アップルパイをもうひとつ
後編
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     3



 明けて次の日――
「あふ……」
 結局あのあと、何も手がつかずにそのまま惰性で飯を食って風呂に入ってベッドにダイブ。台所の惨状もそのまま放置で、夕飯は店屋物。携帯電話の電源も切ったままで、ひたすらベッドの上で悶々としていた。
 頭の中はぐるぐると色んな言葉やら感情やらが渦巻いて沈静化しそうになく、夜中に何度もベッドから起き出しては、行きたくもないトイレに出たり入ったり。
 せめてラーメンの匂いでも漂ってくれば夜食を作る気力も湧いただろうが、こういう日に限って小池さんは早寝を決め込んだらしく音沙汰なし。
 結局、逃げ腰の懊悩ばかり持てあましながら、眠りの世界に旅立つこともできず、気がつけば窓の外が白み始めている始末。もちろん、問題解決の糸口は何一つ見えていない。
「タカ君、眠そうだね」
 俺の大あくびを見ながら、隣を歩くこのみが声をかけてくる。
「昨日は夜更かしさん?」
 学校へと向かう道。いつものように俺、このみ、タマ姉、雄二の幼馴染み4人組みんなで登校。こればかりは、草壁さんと付き合いだした後も変わらない。ある意味、日課のようなものだ。
「あー、まぁ、夜更かしというか寝れなかった」
 あくびをかみ殺しながら、このみの質問に答える。5時くらいから少しだけ眠れたような気もするが、もちろんそんなのでは焼け石に水。あるいは余計に眠さを増幅しただけかもしれない。
 おかげで気持ちよく晴れ上がった快晴の朝だというのに、目がチカチカしてしかたない。
「もしかして悩み事? 何かあったの?」
「うーん……」
 まさにそうなんだが、このみに詳しく話す気にはなれない。
「話したくないなら無理には聞かないけど……」
「うん、そうしてくれると助かる」
 このみだけでなく、誰に話す気にもなれない。個人的におおごとと言えるが、客観的に考えると問題が情けなさすぎる。自分のダメさ加減を吹聴して回る趣味はさすがにない。
 だが、今度は逆方向から声が飛んできた。
「なぁに? 幼馴染みにも言えないこと?」
 幼馴染みその2、向坂さんちの環さんが俺の袖を引っ張っていた。雄二と同じ赤髪が心なしか不機嫌そうだ。
 ……だってしょうがないじゃないか。気軽に言えることと言えないことがある。
「水くさいわねえ。それとも、彼女ができると違うものかしら」
「いや、まあ男にはいろいろとね」
「は、どーせ」
 と、今度は雄二も参戦してくる。
 思えばこいつのせいで……。
「貴明が他の女に手ぇだしてんのがバレたんだろー」
「そんなわけないだろ。いつ俺が……」
「いつ? いつだって? いつもだろうが女たらしめが。今度は誰だ? 隣のクラスの早紀ちゃんか?」
「誰だよそれは」
「あのメガネがたまんねーよなぁ」
「知らないっつーのに」
「ふーん、今度のお相手は早紀ちゃんっていう子なのね。相変わらず手の早いこと」
「だからもう……」
 タマ姉までそんなことを……。
「違うってば。それに"相変わらず"って、まるで前科があるように言わないでよ」
「だぁって……」
 そう言いながら、タマ姉はこのみと目配せすると、くすくすと二人で笑い合う。
「ねー」
「ねー」
「なっ、なんで?」
 もうぜんぜん意味が判らない。
 ここだけ切り取ったら、まるで俺がプレイボーイみたいじゃないか。自慢じゃないが女の子はいまだに苦手だ。この世で……とまではいかないにしても、この界隈では俺ほど"プレイボーイ"という言葉から遠い男はいないと思う。
 だがタマ姉たちと来たら、なんやかやとナイショ話しながらまだくすくすと笑っているようだ。いったいなんで?
「ま、これが人望の差というやつだよ貴明くん」
「うっせ」
 お前に言われたかねえよ。
 というか、誰のせいでこうなったと思ってやがる。こっちは昨日のアレのせいで、夜もろくに眠れなかったっつーのに。
 あー、思い出したらまた胃が痛くなってきた。
 ああだこうだ言ってる内にもう学校は目前だし、昼休みになったらまた草壁さんが教室に来るよなぁ。
 あるいは、教室移動の時とかにばったり会うかもしれないし、10分休み中に訪ねてくるかもしれない。いずれにせよ、昨日の話題はその場で必ず出ることだろう。なんとかそれまでに良い考えが浮かべば良いんだけどな。
 そんなことを思いながら、校門に続く坂道を上っていると、やがて通い慣れた校門が少しずつ見えてくる。
 ――と
『あっ……』
 ふよふよと泳いでいた俺の視線が校門の前に釘付けになる。
 所在なげに門柱横に佇んだ姿。流れるような黒髪がひときわ綺麗な女の子がいた。
 誰かを捜しているのだろうか、校門を通る生徒を眺めているようだ。
 そして、何より手に持ったノート。"くずかごノート"と名付けられたそれは、彼女のトレードマークと言っても良い。
『草壁さん――』
 まずい、たぶん……というか、ほぼ確実にターゲットは俺だろう。
 休み時間どころか、登校時間に来るとは予想できなかった。……なんで予想できなかったか自分でも判らないが、とにかくまずい。今はまだ心の準備ができてない。
「どうしたの? タカ君」
 いきなり立ち止まった俺に、このみが声をかけてくる。
「早く行こうよ」
「あー……」
 ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ――
 眠気でもうろうとした頭をとにかくフル回転。くそっ、昨日からなんか頭を使うことが多いな。
 そしてはじき出された答えは……
「あー、忘れ物した」
「え?」
「悪い、取りに帰るわ」
 とりあえず逃げ。
 ……仕方ないだろ! どうしたらいいかわかんないんだから!
「取りにって、もう学校目の前だよ?」
「いや、ちょっと絶対必要なもんだからさ。ダッシュで家に戻るから、先に行っててくれ」
「そんなこと言われても……、って、タカ君!? ホントに行くの!? ねえ、タカ君!」
 驚いて目を丸くするこのみたちを置いて、俺は来た道を逆戻り。
 草壁さんには悪いがいまは時間が欲しい。せめて昼休みまで。
 とはいえ、もちろん家まで戻るつもりはない。目的地は学校の裏門だ。
 いったん坂道を降りて、反対側の坂道から再度学校を目指す。ちょっと疲れるがそんなことは言ってられない。
 何しろ出入りの業者でもなければ教師ですらほぼ使わないと言われるルート。いまの時間帯、誰にも見つからずに学校に入るとすれば、ここ以外考えられない。
 途中、幾人かの生徒とすれ違ったが、幸いにも見咎められることはなかった。まだ朝の時間帯だし、みんな自分のことで手一杯なのだろう。
 そしてこのみたちと別れてから10分後、坂道を登り切った俺の前に裏門が現れる。
「誰もいないな……」
 右、左と周囲を確認してホッと一息。ひょっとしたら学食で使う食材の納入とバッティングするかもと心配だったが、いまはその時間帯ではないようだ。門はきっちり閉まっていて、人っ子一人いないらしい。
 とりあえずこれである程度の時間は稼ぐことができた。あとは何とか草壁さんと会うまでに、上手い言い訳なり、あるいは覚悟なりを決めることができればいい。
 ま、それはともかく今は教室に向かおう。遅刻して注目を浴びるのも得策ではない。
「よ……、っと」
 スライド式門扉に足をかけ、てっぺんをまたぐような感じで門扉によじ登る。
 まさかこの歳になって探検ごっこじみたことをやる羽目になるとは。いま現在の自分の姿が客観的に想起され、軽く鬱になる。はぁ、何やってんだか。
 ――と、その時。
「そんなとこで何やってるの?」
 不意に背後から声をかけられて仰天する。
 慌てて声のした方を見ると、さっき別れたはずのタマ姉が腰に手を当てながらこちらを見ていた。
「げっ!」
「門なんかに上っちゃって。アスレチック?」
 最悪だ……。よりによってタマ姉かよ。
 考えてみれば、このみはともかくタマ姉の目をごまかせるわきゃないんだけどさ。でもまさか追ってくるとは。
「あー、なんていうか、まぁ……、あ、朝の運動?」
「ウソおっしゃい。さっきは忘れ物って言ってたくせに」
 しどろもどろの弁解も、ぴしゃりと一言でハネられる。
「それに、学校の裏門越えを朝の運動にするような物好きなんて、どこ探してもいないわよ。言い訳するなとは言わないけど、せめてもうちょっとマシな言い訳がほしいわね」
「は、はい……」
 呆れた様子のタマ姉に、さすがに俺の方もシュンとなる。もともと落ち込んでいたところだったので、言葉の効果もてきめんだ。
「それと、校門の前にいた子。あなたの彼女なんじゃないの?」
「え、あ、その……」
 くぁ、やっぱそっちにも気付いてたか。
「ま、まあ……、そうなんだけどね」
 改まって紹介したことはなかったけど、草壁さんのことはタマ姉やこのみも知っている。顔を見れば『ああ、あの子か』と判るくらいには。
「喧嘩でもしたの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「じゃあ、やっぱり浮気?」
「ありえないって」
「そうかしら」
 そう言って、不審そうな目を向けてくるタマ姉。なんだそりゃ。
 雄二といいこのみといいタマ姉といい、そんなに信用ないのか?
「ま、いいけど……」
 やがて、『はぁ』とひとつため息をつくと、タマ姉は裏門をまたいだままの俺を見ながらゆるゆると首を振る。
「でも、あんまり避けてると、傷つけちゃうんじゃないの?」
「それは……」
「どっちが悪いことしたの? タカ坊? それとも、あの子?」
「……俺」
「そう」
 怒られるかとも思ったが、意外にもタマ姉はそのことについては何も言わなかった。もっと追求しないのか? されても困るけど。
「何があったか知らないけど――」
 その代わり、なんというか……、手のかかる弟を諭すような、そんな色合いをタマ姉は瞳に浮かべた。そして、俺に向かってゆっくりと言葉を紡いでいく。
「――悪いことしたんならスパッと謝っちゃった方が良いわね。その方が、お互い気持ちよく仲直りできるわよ」
「ゆ……」
 その瞳が何だかくすぐったくて、ちょっと視線を逸らしてしまう。
「許して、くれるかな」
「それは判らないけど……」
 うーん、とちょっと考えるそぶりを見せたかと思うと、タマ姉は少し間を置いて、「でも」と言った。
「でも、許してほしいの?」
「そりゃ……」


 言われるまでもなくそうに決まってる――


 ――と言いかけて、
 俺は口をつぐんだ。


 ほんの少し、何かが心にひっかかったからだ。


「だって……」


 許してほしい、それはそうだ。
 でも……
 それって、いちばん大切なことだろうか。


 何か忘れてないか?


「俺は……」


 草壁さんの顔が思い浮かぶ。
 俺を見て、俺の言葉を聞いて、楽しそうに笑っていた。
 心の底から俺のことを好きでいてくれる、あの微笑み。


 本当に大切なのは……


 ………………
 …………
 ……


 何かがゆっくりと、
 何かの言葉を囁き始める。


 そんな俺の様子に何を思ったのか――
「とりあえず……」
「え?」
「よいしょ、っと」
 ――タマ姉はやおら裏門に足をかけると、俺と同じように門をまたいだ。
「た、タマ姉?」
 そして、にっとイタズラっぽく笑うと、もう片方の足も学校側に下ろして、飛び降りる体勢に入った。
「見ちゃダメよ?」
「え?」
「スカート。飛び降りる時にめくれちゃうわ」
「あ、えっと……」
「それとも、タマお姉ちゃんのスカートの中、見たいかしら?」
「い、いや、いいって」
「あら、残念」
 目を逸らした俺にくすくすと笑いながら、タマ姉はひょいっと向こうがわに飛び降りる。特に怪我もなく降りられたらしく、手をパンパンと払う音が聞こえてきた。
「ふふ、なんだか子供の頃のことを思い出すわね」
 見ると、ガキ大将だった子供時代を思い出しているのか、何となく目を細めて懐かしそうだった。
「無茶するなぁ」
 タマ姉に続いて、俺も学校の中へと飛び降りる。眠気はまだしつこかったが、こちらもとりあえず無事に着地した。
「何言ってるの。このくらい楽勝よ。私を誰だと思ってるの?」
「……そりゃそうか」
 あのタマ姉だもんな。塀の上に有刺鉄線があっても、何食わぬ顔で乗り越えそうだ。
 何だかコミカルな情景が頭に浮かんで少し笑った。
 そしてタマ姉もまたつられたのか、ふっと微笑む。
「ちょっとは元気出た?」
「え? ああ……」
 そういえば――
 何だか少し、心が軽くなったような気がする。
「そう……だね。ありがと、タマ姉」
「よろしい」
 そしてタマ姉は自分の唇にそっと人差し指を当てると――
 つっと、俺のおでこにその指を当てた。
「あ、な、何?」
「私はタカ坊のこと、信じてるから」
「え――?」
 つんっと、おでこが弾かれる。
「がんばれ」
 にこり、いつもの笑顔をひとつ残して――、
 タマ姉は赤くなった俺をその場に残して、昇降口へと歩いて行ってしまった。


 やれやれ――
 なんでこう勝てない女の人が多いのかな、俺には。


 それでも、裏門に来た時とは違う、心地よい気分を胸にして、
 俺もまた、タマ姉の後を追って校舎へと向かうことにした。



     ※



 そして授業時間はいつものように過ぎていく。
 昨夜眠れなかったせいで、9割方の時間を寝てすごす羽目になったが、これはもう仕方ない。あとでいいんちょにでもノートを見せてもらうことにしよう。
 ただ、授業間の休み時間中も爆睡していたため、草壁さんが訪ねてきたのかどうかが判らない。来たら雄二あたりが俺を叩き起こしそうな気もするが、草壁さんが遠慮してそのままにしておかれた可能性もある。そうだとすると、またぞろ彼女には悪いことをしてしまったことになるだろう。
 だが、今さらそれを気にしても意味はない。もう既に4限目の終盤。あともう少しで昼休み。
 と――


  きーんこーんかーん……


 折しも時計は授業終了時間。
「起立、礼……」
 いいんちょの声が教室に響く。ついに昼休みだ。
 まだ眠気は強く頭にたゆたっていたが、それを強引に振り払いながら俺は教室を出る。
 目的地はひとつ。草壁さんのクラス。
 なぜって、今日くらいは、俺が草壁さんを迎えに行くべきだと思ったからだ。気恥ずかしいなんて言ってられない。
 そうして廊下を歩いていると、前方を歩いてくる草壁さんが目に入った。
 どうやら向こうも授業終了と同時にこちらに向かっていたようだ。
「あ、貴明さん」
「草壁さん……」
 まだ教室で待っていると思っていたのだろう、少し驚いたような表情を一瞬見せたが、すぐに嬉しそうな顔になると、こちらに駆け寄ってきた。
「どうしたんですか? いつも教室で待ってるのに」
「いや、たまには俺が迎えに行こうかなって」
「そうなんですか? じゃあ、私の方が教室で待ってれば良かったかな、なんて……」
 俺が教室に来るところを想像したのだろうか、草壁さんがちょっと赤くなった。
 ……そうだな、今度からもずっと俺が迎えに行こう。
 些細なことかもしれないけど、少しずつがんばっていかないとな。
「じゃあ今日も屋上に行こうか?」
「はい。今日も晴れてますし、気持ち良いです」
「ん……」


 ……一瞬、躊躇。
 でも、勇気を振り絞って、俺は――


  きゅっ……


「え……?」
 きょとんとする草壁さん。
 でも、もう俺はその顔を見ていない。
「あ、あの……」
「行こう」
 そうして俺は歩き出す。
「あ……」
 2人並んで歩く昼休みの廊下。
 触れ合った部分から、温もりが伝わる。
 緊張しているのだろうか、少しずつ手が汗ばんで。
 もちろん、俺だってさっきから心臓バクバクだ。
 周囲の生徒も、物珍しそうに俺たちを見てる。
 そりゃそうだ。
 普通いないよな、校舎内で手を繋いでる奴なんて――。
 恥ずかしくて、耳まで赤くなっているのが自分でも判る。
 そして俺と同じように、きっと草壁さんも真っ赤になっているんだろう。
 でも……
「…………」
 繋いだ手に少し力がこもったことに、俺は確かに気がついていた。
 そっと横を見ると、やはりこちらを見つめていた草壁さんと目が合う。
 ずっと見ていたのだろうか?
「す、少し、照れちゃいます……」
 やはり耳まで赤くなりながら、恥ずかしそうにそう言う。
「でも……、嬉しいな」
 その笑顔は本当に嬉しそうで、
 心底、俺のことを信頼してくれているのだと、そう思った。



     ※



 屋上の扉を開けて表に出ると、高く上った太陽から降り注ぐ陽射しがそこかしこに踊っていた。
 加えて今日も他に誰もいないらしく、屋上のベンチは貸し切り状態。ゆっくりできそうな雰囲気だ。
「今日も良いお天気ですね」
 眩しそうに目を細めながらそう言って、草壁さんは空いているベンチの内のひとつに足を向けた。さっそくお弁当タイムに移るのだろう。
 だが、俺はそんな草壁さんを呼び止める。
「ちょっと待って」
「え?」
 その前に――
 どうしても、言っておかなければいけなかった。
 草壁さんは何も言わないけれど、これを隅によけたままじゃダメだ。
 たとえ男として最低であっても、人としてまで最低でありたくない。そんなのは今朝の一件でもう充分だ。
「昨日のことだけど……」
「あ……そうですね、すみません。私、舞い上がってて……」
 俺の言葉に、草壁さんは少し目を伏せる。さっきまでの幸せそうな表情はもうなかった。
 そんなに小さくならなくても良いのに。昨日のメールの文面からして、俺に気を遣わせたと思っているのだろうか。俺の方こそ、草壁さんに要らぬ気を遣わせているというのに。
 だから――


「ごめんっ」


 大きくそう言って、俺は頭を下げた。腰を折って、深々と。
 きっと端から見たら滑稽な姿なのだろう。でも体裁を気にするより、大事にしなければいけないことはこの世にはある。
「た、貴明さんっ?」
 驚いたような声。いきなりこんなことをされれば無理からぬことかもしれない。
「ど、どうしたんですか? なんでそんな……」
 だが、俺はさらに腰を折って頭を下げる。それこそ、地面にぶつかれと言わんばかりに。
「本当にゴメン。謝る」
「謝るって……。頭を上げてください! どうして貴明さんが謝るんですか? わ、私が悪いんです、私がうっかりしていて……」
 何を言っているんだ。どう考えても悪いのは俺だ。それなのに、どうして草壁さんが気に病む必要があるというのか。
 いっそ土下座した方が良かっただろうか。こんな立ったままの謝罪では誠意が伝わらないのかもしれない。
 そう思い、俺は地面に膝をつくと、両手を前について土下座を――
「やめてください、お願いです! そんなことされたら、私、どうして良いのか判りません……!」
「でも!」
 なんとしてでも頭を下げようとする俺と、肩を押さえて土下座させまいとする草壁さん。空は雲一つ無いというのに、屋上に繰り広げられる光景は異様きわまりない。
「でも、俺は嘘をついた! 正直に言うべきだったのに、草壁さんの笑顔を失うのが怖くて……。君の信頼にあぐらをかいて!」


 そうだ、俺は……草壁さんの信頼を裏切った。
 最もやってはいけないことを、やってしまったんだ。


  『でも、許してほしいの?』


 ――あの時タマ姉が問いかけたこと、いまなら判る。
 許される、許されないという問題ではなく、
 彼女が自分に向ける信頼に、全力で応えることが大切なんだと。
 そこから目を背けて、俺は必死になって何とか許してもらうことだけを考えていた。
 一晩中悩んだって、そんなところからじゃ解決策なんか見つかるはずはないのに。


 やるべきことはたったひとつ。彼女と向き合うこと。
 目を背けることなく、自分の犯した罪と、そして草壁さんの心と向き合う。
 それしか、俺に残された道なんて無いんだ。


 たとえ、その信頼が元に戻らないほど壊れてしまったものだとしても、逃げることは、それこそもう許されない。
 もしこれで2人の関係が終わってしまっても、それでも、もう草壁さんを裏切ることはできない!


「で、でもそれは私のことを気遣ってくれて……。私がダメダメだったのに、貴明さんは優しさをくれました。感謝こそすれ、責めることなんて何もありません!」
 だが、なおも草壁さんは俺のことをかばおうと、必死で俺に語りかけてくる。
 こんな……こんな優しい女の子を、俺は傷つけてしまったんだ……。
 あまりの情けなさに涙まで出てくる。
「そうは言ったって……! 食べてもいないものを『食べました』なんて、最低じゃないか! 感謝? ありえないよ! 草壁さんはもっと怒って良いんだ! 何ならひっぱたいてくれたって構わない!」
「怒るなんて、どうして……。私、貴明さんほど優しい人なんて他に知りま……って」
 不意に、
 草壁さんの言葉が止まる。
 そして、ゆっくりと――
「……食べて、ない?」
 ――と、ぽつりと言葉を落とした。
「あの、それっていったい……」
「いったいって……。だから、草壁さんだって知ってるんだろう? 昨日……」
 俺は、憑かれたように言葉を紡いだ。
 雄二にアップルパイを強奪されたこと、
 それを言い出せずに、思わず「美味しかった」と言ってしまったこと、
 なんとか謝ろうと自分でアップルパイを作ってみたけどうまくいかなかったこと、
 今朝校門の前に立っていた草壁さんから逃げてしまったこと、
 洗いざらいすべて、余すところなく。
「…………」
 その間、草壁さんは黙って俺の話を聞いていた。
 きっと、彼女にとってはもう半分以上知っている話だったろう。
 いつ気付いたのかは今もって不明だが、昨日のメールの着信日時から考えるに、それは帰ってすぐのことだったはず。
 だが――
「そういう……ことだったんですね……」
 ――草壁さんは俺の話をひととおり聞き終えると、そう言ってひとつため息をついた。
「ごめん。本当に……。もう言い訳するつもりはないよ。思う存分怒ってくれ。嫌われても仕方ないって思ってる」
「…………」
 俺の言葉に何を思っているのか、草壁さんはふんふんとひとつふたつ頷くと、やがてどこかで聞いたようなフレーズを切り出した。
「貴明さんは、4つだけ勘違いをしています」
「え?」
「ひとつ、私は何も怒ってなんかいないこと」
「でも!」
「まあまあ、最後まで聞いてください。えっと、ふたつめですが、私が今朝校門にいたのは、貴明さんを待っていたからではない、ということ」
「……え、そうなの?」
 少し驚いた。てっきり俺のことを探しているのだとばかり思っていたのに。
 そう聞くと、草壁さんは笑いながらそれを否定する。
「実は、今朝学校に着いた時に、風紀委員の友人が校門でチェックをしていまして」
「チェック?」
「風紀違反している生徒がいないかのチェックですね。服装とか、あとは遅刻者の取り締まりです」
 朝やってるアレか……。
 何度かお世話になったことがあるが、服装チェックまでしていたとは。
「それで、その友人がお手洗いに行きたくなったそうで、その間だけ代行していたんです。もちろん、貴明さんが通るかも――とは思っていたけど、ね♪」
「は――」
 じゃあ、あの構えていたノートはくずかごノートじゃなくて……
「そう、風紀委員さんが使っている取り締まり帳」
 ……自分の観察眼がこれほど信用に値しないものだとは。
 我ながら節穴のような目だな。
 そんな俺の様子を見つめながら、草壁さんは続きを話していく。
 だが、次の言葉はさっきの以上に予想外の一言だった。
「そして、みっつ……、昨日のアップルパイは、信じられないほどの失敗作だった――ということ」
「…………はい?」
 何を言われたのか、意味が判らなかった。
 失敗作? なんだそれ? 美味しいの?
「実は……」
 そして真相が語られる。
「昨日の朝ですが、最初に焼いたアップルパイはとても食べられるものではなかったんです。焦げ焦げで……」
「……焦げ焦げ?」
「はい。オーブンで20分焼くのが普通なんですが、設定を間違えて、40分も焼いてしまったんです。いつまで経っても"チン"って鳴らないからおかしいなとは思ってたんだけど、朝だったからうっかりしてて……」
 草壁さんでも失敗することがあるのか……。
 考えてみれば当たり前のことなのに、何だか新鮮だった。
「まだ時間があったので、もうひとつ作り置きしてあった生地を使って焼き直して、そっちはうまくいって。……それで、学校にはもちろんちゃんと焼けた方を持っていくつもりだったんですが、なにぶんその時にはもう遅刻ギリギリの時間になってて……」
「間違えて、焦げ焦げパイを包んでしまった……?」
「お恥ずかしながら……」
 昨日の休み時間のことを思い出す。
 雄二がパイを口に入れた時、確かに俺は焼き具合なんて見ていなかった。そこまで余裕がなかったからだ。焦げていても気がつかなかっただろう。
 そして、食べ終わった後の雄二の台詞は、確か……


  『それがたとえホロ苦だろうと、うらやましさ余って憎さ100倍だ!』


 なるほど……
 たとえ話じゃなく、あれは本当にホロ苦だったのか。雄二にしてみれば、あるいは苦い方が手作りっぽくて有難かったのかもしれないが……。
「それで帰ってみたら、台所のテーブルの上に持っていくはずだったアップルパイが置いてあって、それでようやく間違った方を渡してしまったことに気がついたんです。慌てて貴明さんに電話したんですけど、お取り込み中だったのか繋がらなくて」
「それで、メールで……」
「はい、とにかく謝らなきゃって。その後も電話をかけてみたんですが、それも繋がらなくて」
 ――もし仮に、俺が電話に出ることができていれば、その場で双方の誤解は解けたことだろう。しかし運悪く俺はアップルパイと奮闘中で電話に出られず、メールを見たあとは即座に携帯の電源を切ってしまったために、次の日まですれ違いは続いた……。
「だから、今日ちゃんと謝ろうと思って、さっき貴明さんの所に行こうとしたら廊下で会って……。その時、手を繋いでくれたのが嬉しくて舞い上がって、つい謝ることも忘れて……」
「そういう……ことだったのか」
「はい……。だから、あのアップルパイは、もともと貴明さんに食べていただくものではなかったんです。むしろ、ホントは食べてなかったって知って、ホッとしているくらいなの。向坂くんには悪いことをしちゃったけど……」
 ……雄二なら全力で喜んでるだろう。それこそ気に病む必要は何一つ無いと思う。
「貴明さんが謝ることなんて何もない。ぜんぜん何もないの。謝るのは私の方。本当に、ご迷惑を……」
「いや……」


 ――そうじゃない。


「それは違うよ、草壁さん」
「え?」
「やっぱり、謝るのは俺の方なんだ」
「え、ど、どうして……?」


 アップルパイが失敗だったとか……
 本当は食べなくても良い物だったとか……
 そんなこと、関係ない。


「草壁さんは、ただ勘違いしていただけだ。でも、俺は……、俺は、故意に嘘をついた。その事実は消えない」
 重要なのは、その一点だけ。
「そのことについては、アップルパイの味とは関係ない。明らかに俺が悪いんだ。それに……」
「……それに?」
 俺は少し息をついて顔を上げ、草壁さんの目をまっすぐに見る。
「たとえ失敗作だったとしても、そのアップルパイを食べるのは俺じゃなきゃダメだ。ううん、食べたかったんだ、本当に。草壁さんが作ってくれたアップルパイを、食べたかったよ」
「貴明さん……」
「ごめん。もう絶対こんなことはしない。二度と嘘なんてつかないって約束する。作ってくれた物は、なんでも必ず食べる。謝るよ……」
「そ……」
 ぽろり、と。
「そんなことを……」
 草壁さんの目尻に浮かんだ涙が、ひとしずく頬を伝うのが見えた。
「そんな風に言うから――」
 そして……
 俺の胸に、愛しい人が飛び込んでくる。
「――もっともっと、あなたのことを好きになっちゃう……!」
 もう……
 もう、絶対に裏切らない。
 この温もりに、この信頼に、一生をかけて応えてみせる。


 広がる青空が過ぎていく下、
 俺はこの世でいちばん大切な人を抱きしめながら、そう心に誓った。



     エピローグ



「でも、やっぱりひとつだけ怒っているかもしれません」
 改めて屋上のベンチに座り、俺たちは草壁さんが作ってきてくれたお弁当を広げていた。食後のデザートに待っているのは、もちろんアップルパイだ。今日は予鈴が鳴ろうと何だろうと、最後までちゃんと食べると心に決めている。
「え、何かな……」
 草壁さんが発した不穏な一言に、にわかに緊張する。
 でも、そりゃ仕方ないよな。ただで許してもらえるとは、もとより思っていない。
 どんな罰も受け入れるつもりだ。
「ちゃんと言ってくれなかったこと、です。食べてなかったなら、そう言ってくれれば良かったのに。それは、ちょっと悲しかったかな」
「ああ……」
 そうだよな。俺がずっと気に病んでいたのもそのことだし、これについては弁解しようがない。さっき謝っただけじゃ不充分だ。
「うん、ごめん。それは何度でも謝る」
「反省してますか?」
「もちろん」
 彼女の問いに、そうきっぱりと言い切った。
 昨日今日でさんざん懲りたことだからね。もうあんな想いはしたくない。
 その俺の様子に草壁さんはにっこりと頷くと、「それじゃあ……」と切り出した。
「ちょっとだけ罰ゲーム、してもいいですか?」
「罰ゲーム? 構わないけど……」
 なんだろう。デコピンとかか? いつも草壁さんがやられる側だから、たまには俺にしてみたいとか……。
「何をすればいいの? 難しいこと?」
「いえ、とっても簡単なことですよ。もう、誰にだってできちゃいます」
 いったいなんだ?
 そもそも、誰にでもできる簡単なことが、罰ゲームになるんだろうか。
 だが、次の草壁さんの一言は、俺の予想を遥かに上回るものだった。
「私に、あーんしてください」
 ………………
 …………
 ……
 意味がよく判らなかった。
「…………え?」
「だから、あーん、ってしてほしいなと」
「誰が……」
「貴明さんが」
「誰に……?」
「私に」
「…………」
 罰ゲーム。
 そして、誰にでもできる簡単なこと。
 …………
 いや、作業工程として"実現可能か"と言えば確かに簡単にできるけど、実際の行為として"実行できるか"というと、これは……
「そ、それが……。罰ゲームなの?」
「はい。ちょっとだけ、憧れだったものですから」
 な、なぜそんなことが? 女の子ってよく判らない……。
 それはともかく、マジで? マジでするの?
 いくらなんでも、そんなこっ恥ずかしいことをこの場で始めるには、ちょっと心の準備というか、物には勢いというモノがあってだな……。
 …………
 ……いや、何をためらっているんだ、俺。
 さっき誓ったばかりじゃないか。『どんな罰も受け入れるつもりだ』って。
 それなのに、もう逃げるのか、俺は。
 違うだろ?
 信頼に応えるんだろ、俺!
 しっかりしろよ河野貴明!
「あ、あーん」
 頬を両手で叩いて一念発起。俺は箸でアスパラのベーコン巻きを掴むと、草壁さんの目の前に差しだした。
 照れるな俺。これからこんなこと、何回もあるかもしれないんだ。
 この子を喜ばせるためなら、このくらいなんてことないさ。
 そして、少しだけびっくりしていた様子の草壁さんは、ぱぁっと花開くように笑顔になると――
「……あーん」
 俺が差しだしたベーコン巻きを、ぱくっと口の中へと入れた。
「お、おいしい?」
 口の中のものを飲み込んだことを確認して、おきまりの文句を口にする。
 そう、ベターな線が大事だ。基本は外せないよな。
「ふふ、作ったのは私ですけれど、でも……、貴明さんに食べさせてもらうと、ひときわ美味しく感じます」
「そ、そっか」
 こっちはもう心臓バクバクだ。
 破裂してどっかに飛んでいきそう。
 でも、おかずはこれで終わりじゃない。まだ色々あるんだ、次はほうれん草にしよう。
「は、はい、あーん」
「あーん♪」
 1回、2回……。俺が差し出すおかずを、草壁さんが喜んで食べる。
 ふぁああ、恥ずかしい。照れる。
 これってやっぱり男がすることじゃないよなぁ。
 でも……
「♪」
 ……草壁さんが楽しそうだから、良いか。
 それだけで、がんばった甲斐はある。
 いまは、これに集中することにしよう。


「こんなことするの……」
 そして、2つめのベーコン巻きを食べ終わった後……、
 不意に草壁さんが口を開いた。


「こんなことするの、2人っきりの時だけ、ですから」


 ――――〜〜〜っっ!! 


 その台詞は反則だよ。


 そんなことを……
 そんな愛らしい笑顔で言うから――
 君のことを、もっともっと好きになる。


「それじゃあ、今度は私から……」
「え?」
「はい、あーん」
「あ、……あーん」


 応えた口には卵焼き。
 ほおばったそれはとろけるように柔らかくて――
 暖かく過ぎていく風にさえ、その甘い香りが伝わるようだ。


「……そういえばさ」
「え?」
「さっき、『4つだけ勘違いしています』って言ってたけど……。最後のは?」
「ああ……」


 くすり、とひとつだけ微笑んで、
 草壁さんが、最後のひとつを口にする。


「『たとえどんなことがあっても、私が貴明さんを嫌いになることなんてあり得ない』、ですよ♪」


 ――照らす陽射しは眩しいくらいの五月晴れ。
 草壁さんの微笑みは風に溶けて大空へと舞い上がり――


「大好きです、貴明さん――」


 青空は雲一つ無く、どこまでも透き通った春色が、俺たちを優しく包みこむ。


 そして、かたわらのカバンの中には、もうひとつのアップルパイ。
 今度こそ、願った相手に食べてもらうことを夢見たアップルパイが、
 いまかいまかと、出番をじっと待っている。




 ――――――――――終わり
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