傘の下のメロディ 〜ある日の風景 愛佳〜
第三回葉鍵板最萌トーナメント出展作品
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 その雨に気づいたのは、瓶の中から5つめのゼリービーンズを取り出した時のこと。
 尽きないおしゃべりのさなか、向かいに座った女の子が紅茶のカップに口を付けた一瞬、すっと訪れた静寂に、さらさらと窓外から音が流れ込んできていた。
「雨……」
「え?」
 俺の言葉に、その女の子――小牧愛佳が、カップに口を付けたまま視線を移す。
「あ、降ってきちゃったんだ」
 カーテンのたたまれた窓の向こうは、淡い白で煙ったような雨模様。昼頃から曇り始めた空は、どうやら俺たちが帰宅するまでは持ちこたえらてくれなかったらしい。
 六月も中旬の夕暮れ前。中庭の紫陽花を行くかたつむりには僥倖の恵みであろうが、布で出来た服をまとう人間にとっては、さていかに濡れずに帰ろうかと思案のしどころだ。
「マズったな……」
「どうしたの?」
 ぽつりと呟いた俺の言葉に、書庫の窓を閉める愛佳が振り向く。
「いや、傘あったかなと」
「忘れちゃったの?」
「うーん……。前に置きっぱなしにしておいたとは思うけど」
「だめだよ? ちゃんといつも持って帰らないと」
 そう言って、くすくすと笑う愛佳。
「愛佳はちゃんと持ってきてる?」
「うん。折りたたみ傘だけどね。鞄の中に入ってるよ」
「なら大丈夫か」
「あたしより、郁乃が心配だな」
 郁乃というのは彼女の妹のことだ。病気で子どもの頃から長期入院していたが、先頃ようやく退院して、今月からこの学校に通っている。まだ車椅子使用とはいえ、自立したい意欲が強いのか、なるべく独りで行動しているらしい。そのため、姉妹とはいってもあまり一緒にいたりはしない。なんでも独りでやろうとするところは、愛佳とそっくりだと思う。
「たぶん、もう帰ってるとは思うけど……。途中で降り出して濡れても、着ないんだろうな、レインコート」
「ああ、そういえば、かっこ悪いとか言ってたな」
「そうなんだよねぇ……。そのくせ、あたしが傘さしてあげるって言うと、それも嫌がるし。郁乃ったらひどいんだよ? お姉ちゃんは妹離れするべきだ〜って、すぐそんなこと言うんだもん」
「はは、あいつらしいな。で、妹離れできてるの?」
「べ、べつにあたし、そんなに郁乃にべったりじゃないもん。それに、郁乃はまだ退院したばっかりだから、ちゃんとお姉ちゃんが見ててあげないといけないし、友達とかできないと困るでしょ。ほら、郁乃ってちょっとだけ人見知りするトコあるし、クラスで浮いてないかな〜って」
「ああ……、たまに休み時間にいないと思ったら、そういう……」
「ちちち、違うよ? 様子見に行ってるんじゃなくて、ほら、おトイレとか」
「まだ何も言ってない」
「え?」
 この調子では、妹離れには程遠い。もっとも、郁乃は郁乃で、なんだかんだ姉離れできてないと思うけど。
 たぶん、しばらくは、今まで二人の間で出来なかったことをする時間が続くのだろう。いつかその日が来るまでは、甘えて甘えられて、という関係でも良いんじゃないかなと、俺は雨の窓外を見ながらそんなことを思った。


     ※


「やっぱりないな」
 昇降口の傘立てを探してみた結果、どうやら俺の傘はどこかの誰かさんにもらわれていったらしい。幸せにしてるだろうか、マイ・アンブレラ。
「どうするの?」
 心配そうに愛佳が言う。
「この時間だと、購買も閉まってるし……」
「そうだな……、コンビニまでダッシュかな」
 購買が使えないとなると、傘を入手するには、歩いて数分の場所にあるコンビニまで行くしかない。不幸中の幸いと言うべきか、雨脚はさほど強くはない。鞄を傘代わりに走っていけば、"びしょ濡れ"というところまでは行かないうちに、コンビニまでたどり着けそうだ。
 だが、それを聞くと、愛佳はふるふると首を横に振って、「そんなのダメだよ」と言った。
「身体が冷えて風邪ひいちゃうよ。梅雨だから制服が濡れちゃうと乾きも悪いし」
「うーん、でもなぁ」
「私の折りたたみ傘、少し大きめだから、一緒に入って帰ろ?」
「え?」
 見ると、愛佳が鞄から傘を取り出して、開いている所だった。
 ばっ、と傘が開くと、なるほど普通の傘くらいのサイズがある。いや、それよりも少し大きいくらいか?
「これ何センチあるの?」
「80センチ。荷物がある時に便利かなって」
 買い出しの時のことだろうか。雨降りの時まで頼まれて行くつもりとは……。
「これなら、二人で入っても濡れにくいでしょ」
「あ、うん……」
 相合い傘、か……。愛佳と一緒に。
 もちろん嫌ってわけじゃない。でもなんだか照れる。
「どうしたの? 傘の中に――」
 愛佳の言葉が不意に止まる。どうやら彼女も気づいたらしい。
「あぅ……」
 見る間に、ぷにぷにの頬が真っ赤に染まっていく。
 ……俺たち、もうキスまで済ませてるんだけどな。それなのに、いまだにこういう『こいびとどうし』のことが苦手なまんま。端から見たら、きっとじれったいにも程があるだろう。
 あの日、お互いに『異性恐怖症を克服しよう』ということで始めた恋人ごっこ。それはいつしかホントの恋人にまでなって、ある程度は効果があったけれど――
「あ、あの、えっと……」
「う、うん……」
 まだまだ先は長そうだ。いわゆる『男女の仲』になるまで、果たしてどのくらいかかることか。
「入……る?」
 もう一度、おそるおそるといった風に問いかけてくる愛佳に、今度はこくりと頷いて返す。照れが先に立ちたがるとはいえ、まさかこんなところで「遠慮します」なんて言えるはずもない。そんなことを言ったら、愛佳が書庫に籠もって出てこなくなるだろう。
「じゃあ……」
 す、と傘をさして、スペースを空けてくれる。傘の柄を軸にして半分こ。
 ……ここに入るんだな。
「は、入るよ」
「う、うん、入って?」
 何やら奇妙な挨拶を交わして、いざ、愛佳のさす傘の下へ。
「は、入ったよ」
「う、うん、入ってる」
 何やら奇妙な確認を交わして――、って、なんか意味深だな。
「じゃ、じゃあ、行きましょうか」
「あ、待って愛佳、傘持つよ。貸して」
「え? いえ、いいです。あたしが持つから」
「そんなの悪いよ。ここは男の俺が」
「いえいえ、あたしが持ちますから。貴明くんは――」
「愛佳、敬語になってる」
「え? あ、えっと……」
「隙あり」
 動揺した愛佳から傘の柄を奪い取る。ちょっと卑怯だけど、こうでもしないと渡してくれそうにないしな。
「あっ……」
「それじゃあ、行こうか」
「う、うん……」
 まだ申し訳なさそうにしている愛佳を促して、二人歩き出す。そうして、昇降口の軒先から出ると、傘の上に水滴が音を立て始めた。
「…………」
「…………」
 何を話したものか、お互い無言で雨の校庭を歩いていく。
 曇天に舞う梅雨の雫は、細く糸を引くような霧雨で、校舎を飾る桜の葉を控えめに打っていた。濡れたグラウンドには、いつもは声を出して駆け回っている運動部の姿も見えず、また、遅めの時間からか、帰宅途中の生徒も少ない。
「郁乃ちゃんは……」
 静寂に耐えきれず、なんとか話題を探して口にする。こんなに気まずいのは、初めて愛佳と一緒に帰った時以来だろうか?
「え?」
「いや、もう帰ったかなと思って」
「あ、うん……。あの子は部活もないし、まっすぐ帰っていれば、もう家についていると思う」
「雨に濡れずにすんだかな」
「うん、そうだといいな」
「…………」
「…………」
 そしてまた無言。なんだろう、この座り心地の悪さ。
 校門を出て、坂道にさしかかってもまだこの調子。開いた傘の花は自分たち以外にほとんど見えないほど人気はないのに、まるで世界中からじろじろと観察されているかのような気分。世の恋人たちは、みんなこの感覚を平気でやりすごしているのだろうか。
 横を見ると、愛佳もまた居心地悪そう。両手できゅっと鞄の取っ手を握り、耳まで真っ赤に染めて、傘の下で小さくなっていた。時折ちらちらとこちらを見る度に、俺と目が合って俯いてしまったりと、まるで野生のリスか何かみたいだ。
 もう、こそばゆいことこの上ない。まるで中学生だ。郁乃ちゃんに見られたら、なんと言ってからかわれるだろうか。あるいは、むっとした顔で俺を傘から追い出すだろうか。なんにせよ、人にはなかなか見せられない有様だな。
「あ……」
 ふと、愛佳が小さく声を上げた。
「うん?」
「濡れてる」
「えっ」
 思わず愛佳のスカートを凝視する。
 濡れてる? マジで? と言うか自己申告? こんな場所で?
「あの、貴明くん、どこ見てるの?」
「へっ?」
 見ると、きょとんとした顔の愛佳。
「濡れてるって言うから……」
「うん、だから、貴明くんの肩。カバンも……」
 そう言って、愛佳は彼女から見て反対側――おれの左肩を指さした。見ると、確かに傘からはみ出した肩が、雨の雫に濡れていた。
 ……ああ、そう、肩ね。そりゃそうだな。
「もうちょっと、そっちに寄せて。あたしの方は大丈夫だから」
「いや……」
 そうは言っても、こちらに倒したら愛佳の肩が濡れてしまう。いくら大きめの傘とは言っても限度がある。学ランは黒いし、カバンなんか濡れた所でたいして問題はないけど、愛佳の服が濡れたらまずいだろう。透けるだろうし。
 ……あ、それはけっこういいかも。ウェット&メッシーとかいう……、いや、やらないけどさ。
「大丈夫だから」
「そんなことないよ。風邪ひいちゃうから、もうちょっとそっちに寄せて」
「いいっていいって、愛佳が濡れちゃうよ」
「でも……」
「ほら、行こう」
「あ、うん……」
 さすがにここは譲れない。愛佳にしてみれば、いつものホスピタリティの延長なのかもしれないが、こっちも傘に入れてもらっている身分で、持ち主を濡らすわけにはいかない。
 だいたい、相合い傘で女の子を濡らしながら歩くなんて、かっこ悪いにも程がある。いい男とはとうてい言えない俺だけど、せめて、振る舞いだけはそれを目指したい。
 だが、愛佳の方はどうしても俺の肩が気になるのか、歩きながらまたちらちらとこちらの様子を伺っていた。まぁ、お互いコンビニに着くまでの我慢とはいえ、こうも気にされると少し申し訳ない。やはり、次からはちゃんと天気予報に従って傘を――。
「じゃ、じゃあっ……」
 少し物思いにふけっていたのを遮るかのように、唐突に隣で声が上がる。
「何?」
 見ると、何やら決意を秘めたかのような色で愛佳こちらを見つめていた。
「二人が濡れないようにすれば、良いんだよね」
「あ、まぁ……そうかな」
 そうできればもちろんそれが良いと思うけど、中々うまくいかないだろう。もう少し傘が広ければともかく、この大きさではどちらかが少しだけ濡れてしまう。
 だが、そんなことを考えている間に、すっと愛佳が手を差し出してきた。
「え?」
 そして、ちょんと俺の二の腕に指が触れたかと思うと、くるりと手で包み込む。そのまま、きゅっと腕を引っ張るようにしながら、そっと俺の身体に寄り添ってきた。
「ま、愛佳……?」
 していることは、腕に手を添えるだけ。傘の角度が倒れない程度の、軽い抱き方。でも、紛れもなくこれは、腕を組んで歩くという行為。
「こ、ここ、こうすれば……。濡れない、よね」
 俺の腕を抱いたまま、今にも何かが吹き上がりそうなほど耳を真っ赤に染めて微笑む彼女。だが、そう言いきるまでが限界だったのか、さっと目をそらして俯いてしまう。つかんだ腕はそのままに、震えた身体もそのままに。
 かくいう俺も、顔が熱くなっているのが自分でわかるくらいだ。傘を叩く雨の音もすでに耳には入ってこず、ただひたすら、思いがけず訪れた時間に言葉を失うばかり。
「…………」
「…………」
 先ほどと同じように、二人の間に降りてくる無言の時間。
 でも、そこに漂う気配は、比較にならないくらいに甘い色。
 柔らかな女の子の手。俺の腕をつかんで、そこを中心に触れあう身体。肩を抱いているわけでも、腰に手を回しているわけでもないのに、なんだかそれ以上にぴったりくっついているような気がして恥ずかしくなる。
 傘の向こうに目を向ければ、そこには相変わらず雨降りの並木道。きっと、濡れた緑の香りがたちこめているはずなのに、俺の鼻孔をくすぐるのは、隣の少女から漂ってくるリンスの香りだけ。
 相合い傘の中、女の子と腕を組んで歩く。言葉にすればただそれだけなのに、何か途方もなく凄いことをしているかのような気分だ。世のカップルたちも、今こんな時間を過ごしているのだろうか?
「あのね……」
 そんなことを考えていると、ぽつりと愛佳が呟いた。注意して聞いていなければ、零してしまうくらいに小さな声で。
「わ、私、前から、こういう風に歩いてみたかったの」
「こういう風……?」
 聞き返すと、愛佳はこくりと頷いて、俺の方を見た。
「好きな人と腕を組んで、そうして街を歩くの。特別なことなんて何もしないで、ホントに、歩くだけの」
 潤んだ瞳。今にも泣きそうで、それでいて、たまらなく嬉しそうな瞳。
 そう見えたのは、たぶん、俺のうぬぼれではない。
「だって、私たち、恋人同士だから……」
 そこまで言いきると、愛佳はふっと息をつく。染まった耳はずっと赤いまま、今にも湯気が立ちそうな雰囲気だ。抱かれた手からは、早鐘を打つ鼓動の音さえ聞こえそう。
「貴明くんは……」
「うん?」
「こういうの、いやだった……?」
「まさか」
 一瞬、不安な色に染まりかけた愛佳の言葉を、即答で否定する。
「嫌なはずがないよ。愛佳が腕を組んでくれて嬉しい。ただ……」
「ただ?」
「……ちょっと照れくさいかも」
「……あたしも」
 そう言って愛佳は俺の方に顔を向け、くすっと笑った。その細めた目に、俺もまた笑顔を返す。
 傘を叩く音は相変わらずの霧雨。初夏の香りをほのかに漂わせたその音は、心なしかさっきより楽しげで、歩を進める足取りもずっと軽やかになる。
 何かを話すわけでもなく、何かが起こるわけでもなく、ただ歩くことだけがとても楽しく思えたのは、たぶん、今日が初めてだったと思う。
 それが、異性と一緒にいるということの楽しさだというなら、なんて素晴らしいことだろうか。今更ながら、愛佳と出会えたことの幸運を、神様に感謝したい気分になる。大げさだけど、それが今の本心。
 とはいえ――
「……着いたね」
 楽しい時間ほど、長続きしないのが世の常。
 腕を組んでからまだ少ししか経っていないのに、目の前にはもう目的地のコンビニ。
「うん……」
 ここで傘を買う。自分の傘を。
 もちろんその後も愛佳と二人で帰る。でもそれは相合い傘ではなく、別々の傘。
「…………」
「…………」
 思わず無言になる二人。
 そして、二人ともそのまま立ちつくす。
 俺は傘を離さなかったし、愛佳も俺の腕を離さない。
 二人並んで、コンビニの建物を見つめながら、じっと傘の下で雨の音ばかり聞いていた。

「あの……ね」

 やがて、沈黙を破るように、愛佳がぽつりと呟いた。
 見ると、耳どころかうなじまで熱く染めて、おそるおそる俺の方を見つめている瞳。

 それを見た瞬間、彼女が何を言おうとしているのか俺にもわかった。
 だって、それは俺が言おうか言うまいか迷っていた言葉だったから。

「……もう少し、一緒に歩く……?」
「……うん」

 そうして、二人並んでコンビニを後にする。次の目的地は駅前。二人の帰り道が分かれるところ。その次はきっと、どちらかの家まで一緒に歩くことだろう。

 二人を守る傘の花。せめて、この時間を、もう少しだけ。
 こそばゆい幸せを、あともう少しだけ。

 紫陽花を濡らす梅雨の音色を聞きながら、俺たちはゆっくりと、六月の街中を歩いていった。


――――――――――――おわり


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