正しい自殺のやり方
注:ただのコメディ小説です。本当に自殺したい方は他のサイトへどうぞ。
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「お願いだから、私をこのまま死なせて」
「そんなこと言われても…」
 それが、女と僕の最初の会話だった。ひどく非現実的な会話だが、そうだったんだから仕方がない。いや、非現実的と言えば、シチュエーションからしてすでに、非現実的であった。その奇妙さに比べれば、こんな会話はそれこそ「現実的」の部類に入るだろう。
 場所は20階建てビルの屋上、危険防止のために張り巡らされた金網の、内と外。内が僕で、外が女の立っている位置だった.
 彼女は自殺しようとしていたのである。
 ちなみに、かく言う僕も自殺しようとして、屋上にやってきたのである。
 いや、ホントなんだから仕方がない。
 毎日毎日、それこそ鉄板の上で焼かれるがごとく、僕は会社と言う組織にこき使われていた。こき使われると言うか、絞り取られていたと言った方が、より正確かもしれない。
 この春めでたく「株式会社・人形商事(営業部)」に入社した僕は、生来の馬鹿正直さも手伝って、馬車馬のように働いて働いて働きまくった。バブルが遠くになった今でも、やたらと景気のよい人形商事の仕事量は、おそらく読者諸氏の予想を10倍は越えている。
 月給こそ高額だが、人手不足と言うのもあほくさい、その過激なノルマと残業量(ちなみに手当て無し)は、入社当時こそ気力でカバーできたものの、1ヵ月2ヵ月と経つに連れ、段々と僕の精神・体力を吸い取っていき、夏の風のなかに、何とはなしに冷たいものが混じり始めた9月の終わる頃には、すっかり僕を抜け殻にしていた。
 さすがに生命の危機を感じた僕は、収入が少なくなってもいいから、別の職に就こうと決心して、当時付き合っていた恋人にそのことを相談した。
 結果は、別離。
 彼女が僕と付き合ってくれていた理由は、つまるところ、金だった。通常の大卒社会人よりずっと高額な僕の給料、その魅力と将来性が、どうやら僕の全てだっらしい。
 物にならないと知るや、さっさと別の男に乗り換えてしまった。
 僕は支えを失った。生きる気力と一緒に。
 それまで、女性と付き合ったことなど、皆無だった。それが、入社して間もない5月のある日、当時行き付けだったクラブでストレス発散に励んでいた時ふいに、香水の良い香りを漂わせた女の人が、僕の前に立って微笑み掛けた。同じように、憂さを晴らしに来ていた当時の彼女である。
 それから後は実にあっけないものだった。ベッドインするまでに、デートやら食事やら、いろいろ手続きが必要だと思っていたものだったが、そんなものは何ひとつなかった。
 会ったその日にホテルに直行。おお、これが世に言う運命の出会いかと、僕は初めてバレンタインデーのチョコレートをもらった中学生のように、感激して感動して、その日は眠れなかったほどだった。
結婚してもいいと思っていた。いや、ぜひ結婚したかった。
 それがあっけなくドカンである
 絶好調のコンディションでリングに上がったボクサーが、試合開始と同時に一撃でのされたら、こんな気持ちになるのかもしれない。
 全人生・全人格を否定されてしまったと言うほかない。要するに、金づるであると言う以外に、付き合う価値はないと言われたに等しいのだから。
 電灯を消したアパートの部屋の中、声を殺して僕は泣いた。
 ひざを抱え、歯を食いしばりながら一晩中、押し殺した嗚咽を漏らしつづけた。
 死のう、と思うまでに時間はかからなかった。
 そして今日、つい10分ほど前に辞表を提出してきたばかり。怒るのも忘れてぽかんとしている課長を尻目に、僕は入社以来、間違いなくいちばん気持ち良く部署を出た。
 いつもの社内喫茶でコーヒーをすすった。よく見かける、リボンの可愛いウェイトレスさんが今日はお休みなのか、ひげづらのマスターが注文を取りにきたのには閉口したが、コーヒーの味はそれまでより美味しく感じられた。
 そして最後のラークマイルドを一本吸った後、僕は死ぬにはあまりにもちょうど良い、人形商事の屋上へとその足を向けたわけである。
 無愛想な鉄製の扉。さびてキイキイと音を立てるそれを開け、死ぬにはあまりにもふさわしすぎる曇り空の下、さあ死ぬぞと意気込んで金網に近づいたその時、何やら必死の調子で「お願いだからこのまま死なせて」という例の台詞が聞こえてきたわけである。
「お願い、死なせてちょうだい」
 もう一度、女が言う。
 薄い桃色の制服を着ているところを見ると、ここの従業員らしい。痛んでいるのだろう、つやのない長髪が風に流されて、必死の形相をかためた顔にまとわりついている。なるほど、死にたいと思う人はそれにふさわしい顔になるんだな、とのんきなことを思った。
「いや、だからそんなこといわれても…」
「あ、あたし、死ぬんだから。もう、死んでやるんだから。何て言ったって無駄だからね、ちくしょう」
「はあ…そうですか」
「遺書だって、かっ、かい、かい…かい…たっ・た・た・た…」
 ろれつが回っていない。何やら、昔見た格闘漫画の主人公のように「た」を連発している。思わず吹き出しそうになった。
「うあああああああああ!」
 と、業を煮やしたのか、突如天にも届かんばかりの大声で、女が咆哮した。
「書いたんだからねっ!」
「え? なにをですか?」
「遺書だっつってんだろ、こ、こ、このやろう!」
「す、すいません」思わず謝ってしまった。怖い…。
 見ると、金網を挟んで女のすぐ側に、揃えた靴と遺書らしき封筒が置いてあった。
 おお、良い靴はいてるな、と、ふと思った。いや、それどころじゃない。
 どうやら本当に死ぬつもりらしい。
「ちょっと待ってなさいよ、今、飛び降りるから」
「え?ええ…」
 いや、まてまて、これって実はものすごい場面に遭遇してるんじゃないか。
 目の前に自殺者がいる、だったら止めないといけないんでは…。
「あ、あの!」慌てたおかげで裏声になってしまった。
「何よ、そんな鶏が絞め殺されるみたいな声だして」
「いやあの」は…はずかしい。
「あの、自殺は、良くないんじゃないかって、思いまして」
「そんなこと…判ってるわよ!」
 考えてみれば、本人だってそのくらいのことは承知しているに決まってる。
 落ち着け、落ち着け。こういう場合は確か、相手を刺激しちゃいけないんだ。それにはまず自分が落ち着け。
 僕は気分を静めるために、背広の内ポケットから煙草を取り出して、一本咥えた。ああ、さっきので終わりにするつもりだったのに。
 でも、火を付けて深く吸い込むとさすがに美味かった。ニコチンが心を静めてくれる。
「一本どうだい?」
「何くつろいでんのよ、あんたわ!」
 しまった落ち着きすぎた!逆効果バリバリである。
「黙って見てなさいよ!今飛び降りるんだから、それまで静かにしててよね!」
「いや、あの、だから、それはやめてください」
 なんだかおかしな具合だ。そもそも僕は、目の前の女と同じ自殺志願者じゃなかったか。一体どういう運命の巡り合わせで、こんな世にもおかしなシチュエーションになってしまったのだろうか。
「うるさいっ!死ぬったら、死ぬんだから」
 そういうと彼女は金網から手を放して、屋上の端から、下を見下ろした。
 もうこうなったら先に死んでもらおう。どうせ僕も死ぬんだから、道連れの一人くらい欲しいし。
「死ぬんだから…死ぬんだから…」
「……………」
「死ぬんだから…死ぬんだから…」
「……………」
「死ぬんだから…死ぬんだから…」
「……………」
「死ぬんだから…死ぬんだから…」
「…………あの」
「なによ」
「まだですか?」
 遅すぎる。死ぬんならさっさと死んで欲しい。駅の切符売場じゃないが、後がつかえているのだ。
「うう、うるさいわね。見られてると死ににくいじゃないのよ」
 ため息を吐いて後ろを向いてやる。全く注文の多い女だ。
「これでいいですか?」
「ええ。さあ、死ぬわよ………」
 いちいち断らなくてもいいものを。全く女ってのは、どうして何をやるにしても遅いのか。そういえば元恋人とホテルに行った時、行為が終わった後シャワーを浴びてくると言ったまま、いつまでたっても帰ってこないものだから、何をやっているんだろうと思ったら、化粧していた。後は寝るだけなのに、なんで化粧する必要があるのか、さっぱり理解できない。それで朝になったらなったで、また化粧してるんだから、いったい女と言うのはどこまでのんきに出来ているんだろうとつくづく思う。そして、目の前の女はいつまでたっても死んでくれない。いっそ自分が先に死んでやろうか…。
 イライラしながら待っていたら、今度は「あはははは」とけたたましい笑い声。
 何事かと思って振り返ったら、何と漫画を読んで笑い転げていた。
「なにやってんですか!」
「あはははは!はあ?」
「はあじゃなくて!」
「いや、もうこれがさあ、傑作なのよぉ」
 そういって本の表紙をこちらに向ける。「浦安鉄琴家族」作:浜本賢次。…鉄琴一筋に生きる一家と、その友人たちとのドタバタ生活を中心としたギャグマンガである。ユーモアを遥かに超越したその過激なセンスが、ある種壮絶とも言える絵柄によって描かれる、どうひいき目に見ても、自殺する前に読むような漫画ではなかった。
「どうして自殺する前に『浦鉄』なんか読む気になれるんですか、あんたわ!」
「いいじゃないのよ!好きなんだから。文句あんの!」
「文句とかそういう問題じゃなくて!」
「だって、今日最新刊が出るんだもん!言いたいことがあるなら、春田書店に言ってよね!」
「…………………………」
 もう何も反論する気にならない。反論しようものなら、また理不尽なことを言われるに決まってる。
「わかりましたよ、後なんかありますか?最後のコーヒーでも?」もはやヤケである。
「プレステやりたい、持って来て」
「あのねぇ…」
「あ、それから、ソフトは『ダンスダンスジェネレーション』ね。専用コントローラも」
「こんなコンセントもないところで、プレステなんかできるわけないでしょう!」
「使えないヤツ…」
「あんた、ホントに自殺するつもりあるんですか!?」
「当たり前じゃないのよ!何よ、あんたあたしのこと疑ってんじゃないでしょうね!」
 ぐ…と言葉に詰まる。答えはもちろん「はい、そうです」なのだが、さすがにそうとは言えない。そんなことを言った瞬間、この女はおそらく全生命をかけて僕を抹殺しに来る…そういう確信があった。目の前の女は危険だ、関わり合いになってはならない。それこそ生命の危機だ、僕だって人の子だから、命は惜しい。
 …いやまて、僕は自殺しに来たんじゃなかったか。いまさら命が惜しいもへったくれもない。ああ、くそ、全部この女が悪いんだ。
「そうだ、くそ、全部この馬鹿が悪いんだ、ちくしょう…」
「なんですってぇえええ!」
 しまった、声に出してしまった!
「あたしの…あたしのどこが馬鹿だってぇえええ!」
「全部だ!」と言う勇気はさすがになかった。
 命の危険を感じて、後はもう一手のみ。
「す、すみません!」平謝りのみ。
「謝ればねぇ、い、いいってもんじゃないのよ、ええ? あんた判ってんでしょうね!?」
 そう言われても、この状況でそれ以外の何を言えと言うのだろう。やっぱり「全部だ!」とでも言えば良かったのだろうか。しかしそうとも言えないので、とりあえずもう一度「すみません」と言ったら、両の目がそれと判るほどに釣りあがるのが見えた。『火に油を注ぐ』という言葉があるが、いくらかそういう結果になった。
「ちょっと来なさいよ」
「え、あの…」
「いいから、来なさいっていうの」
 身の危険を感じたので、近寄る気になれなかった。このまま足を前に出したら、もう後戻りできなくなる、そう本能が告げていた。だが、僕の本能はすこぶるもろく出来ているらしい、女の耳が赤く染め上がるのが目に入った瞬間、もう足が前に出ていた。
「来いっていったら来るんだよ、ぐずぐずしてないで早よ来んかい!ボケナス!」
「はい!」なかばヤケになって金網のすぐ側まで近づいた瞬間、女は網の目から器用に腕を通して僕の胸ぐらをつかむと、そのままがんがんと金網に打ち付けるように前後に揺さぶった。痛い、すこぶる痛い。
「あたしはねぇ、あんたみたいな浅漬けのキュウリみたいに根性のない奴は、虫ずが走るほど嫌いなんだよ!」ガンガン!
「あ、あの!やめてください、痛い!痛いです!」
「男だったら、もっと、こう、胸はって堂々と生きんかい!ええ!?わかってんのか、コラ!」ガンガン!ガンガン!
「わかりました!わかりました!」
 ようやく手を止めて女は僕の顔を覗き込み、「ほんとに?」と聞いた。「ええ!もう痛いくらいに判りました!」と返事をすると、ようやく女は僕の胸ぐらから手を放してくれた。生まれてこのかた、この時ほど開放感を味わったことはない。僕は幸福感で胸がいっぱいになった。
「判ったらとっとと帰ん…コホン。お判りになりましたら、もうお帰り下さい。今から私は死にますから」突然丁寧な言葉づかいになって女が言う。ちょっと不気味。
「いや、あの、帰るってのはちょっと…」
「なんだと、コラ!」
 金網の間から、再度出てきた腕の襲撃を避ける。『バイオ・ハザード』の主人公になった気分だ。
「だ、だってっ!」
「だってじゃねえんだ、この、この!私はねぇ、死ぬって言ったら死ぬの!邪魔だからさっさと帰れ、この!」
「いやあの!ぼくも、自殺しに来たんですからっ!」
 恐怖にくじけそうになる心を何とか奮い立たせてそれだけ言う。すると、その内容が余りに予想外の言葉だったらしく、女はぽかんとして立ち尽くした。
 しばらく、屋上に風の吹く音だけがひびく。
 やがて女の顔が引きつり始めた。最初は泣きそうな顔になり、次に拷問に耐える罪人のような顔になり、やがて、ちょっと言葉では形容しがたい顔になると、ゲヒャヒャヒャと水木しげるの漫画キャラクターのように笑い出した。怖い。
「あ、あんたがぁ?ゲハハ!あんたが、じ、自殺ぅ!?ハハ、ウヒャヒャ!じょ、冗談やめてよねぇ、あんたにそんな根性あるわけないじゃーん!」
 さすがにムッとして、僕は「笑うな!」と精一杯大きな声を出した。だが僕の精一杯は、どうやら彼女には毛ほどのダメージも与えることが出来なかったらしい。それどころか「か、勘弁してよぉ!あはははは!」と金網をガタガタ言わせるほど、さらに笑い転げた。
 ここに来て、僕はほとんど泣きたくなった。何が悲しくて自殺する直前に、そのことで笑われなくてはならないんだろう。しかも見ず知らずの、自殺志願者の女にだ。同情してくれたって良いはずなのに、この仕打ち…。いったい僕が何をしたと言うんだろう、僕は自殺すらまともには出来ない運命にあるのだろうか。もういっそ死んでしまいたくなった。…いや、そもそも僕は死にに来たんじゃなかったか。
「いやー、おもしろい!あんた見かけによらずコメディアンの才能あるじゃん」
 ツ…と頬を流れる涙の感触。悲しくて情けなくて、もう我慢できなかった。
「ちょ…ちょっと。泣くことないじゃないの」
 女が心配そうな声で僕に話し掛ける。だがもうだめだ。あふれる涙はどうしようもなく、僕は男泣きに泣いた。
「あ、ご、ごめん。ねぇ、ごめんってば。もう…」
 生まれた時から僕は不幸の星を背負っていたに違いない。思い返せばいくらでもある。小学校の時、席替えで好きな子の隣になりたいと、真剣にお祈りした。中学のキャンプの時、たまにはカッコイイところを見せてやろうと、はんごうすいさんで率先して仕事をこなした。高校の修学旅行で、仲の良かった女の子と二人で町中を歩いた、二人きりになるように画策したのだ。大学の時、女の子にもてるだろうかとテニスのサークルに入った。…結果はみんなだめ。隣どころか席は遠く離れ、熱くなったはんごうで指を火傷し、京都の街で迷子になり、テニスのサークルに入った一週間後に女の子はみんな辞めていった。
 そして今、自殺しようと屋上に上ったら、わけの判らない女に大笑いされた。
 死にたい…。真剣に思う。
「ねえ、泣き止んで…。私まで悲しくなっちゃうよ」
 知らず僕は…金網の向こうの女に近寄り、その腕にそっと抱かれていた。
 金網が顔に当たって痛かったはずだが、そんなことは一向気にならなかった。
 多分、数年ぶりに……僕は声を上げて泣いた。
「そっか…そんなことがあったんだ」
 金網越しに背中を寄せ合って座り、僕は彼女に今までのことを全て話した。
「死にたくなるよねぇ…」
 背中越しに、彼女のため息が…正確にはその挙動が感じられる。僕は気になっていたことをたずねた。
「君は、どうして死のうと思ったの?」
「好きだった人が…ね」
「……ふられたの?」
「ううん、もっとひどいかな…。だめになっちゃったんだ」
「だめ?」
「うん…」
 普通なら、きっと聞いてはいけないことなのだろう。だが、僕はこの状況に甘えて、聞きたいと言う欲求を抑えなかった。
「どうなったの?」
「彼ねぇ……」
 少し間を置いたのち、語り始めた。
「彼ね、すっごく真面目なひとで、仕事もばりばりやって、そりゃあもう頼りになるっていう言葉がぴったりくる、ほんとにイイ男だったの」
「この会社の人?」
 コクリ…と、うなずく挙動が感じられる。
「でもね…、9月に入ってすぐくらいだったかな…。なんだか思いつめたような顔しちゃってさ、じっと考え込んでることが多くなった。…会社を辞めるつもりだったみたいなのね」
「僕に似てるね」
「そうね…」
 やはりこの会社は、誰にもそういう思いを抱かせてしまうようだ。
「それで、日に日に…ホントに、見てて判るくらいにやつれていってね。ある日プツっと…。そう、電球が割れたみたいに、プツっと、だめになっちゃった」
 痛いほどに判る。僕も、その彼と同じだから…。
「ああ、もうこの人は私の知らない人になっちゃったんだ…。そう思ったら案の定、あの人は…、私を…残して…」
「もう!」
 強い調子で、僕はその続きをさえぎった。
「もう、いいよ…。それ以上言わなくて、もう…。わかる、から…」
 しばらく、沈黙が続いた。
 金網越しに伝わる彼女の体温、かすかな香水。
 ふと空を見上げる。
 遠くの空に、一羽の鳥が見えた。
「ねえ…」
 彼女がもぞもぞと動く感触が伝わってきた。
「…なに?」
「キス、しよっか…」
 え…?と振り返ったすぐそこに、彼女の顔があった。
 ドキッとするほど、綺麗だった。
 潤んだ瞳、ぬれた唇。
 こんなに…こんなに綺麗な人だったかな…。
 僕は魔法にかかった。
 そして、唇を合わせた。
 金網越しのキス。ちょっと、不自然だけど。
 唇を離し、見つめあう。
「このまま…」
 我知らず、僕の口から言葉がこぼれる。
「なに?」
 今考えても、あの時なんでそんな言葉がこぼれたのか、さっぱり判らない。
 でも…、もし幸運の神様が存在するのなら…
 きっとあの時、神様は僕に微笑み掛けたんだと思う。
「このまま家に帰って…二人で暮らすのも悪くないかな…って、さ」
「…………」
 また、沈黙。
 さっきよりももっと長く。
 見つめあう瞳と瞳の間を、音もなく伝わる想いと想い。
 やがて彼女はふっと視線を落とす。そしてささやかな、微笑。
「もう…死のうなんて思わない?」
「君が、支えてくれれば」
「なっさけないなぁ。…でもそういうとこ、前から好きだったよ。世話好きなのかな、私」
 え…?
 今、なんて…
「前から?」
「私が、ホントに死のうと思ってたって…そう思ってる?」
 そういって、やおら手を伸ばして遺書を取り上げると、彼女は封筒を破って、中の手紙を僕に差し出した。そこにはただ一言、こう書いてあった。
 『はずれ』
 呆気に取られて彼女を見ると、笑うでもなくけなすでもなく、静かな微笑みをたたえた彼女の顔。
「死ぬつもりなんて最初からなかったよ、私は」
「え?だって…だってそれじゃ…」
 一体どういう事だろう、混乱しきった僕の頭は、いま見ている現実すら正確に把握できない。ひたすら『なぜ?』という単語が頭に浮かぶ。
「まだわからない?」
 判らないどころか、なにが起こっているのかが、すでに把握できていない。
 彼女はクスリと笑うと、息をいっぱい吸い込んで言った。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「あ……」
 社内喫茶の…ウェイトレスさん…。
「わかった?」
「今日、いないと思ったら…」
「影でね、見てたのよ。最近思いつめたような顔してて危ないな、って思ってたからさ。そしたら案の定、妙に晴れ晴れとした顔してるから、あ、来たな…って」
「まったく……」
「……怒った?」
 うかがうような彼女の声。そんな心配はないのに。
「いいや。まいった…ってね」
 その瞬間…
 今まで厚い雲に覆われていた空の一角にスリットが入った。
 雲間から射す光、闇を突きぬける光。
 綺麗だ…と思った時、その光の筋が僕たちの上に降り注いだ。
 そして…
 僕はまた、あふれる涙をぬぐえなかった。
 生きていける。これなら、生きていける。
「ねえ…むこう向いてて」
「え?」
 すっと立ち上がると、彼女は金網に手をかける。
「今から金網上るんだから、パンツが見えちゃう」
 放たれた言葉は予想外のもので、僕はきっと馬鹿のように呆けた顔をしていただろう。
「え、なにするの?」
「ばか…」
 もう一度、クスリと笑うと、彼女は少し頬を染めて言った。
「あなたと、普通にキスしに行くのよ」


 ――――――――――終わり

(登場する人物、団体等は完全なる架空であり、現実に存在するものとは一切関係ありません。たぶん、おそらく)

 (初出:2000年)

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