だし、フィードさんはこうやって旅に出ちゃってるし…」
「12年前では、ありません」
「え?」
 フィードの言葉に、2人の少女がきょとんとした顔になる。
「2年前、です」
「2年前? え、でも、そんな…」
 懐から、この2年間ずっと肌身離さず持っていたお守りを取り出す。そして、包んでいた布からそれを出して掌に載せ、少女たちの前に差し出す。
「これは…結晶石?」
「…違う、これ、ただの結晶石じゃない…!」どうやら気付いたらしく、ミリアの瞳に驚愕の色が走る。「これ、龍の涙だわ!」
 友人の言葉に、少女が目を丸くする。
「え!?ミリア、それホント!?」
「そうですよね?フィードさん」
「はい…」
 ラグーナ山脈の炭坑でしか採石されることのない結晶石…その中で、純度の高さから最高級とされる、龍の涙。
「2年前、私が村を発つ時…リーザがこれを持たせてくれたんです」
 そうだ…
 フィードは、知っていたのだ。リーザの想いに。
 置物の謎は解けなかったが、リーザの想いにだけは、もうずっと前から気が付いていた。
 そして、自分がリーザに寄せる想いにも。
「彼女が祖父から譲り受けたものを……こんな大事なものを、彼女は私に持たせてくれた。そして…」
 そして…
 別れ際に彼女が叫んだ、あの言葉…
 今でも、鮮明に覚えている。叫んだ声の抑揚すらも…。
 あの言葉があったからこそ、どんな辛い試練にも、この2年間耐えてこられたのだ。
 リーザ……
「子供の頃の気持ちを…リーザさんは、ずっと大切に持っていたんだね…」妖精の瞳を渡る風に目を細めながら、少女が感慨深げに呟く。「夢と同じ。本当に、自分にとってかけがえのないものだから、10年経っても消えずに心の中にあったんだね…。たぶん、今でもリーザさんは、フィードさんのことを忘れずに…」
 ふと…少女の声が、リーザの声と重なって聞こえた…ような気がした。


「もう、行っちゃうんですか?…まだゆっくりしていけば良いのに」
 フレアリーフへと続く林道の入り口で、残念そうにミリアが呟く。
「そう言ってくれるのはありがたいのですが、いつまでもたかっているわけにはいきませんしね。パトンさんとミーシャさんにも、よろしく伝えておいてください。サンドイッチ、とても美味しかった。パンケーキも…」
 そう言ってミリアに握手を求めると、快く右手を差し出してくれた。小さな白い手を、そっと握る。
 そして、もう1人…栗色の髪の少女にも、握手を求める。
「あなたも、長年の謎を解いてくださって、感謝しています。えっと…」
 そこではたと気付いた。
 自分が、この少女の名前を知らないことを。
「あ、えっと、すみません、名前を聞いていませんでしたよね?」
 そう言うと、少女の方も今それにようやく気付いたらしい。びっくりした様子で、目を見開いている。
「あ…ゴメンなさい!私、自己紹介してなかったんだ」
「ふふ、もう、頭は良いのに、おっちょこちょいなんだから」くすくすと笑いながら、ミリアが少女の肩を叩く。「今からでも遅くないよ、自己紹介しなよ」
「そうだね。えっと…」そこで、ちょこんと姿勢を正して、行儀良く一礼した。そして「私、ココっていいます。ココ=クローディ!」…と、太陽のような笑顔で、元気良く言った。
「ココ=クローディ…と。覚えました、もう忘れませんよ。吟遊詩人は、名前を覚えるのが得意なんです」
 そこで…もうひとつ、はたと気付く。
 ココ=クローディ……?
 そう言えば…
 いや、まさか…
「…?どうしたんですか?フィードさん…」
 でも、確かにあの時…
 そうだ、たぶん…間違いない。
 自分の記憶が確かなら…
 だとすれば…たぶんこの娘は…
 きっと…
 フィードは笑いたくなった。
「え?え?私、何か変なこと言ったっけ?ねえ、ミリア、何か変だった?」
「べ、別に、そんなことはなかったと思うけど…」
 世の中には、こんな偶然もあるのか…
 ふらりと立ち寄った北の農村で、こんなことが…
 なるほど、世界にはまだまだ面白いことがありそうだ。
 もし、自分の期待通りなら、これからもっと面白くなる。
 その時に、自分は何をしているだろう?
「フィードさんってば、もう…!」
「失礼…少し、考えごとを」
「私、なにか変なこと言いました?」
「いえ、とんでもない。とても、素敵なことをおっしゃいましたよ。これから先が、とても楽しみなことをね」
「えー…?」
「ココさん、ミリアさん、また会える日を楽しみにしています。本当に…。いつ、どこで会えるかのは判りませんが、きっといつか…」
「はい、私たちも、楽しみにしています。…お元気で、フィードさん。あなたの旅路が幸せなものであるように…」
 そう言って、ミリアが自分の両肩と胸の中心を、右手で軽くぽんぽんと叩く。左肩は安全を、右肩は健康を、そして胸は良き出会いを象徴し、旅人へのはなむけとして祈る。古くから伝わる、神書の教えである。
 ミリアに続き、ココも習って両肩と胸を叩いてくれる。そして、右手を差し出しながら「フィードさん、これからどこへ行くの?」と、聞いてきた。
「吟遊詩人ですから…風の向くまま、気の向くままですよ」
 そう言って、差し出された手を握る。
 だが、それは嘘だった。次の目的地は、すでに決まっている。
 その後どうなるかは判らない。そこで旅は終わってしまうのかもしれない。
 でも、そこに行かなければ、たぶん、何も始まらない場所。
「でも、強いて言うのなら…」
「え?」
 ふと…少し吟遊詩人らしく、大げさに言ってみようかという思いがよぎる。
「どこか、行くあてがあるんですか?」
 胸の内ポケットにしまった、龍の涙。
 心の中にしまった、あの言葉。
「あの時…」

 そして…リーザ。

「言えなかった言葉と…伝えられなかった想いを、あの娘に伝えに」
 それを聞いた2人の顔が、ぱっと明るくなる。
 その、眩しいような笑顔を後押しに、愛馬の背中に飛び乗る。

 どこまでも青く澄んだ3月の空、浮かぶ雲にリーザの笑顔を映しながら、
 フィードはゆっくりと、手綱を握る手に力を込めた。

――――――――――終わり

 (初出:2001年7月7日)

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