環と雄二とおっぱいマウスパッド
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 その日、向坂環が弟の部屋に入ったのは、何か特別なことがあったとか思うところがあったからとかではない。いつものように、散らかっているだろう弟の部屋を掃除してあげようと、ただそれだけの小さな愛情だった。
「まったく、相変わらず片付けられないんだから、あの子はもう。帰ってきたらうんと叱っておかないといけないようね」
 ドアの向こうに広がっていた惨状に、溜息ひとつ。
 しかし、口調とは裏腹に表情は柔らかい。なんだかんだで、まだまだ手のかかる弟が可愛くて仕方ないのだろう。わずか一週間で『どうやってここまで』と言うレベルに達した部屋の入り口で腕まくりなどしながら気合いを入れる環である。
「さて、どこから片付けようかしらね」
 とにかく、掃除機をかける前にまずは散らかった物品の整理が必要だ。服は脱ぎっぱなし、本は出しっぱなしでカバーが外れかかっているし、コンポの横に積み上げられたCDは、おそらくジャケットとディスクが合っていないのだろう。
 この部屋だけにあるパソコンの机も、混沌としていることこの上ない。今風に言えばカオスとでも言おうか、缶コーヒーの空き缶を筆頭に、デジタルカメラやゲームの箱、何か文字が羅列されたカードも散らばっている。他にも、確かUSBなんとかと言ったか、よく判らないスティック状の小物や、なぜかハサミやら爪切りやらお菓子やら、あるいはサプリメントの箱やティッシュの箱まで乗っている始末。
 パソコンを扱えない環には想像がつかないが、いったいこんな状況で扱えるような機械なのだろうかと首を傾げてしまう。もっと精密っぽい何かかと思っていたのに意外である。
「とりあえず、空き缶でも片付けましょうか」
 機械の類は壊してしまいそうだから触れないが、一目でゴミと判るものくらいは片付けても良いだろう。そう思って、環は弟のパソコンラックの前に足を止める。見れば見るほど使いにくそうな机である。
「――あら?」
 と、空き缶を取ろうとした環の目に、見覚えのあるモノが映った。
「……………これは」
 赤髪の女の子が両腕を頭の後ろで組んでいる図。水着だろうか、小さな白いビキニに包まれた胸はとても大きく、"たゆん"と揺れるような弾力さえ、見る者に伝わってきそうな勢いだ。加えて、肩紐をちゃんと結ばずに口にくわえているだけという状態という極めて扇情的な格好。薄赤に染まった頬に彩られた瞳は何かを期待しているように潤んでこちらを見つめており、思わずこちらが照れてしまいそうなほどだ。
 いや、まだそれだけならいい。それだけなら、とびっきり色っぽくはあっても、まだ普通のピンナップと言えるだろう。"それ"が決定的に特徴だったのは、その胸の部分だ。
 どう特徴的かというと、立体である。立体"的"ではなく、紛れもない立体。触ると柔らかいから、何かジェルのようなものが入っているのだろう。とにかく、胸の部分が"ぽよん"と隆起していて、本物のおっぱいのようなのだ。
「どこでこれを……」
 机の上でで異彩を放つそれを見ながら、環はぽつりと呟く。
 そう、このピンク物件が何であるのかを環は知っているのだ。パソコンには詳しくないが、ある事情から詳細を聞いている。
 その名も「おっぱいマウスパッド」。パソコンで使うマウスを操作する際、机に手首がこすれないようにジェルマットを置くことがあるが、それのおっぱいバージョンというわけだ。世の男性諸君が(一部女性もかもしれないが……)、マウスを操作する際、いちいちこの赤毛の美少女のおっぱい部分に手首を置いて、いろいろと夢想したり癒されたり自家発電に励んだりという、環に言わせればほとんど言語道断の品なのだ。
 もちろん、通常であれば、そんものを環が知識として知っているはずがない。ジャンルとしては次元を異にする類のモノであり、ましてや電子機器方面に縁のない環のことであるからなおさらである。
 が、それでも彼女はこれが何かを知っている。
 なぜって、その「おっぱいマウスパッド」にプリントされているその少女は、まさに彼女、向坂環自身なのだから。



「あ、改めて実物を見ると、モデルを引き受けたのを後悔するわ……」
 あれは昨年末のことだったろうか。知り合いの姫百合珊瑚が「新しいマウスパッドがほしいから手伝ってもらいたい」と頼んできたのだ。
 何をどう手伝うのかは最初は判らなかったが、可愛い後輩の頼みと言うことで引き受けたのだ。もっとも、具体的に手伝っても意図するところは判らなかったが。
  とにかく水着で写真撮影に応じてほしいということで来栖川ラボのスタジオに連れていかれ、待機していた女性カメラマンに写真を撮ってもらったのが発端。後から具体的な使用方法を聞かされた時は目眩がしたものだったが、とりあえず作成されたそれを使うのは珊瑚一人だと言うことで、その時は渋々ながらも了承した。
 それが、なぜこんなところにあるのだろうか。お人好しの珊瑚のことだから、雄二に請われて断れなかったのだろうか――?
 いずれにしろ、このままにしてはおけない。

 環は――


 A.おのれ雄二! 怒りに震えた

 B.まさかあの子、私のことを……? ドキドキ








〜緋雨〜



 向坂雄二がその異変に気付いたのは、自室に向かう階段を7段ほど上った頃だった。
 何やら得体の知れないオーラが階上から漂ってくる。物音はとりあえず聞こえないが、確かに何か――それも自分にとって良くない何かが――起こっていることは間違いなさそうだ。
「なんだ……?」
 まさかまた姉の環が部屋に入り込んでいるのだろうか。
 あれほど自分の部屋は自分で片付けるから入るなと言っているのに、相変わらずこちらの言うことなどお構いなしだ。また『こんなに散らかして』と小言を言われるのだろうか。
 しかし、それにしては漂ってくるオーラが尋常ではない。まるで、以前にエッチ本を見つけられた時のような、そんな気配だ。
「あん時は、『ときめきのメイドさん 〜ご主人様、だあい好き♪〜』だったか……。あれは確かにヤバめの一品だったが、あれ以来隠し場所には気を遣ってるはず……」
 いかに環の嗅覚が鋭いとはいえ、まさか床板の下まで確認すまい(あの隠し扉を作るのにどれだけ苦労したか……)。となると、いったい何があったのか?
「あれは隠した、あれも隠した、あいつも隠してあるし、後は……」
 指折り数えて一つ二つ。見られて困るものリストを数える雄二。ひととおりのものは隠したはずだ。
「珊瑚ちゃんからもらったマウスパッドも隠し……」
 ――と
「隠し……」
 ひとつ、たらりと
「隠し……たっけ」
 あぶら汗が背中を伝う。

 もし、あれを、見られたら。

「…………………………」

 一瞬で、血の気が引いた。
 いけない、この階段は死の階段だ。上ってはいけない。そう本能が訴える。
 見つかったか見つかっていないか、そんなことはもうどうでもいい。
 とにかくこの場から離れよう。全ての細胞が訴えるその声に、雄二は全身全霊を持って応えた。すなわち回れ右をして、そろりそろりと抜き足差し足、階段を下り始めたのだ。
 だが、世の中には「もう遅い」という言葉が存在する。

「どこへ行くのかしら、雄二」

 それは、たぶん。
 "声"と言うものが物理的な冷気をまとった瞬間だった。

「せっかく姉弟2人きりの休日なのに、どこかへ遊びに行っちゃうなんて、お姉ちゃん寂しいわ? こっちへ来て、一緒に遊びましょう」

 言葉の文字列は甘い。
 しかし意味するところは既に次元を超越している。
 いけない、振り向いてはダメだ。
 それは死を意味する行為に他ならない。
 しかし――

「こっちを向いて? 雄二」

 ああ、誰がこの悪魔の恫喝に耐えられるだろうか。そんな人間が存在するとすれば、それは"神人"と呼ばれる存在に他ならないだろう。
 そして雄二は、神人はおろか、押しも押されぬ一般ピープル。
 抗う術などあるはずがない。

「よ、よお姉貴……。俺、ちょっと用事があって……」

 ギギギ、という首の骨がきしむ音が聞こえる。
 だが、それでも雄二は抗いがたい強迫観念に負けて、背後を――つまり階段の上を――振り返った。

 そこには

 悪鬼羅刹が

「これ」

 その羅刹は手に持った"アレ"を雄二に見せる。

おっぱいマウスパッド

「何か判るわね?」

 それは珊瑚からもらった――

「とりあえず、言い訳は――」
「いや、それな? ちょっと珊瑚ちゃんと――」
「聞かないから」
「へ?」

 イイワケハ、キカナイ

「だからね?」
「え、えっと……」
「念仏を……唱え始めなさい」
「ひ……」

 ……??!?!
 …!!……………!!!
 ……!!!!!???!!!!!!!……!!???!!
 !!?!?………………!!!
 ……………!!………!!!!!!!!!!!!!!
 !………!!??!!………!!
 …………???!!!!!………………!!???!!
 !!!!………!!!……!!………!???!!???!!!!
 ……!???????!!!!!!!!……!!
 ……!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 …………………………
 ……………………
 ………………
 …………
 ……
『お昼のニュースです。午前10時30分頃、一部地域で、赤い色の雨が降ったという事件が発生いたしました。調べによると、この赤い雨の成分は人間の血液と同一であると言うことで、警察は何らかのテロの可能性もあると見て、調べを進めています。政府関係者からのコメントは次のように――』


 ――BAD END








〜姉の申し出〜


 向坂雄二が自分の部屋に戻ってきたのは、そろそろお昼ご飯の時間になろうかという頃のことだった。駅前の書店にグラビア雑誌を買いに行っていただけなのだが、途中でクラスメートと会って話し込んでいたこともあり、少し遅くなってしまったのだ。
「ん?」
 階段を上りきったところで、自室の扉が数センチほど開いていることに気付く。出てきた時はちゃんと閉めたはずだから、おおかた、姉の環が勝手に入って掃除でもしているのだろう。あれほど自分の部屋は自分でなんとかすると言っているのに。
「ったく、また小言いわれんのかな……」
 ぶつぶつと文句を言っていても始まらない。仕方なしに、雄二は半端に開いた扉のノブを掴むと、自室に入った。
「おい姉貴! 勝手に入るなって何度も言ってるだろ?」
「え――?」
 案の定、部屋の中には姉の姿。長い赤髪を今日はアップにして、掃除する来満々の雰囲気だ。
 しかし――
「ん? なに持って……」
「あっ、こ、これは……」
 雄二の声に、持っていた"それ"を慌てて後ろ手に隠す環。しかし、一瞬遅かった。
「あ"………」
 雄二の目に入ったそれ。
 それは、貴明に連れられて姫百合家に遊びに行った際、珊瑚のパソコンラックの上に見つけたものだった。思わず目を惹きつけられた雄二の様子に『欲しいのかな?』と思ったのだろう、珊瑚がほとんど無理矢理に持たせてくれたのだ。
 その名も「向坂環おっぱいマウスパッド」。
 嫌だ、要らない、そんなの見たくない、そう何度も言ったのに、珊瑚と来たら『まぁまぁ、そう遠慮せんと』と言って、聞く耳を持ってくれなかった。
 仕方なしに持ち帰ったは良いが、処分に困ることこの上ない。姉の写真がデザインされているものを燃やすのも気が引けるし、かといってそのままにしておくのもどうかと思うし。そんな中、まさか処分する前に環に見つかるとは一生の不覚。こんなことなら、さっさと貴明にでも押しつけてしまえば良かったと説に後悔する雄二である。
 そりゃあ、何となくおっぱい部分を指でぷにぷにしたり、手のひらでふよふよしたり、顔を埋めてぱふぱふしたり、その程度の最小限度の楽しみ方は雄二だって試してみた。が、しかし、別にそんな、未練とかは一切ないわけなのだ。まだちょっと、おっぱい枕をやってないなーとか、腕に抱いて寝てみたりしてないなーとか、そのくらいはやってもいいかなとか、いやむしろやるべきなのかとか思っているが、もうぜんぜん未練とかはないことはこの世の真理というか、あんまりツッ込まないで欲しいというか、だからそういうことなのだ。
 いや、そんなことより。
 いま、実の姉の向坂環が、弟である自分が所有していた「向坂環おっぱいマウスパッド」を手に持っているという事実。
 それは、血の雨が降るという宣告ではないのか?
 もちろん、血の雨の出所はこの自分、向坂雄二であることは疑いようがない。
「い、いや、あの……、そ、それはだな。珊瑚ちゃんが無理矢理俺に押しつけてきたもので、別に俺はその……」
 たらり、たらりとあぶら汗。
 とにかくいまは言い訳の一手だ。これまでにそんな手段が成功したことなど一度もないが、だからといって黙っているわけにはいかない。一縷の望みをかけて、とにかく言い訳なのだ。
「だ、だから別に、その……なんていうか……。そう! それな? 貴明にプレゼントしてやろっかなーとか、そういう感じで、何つーか、ほら、姉貴も貴明に使ってもらうなら、アレだろ? 別に問題ないって言うかむしろ使えって言うか、だから……」
 そして、もちろんラストの一手はお約束。
 ばっと床にひれ伏して両手を前につき、目標に向かって全力で頭を下げ下げ。
「だからスンマセン! もうしません! お願いだから許してくださいお姉様! 命だけは……命だけはお助けを! 何でもしますから、この通り!」
 見事な土下座のフォームである。手慣れているとはこういうことさ。
 だが――
「…………………………」
 当の環はと言えば、そんなあわてふためく弟の様子に何を思うのか、先ほどから何となく俯いて一言も発しない。
 後ろ手に持ったマウスパッドをもじもじと持ち替えたりしながら、あっちへそわそわ、こっちへそわそわと視線をさまよわせているばかりだ。何となく顔も赤い。
「………………えっと?」
 一向に噴火することのない環の様子に、さすがの雄二も異変に気付く。普段なら、とっくの昔に血の雨が降っているはずなのに、今日はどうしたことだろうか。
「ど、どうした? 姉貴……」
「…………………………」
 おそるおそる、雄二は立ち上がって環に声をかける。熱でもあるのかと思ったのだ。
 しかし、その声にも環は気付いていないのか、相変わらずもじもじと落ち着かない様子でマウスパッドを気にしているようだ。
「姉貴? 大丈夫か?」
 さすがに心配になって、雄二は環の肩に手を置いて揺すってみた。
 ――と
「ひゃ、ひゃあっ!」
 呼びかけたこちらが驚くほどの反応で、環が文字通り飛び上がった。
「な、なに? 雄二……」
「な、なにって、姉貴こそどうしたんだよ?」
「私? 私は別に……」
 そう言って、環はまたも俯いて、もじもじとあちらこちらへと視線をさまよわせ始める。
 どうしたのだろうか?
 だが、何が何だか判らないものの、ひょっとしたら今がチャンスかもしれない。心ここにあらずのようだし、いまの内にマウスパッドを奪取しておこう。あとは貴明にでも押しつけてしまえば、万事解決だ。
 そう思い、雄二は環が後ろ手に隠したマウスパッドを、手を伸ばして取り上げた。やはり心ここにあらずなのか、何の抵抗もなくマウスパッドが雄二の手に戻ってくる。
「え? あっ……」
「こ、これは、貴明にでも渡しておくから、な? その方が嬉しいだろ?」
「え……?」
 だが、その瞬間――
 今までに見たこともないほど、環の顔に影が差した。
 まるで、何か悲しことを言われたかのように。
「な、なに?」
「それ……、タカ坊にあげちゃうの?」
「いや、まあ、うん」
「で、でも、それ、雄二が……」
「え?」
「雄二が、欲しかったんじゃ……、ない、の?」
「え……?」
 何を――
 何を、言っているのだろうか。
 一瞬、意味が分からなかった。
 『俺が……?』
 このマウスパッドを
 貴明ではなく、弟である雄二が
 欲しがっていたのではないのかと
 ――そう聞かれている?
「な、何言ってんだよ、姉貴。俺は別に――」
 別に――
 こんなもの要らない。
 要らない、はずだ。
 こんな、姉をデザインしたおっぱいマウスパッドなんて。

おっぱいマウスパッド
 他の、そうだ、例えば久寿川ささらのそれだったら喜んで使うけど。
 姉のものなんて――

 しかし
 なぜか、最後の一言が
 『いらない』の一言が言えない。

「別に……」

 それを言うには――
 目の前の姉の瞳が、あまりにも潤んでいたから。

「…………」
「…………」

 思わず無言になる2人。
 何を言えばいいのか、皆目見当がつかなかった。

 でも、さっきの質問がまだ有効であるならば。
 答えないというのが、すなわち答えでもあると――
 少なくとも、状況はそう物語っている。

 だから、きっと
 次に発せられた環の一言は
 たぶん、必然だった。

「そんなマウスパッドより……」
「え?」
「本物……、触ってみたく、ないの?」
「え……」

 俯いた姉の顔。
 でも、瞳は上目遣いにこちらを見つめていて
 頬は赤く染まっていて
 格好こそ違うけれど、まるであのマウスパッドのような――

「お、俺は……」


 A.触ってみたい

 B.ものすごく触ってみたい

 C.とにかく触らせてください








〜扉〜


「さ、触ってみたい……かも……」
 口にした瞬間

 『な………何言ってんだ俺はああああああああああああああ!!!!!!!???????』

 沸騰、灼熱、大噴火。
 身体中の血液が巡り巡って、顔から火が出るとはまさにこのこと。いま体温を測ったら、きっと体温計の目盛りが振り切るどころの騒ぎではないだろう。
 言うに事欠いて『触ってみたい』とは何ごとか。
 だいたい、マウスパッドはともかく、実の姉の胸など触ってみたいとは思わない。これっぽっちも思わない。と思う。たぶん。きっと。
 『そうだよ、姉貴の胸なんか、どうせ固くて……』
 いつも身体を鍛えている環。きっと筋肉質だ。胸だって、大きいだけで固いばっかりだろう。どうせ触っても面白くない。
 でも――
 なんとなく、思い浮かべてみる。
 ツン、と生意気そうに上を向いた環のおっぱい。89センチのFカップ。
 マウスパッドでは、確か白いビキニをまとっていた。ヴォリュームたっぷりで、いまにも紐がちぎれ飛びそうなバスト。少なくとも、固そうには見えなかった。
 いや、それどころかむしろ、日頃滅多に見せない"やさしいきもち"がいっぱいに詰まっているような気さえする。
 あの胸に手を置いてみたら、いったいどうなってしまうのか――。
 『ゴク……』
 思わず生唾。
 ちらり、と様子を窺ってみる。
 そこには、ぽっと赤くなって俯いた姉の姿。
「じゃ、じゃあ……」
 小さな唇を奮わせて、環がちらりとこちらを見た。
「触って、みる?」
 そうして――、
 つっと、胸をこちらに差しだした。
 『なっ……』
 ドク、ドク、ドク、ドク……
 心臓の音がうるさいくらいに聞こえる。
 いったい、これは――、
 夢か、現か。
 あの環が、
 あの姉が、
 畏怖の対象でありこそすれ、憧憬の対象では決してなかった実の姉が、
 いまはこんなにも、切なげな顔で佇んでいる。
 その光景は、まるで陽炎のように現実感に乏しくて。
 でも――、
 心の、どこかで
 きっと、こんな場面を
 夢に見ていたような気が、する
 だって、
 畏怖の対象であっても、
 憧憬の対象ではなかったとしても、
 姉の美しさを疑ったことは、一度たりともないのだから。
 たぶん、
 世界でいちばん、美人のお姉ちゃんなのだと――
「は、早く……、早くしなさい。男の子でしょ、だらしないわね……」
「あ、ああ……」
 少しぼーっとしていたようだ。姉の不服の声に我に返る。
 でも、その強気な言葉に、むしろ『やはり目の前にいるのは姉なのだ』という実感が沸いてしまう。
 『マジか……』
 それでも、雄二は必死の思いでそろそろと手を近づけていく。早くしないと怒られてしまうと思ったからだ。それに、もしかすると、このまま放置しておいたら泣いてしまうかもしれない。
 だから――
 『いくぞ……』
 覚悟を決めた。
 あと、ちょっとで、マウスパッドではないふくらみに手が届く。
 たぶん、この世の何よりも、心地よい感触を持ったものへ。
 あと、一センチ――

 とはいえ、

 まぁ、

 この小説は18禁ではないものでして、

 これ以降は描写したくてもできないんですよ。

 だからね、

 次の行でお邪魔虫を呼んじゃうのですよ♪ 悪しからず。


「タマお姉ちゃん、ここにいるのー?」


   ガチャッ


「あ、2人ともやっぱりここにいたぁ」
 急に声がしたかと思うと、誰何を問う間もなくドアが開く。そこに立っていたのは、幼馴染みの柚原このみだった。
「もう、呼び鈴鳴らしても誰も出てこないんだもん。それなのに鍵は開いてるし、いけないんだぁ。ちゃんと鍵を閉めておかないと、強盗さんに入られちゃうんだよ? きっと怖いんだからね。…………って、2人ともどうしたの? なんだか、美術の教科書に載ってる彫像みたいなポーズになってるよ?」
 そろそろ春の気配も漂う二月の向坂家。
 姉弟揃って、「ジョジョの奇妙な冒険」もかくやというようなポーズで固まっている昼下がりであった。



〜その予感は〜


 明けて次の日。
「ほら、もっとシャキッとしなさいよ。男の子でしょ」
「う、うるせーなー。朝なんだから仕方ないだろ?」
 いつものように学校へと続く道すがら、ほとんど日課のような、軽い姉弟ゲンカの声が街に踊る。
「あん、もう、襟のホックも外れてるじゃないの。貸しなさい、留めてあげるから」
「いいよ、……って、だからいいってば! 自分でやるよ!」
「なら早くしなさい。もう、いつまで経っても子供なんだから……」
「ちぇっ」
 その数歩後ろ。これまたいつものように、仲睦まじく並んで登校している河野貴明と柚原このみが、顔を見合わせて苦笑した。
「あいかわらずだな、この姉弟は」
「あはは、そうだね。でも……」
 ちらり、このみが前を行く姉弟を見る。
「ちょっとだけ……、ね?」
「……そうだな、ちょっとだけ……な」
 ちょっとだけ、
 それはいつもと違う朝だったかもしれない。2人はそのことに気付いている。
 なぜなら――
「うん、留めたわね。よろしい」
「キツいんだよな、これ」
「ガマンなさい。いい男のたしなみなんだから」
「へいへい」
 このみたちの視線の先。そこには環と雄二の手。
 いつもはカバンを持っていたり、ポケットに入れていたりする2人の手が――
 今日は、そう、ちょっとだけ仲良しさんだったから。
「ねえ、タカ君」
「ん?」
「このみたちも、手を繋いでいこうよ」
「甘えんぼ」
「いいの。ほら、行こう?」
 きゅっと、繋いだ手。
 このみと貴明、そして――環と雄二。
 重ねられた手に交わされる温もりは、たぶん、あの角からこっちを見ている春の気配。

 何かが変わる、そんな予感。

 並木道に桜舞う頃、きっと――、物語はまわりだす。


 ――HAPPY END

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