夏のフォトグラフィ
★いつも、いつでも、一葉の写真は物語る★
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 いつも一緒の相棒を残して、ひとりだけで歩きたくなる時がたまにあって、この日がまさにそうだった。黒部のトロッコを写真に写し、あとはユースホステルにチェックインするだけになった夏休みの午後、まだ時間が余っていたので、僕は相棒をトロッコ駅に残して、脇の林道へとふらふら踏み入って行った。そして、谷間を結ぶ鉄橋を歩いて渡り、そのまま雑木に両側を、雑草に枕木を飾られた軌道を1時間も歩いて行った先に、くすんだ黄色に塗装された車両が停車していたのを発見した。特に錆びている様子もなければ、窓が割れている様子もなく、機関車両がありさえすればすぐにでもガタゴトと走って行けそうな、真新しい車両。こんな山奥に、なぜうち捨てられるように放置されているのか判らなかったが、木の葉にろ過された夏の陽射しが降り注ぐその姿はいかにも幻想的で、僕は夢中で首から下げたカメラのレンズを列車に向けて、何度も何度もシャッターを切った。

 と、その時、いちばん前の開いたドアの影に、ひょい、と女の子の顔が覗いた。歳は僕と同じか、少し下ぐらいだろうか。まだ少し距離があったので細部までは確認できなかったが、ポニーティルを結んだ赤いリボンと、吸い込まれそうな黒い瞳が、名画のように鮮烈で、僕は少なからずはっとした。だが、その女の子は、しばらくこちらを見つめていたと思うや、不意にきびすを返して、車両の中に消えて行ってしまった。瞬間、僕もだっと駆け出して、うち捨てられた黄色い車両の中に飛び込んで行った。見失い、もう2度と会えなくなるような気がするのが、どういうわけかたまらなく怖かった。しかし、たった1車両しかないはずの車内には、今しがた消えて行った女の子の影も形も見当たらず、真新しい床特有の人工的な匂いと、たばこの焦げ痕のひとつもない、赤い布張りのシートが並んでいるだけだった。ただ、ひとつだけ、真ん中辺りの座席の上に、それだけ忘れ去られたように、赤いリボンが1本だけ置かれていた。

 実家に帰って来て、フィルムを現像した時の驚愕を僕は生涯忘れない。そこに焼き付けられていたのは、あの今にも走り出しそうな黄色い列車ではなく、コケとツタに覆いつくされて、もう車体の色さえ判別できなくなっている朽ちた車両。あの日、僕が見たものの面影すらあいまいな、ずっと昔に風景と化してしまった、列車という生き物の遺体だった。

 次の年の夏、僕はもう一度、あの列車を見に行った。谷を渡り、雑木林を抜け、雑草に足を取られながら、夏の陽射しの中をあの場所まで歩いた。だが、その先に待っていたのはやはり、写真に映されていた通りの、朽ちた車両が1台きり。あの黄色い列車も、ポニーティルの女の子も、もうどこにもいない。でも、それでもやはり、僕が見たあれは、幻ではないと思う。デイパックの中から、僕はあのリボンを取り出す。女の子が、たったひとつだけ僕に残したもの。そう、これがある限り、僕は信じる。今はもう、木々の記憶の葉脈に埋没してしまったけれど、あの時、あの場所、夏の風が渡るあの瞬間だけは――彼女は確かにそこに、存在していたと。

 ――――――――――――おわり

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