雪の夜のサンタクロース 後編
〜Story of ring in SASARA〜
| Novels | Home | 


さーりゃんへ

 やあ、さーりゃん。ニューヨークでも元気にやってるかね? まーりゃん先輩さまだぞ! よろこべ。ほら、よろこんだか? うむ、よろしい。よきにはからいたまへ。
 はは、手紙なんて書いたことないから、もうなに書いていいかわかんないぜ。いまどき、けいたいメールでじゅうぶんだよなあ? あ、ひらがなが多いのは読みやすくしてんだからなー。漢字わかんないせいじゃないかんなー。違うっていってんだろ。信じろよ!
 そうそう、こないだおくってくれたチョコレート、ありがとな。ありがたく食べさせてもらったよ。ついうれしくて、タカりゃんのところにじまんしに行ってやったぜ。ま、タカりゃんも同じものおくってもらってたけどさ。
 そうだ、これ、きっと知らないだろう。タカりゃんさー、さーりゃんからときどきおくってもらうおみやげ、ぜんぶ取ってあるんだぜ。グッズとかアクセサリーはもちろんだけど、なんと食べ物まで、さいごの1個はぜったいに食べてなくて、れいぞうことかにしまってあるんだよ。生ものなんて、真空パックでれいとうしてやがんの。あれ見た時は、なんて言うか…へへ、さーりゃんがうらやましくなったよ、正直さ。あちしも、あんな風に大切にされてみたいなー、とか。むりかな、あちしじゃなー。くそ、いまにみてろよ。そのうち、ハリウッドのはいゆうとかしょうかいしてやらあ。
 そういやあ、そろそろクリスマスじゃん? タカりゃんと会うんだって? はりきってたよ、あいつ。うれしくってしかたないみたい。会えたらやさしくしてやるんだぞー? けんかなんてしたら、あちしがさーりゃんのこと、てごめにしちゃうかんなー。あ、じゃあ、けんかした方がよくね? はは、ま、ありえないか。このこの。
 そうそう、タカりゃんには言っておいたけどさ、クリスマス、ちょっとサプライズを予定してるかんな? 覚悟しておくように。なあに、痛いのはさいしょだけさ。すぐに気持ちよくなるってば、へっへっへ。
 んじゃ、またな! 返事くれないと、泣くぞ?

 さーりゃんの永遠の恋人 朝霧麻亜子より 愛をこめて


     4


 ドアを閉め、彼女にしては珍しく、ロクに着換えもせずにベッドに正面から飛び込んで枕に顔を埋める。愛用しているリンスの香りがほのかに漂ってくるが、今のささらにそれを楽しむ心の余裕はなかった。扉の向こうで母親が何事か言っているが、その声もほとんど聞こえない。
「サラ…」
 別れ際の彼女の顔。見せまいと伏せていたが、それでも一瞬だけ目に入ったあの横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
 泣いているような――、笑っているような――、怒っているような――、あるいは無表情にも見えた、あの横顔。サラがあんな表情をするところを、彼女は初めて見た。

   ――来ないで…もう、一人にしておいて

 暗くよどんだ空から降るような声。
 その声に何も言えなかった。何かを言わなくてはならなかったはずなのに、何一つ言葉は出てこなかった。
 拒絶されるのが怖かったのかもしれない。
 自分はかつて、何もかもを拒絶していたくせに。
 人を傷つけることはできても、人から傷つけられることは怖い。
 自分勝手だ。
 なんて自分勝手なんだろうか。
 いやだいやだいやだいやだいやだ――
 逆巻く心。
 黒い渦が穴の空いた胸から全身を犯していく感覚。
 かつて毎晩のように味わったあの感覚。
 いつからだろう。
 どうしてだろう。
 いやだ。
 苦しいのはいやだ。
 嫌われたくない
 悲しい思いをしたくない
 つらいことなんてこの世から無くなればいいのに。
 うそつきだ。
 自分はこんなにもうそつきだ。
 強くなるって言ったのに。自分で自分の道を見つけるはずだったのに。
 何一つ、守れた約束はない。
 どうしてだろう。
 がんばっているつもりなのに。
 自分なりに、よく考えて行動してきたつもりなのに。
 不公平だ。
 もっと要領よく生きたい。
 きっと、他の人はみんな、私みたいにグズじゃない。
 どうして自分はできないのだろう。
 なぜこんなにもつらい思いをしなくてはいけないのだろう。
 悪いことなんてしてない。
 何もしていないのに。
 だから、背負わせないで。
 重い。
 とても重い。
 誰かの笑顔が重い。
 誰かの涙が重い。
 人の心が重い。
 そんなもの、背負いたくない。
 ただ、毎日を憂いなく過ごせれば、それでいい。
 だから
 だから話しかけないで
 笑顔なんていらない
 涙なんて見たくない
 誰もいらない
 もう、一人にしておいて――

『あれは――』

 あの横顔。
 知っている。
 誰よりも、知っている。

『私だ――』

 サラの横顔、あの表情。
 かつて、何もかもを諦めて、自分の殻に閉じこもっていた頃の自分。
 毎朝鏡を見るのがとてもイヤだったことを思い出す。
 鏡は嘘をつかないから。
 誰よりも正確に、自分を責めるから。
 毎朝、自分の目を見る。
 少しだけ作り笑いをする。
 その瞬間、まるで、拳銃で撃ち抜くように、鏡が言う。

   『うそつき』

 何度、叫び出したい衝動を抑えただろう。
 部屋に閉じこもって、どこにも行かず、誰にも会わず、一人寂しく死んでいきたかった。
 それが、あの頃の自分。

 だから、毎日、鏡に言われた。
 うそつきだと、何度も、何度も。
 死ぬ勇気なんてないくせに、強がってる。
 寂しさに耐えられないくせに、偽ってる。
 うそつきだ。
 ささらはうそつきだ。
 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も

『あれは、私――』

 だから、わかる。
 サラの心が、わかる。
 サラの悲しみが、わかる。
 サラの苦しみが、痛いほど。

   『でも…でも、やっぱり…私はあの頃のまま、だから…』

 わかるよ。
 私だって、そう。
 あの頃のまま、弱い自分がここにいるから。
 何もできない
 何にもなれない
 グズで、のろまで、ダメな私が、ここにいるから

 あなたは、私。
 私を映す鏡。
 だから――

『まだ――』

 だから――

『私は――、なにもしていない――』

 だから――幸せに、なれるよ

 枕から、顔を上げる。
 彼女はベッドの脇にいつも立てかけてある写真立てを手に取った。そこには、日本を発つ前に、後輩の柚原このみが開いてくれたお別れ会で撮った写真が飾られている。
 ささらと、貴明。そして、共に生徒会で頑張った仲間たち。まーりゃん先輩、向坂環、向坂雄二、柚原このみ――。
 彼女は思い出す。彼らが自分にしてくれたことを。
 世界を、そして自分を呪いながら生きることしか知らなかった自分に、陽の当たる道を示してくれた、かけがえのない仲間たち。
 彼らには、できたのだ。
 この、自分を救うことが。
 ならば
「今度は、私が――」
 そうだ。
 自分が、やるのだ。
 あの時、自分を助けてくれたように。
 それが、彼らに対する恩返しにだってなる
 なにより
 もう、イヤだった
 あの頃の自分に戻ることが
 自分のことしか考えられなかった自分に戻ることが
 彼らのように――
 誰かのためにがんばれる、そんな自分になりたかった
「何も…何もしていない。私は、まだ、何もがんばってない…」
 そうだ。
 この一週間、自分が何をしていたというのだろう。
 ただ、時が過ぎるのを見ていただけだ。
 何一つ、頑張ったことなんてない。
 それなのに、何を弱音なんて吐いているのだろうか。
「まだ…まだ…まだ…私にはできることがある!」
 カレンダーを見る。イブまで、あと8日。
 思い出を作るには短いかもしれない。
 ならば――
 短くても作れる思い出を探せば良いだけだ。
 諦めるのは早い。

「でも、どうすれば…」

 そう。それが問題だった。今まで何も思いつかなかった自分。今から、何か妙案など浮かぶのだろうか。
 彼女たちが仲直りできる、そんな妙案が。
 ただ、待っていただけの自分に。

「!」

 瞬間――

「私に"できる"こと――」

 たったひとつだけ、あるような気がした。
 それでうまくいく保証なんてどこにもなかったし、ぜったいに他に良い考えがあるのに決まっていたけれど、でも――

「きっと…、それが、私が"やるべきこと"なんだわ…」

 祈るような想いを込めて、彼女は携帯電話を手に取り、そして、たった一通だけ、メールを書いた。


     ※


 12/17(Sun)
 From: s-kusugawa@borderlessphone.ne.jp
 Subject: サラへ

 明日の朝から、イブの夜まで
 毎日陽が昇る頃から、陽が沈む頃まで
 ブルックリン・プロムナードであなたのことを待っています
 きっと仲直りできることを信じて


     5


 次の日、ささらはブルックリン・プロムナードに朝早くから出かけていった。
 魔法瓶に熱いコーヒーを淹れ、いつものブロック食品と一緒にカバンに詰めてプロムナードのベンチに腰掛けて、ただじっと向かいのマンハッタン島の風景をずっと眺めながら、彼女はどこに行くでもなく、何をするでもなく、じっとそこにいた。
 12月のイーストリバーの風は冷たく、人通りはほとんどない。時折犬の散歩途中のおばあさんや、観光客らしき若い女性が横切っていったが、賑やかと言うにはほど遠い。
 そんな中で、何の苦行か寒さに耐えながらじっと座っている少女の姿は、たぶん、道行く人の目にとても奇異に映ったことだろう。
 だが、今のささらには、そんな周囲の目など何一つ気にならなかった。
 凍えないように、時折コーヒーを口にしながら、ひたすら彼女は待ち続ける。
 待つことが、彼女の選んだ道だった。
 かつて、待ち合わせの時間になっても一向に現れなかった友人を待つことが何度もあった。何時間も、自分は待つことができたのだ。
 ならば、それがちょっとくらい伸びて"数日間"になっても、きっと待てる。
 それが、自分にできることだと、そう思った。
 そのために、クリスマス休みまであと3日間あった学校もサボった。
 体調が優れないから。それが、ささらが学校に言った嘘の言い訳だった。
 せっかく留学してきて、嘘の言い訳で学校を休むなど、ずいぶん悪い子になったものだと、ささらはひとり笑う。
 だが、大好きな友人たちのためなら、そのくらいなんでもなかった。
 もちろん、サラが本当に来てくれる保証などどこにもない。
 それどころか、ますます意固地になって、自分の殻に閉じこもってしまう可能性だってあった。
 しかし、彼女はサラが来てくれることに、微塵も疑いはなかった。
『きっと、来る』
 そう、固く信じていた。
 今日か、明日か、その次の日か、それともイブの日か。
 いつになるかは判らない。でも、ささらの知っているサラなら、絶対に来てくれるはずだと信じていた。
 だから、待ち続けた。携帯電話で送ったメールに書いたとおり。陽が昇る頃から陽が沈む頃まで、吹きすさぶ寒風に凍えそうになりながら、彼女はずっと待ち続けた。
 そして、夕日が沈みきる頃、彼女はようやくベンチから立ち上がり、自分の家へと帰っていく。それを、幾日も繰り返す日々が始まったのだ。

 一日目は来なかった。
 二日目も来なかった。魔法瓶1本では1日もたないようだったので、この日から2本持ってくるようにした。
 三日目、しもやけがいくつかできて、かゆいような痛み。指先の感覚がなくなるので、そのたびにハンディウォーマーで温めた。
 四日目、今日から学校はクリスマス休み。犬の散歩をしていたおばあさんに声をかけられた。心配をかけているようだった。犬の名前はウェンディというらしい。雌のスピッツだった。
 五日目、風邪を引かないのは、それなりに体力はあるからだろう。父親と一緒によく山道を歩いていたおかげで、運動神経はともかく地力はある方だった。こんなところで効果を発揮するとは思わなかった。
 六日目、平日よりは人通りが多い。だが、待ち人は来たらず。おばあさんがパイを焼いてきてくれた。優しいまなざしでただ一言、「挫けちゃダメよ」と言ってくれた。少しだけ涙が出た。しかし、もともと挫けるつもりなど、ささらには無い。あと一日。ささらの心に疑いは欠片もなかった。
 明日のクリスマスイブ。必ずサラは来る。予感ではなく、確信。降る雨が必ずやむように、雲間に隠れた陽が再び大地を照らすように、サラの心に温かい歌声が響くことを、彼女は信じていた。

 そして――24日を迎えた。

「はーっ…はーっ…」
 毛糸の手袋越しに、ささらは自分の吐息を手に送る。時刻は瞬く間に過ぎていき、そろそろ辺りは夜の準備を始めている。特に、今日は雪が降るらしく厚い雲が空を覆っているため、よりいっそう闇はスピードを上げて辺りに立ちこめる。
 すでに16時30分を回った。サラはまだ来ない。
「大丈夫…大丈夫…」
 自分に言い聞かせる。
 ささらはまだ信じているのだ、サラがこの場所へ来ることを。
 先ほどイーサンから届いたメール。別れの言葉が簡潔に書いてあった。
 そのメールに、ささらは返事を返した。
『まだ、諦めないで』
 最後の最後まで、
 彼がニューヨークを飛び立つその時まで、諦めることなどできない。
「サラ…お願い…」
 祈るような呟き。
 神様にしか、きっと聞こえない。

 だが、その時――

 神様の耳に、その声が届いたのかも知れなかった。

「ささら…」

 はっとして振り返る。
 そこには、待ち続けた人。

「サラ…。信じてたわ…」
 サラ・ウィリアムズが、泣きそうな顔でそこに立っていた。
「どうして…」
 駆け寄ると、彼女の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
 表情は複雑で、なんとも形容しがたい。信じられないかのような、悲しんでいるかのような、あるいは無表情のような、いろいろな感情がない交ぜになった表情。
「どうして、待っていたの…」
 ぽつりと、サラが言った。
「あなたが来てくれるって、信じていたからよ」
「うそよ!」
 目を閉じて叫ぶ。
「そんなのうそよ! だって、私はずっと来なかったのよ!? 月曜日、あなたが学校を休んでいるのを知って、きっとここに来てるんだろうって思った。でも、私は来なかった! 次の日も、その次の日もよ! あなたがずっと待っているって知っていたのに…。こんな寒い中で、私のことを待っているって知っていたのに、あなたを裏切り続けたのよ! それなのに…それなのに、私のことを信じてるって、そんなの…」
「サラは、来てくれたわ。私の思った通り」
 叫び、泣き、その場に崩れ落ちそうになるサラを支えながら、ささらはにっこりと笑いかける。
「ささら…」
「ねえ、サラ。覚えてる? あなたと出会った時のことよ」
「ささらと…?」
「あなたは、コインを落として困っている私を助けてくれたわ。見も知らない私に。地面に顔をこすりつけて、せっかくの美人を台無しにして、コインを拾ってくれた。50セント硬貨だったわ」
「あれは…」
「だから、私があなたのために頑張るのは当然のことでしょ? 違う?」
「でも…あれは…」
 だが、サラは首を横に振って、ささらの言葉を否定する。
「言ったでしょ、私…昔は、暗くて友達のいない子だったって。だから、変わろうと…。あの時だって、本当の私じゃなかったのよ。なりたい私になりたくて、だから…」
「だから、私を助けた?」
 ささらの問いに、彼女はよりいっそう悲しそうな表情になったが、それでもゆるゆると首を縦に振った。
「うん…」
「それじゃあ…私も、きっとイヤな子なんだわ」
「え?」
 驚いたように、サラがささらの顔を見る。
「私も。あなたと同じ…。日本にいた頃、イヤな子だったのよ。みんなに嫌われて、疎まれて、怖がられて、友達なんて一人もいなかった」
 ささらは思い出す。日本にいた頃のこと。まだ、貴明と知り合う前のことだ。
 誰もいない生徒会室で、たった一人、書類を見ながら生徒会の仕事をこなしていたあの頃。極力人の心を思いやることをせず、ただ書類上の数字だけを見ながら仕事をしていたあの頃。鬼の副長と呼ばれ、誰にも好かれることなく、嫌われ続けたあの頃の自分。
 思えば、たった1年前のことだ。それが、今は――
「ささらが…?」
「そうよ。だから、あなたを待っていた私も、きっとイヤな子なのね。優しさの仮面をかぶりながら自分を偽り続ける偽善者――」
「そんなことない! ささらはとても良い人よ! 優しくて、温かくて…」
 ささらの言葉を、真っ赤になってサラが否定する。その言葉はとても強く、心底ささらのことを信頼していることが判った。
 そんな友に、ささらは優しく微笑みかける。
「じゃあ、あなたもそうなのね」
「え…?」
「だって、私があなたのことを信じているから。優しい人だって」
「ささら…」
「サラ。信じて、あなたのことを。私があなたを好きなように、あなたもあなたのことを好きになって。サラは、自分が思うよりずっと、素敵な人なのよ」
「うそよ、そんなの…だって…だって…」
 涙に濡れた顔。サラの手が、ささらの顔を包み込む。
「こんな…こんなに、真っ赤に…、ああ、こんな…しもやけが、耳に…」
 一週間、この寒い中で待ち続けたせいで、ささらの耳はすっかり腫れて、しもやけになっていた。何度もウォーマーで温めてはいたが、冷えやすい部分はそれでは追いつかない。耳の他にも、手袋に包まれているはずの指先など、いくつかの場所にしもやけができていた。
「サラ…」
「友達を…こんな、酷い目に…。やっぱり…私は、良い子なんかじゃない…。ささらは、誤解しているのよ、私…」
「じゃあ、今からなるのは?」
「え?」
「わかったわ。今までは、きっとサラは悪い子だったのね。じゃあ…今から、なろう? 良い子に。私も頑張って、サラと一緒に良い子になるわ」
 だが、サラは頷かない。暗く目を伏せて、かぶりを振る。
「できない…できない…よ…」
「どうして?」
「だって、怖い…怖いのよ…。夢が、覚めてしまうのが…」
「…現実だから、イヤなことが終わらない?」
 いつかサラが言っていた言葉。こくりと、サラが頷く。
 だが、そんなサラに、ささらはゆっくりとかぶりを振る。
「違う…」
 再び自分の殻に閉じこもろうとするサラ。ささらはそんな彼女のことをそっと抱きしめた。頭を胸に抱え込み、ぎゅっと。悲しみの雪を溶かそうとでもするかのように、そっと、でも力強く、彼女はサラを抱きしめる。
「…違うわ、サラ…それは違う……」
「え…?」
「夢じゃないから…、現実だから…、"楽しいこと"や"嬉しいこと"が…、終わらない"幸せ"が、続いていくの……」
「ささ…ら…」

 その日、たぶん、初めて――
 ささらは、サラの泣き声を聞いた。

 子供のように泣きじゃくるサラ。だが、その中で、ささらは彼女の心の氷が溶けていく音を聞いた。
 夕暮れのプロムナード。二人の心がつながった、それは確かな泣き声だった。
 やがて、ぐす、ぐすとサラが泣きやむのを待って、ささらは時計を見る。もう時間がないようだった。
「ささら、ごめんね…。ふふ、あなたの服、汚しちゃった」
「いいのよ、サラ…それより、聞いて良い?」
「なあに?」
「イーサン君のこと」
「…うん」
「サラは、イーサン君のために、命を賭けられる?」
「…え?」
「彼に、会いたいって。それがどんな困難で、危険な道を越えた先にあるのだとしても、そう思う?」
「思うわ」
 サラは、すぐに答えた。その瞳にもう迷いはなかった。
「私…彼に、謝りたい。酷いこと言って、ごめんねって」
「そう…。じゃあ、これはあなたに返すわね」
 ささらは、持っていたバッグから、一本のマフラーを取り出した。赤い毛糸で編まれた手編みのマフラー。ところどころに、不器用なハートのマークがあしらってある。
「それは…あなたにあげたマフラー…」
「そう。でも、本当は、私のじゃないのよね?」
「え…?」
「本当は…イーサン君にプレゼントしたくて編んでいた…違う?」
「それは……」
 赤い色は嫌いではない。でも、ささらがサラに話したことのある好きな色調は、モノトーンだった。きっとサラなら、ささらのために編んでくれる時、モノトーンの毛糸で編んでくれるだろう。
 そして、赤を好むサラの知り合いは――イーサン。
「彼に渡さないと。マフラーが寂しがるわ」
「ささら…。でも…もう、時間切れ、ね…」
 宵闇迫る公園。雲が立ちこめる空の下は、すでに夜の眷属が跋扈していた。
 だが、ささらは自嘲気味に首を振るサラの手を握ると、明るい声で言った。
「サラ。行こう」
「行く? どこに…?」
「空港。イーサンを見送りに行かなくちゃ」
「空港って…。ケネディ国際空港のこと? 今から?」
「そうよ。さあ早く。ぐずぐずしていると、間に合わない」
 そう言って、ささらはサラの手を引いて走り出した。
「ちょ、ちょっと!?」
 イーサンが空港を発つ時刻は18時。迷ってはいられない。夜に包まれ始めるプロムナードの中を、全力疾走に近いスピードでささらは駆けていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 今何時?」
「17時すぎ!」
「む…無理よ…。こんな時間じゃ、空港まで間に合わない。電車で行ったって、1時間半はかかるのよ?」
 サラが絶望的な口調でそう言う。確かに、このままではどう頑張っても間に合わないだろう。
 だが、ささらには最後の切り札があった。
 ひとつだけ、ほとんど夢物語のような確率をあてにしなければいけなかったが、それでも、ささらに用意できた最後の手段だった。
「いいから、来て。車で行くわ」
「く、車って…」
 なおも諦めかけようとするサラを強引に引っ張って、ささらは走る。そして200メートルは走っただろうか、公園の駐車スペースに停められた一台の車の前まで来ると、ささらはポケットからキーを取り出して、ロックを外す。
「乗って!」
「乗ってって…。ちょ、ちょっと、まさかこれ…」
 派手な赤いカラーリング。フォルムは地を這うように低く、全体的にワイドなボディと精悍なマスク。流れるようなボディラインはいかにも流麗で、美しく銀色に輝く大口径のホイールと相まって、ひときわ存在感を放っていた。
 全身で「俺は速いぜ、気をつけな」と主張しているかのようなスポーツカー。シボレーのコルベットだった。
 ドアを開けて乗り込み、シートベルトを締めながらささらは友人に乗るように再度促す。
「はやく!」
 その言葉にようやく助手席に乗り込んだサラを確認すると、彼女はイグニッションを回し、エンジンをスタートさせる。途端、ドドドという低い音がコックピットに響き出す。同時に、インストルメントパネルのディスプレイが起動し、地図が表示された。カーナビである。すでにセッティングは済んでいるらしく、赤い矢印が道路上に表示されていた。
「ここから…えっと…左…次に…」
「ちょ、ちょっと、ささら。ホンキなの?」
「冗談でコルベットなんて運転できないわ」
 母親であるかぐらのコルベット。普段はもう一台所有しているアキュラ・RLを使っており、コルベットはオフの日のドライブ用に運転するだけなのでガレージにあることが多い。それを良いことに、かぐらの目を盗んで持ってきたのだ。バレたら何を言われるか判らないが、この際構っていられない。
「そう言うことを聞いてるんじゃ…。だ、だいたいあなた、運転はできるの?」
「前に、お母さんに教わったことがあるわ。ちゃんとバックで車庫にも入れられるのよ。オートマチックだし…大丈夫よ、たぶん」
「た、たぶんって…。ねえ、確認のために聞くけど…、免許証、持ってるのよね?」
「……お巡りさんに捕まったら、あなたは私に脅されていて仕方なく乗っていたって言うから。大丈夫、ナイフも忍ばせてあるから、工作は完璧」
「ひ…」
「さあ、行くわ! 事故を起こさないように祈ってて!」
 そう言って、アクセルを踏み込む。
 力強いサウンドが響き渡り――
 二人を乗せたコルベットは、宵闇のプロムナードを飛び出して行った。


     ※


ささらへ

 12月もそろそろ半ばを過ぎて、すっかり寒くなったけれど、風邪とかひいてないかい? 元気にしているかな。
 この手紙を書いている頃、日本ではもうクリスマスの雰囲気一色で、駅前の商店街はまぶしいくらいの電飾でいっぱいになっているよ。アメリカはキリスト教の国だから、きっともっと凄く明るい雰囲気になってるんだろうね。
 えっと…。あらためて手紙にしようとすると、なかなか言葉が見あたらないね。それに、来週にはきっと、あの約束を果たせるかと思うと、なんていうか…胸がいっぱいになる。月並みな表現だけど、そうとしか言いようがないよ。
 あれから5ヶ月。とても長かった。でも、それもきっと、俺たちに必要なことだったんだよね。
 ああ、だめだ。やっぱりうまく書けないよ。口べたでごめん。クリスマスまでに、きっともっとたくさん話ができるように、頭を整理しておくよ。
 そうそう、クリスマスなんだけれど、ちょっとびっくりさせようかと思ってるんだ。うん、まあ、例によってまーりゃん先輩やタマ姉がうるさいからなんだけどさ。
 そんなに、たいしたことじゃないんだけどね、ささらは、空港で待っていてくれれば構わない。多分、夕方6時頃に着けると思うから。
 じゃあ、今日はこれでペンを置くよ。きっと、会えた日には、こんな手紙が1000通あっても足りないくらい、たくさん話をしよう。

 2006年12月14日 河野貴明

 P.S.クリスマスプレゼントには、あの約束のものを持って行きます。安物だけれど、誰にも負けないほど、君への想いを込めて。


     6


 フォード・ムスタングと並んでアメリカを代表するスポーツカー、シボレー・コルベット。6000CCを越える大排気量のエンジンは実に400馬力を叩きだし、最高時速はノーチューンでも180マイルに達する。
 そして、そんなモンスターエンジンを積んでいるにも関わらず、コルベットのコーナーワークは非常にハイレベルだ。速い・曲がらない・止まらないと揶揄されるアメリカンスポーツには珍しく、スタビリティの良いタイヤと低重心、マイルドに仕上げたサスペンションが生み出す操舵はオン・ザ・ロードを微塵も裏切らない。良くも悪くもアメリカンなムスタングとは方向性を異にした、欧州風情漂うピュアスポーツなのだ。
 とはいえ、運転初心者の少女に乗りこなせるような車ではない。それは確かだ。確かなのだが――
「きゃああっ!?」
「くっ…」
 危うく前方を行く車にぶつかりそうになって、慌ててささらはブレーキを踏む。踏んだら踏んだで今度は踏みすぎて、後続の車に追突されそうになる。クラクションの音がV8サウンドの間隙を縫って二人の耳に突き刺さった。
 しかし、ささらの激走は止まらない。すぐさまレーンを変更して前の車を追い抜き、アクセルを再度踏み込んで力強く加速していく。
 あっという間にスピードメーターは45マイル(約70km/h)を越え、さらに上の領域を目指して駆け上がる。
 完全にスピード違反である。捕まったらおそらくは一発免停。いや、そもそも免許はないのだが、何にせよ拘置所送りくらいにはなるかもしれない。
 いずれ、走り出してしまったギャンブル。もう降りることはできない。ここで降りたところで、ただ後悔という名の借金を背負うだけだ。
 まごまごしていたって空港には間に合わない。電車でだってなんだってすでに無理なのだ。
 最悪事故を起こしさえしなければトントン。罰は全部自分で受ける覚悟のささらだった。
 逆に、と言うべきか、その覚悟で肝が据わったせいか、ステアワークを誤ることもなく、かなりのハイペースでコルベットはニューヨークの街を疾走していく。すでに道のりは3分の1ほどを消化していた。
 だが、それでも、このペースではまだギリギリ間に合わない。一発のスピードは出ていても、なにぶん他の車もいる上に信号待ちもあり、平均的なスピードが上がらないのだ。
 このまま行けばジリ貧である。
 しばらくして少しだけ落ち着いてきたのか、そのことに気付いた様子のサラが、ささらに話しかける。
「ささら、もういいよ…。このままじゃ間に合わない。捕まる前に、戻ろう」
「ダメよ。ここまで来て、引き返すなんてできないわ」
「でも。もうあと30分ちょっとしかないのよ」
「判ってる。でも…そろそろだと思うから」
「そろそろ?」
「最後のチャンス。ギャンブルもいいとこだけど…、でも、やってみる価値はある…と思う」
「な、なに? それって…」
 その時――
 バックミラーに、一台の車が映り込んだ。
 ホワイトのカラーリングにブルーのライン。NYPDの文字。そして、何より目立つ、回転灯。
 ファンファンとヒステリーのような音で喚き、頭のランプからビームのように赤い光をまき散らしているその車。
「ぱ、パトカー!」
 見まごう余地もなく、パトカーである。制限時速30マイルのところをすでに50マイル以上で疾走しているのだ。おまけに先ほどからの超危険かつ迷惑な運転。来ない方がおかしい。
「ああ…もうダメ。やっぱりダメだった…。だから言ったのに…」
 天を向いて嘆くサラ。無理もない。
 だが――
「計算通り――」
 そう、ささらは呟く。
「…え? 計算って…」
 何を言っているんだこの人は、とでも言うような顔でサラがこちらを向く。
「これで良い…これで…みんなよけてくれる!」
「は、え、なに…きゃあっ!?」
 それは一瞬。
 一気に――ささらはアクセルを限界まで踏み込んだ。
 瞬間、恐るべき力が少女たちを飲み込んだ。
 狂ったように鳴り響くエンジン音。
 足かせが外れたかのように一気に上昇していくスピードメーター。
 レッドゾーンぎりぎりを漂うタコメーター。
 全てが一体となって直進する力となり、ギヤからシャフト、そしてホイールからタイヤへと伝わっていき、接地面から圧倒的な熱を放出しながら大地を蹴って、コルベットが矢のように加速していく。
 AT車とはいえ、6000CC400馬力のパワーはダテではない。あまりの加速力で、彼女たちの背中がシートにめり込むほどだ。
「ちょ、ちょっとささら!」
「捕まってて!」
 悲鳴を上げるサラを制して、ささらはここが勝負所とばかりに全身全霊を込めてステアを操舵する。
 もちろん、背後のパトカーも速度を上げて追いかけてくる。ひっきりなしにサイレンを鳴らしながら「止まりなさい!止まりなさい!」とスピーカーから静止の声を上げて追いかけてくる。
 その時――
 ある現象が、起こった。
「え――?」
 サラが、驚きの声を上げる。
 それまで前方に何台か見えていた車たちが、一斉に道路脇へと移動し始めたのだ。
 まるで、ささらに道を譲るように。
 そして、開ける。道を一直線に貫く、一本のラインが。
 モータースポーツで言う、クリアラップの状態が発生したのだ。
「これが、計算――?」
 そう、この瞬間こそ、彼女が待ち望んだ瞬間だった。
 パトカーに追いかけられている、それはすなわち、パトカーが派手な音や光をまき散らしながら、道路を走っているということに他ならない。
 ならば、必然的に、あることが期待できる。
 すなわち、他の車の沈黙。
 コルベットとカーチェイスを繰り広げているパトカーがあれば、誰だって脇に避けてやり過ごすだろう。交差点でだって、青だろうと何だろうとみんな止まってスルーする。
 その間だけは、人の行き交うストリートが誰もいないサーキットに変わるのだ。
 それが、ささらの賭けだった。
 もちろん、負ければ即逮捕。
 悪くすれば死ぬだろう。
 いや、もう片足くらいは棺桶に突っ込んでいるかもしれない。
 それでも、彼女はアクセルを踏みこみ続ける。
 すでに速度は80マイルを超えた。
 母親とのドライブでも体験したことのない速度領域。
 もしも、スタビリティの高いコルベットでなければ、彼女の技術程度ではとっくにグリップを失って、そこら辺の壁に激突していただろう。
 だが、今だけは、止まるわけにはいかなかった。
 せめて、空港に間に合うスピードだけは確保していなければいけないからだ。
 150マイルだの200マイルだの、そんな速度はいらないが、100マイル程度は維持しなければ、このタイムアタックに負けるのだ。
『今だけでいい――』
 おそらく、これまでの人生最大の勝負。
 己のすべてを賭けて、彼女はエンジンにエネルギーを叩き込む。
『今、この瞬間だけでいいから――』
 流れる景色。
 目がくらむスピードと言う名の魔物。
 鼓膜を乱暴に打ち続けるエンジン音。
 泣き叫ぶサイレン。
 全てが渾然一体となって、非日常の領域を作り出す。
『――奇跡を、起こしてみせる!』
 それが、彼女の領域。
 遥かアメリカの地に、彼女の領域が広がっていく。


     ※


「前方の赤いコルベット! 止まりなさい! …くそっ、ナメやがって…」
 クイーンズを駆けていく1台のパトカーの中、ジョン・スペンサーは助手席から前方を眺めながら、忌々しそうに舌打ちした。先ほどから法定速度など知らんとでも言うように疾走するコルベットに再三警告を出しているにも関わらず、その全てを無視されて、いいかげん怒り心頭に達しているのだ。
「もうクリスマスだってのに…。どんな奴か知らないけど、いい加減にしてほしいよ、まったく」
「どこにでもああいう手合いはいるさ…。ぼやいてないで、仕事に集中しろ、ジョン」
 運転席でステアリングを握っている、こちらは年配の警官が、たしなめるようにジョンにそう言う。フレデリック・ライトという名の、そろそろ中年もいいところの黒人警官だった。
「判ってますよ…。でも、そうは言ってもぼやきたくもなりますよ。なんなんですかね、頭おかしいんじゃないですか、あれ」
「いや…そうでもないな」
「え? なんでですか?」
「確かにかなりのスピード違反だが…、100マイルを超える様子はないようだ。コルベットを本気で踏み込んだら、こんな程度のスピードじゃ落ちつかんだろう」
「そりゃあ、まあ…」
「あれで、理性的なのかも知れないぜ? まあ、しょっぴいてみれば判ることだが」
「あ、それなら、俺は『頭おかしい』に晩メシ賭けますよ。うまいピザを食わせる店が…いてっ!」
 フレデリックの大きなげんこつがジョンの頭に落ちる。
「バカ言ってないで、警告続けろ。ピザならオフの日に吐くほど食わせてやる」
 ぶつぶつと文句を言いつつも、ジョンは再びマイクのスイッチをオンにして、コルベットに警告メッセージを送り出す。
 その台詞を聞きながら、フレデリックはふと、『わざとスピードを上げてないのかもな…』と、そんなことを思った。


     ※


 夜の帳の降りたクイーンズ。街路灯が照らす道を疾走する赤いコルベットの姿は、ある種の幻想的な雰囲気を持ちあわせて、見る者の目に焼き付く。
 空港まであと少し。再三のパトカーの警告を無視し続けながら走ってきたおかげで、残り時間あと15分を残して、どうやらイーサンの出発に間に合いそうだった。
「すごい…本当に、間に合いそうじゃない…」
 サラが、心底驚いたようにそう言う。無理もない。ほぼ絶望的と思われた状況から、ここまでたどり着いたのだ。
 ささらの信念が生み出した奇跡に、サラは素直に感嘆した。
 だが、一方のささら本人は、ひとつの問題に頭を悩ませていた。
『どうしよう…』
 盲点――、そう言うしかない。
 確かに、"たどり着くまで"はどうやら成功しそうだった。
 しかし、その先のことを考えていなかったのだ。
 すなわち、空港に到着した後、"警察に捕まらずにゲートまで行く"手段だ。
 これをまったく考えていなかった。とにかく時間までに空港にたどり着くことだけを考えていて、そこまで思考が及ばなかったのだ。
 いくら時間内にたどり着いたところで、その瞬間警察に捕まってしまったのでは話にならない。
 彼女は自分の浅はかさを呪いたくなった。
 しかし、そうは言ってもすでに賽は振られた後だ。いまさら立ち止まることも引き返すこともできないし、そんなことをしても意味がない。
 とにかく空港目指して走り続けるしかない。それしかないのだが、しかし――
『ここまで、なの――?』
 この一週間、初めて弱気になった。
 こんなところでとは思うのだが、妙案など思いつかない。
 どうしようどうしようと、ただ意味もない思考が渦巻くばかりで、体系だった思考が一向に浮かばない。
 このままでは、ゲームオーバーを待つばかり。チェッカーフラッグを目の前にして、強制リタイアのラスト。
 次第に、ささらの視界が狭まっていく。
 暗くなる景色。
 脳を直接圧迫されるような感覚。
 息苦しさは頂点に達し、窒息で失神しそうな気さえする。
『あと少し、なのに……!』
 痛いほど、唇を噛む。

 その瞬間――

「きゃああああっ!?」
 パトカーを従えたまま、ひとつの交差点に入ろうとした時だった。
 他の車が脇に避けてやり過ごそうとする中――、交差車線から一台のSUV車が飛び込んできたのだ。チェロキーだった。
 この時ささらから見た信号は青。完全に相手の信号無視だったために余計に気付くのが遅れた。
 チェロキーまで目と鼻の先。ブレーキは間に合わない。
 だが――


 まるで運命の女神が微笑んだかのように――


   ギャォオオアアアッッッ!!!


 それは一瞬のことだった。
 思わずステアを左に切ったのだ。
 それだけなら、ただ中央分離帯に乗り上げて、無惨な状況を呈していただけだっただろう。
 だが、そうはならなかった。
 左へ切った一瞬、中央分離帯のガードが目に入ったささらは、ぶつかるまいとして慌ててブレーキを踏んだのだ。それも、かなり強く。つんのめるように停止しようとするコルベット、しかし、ブレーキングの衝撃にかえってパニックになった彼女は、思わずブレーキから足を離してしまう。そして、迫り来る中央分離帯から目をそらすかのように、勢いよくステアを右に切ったのだ。
 フロントタイヤに加重が乗った状態でステアを切ればどうなるか。当然、グリップを失ったリアタイヤは横に飛んでいく。つまり、テールスライドの状態になる。
 ますますパニックになったささらは、今度は左にステアを切って、右を向いた車体を立て直そうとする。だがこの時、あまりに緊張してしまったせいで、右に切った時ほどにはステアを切れず、何とも半端な位置で操舵角を固定してしまう。その上、再度ブレーキを踏み込もうと、右足に力を込めた先はブレーキではなくアクセル。こちらは思い切り踏んでしまったために、急激なパワーがリアタイヤに伝えられ、ますます勢いよくホイールスピンする。
 だが、図らずもこの瞬間、全ての要素が揃ったのだ。
 ブレーキングからのテールスライド、そして即座のカウンターステアとアクセルオン。
 すなわち、ブレーキングドリフトのテクニックが――

「あっ……ぐぅっ…………!!!」

 交差点でとぎれる中央分離帯。その先端とチェロキーの間に空いた間隙を、甲高いスキール音を辺りに響かせながら、コルベットが通過する。
 まさに間一髪――
 他にラインなど何一つないというその僅かな隙を縫って、ささらのコルベットは見事に交差点を脱出した。
 そして、良い加減に減速のかかったコルベットは、交差点脱出後にすぐにグリップが復活し、まるで何事もなかったように、道路に復帰する。逆に、追いかけてきていたパトカーは、驚いて停止したらしいチェロキーにラインを塞がれたのだろう、どうやら交差点の直前で停止したようだ。

 奇跡――そうとしか言いようがない。

 そうでなければ、無免許の少女がコルベットでドリフトなどと言う曲芸をこなせるはずがない。
 だが、それが奇跡でも偶然でも神の戯れでも、とにかく、これでしばらくは時間が稼げた。何分というわけにはいかないが、それでも、空港の前に車を止め、ゲートまでたどり着けるくらいには。
「さ、ささら、あなた…、ドリフトなんていつ覚えたの…?」
 恐怖などすっかり通り越して、もはや唖然とするしかなくなっていたらしいサラが、かろうじてそれだけ口にする。
 当のささらの方はと言えば、すでに涙目も良いところで、がくがくと全身を襲う震えを必死に我慢しているばかりで、サラの言葉など何一つ聞いていない。
 それでも、空港まであと少し。
 生涯最大のギャンブルに、確かに彼女は勝ったのだった。


     ※


 クイーンズはジャマイカ湾を望みながら、日に何本ものエアラインが行き交うジョン・F・ケネディ国際空港。ラガーディア、ニューアーク・リバティと共に、ニューヨーク3空港として数えられ、主に国際線の拠点として混雑する、アメリカを代表する空港のひとつである。
 すでに陽は暮れているものの、まだまだ利用客の足並みが途絶えることはないようで、がやがやと多数の人たちが、それぞれにフライトの用意をしたり、別れを惜しんだり、まだ見ぬ地への希望を膨らませたりと、ドラマを繰り広げていた。
「イーサン、そろそろゲートをくぐろうか」
「…そうだね」
 父親に促されて、イーサンはベンチからのろのろと立ち上がった。
 数時間前に届いた、久寿川ささらからのメール。ひょっとしたらと思って、空港到着後からずっとこの場所で待っていたのだが、どうやら期待は叶わなかったようだった。
 あれからサラにも何通かメールを送っては見たが、やはりなしのつぶて。結局、あの打ち明けた日から二週間の間、会話のひとつもすることはなかった。
 自分の選択はこれで良かったのだろうかと、あれほど確信していた道への自信すら、いまはもうない。ただ、目の前にできた道を漠然と進んでいるだけ。そんな気分だった。
「サラ…」
 たった一言、愛しい人の名を呟く。
 もう、誰にも届かない、そのラブコール。
 誰にも届かない――はずだった。

「イーサン!」

 響く声。よく知っている声。
 振り返ると――
 金色の少女が、駆けてきていた。

「サ…、サラ…!」

 知らず、足が動いていた。
 頭の中は真っ白で、なにも考えることはできなかったけれど、
 内なる力に導かれて、彼は恋い焦がれた少女の元へと走っていく。

「イーサン!」
「サラ! 来てくれたんだね!」

 そして、2つの点は1つになる。
 お互いがお互いに飛び込むように抱き合い、もう離さないぞとでも言うように、強く強く抱きしめあった。
「イーサン、ごめん…ごめんなさい…。私、あなたに酷いことばかり…」
「サラ、良いんだ。僕が無神経だった。サラは悪くない。僕の方こそごめん」
「イーサン…愛してる…」
「サラ…」
「愛してる…、たとえ、どこに行ったって…、宇宙の果てまで行っちゃっても、私はあなたを愛してる。ずっと待ってるから…」
「ああ、僕だって…。絶対、帰ってくる。休暇の時には、必ず。他にどんな用事があったって、真っ先にサラに会いに来るよ」
「うん…うん……ずっと、待ってる……」
「サラ…」

 その温もりは、お互いがお互いへと贈ったクリスマスプレゼント。
 他のどんな温もりよりも愛しい、二人だけのクリスマスプレゼントだった。


 そして、彼女たちを少し離れた場所で、ささらもまた、その温もりを少しだけ感じるような、そんな気がしていた。
「サラ…イーサン君…よかったね……」
 抱きしめ合う二人を見ながら、ささらはようやくほっと一息ついた。
 思えばこの2週間というもの、気の休まる時がなかった。だが、それもこれも、みなこの瞬間のために積み重ねられたものだったのだと思えば、不思議とすべてが良いことだったようにも思える。
 そして何より、自分の選択や決断が、間違ってはいなかったのだと――
 少しだけ、自分のことを褒めてあげたくなった。
『貴明さん…まーりゃん先輩…。これで、良かったんですよね…』
 あの日、あの時、教えられたこと。自分にも、できただろうか。
 彼らがいたら――、自分を、褒めてくれただろうか。
 それは誰にも判らなかった。それでも、ささらは、別れを惜しむ二人を見ながら、温かい気持ちが広がっていくのを感じていた。

「ヘイ、ガール…」

 ふと、野太い男の人の声。
「あ…」
 振り返ると、制服を着た警官の姿だった。大柄の黒人警官。無骨そうな顔に威圧感があった。
 だが――
「あのコルベットを運転していたのは、私です」
 ささらは、臆せずにそう言った。
 そうしなければいけないと、信じた。
 自分の行いが間違いではないと信じるために、うそを言ってはいけないと、そう思ったからだ。
「…………」
「どんな罰も覚悟しています。一緒に乗っていた人は、私が脅して無理矢理乗せていただけです。私が、犯人です」
「……ひとつ、聞いて良いかい?」
「…え?」
「いや、見ての通り気の利かない男でね…。よく判らないのさ。あそこにいる二人…」
 そう言って、警官はサラとイーサンを指さす。
「あれは…恋が実った瞬間かい?」
「……いいえ、違います」
「そうなのかい?」
「あれは…恋が永遠になった、その瞬間です」

 永遠など、この世に存在しないかもしれない。
 でも、永遠を思うことは、決して不可能ではない。
 それが、人の可能性。
 誰かが誰かを想う心。
 人から人へと語り継がれる温かな優しさ。
 それこそ、永遠と呼ぶにふさわしい。

「そうか…」
 一言、そう言い残して、警官はきびすを返す。
「たまには…妻に指輪の1つでも買ってやるかな」
「え? あ、あの…」
「ん?」
「わ、私を、その、捕まえないんですか? だって、私…」
 思わず、警官に問う。あれほどのことをしでかした自分を放っておいて、行ってしまおうとすることが理解できなかったのだ。
「…………」
「どうして…」
「ガール。君は、日本人かい?」
「え? は、はい…」
「そうか…、それなら、知らなくても仕方ないな…」
「え?」
 警官が、ゆっくりと振り向く。その顔には微笑み。

「アメリカにはね、サンタクロースを捕まえるための法律なんて、存在しないのさ」

 そう言って、警官はひとつだけ、不器用なウィンクをした。
 赤いコートにメーテル帽子、白いマフラー。それがささらの服装。
 サンタクロースに見えるのかもしれない。
 その不器用なウィンクは、しかし――
 ささらがこれまでに見た中で、もっとも素敵なウィンクだった。


     ※


 粉雪が空から 優しく降りてくる
 手のひらで受け止めた 雪が切ない
 どこかで見てますか あなたは立ち止まり
 思い出していますか 空を見上げながら

 嬉しそうに雪の上を歩くあなたが
 私には本当に いとおしく見えた

 今でも覚えている あの日見た雪の白さ
 初めて触れた唇の温もりも忘れない
 I still love you

      ――「POWDER SNOW」作詞:須谷尚子


     エピローグ


 空港の外に出ると、いつの間にか空から雪が舞い降りてきていた。夜の闇の向こうからダンスを踊りながら降る雪。その白に、空港をライトアップしたクリスマス・イルミネーションの明かりが跳ねて、ニューヨークの街を白く歌っている。
 あの後、飛び立つイーサンを二人で見送った。
 サラの表情に、もういっぺんの迷いはなく、ただ、愛しい人を想いながら微笑んでいた。

   『またね、イーサン…。元気でね』

 それが、惜別の言葉。そして、いつか再び会うことを誓った、約束の言葉。
 カリフォルニアへと向かう飛行機に、1つだけ涙をこぼしながら、クリスマスの恋人は空の彼方へと想いを馳せる。
「ささら」
「なあに?」
 呼ぶ声に、サラの方を向く。友人は淡く微笑みながら、ささらをじっと見つめていた。
「ありがとう…。あなたのおかげで、イーサンと仲直りできたわ」
「そんなこと…。いいのよ、友達のためだもの」
「ううん。そんなことない。そんな風に親身になってくれたの、あなたが初めてよ。それとも、日本人ってみんなそうなの?」
「そうね…」
 郷里に残してきた友人たちを思い出しながら、ささらは語る。
「私が尊敬する先輩に…、言われたことがあるの」
「何を?」
「大嫌いだった、って」
「え…?」
 あの2度目の卒業式。まーりゃん先輩に言われた言葉だった。
「いつもつまらなそうな顔してた私が大嫌いだった、って。だから…だから、私を笑わせてやろう、って。嬉しがらせてやろう、って。そうすれば私のつまらなそうな顔が笑顔になるから。あの人が嫌いな私がいなくなるかもしれないから、って」
「そうなの…」
「だから、私もあなたが嫌いだったのよ。悲しそうな顔してるサラなんて、大っ嫌い。だから…ね?」
「うん…うん……!」
 ささらの言葉を聞いて、サラの目に再び涙の雫が灯る。
「素敵な人なのね…その人も…」
「ええ、私なんかより、ずっとずっと素敵な人よ。他にもたくさん…日本には、私の大事な友達がたくさんいる。いつか、サラにも会わせてあげたい。きっと、仲良くなれるわ」
「うん、期待してる…。ささらの友達なら、きっといい人たちね」
 そう言いながら、舞う雪の中を二人笑い会う。
 だが、その時ふと、サラが怪訝な表情をした。
「? あれ、そういえば…」
「どうしたの?」
「ささら、確か…クリスマスに、恋人が来るって…」
「え…?」
 一瞬、何を言われたのか判らなかった。
 だが、徐々にその言葉の意味が浸透してくるにつれ、ささらの顔が蒼白になる。
「あ………!!」
 今日は、クリスマス・イブ。
 まさに、約束の日ではないか。
「く、クリスマス…クリスマス・イブ…」
 いや、どちらだろう。貴明が来るのはクリスマス当日か、それともイブなのか。
 もし、イブの日だったら――
「そ、そういえば、お母さんが、確か…」
 今になって思い出す。一週間前、憔悴して帰ってきたささらに、母親が確か何かを見せていた。それは、封筒ではなかったか。エアメールの封筒。
 そして、かすかに覚えている母親の言葉。

    『あなたの大切な人たちから――』

 泣きたくなった。
 そうだ、きっとそうに違いない。あのエアメールは間違いなく、貴明たちからの手紙だ。
 たぶん、クリスマスの約束も書いてあったのに違いない。
 もしも、クリスマスイブの待ち合わせだったら、貴明は今まさに自分を待っているかもしれない。
「ど、どうしよう…どうしよう……」
「さ、ささら、落ち着いて! 何とか連絡は取れないの!?」
「れ、連絡…そうだ、貴明さんに電話…。ああ、だめ、確か貴明さんの携帯は海外で使えない…。お、お母さんに手紙の内容を確認してもらおう…。もう帰っているかしら…」
 急いで携帯電話を取り出して、彼女は家に電話をかけようとボタンを操作する。
 しかし、しもやけのできた指先の感覚が鈍く、あれこれ押そうとして手を滑らせ、携帯電話を落としてしまう。何とももどかしい。
「ああっ、もう…」
 慌てて、落ちた携帯電話を拾おうとしゃがみ込む。
 その時――

「ヘイ、ガール…」

 しゃがんだ先にふと、赤いブーツが目に入った。
 通行人の邪魔になっただろうかと、ふと目を上げる。
 そこには、おかしな人がいた。
「さ…サンタさん…?」
 赤い毛皮のブーツに、白いファーの縁取りをあしらった赤い上着。赤いズボン。もじゃもじゃのひげを湛えて赤いとんがり帽子をかぶり、大きな白い袋を抱えていた。
 どこからどう見てもサンタクロース。何かのキャンペーンかもしれないが、マンハッタンならともかく、こんな空港の周りで何をやっているのだろう。観光客にプレゼントでも配っているのだろうか。
「メリークリスマス」
 唖然とするささらに、おかしなサンタが声をかける。そして、袋の中から化粧紙に包まれた小さな箱を取り出して、ささらに差し出す。どうやらクリスマスプレゼントのようだった。
「あ、あの、すいません、私急いでて…」
 携帯電話を拾い上げながら、ささらは差し出されたプレゼントを断る。そんな場合ではないのだ。一刻も早く連絡を取らなければ、貴明に嫌われてしまうかもしれない。
 だが、サンタクロースはなおもプレゼントの箱をささらの方に差し出して、受け取るように勧めてくる。電話よりよほどこっちの方が大事だとでも言いたげに。多少、不気味だった。
「と、とりあえず受け取っておけば? なんだか、受け取らないと立ち去らないみたい」
「え、ええ…」
 あまり気は進まなかったが、拒否し続けていてもサンタクロースの仕事に差し支えるのかもしれない。受け取るくらいなら一瞬だからいいかと、ささらは差し出されたそれに手を伸ばした。
 ――と
「あっ…」
 手が滑ったのか何なのか、受け取り損ねて箱を落としてしまった。
「ごめんなさい」
 自分の不注意かも知れなかったので、謝りながらささらは再度しゃがみ込んで、箱を拾い上げる。
 その時、一枚のカードが箱の影からこぼれ落ちた。くっついていたらしい。
「クリスマスカード?」
 何気なく、メッセージの書かれている面を読む。そこには、信じられないことが書いてあった。
「え…?」
 はっとして、ささらはサンタクロースを見る。
 にこやかに笑うサンタクロースの目。ひげは湛えているが、かいま見える肌は、若々しくてしわもない。
「あ……あなたは……」
「Please open a present…」
「え? あ、はい…」

 メッセージカードに書かれていた言葉。
 たった一言。
 『永遠の愛を込めて』
 日本語で、そう書いてあった。

 ささらは急いで箱のリボンを解き、包装紙を開いて中の箱を取り出す。
 手のひらサイズの箱。上部の蓋の部分に、TIFFANY & Coと書いてあった。

「あ…ああ…これ………」

 蓋を開けると、そこには、一輪の銀の花。
 エンゲージリングが――

 サンタクロースはゆっくりと、ひげに手をかける。

「や…や…っぱり……あなたは……」

 ささらは、確信を持って、雪のニューヨークに現れたサンタクロースを見る。
 ひげは端からはがれていき、そこには――

「メリークリスマス、ささら…。会いに来たよ、約束通りね」

 忘れることのできない大切な人。
 この世界で最も大切な、ささらの恋人。
 あの夏の日、再会を誓った愛しい人。

「ささら、もしかしてこの人が…あなたのサンタさんなの…?」
 直感的に悟ったのだろう。サラがそっと耳元でささやく。

 それが、限界だった。

「貴明さあああああん!」

 何かにはじかれるように、ささらは貴明の胸へと飛び込む。
 そして、両腕でしっかりと抱きしめて、わんわんと子供のように泣き出した。
「会いたかった!会いたかった…! 会いたかったああああ!」
「ささら、待たせてごめん…俺も…ささらに、ずっと会いたかった…!」
 泣きじゃくるささらに当てられたのか、サンタクロース――河野貴明の目にも涙が溢れる。お互いがお互いに温もりを送り込むように、二人は力強く抱きしめあった。

 それは雪の日の夢。
 クリスマスという名の天使が紡いだ愛の夢。
 終わりのない幸せを歌う、雪の夜のサンタクロースたちが見る夢。

 舞い散る雪が夜の街に降り注ぐ。
 白い粉雪はどこまでも清く、恋人たちを祝福していた。

「でも…でも、どうして、こんな格好…?」
「ああ、これかい? まあ、手紙にも書いたけど、まーりゃん先輩とタマ姉がうるさくてさ…。再会はドラマチックじゃなきゃ意味がないって、参ったよ。これを考えるのに、まるまる3日間もかかってさ。人ごとだと思って、無理難題ばっかりだよ、ホントに」
「あ、ごめんなさい…。いろいろあって、手紙、読んでないの…」
「え? そうなの? ああ、それで…空港から出て行っちゃったのか。知らない間に嫌われてたらどうしようって、焦ったよ」
「そんな! あなたを嫌いになるはずなんてないわ。ごめんなさい、私、自分のことばかりで…」
 しゅんとして、ささらは下を向く。自分の不注意で、貴明にいらぬ心配をさせてしまった。もしかしてずっと自分を待っていたのかもしれないと思うと、穴に入りたいような気分になる。
「身体、冷えてないかしら。いつから待っていたの? 風邪を引いてしまうわ」
「大丈夫さ。18時ちょっと前の便で来たばかりだから。それに、この格好けっこう暖かいんだよ、毛皮だし」
「そう? それなら良いけれど…」
「それより、気をつけた方がいいよ? 俺よりも、ずっと危険な人が潜んでるから」
「え?」
「そのとおおおおおおりっ!」
「きゃあっ!?」
 夜の街に轟く叫び声一閃。突然背後から何かに飛びつかれたかと思うと――
「ちょ、ちょっと、いや、いやあああ!?」
「おおーっ! さーりゃん、ちょっと大きくなったか!? この、このお!」
 背中から手を回して、思い切りよく胸をつかまれた。
 慌ててふりほどいてそちらを向くと、そこには思いもかけない人の姿。
「ま、まーりゃん先輩!」
 小柄な身体に、桃色の長い髪。いまどきイヤーマッフルなど装着して、満面に浮かべた笑顔から元気をいっぱいに放出させて仁王立ちしている女の子。忘れるはずもない、まーりゃん先輩だった。やたら厚着をしているらしくころころと膨らんで、なんだか雪だるまのようである。
「ハロー! さーりゃん! 元気にしてたか、っつーか、読めよ手紙!」
「え?あ、ごめんなさい…。あ、いえ、それより、どうして…」
「なんだよなんだよ、再会の言葉がそれかよ。ちぇーっ、タカりゃんの時は泣きながら飛び込んでったくせに、あちしを見るなり"どうして"だもんなぁ」
「あ、そ、それは…その…驚いて…」
「ま、いいや。元気なようでなによりだもん。ちゃんと、こっちでも友達できたんだね」
 そう言って、まーりゃん先輩がサラを見る。そして、「おっす! まーりゃん先輩だぞ! よろしくな!」と挨拶した。日本語で。
 サラも、先ほどささらから聞いた「まーりゃん」と言うフレーズを覚えていたらしく、たぶん挨拶されたんだろうと当たりをつけたのだろう、少し笑って「よろしくね」と返した。こちらは英語で。
「それと…あちしだけじゃないよ」
「え?」
「へい、かもーん!」

 その言葉に、街路樹の影から出てくる人影3つ。

「あ、ああ…みんなも…」

「久寿川さん、久しぶり。…元気だった?」
「環さん…」
 たおやかに挨拶する長身の女性。向坂環だった。半年ぶりに見る彼女は、さらに美しさを増したようで、女性のささらから見てもいっそう魅力的になっていた。
 そして、環の隣からささらに飛び込んでくる小さな女の子。
「先輩!」
「このみちゃんも!」
「えへ〜。先輩の匂いだ…。会いたかったです」
「うん…私も…このみちゃんに会いたかったわ」
 ささらの胸に飛び込んで、こちらもしっかりと抱きしめてくる少女。貴明の幼なじみの柚原このみ。相変わらず、素直な彼女に変わりはないようだった。
「先輩、久しぶりッス。俺のこと、覚えてますか?」
「向坂君。忘れたことなんてないわ…」
 環の弟の向坂雄二だ。 前より少したくましくなったかもしれない。
「ていうか、まだ手紙読んでないのかー。くーっ、俺のラブ・メッセージ、早く読んでもらいたいぜ」
「ああ、あれなら私が握り潰しておいたけど」
 雄二の言葉に、しれっとして環が言う。
「はぁ!?」
「あんな破廉恥な手紙。見せられるわけないでしょ。検閲の結果、不備有りと判断されました」
「なっ、なんだそりゃ! 検閲ってなに、検閲って! 横暴だ、このアマ…あだだだだだ! ちょ、ちょっと待…割れる、割れる割れる割れる!」
 昔と同じように姉の環にアイアンクローを決められる雄二。
 懐かしい面々が、勢揃いだ。
「みんな…私に…会いに来てくれたの?」
 感極まって、ささらの言葉が震える。
「ええ、もちろんよ。タカ坊ばっかり良い思いしてちゃ、不公平だものね」
「私たちだって、先輩に会いたかったんだもん。ね、ユウ君も」
「ああ。たまには会ってないと、思い出話もできやしねえもんな」
 みな、口々に再会を喜ぶ。
 そんな面々を見ながら、まーりゃん先輩がそっと、ささらに寄り添う。
「そーいうこと、さーりゃん…。みんな、さーりゃんのことが大好きなのさ」
「まーりゃん先輩…」
「へへ、まあ、ね。あちしたちからの…クリスマスプレゼント。安物かもしんないけど、さ」
「そんなこと…ない…」

 温かな心が、胸に広がる。
 
 生きることはつらいことの連続だ。
 誰もがその呪縛から逃れられない。
 僅かな喜びでは割に合わぬほど、
 時には歩き続けることを諦めてしまうほど、
 生きることは、それほどにつらく、苦しい。
 その意味は曖昧で、
 明確な答えを持つものなど存在せず、
 ただ、連綿と積み重ねられていくだけ。
 それが生きると言うこと。
 でも、その中で――
 闇に灯る蝋燭の明かりのように小さいけれど、
 幸せな瞬間は、確かにある。

 それこそが、生きることの喜び。

「こんな…こんな素敵なプレゼント…初めて、です…」

 願わくば――
 今この瞬間だけは、世界中が幸せであれ
 たとえ叶わぬ夢だとしても――
 今、この瞬間だけは、世界中が喜びに溢れれば良いと思う。

 12月のニューヨーク。
 白い雪が夜空を舞う夜。
 吹き抜ける風はとても冷たかったけれど
 その雪はとても温かく、少女たちの心を照らし続ける。

「ささら、指、貸して…。左手の、薬指だよ」
「あっ…」

 神が祝福する聖なる夜。
 そっと、銀の花がきらめいて
 ささらの指に、約束が交わされる。
 それは、きっと、永遠。
 人が人を想う、かけがえのない永遠。

「貴明さん…。愛してる…」
「ああ、俺も…。ささらのこと、愛してる」

 見上げた空は、見渡す限り白。
 まるでこの世を清い光で満たそうとするかのように、
 それはいつまでも、静かにこの世界に舞い踊っていた。


 ――――――――――終わり




スペシャルサンクス

創作に当たり、アメリカの生活などについて、Sohma様より多数のご助言を頂きました。
この場を借りて感謝の言葉を贈ります。ありがとうございました。
Base template by WEB MAGIC.   Copyright(c)2007 Walkway of the Clover All rights reserved.


inserted by FC2 system