進路指導教諭の憂鬱
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 進路指導の前原直純教諭がその紙束を渡されたのは、梅雨も早く終わってくれないかなというような6月のある日のことだった。その日は顧問を務めている演劇部の練習が休みであったため、適当に雑務を片付けて早めに帰ろうと思っていたのだが、そこに、2年生の学年指導の矢木徹教諭がやってきた。
「前原先生」
「はい?」
 呼ばれ、顔を上げると、何やら妙に憔悴しきった矢木の顔があった。髪はほつれ、目は落ちくぼみ、いったい何があったのかというようなブルーっぷりである。
「あの……、何か顔色が悪いようですが」
「うん、まぁ、ちょっとね。顔色も悪くなるというものだよ。とりあえずこれを見てくれれば判るから」
「なんですか、この紙束は。進路の用紙ですか?」
 見ると、進路志望の記入用紙だった。中間テストが終わった直後の意識調査のために配布したものだ。フォーマットは前原が作ったものなので、よく覚えている。まずそれぞれの学年の学年指導教諭に集められ、そこから相談が必要なものについて前原の元に届けられる予定だった。
「ああ、何か問題のある生徒でも?」
「端的に言えばそうなんだ。とりあえず、僕らでは処理できないから前原先生にお願いしようかと」
「ええ、構いませんよ。では、これは預かっておきます」
「うん。頼むよ。1年から3年まであるから。みんな、担任や学年主任がさじを投げたものだ」
「は……?」
「確かに頼んだよ。君は……逃げないでくれたまえよ?」
「え? あの、それはどういう。あの!ちょっと!? 矢木先生!?」
 呼び止めようとした時には、既に矢木はいなかった。いったいどのような高速移動をしたのか判らないが、職員室の中からもいなくなっているようだ。
 いや、矢木だけではない。さっきまでは幾人かの教諭連中がなんやかやと雑談したり仕事をしたりしていたのに、なぜかいまは人っ子一人いない。前原がぽつんといるだけである。
「い、いったい……」
 ごくり、と思わずつばを飲み込む。
 何か、それほど問題のある進路を志望している生徒がいるのであろうか。暴力団とか性風俗とか。
「とにかく見てみるか……」
 悩んでいても仕方がないので、前原はとりあえず上から順に確認していくことにした。
 どうやら、最初は1年生の女子生徒のようだった。


  1年D組 柚原このみ
  『まだよくわからないです』


「……ある意味素直だが、わざわざそう書くことはないだろうに……」
 長年進路指導をつとめているが、『空欄』や『未定』はよくあるものの、『よくわからない』とストレートに書いてあるのは初めて見る。
「まぁ、未定は未定なんだろう。1年生だし、しかたない話だが。……でも、このくらいなら問題というほど問題ではないような気がするが……?」
 矢木先生も大げさだなぁと思いつつ、2枚目を手にする前原。どうやら次は2年の女子生徒のようだった。


  2年B組 小牧愛佳
  『ケーキ屋さん』


「メルヘンだ……」
 高校生にもなってケーキ屋さんかよと思わなくもなかったが、とりあえずはまだ進路の範囲内である。それに最近は"パティシエ"という職業も一般に認知されてきているから、要はそれになりたいのだろう。あるいは経営者側かもしれないが。卒業後は料理の専門学校に進学か、大学で栄養学を専攻するかといったところになるだろうか。
「まぁ、いいんじゃないの? 可愛いじゃないか、うんうん」
 なんともまぁ微笑ましいことである。思わず目元が緩む前原。うんうん、だいじょうぶ、おじさん、君の進路のためにがんばっちゃうよ? と、そこだけ切り取ったら怪しげな決意まで浮かべる始末。
 しかし、その安らぎはここまでの儚い夢であった。


  3年A組 向坂環
  『九条大学(ただし一年浪人してから)』


「…………は?」
 思わず目をこすった。しかし、もう一度見ても書いてあることは変わらなかった。
「え? なに? どういうこと?」
 ためつすがめつ、何度も記入事項を確認してみる。そして、なんとか自分の理解に収めようといろいろ努力したが、一向にわからない。
「なんだこの『一年浪人してから』って!? なんで浪人が確定してるの!? 向坂環って確か九条院からの転校生で、学年トップの成績のはずだよな!? 浪人の必要ないじゃん!」
 浪人したくない、とはよく聞くが、浪人してから大学に行く、とはまったくもって初である。いや、世間には『己の見聞を広めるため』といって、高校を卒業してから旅に出る生徒もいるにはいるが、そういうのはたいてい男である。平均として男子よりも堅実な生き方を好む女子生徒で、こういうことを言うのはそうとうに珍しいのではなかろうか。
「いや、まぁ、最近は女の子の考え方も進んでるからなぁ……。こういうのもぽつぽつ出てくるようになった……のか?」
 どうにも納得できない物はあるが、そろそろ自分の考え方も古いのかもしれない。今度また、教職員のための進路指導セミナーに参加してみるかと考え直し、彼は次の生徒の用紙に目を移した。


  1年C組 姫百合珊瑚
  『だいこん・いんげん・あきてんじゃーの理論体系化と発展、および普遍化』


「え、なに?」
 普通に意味がわからなかった。
「だいこん? だいこんの育成でもするのか? だいこんに理論なんてあるの?」
 生物工学か何かを志望していると言うことだろうか。しかし、姫百合珊瑚と言えば、学校創立以来の天才にして、情報工学の分野では既に世界トップレベルであるとすら言われる生徒である。それがなぜ大根の理論を体系化しなくてはいけないのだろう。
「いや、いやいや、まて、あわてるな、これは孔明の罠だ。きっと、だいこんの次の『いんげん』と『あきてんじゃー』に隠された暗号が……」
 しかし、どれほど頭を絞っても、隠された暗号が何であるかは判らなかった。ついでにWindowsのウェブブラウザを起動してググってみたが、松戸の野菜自動販売機くらいしかヒットしなかった。
 そろそろ頭が痛くなってきたが、まだ用紙は終わらない。次の生徒は、どうやらその珊瑚の妹のもののようだった。


  1年C組 姫百合瑠璃
  『さんちゃんをどうにかする』


「どうにかするって、どういうことだよ!」
 さすがに頭を抱えた。
「だいたい"さんちゃん"って誰だよ、お姉さんのことか!?」
 確かに『だいこん・いんげん・あきてんじゃー』については前原にしてもどうにかしたくはなったが、進路志望で『姉をどうにかする』と書かれても、それこそお前をどうにかしたいよとでも言いたくなる。
 そもそも、どうにかするってどうしたいんだ、何かを矯正したいのか、それともいっそ手籠めにでもしたいのか。
 これまでは、多少の問題はあれど『進路』かそれに準ずる何かが書かれていたが、これはもう進路ですらない。いったいこの生徒をどうやって指導したものか、先が思いやられていまから胃が痛くなる前原である。
「まさか、この後ずっとこんなんじゃないだろうな……」
 そらおそろしくなりつつも、彼は自分に"仕事仕事"と言い聞かせて、次の生徒に移る。なかなか勤勉な教諭である。


  3年D組 久寿川ささら
  『進学志望(N大・農学部生物環境科学科) まーりゃん先ぱいと結こんする』


「おいっ!」
 いきなりの永久就職宣言。しかも、お相手は前生徒会長にして、数々の悪しき伝説を残した朝霧麻亜子ときたもんだ。
「なんで同性婚なんだよ! いや、それはともかく、なんで朝霧なんだよ! 人生壊しますよアナタ!」
 言いたい放題の前原だが、朝霧麻亜子の悪行を知るものからすれば、それもまた無理もないことだと知れる。久寿川ささらと言えば、多少とっつきづらいところはあるにせよ、現在生徒会長を務めているほどの優秀な生徒である。しかも、最近は人当たりが良くなったせいで、ますます生徒や教師からの評価が上がってきた有望株なのだ。それがまた、なぜこのような暴挙に出るのかまったく理解できない。
「取消線の下のやつの方がいいじゃん! N大でいいじゃんよ! 旧帝大だよここ!? だいたい現職の生徒会長が、先輩の"ぱい"と、結婚の"こん"の字も書けないってどういう……」
 加えて、字が異様にヘタクソなのが非常に気になるところである。種を明かせば、久寿川ささらの用紙をまーりゃん先輩氏が書き換えてしまったのだが、前原には知るよしもない。
 そして、同じく取消線付きの用紙を提出したのが次の生徒だ。


 2年C組 (名字の部分が掠れていて読めなかった)由真
 『歌手 ダニエル』


「ダニエルってなんだよ!? ダニエルさんに永久就職なの!? しかも、取消線の下は"歌手"ときたかこの野郎!」
 取消線の下でも上でも、どっちにしろ凄まじい進路志望である。堀○高校ならともかく、一般の高校もいいところの学校の進路志望で『歌手』と書くとは。まだしも『声楽を専攻する』とかなら判るが、ここまでストレートに書かれると、いっそすがすがしい。
 だがそれでも、まだここまでは広義の意味で『進路』ではあった。


  2年B組 向坂雄二
  『メイドさんが欲しい』


「欲望を書いてどうするんだキサマアアアアアアアア!!!!!! 進路だろ!? 進路志望用紙だろこれ!? それとも何か? メイドさんを雇えるほど金持ちになりたいとでも!? そんなもん、今だって金持ちだろうがオマエは!」


  2年B組 るーこ・きれいなそら
  『るー』


「意味がわからないよ! るーってなんだよ! ルー大柴か!? ルー大柴の付き人なのか!? それともカレールーにでもなりたいとかぬかしがやるのか!? どっちにしても、もう僕の理解の範疇外だよ!」


  2年E組 笹森花梨
  『宇宙人』


「うちゅうじんーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!! 宇宙人になりたいって、オマエはどんな生徒だよ! いまどき小学生だってそんなこと言わねえよ!」
 もうめちゃくちゃである。さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、前原先生発狂。
「もうヤダ! こいつらの指導すんのヤダ!! わかったよ、矢木先生の憔悴っぷりがわかっちゃったよオレ様! いいよいいよ!好きなだけ宇宙人になるがいいさ!そんでキャトルミューティレーションでもミステリーサークルでも何でもやるがいいさ!」
「あのー……」
「それで物足りないなら、ついでにだいこんの理論を普遍化してさんちゃんをどうにかして、浪人しつつダニエルさんに嫁いで、メイドをはべらせた豪華な家でケーキ屋さんをやりながら、思う存分まーりゃん先輩と『るー』ってやるがいいさ! それで満足なんだろ!? 満足するんだろ!?」
「あの、前原先生? どうしたんですか?」
「あーあー、もうやんなっちゃったなー! 進路指導の先生なんて、嫌になっちゃったなー!! こんな仕打ちを受けるくらいなら、教頭先生の顔色なんて窺わずに、そこら辺でテキトーに平凡に働いてたかったなー! あーあー、損しちゃったよ俺!」

「先生!!」

「は?」
 突然横から大声で呼ばれてきょとんとする。
 見ると、一人の女生徒が心配そうな顔でこちらを見ていた。2年生の女生徒で、確かこの春に転校してきた生徒だったはずだ。
「あ? ああ……。えっと? なに?」
「いえ、何って言うか……。大丈夫ですか? ずいぶん、興奮されているようですけど……」
「ああ……。うん、大丈夫。僕はすごく大丈夫だ。ほら、ウサギ跳びだってできちゃうよ?」
「い、いえ、跳ばなくていいです。……ホントにいいですから! 先生待ってください! ウサギ跳びしながらどこへ行こうと言うんですか!?」
「素敵なところさ。君もどうだい?」
「え、遠慮しておきます!」
 ぶんぶんと首を振って拒否する女生徒に、少し残念に思う前原。ウサギ跳び、楽しいのにと。
 どうやら先ほどのカッ飛んだ志望用紙の連打で、平衡感覚が失われてきているらしい。哀れなことである。
「で、僕に何か用かな?」
「あ、はい……。えっと、進路志望の用紙なんですけど、提出するのが遅れちゃって。矢木先生に聞いたら、前原先生に提出するようにと」
「しっ!進路志望!?」
「はい。えっと、私は進学志望で……。これなんですけど」


  2年D組 草壁優季
  『進学志望(N大・文学部)』


「いやだ!」
「はい?」
「いやだ!俺は認めない!」
「認めないって……。あ、そうか、えっと確かに私の成績だとN大学は難しいかも知れないんですが、いちおう、いまの第一志望と言うことで……。い、いえ、あの、どうしても無理と言うことであれば考え直しますし、それは今後の検討課題として……。あの、先生? ちゃんと用紙の方、見ていただけてます?」
「もういやだ! 俺は進路指導なんてもう嫌なんだ!」
「先生!?」
「嫌なんだ、助けてくれ! オレはもう嫌なんだあああああああああああああ!!!!!!!」
「せ、先生!? どうしたんですか!? しっかりしてくだ……。先生! 耳をふさいだままウサギ跳びしてどこへ行くんですか!? あの、待ってください! 先生!? 先生!!! だ、誰か!! 誰か来てください! 前原先生を誰か止めてください!!! 先生!! 先生!!!!」

 ――その後、前原の姿を見た者はいない。
 なお、たびたび学校近辺でウサギ跳びしながら「るー!るー!」と叫んでいる不審な男性の姿が前原によく似ているという噂もあるが、今のところ、真偽の程は定かではないということである。



 ――――――――――終わり
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