The first date rhapsody 〜Story of ring in KONOMI〜
第二回葉鍵板最萌トーナメント出展作品
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     ※

「……どっちっスか」
 窓の外は夜の帳を下ろし、月の光が闇夜をぼかすように照らしている。
 銀色の静寂にその身をゆだねた街のその片隅の中、彼女はうめくようにそう呟いた。
「……………………」
「……………………」
「……大きい方と小さい方…どっちっスか」
 再度、手の内と相手の目を見据えて問う。ここが正念場だ。いや、正念場はもう過ぎた。悪あがきに近い。しかし、閉塞を打破する一筋の光明は、いつだって最後まで諦めなかった者の上に降り注ぐのだ。
 しかし、それでも…
 いかんともしがたいことというのは、世の中にどうしても存在する。
「……………………早くしろ」
「……………………待ちくたびれたよぉ〜」
 急かす声。
 もうだめか?だめなのか?
「……………………ぱ…」
「それはもう無い」
「ちゃんと数えてなきゃダメだよ?」
「……〜〜〜〜〜〜ッ!」
 万事休す――か。
 こらえにこらえた勝利への糸が一本、静かに――
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜!もう!わかった、わかったわよ! 負け負け! まけたぁッ!」
 静かに――と言うのには程遠く、絶叫と共に切れたのだった。


      1


 そろそろエアコンの恩恵が身に沁みてありがたい夏の夜。七夕を目前に控えた6月末の金曜日の柚原家に、パジャマ姿の3人の女の子が集まって、7ならべに興じていた。
「な〜んで、なんでなんでなんで、二人ともそんなに強いのよー!」
 ひとりは緑に近い色に染めた髪を肩口にかかる程度に丸くまとめた女の子。
 ライトグリーンのTシャツパジャマに身を包み、負け惜しみを口にする一方で心底楽しそうに笑っている様はいかにも活発そうだが、シャツの生地を持ち上げている誇らしげな胸は、三人の中でいちばん女性的だった。反面、顔立ちは歳相応に愛らしく、男の子なら誰しも放っておかないだろう、アンバランスな魅力を発散している。
 もっとも、本人に自覚が無いのか、一緒にいるのが同性だけだからなのか、ひっくり返って伸びやかな脚をばたばたとしている様は、胸さえ除けばほとんど少年のそれだった。
 名は吉岡チエ。親しいものからは『よっち』の愛称で親しまれるムードメーカーである。
「フッ……じゃあよっち、カード出して」
 そのよっちに、抱え込んだカードを放出するよう要請しているのが、彼女の昔からの親友である山田ミチル、通称『ちゃる』。
 くちなし色の髪を適度にショートにまとめた、メガネの女の子。クールに振舞う物腰とは裏腹な大きめの瞳がくるくるとよく動き、人一倍の好奇心を予感させる。あまりそうは見えないが、それなりに裕福な家庭のお嬢様で、ハートをあしらったBALMAINのコットンボイルパジャマの着こなしも、背伸びしているわけでもないのに様になっている。
 なんでも、本人いわく、お祭りのときの屋台を経営している会社の社長令嬢だという。…もっとも、それが何を意味するのかは言わぬが花というものであろう。
「えへ〜、たくさん場が埋まるよ〜」
 そしてもう一人。よっちがばら撒いたカードを、いそいそと場に並べているのが、ここ柚原家の一人娘、柚原このみである。
 普段は桜の髪留めで両サイドを結っているミディアムカットのヘアースタイルは、お風呂上りの今は下ろされていて、前髪の上にぴょこんと飛び出たひと房のアンテナと一緒に、可愛らしさをかもし出している。
 栗色の大きな瞳とよく笑う桜色の小さな口が、小作りな顔の中に収まっている様子はいかにもキュートで、それは、起伏に乏しい(本人は成長していると言い張っている)お子様然とした体格と相まって、言われなければ中学生以下にしか見えないほどだ。
 襟元にレースをあしらった、花柄七部袖のフェミニンなパジャマは、着る人が着れば逆にセクシーさをかもし出すが、彼女のそれはまだまだ『プリティ』という形容で語られるべきものだろう。
「オニ! 悪魔! もう〜どうして6も8も出ないのよ! ねぇ、どっち? どっちが止めてんの、これ?」
 場に並んでいる四つの7の内、ハートの7だけが両隣に脇侍を持っていない。割を食ったのがよっちで、彼女が持つカードの大半はハートのシンボルが描かれたものだった。パスを繰り返す内に、規定回数に達してしまい、にっちもさっちもいかなくなって結局ほとんどのカードを手に持ったまま、二人に封殺されてしまった格好だった。おかげでこれまですっかり空白だった部分に、ピンク色のカードがたくさん並ぶ。
「それはまだまだ勝負中であるゆえ、明かせないでありますよ〜」
「残ったのが二人だけなんだから、隠すも何も無いじゃん!」
「あ、そっか。6は私〜」
「かーっ、じゃあ8はちゃるかよ! 二人していじめだ! いじめいじめ! いじめ、かっこ悪いぞ!」
 先ほどから、UNOや花札など、まるでいいところなく惨敗を喫しているよっちが、悔しげに抗議する。ポーカーだけはこのみに一矢報いたものの、それ以外はほぼ一人負けの状況。
 対して、ちゃるのゲーム運びは冷静で計算高く、堅実に勝ち星を挙げていくスタイル。派手に勝つわけではないが、負けることが少ない地味な勝負師である。
 そして意外なのがこのみで、手のつけられないような、恐るべき勝負強さである。UNOをやらせればドロー2とワイルドカードの嵐、こいこいでは当然のように五光を引き込み、3人大富豪では最初から最後まで大富豪に君臨し続ける始末。やたら表情に出るため、ポーカーではよっちの後塵を拝したものの、それ以外のゲームではほぼ鬼神の強さを発揮していた。少し前に麻雀で、半荘を役満のみで上がり続けたという信じがたい噂も、あながち嘘ではなさそうだ。
 決して巧くはない。巧くはないが、とにかく強い。説明の付かないほどに。勝負師としてもっとも始末に負えないタイプのゲーマーである。
「よっち、みっともない」
「うっさい、キツネ。アンタなんかこのみにこてんぱんにされちゃえば良いんだ」
「こんてんぱんにされたのはタヌキも同じ。何故脱がない」
「あー、うっさいうっさい!」
「このみ、勝負」
「負けないよ、ちゃる! こんな日もあろうかと、タカくんにみっちり仕込んでもらったんだから!」
 タカくんというのは、柚原家の隣に居を構える河野家の一人息子、河野貴明のことである。幼馴染として10年以上の交流があった後、この4月に晴れて男女として付き合うこととなった、彼女の大切な恋人である。
「タカくん〜?」
 と、このみの枕を抱え込んで匂いをかいでいたよっちが、その名に敏感に反応する。
「そういえば、あれからどうなっているんスかね。ちょっとは進展したの〜?」
 ずりずりとこのみに擦り寄って、おばさん臭い口調でこのみに問いかける。
「進展って? あ、そこクローバーの3」
「だ〜か〜ら〜。私たちもう、花の女子高生なんだからさ〜」
「よっち、邪魔。私はハートの8」
「デートとか、ちゅーとか、そ・れ・い・じょ・う・とか〜〜」
 そう言って、妙に身体をくねくねとさせるよっち。
「よっち、親父臭い」
「だから、うっさい!ホントはアンタも気になってるんでしょーが」
「うん」
「……ぬ、ぬけぬけと」
「うーん、いつも通りだけどなぁ。あ、どうしよう、スペードのQかな」
 4月の夕焼けに照らされた川辺でお互いの気持ちを確認しあったあの日。それ以来、キスはおろか手だってなかなか繋がない、プラトニックな関係を続けている二人である。いつも通りとはまさに言葉どおりの意味を持ち、恋人らしいことは皆無といって良いほど、以前と変わりない生活様式の二人であった。当然、キス以上のことなど現在の彼女たちには望むべくもなく、よっちとちゃるの好奇の目は、いまだ満たされることのない毎日である。
「かーっ、もう進展遅いなぁ。何のために、来るべき日のための特訓を行っていると思ってんのよ。あのムダに消費されたバナナに申し訳ないと思わないのっ!」
 瞬間、ボンッ、と音を立てるかのようにこのみの顔が赤く染まる。折に触れて無理やりやらされている『バナナを使った来るべき日のための特訓』を思い出したのだ。
「だ、だって、それは無理やり…」
「……パス。このみ、スペードの5、プリーズ」
「その口は何のためにあると思ってる!? バナナを気持ちよくするためじゃないッスよ! 女たるもの、男をオトしてナンボ! ましてや自分の彼氏一人KOできなくて、何のオンナの花道か!」
「よ、よっちだって、彼氏いないからおんなじ…」
「あまーい、甘すぎる! 熟れすぎでそろそろ茶色くなったバナナ並みに甘い!」
 やおらこのみの頭に拳を押し当て、ぐりんぐりんと振り回すよっち。
「うあ〜〜〜、や〜め〜て〜」
「このみ、スペードの5、プリーズ。次点でクラブの3」
「あたしは女子校通いだから、彼氏できなくてトーゼン。このみとは立場がちがーう。それに、夏になったら三角ビキニで浜辺にデビューの予定アリっ! このナ〜イスバディでビーチの視線を釘付けにして、小麦色の好男子をゲットしちゃうぜプロジェクトが発動したら、そりゃもうアンタ!」
 そう言って、ばんっと胸を突き出す。が、突き出しすぎて前のめりにバランスを崩した様は、説得力というものを著しく欠いている。
「予定は予定だし…」
「シャラップ! まさかこのアタシが、仕掛けて仕損じるとでもお思いか?」
「だって、この間だって、ユウくんにフラれてたよ?」
 『ユウくん』とは、このみの幼馴染その2にして、貴明の親友および悪友の、向坂雄二という、ひとつ年上の男の子である。二週間ほど前に、よっちが『向坂先輩なら相手にとって不足なし』というよくわからない理由で雄二にアピールをかけていたのだが、どうやら最近はお目当ての相手がいるようで、見事に失敗したのだった。
「あれは、ちょっとした手違い。実力とは関係なし」
「それズルいよ〜」
「スペードの5、プリーズ」
「ま、お口の恋人はこの際おいとくとしても、このみ、日曜日はあたしたちと遊んでること多いし、学校帰りは姐さんと向坂先輩も一緒だったら、いつ二人っきりになってるわけ?」
「うーん…タカくんのお家とか」
「なっ……」
 数秒、よっちの動作がフリーズする。この時、脳内では彼女の精一杯の煩悩が渦巻いている。
「河野先輩のお家ッスか! そ、それはもしや、可愛い顔してあっハァ〜ん、な展開とかじゃないでしょーね! 進展ないとか言っておきながら…」
「そ、そうじゃないよぉ。タカくん放っておくとカップ麺ばっかりだから、晩ご飯とか作ってあげてるだけで…」
「なんだ…。あーびっくりした」
「よっち、だんだんエッチになってくよね」
「というより、オヤジ臭い」
「そこ! アンタは7並べしてりゃいいの!」
「プリーズ」
「は? 何が? …って言うか。問題なのはこのみだね。このまんまじゃ、服脱ぐまでにお婆ちゃんになっちゃいそうだし」
「わ、私たちには私たちのペースがあるもん…」
「あまーい、甘すぎる! さじ加減を間違えてカップの底に溜まっちゃったカキ氷のシロップ並みに甘い! とにかく! 再来週には七夕だっつーのに、この調子じゃどうせいつものメンバー総出でお祭り行っちゃうつもりでファイナルアンサー!」
「正解!」
「わーい、1千万円ゲットー、じゃねえ!」
 再びこのみの頭をぐりんぐりん。
「うあ〜〜〜」
「このみ、土日は? いや、さすがに明日は急すぎか…。日曜日は!日曜日は空いてる?」
「え? うん…空いてるけど」
「ケータイ貸して」
「え? え?」
 言われるまま、可愛くトッピングした携帯電話をよっちにわたすこのみ。何をするのか見ていると、やおら通話ボタンを押して、どこかに電話をかけている。
「あー、よっち、それ私のケータイなのに…」
「良いから、良いから…。あ、河野先輩ッスか。やほー!」
「えっ? ちょ、ちょっとよっち…」
「誰って、つれないなぁ〜。先輩の心の恋人、よっちで〜す。…あ、切らないで切らないで! もう、先輩、最近私に冷たくないッスか?」
「何やってんのよ、ちょっと、よっち、返して!」
「ちょ、待ちなって、このみ…。え? いやいや、なんでもないッスよ」
 器用に足を使って、このみの攻撃をかわすよっち。総合格闘技の猛者もかくや、という動きである。
「ところで先輩、明後日の日曜ですけど、空いてます? …川のゴミ掃除? そんなのどうでもいいッスよ。要は何もないんですね? …何もないの! ゴミ掃除キャンセル!」
 何を話しているのかは、はたからはわからないが、なかなか強引な話術であることは、断片的な情報だけでも疑う余地はないようだ。
「とにかく、日曜の10時に、栄地下街のクリスタル広場で待ち合わせで。え? あー違う違うッスよ。アタシじゃなくて、待ち合わせはこのみと。…うん、だから、デートデート、おデート大作戦〜」
「よっち! 勝手に話し進めちゃダメーッ!」
「え? ああ、ちょっと背後霊が。なんでもないッス。じゃあ、そゆことで、おめかししてきてくださいね。…だから、ゴミ掃除キャンセル!」
 言いたいことだけ言って、ぷつっと携帯電話の通話を切るよっち。切り際に、通話口の向こうから貴明の抗議の声が聞こえたような気もしたが、よっちはまるで意に介することなく「んじゃ、このみも日曜の10時にサカエチカね」と平然と言ってのけた。
「む〜〜〜!」
「まあまあ、そうむくれなさんなって。それとも、このみは河野先輩とデートするの、嫌なの?」
「そ、そうじゃないけど…。でも、タカくんに怒られるの、私なんだよ?」
「怒る? んなわけないっしょ。可愛い彼女とデートすることを怒る男なんていやしないって」
 若さの炸裂する発言だが、この場にそれを指摘する者はいない。
「ま、ともかく、こんな風に休日を有効活用しなきゃ、進展も何もないじゃん? せっかく恋人同士になったんだから、もっとわがままになっていいんだよ。幸せってさ、遠慮してたらぜったい手に入らないよ」
「よっち…」
 行動ははちゃめちゃ。でも、そこには確かに、彼女の優しさが宿っている。よっちという少女の、そこはいちばんの魅力だといってよかった。
「うん…そうだね。そうだよね…。えへへ、もっとわがままになっても、いいんだよね」
「そうそう!」
「えへ〜」
「あー、もう、ホントにこのみはかわいいなぁ!」
 満面の笑顔でこのみに抱きつくよっち。髪の毛から匂うシャンプーの香りを思い切り吸って、心底楽しそうだ。
「デート、か…。タカくんと…初めてのデート…」
「……………………なぬ?」
 ばっ、とこのみから離れ、信じられないという目をこのみに向けるよっち。
「いま、なんと?」
「え?だから、タカくんと初めてのデート…」
「は…」
 ひと呼吸、ふた呼吸。
「はじめてぇ〜〜〜〜〜っ!?」
「そ、そうだけど…」
「あ、あ、あ、あ、アンタは10何年も一緒にいて、デートのひとつもしてないの!?」
「…だ、だって、いつもユウくんやタマお姉ちゃんが一緒だったし…。別に、デートじゃなくても一緒にいられるし…」
 タマお姉ちゃんというのは、幼馴染の最後の一人にして、向坂雄二の姉、向坂環という二つ年上の女の子である。
「あまーい、甘すぎる! ポケットに入れっぱなしでちょっと溶けちゃったチュッパチャプス並みに甘い!」
「それ、微妙…」
「とにかく! これは由々しき事態! 我らがこのみ姫の人生において、デートの三文字がまだ一度も出てきていないとは! 明日が一日空いていたことを神に感謝したい気分!」
「え?」
「このみッ!」
 ガシッ、とこのみの方をわしづかみにするよっち。なにか企んでいることが明白な目の色が少し怖い。
「な、なに?」
「安心して、このみ。私とちゃるで、このみを完全バックアップのサポート体制!」
「え? え?」
「要するに! 明日一日使って、デートのプラン、その傾向と対策を練りに練ってねるねるねるね!」
「練れば練るほど色が変わって」
「こうやってつけて…。うまい! じゃなくて、つーか、ネタ古いな」
「あれ美味しいよね」
「それはもういいから。つまり、アタシたちがデートの対策を考えて、当日も裏からアドバイスを送ってあげるってこと」
「ええ〜!?」
「何よその目は。アタシたちが信じられないとでも」
「だって、二人ともデートしたことあるの?」
「ない。でも、このみに比べれば、その手の知識は持ってるはず」
 人、それを耳年増というが、それを指摘する者はこの場にいない。
「というわけで、デートのプランは大船に乗った気持ちでアタシたちにまかせなさい」
「う、うん…」
 勢いに押されて頷いてしまうこのみであった。
「ちゃる、じゃあ、明日は一日、このみのデートの作戦練るからね。ちゃるも空いてるんでしょ? 明日明後日と」
「プリーズ」
「え? 何?」
「スペードの5、プリーズ」


     2


 梅雨の季節は緑色の風と共に過ぎ去り、どこまでも青い空と眩しい陽射しが踊る季節がやってくる。風の匂いは、これから訪れるであろう真夏の予感を含ませながら頬を撫で行き、どこか浮き足立つような高揚感が人々の胸をそっと彩る。
 そんな楽しげな陽気の日曜日、噴水で跳ねる水の音が耳に心地良い、地下街のクリスタル広場の中に、リボンをあしらったホワイトのブラウスにブラックのギャザースカートを合わせて少し大人っぽくまとめたこのみが、ちらちらと時計を確認しながらたたずんでいた。
 ファッションは、いつものこのみにしては背伸びしすぎの感もあったが、逆にそれが彼女のあどけない魅力を引き出している。まして、すっぴんでもアイドル顔負けの素材の良さなのだから、ほぼ反則といっても良い。薄いピンクのリップをひいた小さな唇が、まだかな、もうそろそろかな、と呟いている様は、道行く人が――それも、男女問わず――思わず振り返るほど可愛らしかった。
 少し前に、幼馴染の向坂環にコーディネートしてもらった、現在のこのみにできる、精一杯のオシャレである。
 時間は9時50分。約束の時間まであと10分。ちなみに、家が隣同士であるにもかかわらず待ち合わせを市外に指定し、予定時間より早く場所に来ているようにこのみに指示したのは、誰あろうよっちである。『待ち合わせ場所で健気に彼氏を待っている女の子にドキドキ!』というのが彼女の主張であったが、効果のほどはこのみには予測判断材料がない。むしろ、ひとりぼっちで広場にたたずんでいるのが寂しくてならないというのが本心で、早くも『家から一緒に来るんだった』と後悔している所である。
「タカくん、まだかなぁ…」
 またひとつ呟き、友人から渡されたカンニングペーパーを確認する。そこには、今日のデートで遊びに行く場所や、ご飯を食べるお店、デート中の会話や態度の如何まで、こと細かく指示が書かれている。よっち&ちゃるの力作デートガイドだ。
「三越で水着を見て…買わなくてもいいから見せ付ける? 恥ずかしいなぁ…これホントにやらないとだめかなぁ。…えっと、その後セントラルパークに出て散歩して、オアシス21に入って…、えっと、お昼ご飯はアル アビスでパスタ…」
 前半はショッピング、後半は二人で歩くことが中心の組み合わせになっているようで、午後からの大半はオアシス21での行動指示が並んでいる。1日考えただけあって、そつのないスケジューリングだった。デートタイムの設定が夕方までなのも、おそらく初デートで夜まではおかしいという判断からだろう。学生のファーストデートとして、無理のない計画ではある。
「…この、タイムチャートの星マークってなんだろう?」
 カンニングペーパーのところどころに配置された星マークの意味だけは、ことここに至っても不明だった。渡されたときのよっちの話では、何やらイベントがあるらしいが、詳細には聞いていない。
 ともかく、無理やりセッティングされたとはいえ、これから貴明との初デートが始まるわけで、普段は心臓に鋼鉄の毛が生えているといわれるこのみも、さすがにドキドキが止まらない。
 思えばおかしな話だ。付き合い始めて2ヶ月強、たくさん甘えたし、ほんの数回だけどキスだってしたのに、いざ改まってデートとなるとこんなにも鼓動が早くなる。
 ――今日の私、ヘンじゃないかな。服、似合ってるかな。髪形、崩れてないかな――。
 些細なことが気になって、家を出る前に何度も何度も鏡を確認した。そのたび、髪留めがずれているような気がして、リボンが曲がっているような気がして、母親に外へ放り出されなかったら、今でもぐずぐずと鏡の前に貼り付いていたかもしれない。
 好きという感情が生み出す、不思議な高揚感と期待感を感じながら、このみは改めて、自分が貴明に寄せる想いの強さを、自分自身で再確認する。
「タカくん……」
 名を呼ぶ呟き。誰にも聞こえない。
 でも、偶然にも――
 呟いた瞬間、雑踏の中に、このみは愛しい人の姿を確認する。フィールドTシャツにイージーパンツ、コンバースのスニーカーというシンプルないでたちがよく似合うこのみの恋人、河野貴明がそこにいた。
「このみ、ごめん、待ったか?」
「タカくん! ううん、ぜんぜん待ってないよ! いま来たとこ!」
 お決まりの台詞。それは、幸せの証。
 初めてのデートは、こうして幕を開ける。――舞台袖に、余計な黒子を数人隠して。


     ※


「ちゃるさんちゃるさん」
「なに、よっち」
 クリスタル広場に面したファンッションストア、One's Bの物陰からこのみたちを伺う影二つ。言うまでもなく、よっち&ちゃるのコンビである。
 よっちはブラックのプルオーバーに濃い目のブルーのデニムミニでややボーイッシュな装い、一方のちゃるはホワイトのタンクトップにオレンジのチェックシャツを合わせ、ココアブラウンのティアードスカートというフェミニンな格好である。
「始まりましたよ、用意は良いかね?」
「……うむ。よっちも問題ないか?」
「トーゼン。おっと、ターゲットが動き出しましたよ」
「うむ」
 6番出口に向かって歩き出した目標を追って、二人もショップを出る。
 いろいろな意味で長い一日になりそうだ。


     ※


「それにしても驚いたよ。いきなり夜中の1時に電話がかかってくるんだからな」
 6番出口の階段に向かいながら、貴明が苦笑しながら言う。このみにとっても急な話だったが、彼にしてみれば既にベッドで夢を見ていたところを叩き起こされ、わけもわからないうちに無理やりデートの約束を取り付けられていたのだから無理もない。
「あ、あはは…ごめんね、タカくん。用事があったのに」
「このみが謝ることじゃないだろ」そう言って、彼はこのみの頭を撫でる。「それに、まぁ、正直川の掃除なんて面白いものじゃないしな。雄二が適当に片付けてくれるさ」
「え? ユウくんに頼んできたの?」
「文句たらたらだったけどな」その時のことを思い出しているのか、貴明はくくっと笑いを漏らす。「ま、ずいぶん前に俺も雄二の手伝いをやらされたし、これで貸し借りなしだからな。タマ姉も味方してくれたし、大丈夫だろ。今頃、逃亡に失敗してアイアンクローでも食らってるんじゃないか?」
「あはは…」このみの脳裏に、環必殺のアイアンクローを決められて、『割れる割れる!』と悲鳴をあげる雄二の姿が浮かんだ。「ユウくんらしいかも…」
 この時点では二人はおろか、よっち&ちゃるも気づいていない。
 この場に、最後の黒子が潜んでいることを。


     ※


「ふーん…ま、ちょっとシンプルすぎる気もするけど、あの子らしいか…」
「姉貴〜、何で日曜に姉弟で栄に来なけりゃならんわけ?」
 コフレ・ア・ビジョーで宝石を見るフリをしながら、その実ちらちらとクリスタル広場を確認しているのは、この場にいるのが最もふさわしくないであろう、向坂姉弟の二人である。
 ブラックのTシャツにグレーのテーラードジャケットを羽織り、ストレッチブーツカットのジーンズで行動的に決めているのが、向坂姉弟の姉の方、向坂環だ。
 伸びやかなロングの赤髪と切れ長の目が印象的な、端正な顔立ち。長い脚に裏打ちされた高い背と、自己主張の旺盛なバスト。くびれたウェストに引き締まったヒップ。それらはハリウッド女優がはだしで逃げ出しそうな黄金律を奏で、言われなければ彼女が高校生だとは誰も思わないだろう。360度全方向、文句のつけようのない、掛け値なしの美女である。
 その隣で、面倒そうにぶつぶつ文句を言っているのが、彼女の弟、向坂雄二。
 アンティックローズの二重衿ヘンリーTシャツにベージュの綿パン、ブリヂストンのスニーカーというラフな格好だが、姉譲りの素材の良さが、その全てを輝かせて見せている。ミディアムに刈った赤髪と、やはり切れ長の目。すらりと長い手足と、服の上からでもわかる引き締まった肉体は猫科動物のそれを思わせ、けだるげな物腰は、それでもどこかに気品が漂っている。
 こちらも、文句のつけようのない二枚目といえるだろう。…口を開かなければ、という枕は付くとしても。
「あら、当然でしょ? 可愛い妹分の初デートに、どんな障害が待ち受けているとも限らないもの。スムーズに物事を運ぶためには、いつだって裏方の努力が必要なのよ」
「……どう考えても、障害は姉貴だろうが」
「……ふーん」
「はっ! ま、まて、姉貴、話せばわかる、話せば…」
「ふんっ!」
 ガッ!
「あだだだだだ! 割れる割れる割れる!」
 伝家の宝刀・アイアンクロー炸裂。驚いた店員や客がいっせいに彼女たちを振り返ったが、環は特に気にしないようだ。
「悲しいわ…お姉ちゃんが家を空けていた数年の間に、こんなに野暮な口を叩くようになっちゃったんだもの。やっぱり愛情が足りないとダメなのね…」
「も、申し訳ありませんお姉さま! もう言いません、もう金輪際文句は言いません!」
 口を開かなければ…。しかし、それは雄二という人間を知るものにとって、不可能という三文字で形容される仮定に他ならない。
 もっとも…、彼とごく親しくなれば、それが逆説的に雄二の魅力となっていることにも気づけるのだが。
「ま、いいわ。…目標が動き出したわね。行くわよ、雄二」
「…へいへい…」

 かくて、面子は揃った。初デート狂想曲は、ここにそのメロディを開始したのである。


     3


「…まだか?」
「…もうちょっとだよ〜」
「そ、そうか…」
 所は三越7階の催物場。期間限定のスイムガーデンが開催されていて、色とりどりの水着が間近に迫った真夏の香りを運んでいるかのようだった。
 その香りに惹かれるかのように会場に集まった客の大半は若い女性で、きゃっきゃっと明るい笑い声をたてながら、陳列された薄い布切れをこれでもない、あれでもないと物色している。
 その内の一組が、他でもないこのみと貴明の二人連れである。
 しかし、カラフルなスイムウェアを前に、喜んで品定めを始めたこのみとは対照的に、貴明のテンションはあまり高くない。このみにとっては、周囲が女性ばかりであろうと、自分がそもそも女の子だから気になるはずもないが、貴明にしてみれば周囲が異性ばかりというのは、どうにも落ち着かない。
 元来貴明は女性が苦手である。小さい頃からずっと一緒だったこのみや環はともかく、面識の薄い女性についてはいまだに慣れない。この場についても、大勢の女性というだけで萎縮してしまう上に、周りが水着という際どいものに囲まれているのだからたまらない。何でも良いから、さっさとここから出たいという本音が顔に出ている。
 その一方、吟味した2、3の水着を試着ボックスに持ち込んで着替えているこのみは、はたしてセレクトした水着が可愛いかどうかが、現在の焦点となっている。
 カンニングペーパーによれば、意味不明の星マークと一緒に『見せ付けろ』という指示だが、憧れのタマお姉ちゃんであるならいざ知らず、自分のような幼児体系に、見せ付けるだけの魅力があるかどうかは相当疑わしいというのが、彼女の自分への評価である。最近は、それでも胸は膨らみつつあるし、背だってほんの少しだけ伸びたと思ってはいるが、彼女の理想とするハードルは、それよりもまだまだ高い。
 ならば…セクシーさがかけているのなら、後はキュートさにかけるのみ。更衣室に運んできた水着も、パステルカラーが基調のワンピース、セパレーツ、タンキニの3点である。
 とりあえず、いちばん可愛いと思われたピンクのボーダー柄タンキニを身に着けて、今は鏡でおかしなところがないかを確認しているところだ。
「……うーん……可愛い、かなぁ?」
 上目遣いをしてみたり、バストラインを強調してみたりと、いろいろポーズをとりながらの入念なチェック。
まぁ、そこそこイケているとは思う。が、自分の評価は必ずしも他人の評価とは重ならないのが世の常である。特に、男の子の趣味なんてさっぱりわからないから、余計に自信がない。
「タマお姉ちゃんだったら、何着ても似合うんだろうなぁ…」
 幼馴染みの抜群のプロポーションを、この時ばかりは心底うらやましく思う。
「おーい、まだ着替え中か?」
「あ、ううん、着替えたけど…」そろそろ待たせすぎの貴明の問いに、あわてて応える。「あ、でも…」
「うん?」
 カーテンの隙間からぴょこんと顔だけ出して、表で待つ貴明をうかがう。
「あ、あのね…笑わない?」
「何を?」
「んと……とにかく笑わない?」
「別に笑ったりしないって」
「う、うん……それじゃあ、ホントに笑わないでね」
 前にもどこかで同じ台詞を言ったような気もするが、とにかくとうとうお披露目である。やっぱり恥ずかしいが、意を決してカーテンをさっと開ける。
「……」
「……」
 おたがい、なんとなく無言。
「……え、えと……やっぱ、どっかヘンかな……」
「い、いや、そんなことない……よく、似合ってると思うよ」
「ホント? 可愛い?」
「う、うん…」
 少し赤くなった貴明の顔を見て、このみもにっこりと笑みを浮かべる。
 ――よかった、ちゃんと可愛かったよ。
 値段はちょっと高いから今日は買えないけど、夏休みまでにお小遣いを貯めて買おうと、心に決めるこのみである。
 ……と、その時。

 カァーン!
 カァーン!

 どこからかスッ飛んできた空き缶が貴明の即頭部にヒットする、しかも両側から、絶妙のタイミングで同時に。
「いてぇ!」
「た、タカくん!? だいじょうぶ?」

 コロコロ…

「あたた…、だ、誰だよこんな所で空き缶投げたの!?」
 さっと両サイドを確認するが、水着を物色する客と、見回りの店員の姿があるばかりで、怪しげな人物は見当たらない。
「なんなんだよ、ったく…。悪い、このみ、これ捨ててくるわ」
「う、うん…。じゃあ、このみは別のに着替えておくね」
「まだ試着するのか?」
「うん、あと2着持ってきてるから」
「そうか、じゃあ、また後でな」
「わかった。すぐ帰ってきてね」
「ああ」
 転がった空き缶をふたつ拾って、貴明は空き缶のリサイクル箱を探して会場の外へ歩いていった。おそらく、階段フロアか、屋上の自動販売機あたりに行ったのだろう。
「じゃあ、次はワンピース…」
『このみっ!』
 試着ボックスのカーテンを閉めようとしたこのみのに、やおら名を呼ぶ声が重なる。
「え? …って、えええっ!?」
「アンタなにそんな色気のない水着選んで…って、姐さん!?」
「このみ、あなた、こういう場所ではもう少し背伸びしても…って、あなたたち!?」
 いきなり試着ボックスに大挙して押し寄せる3つの影。誰あろう、今日の黒子を買って出ている、よっち、ちゃる、そして環の3人である。もう一人、雄二はというと、こちらの狂騒にはまるで興味のない様子で、水着売り場に溢れている女性客のチェックに余念がない。
「な、なんで姐さんがこんなところにいるんスか!?」
「わ、私は大事な妹分の初デートだから、サポートしようと思って…。あなたたちこそ…って、聞くまでもないか…。同じってことね」
「ちょ、ちょっと、3人とも、私着替えたいのに…」
 突然の展開に、慌てふためくこのみ。しかし、当然のことながら、3人のテンションが下がるはずもない。
「なーに言ってんの、このみ! アンタねぇ、そんな小学生みたいなタンキニで、なにをどうアピールするつもりなのよ。見せ付けろって書いたっしょ?」
「ええ〜? だって、これ可愛いんだよ? ほら、ここのポッケの形とか」
「ポッケの形より、ヒップの形でしょう気にするのは! もう、アタシらがいないとホントに…」
「よっち、ぐずぐずしてると先輩が戻ってくる」
「あ、ああ、そうだね。こうしちゃいられない…このみ、ほらこれ、あたしらが見繕ってあげたから、これ着て!」
「ちょ、ちょっとあなたたち、待ちなさい」
 勢いよく話を進めるよっちを、環が制する。
「なんスか姐さん?」
「あなたたち、これはいくらなんでもこのみには似合わないわ」
 そう言って、このみの手に握らされた水着を奪い取る。それは、極端に布地の少ない、黒のワイヤービキニ。ボトムスは紐で縛るタイプの、なんとも頼りない代物である。
「ふえぇ…これ、私が着るの?」
 目の前につるされた水着に目を白黒させるこのみ。さすがに自分にはまだ早いような気がしてならない。
「これが似合うようになるのは、あと3年は経たないとね…。それに、これサイズがあってないじゃないの。胸がぶかぶかになっちゃうわ」
「いやいや姐さん、こういう時は、信じられないほど際どい水着が得点力アップ…」
「しないわ」
「しないッスか…」
「このみに似合うのは…これね」
 そう言って、あらかじめ選んでおいたらしい水着をこのみに差し出す。ピンク色がかった赤地に白の水玉をあしらった、トミーガールのスカート付きビキニである。布地はそこそこ少なめだが、ふんだんに使われたフリルが、決して可愛さを損なっていない。
「あ、これ可愛いー」
「むむ…確かに、似合うかも…」
「さすが姐さん、よっちとは違う」
「うっさい!」
「あとは男の評価が必要ね。雄二…って、雄二はどこよ」
 てっきり付いてきていると思っていた環は、あわてて弟の姿を探す。見渡すと、逆側の試着ボックスの前に陣取って、出てくる女の子の水着姿を拝もうと頑張っているようだった。
「……」
 無言で環は手に持ったバッグから、愛用のデザートイーグル――無論エアガンだが――を取り出し、勢いよくコッキングしてエアを込めると、やおら雄二に向かって、バンッ、と発砲した(作者注:エアガンを人に向けて撃つのはやめましょう)。
 6ミリBB弾は見事な軌道を描いて雄二の背中を直撃する。後頭部を狙わないあたりは、姉としての最低限の思いやりかもしれないが、それでも「いてぇっ!」という悲鳴がこちらまで聞こえてくる。
「た、タマお姉ちゃん…」
「よ、容赦ないッスね…」
「さすがだ」
 ともかく、背中をさすりながらも、雄二がこのみたちの方にやってくる。
「あ、姉貴…オニか、お前は。エアガンで狙い撃ちって…」
「雄二〜。さっきこのみに水着選んであげたんだけど、これ、似合うと思う? 3秒以内で答えなさい」
「はぁ? 3秒って…」
「3、2…」
「に、似合う、似合うって! まじまじ!」
「よろしい」
「た、タマお姉ちゃん…」
「よ、容赦ないッスね…」
「さすがだ」
「ていうか、スカート付きとはいえ、ビキニかよ…。似合うは似合うけど、背伸びしすぎじゃねえの?」
 環の手につるされた水着を見て、雄二が意見する。先ほどは勢いで似合うと言ったが、雄二の目からすると、やはりまだ早いのだろうか。
「あら、男の子なら、彼女のこんな姿、見たいでしょ?」
「そりゃそうだけど、大事なのは自分らしさだろ? 色っぽい水着もアリっちゃアリだけどさ、無理して出した色気よりは、いつも通りの安心感の方が効果的な場合だってあるんだぜ」
「そ、そうかしら…」
「ユウくん…」
 なんとなく説得力があるような気がして、環の勢いが弱くなる。考えてみれば、それも正論だからだ。
「でもでも先輩。こういうところでは、刺激も大事じゃないんスか? 本番の時はタンキニで良いとしても、試着のときはカーテン開けたら、どーん!みたいな」
「それもアリっちゃアリだけど、相手は貴明だぜ? セクシーよりはキュートな方がストライクゾーンだろ」
「うーん…それはそうッスけど…」
「あっ…みんな、河野先輩が戻ってきた」
「え?」
 見ると、階段の踊り場に貴明の姿が見えた。
「ああ、もう限界ね。議論している暇はないわ。このみ、これは渡しておくから、後は自分で決めなさい」
「ええー!? タマお姉ちゃん、ちょっと…」
「隠れるわよ、みんな!」
「イエッサッ」
 環号令の元、見事な素早さで物陰に身を潜める黒子たち。後には、黒のミニビキニとピンクのスカートビキニを持たされたこのみが、ぽつんと一人。
「……あれ? このみ、着替えてたんじゃないのか?」
「あ、タカくん…。あの、えへへ、もうちょっと待っててね」
 あわてて取り繕い、カーテンを閉めるこのみ。
「? …まぁいいや、早くしろよ」
「う、うん…」
 仕方なしに、このみは目の前に並べた水着の中から、環が選んだトミーガールを選んで着替え始める。
『う…やっぱり、布、少ないなぁ…』
 とはいえ、せっかく環が選んでくれた水着をむげにするのも気がひけて、このみは意を決して試着して、カーテンの向こうに待つ貴明に声をかける。
「タカくん…あ、あの、着替えたけど…」
「ん、そうか」
「あ、あのね…笑わない?」
「何を?」
 お決まりのやり取り。そして、このみはカーテンを開けて、ビキニに着替えた自分を披露する。

 ――その後、突然鼻血を吹いた貴明に驚いて、結局試着どころではなくなったこのみであった。


     ※


「なんていうか…お前、疲れてないか?」
 オアシス21内のイタリアンバール、アル アビスで和風パスタを口に運びながら声をかける貴明に、「う、ううん、そんなことないよ?」と、なかなかに疲れきった口調でこのみは応え、ここにいたるまでの道程を思い出す。
 水着売り場での一件があった後、とりあえず表に出てセントラルパークへ向かう途中のこと。カンニングペーパーの指示で、途中の金網の上に指定の時間に立っているようにという指示の通り立ってみたのだが、いきなり金網の下から突風が吹いてきて、ひらひらしたギャザースカートが見事に吹き上がった。後は言わぬが花の状態である。真っ赤になった貴明をその場に残して、慌ててよっちの元へ走り、問い詰めて返ってきた答えは「チラリズムにドキドキ!」。
 さらにその後、セントラルパークを歩いている時、指示された通りに噴水の枠に乗ったらなんと油が塗ってあったらしく、いきなり足が滑って危うく噴水の中に落ちそうになった。貴明が抱きとめてくれなかったら、今頃濡れ鼠で泣いていたことだろう。貴明を残して4人の元に行ったら、今度はちゃるが「抱きとめてもらったな…嬉しかったか?」と一言。
 もう指示通りに動くのはやめよう、少なくとも星マークのものはパスしようと心に決めてオアシス21に向かっている途中、突然背中から首筋にかけて『ビリッ!』と強烈な電流が走ったような衝撃があり、思わず「あきゃうっ!?」と悲鳴を上げて前のめりにつんのめった。しばらくジンジンとして動けなかったほどだ。「ど、どうした?」と心配そうな貴明を残して4人の元へ向かうと、今度は環が「おかしいわね、こんなに衝撃が強いなんて…」と、手元のリモコンをしげしげと眺め、「雄二、これちょっとピリッとするだけじゃないの?」、「姉貴、ガキのおもちゃとはいえ、男が遊ぶためのものが、んな半端なわけないだろ? 発火装置って呼ばれてたんだぜ、それ」、「あのねぇ、私は、驚いたこのみが隣のタカ坊にしがみつくくらいで良かったのよ。あんたもわかってないわねぇ。火傷したらどうするつもりなのよ」と姉弟二人で会話。いつの間にか、服の背中におもちゃのスタンガンが仕込まれていたらしい。
 ともかく、4人のバックアップと称した集中砲火を次から次へと浴びせられ、体力自慢のこのみもさすがに疲労困憊となっているのが現状である。
「なぁ、ホントに大丈夫か? なんなら、そろそろ帰っても…」
「う、ううん! ホント、大丈夫だって、ちょっとだけ予定が…」
 慌てて貴明の言葉を否定するこのみ。せっかくの初デート、こんなことでいきなり終了させるわけにはいかない。
「予定?」
「あ、なんでもない。えへへ」
 そっとため息をついて、目の前のカルボナーラに取り掛かる。
 しかし、まぁ、さすがに食事中に何かを仕掛けてくることもないだろうから、今だけは落ち着いて時間を楽しめそうだ。
 そう思い、改めて目の前の貴明を見つめてみる。
 同年代の男の子に比べて中性的な顔立ちは、女の目から見ても滑らかな肌とあいまって、とても綺麗だと思う。そのくせ、腕や足の筋肉、立ち居振る舞いはやっぱり男の子のそれで、時折見せる真剣な表情はドキッとするほどカッコいい。
 今も、しなやかな指でフォークとスプーンを使ってパスタを口に運んでいる様子がなんとも様になっていて、この人が自分の恋人なんだなぁ、と思うと自然に顔がにやけてしまう。
「な、なんだよ、ひとの顔見て笑って…」
「えへ〜。なんでもないでありますよ?」
「ヘンなやつ」
 何気ないやり取り。10年以上繰り返したけど、まだ飽きない。
 これからずっとずっと、こんな風に暮らしていけるのかなぁと思うと、自分がとても幸せな星の下に生まれてきていることが実感される。
 『そういえば…』
 カンニングペーパーの一文、お昼時の心得を思い出す。
 あれなら、平和的で、特に問題はないだろう。
「タカくん」
「ん? なんだ?」
 くるくるとフォークでパスタをまいて、貴明の方へ身を乗り出す。
「はい、あーん」
「なっ…」
 恋人たちの定番シーン。案の定、貴明の方はうろたえて声もない。
「ちょ、このみ?」
「ほ〜ら〜。あ〜んでありますよ?」
「えっと…」
「あ〜ん」
「だからな」
「あ〜ん」
「……………………………………あ、あ〜ん…」
「はい、…えへ〜。おいしい?」
「う、うん…」
「やた〜」
 『お昼はらぶらぶチックに「あ〜ん」攻撃ッス』がカンニングペーパーの指示。
 なるほど、これはようやく恋人同士のデートっぽい。
 思えば、よっちが無理やりセッティングしなければ、オアシス21で二人きりの昼食を楽しむこともなかっただろうし、環がコーディネートしてくれた服がなかったら、いつもの子供っぽいままの服で出かける羽目になっていただろう。
「ねぇ、タカくん……」
「ん?」
「これって、私たちの初デート、だよね?」
 なんだかはちゃめちゃな支援攻撃も受けたけれど…それでも、このみは自分のことを心底想ってくれているだろう友人たちに、心の中で、改めて「ありがとう」と呟いた。

 さて、オアシス21というのは、セントラルパークに隣接して建設された、この地方のデートスポットのひとつである。地上にある公園と地下のバスターミナル、それを繋ぐ吹き抜け公園と、吹き抜けを囲むようにして並んでいる商店街、そして吹き抜けの上に建設された大屋根によって構成された複合施設で、なかなかに規模は大きい。
 昼は、ふんだんに使われた水流が陽の光を一身に受けて、きらきらと施設全体が輝くような明るさを持ち、夜はライトアップされた大屋根が幻想的な雰囲気をかもし出す、恋人たちの憩いの場となる。商業施設に加えて、吹き抜け公園では定期的に様々なイベントが催され、遊ぶにも買い物するにも食事するにも困らない。
 午後はオアシス21での行動がメインとなるこのみたちは、今は吹き抜け公園を囲んだショップを回りながら、ウィンドウショッピングに興じている。
「あ、これカワイイー」
 マザーガーデンに並んだぬいぐるみを見ながら、このみが歓声を上げる。
「見て見て、ゲンジ丸そっくりだよ?」
 ゲンジ丸というのは、彼女の家で飼われている、イングリッシュシープドッグである。ふさふさの毛が目を覆うほどの長毛種だが、現在このみが手に持っているのは普通の短毛種である。ゲンジ丸というには無理がある。
「そ、そうか? あんまり似てないような気もするけど」
「ええ〜? そうかなぁ、この目とか、ほら、ゲンジ丸そっくりだよ?」
「ゲンジ丸の目、隠れてるじゃないか…」
 その後も、猫バスやぐ〜チョコランタンに満遍なく歓声を上げながら、このみは心底嬉しそうにショップを回っていく。楽しくて仕方ないのだ。少なくとも、先ほどから妙な攻撃は受けていないので、安心して羽を伸ばして楽しんでいる。
「あっ、シルバーアクセ」
 しばらく後、キャラクターグッズをいくつか見終わった後、このみたちはアクセサリーショップのザ・キッスにたどり着く。小さな店舗の中にシルバーアクセサリーを陳列した店で、指輪やネックレス、ピアスにイヤリングと、たくさんの銀の装飾品が売られている。このみたちは知らなかったが、売り文句は「カップル向けシルバーアクセサリーショップ」で、よく確認すれば、その多くがペアアイテムになっていることがわかる。
「綺麗…」
「ほしいのか?」
 目を輝かせているこのみを見ながら、貴明が聞いてくる。
 そんなつもりはなかったので、このみは慌ててそれを否定する。
「う、ううん、そんなことないよ。こういうの、このみには似合わないし…」
「いや、そんなことないだろ。これなんか可愛いんじゃないか?」
 言って、貴明はガラスケースの中のひとつを指差す。シルバーの上に、ピンク色のプレート。プレートには英語で何か書かれているようだ。
「この指輪? 可愛いけど…。でも、高いよ?」
「う…それはそうだけど」
 二人の様子を見た女性店員が近くに寄ってくる。
「お客様、そちらは新作ですよ。デートの記念に買っていかれてはいかがですか?」
「え? あの、えと…」
「うーん…どうするかな…」
「色違いで、プレートの部分がグレーになっているものもございますから、ペアで買っていかれても良いかと思いますよ。こちらは人気商品ですので、在庫に限りもございますから…」
「そ、そうですか…」
 よどみなく話す店員に、若干押され気味の貴明である。慌ててこのみが間に割って入る。何も、こんな高いものをねだるためにデートに来たわけではない。
「た、タカくん、いいよ…。ね、他のお店いこ? さっきのぬいぐるみとか、可愛かったし」
 ――と

 カァーン!

 どこからかスッ飛んできた空き缶が、見事に貴明の即頭部にヒットする。
「いてぇ!」
「た、タカくん!?」

 コロコロ…

「あたた…、ま、またかよ! 誰だ、空き缶投げてるやつは!」
「あ、あはは……」
 苦笑するしかないこのみ。これほど犯人グループが明白な犯行は他にない。
「お、お客様、大丈夫ですか?」
「はい…何とか。とりあえず、捨ててきますんで」
「え? それは私どもで…」
「ああ、いいですいいです。じゃあこのみ、ちょっと待っててな」
「う、うん…」
 そう言って、ゴミ箱を求めて店を出る貴明。
 そして、入れ替わりに押し寄せてくるのは四人の黒子衆である。
「え、えっと…いらっしゃいませ」
 目を白黒させて、それでも応対に勤めようとするところはプロフェッショナルだが、この場の全員、既に店員のことは眼中にない。
「ちょっとちょっとちょっとちょーっと、このみっ!」
 まず気勢を上げているのはよっちである。
「な、なに?」
「もう〜、なに遠慮してるのよ。ここぞとばかりにねだらなきゃダメッしょ!」
「だ、だってよっち、これ1万円以上するんだよ? こんな高いものねだれないよ」
「それは違うわね、このみ」
 次にこのみを制するのは向坂環。
「ち、違うって? どういうこと、タマお姉ちゃん?」
「されど1万円、でも、たかが1万円でもあるってことよ。このみ、男にとってはね、自分の恋人をより綺麗にしてあげるのも、天に課せられた義務なのよ。その義務をこのみ自身が否定してはダメ。それに、自分の大事な恋人に対して、このくらいの出費を厭うような、そんな甲斐性のない男にタカ坊を育てた覚えは、少なくとも私にはないわ」
「姉貴は何年も貴明に会ってねぇだろ…」
「ふんっ」
 ガッ!
「あだだだだだ! 割れる割れる割れる!」
「で、でも…」
「このみ」
 最後にこのみに話しかけるのは、これまで事態をほぼ静観していたちゃるである。
「ちゃる……」
「デートの思い出、欲しくないか?」
「え…?」
「河野先輩との、初デート。思い出、欲しくないか?」
「欲しいけど…。でも、それはこのみのわがままだし…」
「大丈夫。河野先輩なら、わかってくれる」
「ちゃる…?」
 ちゃるの言葉に、環やよっちも賛同する。
「そうよ、このみ。彼女の言うとおりだわ。タカ坊なら、このみのわがままくらい、逆に可愛いくらいに思ってくれるはずよ」
「その通り! このみ、一昨日も言ったよね。このみは、もっとわがままになってもいいんだよ」
「タマお姉ちゃん…よっち…」
「このみ、ガンバレ」
「ちゃる…」
「ほら、雄二も何か言う」
「あだだ!耳ひっぱんなよ! たく…」
 アイアンクローをしこたま食らって、やや不機嫌そうな雄二である。
「ま、いいんじゃねぇの? 今までもチビ助は意外にこういうのねだったことねぇし、たまには貴明のこと散財させてやんのもよ。ま、チビ助にこんなシルバーアクセが似合うかどうかは別の話……あだだだだだ! 割れる割れる割れる!」
「ユウくん…」
「そういうこと。このみ、たまにはいいんじゃない?」
「……うん、わかった……。断られるかもしれないけど、ねだってみるよ」
「よろしい。いい女は男を手玉に取らなきゃ、ね。さ、みんな、隠れるわよ!」
「イエッサッ」
 環号令の元、見事な素早さで再び物陰に身を潜める黒子たち。それとちょうど入れ替わりのように、貴明が空き缶を捨てて戻ってくる。
「このみ、ごめん、待たせた」
「ううん、いいよ、ぜんぜん待ってないよ」
「じゃあ、そろそろ行こうか?」
「え、えっと…タカくん?」
 おずおずと、このみが貴明を上目遣いで見つめる。
「ん? どうした?」
「あ…あのね…このみね……?」
「な、なんだよ、捨てられた子犬みたいな目で…」
 異様な雰囲気を察して、貴明にも緊張が走っているようだ。
「あの…やっぱり、これ、欲しいな…って」
「え、これって……指輪か?」
「うん…。あ、あはは、やっぱりダメだよね? 高いもんね?」
 いきなり気持ちがくじけるこのみ。考えてみれば、親以外に何かをねだったことはこれまでにない。かつて、環が服を買ってくれるといった時も、それは何かが違うような気がして断ったのだった。
「……指輪か……」
 しかし、貴明は指輪を見つめたまま、嫌だとも高いとも言わない。
「い、いかがでしょうか?お客様…。で、『デートの記念』などに…」
 先ほどの一部始終ですっかり怖気づいた店員が、おずおずと貴明に話しかける。
「記念か…それもいいかもしれないな…」
「え?」
「このみ、お前、指のサイズ測ってもらえよ」
「え?え? タカくん…いいの?」
「何言ってんだ、お前が買ってくれっていったんだろ?」
 あきれた様子で貴明が言う。貴明にしてみれば、4人の黒子のことは知らないから、このみが普通にねだっているようにしか見えないのだ。
「そうだけど、でも…」
「店員さん、この子のサイズに合うやつ、ひとつください」
「かしこまりました。では、お客様、サイズを測らせていただいてもよろしいですか?」
 そして、あれよあれよという間に指を測られ、気がついた時には左手の中指に、ピンクのプレートをまとったシルバーリングが輝いていた。  

 その後のことはよく覚えていないこのみである。
 ただ、ずっと隣で優しく微笑んでいた貴明の顔と、
 中指に嵌められた指輪の感触、
 そして…
 ほんの少しの違和感と、
 ぬぐいきれない罪悪感が…
 このみの心に、いつまでも残った。


     4


「I THINK OF…YOU AND I'M…? えっと、どういう意味だろう?」
 デートを終えて、家に帰ってきた後、改めてまじまじと自分の中指に嵌められた指輪を眺めてみる。なにやら英語で一文刻まれているのだが、どうにも意味がよくわからない。
 いや、それよりも…
 やはり、何かが違う、という思いが消えないこのみなのである。
 確かに、初デートの思い出として、これ以上ないものを手に入れた。でも、それは、決して貴明が進んで授けてくれたものではない。ただの自分のわがままではないか…。そう、思うのだ。
 環や他のみんなはそれで良いといってくれたけど、でも…
 それでもやはり、何かが違う。そこに、あるべき何かがないような気がする。
 そんな違和感が、どうしても拭えないのだ。
 しかし、それが何なのか、このみには具体的なイメージがない。
 漠然としたイメージでしかないのだ。


     ※


 階段を下りてダイニングに入ると、母親の春夏が料理雑誌を眺めながら、来週の献立を考えているようだった。
「ごま和え…、もずく…、あっさりしたものも良いけど…でも夏を乗り切るにはスタミナもつけないといけないし…最近食べてないから、味噌カツでも作ろうかな…?」
「お母さん」
「あら、このみ。お風呂なら沸いてるわよ?」
「ううん、それはあとで良いんだけど…」
 そう言って、このみは冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、母親の斜向かいの席に座る。
「どうしたの? まさか、デートの余韻が抜けきってないとか? もう〜、こんな可愛い指輪も買ってもらっちゃって! さすが我が娘ね」
「……うん」
「……どうしたの? あんまり嬉しそうじゃないみたいだけど…」
 元気印を絵に描いたような娘のローテンションはやはり気になるらしく、春夏は心配そうに娘の顔を見つめる。
「あのね、お母さん」
「うん? なあに?」
「お母さんとお父さんって…。どんなデートしてたの?」
「え?」
 予想外の質問に、パワフルママが売りの春夏もさすがに面食らう。
「私とあの人の、デート?」
「うん……」
「そうねぇ……」
 そう言って、頬に手を当てて春夏は過去に思いをはせるかのように語り始める。
「私たちの頃は、まだ港の水族館も、オアシス21もなかったから、よく遊びに行ったのは遊園地とか、植物園だったわね…。セントラルパークでお散歩したり、けっこうのんびりしたデートが多かったな」
「植物園? 東山の?」
「そう、ふふ…あの人ね、あんな顔してるのに、花とか大好きで、よく植物園に連れて行かれて、いろいろな花や草木のことを教えてもらったわ」
「そうなんだ…」
 このみの脳裏に、父親の顔が浮かぶ。無骨な顔。自衛隊員である父親は手も足も顔も大きくて、一見、とても花を愛でる人には見えない。でも、反面物静かな一面を持っていることをこのみも知っている。よく夜空を見上げて、星座の話を聞かせてもらったものだ。花が好きというのは知らなかったが、あの父親ならそれもまた信じられる話である。
「今でも覚えてるわ…。初めてデートしたのも植物園でね。5月で、園内中、綺麗な花がいっぱい咲いてた。その内の一つを指差してね、あの人言うのよ。あなたにあの花を贈りたい。たくさん、たくさん、赤いチューリップを贈りたいです、…ってね」
「チューリップ? 綺麗だもんね」
 赤いチューリップをいっぱい花束にしたら、さぞかし可愛らしいだろうと思う。
 しかし、春夏は笑って、娘の無邪気な想像を否定する。
「そうじゃないのよ、このみ。あとで、リビングの本棚を見てごらん。お父さんが何を言いたかったかわかるから」
「? うん…?」
「それよりこのみ、今日はいったいどうしたの?」
「…あのね、お母さん…。もし、もしだよ? お母さんがすごく欲しいものがあって…でも、それはとっても高価なもので…。そういう時、お母さんなら…どうする?」
「…なるほど、そういうこと…」
 短い会話だったが、このみが今日なにを見、なにを聞き、なにを経験してきたのか、春夏には大方の予想がついたようだった。
「そうね…私だったら…」
「お母さんだったら…?」
「きっと、このみと同じことを考える…そう思うよ」
 とても…とても優しい目をして、春夏は娘を見つめる。
「お母さんも…?」
「ええ…。こんな高いもの、欲しいけどねだれない…。きっと、ねだれば無理してでも買ってくれるけれど…でも、やっぱりそれは違う…。きっと、そう思うわね」
「……」
 綺麗にトレースされた思考。このみが考えたのと、寸分違わぬ考え方だった。
「そうだよね…。お母さんも…そう思うよね。なのに、私…」
 呟いて、自分の中指に嵌められた指輪に視線を落とす。綺麗な指輪、でも、ここに宿っているのは…。
 なんとなく、自分が何に違和感を感じていたのか、わかったような…そんな気がした。
「でもね、このみ…」
「なあに?」
「一つだけ、お母さんからの忠告よ」
「え?」
「男の子ってね…女が思うほど、子供じゃないのよ。いつまでもいつまでも…それこそ大人になっても男は子供のままなのも本当のことだけれど…、でも、私たちが想像するよりずっと早く、それこそ…ほんの少し目を離しただけで、信じられないほど遠くまで歩いていってしまうものなのよ…」
「お母さん…? それって…」
「今はまだ、あなたには…ううん、きっと、チエちゃんやミチルちゃん…環ちゃんですら、わからないわね…。でも、覚えておきなさい、このみ。いつかきっと、わかる日が来るわ」
 母親の声。このみはその中に、何かとても伝えたいことがあるのだと…そう、思った。
「うん…。わかった、覚えておくよ」
「よろしい。それじゃあ、そろそろお風呂に入りなさい。明日は学校でしょ?」
「うん」
 母親に応えて、このみはダイニングを出る。
「あ、そうだ。確か…」
 先ほどの会話を思い出し、すぐにきびすを返してリビングへと向かう。チューリップの意味を調べるのだ。
「えっと…本って、どれだろう?」
 本棚の中を物色し、それらしい本を探してみる。タイトルもジャンルも聞いていないからわからないかとも思ったが、案外それはすぐに見つかった。
「花言葉…?」
 それは一冊の、花言葉を集めた本。多分、これに違いないと当たりをつけて、このみはページをめくる。
「チューリップ…、赤いチューリップ……。あ、あった」
 目的の赤いチューリップのページ。左のページいっぱいに写った綺麗な花と、そして右のページにかかれた言葉と解説。
「そ…っか。ふふ、お父さん、すごいなぁ…」
 父が春夏に寄せた思い。その一片の温もりを感じたような気がして、このみは思わず笑みをこぼす。

 赤いチューリップ、その花言葉は…恋の告白。
 きっと、たくさんのチューリップの花束が、春夏への溢れる想いを伝えたのだろう。


     ※


「あれ? このみ…指輪は?」
 二人一緒の登校中、貴明はこのみの指に、昨日買ってあげた指輪が嵌まっていないことに気づく。
「え? うん…。外しておこうかな、って」
「ああ、そうか。学校で嵌めてるのはまずいもんな?」
 一人、納得する貴明。しかし、このみの真意が別のところにあることを、彼はまだ知らない。
「うん…。ねぇ、タカくん?」
「なんだ?」
「このみがね、もっともっと大きくなったら…」
「大きく?」
「……ううん、何でもない。…行こ?」
「え? ああ……」
 もう少し行った先。階段の上で待っているであろう、環と雄二の元へ急ぐのか、このみは貴明の前をたったっと走っていく。
「……このみ?」
 何か、違和感を感じて、小さく恋人の名を呟く。しかし、それ以降、このみが指輪のことを切り出すことはなかった。


     5


 そろそろ夕方に差し掛かる、駅前のカフェテラス。学校帰りの学生や、少し早めに仕事を終えた大人たちが通りを行きかって、次第に夜へと向かう活気を見せ始めている。
 梅雨と真夏の境目の風はすこし爽やかで、このみたちはクーラーの効いた店内には入らずに、テラスのテーブルに座ってアイスドリンクを飲んでいた。よっちはジンジャーエール、ちゃるはレモンティー、このみはミルクと砂糖をいっぱい入れた甘いコーヒーである。
「ええっ? じゃあ、あの指輪…」
「うん。嵌めないことにしたんだ」
 アイスコーヒーのガラスマドラーをくるくると回しながら、このみは、今は外している指輪がまだそこにあるかのように、中指を見つめる。
 今日は、昨日のデートの反省会と称したお茶会。このみはその会の中で、当然指に嵌まっているだろうシルバーリングがないことをよっちとちゃるに見咎められ、その理由を問いただされているところだった。
「ええー? なんでよ、せっかく可愛いの買ってもらったのに」
「うん…。でも、いいんだ。もう決めたから」
 そう言って少し笑い、このみは自分の携帯電話を取り出して、二人に見せる。
 そこには、小さなストラップに通された薄いピンクのシルバーリングが、陽の光を浴びてきらきらと光っていた。
「嵌めればいいと思うんだけどなぁ。なにが不満なわけ?」
「不満ってわけじゃないよ。指輪をもらったのはとっても嬉しいもん」
「じゃあなんで? このみが指輪嵌めないんじゃ、アタシらがけしかけた甲斐がないじゃん」
「ごめんね、せっかく応援してくれたのに…でも」
「…あー、ま…、別にいいけどさ。でも、やっぱり理由は聞きたいよ」
 心底納得がいかない様子で、よっちはこのみに詰め寄る。よっちにしてみれば、彼氏をゲットして、可愛がってもらって、指輪もプレゼントしてもらって、いったいなにが気に入らないのか、頭からまったくわからないのだ。
「ユウくんが言ったこと、覚えてる?」
「向坂先輩? えっと…『あだだだだだ! 割れる割れる割れる!』」
「…それ違う」
「そう? ちゃるはどう? わかる?」
「……『いてぇっ!』」
「……それ、鉄砲で撃たれたときの?」
「ん」
「もう、違うよ〜…」
 思い出されるのが環に攻撃を食らっているところばかりというのもある意味すごい。
「じゃあ、なによ?」
「水着を選んでたとき…。ユウくん、こう言ったんだよ。『大事なのは自分らしさだろ?』って」
「…自分らしさ?」
「うん……。だからね、嵌めないんだ。指輪」
「えーっと…それは、つまり、自分にはまだ似合わないから…って言いたいわけ? だったら、そんなのこのみの勘違い…」
 よっちの言葉を制するように、このみはふるふると首を振る。
「ううん、違うよ、よっち…。それは、違うよ…」
「じゃあ、なんでよ。ホンッと、全然わかんないんだけど」
「赤いチューリップ」
「え?」
「初デートの記念…。だから、この指輪が優しくなるまで、嵌めないんだ」
「は? え? チューリップ? 優しく?」
「このみ」
 静かにレモンティーを飲んでいたちゃるが、このみに声をかける。
「なあに?」
「いつか、嵌められると良いな」
「…うん」
「ちょっとちょっと、なにふたりで分かり合ってんのよ! 説明しなさいよ、説明!」


     ※


「なに言ってんだ、チビ助のやつは?」
「……」
 そろそろ夕方に差し掛かる、駅前のカフェテラス…の隣のアイスパーラー。女性客でにぎわう店頭の隅に、なかなか似つかわしくない男の二人組みの姿。誰あろう、学校帰りの貴明と雄二である。植え込みを挟んだ反対側に、このみたちのテーブルがあった。
 立ち聞きをしていたわけではない。彼らの方が先にその場所にいたのだ。アイスをいちどにいくつ食べられるか? という、なかなかどうでもいい勝負をしていて、ついにお腹が痛くなったので隅っこで休んでいたところ、かしまし娘三人組がカフェテラスにやってきたのである。
「指輪が優しくって、チビ助、何かヘンなモンでも食ったんじゃねえの?」
「いや、このみが腹を壊したことはここ3年ほどない。賞味期限切れのタマゴ豆腐をうまそうに食ってたよ、前に」
「あ、そう…」
「それにしても…あいつも、ヘンなことに気を回すなぁ…」
「ん? なんだ、思い当たるフシでもあんのか?」
 意外そうに、雄二が隣の友人を見る。女心について、貴明ほど疎い男は絶無であろうというのが、雄二の評価なのだ。
「10年以上の付き合いだからな。それに…」
「それに?」
「俺の彼女だし」
「言うようになったなぁ、オイ」
「まぁな」
「教えろよ。あいつ、何考えてんだ? 正直、俺が言ったことがどう解釈されてんのか、俺自身がさっぱりだ」
 雄二にしてみれば、あの時言ったことにさしたる意味はなかった。目の前の観察物に対する、自分なりの感想を言ったまでに過ぎない。それ以上の意味は、少なくとも雄二自身は言葉に乗せてはいなかった。
「だから…」
「だから?」
「優しくないんだろ。指輪が」
「意味がわからねぇよ」
「そう思ってるだけなんだよ、このみが」
「だから、意味がわからねぇよ」
「ま、今度の日曜日かな…やっぱり」
「あ?」
「忘れ物を取りに…。このみを連れて、初デートだ」
「……ホント、意味がわからねぇよ」
「ていうかさ」
「あん?」
 雄二が貴明を振り返ると、そこにはジト目というにふさわしい貴明の目。
「やっぱり、アレはお前らの仕業だったのか」


     ※


「あの、タカくん…」
「ん?」
 7月7日、七夕の日、栄のクリスタル広場、時間は10時。貴明の指定で、一週間前と同じ時間、同じ場所、同じ服装で待ち合わせ。先ほど合流して、今は三越の水着売り場に来ているこのみたちである。
「このみたち、なんで、こんなところにいるの?」
「だから、デートだよ」
「……えっと」
「ほら、水着。選べよ。たくさん試着してみな?」
「う、うん…」
 何がなんだかわからないが、とりあえず促されているので、このみは先週セレクトから外した分の水着をいくつか見繕って、試着ボックスに入る。
 とにかくよくわからない。月曜日の夜、お風呂に入って、そろそろ寝ようかと思っていたところに貴明から電話が入り、今日の予定を取り付けられた。その際の指定が、先に述べたいくつかの条件と、そして、必ず指輪を持ってくること、というものだった。
 指輪は携帯電話にくくりつけてあるから別に問題ないが、他の指定の意味がわからない。それに、クリスタル広場から三越の水着売り場というのは、先週通った道程とまったく同じである。
「ヘンなタカくん…」
 スカートを脱ぎながら、よくわからない2回目のデートを思い、首をかしげる。
 ――と。
「着替えたか?」
 ひとりごちた声が貴明に聞こえたのか、不意にカーテンの向こうから声がかかる。
「ひゃ! ま、まだ、まだダメッ」
 着替えたどころか、まだ下着姿になったばかりである。こんなところを見られたら、顔から火が出るどころの騒ぎではない。
 しかし、あわてるこのみとは裏腹に、表の貴明の声はのんびりそのものだ。
「ん。そうか。まぁ、ゆっくり選べよ。時間はあるし」
「え? あ、うん…」
 やっぱり、ヘンなの。そう思いながら、それでも新作の水着に腕を通せば、それなりに楽しい気分になるこのみだった。


 その後のコースも、先週の綺麗なトレースだった。
 三越を出て栄の街並みを歩き、セントラルパークでおしゃべりしながらオアシス21へ向かい、お昼になったらアル アビスでパスタを食べた。メニューはさすがに違っていたが、それでもやっぱり二人ともパスタ系である。
 しかし、この時の貴明との会話は、完全に常軌を逸していた。
「なぁ、このみ…」
「なぁに? タカくん」
「これってさ、俺たちの初めてのデート…だよな?」
 一瞬耳を疑った。
「え? 初めて?」
「このみ」
「え、あ、なに?」
 貴明は、自分のパスタをフォークでくるくると器用に巻き、このみの口元に持ってくる。
「あーん」
「た、タカくん!?」
「あーん」
「あの、どうしちゃったの?」
「あーん」
「え、えと…。何か悪いものでも食べた…?」
「あーん」
「……………………………………あ、あ〜ん…」
 おずおずと、小さな口を開いて、貴明にパスタを食べさせてもらう。
「うまいか?」
「……う、うん。すごくおいしいよ?」
「そうか」
 不意に、このみは周囲の視線が自分たちに完全に集まっていることに気がつく。
 あわてて周りを盗み見ると、みな、微笑ましそうな目で初々しいカップルを見つめている。さすがのこのみも、真っ赤になってうつむいてしまう。なるほど、貴明がなかなか自分の「あ〜ん」に応じなかった理由はこういうことだったのか。男心の、その一端を身に沁みて体感したこのみである。
 それにしても…
 ――タカくん、何考えてるんだろう…?
 心に問いかけても、その答えは返ってくるはずもない。
 楽しいことはとても楽しいが…
 それでも、このみは貴明に気づかれないよう、そっと小さく、ため息をついた。


 予想通り…そうとしか言いようがない。
 アル アビスを出た後、おそらくこういうコースで歩くんだろうなと、このみが予想したとおりの順番で、貴明は吹き抜け広場周囲のショップを回る。
 マザーガーデン、ポケモンセンター、どんぐり共和国、NHKキャラクターショップ、ジャンプショップ、ドコモショップ…そして…
「やっぱりここにも入るんだね…」
「ん? どうした?」
「う、ううん、なんでもない、けど…」
 シルバーアクセサリーショップ、ザ・キッスである。
 正直なところ、あまりここには来たくなかった。あの指輪については、それなりに自分の中で結論は出してはいるが、それでも、貴明と一緒にこの店に来ることは、このみには少しためらわれたのだ。
「いらっしゃいませ」
 日曜日のシフトなのだろう、先週と同じ店員が、しつけられた挨拶でこのみたちを出迎える。
「……」
 このみは、銀色に彩られた店内を見渡す。
 あの日と同じ店内。並べられたアクセサリー、明るい照明、無機質なガラスケースと、店員の笑顔。
 不意に、思い出される。
 あの日、あの時、この場所で、貴明に指輪をねだったこと。
 自分から進んでねだったわけでもないが、それでも…
 それでも…心のどこかで、指輪を欲しがっていたこと。
 指輪に込められた、自分のわがまま。
「タカ…くん…」
 お父さんのチューリップには…お母さんのわがままなんて、入っていなかったに違いないのに。
 この指輪には、誰の優しさも…入ってない。
 ただ、自分のわがままだけが…
   ――大事なのは自分らしさだろ?
 もしも…もしも…
 もしも、これが、自分らしさなのだとしたら…
 なんて、悲しいんだろう。
「えーっと…、確かこのケースだったよな」
 貴明が、あの指輪が陳列されているケースに歩いていく。
「ね、ねぇ、タカくん…」
「ん? どうした?」
「…出ようよ。他のお店、行こう?」
「……」
「あ、謝るから…」
「このみ…」
「だから…だから…」
 わがままは、そこにあった。
 指輪だけじゃなかった。
 ぽろぽろと、ぽろぽろと、あとからあとから、このみの目から涙が溢れる。
 本当は、わかっていたのに。
 指輪を嵌めなくても、それは消えることはないと。
 心の底で、わかっていたのに…
 なのに、逃げだした。
 いつか、この指輪に、誰かの優しさが込められることを期待して
 せめて、自分のわがままがなくなることを期待して
 目の前にある悪意から、逃げ出してしまった。
 お母さんの言ったこと、都合よく受け取って
 お父さんの気持ち、都合よく解釈して
 ただ、偽りの幸せだけを手に入れて
 みんなの想いをむだにして
 それが…自分らしさなのだとしたら…
 なんて、寂しいんだろう。
「ごめん…ごめんなさい…ごめんなさい…」
 ぽろぽろと…ぽろぽろと…とめどもなく溢れる涙が、いつも明るく笑っているはずの、愛らしい頬を伝っていく。
 しゃくりあげる、その鼓動。
 誰も、何も言わない。
 その場にいる店員、客、…誰もが途方に暮れた様子で、可愛らしい女の子が悲しみの涙を流す様を、ただ呆然と見ていた。

 ――と、

「バカだな…」

 優しい声と、そして
 穏やかな温もりが、このみを包んだ。
「え…?」
「バカこのみ。ヘンな気を回すから、そんな風に泣く羽目になるんだよ…」
 恋人の腕、愛しい人の胸板…。貴明が、このみをくるむように、両手に抱いていた。
「タカ、くん…」
「ねだられたから、指輪を買ったわけじゃないぜ? あの指輪がこのみに似合うって、そう思ったから、買ってやったんだ」
「で、でも…」
「それをなんだ? 俺が、お前にわがまま言われたから、仕方なく買ったって思ってんのか? ほんと…バカだな、このみは」
「だって、だって…。だって…」
「このみ、お前は…俺のなんだ?」
 このみを抱きしめたまま、貴明が問う。
「…え?」
「お前は…俺の恋人だろ? 違うのか?」
「…このみは…タカくんの恋人…」
「そして、俺はお前の恋人…だろ?」
「タカくんが…このみの恋人…?」
「ああ、そうだ…。まったく、そんなことも忘れてやがって」
 笑いながら、貴明はこのみから少し身を離す。
「ほら、ケータイ貸せよ」
「え? うん…」
 あわてて、このみは自分の携帯電話を貴明に渡す。
 それを受け取ると、貴明は結わえられたストラップを外して、通された指輪を開放する。
「I THINK OF…。なるほどな。英語の勉強、ちゃんとしておけよ?」
 そう言って、貴明はこのみの手を取り…
 左手の中指に…
 それは、何か大切な宝物を渡すように、そっと…
 そっと、このみの指に、指輪を嵌めた。
「あ…」
 指に輝く、銀の光。ピンク色のプレートが、ひときわ可愛くて――
「似合ってるよ、このみ…。世界でいちばん、似合ってる。俺が保証する」
「…ほんとう?」
「ああ、もちろん」
「え…えへへ。可愛い、かな…」
「言ったろ? 俺が保証するって」
「えへ〜。あ、ありがとう、タカくん」
 このみの顔に、笑みが戻る。
 いつもの、愛らしいこのみの笑顔に。
 不意に…
 店内に、拍手が沸き起こる。
 見ると、店員が…客が…みな、一様に若いカップルを祝福して、拍手を送っているのだった。
「あ…ありがとう、みんな…。あはは、な、なんか、照れちゃうよ〜」
「でも…ひとつだけ、足りないな」
「え?」
 言って、貴明は陳列ケースを指差す。
「俺の分がないとな。せっかくの初デートなのに、ほんと…、俺も忘れっぽくてダメだよな」
 そこにあるのは、グレーのプレートをまとったシルバーリング。ピンクの指輪とペアになる、男の子のための指輪。
「タカくんのも買うの?」
「ああ、このくらいは買えるさ。こういう時のために、バイトしてるんだしな」
「ええっ? アルバイトしてるの? いつ? どこで?」
「はは、このみは知らないよな、そりゃ…。明け方の新聞配達員の顔なんて、このみ、生まれてこのかた見たことないだろ? ま…2か月ほど前から、な」
「新聞配達…」
 もちろん、このみは見たことはない。
 いつだって、誰よりも遅くまで寝ていることが日常なのだから。
 
  ふと…母親の、春夏の言葉が思い出される。

    ――男の子ってね…女が思うほど、子供じゃないのよ。
 
 そういう…ことなのだろうか?
 …いや…と、このみは思いとどまる。
 そうかもしれない、だけれど…。
 それは、いつまでも、宿題にしておいた方が…
 きっと、幸せなような、そんな気がしたから。


     エピローグ


 時の狭間、銀の雫をいっぱいに集めた河のほとりで、約束された恋人たちが年に一度の逢瀬を交わす頃、笹の葉に飾られた色とりどりの短冊が、まだ見ぬ明日への夢を見ながら楽しげにその身を揺らしている。
 お昼頃に始まった駅前の七夕祭りも、夕方から夜に入ってよりいっそう活気づき、あでやかな浴衣を着た女性客や、夜店の景品を狙って作戦を立てているたくさんの子供たちでにぎわっていた。
 この日ばかりは、みな日々の雑事や悩みを忘れ、夜道を照らす提灯の明かりの下、さめやらぬ祭りの興奮にその身を浸している。
「ねっがいっごと〜、たっんざっくに〜、かっきまっしょう〜」
 先ほどから、なにやら妙なリズムで聞いたこともない歌を唄っているのは、誰あろうこのみである。
 ごく薄いピンク色の地に、桜の花びらをあしらった浴衣。カラコロと色下駄の音も小気味よく、今夜のこのみはすっかり日本女性である。母親が若い頃に着ていたのだという年季の入った代物だが、明るい色調は元気印のこのみに、とてもよく似合っていた。
「…その歌、何?」
「願いごとの歌。七夕の日に唄うと効くんだよ?」
「効くってなんだ、効くって」
「ねっがいっごと〜、たっんざっくに〜、かっいたっなら〜」
「2番もあるのかよ…」
 …あのあと、初デートのやり直しということで、一週間前に通った道のりをゆっくりと歩いてきた。何か話すわけでもなく、何かが起こるわけでもなく、ただ、隣にお互いのぬくもりを確かに感じながら、ゆっくりと、夏の日が踊る公園を歩いた。
 少し早めに地元に帰ってきたあとは、かねてより環たちとも約束のあった七夕祭りへと、二人手を繋いで遊びに来たのである。
 一緒に来ていた環たちはというと、今は別行動中である。二人に気を使ってくれたのか、環なりに先週のことを気にしていたのか、会って早々に「じゃあ、私は雄二と見てくるから、タカ坊たちも二人で楽しんでらっしゃい」と言って、不平を漏らす雄二をアイアンクローで黙らせながら、夜店の中に消えていったのだった。
「えへ〜。できた!」
「お、そうか。早いな?」
「タカくんは?」
「ちょっと待ってろ。いざ願い事とか言われると、なかなか思いつかないんだよ…」
「ねっがいっごと〜、たっんざっくを〜、つっるしっましょ〜」
「…何番まである?」
「7番まであるよ?」
「あ、そう…」
 その後、それぞれの願いごとを書いた短冊を、祭りの広場に飾られた、山から切り出されたばかりの笹に結わえる。昼間から、たくさんの人が訪れたのだろう、無数の短冊が笹の枝に踊っている。
「えへ〜…叶うといいな」
「何を書いたんだ?」
「あっ、ダメっ。願いごとは人に教えると叶わなくなっちゃうんだから」
 覗きこもうとする貴明をあわてて制して、このみがダメのポーズをする。
「いや、それ神社のお参りだろ?」
「とにかくダメなの〜! ほら、あっち行こう?」
 どうしても見られたくないらしく、このみは貴明の手を引いて、短冊から離れようと頑張る。と、不意に貴明がこのみの肩越しに声をかけた。
「…あ、タマ姉、短冊吊るすの?」
「え? タマお姉ちゃん?」
 貴明の言葉に、つられて背後を向くこのみ。しかし、そこには見知らぬ祭り客の姿があるばかりで、見知った顔はどこにもない。
「タカくん、タマお姉ちゃんいない…あーっ!」
 見ると、繋いだ手を精一杯伸ばして距離を稼ぎ、貴明が自分の書いた短冊の内容をしっかり盗み見ていた。
「だ、ダメだったらっ!」
「悪い、もう見た」
「やだ、もう…。タカくん、意地悪だよ〜」
「あー…」
 赤面するこのみ、そして貴明。
 短冊に書かれていたのは…
「まぁ、でも、俺のも見て良いぞ?」
「言われなくても見るよ。もう、ぜったい見ちゃうんだからね」
 そう言って、貴明の短冊の内容を読む。
 瞬間、赤かった顔がさらに真っ赤になる。
 貴明の顔も、それに習うように。
「…………」
「…………」
 しばし、無言。
「…あ、あはは…おんなじようなこと書いてるよ〜…」
「あー…うん、まあ…」
 互いの顔を見合って、照れ笑いを浮かべる二人。何も隠す必要などなかったようだ。
 二人の想いは一つ。
 いままでも、これからも
 そのことを、このみは思う
 そのことを、二人は信じる

「タカくん…」
「ん…?」
「えへ〜、なんでもない…」

 言って、このみは貴明の手を取る。
 貴明の手、左手の中指には、昼間に買ったシルバーリングが嵌められている。
 そして、このみの左手の中指にも…

「ターカくん」
「なんだ?」
「なんでもなーい」

 プレートに彫られた文字は、二人とも同じ。
 『I THINK OF YOU AND I'M LIVING OUT MY FANTASY』、そこには、そう書かれている。

「タカくん」
「なんだよ」

 そっと、このみが貴明の胸に寄り添う。
 恋人の温もりを、貴明もしっかりと両手で抱きとめる。

「大好き…」
「…うん」

 彫られた文字の日本語訳は――『あなたを思い、夢を見ている』

「ずっと、ずっと…ずっと……おじいちゃんと、おばあちゃんになっても…」

 天の川に一滴、流れ星が輝く
 それは彦星が見た夢
 それは織姫が見た夢

「ずっと…一緒だよ」

 夏が過ぎ、秋になり、冬を越えて、また春が来て…
 そんな日々が、ずっと続いていく
 そんな日々の中で、ずっと夢を見る

 桜の季節に咲いた小さな恋の花
 小さな二輪の恋の花は
 長い時を、共に寄り添いあいながら
 いつまでも、紡いでいく

 いつまでも、いつまでも
 二人だけの夢を紡いでいく
 
 
 ――――――――――終わり


参考文献
『誕生花366の花言葉』 監修:高木誠 写真:夏梅陸夫(大泉書店)

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