From girl to …
〜Story of ring in Lucy〜
第二回葉鍵板最萌トーナメント出展作品
| Novels | Home | 


     ※

 一昔前のある日、男がひとりやってきて、
 大海のどよめく、日のささぬ寒い浜辺に立ってこう言った。
 「この海原越しに呼びかけて、船に警告してやる声が要る。その声を作ってやろう。
 これまでにあったどんな時間、どんな霧にも似合った声を。
 それは、夜更けてある人のそばの空っぽのベッド、訪れた人のいない家、
 また、葉の散ってしまった晩秋の木々に似合った、そんな音。
 鳴きながら南方へと飛び去る鳥、12月の風、寂しい浜辺に寄する波に似た音。
 それはあまりにも孤独な音だから、誰もそれを聞き逃すはずはなく、
 また、それを耳にした者は誰もが密かに忍び泣きをし、
 遠い街で耳にすれば、我が家がよりいっそう温かく懐かしく思われる、そんな音を作ってやろう。
 俺は我と我が身をひとつの音、ひとつの機械と化してやろう。
 そうすれば、人はそれを霧笛と呼び、
 それを耳にする者は皆、永遠というものの悲しみと、生きることの儚さを知るだろう」


         ――――「霧笛」 著:レイ・ブラッドベリ



     1


 君が初めてその猫に出会ったのは、桜もまだ咲き揃わない3月の上旬のことだった。
 川沿いの木の下で、あの高校生の男の子と出会った日。ハンバーガーをいかにも美味しくなさそうにもそもそと食べた後、ほんの少しの行き違いからその男の子とけんかになり、君が茂みの中に身を隠したその時だった。カイヅカイブキの向こう側の芝生で寝ていたブチ模様の猫の驚いたような瞳を、君はきっと今でも覚えている。
「%$'▲○&¥」#×=¥」
 そう、その時君はそう口にした。猫であろうとなかろうと、その発音から何がしかを読み取れるものはきっといなかったろう。案の定、猫も何を言われたのか判らずにきょとんとして、自分の睡眠を邪魔した桜髪の闖入者を見つめているばかりだった。
 さらに君は、「弄醒了?」とか「Io sono spiacente. Ha cominciato?」とか、いろいろな音を猫に向かって発したけれど、少なくとも猫がそれを解した様子は見られなかった。
 猫がようやく反応らしい反応を見せたのは、君が29回目に話した、「すまない。起こしたか?」という日本語。
 その言葉を聴いたときに、猫が「うにゃあ」と鳴き声をあげたんだったね。
 それを見た君は、ご満悦そうに「そうか、この地域の言語はこれになるのか」と言って、頭の辺りにある何かを調整するようなしぐさをした。君には、猫が偶然あくびを漏らした可能性というのは、どうやら考えるに値しないもののようだ。
 そして、君はやおら立ち上がり、両手を天に突き上げて何かを宣言するような格好になる。
「るーの名前は、るー・%&+@@#¥**という。覚えておくが良い」
 何を言っているのか猫には全く理解できなかったろう。かろうじて名前を言っているんだと言うことくらいは判ったかもしれないが、肝心の名前の部分は全く読み取れない。
 それでも、猫が「にゃあ」と興味なさそうに鳴くと、君は「そうか、お前の名前は"ニャー"というのか、記憶したぞ、ニャー」と、またぞろとんでもない勘違いを披露した。
 君は今でも知らないが、その猫の名は「ニャー」などという散文的なものではない。だが、その後猫がいくら「ニャーニャー」と抗議しても、「そうか、確かに良い天気ではあるな」「それは違うぞ、ニャー。大いなる"るー"の仲間たちは、るーを決して見放しはしないだろう」と、なんら関係ないことを次々に口にするばかりで、結局猫が諦めたように「にゃあ」と漏らすまで、噛み合うことの無いコミュニケーションを続けていた。
「るーの名前は、るーこ・きれいなそら」
 君の名前をようやく猫が知ったのも、日はとっぷりと暮れた後、あの男の子と2度目のやり取りをしていた時だった。
 そうでなければ今も…猫は君の名を知らないままだったかもしれないね。
「るーは大熊座47番星第3惑星"るー"から、光より速い光に乗って"うー"を探検にやってきた。るーは"うー"の言うところのエイリアンだ」
 アルテミスの明かりに反射して、君の左手の中指に嵌められた銀色の指輪が輝く。
 それはとても鮮明で、きっと、その場の誰もが…君の、とりこになったんだ。


     ※


 君は、その後この公園で昼夜を過ごし続けていたね。
 朝は公園の水道で身だしなみを整えて、昼は何やらごそごそと作り物をしたり、学校に出かけたりし、夜は公園の遊具の中で眠っていた。汗をかくと近所の銭湯に行き、服が汚れれば学校の家庭科室で洗濯をする。おなかが空けば商店街で食事をしたり、公園で魚を焼いて食べていた。
 驚くべきことに、君はそれにかかる全ての経費を、マッチ棒で済ませていたね。もっとも、最初は面食らっていた商店街の人々が、すぐにマッチ棒での取引を開始したことは、さらに驚くべきことだったけれど。
 あの時、君がどんな魔法を使ったのかは判らないけれど、商店街のみんなが君の笑顔を心待ちにしていたことは疑いがない。君が商店街にいない時に、お店の人たちが「今日はまだ来ないのかなぁ」「美味しい魚を仕入れたんだよ。今日も持ってかれちゃうかなぁ」と待ち遠しそうに話していたことを、君はきっと知らない。あの時君が配ったマッチ棒が、今でも店々のレジスターの中に大切にしまわれていることを、君はきっと知らない。
 みんな、君の事が大好きだった。ぶっきらぼうで、無表情で、尊大で、口を開けばわけの判らないことばっかり喋ってる君のことを、みんなが愛していた。
 どうしてだろう? そればっかりは誰にも判らない。
 でも、想像力をたくましくすれば……君がその時、寂しい思いをしていたことを、みなが直感的に悟っていたのかもしれないね。
「ニャー。今日はイワシを買ってきたぞ。イワシは今が旬なのだ。ニャーにも存分に味わわせてやるから、覚悟するがいい」
 "るーこ"と書かれた紙を公園の表札に貼り付けた君の家。郵便ポストまで用意して、君はすっかり公園の主を気取っていたね。
 おすましした服とスカート、花の髪飾りと銀の指輪はどう見てもお嬢様で、公園でホームレスのような暮らしをしているなんて、誰が信じただろう?
 猫を横にはべらせた、夕暮れの公園のお食事会。本当に、誰が想像しただろうか? でも、それはどこまでも現実で、夕暮れと宵闇のダンスを天上に、君はぱたぱたと団扇の音も軽やかに、七輪で魚を焼いていたんだ。
 春先とはいえ、まだ肌寒い三月の黄昏時。美味しそうな匂いの煙がゆらゆらと立ち昇る向こう側、君は物憂げな表情で、ちりちりと油の爆ぜるイワシをぼんやりと眺めていた。
 そして、どこかの家の夕餉の匂いを含んだ風が君の髪を少し揺らすたび、君は、思い出したように猫に話しかけるんだ。
「ニャーは聞く限りではあまり良い食事をしていないようだ。以前はハンバーガーも食べると言っていたが、あれは栄養バランスが良くない。るーがしっかり健康管理してやるから、毎日ここに来い。判ったか?」
 家に帰れない、と君は言っていた。自分は遭難者なのだと。
「にゃあ」
「わがままを言うな。好き嫌いは健康の敵なのだ」
「にゃあ」
「心配せずとも味の保証はしてやろう。るーは、"るー"でるーママに次いで2番目に料理がうまいのだ。ニャーの舌ごとき、満足させられぬわけがないだろう」
「にゃあ」
「判れば良い。いいか、毎日来るのだぞ。毎日だ」
 はたから見れば全く会話が噛み合っているようには見えないが、君にとってはコミュニケーションの成立は疑う余地は無いようだ。返答にうんうんと嬉しそうに頷いて、油の乗ったイワシをふうふうして、猫に与えていたね。
「うまいか、ニャー」
「にゃあ」
「そうか」
 君はずっと猫を見つめていた。はむはむと、まだ熱いイワシの身をそれでも口に入れようとがんばっている猫の姿を、君は嬉しそうにずっと見つめていた。
 誰もいない公園の中で紡がれる、猫と2人の時間を、君はいつも宝物のように大事にしていたね。
 でも……茜色の空は次第に夜の色に染まって行く。猫がいなくなるころには月明かりが公園を薄く照らし、家々の窓には蛍光灯の光が明るく灯り、仕事を終えて帰ってきた父親と楽しそうに笑い会う子供たちの声が遠くから聞こえてくる。
 ひんやりとした風はさえぎるものの無い園内を我が物顔で駆け抜け、時折どこかから飛ばされてきた紙くずが、からからと乾いた音を立てながら転がっていく。
 明るい頃には、子供たちを乗せてキイキイと歓声を上げていたブランコも、歌を忘れた小鳥のようにじっとして音も立てない。
 君は、時折ブランコに腰を下ろして、遊んでいた子供たちがやっていたように漕いでみる。ブランコが前後に振り出すと、次第に勢いをつけて荷重をかけ、より高いところへと上っていく。その先に何かを見るように、ずっと空を眺めながら、星を眺めながら、君はブランコを一心不乱に漕いでいた。
 そして、何度目かの振り子を繰り返した後、君は天にその身を投げ出すように、ブランコからジャンプする。
 たぶん、その一瞬だけ、君は鳥になっていた。白い翼をはためかせ、どこまでも空の向こうへと飛んでいく、一羽の鳥に。
 …でも、一瞬が通過すれば、そこには重力に抗うことのできない、翼をなくした少女の姿だけ。
  ブランコから投げ出された君は、どこへも行くことなく、地面に着地する。
 後に残るものは、誰もいない公園と、どこかの家から聞こえてくる談笑。
 一人で遊んでみたあと、決まって君は遊具の中に入っていき、両脚を折り曲げて丸くなる。小さな手で懸命に耳を閉じ、小さく震えながら眠りに付く。

 明日また、誰かに会えるように。
 明日また、楽しいことがあるように。
 きっとそんなことを思いながら、君はひとりぼっちで眠りにつく。


     ※


 君が、次第に寂しい顔を見せなくなっていったのは、川沿いの桜が満開になってすぐの頃だった。ピンク色の花弁が街を染める三月の下旬、世間の学生は春休みだと言うのに、君は何を考えていたのか毎日学校に通っていたね。
 いつもどおりの時間に学校に出かけ、いつもどおりの時間に学校から帰ってきて魚を焼き、すっかり友達になった猫と一緒に夕食を食べ、夜は公園の遊具の中で眠る。そして目が覚めれば身支度をして、学校に行く。そんな毎日。
 ある日、君は学校から帰ってくると、待っていた猫に嬉しそうに話しだしたんだ。
「ニャー。どうやら最近学校に誰も来ていなかったのは、うーたちの学校が春休みなる期間に入っていたかららしいぞ。春休みと言うのは、学校に来るのに疲れたうーたちが、合法的に家で食っちゃ寝するために設けられた休日の集合のことだ、判るか?」
「にゃあ」
 いつもどおりの猫の返答だが、君はそれを聞いているのかいないのか、それとも了解の返答をそこに見出したのか、先を続ける。
「だが、そうであるにも関わらず、るーの他にもうひとり学校にやってきたうーがいた…。ニャーも知っている、あのうーだ。るーを探して、学校まで来たらしい。教室に入ってきた時のうーの顔…ニャーにも見せてやりたかったぞ」
 その時のことを思い出しているのか、君はくすくすと、見たこともないような笑顔で笑い声を上げる。
「どうやらるーに惚れているようだ。なんとも身の程知らずなことだ。うーの分際で、るーに恋焦がれるとはな」
「にゃあ」
「ニャーもそう思うか。あのうーめ、胸を引き裂かれる痛みに耐えられるかどうか。それは地獄の苦しみ。恋など、対象が高嶺の花であればあるほど燃え上がり、そしてかなわぬと知った時に、余計に心を抉るものだ。うーはうーらしく、この間一緒に帰っていた"うーこの"とかいう小さなうーを口説けば良いものを…。まぁ、惚れてしまったものは仕方ないのだがな。せいぜい足掻いている様子を見物させてもらうとしよう」
 後半は、もう猫に話しかけている様子もない。ほんの少し頬を桜色に染めて、君はとても幸せそうに、君がうーと呼ぶあの男の子のことを、ずっと話し続けていたね。憎まれ口の裏で、心配して学校まで探しに来てくれたその男の子のことを、どれだけ嬉しく思っていたのかが見え隠れして、それこそ微笑ましい光景だった。
 その夜、いつものように遊具の中で眠っていた君だったけど、でも、いつものように耳をふさいではいなかった。
 とても安らかな顔で、風の音に耳を済ませながら、すうすうと規則正しい寝息を立てていたね。

 次の日から、君はもっと楽しげに笑うようになった。どこかへ行って、帰ってきては「今日は花見をした。コーラと言う飲み物を飲んだぞ」「今日はうーのやつを騙してやった。うータマたちと一緒になって、うーに地獄を見せてやったのだ。うーの奴、なんて言ったと思う?」「今日はうーとトンカツを食べた。あそこのトンカツがいかに上等かということを、うーに体験学習させてやったのだ」と、その日何があったのか、あの男の子がどんなことをしてどんなことを話していたのか、微に入り細を穿ちながら、逐一かたわらの猫に報告していたね。
 そのときの表情を、それこそ君自身に見せてあげたかった。それは恋する乙女の表情そのものだった。何のことはない、他の誰でもない君自身が、あの男の子にくびったけだったんだ。
 それまでの、寂しそうに震えていた君はもうそこにはいなくて、代わりに、毎日新しく紡がれる思い出を噛み締めながら夢を見る君がそこにいた。

 …少なくとも、ラジオの雑音に耳を傾けていた、あの日、あの時までは。


     ※


「迎えが来る」
 そう言って、膝の上に抱いた猫に君は放しかける。たくさんの花弁に包まれた桜が彩る、4月のある日のことだったね。
 君はなんとも複雑な表情をして、仲間たちが自分を迎えに来ると言うことを告げていた。
「光より速い光に乗って…るーの仲間たちが、るーを迎えに来る」
 膝の上の猫は何も応えず、顎を撫でる君の指先にごろごろと喉を鳴らしながら、膝の上で丸くなっていた。
「お別れだぞ…ニャー。ニャーとも、そして、うーとも」
 君はずっと帰りたかった。自分の故郷へ、父親や母親の元へ。ずっと、ずっと、帰りたかった。口では、自分は一人前だといって、寂しくない寂しくないと強調してはいたけれど、でも、本心がそこにないことなんて、誰にだって判ったろう。
 だから、帰れると知った君は、本当ならその幸運に素直に身をゆだねて、この地を離れるその日まで、せいぜい思い出をたくさん作っておこうと頑張っていたはずだ。
 でも、君はあまりにも、ここに思い出を残しすぎたんだね。
「寂しいか? ニャー…」
 猫は相変わらず膝の上で気持ちよさそうに、何も応えずに目を閉じている。
「寂しいと言え、ニャー。るーがいなくなったら寂しいと」
 君がここに来て、一ヶ月。冬の名残を残して、横顔にほつれ髪を飾っていた風はすっかり暖かくなり、ほのかに白んで行く早朝においても、そっと君を包み込んでいた。
「さっき、うーを木の上に連れて行ってやった…。くーを、いちばん高いところで見せてやったのだ」
 なのに、君は、あの頃に戻ったかのような表情で、ぽつぽつと零れるように言葉を紡いでいたね。
「るーの力ももう残っていない…。うーにしてやれることも、ニャーにしてやれることも、もうない」
 ひとつ、言葉が落ちるたびに、君の顔は沈んでいくようだった。決して嬉しくないはずはないのに、それでも君は、一ヶ月を過ごしたこの公園と、友達になった猫と、あの男の子のことを想っていた。
「るーは…」
「にゃあ…」
 膝の上の猫がのそのそと起き上がり、一声鳴いた。そして、君の頬をそっと舐める。
「…ありがとう…。るーも…ニャーのこと、ずっと忘れないぞ」
 君は猫をぎゅっと抱きしめる。
 意思が通じたのか、通じていないのか。
 それでも、確かにそこには温もりが抱かれていた。

 ――そして、雨の日がやってきた。


     ※


 雨雲が空を次第に埋め尽くそうとする夕暮れの中、君は公園に走りこんでくると、いつも空を見上げていた滑り台の上に駆け上り、呆然とした表情で薄暗い彼方を見つめていた。あの時、君は何を想い、次第に黒く染まっていく天を見上げていたんだろう。
 やがて、かすかに残っていた星の間を流れる小さな光を君は見つける。必死にその光を追いかけ、そして転んで地面に叩きつけられた。すりむいた膝から、赤く血がにじむ。光の消えた空をもう見ようともせずに、君はかたわらに駆け寄ったあの男の子に呟いた。見捨てられた、と。男の子は必死でそれを否定していたけれど、でも、君の表情に浮かぶ絶望の色は消えなかった。

 やがて、雨が降り出した。

 真っ暗な空から、冷たい雫がいくつもいくつも落ちてきて、やがてざあざあという音を立てて、悲しみにくれた地を煙らせた。
 君は寝床にしていた遊具の中に蹲った。膝を抱えてうつむき、まるでここに来たばかりの頃のように――いや、あの時よりもなお小さくなって震えていた。何時間も、何時間も、君はずっと遊具の中で、ひっそりと悲しみにくれていた。
 いったい何があったのか、君は世界から目を背け、耳をふさぎ、重苦しい何かにその身を押しつぶされてしまうことに怯えていた。
 あの男の子が君の手を引いてそこから連れ出していなければ――たぶん、君は、ただ静かに衰弱し続けて――死んでいただろう。
「連れて行くからな。お前を俺の家まで連れて行くからな」
 いつになく強い口調。
 残酷にこの世を打ちつける雨の中、その声は君に届いていたのだろうか。


     ※


 その日から、君は公園ではなく、あの男の子の家で暮らすことになった。
 そして、誰がどう見ても無理をしていると判るような笑い方をするようになった。
 表面上は、それなりに幸せに暮らしていたと言えるだろう。彼のために朝食とお弁当を作り、学校へと送り出し、家事と献立に気を使いながら一日を過ごし、帰ってきた彼のために作った夕食を一緒に食べて、夜は同じベッドで眠っていた。間違いがあったわけではないけれど、それは新婚夫婦のような生活で、事情を知らない誰かから見れば、そこに横たわる不安など見えなかっただろう。
 でも、君を知る者が見れば、その笑顔が作り物だと言うことに気づかぬはずはない。
 特に、一緒に暮らしている男の子には、その表情は見るに耐えないものだったのだろう、君が笑顔を見せるたび、身体を切り刻まれるような辛そうな顔をしていた。
 だから、彼が「UFOを呼ぶ」と言い出すのも無理からぬことだった。
 彼は夜になると学校へ行き、待ち合わせていた女の子と一緒に、暗い夜空に向かって「るー、るー」と叫びながら、UFOを探す日々に身を投じた。来ないUFO、見つからない光、辿りつけない希望を星の間に追いかけて、彼は一心不乱に、星座の彼方に叫び続けていた。
 君は彼の行為の有効性を頭から信じてはいなかったね。そんなことをしても無駄だと、諦めた声で彼を諭していたね。
 けれど、でも、彼は己の信じる道を決して曲げなかった。
 どれだけ時間がすぎようと、彼は足しげく夜の学校へ向かい、深夜遅くまで明日への扉を探し続けていた。
 そして…次第に、彼は衰弱していった。
 無理もない、朝になれば学校へ行き、昼は授業を受けて、夜はUFOを探すといって遅くまで学校でがんばり続ける。
 修行僧でもない一介の学生に、そんな生活がこなせるはずはなかった。日に日にやつれていく彼を君は何とかして止めようとした。
 でも、彼の思いはとても強固で、君の制止を頑として受け入れなかった。
 君を幸せにするために、君の喜ぶ顔を見るために、彼は自分の身を削るのを惜しまなかった。
 だけど、その気持ちは、君の心を次第に苛んでいったね。
 疲れた顔を隠すことも出来なくなっていく彼の姿に耐えられなくて、葉桜がまだらな緑を木の上に描く4月の半ばに、君は…久しぶりに、公園までやってきたんだ。

「ニャー…」
 陽射し降り注ぐベンチの上で眠りを貪っていた相棒の横に腰を下ろし、君は珍しく頭を抱えてうめいた。
「ニャー…ニャー…。るーはどうすればいい? どうすれば、うーを思いとどまらせることができる?」
 それは多分、君がここへ来て、初めての弱音だった。
「るーは、"うー"になると言った。うーと共に暮らすのだと。それがいちばん良いのだと…。でも、うーは、るーを星へ帰すのだと言って聞かない…。るーパパやるーママの元へ返すのだと。そんなことは…もう、不可能なのに。そう、何度も言っているのに…」
 まだ冷たい風が吹いていた夜の闇、遭難したと言って公園に住み着いた頃…
 満開の桜から花弁の祝福舞う朝の光、毎日を嬉しそうに暮らしていた頃…
 叩きつける雨が肩を濡らした黄昏の闇、見捨てられて膝を抱えていた頃…
 君は、ただの一度も、弱音をはいたことはなかった。
 絶望が笑顔を隠しても、諦めの言葉を口にしても、君は最後の最後で、決してくじけることはなかった。
「るーは…るーには、何もできない…。うーのためにしてやりたいこと、たくさんあるのに…」
 でも、その時の君は…
「うーが…死んでしまう…。るーのせいで、るーが…愚かだったせいで…。る、るー…が…るーのせい…で…」
 ベンチに座っている君。両手で顔を覆って、肩を震わせて泣いている。
 公園の入り口で、中に入ろうとした若い母親が君の姿を見て、おろおろと躊躇っている。
 君の横に寝ていた猫はいつしかお座りして、ただじっと、君が泣く様子を見ている。

 誰かの声が聞きたくて、君はここにやってきた
 誰かに声をかけてほしくて、君はここで待っていた
 たった一人の温もりと
 たった一つの愛情と
 それでも、それはどこまでも君の心を包み込み
 ひとりぼっちの君に笑顔の花を咲かせていた
 それはきっと
 君がずっと前から望んでいたもの
 君が、君であるために
 君が、君であることを望まれるために
 大切に育てられていた、幸せの果実
 でも、それはとても儚くて
 それはとても脆くって
 不安な童話は夢を侵食し
 誰かの願いは誰かの心を殺し
 小さな幸せは朝露が零れるように、ただ消えゆく
 そこにあった温もりはそれ故にその身を苛み
 優しい誰かは優しさ故に傷つき、倒れる

 散りきらぬ桜の花弁が名残を惜しむように風に舞う公園。
 澄み渡った空はどこまでも遠く、青く、幸せな世界を祝福していたのに。

「なぜ…何も言ってくれない…ニャー。ニャーも…るーが嫌いか…? るーが…るーが間違っていたから…るーのこと、嫌いになったのか…?」
 かたわらに座る猫は黙して語らない。鳴くでもなく、毛づくろいをするでもなく、少ししょんぼりとしたようにも見える様子で、君の事をただじっと見ているだけ。
「お前も…るーと、同じ。ひとりぼっち…。なのに…」
 少し強い風が、きぃきぃと、誰もいないブランコを揺らす。
 それは呼び声だったのか、猫はベンチからひょいと飛び降りて、たたっと公園の門のほうへと駆けて行ってしまう。
「ニャー! い、行くな! ニャー!」
 驚いた君は、慌てて猫を追いかける。でも、猫はそんな君を尻目に、門柱の上に飛び上がって、連なるフェンスの上を器用に歩いていってしまう。
「なぜ…なぜ、お前は…そんなにも、強く生きられる! たった一人で…なぜ、たった一人で、そんなに強く生きられる!」
 その問いかけを理解したのかそれとも偶然か、猫はフェンスの上で器用に君を振り返ると、いつものあの丸い目で君を見つめた。
 君は、すがるように猫の目を見つめ返し、ただ、内なる声を言葉に出して、猫に問いかけ続けた。
「頼む…ニャー、教えてくれ…。もう、るーはどうしていいか判らない…。るーは…るーには…もう、何も…何も、できない…」
 君は膝をつき、ゆっくりと両手を地に付ける。
 スカートが砂埃に汚れるのにも気づかずに、君は何がしかの答えを…たった一言の応えを、君は待っていた。
「にゃあ…」
 一声、猫は小さく鳴いた。
「ニャー…。お前は…」
 身を翻し、フェンスを駆けて、猫は見えなくなった。
 後には、ただひとり、君だけが残った。


     ※


 別れの歌声が聴こえたのは、それからすぐのことだったね。
 こと座流星群の中に隠れて、君の仲間が君を迎えに来るのだと。
 みんなの思いが空に通じたのだと、君はまた複雑な顔をして語っていたね。
「るーるーるー」
 あの男の子を連れて、君は公園にやってきた。あの店のハンバーガーを携えて、最後の別れを惜しみに。
 何の変哲もない、プレーンなハンバーガー。
 君は、袋からそれを出して、小さくちぎって猫に与えていた。嬉しそうにハンバーガーをほおばる友だちを見ながら、君は淡く微笑んでいた。
 これから自分の身に起こることを覚悟して、君はただ静かに、時の流れに身を任せ、ただ、優しい笑みをあの顔に浮かべていた。
「ニャーは強いな。ひとりでも生きていけるか。それに比べて…」
 君は、君が君でいられなくなることを、男の子に告げる。
 終わりの始まりは、歌声の中に予感をしのばせ、ずっとずっと響いていた。
 その時、君は何を想っていたんだろう?
 諦めもなく、悲しみもなく、君はただ静かに、抱きしめられるまま身体を預け、空に溶けた愛情を見送るように、静かにそこに立っていた。

 別れ際…君は先を行く男の子を待たせて、公園に戻ってきた。
 おなかいっぱいになった猫の下に駆け寄って、君は自分の指にずっと嵌められていた指輪を外して、猫の前に置いたんだ。
 あの出会った日、アルテミスの明かりを受けてきらきらと輝いていた、あの指輪だった。

「ニャー。多分…もう、ニャーと会うことはない。これが、最後だ」

 君はゆっくりと、立ち上がる。

「受け取れ、ニャー。せめてもの餞別だ。ずっと…るーを気にかけてくれた…、あの日、るーに勇気をくれた、礼だ…」

 風に髪を慣らすように、君は静かに語り続ける。

「にゃあ…」
「何も言うな…。ニャーにそんなもの、必要ないかもしれないが…」

 急に語ったら涙がこぼれてしまうから…

「せめて、覚えていてほしいのだ。るーのこと…ずっと」

 遠い空の向こうを、幾日も、幾日もかかって…

「さよならだ、ニャー」

 遠く、遠く、歌声は遥かな遠く、霧の向こうに呼びかけるように、響く。

 一声、猫は鳴き、小さな指輪をくわえて、いずこかへと立ち去った。
 一滴、涙は零れ、小さな優しさを抱きしめて、君は…

 遠い空の向こうを、幾日も、幾日もかかって…

 そして、君はいなくなった。


     ※


 孤独は、どっちが持っていく?
  あたしが
  あたしが
 孤独は、人になる子にあげよう
 代わりに、お前には音を作ってあげよう
  音を?
 この世の誰も聞いたことのない音
 この海原越しに呼びかけて――


         ――――「半神」 著:野田秀樹 原作:萩尾望都(小学館)



     2


 葉桜の香りが、柔らかな陽光を緑色の風に乗せて運んでゆく5月の歩道。お気に入りのリボンをあしらった白いブラウスと黒のミニスカートに身を包み、透けるような桜色の長い髪をさらさらと揺らしながら、君はゆっくりと歩いていく。
 ゴールデンウィークの初日ということもあってか、街は浮き足立つような賑やかさに包まれて、今も君の横を、小さな男の子の集団が歓声を上げながら横切っていく。門柱の脇で世間話に花を咲かせる主婦たちや、ベビーカーを押しながら楽しそうに談笑するカップル、自転車でどこかへと急ぐ男の人も、たまの連休に安らいだ表情を浮かべている。
 そんな楽しげな街の中、どこまでも高く続いている青空の下を、春の囁きに耳を傾けるかのように歩いていく君の姿は、さながら地に舞い降りた春の使いのようだった。表情の読みづらいぼーっとした眼差しも、むしろそれに説得力を持たせているといえるだろう。
 ほら、今すれ違った男の子が、君の事を振り返っているよ。少し頬を赤くして、君の後姿を眺めている。
 でも君は、そんな眼差しに気づく様子は一向になく、どこへともなく――あるいは、確固とした目的地があるかのような足取りで――陽射しが踊る道を歩いていく。
 やがて、君は小さな公園にたどり着く。カラフルなペンキ塗りの滑り台と、小さな鉄棒、ジャングルジムにバネ式遊具、藤棚が日陰を作るベンチにブランコ…どこにでもあるような、小さな公園。
 君は公園の中に入ると、いつものようにベンチに向かう。そこに先客の姿を見つけた君は、その隣に腰を下ろし、抑揚があるのかないのか微妙なトーンで、話しかけた。
「起きろ、ニャー。るーが遊んでやりに来てやったぞ」
 まるでずっと前から約束された待ち合わせであるかのように、君は猫の待つ公園へとやってきた。
「何をきょとんとしている? ニャーもるーのことを忘れたか?」
 あの日、君がいなくなってから、まだ2週間と経っていない。
「うーも、なにか"るーこ"という別人と、るーのことを間違えていた…。お前は、良いニャーだから、そんなことは無いのだろう?」
「にゃあ」
「お前もうーと同じか。仕方ないやつだ、よく聞くがいい」
 君は、あのお決まりの"るー"のポーズをする。
「るーの名前は、ルーシー・マリア・ミソラ。アメリカ・カリフォルニア州出身。父は弁護士、母は自然保護活動家」
 きょとんとした顔の猫をよそに、君は得意げな顔で、猫にウィンクする。
「覚えたか? …いや、思い出したか? ニャー」
 猫はなんとも答えない。面食らったような顔で、ルーシーと名乗った君を見つめているばかりだった。
「まあいい、その内思い出して慣れろ。もう、るーがいなくなることもないだろう」
 満足げに頷くと、君は猫の横に座って、ぽかぽかと気持ちの良い陽光をいっぱいに浴びて、るー、っと伸びをした。まるで猫のようだ。
「この空…、変わらない。るーは、帰ってきたのだな…」
「にゃあ」
 膝の上にひょいっと乗って、猫は丸くなって眠りに付く。
 君はそっと背中を撫でてやりながら、うららかな春の陽射しを謳歌し、自らも目を閉じて眠る。

 午後の陽射しはオブラートに包まれたように淡く、君を乗せてゆっくりと回っていく。
 安らかな寝息は規則正しく、どこからか運ばれてきたひとひらの花弁が、そっと君の手のひらを飾っていた。
 遠く、ツバメが飛ぶ姿。
 どこかの軒先に巣を作るため、方々を飛び回っているのだろうか。
 流れる雲は地上に影を作りながら移動していく。
 誰かの顔をそこに見て、今もどこかで笑いさざめきあう声が聞こえる。
 穏やかな春の日は、そうして過ぎていく。

「る…少し寝てしまったか」
 時間にすれば30分程度だったろうか。
 君は目覚め、ゆっくりと顔をあげる。
「ふふ…こんなに安らいだのは久しぶりだ…」
 ふと、金属音がして、きらりと光る何かが足元に落ちた。
「る?」
 いつの間にか猫は膝の上から降りていて、今は君の隣で毛づくろいに余念がない。
 君は足元に落ちたそれを拾う。
 銀色に輝く、一輪の指輪…
 それは、つい先日、君がその猫に託したはずの指輪だった。
「…なんだ、これは」
 でも、君はまるで今初めてそれを見たように、そんなことを言う。そしてかたわらの猫に向かって、ぶっきらぼうに差し出す。
「これはニャーのものか? るーは施しを受けるいわれはない。持って帰るがいい」
 猫はそれを聞いていないかのように、指輪に一瞥をくれることもなく、後脚で耳の後ろを掻きながらのんびりしているだけ。
「ニャー。聞いているのか?」
「…………」
 ひとつ、あくび。痒いところがなくなったのか、今度は前脚を舐めて、顔を洗い出す。
「……これは、るーが持っていてはいけないものなのだ」
 銀色に輝く指輪。
 しかし、それは銀ではない。
「持っていけ、ニャー。いらなければ捨てれば良い、どのみちお前には使い道のないものだろう…。でも、るーにもそれは使い道が…」
「にゃあ」
 君の言葉をさえぎるように猫が鳴く。
「…ニャー?」
 あの丸い目に、君が映る。
 ルーシー・マリア・ミソラと名乗った女の子が、映る。
「ニャーは…」
「にゃあ」
「そうか…」
 意思の疎通は、そこにあっただろうか。
 君は、猫の鳴き声から、何を読み取ったのだろう?
 でも、君は確かな瞳で、指輪をもう一度手に取り
 左手の中指に、そっと嵌めた。
「強いな…ニャーは…。本当に、るーなどより、ずっと…」
 そっと手を胸に当て、夢見るように君は呟く。
「るーは、るーから来て、るーになった…」
 それは祈りの歌。
「ならば、るーは…いつだって、るーだ。そうなのだな? ニャー…」
 うんうんと、君はひとりで頷いて納得している。
 意思の疎通ができているのかいないのか…誰にもわからない。

 ――『私』を除いてはね。

「ニャー。お前はやはり、良いニャーだ。ずっと、るーの友だちでいるんだぞ」

 それにしても…
 君は、いつまで経っても私の名前を覚えてくれないんだね。
 私はニャーという名前ではないのに。
 もう、何度言っても聞いてくれないんだから。

「にゃあ〜」
「ふふ、可愛いやつめ。膝の上に乗るが良い。顎を撫でてやるから覚悟しろ」

 私の名前は、ルーシー。君がさっき名乗った名前と同じ。
 もっとも、その様子では、きっとずっと、私の名前はニャーなんていうヘンな名前になっちゃうんだろうなぁ。

「ニャー…耳を貸せ、良いことを教えてやる」

 君はゆっくりと口を寄せ、私の耳に魔法の言葉をささやく。

「るーの名前は…」

 春風に乗って、君の声がそっと風に踊る。
 君はそっと私を抱きしめる。

 きっと、いつまでも、私の名前はニャーのまま
 でも…君にだけは、そう呼ばれてあげるよ。

「るーの名前は、るーこ・きれいなそら…。ふたりだけの、ナイショだぞ?」

 私から、君へ、銀の指輪は返された。
 君から、私へ、秘密の名前は託された。

 きっと、ずっと、いつまでも――
 宝物は、色褪せぬまま、少女たちの心に宿り続ける。

 春風に君の髪が揺らめいて…
 澄み渡った空はどこまでも遠く、青く、幸せな世界を祝福していた。


 ――――――――――終わり


参考文献
『霧笛』 作:レイ・ブラッドベリ 訳:大西尹明(東京創元社『ウは宇宙船のウ』所収)
『半神』 作:野田秀樹 原作:萩尾望都(小学館)
Base template by WEB MAGIC.   Copyright(c)2007 Walkway of the Clover All rights reserved.


inserted by FC2 system