はるかなるいただき
第四話
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     4



 おっぱいは一日三回までって言ったでしょ?
      ――――シノブ「ニニンがシノブ伝」



     ※



「いいの? 出すよ? 中に出すよ?」
「大丈夫、出して……いっぱい、出してください」
 その言葉にひとつ頷いて、彼はどろりとした白い液体を、絞り出すように中へと放っていく。
「あ、出てる出てる……。こんなにたくさん……」
「もっと……もっと出して……?」
 ぎゅっと手に力がこもる。汗ばんだ手の平は夏の空気のせいだろうか。それとも、目の前の少女の香りにあてられているのだろうか。ツン、と独特の匂いもまた、それを後押ししているかも知れない。
「あ、あ、待って、待って。溢れちゃう……。ダメ、こぼれちゃう」
「大丈夫、これで……全部、だから」
 慌てたような少女の声に、しかし彼は落ち着いた声音でそう返す。端から白い粘液が溢れていまにもこぼれ落ちそうになっているが、ギリギリのところで、最後の一滴まで出し尽くすことができた。
「終わった……の……?」
「うん」
 おそるおそるといったように、少女が上目遣いで見つめてくる。その声にひとつ頷き、彼は少し汚れた"それ"を"そこ"から引き抜いた。先が僅かに粘液で汚れて、地の赤を白く染めていた。
「全部、出た。……こぼれてないよね」
「うん。大丈夫みたい。ちゃんと中に全部入ってる」
「そうか。良かった」
「ありがとう。手伝ってもらってごめんね――河野くん」
「ああ、いいっていいって――小牧のためならね。このくらい。それより、こんなにたくさんの木工ボンド、何に使うの?」
 そう言って河野貴明は、机の上にいくつも並べられた黄色い容器を見渡す。今しがた作業していた最後のひとつを除き、すでに赤いフタがかぶせられて見えないが、いずれも中には木工ボンドがしこたま入っているはずだ。足元には、先ほどから何本も空にした木工ボンドのチューブが、段ボールに転がっている。
 そして、その最後のひとつに赤いふたをかぶせながら、小牧愛佳は貴明の問いに「演劇部の大道具の子たちがね」と切り出した。
「夏休みに予定されてる、市内の学生演劇フェスティバルに使う書き割りを作りたいんだって」
「書き割り?」
「うん。それで、木工ボンドがどこかに余ってないかって聞かれてね。技術工作の先生に聞いたら、しばらく使う予定のないボンドを譲ってくれて」
 そう言って、彼女は傍らの段ボール箱に、つと目を移す。そこには、既に空になった木工ボンドのチューブが何本も入っていた。
 この箱を抱えて教室に入ってきたクラスの委員長・小牧愛佳を目撃したのが10分ほど前。聞けば、今から木工ボンドを、チューブからフタの付いた丸いパック容器に移し替えるというので、手伝っていたのである。さしたる作業量ではなかったので少し差し出がましいかなとは思ったが、ドジっ娘でならした委員長に木工ボンドを扱わせるのもためらわれたのだ。
「へえ……。でも、それならそれで、チューブごと渡せば良かったんじゃ?」
「演劇のセットって、けっこう大がかりだから。使う度にチューブから絞ってると手が疲れちゃうかなって。こうやって容器に移しておけば、ヘラですくって使えるじゃない?」
「ああ、なるほど……」
 確かに、木工ボンドの細い口からひねり出せる量は限られているから、こっちの方が一度に大量に塗れることだろう。
 とはいえ、口ぶりからすると、また頼まれもしていないのに好意でやっているのだろう。今日はたまたま貴明が見かけたので手伝ってあげることができたが――それでも最初は『いいですいいです』と遠慮しっぱなしだったが――そうでなければひとりで1ダースの木工ボンドと格闘していたはずだ。そしておそらく、自分のスカートにでもボンドを落として涙目になっていたことだろう。
 相変わらずお人好しというか世話好きというか、面倒なことをすすんで引き受ける女の子である。まさかそんな風に渡してくれるとも思っていないだろう演劇部員たちの驚く顔が目に浮かぶようだ。
「じゃあ、今から演劇部?」
「うん。ホントにごめんね、手伝わせちゃって」
「いやいいってば、そんなの。それより、持ってくよそれ。重いだろ?」
「大丈夫ですよぉ、このくらい」
 そう言って、愛佳はころころと笑う。まあ確かに、詰め替えした木工ボンドの容器8個くらいなら、さして重くもないだろう。
「転ばない?」
「こ、転ばないですよ。もう、河野くん、あたしのことバカにして、る、るるる? あ、あ、ああーっ!」
「っと」
 間一髪。小牧が持ち上げようとしたボンドの山が崩れそうになったが、すんでの所で貴明が支えて事なきを得た。
「あ、ご、ごめんなさい」
「いいっていいって。じゃ、これはこっちにパスね」
 そう言って、貴明はなおもボンドを抱えようとする委員長から強引に容器をひったくった。
「あ、あ、あ、いいですいいです。そんな、悪いです」
「いいってば。それより演劇部の人たちが待ってるんじゃないの? 早く行こうよ」
「え、あ、はい。……ごめんね、手伝わせちゃって」
「どういたしまして」


 そうして、貴明たちは部室で書き割りの設計図を引いていた演劇部員の元へと木工ボンドを運んでいった。案の定、容器に移し替えられたボンドに目を丸くしていた部員たちだったが、丸くした以上に感謝してくれて、なかなかに気分が良くなる貴明たちである。ただこれだけのことでも、なるほど"情けは人のためならず"とはよく言ったものだ。
「ホントにごめんね河野くん。何か用事とか無かった?」
「大丈夫だって。じゃあ俺はそろそろ帰るから。……それとも、他にも何か作業が? なんならそっちも手伝うけど」
「ううん、今日はもうないから、私も文芸部に行こうかなって」
 そう言えば文芸部員だったなと思い出す。時折、クラス委員と図書委員の掛け持ちと錯覚しそうになるが、以前にそんなことを言っていたはずだった。
「そうか。じゃあ、ここで」
「うん。ばいばい」
 そう言って図書室へと向かう小牧を見送った後、さて帰るかなと貴明も昇降口に向かう。携帯電話の時計を見ると、既に16時45分を少し回ったところだった。
 いつもであれば珊瑚と瑠璃を迎えに視聴覚室に向かうところであるが、先ほど珊瑚から『今日は下着屋さんに寄るから』と連絡があったので、久しぶりに一人で帰ることになっている。もっとも、珊瑚からは『貴明も一緒に行こう』と誘われはしたのだが。
「さすがにランジェリーショップに俺が行くのはなぁ……」
 女性客の矢のような視線を想像して、思わず背筋が寒くなる。そんなところに男が行くなど、針のむしろに進んで座りに行くような物だ。
 しかも、珊瑚の言うことには環も一緒なのだという。同行したが最後、思う存分おもちゃにされまくること間違いなし。全力で遠慮させてもらった次第である。
「それにしても……」
 瑠璃の下着。思わず想像してしまうのは男の性。女性が苦手とはいえ、性欲はしっかりあるわけだから、ピンク妄想くらいはしてしまう。
「ちょっとだけついていっても良かったかな。なーんて……」
 可愛らしい下着に胸を包んで『似合う?』などと聞いてくる瑠璃を思い浮かべて、思わず鼻の下が伸びる。何となく、近ごろ悪友に感化されてきたのかも知れないなと思わず苦笑。きっと雄二なら「それでこそ健全」とでも言うのだろうが。
 そんなことを考えながら廊下を歩き、貴明は昇降口までたどり着き、シューズに履き替えて表に出た。校庭には野球部やサッカー部の練習風景が見える。既にアップは終わって、本格的な練習内容にシフトしているようだった。
 と、その時、
「あら、タカ坊」
 不意に横から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「え?」
 見ると、向坂環が昇降口の入り口辺りに立ってこちらを見ていた。傍らには姫百合珊瑚の姿もある。
「タマ姉、それに珊瑚ちゃんも。今から、えっと、下着、買いに行くの?」
「うん、そうなんだけど……」
 そう言うと、環は少しだけ困ったように、珊瑚と目配せをする。
「タカ坊、瑠璃ちゃん見なかった?」
「え?」
 思いがけないことを聞かれて、思わずぽかんとなる。
「瑠璃ちゃん? いや、見てないけど」
「そう……」
「来てないの?」
「ええ。もう約束の時間なんだけど、まだ来なくって。あの格好だから、むしろ早く行きたくて先に来ているくらいかと思ってたんだけど……」
「それにな」
 環に次いで、珊瑚も困惑した様子で口を開く。
「ケータイに電話かけても出ぇへんの。瑠璃ちゃん、そういうとこしっかりしてるから、いつもならすぐ出てくれるんやけどなぁ」
「そうなの?」
「うん。ウチなんかやと、鳴ってるのに気ぃつかへんこともあるけど、瑠璃ちゃんはそういうことないし」
「そ、そう……」
 着信音が鳴っているのに気づかないとはいかにも珊瑚らしい話だ。
 とはいえ、いま問題なのは瑠璃である。時間に正確かどうかは知らないが、珊瑚と連絡を取っていないというのは少し気になる。何を置いても、とにかく珊瑚最優先な彼女にしては奇妙な話だ。
「探しには?」
「いま2人でそう話していた所よ。でも、タカ坊が来たなら頼んじゃおうかしら。私たちはここで待ってるから」
「え? なんで?」
「何よ、いやなの?」
「いや、そうじゃないけど。どうせならみんなで探した方が良くない?」
「それだと、瑠璃ちゃんとすれ違いになっちゃうかも知れないでしょ。ほらほら、男の子なんだから早く行く。何かあったら私の携帯電話にかけてね。こっちも、瑠璃ちゃんが来たら連絡を入れるから」
「え?え?」
「じゃあ、頼んだわね。いってらっしゃい」
「え?え?え?」
「貴明、がんばってなー。瑠璃ちゃん見つけてなー」
「え?え?え?え?」
 あれよあれよという間に背中を押されて、下駄箱に押し戻されてしまう貴明である。なし崩し的に押し切られてしまった格好だ。振り返ると、環と珊瑚がにこやかにこちらに手を振っているのが見えた。
「……はぁ、まぁいいか」
 やれやれと首を振りつつ、貴明は再び上履きに履き替えて、校舎に上がる。
 文句を言っても始まらない。テキトーに使いっぱにされるのは今に始まったことではないし、それにどうせ家に帰っても暇なだけだ。このくらいならさして重労働というわけでもないし、環の機嫌を損ねるよりはマシだろう。
 と言うか、仮にもし彼女の機嫌を損ねるようなことがあれば、目をつり上げて折檻を始めるのは目に見えている。情けない話ではあるが、昔から彼女には頭が上がらない。こればかりは、何をどうしたって今後も変わらないと思う。
 加えて、それとは別に、帰る前にもう一度くらい大きくなった瑠璃の胸を見てみたい気もする。
 下世話な話だが、やはり貴明も男であるから、可愛い女の子のおっぱいには胸がときめくのだ。
 そう思えば、何となく足取りも軽くなって、貴明は廊下をすいすいと歩いていく。現金なことだ。
「まずは、視聴覚教室かな……」
 ひょっとしたら待ち合わせ場所を間違えて、いつもの部室に行っているのかも知れない。そう思い、貴明は渡り廊下を通って特別教室棟へと向かう。
 この学校は棟が4つあり、それぞれ2棟ずつ、生徒たちのクラスが並ぶ一般教室棟と、教科別教室や職員室、学食などがある特別教室棟に分かれていた。視聴覚室は、特別教室棟の3階である。
「それにしても……」
 ふと、貴明は瑠璃の胸のことを思い出す。
「よくあんなに大きくみ……なったもんだなぁ」
 実った、と言おうとして慌てて言い直す。そんな単語を口にした日にはまるきりスケベ親父のそれである。
 とはいえ、そうも言いたくなるほどの成長ぶり。昨日まで、向坂雄二の言葉を信じるならばBカップだった胸が、一夜にしてGカップになったのだから。いったいどんな魔法だってなモンである。
「魔法か……」
 と、そこで、この騒動の原因になった人物のことを思い出す。ミステリ研会長・笹森花梨のことだ。
「いったいどうやって作ったんだ?」
 そう、それがまず疑問だ。話によれば自然界にある物で作ったということだが、そんな作用を持つ物質などあるのだろうか。せいぜい思い浮かぶのは牛乳くらいだが、牛乳を飲んでいきなり胸が大きくなるのなら、この世の誰も貧乳で悩みはしない。
 だいたい、牛乳なら毎朝幼馴染みの柚原このみが大量に飲んでいるはずだ。そしてもちろん、彼女の胸は小さいままである。
 あるいは、何かのホルモンだろうか? 女性ホルモン男性ホルモン、牛のホルモンに環境ホルモンなど、種々雑多色々あるのだろうから胸を大きくするホルモンもあるのかも知れない。
 もっとも、ホルモンというのが具体的にどんなものなのか、基本的なこともよく知らないからホントにそうなのか判らない。それに、やはりそんなものがあれば、今ごろ世間の女性たちはみんなそのホルモンに手を出していることだろう。テレビのCMでも宣伝するだろうし。
 そう考えると、やはり"魔法"と言ってしまった方が納得できる気もする。ひょっとしたら、何かの極秘文献か何かを手に入れたのかもしれない。どこから仕入れているのか知らないが、それ系の情報だけはやたらたくさん持っている彼女のことだ。あり得る話ではある。
 だが、そうなると今度は別の疑問が頭に浮かぶ。
「でも……そうだとしたら、どうしてこんなのだけ成功したんだ?」
 貴明もいちおう――本当に"いちおう"であるが――ミステリ研の会員である。彼女の活動は何度か見ているから判るのだが、はっきり言って成功したことは一度もない。
 ただの一度も、ない。
 手製のUFO探知機は一向に反応しないし、スプーンは曲がらないし、空は飛べないし、ツチノコは見つからないし、校舎裏に財宝は眠っていなかったし、屋上に上がってベントラーと叫んでも宇宙人は来なかった。
 ある意味、失敗するために活動しているようなほど、成功したためしはまるでない。
 それなのに、よりにもよってこんな物が成功するとは、驚くのを通り越して何となく呆れてしまう。予想外にも程があるだろう。
「見つけたら、ちょっと詳しく聞いてみないとな……」
 そう思いながら、ひとつため息。
 思い返してみれば、ここ最近彼女のことを見かけない。部室に顔を出していなかったせいもあるが、いやに静かな日々であったことも確かだ。きっとその間にヘンな薬を作っていたのだろう。
 昼休みに瑠璃たちと集まった時に聞いた限りでも、今日は姿を見かけないと言うことだった。またぞろどこに行っているのか知らないが、まったく人騒がせな会長である。
 とはいえ、悩んでみても見つからないものは仕方がない。やれやれと首を振りながら、貴明は廊下を歩いていく。
 そうして渡り廊下からすぐの階段を上がり、3階のホールから左へ進む。近くに音楽室があるため、吹奏楽部の演奏が聞こえていた。確かレジェーの曲だっただろうか。聴いたことのあるメロディだったが、はっきりと思い出せない。
「視聴覚室は……」
 やがて、貴明は視聴覚教室の前まで到着し、扉を開けようと引き戸に手をかける。
 だが、予想に反して、扉はウンともスンとも言わない。
「あれ……? 鍵がかかってる」
 立て付けが悪い可能性も考慮して、何度かぐいぐいと引いてみたが動く気配はない。
「いないのかな」
 まさか中から鍵をかけているわけでもあるまい。
 それに、考えてみれば、視聴覚室の鍵を持っているのはいつも珊瑚だった。珊瑚が昇降口の外にいるのなら、瑠璃が中に入っているはずもないだろう。完全に読み違いである。
「どこかな……」
 ともかくいないのでは仕方ない、とりあえず瑠璃のクラスの教室にでも行ってみるかと考え、貴明は再び渡り廊下から棟を移る。瑠璃たち一年生の教室は棟の1階にあるから、そんなに遠くはない。廊下を曲がってしばらく行けば、すぐに見えてくるだろう。

 ――と、その時

 『いやあああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!』

「!」
 突然、遠くの方から絹を裂くような叫び声が聞こえてきた。どこかの部屋の中からなのか、校舎中に響き渡るというようなものではなかったが、少なくとも貴明の耳にははっきりとその声が聞こえてくる。おそらくは1年生の教室のどこか。そして、その声音は間違いなく――
「瑠璃ちゃん!?」
 紛れもなく、聞き慣れた姫百合瑠璃の声。直感するまでもなく、何か瑠璃にとって良くないことが起こっているのに違いなかった。
 慌てて曲がり角から廊下に飛び出して、瑠璃のクラス目指して全速力で走り出した。普段の廊下では絶対に出さないような速度域に達しながら、全力で床を蹴る。廊下には既に生徒の姿は他になく、遮るものは誰一人いない。
 あっという間にA組、B組、C組と次々に1年生のクラスを横切り、そしてすぐに彼は目的の教室の前までたどり着き、息を整えるのももどかしく、ガッと力一杯扉を開けた。
「瑠璃ちゃん!」

 そこには――

「!?」
 見知らぬ男が、驚いた様子でこちらを見ていた。
 でっぷりと太った体躯。メタルフレームの眼鏡の奥の小さな目。ぼさぼさの髪と、やたらきっちりと着込んだ制服。生徒ではあるのだろうが、一見して異様な雰囲気の男である。校章の色からすると一年生らしかった。
「な、な、な、なんだ、お、おまえ?」
 どもりながら、その男がこちらに何か非難のこもった声を投げてくる。
 しかし、その時には既に貴明の意識は別の所に移っていた。その男の前、黒板のある壁に寄りかかるように倒れている、お団子頭の特徴的な少女。涙に濡れて――
「瑠璃ちゃん!」
 もう一度、貴明は瑠璃の名を呼ぶ。すると、その少女――姫百合瑠璃は、がくがくと震える顔をこちらに向けて、少しだけ唇を動かした。声にはなっていなかったが、その口は『たかあき』と言ったように見えた。
 いや、それよりもむしろ、貴明の目をとらえたは瑠璃の頬だった。向かって右側――左の頬が、不自然に赤く染まっている。誰かに、殴られたように。
「な、なん、なんだよおまえ。じゃ、じゃま、じゃますんなよ、でてけ」
 なおも、どもりながらの声が貴明に投げかけられる。瑠璃の前にいるその男。せわしなく視線を右左に泳がせながら目を合わせようとせず、そのくせ非難の声だけはしっかりと貴明に投げているその男。
「何…やってんだ……」
 誰かの声。
 誰かの声が聞こえた。
 いや、違う。それは貴明の声だった。
 ただ、自分でも聞いたことがないほど――怒りに震えた声だった。

 瑠璃が、見知らぬ男に乱暴されている。
 頬を腫らして、涙を流して。
 その光景が――

「い、あ、う、うるさいな。いいだろべつに。なん、なんなんだよ、オマエ」

 既に、その声はよく聞こえない――
 ただ、次第に端――から赤くなっていくような視界――の中、
 男――の手が瑠璃に伸び――ているのが見――える。
 服の端を引―っ張っ――て、今に――もセーラー服の上――着―を脱が――せよ――うとしてい――――

「たかあき……」

 それだけ、やけに、はっきりと


    たすけて


 その瞬間

 すべての意識が、貴明の内側から消え失せた

「うおおおおああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 血液が逆流する。
 身体の節々の感覚が断続的に途切れる。
 視界が黒と赤のまだらに覆われる
 握った拳と
 床についた膝
 腹の辺りがぐうっと押さえつけられるような
 熱いようでいてひどく冷たい
 震えているようで、静止しているようで
 聴覚だけが敏感にすべての音を拾っていた。
 鈍い打撃音も、くぐもったうめき声も、かすかな泣き声も、
 ただ、音だけが支配する世界で








 気がつくと




 誰かが、背中から抱きしめて


 瑠璃の手が、貴明を抱きしめていて






 あの男は、もう自分の前にはおらず

 四つんばいで身体を引きずりながら
 ぼたぼたと血を流して
 やがて、教室から出て行った




 後には、瑠璃の泣き声と
 信じられないほど荒くなった自分の呼吸だけが残って

 貴明はその時初めて


 自分が、ずっと他人を殴っていたことに気がついた。



     ※



「落ち着いた……?」
 ひと気のない保健室のベッドの上。ぽつんと座った瑠璃に、貴明は声をかける。
「ん……」
 あの後、小さくうずくまって動かない瑠璃をおぶって、保健室まで運んできた。貴明自身も、おそらく子供の時以来何年ぶりかの喧嘩で、がくがくと身体の震えが止まらなかったが、必死に心を奮い立たせて平静を装った。
 そうして保健室のベッドに瑠璃を座らせて10分ほど。ぐすぐすとずっと泣いていた瑠璃だったが、ようやく少し落ち着いてきたのか、僅かに鼻をすする音が時折聞こえるだけになった。
「手……」
 つ、と顔を上げた瑠璃が、そう声を出す。
「え?」
「貴明の手……。血、出てる……」
「手?」
 言われ、手の甲を見ると、今まで気がつかなかったがいくつかの切り傷ができていた。おそらく、殴っている間に相手の歯か何かで切ったのだろう。傷口は既に塞がっているらしかったが、それまでに流れた血が筋を作っていた。
 それに、切り傷ではない何かの痛みがズキズキと間断なく痛みを伝えていた。もしかすると、骨が折れているのかも知れない。
 だが、貴明は努めて平気を装い、瑠璃に「このくらい、大丈夫だから」と言った。
「でも……」
「大丈夫だって。昔はけっこう悪ガキだったし、怪我は慣れてるさ……。このくらい、男の勲章だよ。それより……」
 棚の中から湿布を取り出しながら、貴明は瑠璃の頬をもう一度見る。まだ赤く腫れていて痛々しかった。
「ほっぺた、大丈夫? あいつに殴られたの?」
「…………」
「あ、ご、ごめん。言わなくていいから」
 自分の身体を抱きしめるように腕を回した瑠璃を見て、慌てて謝る。思い出させてしまったのかも知れない。自分の無神経さに腹が立って、貴明はちっと小さく舌打ちする。
 だが、瑠璃はそんな貴明を少しだけ見て、ぽつりと「平手で……」と呟いた。
「え?」
「平手……。グーやないから。そんなに、ひどくない」
「でも、腫れてるし……。いま湿布貼るから、ちょっと待って」
 そう言って、貴明はハサミで湿布を小さくカットしていく。だが、その間も――、いや、むしろ最初は呟くだけだった声音を次第に大きくしながら、瑠璃は話すのをやめない。
「机で寝てて……、起きたら、なんやあいつがおって……」
「瑠璃ちゃん、いいから」
「わけわからんこと言ってて……。気味悪ぅて、出て行こうとして、でも、あいつに捕まって」
「いいから。もういいから、瑠璃ちゃん」
「それで、いきなり抱き……抱きしめられて……。ウチ、嫌がったんよ? いやや、いややって。でも、はなしてくれへんね。逃げようとしたら、殴られて……。それで、ウチ、ウチが床に転がって。それで、また、なんか言ってて。いややって、言ったのに。でも、あいつが、手……、手が、伸びてきてな? だから、貴明、ウチが…。ややもん…、なんで? なんでウチ……」
「いいから!」
「っ!」
 思わず、大声を出してしまう。そうしないと、瑠璃が止まらないと思ったからだった。
 だが、ビクッとして小さくなってしまうのを見、また自分自身の無神経さに気づいて泣きたくなる。なぜ、もっと優しく止めてあげられないのかと、一瞬で後悔の念がわき起こる。
 それでも貴明は瑠璃の隣に座って、うつむいてしまった瑠璃の頭にそっと手を乗せた。
「いいから……。もう終わったから。瑠璃ちゃんをいじめる奴、もういないから」
「貴明……」
 そのまま、そっと頭をなでる。
 手の中のそれは、とても小さなものに思えた。
「大丈夫。大丈夫だから、ね?」
「うん……」
 しばらくそうして頭と髪をなで続ける。腫れた頬に早く湿布を貼ってあげた方が良いのかなとも思ったが、瑠璃が気持ちよさそうに目を細めていたので、そのまま続けていた。

 静かな時間が保健室に流れる。
 たぶん、今日いちばん静かな時間だった。
 遠くで聞こえる部活動の声と、どこかで響く気の早い蝉の声と、そして2人の小さな息づかいだけが彩る時間。
 夏の長い陽はまだ赤くはならないけれど、それでも少しだけ暗くなった保健室の中、貴明はずっと、瑠璃の隣に寄り添っていた。

「ウチ……」
 そうしてしばらくの後、ぽつりと瑠璃が呟いた。
「こんな胸、もう、いやや……」
「え?」
 思いがけず話が胸のことに及び、きょとんとして貴明は瑠璃から手を離した。だが、すぐに瑠璃は貴明の方を見て寂しそうな顔をする。
「もっと……」
「え?」
「もっと、いいこいいこして……?」
「あ、う、うん……」
 請われ、もう一度貴明は瑠璃の頭に手を置いた。そうすると、瑠璃の寂しそうな顔が少しだけほころんだ。
 きっと、この方が安心するのだろう。普段の瑠璃より、素直になっている感じがする。
「いやって、その……大きいのが?」
 またしばらくなで続けながら、貴明は先ほどの話の続きを促す。瑠璃が気にしていることを知りたかったからだ。
 その貴明の言葉に目を上げて、瑠璃が小さく話し出す。
「だって……。ヘンやも」
「ヘン?」
「こんなヘンな、胸」
「そんなことないよ。ヘンだなんて、どうして?」
 意外に思って、貴明は瑠璃の顔を見る。以前に瑠璃が向坂環の胸のことを羨ましがっていたことを知っているからだ。きっと大きくなって嬉しいのだろうと思っていたから、瑠璃の言葉はしごく意外だった。
 だが、瑠璃はゆるゆると首を振って、貴明の言葉を否定する。
「ヘンやんか。制服もきれいに着られへんし、動きにくいし、肩だって凝るよ」
 自分に巨乳ができたことがないから判らないが、確かに見た感じそのようではある。環などはそれなりに鍛えているから大丈夫なのかも知れないが、瑠璃にとってはいきなりそうなっているのだから、かなりつらいのだろう。制服もサイズが合っていないから窮屈そうだ。
「それに、みんなに変な目で見られるし。さっきだって」
 教室でのことを思い出したのだろう、瑠璃はまた身体を抱え込むように腕を回す。
「ウチの胸が大きなったからアカンのやって、言われて」
「なっ……」
 再び、貴明の頭に怒りの炎がつく。いったいあの男、瑠璃になんとひどいことを言ったのだろうか。同じ男として許し難い言動である。
「そんなの、あいつの言いがかりだよ。別に気にしなくても……」
 だが、瑠璃はその慰めにもまた首を振る。よほど気分が落ち込んでいるらしい、普段おてんばで気が強い分、こういう時は反動でかなり深いところまで暗くなるのかもしれない。
「ええんよ。判ってるもん……」
「判ってるって…何が……?」
「みんな、ホントは心ん中で笑ってるもん。あんなのヘンや、おかしいって。気持ち悪いって思ってる」
「そんなことないって!」
 驚いて、貴明は大きな声を出す。まさか、そんな風に思っているとは思わなかったのだ。しかし、瑠璃は止まることなく、卑下の言葉を語り続ける。
「思てるよ、みんな……。胸の大きい子、他にもいる。環姉ちゃんだって、すごく大きいやんか。でも、ウチみたいにみんなに珍しがられへん」
「いや、タマ姉は、ほら、最初からそうって言うか、背だって高いし」
「似合てるもん。環姉ちゃんは大きい方が似合てる。でも、ウチは背ぇもちっこいし、胸が大きくてもバランス悪いやんか」
「悪くないよ。すごく良いよ、瑠璃ちゃんが胸大きいの、俺は……」
「悪いよ。良くなんてない。ほんまは……貴明だって、そう思てるやろ?」
「思ってないよ!」
「思てるよ!」
 強い声。保健室に入ってきてからこっち、ずっと沈んだ声で小さく話していた瑠璃が、初めて声を荒げた。その声に驚いて、貴明の言葉が止まる。
「嘘やも! 貴明は優しいから、キツいこと言わへんだけやもん! ほんまは……ほんまはウチのこと、笑てるもん!」
「そんな……」
「はっきり言うてよ!気持ち悪いって! こんなん……こんなんおかしいって、ヘンやって言うてよ! ウチのおっぱい気持ち悪いって、そう言うてよ!」
 あまりの言葉に、貴明は絶句する。
 いったい、自分の胸のことを自分自身で気持ち悪いと評する気持ちとは、どんな物だろうか。目に涙をいっぱい浮かべて、自分のことを罵倒するような哀しい言葉ばかりを口にする気持ちとは、どんな物なのだろうか。
「違う……違うよ、俺は……」
「貴明だけやない……。イルファも、環姉ちゃんも、このみも……、さんちゃんも……。 ほんまは、みんな気持ち悪がってるもん。みんな優しいだけで……、ほんまは……」
「違うよ! みんなそんなこと思ってない! 思ってるわけないじゃないか!」
「思てるもん!」
 再び、瑠璃の大きな声。
 そして、一瞬の後、ぽつりと小さく呟く。
「誰より……ウチがそう思うもん」
「え……?」
「こんなん、いややも……。小さい方がええもん」
「小さい、方が……?」
「さんちゃんと、お揃いの……」
「あ……」
 珊瑚の胸。お世辞にも大きいとは言えない、小さな胸。普段の瑠璃よりも小さくて。
 しかし、それは瑠璃にとって、とても心地よいものだったのかもしれない。
「こんなん、いやや……。いやなんやもん……」
「瑠璃、ちゃん……」
「きっと、さんちゃん怒ってる……。ウチが、ヘンなもん飲んで、一人で大きなって……。きっと、怒ってる。もう、さんちゃんと顔あわせられへん……」
 次第に言葉はかすれ、声は薄れ、小さな保健室のどこかに消えていく。
 やがて紡ぐ言葉はなくなり、瑠璃はまた、小さな――本当に小さな肩を震わせて泣き始めた。
「ひっく………ぐすっ…うっ……ひっ………」
 その瑠璃の様子に、貴明は愕然とする。
 『何やってんだ……俺……』
 瑠璃が泣いているからではない。いや、もちろんそれもあるのだが、それより何より、瑠璃が思い悩んでいることに気づいてあげられなかったことが、悔しかった。
 もちろん、一年生と二年生で分かれているから、朝の一件から瑠璃と話をしていなかったのも一因だったかも知れない。しかし、それでも、一晩で自分の身体が思いがけなく変化してしまった瑠璃のことを、もっと考えてあげられたのではないか。短絡的に『大きくなって嬉しいのかも』などと考えず、もっともっと瑠璃の気持ちを理解してあげられたのではないか。
 それに何より、朝、偶然にも触ってしまった瑠璃の胸を思い出しながら鼻の下を伸ばしていたことが貴明の心を苛む。なんて愚かな自分だったのだろうかと。
 『こんなに、小さな身体で……』
 自分の隣で、しゃくり上げながら泣き続ける瑠璃。
 こんな華奢な身体で、いったい今、どれだけ心細い思いを抱えているのだろうか。
 たった一人、変わってしまった自分を抱きしめて、どれだけ不安な思いをしているのだろうか。
 なぜ、もっと早く気づいてあげられなかったのだろう。
 そうすれば、瑠璃を泣かせずに済んだかも知れないのに。
 『馬鹿っ……馬鹿、馬鹿馬鹿っ……、俺の……馬鹿野郎! 何やってんだよ、もう!』
 ぐるぐると、後悔の念ばかりが渦巻く。
 あの時――
 瑠璃とイルファと珊瑚が、お互いと、そして自分を傷つけて泣いたあの日。
 あの時、もうこの少女たちを泣かせないと、心に誓ったはずなのに。
 どんなことがあっても、自分が彼女たちを守ってあげようと、そう誓ったはずなのに。
 何一つ、守れていないではないか。
 現に今、瑠璃は泣いていて。
 自分ばかり、間抜けな顔をしておろおろして。
 最低の男だと――、心からそう思う。

 だから

「っ!」

  ガッ!

 だから、貴明は、思い切り自分の頬を殴った。
 傷ついた手で、それでも渾身の力を込めて、音がするほどに。
 それも一発だけではない、何度も、何度も、目がチカチカして星が飛んでもなお、貴明は自分の頬を殴り続ける。

   ガッ、ガッガッ!

「た、貴明っ!?」
 その音が聞こえたのだろう。瑠璃が顔を上げて、そして一目見て驚いて声を上げる。
「な、なにやってるん!? やめっ、やめて! 怪我するよぉ!」
 慌てて、瑠璃が貴明の腕を掴んだ。涙の跡もそのままに、必死で腕にしがみついて、貴明の行為を止めようと。
 そして、貴明は――

「え……?」

 ふわり、と。
 柔らかな羽を包み込むように
 その腕に、瑠璃の身体を抱きしめた。

「た……貴明……?」
「ごめん……」
「え?」
「ごめん……、ごめんね……。俺、瑠璃ちゃんが……そんな風に思ってるなんて、思わなくて……」
 腕の中にあるのは、この世で最も大切な人の一人。
 例え自分がどうなろうと守りたい、かけがえのない女の子。
 貴明は、一つ一つ噛みしめるように、自分に言い聞かせるように瑠璃に謝る。
「瑠璃ちゃんの気持ち、考えてなかった。本当はもっといっぱい考えてあげるべきだったのに、ぜんぜん無神経で……。ごめんね、本当に……ごめんね」
「え、ええんよ、そんなん。貴明は悪ないよ。ウチが、ヘンな薬なんか飲んでまったから……。だから、こんな、気持ち悪い……」
「俺は、そんなこと思ってない」
 また自分を傷つけようとする瑠璃を、今度はすかさず止める。もう、そんな言葉は聞きたくなかった。瑠璃には、もっと明るい言葉の方が似合う。
「え……?」
「瑠璃ちゃんの胸。可愛いと思う。大きくても、小さくても……。どっちも、俺は好きだな」
「そんなん……」
「嘘じゃない。嘘なんて言わない。朝見た時からずっと……、瑠璃ちゃんの胸、素敵だなって思ってる」
「貴明……」
「今だってそうだよ? ホントはずっと、瑠璃ちゃんの胸、触ってみたくて仕方ないんだ。珍しいからとかじゃない。瑠璃ちゃんが可愛いから……。すごく可愛いから、触りたいし、見てみたい」
 いつもなら、こんな言葉は恥ずかしくて言えなかったと思う。昔から、女の子は苦手だったから。きっとそう思っていても照れが先に立って、言葉にする前に自分の中に飲み込んでしまっていただろう。
 でも、今は。
 今だけは、いや、これからもずっと、そんな自分はいらない。大事な人の笑顔が見られるなら、そんな照れなんていくらでも捨ててしまえばいい。
「う、ウチが? 可愛い?」
「可愛いよ。可愛すぎて、震えてるくらいだよ。わかる?」
「……うん……貴明、震えてる……」
 そっと、貴明の背に瑠璃の腕が回る。その腕に、きっと貴明の身体の震えが伝わっているだろう。先ほどからずっと、緊張と、そして何かわからない気持ちに身体が震えっぱなしだった。
 でも、その震えは、決して不快なものではなかったけれど。
「他の人のことなんか知らない。どう思ってるかとか……そんなの興味ない。瑠璃ちゃんがどう思ってるのかも、俺は知らない。瑠璃ちゃんが自分を嫌いでも、俺は大好きだ」
「だい……すき……?」
「好きだよ。すごく大好き」
「ウチの、胸が……」
「違うよ、そうじゃない」
「え?」
「瑠璃ちゃんのことが、好きなんだ」
 あの時以来、2度目の告白。
 まだスマートには言えなかったかも知れないけれど
 偽りない、貴明の気持ちだった。
「た、たか、あき……」
 瑠璃が驚いたような瞳で貴明の目を見る。
 きっと瑠璃だって、こんなシチュエーションは慣れていないのだろう。腫れているせいではなく頬が真っ赤になって、紡ぐ言葉も見つからずに、ただずっとこちらの目を見ていた。いつもの澄んだ瞳で、ただずっと。
 『なんて……』
 それは深林の奥の泉の水
 あるいは、どこまでも続くあの青い空のような――
 『綺麗な目をしているんだろう……?』
 その瞳に、吸い寄せられるように

「瑠璃ちゃん……」
「あっ……」

 時が止まったのは
 たぶん、錯覚ではなかったと思う
 伝わる温もりはとても清らかで
 お互いの唇は、心と心を交わしながらそっと抱きしめあう

「……はふ……」
 やがて時は動き出す。
 そして、お互いがひとつずつ、ふ……と柔らかく息を吐き出した。ずっと息を止めていたのかも知れない。
「いやだった……?」
「そ、そんなこと、ない、けど」
「けど?」
「貴明、ズルい……」
「……うん。でも……。瑠璃ちゃんと、キスしたかったから」
 そう言って、貴明は瑠璃を抱く腕に力を込める。
 もっともっと、自分の"好き"が伝わるように。
 瑠璃が寂しい想いをしなくて済むように。
 陽の落ちかけた保健室のベッドの上で、愛しい人を抱きしめ続けた。
 時折、好き、好きと、声をかけながら、ずっと――


 ――どれくらい、そうしていただろう。
 腕の中の瑠璃が、少しもぞもぞと動いて、貴明を呼んだ。
「貴明……」
「うん?」
 そっと、瑠璃が腕から離れた。温もりは少し名残惜しかったけれど、拒絶されているわけではなさそうだったので、貴明は素直に瑠璃から手を離す。
「どうしたの?」
「ウチの……」
 じっと貴明を見つめている瑠璃。よりいっそう赤くなった顔で。
 そして一言、信じられないことを言った。
「ウチの胸……触って?」
「え……? ええ!?」
 さすがに驚いて、瑠璃の顔を見直す。
 瑠璃の口からそんな言葉が飛び出てくるとは夢にも思わなかった。
「なっ、なんで?」
「さっき、言うてた……。触りたいって」
「え。あ、ああ……」
 言われ、思い出してみれば確かに『触ってみたい』と口にした覚えがある。
 しかし、何も本当に、今この場で触れるとは思っていなかったし、仮にそう言うことがあったとしてももっと別の場所だと思っていた。例えば自分の部屋とか、あるいはそういう宿とか。
 ともかく、突然の言葉の弾丸に、思考が追いついていかない。しどろもどろになって、「いや、でもあれは……」と返してはみたが、その後の言葉が続かない。
「だから……」
 そんな貴明を置いて、瑠璃の言葉は止まることを知らずに続いていく。
「だから、ええよ。……ウチの胸、触って?」
「い、いいって、そんな」
「なんで……?」
「なんでって」
「触りたない?」
「そうじゃないよ。でも、なんていうか……、その、無理しなくていいから。だから、そんな」
「無理してへんよ? ウチ……、貴明に、触ってほしい」
「さ、さわ……って……?」
 思わず、ごくりとつばを飲み込む。その音は思いのほか大きくて慌てたが、しかし瑠璃はそんな貴明の様子に気づいていないのか、赤い顔をうつむかせたまま、つっと胸を前にさしだした。
「ん……」
「る、るり、ちゃん……」
 大きな胸。迫ってくるようなその胸に、圧倒されるような気持ち。
 そして、それ以上に魅惑の光景は貴明の心を誘蛾灯のように誘う。
 しかし、それでもまだ、決心がつかない。
 言葉で好き好きというのは言えるようになったものの、いきなり胸を差し出されて触って欲しいと言われてはいそうですかと触れるほど、男レベルは上がっていない。
 どうして良いものやら判断が付かず、少しだけ手を浮かせたままで固まってしまう。
 そんな貴明の前で、瑠璃はしばらく胸をつきだしたままじっとしていたが、不意に何かに思い至ったらしく、慌てて何やら口を開いた。
「あ、ま、まだ、ばっちくないよ?」
 これまた予想外の台詞。意味がわからず、思わず貴明は聞き返した。
「え? なんだって?」
「あ、あいつには……触らせてへんから。その前に、貴明が助けてくれたし。ウチ……ウチ、汚れてへんよ? ばっちくないよ?」
 言われて、先ほどのあの男のことを思い出す。なるほどそのことかと思ったが、しかし、もとよりそんなことを気にしているわけではない。もちろん、仮にそんなことがあったとしたら、あの男を地の果てまでも追いかけて、くびり殺してやっただろうが。
「汚れて、って……。そんなこと言っちゃダメだよ」
「じゃあ、なんで? ……そんなに、ウチのこと嫌なん?」
「嫌じゃないよ。そうじゃない、そういうんじゃなくて。そういうのは、えっと……」
 言葉に詰まる。
 いや、そもそもなぜだろう? 自分で自分がなぜ拒否しているのかよくわからない。
 さっき瑠璃に好きだと言った。まごうかたなき告白だった。
 瑠璃はそれについて、自分も好きだとか、良いよとか、そう言う返事は返さなかった。しかし、ごめんなさいとかお友達でいようとかお前なんか嫌いだとか、そう言うこともまた一切言っていない。キスには応じてくれたし、嫌だとも言わなかった。
 自然に考えれば、受け入れてくれている。
 相思相愛と言っても良いのでは無かろうか。
 それなら、別に、触ってもいいような気がする。
 いや、触るべきではなかろうか。何しろ、好きな子が触って欲しいと言っているのだから、ここで逃げたら男がすたる。レベルが云々とか、そんな問題ではない。
 とはいえ、差し出された胸はあまりにまぶしく、はたして本当に自分の手で触ってしまって良いものやら確証が持てない。
「やっぱり……」
 と、頭の中で悶々と煩悶している貴明の様子に、ぽつりと哀しそうな声を瑠璃が落とした。
「え?」
「やっぱり、ヘンなんやね……」
「ち、違うよ、そうじゃなくて」
「だって、貴明困ってるもん……」
 そう言って、ますます視線を落として、しまいには俯いてしまった。瞳を飾る睫毛が、寂しそうに揺れている。
 その様子に、再び『俺の馬鹿っ!』と己を叱咤する。こんな可愛い女の子が勇気を出してお願いしているというのに、自分が怖じ気づいてどうするのか。
 気力を奮い立たせて、貴明はようやく決心を付ける。
「いい…の……? 本当に……」
「な、なんべんも言わせんで? 恥ずかしいやん……」
 貴明の言葉に顔を上げて、瑠璃が少し顔をほころばす。
 恥ずかしげに笑ったその表情に、どきっとひとつ胸が高鳴った。なんて可愛いのだろうかと。
「じゃ、じゃあ……、さわる、よ?」
「うん」
 最後のお伺いも、こくんと頷きで返される。そしてもう一度、貴明が触りやすいようにだろうか、胸がそっと前に差し出された。
 その丘陵に、おそるおそる、手を伸ばす。
 自分の意思で女の子の胸を触るなど、もちろん、初めての行為。
 一瞬で喉が渇く。目の前の視界が狭まっていく。
 それでも、有限の距離はやがてゼロになり――

  ふにっ……

「んっ……」

 そっと触れた女の子は、とても柔らかくて

「うわ……」

  ふに……ふに……

「はぅ……、や、ん……」

 小さく力を込める手に呼応するように漏れる瑠璃の吐息も、貴明の心を白く染めていく。

「……すご」
 思わず言葉が口から溢れる。
 と、その声に反応したのか、瑠璃がそっと貴明に囁いた。
「ど、どう?」
「え?」
「ウチの……おかしない?」
 おそるおそる、というようなお伺い。見ると、不安そうな瞳で貴明をじっと見ていた。まだ、自分の胸に自信が持てないのだろうか。
 そんな瑠璃を勇気づけるように、貴明は正直な感想を口にする。
「柔らかくて……、すごく、気持ちいい。すごく、素敵だと思う……」
 その言葉に、瑠璃の顔がぱっと明るくなった。本当に嬉しそうに、目尻に涙まで浮かべて笑顔になった。
 そんなに喜んでもらえるのなら、これから毎日だって『可愛いよ、素敵だよ』と言ってあげたくなるような、そんな笑顔だった。
「ほんま? ほんまに?」
「もちろん」
 頷く貴明を見ながら、いっそうの笑顔を浮かべる瑠璃。そして小さく一言、「やったぁ」と呟いた。
 『う……!』
 頭の中で天使のラッパが鳴るような感覚。
 まったく、ひとつひとつの仕種も、反応も、可愛くて仕方ない。いったい自分は、どうしてこの少女を前に、いろいろと逡巡していたのだろう。幸せの逃し損ではないか。
 よし、これからはもっと素直になろう、もっともっと自分の気持ちを正直に相手に伝えようと、堅く心に決心。そうだ、幸せなんて、自分から求めなければ訪れるはずはない。水前寺清子だってそう歌っていた。
 だから、正直に、貴明は自分の要望を口にした。
「……ねえ、もっと、触っていい?」
「…………」
 沈黙。
 瑠璃が沈黙。
 そして怒濤のような後悔。
 『うわああああああああああ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿何言ってんだ俺の馬鹿っ!』
 正直にも程がある。突然そんなことを言われて、どうぞ、と返す女の子がどこにいるのか。
 『いきなりそれはないだろう、もっと手順とかそう言うのがあるだろう、もうもうもう!』
 だいたいムードとか雰囲気とかだって重要なのに、言うに事欠いて『もっと触っていい?』とは何事か。仮に同じ意味でも、他に言い方があるだろう。あるいは、黙ってそのまま触り続けるとか。
 あまりの愚かさ加減に、貴明は真剣に首を吊って死にたくなった。

 だが

 瑠璃はどうやら拒絶したわけではなかったらしい。

「あっ……?」

 フリーズして動かない貴明の目の前で、瑠璃はゆっくりと、自分の服に手をかけ――

「え? ちょ、ちょっと、瑠璃ちゃん?」
「…………」

 まるで
 スローモーションのように、時が流れる
 するすると、セーラー服のリボンを解き
 胸前のジッパーに指を添えて、
 ジ、ジ、と、小さく音を立てながら
 セーラー服の前がはだけられていく

「…………」

 やがて、下までジッパーがおろされ、外されて
 シャツに包まれた胸が、それでもぽよんと跳ねるように表に出た。
 
 とはいえ、もうその頃になると、貴明は瑠璃から目を逸らし、見ていなかった。
 ただ、衣擦れの音だけが、いやにはっきりと耳に響いて
 やがて、ふぁさっとセーラー服が投げ出される音
 そして、たぶん、シャツを脱ぐ音と
 脱いだそれを、傍らのセーラー服に重ねる音がした。

「る……瑠璃、ちゃん……」
「はい……」

 瑠璃の声。もしかすると、胸を、貴明に差しだしているのかも知れない。
 まだ見たことのない、瑠璃の、大切な胸を。

「目……逸らさんで? こっち、見て……」
「いや、でも、だって……」
 見られるわけがない。
 見てしまったら、もう、どうなるかわからない。そういう妙な自信がある。
 きっと、自制心を失って、瑠璃を傷つけてしまうだろう。
 いや、むしろ瑠璃はそれを望んでいるのかも知れないが、それでも、まだ一線を越えるのはためらわれる。
 つくづく臆病な自分が嫌になるが、しかし、それでも、視線はどうしても瑠璃の方を向かない。
「見てほしい……。見ぃへんかったら、ヘンかどうかもわからんやんか」
 何だか遠くの方から聞こえるように、瑠璃の声が耳に届く。
 しかし、どう返して良いものか判らず、貴明は黙ったまま。
「…………」
「貴明、見て…?」
「で、でも……」
「ウチのこと、好きなんやろ? なら、お願い。見て? そやないと……ウチ、怖いよ」
「こ、こわい?」
「怖い……。いつか嫌われるのが、すごく、怖い……」
「そんなこと……」
「だから、ねえ、ウチのこと、見て……? お願い、やから……」
 支離滅裂だ。意味が通っていない。
 ひょっとしたら、瑠璃自身も、自分が何を言っているのか判らないのかも知れない。
 ただ、勢いに任せて、口から言葉が溢れているだけかも知れない。

 しかし、なぜか、
 不意に彼女の心が、
 砂糖が水に溶けるように、貴明の心にすっと入り込んだ。

 とても不思議な感覚だった。
 瑠璃が自分の中にいるような、そんな感覚。
 あるいは、自分が瑠璃の中にいるような。
 もしかすると、それが、心がひとつになるということかも知れない。

 だから、ゆっくりと、貴明は瑠璃の方へと目を向ける。
 そこには
 この世でもっとも美しいものがあって――

「……………………」

 まず目に入ったのは、瑠璃の瞳。
 透明な水をたたえた、瑠璃の瞳。
 そして、頬。赤く染まって、火照った頬。
 唇。さっき重ねた唇。小さくて愛らしい。
 白い首筋。アップした髪の一房がほつれて艶っぽい。
 肩から腕のラインが描く、なめらかなカーブ。華奢で、強く抱きしめたら折れてしまいそうだった。
 もじもじと組み替えられる手。小さな指先は子供のようで、思わず包んであげたくなる。
 可愛いおへそも見える。おすましして、びっくりするほど細いお腹を飾っている。
 はいたままのスカートから伸びた太ももはすらりと伸びて、ニーソックスとの間の白い肌が際だっていた。
 そして、想像以上に豊かな曲線を描く、優美な胸が何より目にまぶしい。

「………う…………」

 釣鐘型というのだろうか、張りのある胸乳がこちらに突き出るように膨らんでいる。
 鎖骨のすぐ下辺りから始まるラインは、くらくらするほど蠱惑的で、アンダーバストまで文句のつけようのない形をしていた。きっと、首筋から水を垂らしたら、芸術的な線を描いて流れていくことだろう。
 そして桜色の先端は、ふくよかな器とは対照的に小さく優美だ。緊張しているのか少し尖って、思わず吸い付きたくなるほど愛らしい。
 何より、触れたらそのまま手がとろけてしまいそうなほどの白い肌。奇跡のように細かな肌理はつややかに輝いて、まるで天女の羽衣ようだ。どんなグラビアアイドルだって、こんな綺麗な肌はしていない。
 『これが……』
 これが、瑠璃のバスト。他の女の人のことなど知らないが、たぶん、こんなに魅力的なおっぱいなど、世界中どこを探したって見あたらないと思う。
 いますぐ金庫にでもしまって、誰にも見せずに自分だけのものにしたい。そうして、いつまでもこの胸に顔を寄せて、瑠璃が嫌がるまで甘えていたい。そんな胸だった。

「……どう………?」
 ぽつりと、瑠璃がお伺いを立てた。黙って見つめているばかりだったから、不安になったのかも知れない。
 もちろん、すぐに貴明は答える。
「綺麗だ……」
「ほんまに……? ほんまにウチのおっぱい、きれい?」
「気が…狂っちゃいそうなほど……」

 いや、きっと、もう狂っていた。
 ひと目見た瞬間から。
 だって、もう、気持ちの高ぶりが押さえきれないのだから――

「瑠璃ちゃんっ……!」
「!」

 がばっと、貴明は瑠璃を抱きしめる。
 まだ座ったまま、自分の胸に抱き寄せて、驚く瑠璃の髪に顔をこすりつけながら、ぎゅっと力強く抱きしめた。

「た、貴明……。どうしたん? も、もっと、見ぃへんの?」
「瑠璃ちゃんが可愛すぎるから……」
「え?」
「もっと……もっと、瑠璃ちゃんと仲良くしたい……!」
「っ……!」

 瑠璃の身体がビクッと固まった。
 言葉の意味は何一つ疑う余地無く、ストレートに理解されたのだろう。
 もちろん、それ以外の意味など、貴明は何一つ込めていない。
 腕の中の少女を、永遠に、自分の物にしたかった。
 だから、そっと
 貴明は瑠璃に口づけて
 そのまま、彼女の身体をベッドに押し倒した。

「たかあき……」

 絡み合う瞳と瞳。
 交わりあう吐息と吐息。
 小さな保健室のベッドの上に、
 甘い蜜の香りが漂い始める。

  ちゅっ……

 もう一度、キス。

  ……ちゅ、ちゅっ

 僅かに響く唇の音。
 唇を交わすだけの稚拙なキスだったけれど、ほのかな香りはとてもたおやかに舞う。

「はぅ……」
「ん……」

 唇が離れたら、また交わる視線。
 ひとときも、お互いがくっついていない時間はない。
 ああ、これが睦み合うということなんだなと、何となくそんなことを思う。
 そして、次は瑠璃の身体に手を這わせて――
 『あ、そ、そうだ、自分も……』
 そこではたと気づく。自分がまだ服を着たままだった。
 瑠璃は上半身裸なのに、これだと何だか不公平っぽい。その内、瑠璃が不満に思うかも知れない。
 どこまで脱いだらいいものか判らなかったが、まずはボタンを外してシャツを脱ぐ。下はまだ早いような気がした。
 そして、再び瑠璃の身体を抱きしめようと、覆い被さっていく。
 剥き出しの肌と肌が僅かに触れて。

 その、瞬間。

「やっ……!」
「!」

 不意に響いた声。
 思わず、身体を瑠璃から離した。

 『拒否、された――?』

 目の前が真っ暗になった。

 何か手順を間違えただろうか。
 もし、嫌われてしまったら、立ち直れないかも知れない。
 いや、それよりも、瑠璃を傷つけてしまったのだとしたら、悔やんでも悔やみきれない。

 だが、そんな貴明の不安とは裏腹に、瑠璃の瞳にそのような色は浮かんでいなかった。
 そこにあるのは、これから始まることへの恥じらいと、抑えようのない期待。
 そして数瞬の後、瑠璃の唇が開いて、小さな声で言葉を紡いだ。

「や、やさ、しく……」
「え……?」

 うっかりすれば聞き逃してしまいそうな声
 でも、それでも、それははっきりと貴明の耳に届いて


「やさしくして……?」


 きっと、その瞬間、魔法がかかったのだと思う。
 何もかも、どこか遠くに吹き飛んで
 ただ、瑠璃の瞳だけが、はっきりと貴明の目に映る。
 その、澄んだ瞳。
 水に濡れた宝石のように、熱く潤んで、
 たくさんの"好き"を映している。
 次第に二人の心は近づいて、
 もう一度、引き寄せられた唇に、温かい心が交わされる。

「やさしく、する……。いっぱい、いっぱいやさしくするから」
「うん……」

 心と心はひとつになって
 きっと、もうすぐ身体もひとつになって
 たぶん、それが、愛し合うということ
 この世でいちばん大切な人へ、想いのすべてを込めて唄う歌
 ここから始まる、愛の歌




 しかし




 時と場所だけは




 選んだ方が良かったかも知れない




  ガラッ!

「ちょっとタカ坊! 保健室にいるならいるで、ちゃんと連絡しなさ……」

 いきなり響いた扉の音。
 それに続いた、聞き慣れた声。
 弾かれたように入り口の方を見ると、そこには――

「あ……」
「え……?」
「は……」
「なっ……」

 四人四色それぞれの声。
 入り口に立っていたのは、向坂環と姫百合珊瑚。
 驚いたような目で、ベッドの上の自分たちを見ていた。

 はたしてどんな光景が映っているのだろう。
 いや、そんなことは誰に聞かずとも判っている。
 上半身裸の貴明が、同じく上半身裸の瑠璃と、ベッドの上で抱き合っている光景。
 もちろん、意味するところはひとつだけ。
 これが何か他のものに見えるとしたら、腕の良い眼科か精神科でも紹介すべきだろう。

「あ、あ、あ、あの、これは、その、いや、なんていうか」
 誰の声だと思ったら自分の声だった。しどろもどろもいいところの声で、言葉にならない言い訳が口から出る。
 もちろん、『その』とか『なんていうか』などという訳の判らない台詞で、人を納得させることなどできやしない。あんぐり口を開けて呆然と突っ立っている環は回復する様子がないし、珊瑚はと言えば、いったい何がそんなに嬉しいのかと問い詰めたくなるような満面の笑顔で、二人を幸せそうに眺めていた。
「さ、さんちゃん! あの、これはな? ちゃ、ちゃうねん。ウチは、なんも、別に、なあ?」
「そ、そうだよね!? 俺たち、別に、なんにも、ねえ?」
 何が『なあ?』で『ねえ?』なのか。
 意味がわからないにも程がある。

 そして、そんな二人にいっそうの笑みを返しながら、戸口の珊瑚は一言こう言った。

「おじゃましましたー」

 ガラガラガラ……、と、閉まる扉。笑みの名残もそのままに。

「ち…」

 ふにゃりと瑠璃の顔が歪む。
 もちろん、貴明だって。

「ちゃーーうーーーーねーーーーーーーーん!!!!!!!!!!!!!!」

 そろそろ街は夕暮れ。
 蝉の声も賑やかに、夏の日の思い出が終わっていく。





     エピローグ





 ( ゚∀゚)o彡゜おっぱい!おっぱい!
      ――――いろんな人



     ※



「ほら瑠璃ちゃん、貴明も待ってるし、な?」
「あーうー……」
 次の日の登校時間。いつもの待ち合わせの場所で、瑠璃は大いに困っていた。
「大丈夫やて。みんな笑わへんから。昨日もそうだったやん」
「で、でもぉ……」
 交差点の角の向こうには、貴明たちが待っている。たぶん、自分が出てこないのを不思議に思っているだろう。
 だが、瑠璃にとってみれば出るに出られない。
 とはいえ、いつまでもここでぐずぐずしているわけにもいかない。きっと貴明のことだ、自分が出てくるまで学校には行かないだろう。こっちのわがままで貴明を遅刻させるのは気が引ける。
 しかし、出づらいものは出づらい。世の中にはいかんともし難いことというのが確かにある。
「ほら……こっち」
「あっ……」
 と、そんな瑠璃にしびれを切らしたのか、珊瑚が手を引っ張った。思わずたたらを踏んで、交差点の角から飛び出してしまう。
「あ、瑠璃ちゃん。どうしたの、今日…は……?」
 こちらに声をかけようとした貴明の声が途中で止まる。無理もない。
 貴明のみならず、環も、このみも、雄二も呆気にとられたような顔で自分を見ていた。
 いや、正確には自分の胸だ。
「あ、あの……、どうしたの? その、胸……」
 このみが、驚きの声もそのままに聞いてくる。昨日、いちばん羨ましがっていたこのみだから、反動もひとしおなのだろう。
「な、なんていうか、また……元に戻って、る?」
「ううーっ……」
 そう、昨日あれほど猛威を振るっていた瑠璃の胸であるが、これがなんと一夜明けたら何事もなかったかのように元に戻っていたのである。
 保健室の一件のおかげでランジェリーショップには行き損ねたが、それでもイルファがいくつかブラジャーを用意してくれていた。今日はその中でもいちばん可愛いのを着けていこうとちょっとだけ楽しみだったのに、朝になったらいきなりいつものBカップだったのだ。驚いたどころの騒ぎではない。
 一部始終を話す頃には、みな何とも言えない奇妙な表情で、発する言葉も見つからずに立ちつくしていた。
「いや、またしかし……、どんな新陳代謝でこうなっているんだ……?」
 まじまじと胸を見つめながら、貴明がそう言う。彼は彼で、昨日直に見た分、そうとう驚いているのだろう。ひょっとしたらがっかりしているかも知れない。
「まぁよぉ判らんのやけど」
 そんな周囲の呆然とした顔を見渡しながら、珊瑚が瑠璃のおっぱいをふにふにと触りつつ話す。
「別に何ともないみたいやで? 垂れてしわしわになってるわけでもなし、ほんまにいつも通りになっとったもん。いつもの瑠璃ちゃんのおっぱいなー?」
「そ、そう……」
 あっけらかんと笑う珊瑚に、皆が呆気にとられる。お気楽ごくらくも良いところ。よほどの大物なのか判らないが、まるで意に介していないようだ。
「それにしても、腑に落ちないわよね……」
 と、こちらは環の声。
「あれだけはっきり大きくなったのに、どうしてまたいきなり元に戻ったのかしら」
「ああ、それなんやけどな? ちょっと気になることがあるんよ」
 環の疑問に応えて、珊瑚がカバンから一本の瓶を取り出した。
「なぁに? これ」
「昨日瑠璃ちゃんが飲んだ薬の瓶なんやって」
「ああ、これが……」
「でな? ラベルのとこよぉ見てな」
「うん? えっと……、バーストアップ・Z」
 環が声に出して薬品名を読み上げる。昨日イルファから聞いたとおりの名前。それにしてもバストアップの読みを伸ばしただけとは、なんといい加減なネーミングであろうか。
 だが、珊瑚はまだまだと言うように、環を促す。
「その続き」
「続き?」
「ほら、ここ」
「えっと? ……バーストアップ・Z……廉価版。……廉価版?」
「これもよぉ判らんのやけどな?」
 そう言って、珊瑚が不思議そうな顔の皆に、自分の考えを語り出す。
「たぶん、この薬にはバージョンが色々あって……。ベータ版とかアルファ版とかもあるかも判らんけど、少なくとも『通常版』と『廉価版』のふたつがあるんやと思うな。『デラックス版』なんかもあるかもね」
「……えっと」
「それぞれ効能の詳細は判らんのやけど、廉価版に関しては、一日しか効果がもたんのやないかなぁ。ま、それか単に失敗作だったのかもしれんね」
「はぁ……」
 思わず皆の口からため息が漏れる。それこそ"はぁ"としか言いようがない。胸が大きくなると言うだけでも非常識なのに、その上通常版とかデラックス版とか、まるで滋養強壮のドリンクか何かのようだ。
「じゃあ、瑠璃ちゃんの胸が大きかったのは、昨日一日限定?」
「んー、まぁいま小さくなってるんやし、そうやないかなぁ」
「そう……で、いいのかしら……。やっぱり釈然としないんだけど」
 そう言って、環が考え込むように俯いてしまう。物事にきっちりした人だから、ちゃんと筋が通っていないと嫌なのだろう。
 とはいえ、こんな問題に決着など付くはずがない。当の本人の瑠璃だって、未だ事態に追いついていないのだから。
「うーん、でも……」
 と、今度はこのみが口を開く。
「瑠璃ちゃんにとっては、良かったのかな」
「え? どうして?」
「昨日の瑠璃ちゃん、あんまり嬉しそうじゃなかったから」
「…………そやね……」
 このみの言葉に、瑠璃はひとつため息を漏らす。
 確かに、嫌だった。
 昨日は本当に、大きな胸が嫌で嫌で仕方なかった。なんでこんなことになったのだろうと。
 しかし、いざ小さくなってみると、今度は逆にものすごい落胆がのしかかってきたのである。
「? どうしたの? 瑠璃ちゃん」
「や、なんでもないよ。ありがとな、このみ」
 少し俯いたのが心配になったのか、このみが瑠璃に声をかけてくる。
 それに対し、努めて平静を装って瑠璃が返答を返すが、実際には落ち込んでいるのもいいところ。
 何とも現金な話ではあるが、小さくなったらなったで、今度は昨日のあの立派な胸が恋しくて仕方なくなったのだ。せっかくセーラー服をぱつぱつにするほどのおっぱいが手に入ったのに、いったい何を自分はそんなに嫌がっていたのだろうと、不思議にさえ思う。
 あのおっぱいならどこの海に行っても自信満々で歩けるし、周囲の胸に劣等感を感じることもない。
 それに、貴明の視線だって釘付けに――
「っ……!」
 そこまで考えて、ぼっと顔が赤くなった。あわてて、はたはたと顔の前で手を振って妙な考えを振り払う。

 本当に――、昨日はいったいどうしてしまったのか。
 あんなの自分ではない。まったく自分ではない。あんな媚び媚びな自分なんて、絶対自分ではない。
 きっとあの時間だけ、誰か他の人が自分の中に入っていたのに違いない。
 そうでなければ、どうして自分があんなことを。
 しかも、言うに事欠いて『やさしくして』など――

  ぼっ!

 再び、顔から火が出る。
「うあーっ!!!」
 頭をばたばたとはたいて、必死でピンクの思い出を振り払う。あっち行け、もう来んな。しかし、保健室の出来事はあまりにも甘酸っぱくて、なかなか頭の中から出ていかない。
「ど、どうしたの!? 瑠璃ちゃん!」
 そんな瑠璃の様子にびっくりしたのか、このみが慌てて瑠璃の腕を掴んで止める。
「瑠璃ちゃんはなー」
 と、二人の様子を見ていた珊瑚が、また不意に口を開いた。
「え?」
「おっぱい大きい方が貴明に構ってもらえるから、残念なんやね」
「なっ……」
 ぴたり、と瑠璃の動きが止まる。
「え、そ、そうなの?」
「ちゃうちゃうちゃうちゃうちゃう!! ぜぇーったいちゃうもんっ!」
「違うことないよー。だって、昨日保健室で……」
「わーっ!わーっ!わーっ! ウチ知らん! なんも知らんも!」
「え、え、なになに? 昨日何かあったの? ねえ、タカ君、どうなの?」
「いや、俺は……って、いひぇひぇひぇひぇ!! なんでつねるんだよタマ姉!」
「制裁」
「制裁って何!?」
「た、貴明お前! いったい保健室で何……いやいやいや!みなまで言うな! 保健室で男女がやることなんてただひとつ。くそぉ! まさか貴明に先を越されると……って、あだだだだだ! 割れる割れる! なんで!? なんで俺が折檻され……いだいいだいいだい!!」
「あははは、瑠璃ちゃん、もてもてやなー」
「知らんもん知らんもん! たかあきのごーかんまーっ!」
「えええ、なんでぇ!?」
 賑やかな声が、朝の空気が漂う通学路にこだまする。
 日常に回帰するその声は、その騒々しさとは裏腹に、穏やかで温かい。
「ほら、もうみんな遊んでないで行くわよ。昨日だって遅刻寸前だったんだから」
 やがて、予鈴間近の時間。収拾がつかなそうな騒ぎを遮って、環が登校を促す。
「そやね。ほな、行こかー」
「ったく……。貴明、てめえ後で話聞かせ……、って、やめてやめて! マジで頭骨が割れる! 痛い痛い痛い!」
「黙ってついてきなさい!」
「あ、あはは……、ユウ君、大丈夫?」
「大丈夫じゃねえ、助けろ! た、助……助けてぇー!」
 皆が皆、普段と同じように、学校へと続く坂道を上っていく。
 ――と、その時
 坂道を上っていく環たちから少し離れて、珊瑚が瑠璃の耳元に口を寄せた。
「瑠璃ちゃん」
「え?」
「あのね――」

 そして、少しだけ
 瑠璃の心に魔法をかけた

「さん、ちゃん――」
「がんばって」

 その言葉と微笑みをひとつ残して、珊瑚もまた、環たちを追いかけて行ってしまった。
 後に残されたのは、瑠璃と貴明の二人きり。もう自分たちが最後尾なのか、周囲には他の生徒は誰もいなかった。

「さて……、じゃあ、俺たちも行こうか?」

 穏やかな声。振り向いて見上げると、そこにははにかんだような貴明の笑顔。
 夏の風が、柔らかそうな髪を少しだけ揺らしていて、
 その笑顔に導かれるように、瑠璃は貴明にそっと声をかけた。

「貴明」
「え?」

 くいっ……

 ――それは一瞬のこと。
 珊瑚たちがこちらを見ていないのを見計らって、瑠璃が貴明の制服を引っ張った。
 そして――

「ん……」
「!」

 触れるか、触れないか。
 いや、ほんのわずか、温もりを伴ったそれは確かに触れていて

 離れた時には、ただ、お互いの真っ赤になった頬

  ――きっといま、自分の瞳は潤んでる
  ――きっといま、自分の唇はほころんでる

 でも、なぜかそれが、不思議なほど恥ずかしくなくて
 瑠璃はそのまま貴明の頬に手を添えて、耳元に唇を近づけて囁いた

「昨日……」
「……え?」
「ちょっとだけ、お礼やも」
「お礼?」

 たぶんそれは、珊瑚のかけた魔法のおかげ
 あるいは、ほんの少しだけ残った、あの薬のせい
 しらふなんかじゃ、ぜったいむりな、素直で甘い恋の味

「ありがと……。ホントに、ちょっとだけやけど……カッコ良かったから」
「瑠璃……ちゃん……」
「……ふんっ」

 ツンとそっぽを向いて、瑠璃は貴明から離れる。
 魔法の時間は、もう終わり。
 赤い頬もそのままに、きびすを返して珊瑚たちが待っているであろう学校へ駆けていく。
 そしてすぐに振り向いて――
 まだ呆気に取られている様子の貴明に向かって、べーっと舌を出した。
 そのいたずらっぽい笑顔は、いつもの瑠璃の笑顔。

「貴明なんか、だーいっきらいやもんっ!」
「え?」
「きらいきらい、きらーい! だーいきらいっ!」
「え?え?」

 ――それはきっと
 ――世界でいちばん"すき"な"きらい"

「ずっとずっと、ずーっと。一生、死ぬまで、貴明なんか、だーいきらいっ!」

 街を渡る夏風のように瑠璃が微笑んで――
 学校へと続く坂道を、楽しげな足取りで駆けていく
 後ろからは、ようやく我に帰ったらしい貴明が駆けてくる足音が聞こえてきて
 いつしか二人は、夏の陽射しが踊る中へ溶けていった

 吹き抜ける恋はどこまでも青。
 いつか出会う幸せの歌を奏でながら、どこまでも、どこまでも、透明な夏が続いていく。



 ――――――――――終わり



引用:
「SHUFFLE!」 製作:Navel(株式会社オメガビジョン)
「涼宮ハルヒの憂鬱」 著:谷川流 画:いとうのいぢ(角川書店)
「B型H系」 著:さんりようこ(集英社)
「ニニンがシノブ伝」 著:古賀亮一 製作:ニニンがシノブ伝製作委員会(メディアワークス)

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