足音
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    1

 数学の問題集を5ページ終えたところで、久川美沙子は一息いれることにした。
明日は中間テストの初日。ゆっくりしていられる時間もないのだが、あまり根を詰めすぎてもよくないだろう…と自分に言い訳をしながら、風をはらんで膨らんだカーテンをさっと開ける。すると、今まで布にくるまれていた空気が、遮るものをなくして、さ…と部屋に流れ込んできた。少し伸びすぎた感じのある、セミロングの髪の毛がさらさらと揺れる。
 2階南側、東よりの自室の窓から入ってくる風も、この季節では余り気持ち良い風とは言えない。6月の、雨模様があけたばかりの風だから湿気を含んでいて、肌にまとわりつくような感覚がある。もうそろそろ、エアコンを「ドライ」の設定にして稼動させ始めても良いような気がするが、電気代の関係で親が許してくれない。そのくせ勉強しろ勉強しろとうるさいのだから、理解に苦しむ。窓を開けただけの、湿気が立ち込めた部屋の中では、はかどる勉強もはかどらないだろうに。自分達の時代はね…などという説教にしたって、それは「エアコン」という設備がそうそうなかった時代だからこそなのであって、目の前にそういった設備がある状況で言ってみたところで、犬にお預けをさせている以上の意味はない。
 …もっともそう言ったところで聞きいれる親でないことは、去年までで学習済みである。開きっぱなしのノートが、風を受けてぱらぱらとページをめくらせている様を見ながら、美沙子はため息を吐いた。
『喉が渇いたかな…』
 時計を見ると11時40分…。12時までティー・タイムにしようと決めて、美沙子は階下のキッチンへと降りていった。

 寝ている親を起こさないように、足音を忍ばせながら階段を降りてキッチンに入ると、さっそく冷蔵庫を開けて麦茶を取り出す。
 ティー・タイムなどといった割には、ずいぶん庶民的な飲み物を取り出したものである。
 もっとも、この蒸し暑い中、ティーバッグを熱湯に浸して、ふうふう言いながら飲むよりはまともな感性だといえるかもしれない。上流階級のお嬢様だと、それでも熱いものを飲むのだろうか?
 『だとすれば、上流階級っていうのはつまり、やせがまん階級だとも言えるわけね。…うん、なかなか面白いじゃない。やせがまん階級か…新しい発見かも』
 自分の洞察に嬉しくなって、自然、ウキウキした足取りになる。本当の上流階級なら、黙っていても冷たい飲み物が出てくるのかもしれない、という考えは思い付かないようだ。
 …と、
 「…っ」
 何か、異質なものの気配を感じて、美沙子の首筋に悪寒が走った。
 慌てて振りかえると、キッチンと廊下をつなぐ扉の端に、ふっと、白いものが消えたように見えた。
 『何…?』
 訴えかけてくるような、不安感。
 そっと扉の方へ体を寄せて、廊下をのぞいてみる。
 何もいない。
 キッチンから漏れる明りで、ぼうっと薄明るくなった廊下と、突き当たりにある玄関。向かい側の仏間は、引き戸が開いていて中が見えているが、ここにも異常はないようだ。
 『気のせいか…』
 まさか幽霊ではあるまい。生まれてこのかたそんな物にお目にかかったことなど、テレビか映画の中でしかない。友達の中に、霊感があると主張するものがいるが、彼女のそういう体験談を聞く度に、自分も一度で良いから見てみたいと思うほどである。
 それだけそういう物に縁がない。「シックスセンス」の、あの子どもなんか、美沙子にして見ればうらやましい限りである。自分だって、死んだおばあちゃんと話がしてみたい。
 やはり気のせいだろう、勉強に集中しすぎたのだろうか。
 そういえば、数学のあの妙な公式など、いかにも呪文のようではないか。その証拠に、先生が公式を説明している最中、決まって眠くなる。きっと、あれは眠りの呪文なのだ。テレビゲームで敵を眠らせる魔法というのは、魔法使いが必死で数学の教科書を、読んで聞かせているのに違いない。
 『なんだ、今日のあたしって、冴えてるじゃん』
 もし、本当に数学の教科書を魔法使いが読んでいるのなら、魔法使い当人が眠くなるはずだ…という事にはやはり気づいてないようだ。

 リビングのソファに座って、麦茶を傾けていると、それなりに体力が回復してくる感覚がある。ストローで飲んでいるから、余計に良いのだろうか。根拠はないが、なんとなくお嬢様っぽい。しかしながら首など廻してみると、ゴキグキとちっとも可愛くない音が鳴る。
 やはり数学がよくない。諸悪の根元は数学なんだろう。
 そもそも、美沙子は筋金入りの文系である。といっても、夏目漱石全集を読みふけっているとか、森鴎外の諸作について思索を巡らせるとか、そういうハイソな方面ではない。マンガ世代を、リアルタイムに過ごした母親の強烈な影響を受け、好きな作家は手塚治虫と萩尾望都。最高作品として「ブラックジャック」と「トーマの心臓」が同列に並ぶあたりがお茶目である。
 純粋な文学と呼べるもので、最後まで読めたのは鈴木光司の「リング」ただ一つ。
 そのあと「らせん」「ループ」「バースデイ」と続くところが、映画やテレビドラマになってしまったため、結局読まずじまい。活字離れ人間の典型である。
 もちろん、小説が表現形態の最高峰である時代はとうに過ぎ去って、今はそれぞれのジャンルの、それぞれの表現手法を使って物語が創造される時代であるから、活字離れが進んでいるからといって、どうしたということもない。「物語」を解析する能力に長けた人間を「文系」というのであるから、その点美沙子は、しっかり文系の資格を持っている。
 その代わりに数学は全然さっぱり完全無欠に低レベルである。授業中に眠くなることから始まって、テストで赤点間際に行くのは当たり前、ヤマをはずせば目も当てられず、最終的には「こんな事がなんの役に立つんだろう」という不毛な問いへと発展する。
 業を煮やした母親に、2年生の始業式の日「次のテストで50点以上取らなかったら、お小遣い減額の刑」を言い渡されて、ようやくこうして努力をし始めたというわけである。金が絡めば、真剣になるあたりは多分父親の影響と思われる。
 まったくもって自分は分りやすい、と美沙子はよく思う。
 父親と母親を足して2で割ったら出来ました、という表現がぴったりだからだ。
 容姿は母親似、性格は父親似。
 特に容姿の似方は尋常でない。母親の中学時代の写真を見て、これは自分じゃないだろうかと思ったくらいよく似ている。
 これは由々しき問題である。
 今の母親は、よく言えば恰幅がよく、ストレート剛速球に言えば太っているからだ。
 このまま行けば、あんな風に太ってしまうんだろうかと思うと、睡眠薬でも飲んで永眠したくなる。そういえば、最近腰まわりの肉が怪しくなってきたような気もする。ここのところ規則正しい食生活が続いているのはそのせいである。
 ところが、美沙子がダイエットをはじめたと知るや、猛烈に悪戯を仕掛けてきた人間がいた。父親である。
 わざと美沙子の見えるところに、好物のおはぎを置いておいたり、冷蔵庫を開けると、真っ先に目に飛び込んでくる絶妙の位置に、いちごのショートケーキがセットしてあったりと、手段は狡猾で隙がない。今もリビングのテーブルの上に、のり巻あられが置いてある。
 どうやら、以前父親が禁煙しようと画策したときに、リボンを巻いてセブンスターをプレゼントしたのを根に持っているらしい。
 どうしてこうまでそっくりなのか、美沙子は疑問に思う。
 『まるで…そう、自分は両親の残した足跡のよう…』
 緩やかな地面をはだしで踏んだ足跡。
 そこには、まるで印鑑を押したような、足の裏の形が現れる。
 足跡は母親…足音は父親…。
 不快なばかりではないけれど、ちょっぴり物足りない。
 自分はどこにいる?
 母親と父親を足して2で割ったもの…
 それは結局「父親と母親」ということになりはしないか?
 答えは、式と同じもの。
 数学の増田先生が言っていた。
 方程式の左側と右側…
 式と解は、それがイコールで結ばれている限り等分でなくてはいけない。
 (母親)+(父親)÷2=美沙子
 自分だけのものはどこにある?
 自分は足跡…足音…。

 ゴトン!

 不意の物音に、美沙子の思考は中断された。
 『何?』
 何かが倒れるような音、仏間から聞こえてきた…。
 『泥棒…』
 美沙子の家はペットを飼っていない。猫が物を倒したりというようなことはない。戸締まりはしっかりしているから野良猫は入ってこないだろうし、第一野良猫は人家には入ってこない。
 だとすれば、ポルターガイスト現象である可能性をのぞいては、
 1:自然に物が倒れた。
 2:実は両親が起きている。
 3:泥棒がいる。
 の3点が考えられる。
 このうち、最も一般性の高いのは1である。だが、仏間には自然に倒れるような、不安定な代物は置いていない。消去。
 2も、こんな時間に起きてくるような両親でないことは承知済みだし、よしんば起きてきたとしても仏間に用があるとも思えないので消去。
 …残る選択肢は3のみ。採用したい選択肢として「4:なんでも良いから誰か見て来て」というのが頭に浮かんだが、周囲には美沙子ひとりしかいない。
 自分で確認するしかない…。
 もう一つの選択肢、警察を呼ぼうという考えが浮かばなかったところが美沙子らしい。
 震える足を何とか忍ばせながら、ゆっくりと仏間の引き戸まで近づいて行く。
 1歩…
 2歩…
 3歩…
 仏間はしんと静まり返っていて、何の気配も感じない。
 キッチンやリビングから漏れ出る光も、仏間の中までは照らしてはくれず、かろうじてこぼれ込んだ光が、もうしわけ程度に闇を拡散しているだけだ。
 静まり返った部屋、暗い部屋。
 誰かいるのだろうか…?

 ギィ…

 ふいに響いた軋み音に、叫びそうになるほど驚いた。
 それは自分の足音であった。
 『びっくりした…泥棒さんかと思っちゃった…』
 そこまで考えて、もう一つのことが思い浮かぶ。
 『気付かれた…?』
 美沙子がここにいることに、気付いたかもしれない…そう思うと、足が竦んで、それ以上一歩も動けなくなった。

 ギィ…

 不意に後ろで、廊下の軋む音が聞こえた。
「…………っ!」
 『まさか、後ろに…』
 逃げなければ…そう思うのだが足が動かない。感覚さえ麻痺している。ともすれば、足がそこにあることすら忘れてしまいそうだ。
 …と
 ス……と何かが忍び寄る気配が背後に現れた。
 多分、もう50pと離れていない場所。
 「何か」がいる、そう思った。
 足はまだ動かない。
 『う、動いて! 動いてよ…』
 『まだ、死にたくない…』
 死ぬ、という単語を意識したとき、さっきよりも激しい恐怖が美沙子を襲った。
 『死ぬ?』
 『私死んじゃうの…?』
 『何で?』
 『私、悪いことしてない』
 『死にたくない…』
 『数学の問題集だってまだやってない』
 『ああ、そう、連立方程式の問題が…』
 『あれ、まだよくわかんない…』
 『そうだ、yを左辺に移行したら解けるかもしれない』
 『ああ、そう、きっとそうだ、早く部屋に戻って確かめなくちゃ…』
 『いや…』
 『いや!』
 瞬間…
 『…………?』
 それまでの気配が、まるで今まで何も無かったかのように、消え失せた。
 後には、ただ静寂の時。
 気がつくと美沙子は床にへたり込んでいた。足を動かしてみると、問題なく動く…。
 はっとして、背後を振り返った。だが、そこには何もなかった。ただ、薄暗い玄関がぼうっと霞んでいるだけ。
 誰も、何もいない。
 少なくとも、目に見える異常はどこにもない。
「…………?」
 今までの感覚と、目の前に広がる現実とのギャップがありすぎて、美沙子はしばらく何も考えられなかった。ようやく、リビングに戻ろうと考えたのは、壁にかかっている時計のチャイムが12時を告げた音が聞こえたからである。


    2


 何か勉強する気が失せて…さりとて、明日に備えて眠るにはいささか目が冴えてしまって…美沙子はもう一度、リビングのソファに体を沈めて、麦茶を飲むことにした。
 先ほどのことがあるので、多少怖い感じもあったが「今のは気のせい」と、無理矢理自分を納得させて(そうする必要は全く無いにもかかわらず)、深夜番組など見ていると、通常ではあまり見ない映像にたちまち心を奪われてしまう。
 「to・Night」という番組にチャンネルを合わせた時。上半身裸の女性がアップで映し出されて、思わず麦茶をひっくり返しそうになった。深夜の番組というのは、こういう映像を映してもいいらしい。なるほど、まだまだ知らないことがたくさんあるもんだ、うんうん、と妙なところで感心してしまう。
 …が感心している間に番組の司会者たちの間で猥談が始まり、放送禁止用語で音声が埋め尽くされる頃になると、さすがにうら若き女子中学生の身には刺激が強すぎた。いつもなら見向きもしないNHKにチャンネルを合わせて、神妙な顔つきをしてみる。…が、それでもやっぱり名残惜しく、頭の中で先ほどの番組を回想しているところが可愛らしい。
 いつも見ている番組といえば、歌番組とか、人気アイドルグループのバラエティ番組くらいしかないので、深夜の、何か妖しげな映像を見ていると、美沙子は、自分が少し大人になったような気がして、無意味に嬉しくなった。
 大人…。
 さっきテレビの中で、胸を見せていた女性のことを思い出す。
 なんとなく自分の胸に手を置いてみると、一応それなりの弾力が感じられる。「一応それなり」というのは、同級生の子たちに比べてみて、いくらか小さいからである。もちろん、それを苦にしたことはない…わけもなく、結構気にしていたりする。「幼児体型」という言葉が連想されて、ちょっぴり悲しくなり、ため息を吐くのも悔しいので、麦茶を思い切り良く飲み込んだら、気管支に入ってむせてしまった。
 こんなんで彼氏が出来るのかなぁ…としみじみ思う。
 何しろ、色っぽい話には見事なほど無縁である。中学2年生ともなれば、友人の大半は、デートの1つや2つはしているし、何人かはキスまですませていると言う。もちろん、そのうちの7割以上は単なる見栄で言っているだけで実際は…というだけだが、美沙子にそんな機微が読めるはずも無く、ただただうらやましく聞いているだけである。
 デート、かぁ…。
 去年の夏休みを思い出す。
 一応、美沙子もデート…のようなものは、した事がある。
 いや、はたから見ればきっとデートだろう、美沙子にそういう自覚が乏しいだけである。
 もっと正確に言えば、一応そう思ってはいるものの、なんとなく気恥ずかしくてデートだと思わないようにしているだけである。
 去年の夏休み…それも終わりに近づいた頃の事だった。たまっていた宿題をやっつけるべく、エアコンの効いた市営図書館で孤軍奮闘していた時、向かい側の席に何か気に入らない事でもあるかのように、でん!と勢い良く座った男の子がいた。日焼けした顔、ちょっとこわめの髪の毛、黒目がちで大きな瞳。隣のクラスの加納豊隆くんだった。
 知らぬ顔ではないので「加納くんじゃない。どうしたの?こんなとこで」と話しかけてみたものの、「ああ、いや…」と何やらぶつぶつ言うだけで要領を得ないので、気にせず勉強に戻ったのだが、それからも、あっちを向いたり、こっちを向いたり、そうかと思うとじっと考え込んだりと落ち着かない事この上ない。気が散ってしょうがないので、「どうかした?」と聞こうと思った矢先、ポケットから2枚の紙切れが出されて、美沙子の目の前に差し出された。
 当時話題になっていた、夏休み映画の前売りチケットだった。
「あ、これ、映画のチケットだ…、え、なに、どうしたのこれー?」
 見に行きたかったものの、小遣いとの交渉が決裂して断念していた映画だったので、美沙子は目を輝かせてチケットに見入った。
「いや、その…なんかもらっちゃったから…」
「ほんとにー? いいなぁ〜」
 封切り前の映画ならともかく、しっかり上映中の映画の「前売りチケット」を「もらう」ことがそうそうあるだろうかという疑問は、当時の美沙子には無かった。
「だからさ、その…なんていうか、ほら。一緒に行こうかな、って、思って」
「え…?」
「いや、行きたくなかったら、いいんだけどさ」
 うつむいてしまった加納くんを見て、鈍感な美沙子にも事態が飲み込めてきた。これは…
「え、ひょっとして…」
 デート、という単語ははばかられたので
「誘ってくれてるの?」
「うん、まあ…」
 とりあえず、待ち合わせ場所と時間だけ決めて、その日は家に帰ったのだが…。帰ってからが大変だった。
 着ていく服がない、という事に思い至ったからである。
 部屋のタンスをひっくり返さんばかりの勢いで、探してみたものの、どう見ても「イケてない」服ばかりである。
 考えてみれば生まれてこのかた、オシャレなんぞに自分から気を使った事などほとんど無い。あったとしても、男の子を前提にした事など皆無である。
 普段着といえば、母親の見立てで買ってきたものを着ているばかりだったし、小遣いをもらい始めて、少しづつ自分のものを自分で買うようになってからも、服は高くて手が出なかった。もっぱら細々としたアクセサリー程度である。
 それがここにきて、非常事態を招いたようだった。
 進退極まったので、母親に援軍を求めて、何とか服を買ってもらった。お出かけ用の服をねだった事は、考えてみればあれ1度きりだったろうか。
 薄い黄色のシャツブラウスに、赤いミニスカート。それが美沙子初デートのいでたちだった。
 美沙子は一年前の自分の姿にくすくす笑う。思い返してみれば、見事にデートである。
 でも、当時は「ちょっと遊びに行くだけ」とかたくなに信じていた。心のどこかで初デートを嬉しがっている自分を意識しながら、これはそんなんじゃないんだ…と。
 加納くんと出かけたのがそれっきりだったのも、その想いに拍車をかけたかもしれない。夏休み以降、加納くんの方は部活が忙しくなって、出かける暇が無かったからである。努力のかいあって、今ではサッカー部のエースといわれるようになっていた。美沙子の方はといえば、以前と変わらず、文芸部でへたくそな詩を書いているだけである。
 1年のあいだに大きく変わったものだ。加納くんが美沙子にどんな感情を抱いているのかは判らないが、自分達の残した足跡を見る限り、二人の間隔は遠く離れてしまったようだ。
 ただ遠く、かすかに加納くんの足音が、切ないような音で聞こえるだけである。

「さて…と」
 想い出に浸ってばかりもいられない、なんてったって、テスト期間中なのだ。時計を見るともう1時である。さすがに今から勉強していては、逆に本番に差し支えてしまう。コーヒーカップを洗うと、美沙子はもう寝る事にした。
 あとは、テスト直前に無駄なあがきを試みるだけである。そう決めたとたんに、眠気が襲って来て階段を上る足取りも重くなってきた。
 とん・とん…
 ひたり
「?」
 異質な音が聞こえて、美沙子は階段の途中で立ち止まった。
 ひたり…
 ひたり…
 ひそめるような足音、そして、かすかに床の軋む音。
 ふりかえ…られなかった。
 見てはいけない。
 何かがそう訴えていた。
 足早に階段を駆け上がり自分の部屋に入ると、美沙子はしっかりと戸を閉めてベッドに飛び込んだ。
 ひたり…
 ひたり…
 まだ聞こえる。
 「どろぼう…」
 やはりいた。さっきのは錯覚ではなかった。
 『どうしよう…』
 ただ何か盗んでいくだけならまだいい、しかし、もし強盗だったら…。
 殺されるかもしれない。
 『いやだ!』
 殺される、という単語を想像して、まだ押さえられていた恐怖が全身に駆け巡る。
 急いでシーツを頭からかぶり、寝たふりをする。私はここにはいない…私はここにはいない…。
 ひたり…
 とん
 とん
 階段を上がる音。
 シーツを堅く握り締める。
 熊に襲われた人が死んだふりをしている時、あるいはこんな気持ちなのかもしれない。
 助けてくれるものは誰もなく、ひとりで恐怖と対峙する。
 数学の問題集が出しっぱなしになっている事を思い出した。片づけなければいけない…とふと思った。
 とん
 とん
 3段…4段…
 『いや…いやだ…』
 『私はここにはいないの…』
 『だから…だからこっちに来ないで、私はここには…』
 『電気…』
 『電気、消してない』
 ガバッと、シーツを跳ね除けると急いで電気を消した。
 とん…
 とん…
 5段…6段…
 両親の事を思い出した。
 『お母さんたちは…』
 『気付いているのかな』
 『お父さん…』
 知らせなければ…美沙子はベッドから降りて、ドアノブに飛びついた。
 だが、ノブを廻す事までは出来なかった、恐怖が手を止めてしまった。
 階段は全部で何段だったろうか、もう、すぐそこまできているに違いない。
 とん…
 とん…
 7段…8段…
 またベッドに潜り込み、シーツをかぶる。
 『そういえば…』
 4ページ目の問3の答えが違っている事に気付いた。
 『あれは、xを左辺に移行するんだった…』
 後で直しておかないといけない。間違ったままでは気になって仕方が無い。
 『いや…』
 どうして泥棒なんかが入って来たのだろう、母親が鍵をかけなかったのだろうか。
 『明日からは、私も鍵を確認してまわろう…』
 『いや…』
 『いや、いやだ!』
 とん…
 とん…
 9段…10段…
 足音が近づいてくるのが判る。
 やつは、もうすぐそこまで階段を上がって来ているのだ。
 『武器…』
 『武器になるものあったかな…』
 バットがタンスの中にしまってある事に思い至った。
 あれを持っていれば、美沙子でも何とか戦えるんではないだろうか。
 そう思うといてもたってもいられず、美沙子は再度ベッドから跳ね起き、タンスを開けて手を突っ込んだ。
 『…あれ…?』
 『ない…ない!』
 どこにもバットの感触が無い。タンスの中に顔を突っ込んでみたが、影も形も見当たらない。暗いせいもあるが、それでも、あれば判るはずなのに。
 『そういえば…』
 思い出して、美沙子の全身から血の気が引いた。女の子の部屋にバットなんかあるのは可愛くないという理由で、美沙子自身が父親の部屋に持っていったのだ。
 美沙子の身を守るものは何も無い事になった。
 とん…とん…
 ひたり
 階段を上り終えたらしい、足音の質が変わった。
 あわててベッドに潜り込んで、シーツをかぶる。
 『怖い…』
 『怖いよ…』
 震えが止まらなくなった。
 あんなに蒸し暑くてたまらなかった部屋の中が、今は驚くほどに冷たい。
 静寂の中に響く足音。
 自分の息。
 心臓の音。
 普段は意識しないものが、足音につられて美沙子をさいなむ。
 『来ないで、来ないで…』
 『いやだ、いやだ』
 『数学の問題が』
 『ああ、そうだ、直しておかないと』
 『鍵も見てまわらないと』
 『鍵…』
 『私の部屋の…』
 『鍵…』
 『鍵…かけたかな』
 ひたり
 ひたり
 『鍵…かけてない』
 『かけてない!』
 そう思うのと、足音が止まるのがほぼ同じだった。
 そして、
 チャ…
 ……キィィ…ィィ…
 静かにドアノブが廻される音、そして、かすかに軋むちょうつがいの音。
 『いや!いやだ!』
 『あっちいって!あっちいって!』
 『お願い…』
 『お願いだから…』
 『私何も悪いことしてない』
 『してないよ…』
 ひたり
 ひたり
 間近に聞こえる足音
 1歩…2歩…ベッドに近づいてくる、もうあと何歩もないだろう。
 『数学の問題集…』
 『ああ、そうだ、明日のテスト、頑張らなくっちゃ…』
 『悪い点だと、お小遣いが減らされちゃう』
 『いや…いやだ!』
 『こないだ見てきた服…もう少しでお金がたまる…』
 『まだまだデートだっていっぱいしたいのに』
 『お小遣いが減らされちゃ、買えないよ』
 『来ないで!来ないでよ!』
 『ここにはいないんだから、来ても何もないんだから!』
 『助けて…』
 『誰か助けて!』
 『加納くん…!』
 加納くんの事を思い出した。映画を見に行った時、喫茶店で何を頼んでいいか判らなくて、結局、アイスコーヒーとサンドイッチというありきたりなものを選んだ。
 あの時のサンドイッチの味、忘れていない。
 加納くんの笑顔、照れて赤くなった耳、別れ際に「またどっか行こう」といってうつむいた仕種。覚えている、今でも覚えている。
 あの時はじめて…
 ときめく、という事を覚えた。今までずっと否定していたけど。
 今はもう、疑いなく言える。加納くんのことが好き、と。
 ひたり
 ひたり
 …………
 足音が止まった。
 ベッドの横、気配で判る。
 『バレンタインのチョコ、もっといいやつあげれば良かった』
 『来年は、もっといいもの…本命チョコあげるんだから』
 『いや…』
 『いやだ…』
 『まだ死にたくない』
 『死にたくないよう…』
 『お願い!』
 『なんでも言う事聞くから…』
 『絶対逆らわないから…』
 『お願いだから、助けて!』
 『わたし…』
 『私は…』
 シーツがつかまれる感覚。
 徐々に力がこもっていく。
 必死で抵抗する。
 やがて、今までより大きな力が込められて。
 シーツの破れる音とともに、美沙子を包むものが剥ぎ取られた。

 網戸を吹き抜ける風がシーツを揺らす。
 ぱらぱらと問題集のページがめくられる音。
 月明かりが差し込む部屋の中に、
 何者の影も、そこには見受けられなかった。
 
 
 ――――――――――終わり

 (初出:2000年3月5日)

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