まぶしくてみえない
曲名シリーズ 第四作品
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「卒業証書、授与――」
 賑やかな歓声と熱気が踊る体育館に、その時ばかりは厳かな静寂と涙の雫が満ちる日。リボンの祝い花を胸に飾った上級生たちが、一人、また一人と名を呼ばれ、三年という月日の思い出を心に描きながら、巣立ちの証を刻んでいく。
「向坂環」
「はい」
 幼馴染みの名が呼ばれる声。毎日のように耳に響いた声が凛と響いて、河野貴明はつと顔を上げた。
 右斜め前方、呼ばれる度に起立していく卒業生たちの中、ひときわ輝くような長い赤髪。控えめに奏でられるパッヘルベルのメロディを背景に、少したなびくようなその髪の色が貴明の目に映る。
『卒業か――』
 三月七日は、この学校の卒業式の日。
 在校生の席に座り、貴明は環の後ろ姿を目に留めながら、この一年のことを思い出していた。ちょうど今頃の時期に、長い間離ればなれになっていた幼馴染みである彼女と、この街で再会したのだった。
 戻ってきた最初の日の環は、まるで別人のようにおしとやかな雰囲気を漂わせていたものだけれど――
『ホントはぜんぜん変わってなくて……』
 あの日、ひとしきりの出来事の後に、環が浮かべたイタズラっぽい顔。いまも覚えている。数年間見ることのなかった、子供の頃のままのあの笑顔。
 あの時はドタバタとしていて言葉にはできなかったけれど、それでも、数年の溝があの笑顔によって埋められていくかのような感覚が温かく、また、懐かしく感じたものだった。
『あの頃、九条院から戻ってきたんだよな……』
 九条大学付属女学院。それが、環が数年間在籍していた学校。日本有数の全寮制お嬢様学校にして、名門中の名門校である。彼女はそこから、この街の、貴明たちが通うごく普通の――いわば平凡な学校へと転校してきたのだった。
 輝かしい将来をほぼ約束されている学校から、なぜこの街に戻ってきたのか、それはいまでも判らない。元いたところが環には窮屈すぎたのか、それとも何か他の理由があるものか。
 環は気まぐれだから、と言えばそれまでなのかもしれないが、気まぐれではあってもいい加減な人では決してないことはよく知っている。本当に、なぜ戻ってきたのだろうか。
 とはいえ――、彼女と再開してからの日常が、貴明にとって激動といっても良いほどの濃密な時間であったことは間違いない。それこそ、"駆け抜けた"という表現を惜しみなく使えるほどの充実したな毎日。
 その意味で、きっと彼女の存在は自分にとってかけがえのないものだったのだろうと思う。彼女が戻ってきたことが、とても嬉しいことだったのだと、今では思える。
『いまごろ気付いても遅いけどな……』
 卒業後、環はもういちど九条院に戻り、大学部へ進むのだという。せっかくこの街に帰ってきたのになぜ、という問いに、環は曖昧に笑っただけで答えてはくれなかったけれど、何か強い決意を持っていることは貴明にも判った。
 大切な何かを求めに行くのか、それとも何かを振り切って行くのか。ただ、彼女が最後にぽつりと言った『大人にならないとね』という言葉。それを口にした時の表情が、いまでもまぶたに焼き付いて離れない。
 できればもう少し――、そう思ってしまうのは、きっとわがままなのだろう。
『それでも、もう少しだけ……』
 この日々が、続けばいいのに。
 でも、それは叶えられない願い事。カノンの旋律は"仰げば尊し"に移ろい、見えない扉の前に立つ小鳥たちへ、空へと続く道をかいま見せる。その音色は、巣の中の温もりが、いつかそこから飛び立つためのものであったことを囁く時の風。歌声を乗せて舞う光の色が春を薄く染めていくように、小さな旋律が空へと続く道を彩っていく。
 いま、どんな想いを胸に、彼女はあの場所に立っているのだろう。
 引き締めた表情でしっかりと前を見ているだろうか、それとも、いつもは見せない泣き顔をしているだろうか。
『でも、たぶん――』
 たぶん、環はきっと、いつものあの優しげな微笑みをいまも浮かべているのだろうと、何となく、貴明はそう思った。



     ※



「……うっ……ぐすっ…ぐすっ………」
「ほらほら、このみ。泣かないで。せっかくの可愛い顔が台無しよ?」
「だ、だってぇ……」
 式が終わり、卒業生と在校生の交流時間。貴明と環、そして同じく幼馴染みの柚原このみと向坂雄二の四人は、中庭の木の下に集まって、別れの時を惜しんでいた。
 正午に近い3月の空は抜けるような青。冬の気配もそろそろ薄くなり、澄み渡ったそよ風が木々の葉を揺らしている、そんな小春日和の陽気の下。木漏れ日差す中庭には、彼らの他にも、何人かの生徒たちが思い思いにグループを作って談笑している。
 そしてこのみは、待ち合わせの場所で環を見つけるなりその胸に飛び込んで、先ほどからずっと泣きやまない。
「せっかく……、せっかく去年タマお姉ちゃんが帰ってきたのに……。も、もう……、もういなくなっちゃうんだもん……」
 しゃくりあげながら、それでも両手はしっかりと背中に回したまま、このみはずっと環を離さない。本当の姉妹のように仲良しだった2人だから、名残もひとしおなのだろう。
 そして、そんな妹分を彼女もまた抱きしめながら、環は諭すようにこのみに声をかける。
「いなくなるわけじゃないわ。長いお休みの時にはちゃんと帰ってくるし、寂しい時には電話だってあるじゃない」
「でも…でもぉ……」
「大丈夫。いつでも会えるから……、だから泣かないで、このみ。このみに泣かれたら、私、安心して行けないじゃない」
「だって…、ぐすっ……」
「タマ姉、せめて……」
 泣きやまないこのみを見ていられず、貴明は思わず声を上げる。
「せめてあと何日かこっちにいられないの? 3日……、いや、2日でも、1日でも……」
 だが、環はゆっくりと首を振り、「ううん」と言った。
「いろいろと手続きがあるし、引っ越し先の整理もしなくちゃいけないから」
 今日の午後、環はもう九条院へ発つのだという。それは前から環が自分でそう言っていたことだった。
 もちろん、このみは反対した。このみだけではない、貴明自身もだったし、いつもは姉など居なくなればいいのにと言ってはばからない雄二までも反対したのだが、それでも彼女の意思は固いようだった。引っ越しの荷物は既に先方に送ってあるらしく、あとは環が向こうに行くだけになっているのだそうだ。
「そのくらい……、手続きはともかく、荷物の整理くらいなら俺たちで手伝ったって良いんだし」
「そ、そうだよタマお姉ちゃん」
 貴明の言葉に、我が意を得たりとこのみが環に言いつのる。
「まだいられるよ、きっと。まだ行かなくても、間に合うよ。だから……」
「このみ……」
「だからまだ一緒にいよう? い、いなくなっちゃ……、いなくなっちゃ、やだよ……」
「…………」
 だが、このみの願いにも、環は困ったような表情を浮かべるばかりで答えない。その内、このみの声も小さくしぼんでいき、最後には聞こえなくなるくらいに小さくなった。
「ダメ……なの……?」
「ゴメンね。でも……、もう決めたことだから」
 小さく、でもはっきりと、環はそう言いきった。その声に迷いはない。
「タマお姉ちゃん……」
 それを見て、もう心は変わらないのだと、たぶんこのみにも判ったのだろう。
 あるいは、もうそれはずっと知っていたことかもしれないけれど。
「う……うわぁあああーーん…………」
 そして、再びこのみは環の胸に顔を埋めて泣いた。しっかりと背中に手を回して、ぎゅっと大好きな姉代わりを抱きしめながら、声を上げて。
 風渡る彼方にはひよどりの囀り。しばらくの間、泣きじゃくるこのみの声と、あやすように語りかける環の声だけが、別れの時を包んでいた。
「お手紙、書くね……? タマお姉ちゃんに、いっぱい……いっぱい書くから」
「うん……、待ってるわ、このみのお手紙」
「電話もする……、毎日していい?」
「ええ、もちろん」
「たまに、遊びに行っても良いよね?」
「いつでもいらっしゃい。私も、必ずこっちに遊びに来るから」
「うん……、うん……! ぐすっ……」
 小さく肩を震わせ続けるこのみの背中を撫でながら、環もまた、感慨深げな表情になっていた。口元は柔らかなあの笑顔を湛えたまま、可愛い妹を抱きしめて。
 そして、舞うひよどりがいつしか彼方の空へと飛び去った後、環の胸からこのみが離れた。泣きはらした目を、それでも笑顔に変えながら。
「……えへ。いっぱい……泣いちゃった」
「もう大丈夫?」
「うん……。でも、また、泣いちゃうかもしれないけど」
「ありがとう。……ありがとう、このみ。大好きよ」
「そ、そんなこと言われたら……」
 じわり、と、光るものが瞳に宿り。
「やっぱり、また泣いちゃうかも……」
 それでも、慌ててハンカチで目を押さえるとがんばって笑顔を作るこのみ。少し心配になって、貴明は彼女の肩にそっと手を置く。
「このみ、大丈夫か?」
「タカ君……」
 だが、肩越しに振り返ったこのみの顔は、意外なほどしっかりと微笑んでいた。目元はまだ赤かったけれど、それでも口元は笑顔の形に結んで。
「大丈夫。……泣いてたら、タマお姉ちゃんが安心して行けないし」
「……そか」
 幼馴染みの意外な言葉に内心驚く。いつまでも子供だと思っていたのに。
「だから、もう泣かない」
「……うん」
 その言葉に驚いたのか、環もまた柔らかく目を細める。
 そして、もうひとつだけ「うん」と頷くと、彼女は傍らに置いてあったカバンを手に取った。
「……行くのか?」
「ええ。もう、心配はいらないみたいだから」
 そう言うと、彼女はそっと微笑む。お別れは済んだと言うことだろうか。
 そしてふっと視線を外し、彼女は貴明の少し後ろに目を向けたようだった。視線の先には、先ほどからじっと黙っていた雄二がいる。
「――ねえ、雄二」
「ん? なんだ?」
 きょとんとした顔で雄二が応える。家でさんざん顔を合わせているのだから、いまさら声をかけられるとは思っていなかったのかもしれない。
 だが、そんな弟にそっと近づくと、彼女は思いがけない行動をとった。
「姉貴――?」
 見ると、雄二の手が環にきゅっと包まれていた。
「……2人のこと、お願いね」
 いつになく、それは真剣な瞳の色。
「雄二なら、きっと2人を支えてあげられると思うから」
「姉貴……」
 静かに、姉弟の間で視線が交わされる。
 なんだかんだとケンカばかりの2人でも、心の底では信頼し合っていたのだろう。環が雄二を見つめる瞳も、雄二が環を見つめる瞳も、どちらも同じくらい温かいものに感じられた。
「……あーあ」
 そうしてどのくらい時が流れたか、どちらからともなく手が離れる。
「雄二にこんなこと頼む日が来るなんて、ね。私ももうろくしたかしら」
 先ほどの自分の言葉が照れくさかったのだろう、イタズラっぽく舌を出して、環はいつもよりも大げさに肩をすくめてみせる。
「何言ってんだ」
 その姉の悪態に、雄二もまた悪態で返す。
「似合わねんだよ、どうせ」
 それでも、いつになく赤くなっていた顔は、何よりも雄弁に心の内を語っていたけれど。
「……ま、でも、ちゃんと頼まれたからさ」
「……良い子ね」
「よせよ。はやく行っちまえ」
「ふふっ……」
 耳を赤くした弟の様子に目を細めながら、彼女はそっと背を向ける。
 そして――、
「元気でね」
 と、一言だけ残し、ゆっくりと陽射しの中を歩き出した。
「タマお姉ちゃんっ!」
 慌てて、貴明の傍らに佇んだこのみが声を上げる。
「またねっ! ぜったい、ぜったいに! さよならじゃないから!」
 ――きっと、今すぐにでも走り出して環のそばに行きたいのだろうに、
 だが、このみは貴明の袖をぎゅっと握りしめたまま、その場を一歩も動かない。
 そして、貴明もまた、その背中を目で追いかける。
『タマ姉……』
 午後にさしかかった陽が赤髪を照らすその様。
 まるで一枚の絵画のようで、ひどく現実感に乏しい。
 そういえば、前より少し髪が長くなっているかもしれない。髪を結んだ位置も、少し変わったようだ。
 そんなことに、今さら気付く。
 そして気付いた頃には、一歩、また一歩と遠のいていく後ろ姿。貴明にとっても姉代わりのようだった人の後ろ姿が、ゆっくりと遠くなる。
『また離ればなれ、か――』
 思えば二度目の別れだ。
 一度目は幼い日のこと。あの時は離ればなれになったことを後から知ったせいか、後々まで実感に乏しかった。
 でも、いまは。
 去っていく後ろ姿を見ることの痛みが、胸に苦しい。
 それがどれほどのものであるか――。初めて知るその痛みはあまりにも切なく胸を締め付けて、貴明の目にひとしずくを浮かべる。
 いまごろになって、もっと言っておくべきことが、伝えておくべきことがあったのではないかと、そんなことばかりぐずぐずと浮かんでは消え、言葉にできない想いが溢れていく。
 だが――
 その時、
 ふと、少し遠くなった環が足を止めた。
 そして、不意にこちらに振り向くと――
「え――?」
「っ――」
 環が、元来た道を駆け戻ってきた。
 あの赤髪を揺らしながら、何か思い詰めたような表情で。
「タカ坊っ!」
 そして、すぐに貴明の目の前にやってくる。
 じっとこちらの目を見つめて。
「ど、どうしたの?」
 わけが判らず立ちつくしてしまう貴明。
 思いがけない行動に、このみや雄二も声が出ないようだった。まるで、見つめ合う2人だけが時を刻んでいるかのような錯覚。
 だが、やがて――
「やっぱり……」
 じっとこちらを見つめていたかと思うと、ぽつりとそう口にした。
「え?」
「ごめんなさい、最後にちょっとだけ――、一緒に来て」
 ぎゅっと手を握られる感覚。見ると、環の手がしっかりと貴明の手を包んでいた。
「え?え?」
 そして、呆気にとられているこのみと雄二を置いて――
「ちょ、ちょっと、タマ姉!?」
 長い赤髪を翻しながら走り出した環に引っ張られ、貴明もまた走り出す。
 何ごとかと目を向ける生徒たちの中、前へ前へと、ぐんぐんとスピードを上げて。
「ど、どこに行くの!?」
「ちょっとだけ!」
 ちょっとだけと言われても、どこのことだか何のことだか、さっぱり判らない。
 だが、環はスピードを緩めるつもりはないらしく、中庭を抜け、渡り廊下を飛び越えてどこまでも走って行く。
 走り抜ける場所にもまた、何人かの生徒。校舎を眺めて語らう者、もう帰宅する者、部活動の後輩たちと最後のゲームに興じる者、様々な卒業の光景がそこかしこに見える。みな一様に、風のように駆け抜ける2人に注目していた。
 だが、そんな周囲の視線をよそに、繋いだ手は力強く握られて緩む気配もない。
『な、なんだか――』
 ふと、貴明は思い出す。子供の頃、環に引っ張られてそこら中に遊びに連れて行かれた頃のこと。
 こんな風に引っ張られて、知らない街をどこまでも走っていったあの頃を。
 違うのは、2人が制服を着ていること、背がずっと高くなったこと、そして――
『やっぱり、長くなったな――』
 目の前を走る環の、輝くような長い赤髪。
 子供の頃よりずっと長くなった、あの綺麗な髪。
 なんだか、いま初めて気がついたような気さえする。
 いつのまに、こんなに長くなったのだろうか。

 そんなことを思いながらも、高まる胸の鼓動はどきどきと、薫る花の風に高揚していく。
 それもまた、やはり幼い日にいつも感じていた、あの胸の鼓動と同じものだった。



    ※



「んーっ! 風が気持ちいいわね……」
「屋上……?」
 鉄製の扉を開けて表に出ると、いつも見慣れた屋上の風景が広がっていた。中庭よりもやや冷たい風が吹いてはいるものの、晴れた陽射しに照らされているためか、まだそれなりに温かい。
 とはいえ、意外にも他に生徒の姿はなく、明るい風景のわりには少し閑散とした雰囲気も漂っていた。
「ふふ、何だか貸し切りみたいね」
 くるりとこちらを振り返りながら、環が目を細める。手はまだ握ったまま、何か楽しことでもあるのだろうか、いつもより軽やかな足取りで屋上を歩いていく。
「ここが目的地なの?」
「ん? んー……」
 あれからずいぶん走り回ったように思う。中庭から始まって、昇降口や校庭、はては裏庭まで回って、どうしてかたどり着いたのは屋上。
「どうかしらね?」
「え?」
「ふふ、そんな顔しないの。……でも、ちょっと引っ張り回しすぎたかしら?」
 ぐるりを囲んだ金網のそばに立ち、環はこちらを見ながらくすくすと笑う。日頃の運動不足がたたって息が切れてしまった貴明の様子が可笑しいのだろう。
 逆に、環の方はと言えば、あれだけ走り回ったのにまったく平気な様子である。いつものこととはいえ感心してしまう。
「いや、まぁいいんだけどさ」
「そう?」
「でも、急に走り出したりするから驚いたよ。このみたちを置いて来ちゃったけど、良かったのかな」
「そうね。……でも、お別れはもういっぱい済ませたし、あれ以上一緒にいてもこっちが寂しくなっちゃうわ」
「タマ姉は……」
 街を撫でる風に、環の髪が揺れている。
「うん?」
「……あ、いや……、なんでもない」
 愚かな質問を投げかけそうになって、貴明は慌てて取り繕う。
 ――聞くまでもなく、寂しいに決まっているではないか。
「ヘンなタカ坊ね」
 貴明の心の内を知ってか知らずか、環はそう言って少し笑い、金網の向こうに目を移す。
 その視線を追って、貴明もまた、ずっと遠くまで広がる街並みを眺めてみる。
「ここから見る街も、今日でお別れね」
 高台にある校舎の屋上から見る街並みは、まるで敷き詰めた絨毯。照らされた雲の影がゆっくりと屋根たちの上を渡っていく様は、まるで切り取った絵画のようだった。
「今日は晴れているから、遠くまでよく見えるわ。綺麗な景色……」
「そうだね」
 彼方に響く声は、いずこかへと飛んでいく鳥の姿。かすかに見えたその白い翼が、一瞬鮮やかに目に映ったような気さえして、貴明は思わず目を細める。
 この屋上には何度も足を運んだし、こんな風景も何度も見てきたはずだったが、それでも環の言う通り、綺麗な景色だと改めて思った。
「――運が良かったのかな」
「え?」
 まだずっと街を眺めていた環に声をかけると、きょとんとした顔で振り返った。
「いつもよりも眺めが良いから。……やっぱり、屋上に来たかったんだろ?」
「ふふ、そうじゃないわ」
「そうなの?」
 意外に思って貴明はそう問い返す。先ほどははぐらかされたが、あれだけ走り回ってここに来たのだから、きっとこの景色が見たかったのだろうと思ったのだ。
 だが、環はその問いに少し笑うと、「そうよ」とすぐに言った。
「別に良いの、どこだって。屋上じゃなくても……」
「どこだって、って?」
「ほら、ぼやっとしないの」
 なおも重ねようとした言葉を遮るかのように、環はぴょんと金網から離れると、再び手を握ってきた。
「タカ坊は何も気にしなくて良いの。ほら、行くわよ」
 そして来た時とは正反対に、今度はゆっくりと歩きだす。同じなのは、手を包む環の温もりだけ。
『……ま、いいか。なんか楽しそうだし』
 少し怪訝に思いつつも、何やら機嫌の良さそうな環に手を引かれて、貴明は再び校舎の中へと戻っていく。



「ここは特に思い入れがあるわねえ……」
「そうだね」
 屋上を後にして、次に着いたのは生徒会室だった。鍵を開けて中に入ると、整然と並んだ机の上に、各種の書類が散らばっているのが見える。
「もう、ダメよちゃんと整理しないと」
「ああ、ゴメン。なんだかんだで3学期はやることが多くてさ」
「あら、でも去年の今頃は、久寿川さんがこれをひとりでやってたんでしょ?」
「それは……、まぁ」
 痛いところを突かれて、貴明が黙り込む。言われてみれば確かにそうなのだ。去年の3月に貴明が生徒会に入るまでの一時期、当時の生徒会長であった久寿川ささらが、生徒会業務の一切をたった一人で切り盛りしていたのだ。それを思えば、今のところ貴明たちがサボっていると言われても仕方ないだろう。
「ふふ、タカ坊ももっと頑張らなくちゃね」
 少し言葉に詰まった貴明の様子が可笑しかったのか、環がふっと小さく笑う。そして、散乱していた書類を集め始めた。
「あ、タマ姉、置いておいてくれれば、後で俺が……」
「いいのよ。これも、最後のお勤めだから」
 そう言って、環は慣れた様子で棚のファイルに挟んでいく。勝手知ったる何とやら、ファイルの位置も、整理基準もちゃんと把握しているようだ。
 もっとも、留学してしまった久寿川ささらの後任とはいえ、転校一年目にして生徒会長に就任した環のこと。この程度のことを忘れてしまうような人でないことは、貴明もよく知っている。
「タカ坊に誘われて、生徒会に入ったのよね……。4月のことだったわ。いまでもよく覚えてる」
「……あの時はさ」
「うん?」
「なんか、急な話になっちゃって……。何となく言う機会がなかったけど、ゴメン。謝るよ」
「何言ってるのよ」
 バカねえ、と言いながらころころと環が笑う。
「あの時はそれこそいろいろ大変だったんでしょ? 頼み込まれたから引き受けた、って言うのは確かにあったけど、心底嫌だったわけじゃないもの。タカ坊が謝ることじゃないでしょ」
「いや、でも……。やっぱり、悪いと思ってたからさ」
「……お人好しね」
 ぱちんとファイルを閉じ、棚に戻しながら環が振り返る。
「でも、そういうタカ坊だから、みんなが周りに集まるのかもね」
「そうかな。俺は別に……」
「そう思わなくても、そういうことにしておきなさい。私の後を継いだ生徒会長さんなんだから、もっと堂々としてなくちゃ」
「はは、ちょっと頼りないけどね……」
 2学期に生徒会長の任期が満了した後、環の後任として生徒会長に就任したのは貴明だった。生徒会役員は他に雄二やこのみといった面々もいたが、結局環から指名されたのが貴明だったのである。もっとも、まだ一年生のこのみや、普段から「生徒会長になったら食堂の職員をオールメイドさん化!」と言ってはばからない雄二に生徒会長を任せるのはためらわれた――というのも大きな理由ではあったのだろうが。
 とはいえ、いずれにせよ現生徒会長として、それなりに周囲からの信頼も得始めているのは事実。何となく最近それが少しずつ実感されてきているせいか、環の言葉が何だかくすぐったい。
 だが、そんな貴明の照れた口元に、環の人差し指がそっと添えられる。
「そんなことないわ」
「え?」
「前より、ちょっとたくましくなったもの」
 そして、指先は口元から首筋、肩をなぞりながら流れていく。
「タマ姉、ちょ、ちょっとくすぐったいよ」
「ふふっ……」
 こちらの抗議にもくすくすと笑いながら、貴明をなぞる指は止まらない。
 二の腕、手指、胸板。いろいろな所を、まるで何ごとか確かめるかのように、そっと環の指先が撫でていく。
「肩幅も……、背中も大きくなったかしらね」
 そっと目を細めながら、小さな言葉が紡がれる。
「ちょっと前までは女の子みたいだったのに。すっかり男らしくなっちゃった」
「そんなこと……」
「大丈夫よ。頼りがい、ちゃんとあると思うわ。私がいなくても、しっかりやっていけるだけの。……ううん、私よりもずっと、立派な生徒会長になれると思う」
「そ……、そうかな」
 惜しみない褒め言葉に、耳が赤くなるのが判る。『可愛い』とか『抱き心地が良い』などと言われたことはよくあったけれど、そんな風に"男"の部分を褒められたことなどなかったから、よりいっそう照れくさい。
「そうよ。……きっと、ずっと前からそうなのね。だから……」
 ふと一瞬だけ、
 環が眩しそうに目を細めた。
「――――……」
「え? ゴメン、よく聞こえなかった」
「……なんでもない」
 その言葉と共に指先が貴明から離れ、そのまま窓際まで環は歩いていった。
「ふふ、みんな楽しそうね……」
 窓外には、また少し高くなった陽射しが舞う校庭。運動部の面々だろうか、卒業生と在校生が歓声を上げながら、最後の交流を楽しんでいるようだ。
 きっと、ここからは見えないキャンパスの様々な場所でも、惜別の時を交わす様々な光景が広がっているのだろう。
 この生徒会室にいる自分たちもまた、たぶん、その中のひとつ。
 背を飾る長い赤髪の寂しげな様子も忘れない記憶となり、2人きりの生徒会室に静かな時が流れていく。
 そうしてどれだけ経った頃か――、
「ねえ、タカ坊」
 ふと環が振り向いて、貴明に問いかけた。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「なに?」
「タカ坊は、楽しかった?」
「え?」
 何を聞かれたのか、一瞬判らなかった。
「それって……?」
 窓のそば、逆光になって少し陰の差した環に貴明は問い返す。何のことを聞かれているのだろうかと。
 しかし、彼女はじっと黙ったまま、答えを待つように佇んでいるばかり。貴明の問いかけは、部室の壁に吸い込まれるように霧消しただけだった。
 ――それでも…
「……うん。楽しかったよ。……すごく」
 少し間を置いた後、それでも貴明ははっきりとそう答えた。
 聞かれた真意は判らずとも、聞かれた意味は痛いくらいに判ったから。
「"楽しかった"なんて……、そんなんじゃ足りないくらい、楽しかったさ」
 かすかに、環が何ごとか呟く声が聞こえた。
 でも、窓から差す光が眩しくて――
 まぶしくて、環の顔はみえない。
 ただ何となく、きっと彼女は微笑んでいるのだろうと思った。
「タマ姉が、いたから」
 訪れたのは、流れる時の音さえ聞こえそうな静けさ。
 決して不快ではなく、不思議と心地よいその静寂。
 2人の息づかいだけが交わされる空間。
「私もよ、タカ坊……」
 その静寂に、こぼれ落ちるような声がひとつ。
 そして、その言葉を置き土産に、もういちど貴明の手が包まれる。
 繋いだ温もりから伝わるのは、たぶん、溢れんばかりの楽しかった記憶。
 やがて、どちらからともなく扉に向いた足音を揃え、貴明たちは思い出いっぱいの部屋を後にする。
「たった一年間だったけど……」
 そして扉を閉める直前、環は深々と――
「お世話になりました」
 まるで、恩師へ感謝の気持ちを伝えるかのように、
 深々と、生徒会室に頭を下げた。



 それから、いくつもの場所を環と歩いた。
 教室、渡り廊下、図書室、保健室、理科室、裏庭、焼却炉、学食、購買、体育館――
 まるで、この学校の中に思い出の残っていない場所など無いと証明するかのように、
 ほんの片隅にまで足を運んでは、その場所で出会った"楽しいこと"を語り合った。

 後から後から思い起こされるエピソードは、自分でも驚くほどに後を絶たない。
 このみが、雄二が、あるいは出会った他の生徒たちが、
 そして隣に並ぶ環がくれた思い出が、深林に湧く泉水のように溢れて止まらない。

 それは、この一年が他のどんな時よりも濃密だったことの証。
 もう二度と訪れることのない、この一年の季節が、これまでのどんな季節よりもたくさんの彩りに溢れていたことの証。
 繋いだままの手から交わされる温もりも、きっと、その彩りに添えられた桜色。
 穏やかな時の流れに身を任せながら、
 貴明は隣で笑う環の顔を、一緒にいる間ずっと見つめていた。



 そして――

「最後は、やっぱりここが良いわね……」
「……校門?」
 そこはこの学校の校門だった。
 いつの間にか午後も深く、西の空が赤く染まるくらいに日は傾いている。もう生徒はあらかた帰ってしまったのか人影も少なく、祭りの後のような寂しい静けさが漂っていた。
「ここが良いって……どうして?」
「……どうして、ってわけでもないのだけれど」
 そう言って、環がこちらを向いて少し笑う。
「思い出、欲しくなっちゃったから。最後のね……」
「思い出?」
「うん。お別れの前に」
「ここで――?」
 なんのことだろうと、周囲を見渡してみる。この場所に何か特別なものでもあっただろうか。
 もちろん、校門にだってたくさんの思い出はあった。しかし、ここが格別他と違っていたことは無いようにも思う。
 見えるものと言えば学校から街へと続く坂道と、その両脇を彩る桜の木。そして、わずかに残った幾人かの生徒がちらほらと見えるばかりの光景。思い出になりそうなものはない。これならむしろ、先ほど訪れた生徒会室や、あるいは屋上などの方がずっと思い出深いはずだ。
 どうしても真意が判らず、貴明は見つめる環に問いかける。
「いったい、ここでなに――」
 ――だが
 唐突に、言葉は途切れた。
 なぜなら、続けるために開かなければいけない唇が、環に塞がれてしまっていたから。
「―――っ!」
 ふわり、と
 花の香りがくすぐるような感覚
「んっ……」
 それは、あの赤髪の香り。
 風に踊るあの赤髪の花が、驚くほど近くにあって
 でも――
 その意味に気付いた時には、唇はもう離れた後。
 名残はかすかに、ほんの少しだけ濡れた温もりだけ。
「――この学校は、私の大切な宝物をしまった場所だから――」
 ぽつり、と
 言葉の雫がこぼれて落ちる。
「だから、思い出が欲しかった。毎日一緒に通った……、いつも一緒に通った学校がいちばんよく見えるこの場所で」
「たから……もの?」
「タカ坊と過ごした時間――」
 見ると――、
 環の瞳に、大粒の涙が宿っていた。
 さっきこのみをあやしていた時にも見せなかった、ひとしずくの涙が。
「タマ姉……」
 それは見る間に目の端から伝い落ちて、
 美しい頬をなぞりながら、やがてぽつりと地面に落ちる。
「バカね、私……」
 そして、
 ひとつひとつ、
「最後の、最後まで」
 宝物を両手で差し出すように、環の唇から言葉が紡がれる。
「こんな時になるまで――、素直になれなかった」
 でも、後から後から生まれる雫は止めどなく
 溢れる痛みを抱いて伝い落ちる。
「本当に……、本当に、私、バカみたい……」
 やがてこらえきれなくなったのだろう、環はくしゃっと顔をゆがめると、貴明の胸の中に飛び込んできた。
 そして、先ほどのこのみをそのまま写したかのように、胸にすがりついたまま、いままで聞いたことのない嗚咽の声を漏らす。
「タマ姉……」
 気が付けば、あれほどたくさん舞っていた白い陽射しは既に消えて、
 代わりに舞い散るのは胸を焦がすような赤。
 いつの間にか暮れなずんだ夕陽の赤が辺りに立ちこめて、環の髪をそっと染めていた。
「うっ……、ぐすっ…………」
 その肩は信じられないほど華奢で、
 震える体は痛々しいほどに切なくか弱い。
 まるで小さな少女のように、赤く染まった幼馴染みが胸の中で泣いていた。
 だが、貴明が背中に腕を回そうとした瞬間――
「だめっ……」
 胸の中の温もりはこぼれるように、腕の間をすり抜けていく。
「……ダメよ」
「え?」
「……だって、これ以上はきっと、怒られちゃうから。あの子に……」
「…………」
 あの子というのは、たぶん――
「そ……っか」
「ごめんなさい。本当はいけないことなのに、どうしても……、押さえられなかった」
「いや……、俺の方こそ」
 貴明は想う。
 もし、時間が少しだけ違っていればと。
 もしも星の囁きが少しだけ違っていれば、
 囁く風の音色がほんの少しだけ違っていれば、
 きっと、手を繋いで歩いたのは――
「俺の方こそ、ごめん。タマ姉……。俺は……」
 だが、貴明がその言葉を言い終わるより前に、
 環の人差し指が、貴明の唇を止めていた。
 そして――、
 涙で濡れた頬を笑顔に変えながら、、
 貴明のそばから離れていった。
「あっ……」
 その手をつかまえようとして、
 貴明はすんでの所で思いとどまる。
 宙に浮いた手を必死で握りしめて、それはやってはいけないと言い聞かせて。

「――タカ坊!」

 ひとつ、夕暮れの並木道に響く声。
 その声に顔を上げれば、

「私……私ね………」

 下り坂の途中で振り返り、眩しいくらいの笑顔をこちらに投げかける環。

「子供の頃からずっと、あなたのことが好きだった!」

 それは、きっと――
 まぶしすぎて、みえなかった微笑み。

 ずっとそばにいて、でも気がつかなかった、大切なもの。

 走り出した環の赤髪
 それはすぐに坂の向こうに消え去り、
 後にはただ、春の陽を宿して舞い散る幾千の思い出たち。

「タマ姉……」

 もし――、

 ほんの少しだけでも、時のさだめが違っていたら、

 あのまぶしくてみえない微笑みを、自分の手で包むことができただろうか。

 でも、その問いに答える者はもういない。
 あの美しい赤髪を翻し、時の彼方に去っていった。

「タマ姉、俺だって……」

 俺だって、きっと、タマ姉のことが好きだった。

 その言葉は、永遠に秘された大切な宝物。
 鍵を開ける者なく、幾星霜の時にしまわれた無二の宝石。

 やがて――

 どれだけそうしていたものか、
 貴明はゆっくりと息をつくと、坂の下に背を向けて、来た道を戻り出す。

 そして、ふと見ると、
 近くの木の陰に、見知った髪の女生徒の影。
 不安そうな表情で、そわそわと貴明の方を伺っているようだ。

「……こら、のぞき見は良くないな」
「えっ? あ……」

 慌てて出てきたのは、貴明がよく知る少女。
 かわいそうに、おろおろとどうしてよいやら判らない様子で、一所懸命に言葉を探しているようだ。

 その様子に貴明はふっと優しく微笑み、
 ゆっくりと少女の元へ歩いていく。

 誰よりも大切なの元へ
 赤髪の少女ではない、自分が愛する少女の元へ。

 いま、誰よりも繋ぎたい手を……
 かけがえのない眩しい微笑みを、その手で包み込むために




 ――――――――――終わり




BGM
「まぶしくてみえない」 歌:yozuca* (『D.C.II 〜ダ・カーポII〜 VocalAlbum Songs From D.C.II』所収)
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