Season
曲名シリーズ 第一作品
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     ※


 ポプラの並木をくすぐる
 風は春色きらめいているね


     ※


 雪交じりの風が、いつしか陽だまりの香りを運ぶ頃。昨日よりも少しだけ暖かい歩道の上に響く足音がたんぽぽの香りを運んできそうな気さえして、なんとなはなしに、柚原このみは小さくスキップを踏んでみる。たん・たん・たん、と小さなローファーが軽やかな音を立て、ちょっとだけ自分の心も弾むようだった。
「何やってんだ?」
「え?」
 振り返ると、幼なじみの河野貴明がこのみの方を呆れたみたいな顔で見ていた。
「いきなり踊り出して…」
「踊ってるんじゃないよ。ちょっとスキップしてみただけ」
「スキップ? なんで?」
「うーん、なんでだろう? よく晴れてたからかなぁ?」
「俺に聞かれても」
「タカくんは、スキップしないの?」
「…俺に聞かれても」
 通っている中学校へと続く道。2年目の3学期は瞬く間に過ぎていき、いつの間にか残すところあと1ヶ月。ついこの間入学したような気もするし、ずいぶん長く通っているような気もする。
「もう3月なんだよー」
「だからなんなんだ。いや、それよりまだ2月だっつの。俺がいるんだから。3月じゃ、俺もう卒業してんじゃねーか」
 隣を歩いているのは幼なじみの河野貴明。1つ年上の男の子で、来週には卒業式を控えている。家が隣同士のため登下校は毎日一緒だったが、それも来週からはしばらくのお預け。
「そうだけど。…でも、タカくんの高校、途中まで通学路一緒だし」
「まあな」
「じゃあ、やっぱり3月でも同じ?」
「いや、ぜんぜん違う」
「そうかなぁ」
「変わんねーな、お前は」
 小さくため息をつきながら、幼なじみが呆れたように言う。
 そんな貴明を残して、もう1つ、2つとローファーを鳴らす。冷たい風が早く暖かくなりますようにと、即興のおまじない。
 春休みになったら、きっと仲良しの友達とどこかに遊びに行こうと、学年末テストもすっ飛ばして思うこのみである。
「ねーえ?」
「あん?」
「タカくんは、春休みどうするの? 卒業式の後、高校まで1ヶ月もあるんでしょ?」
「ああ…。雄二とかと、卒業旅行に行くよ」
「え?そうなの? どこ?」
 その話は聞いていなかったので、思わず貴明を振り返る。
「ディズニーランド。東京。泊まりがけで」
「わ、いいなぁ! ねえ、それ、このみもついてっちゃダメなの?」
「お前、学校あんだろ」
「そうだけど…。あ、じゃあ、このみが春休みになるまで待っててよ」
「無理言うな、チケットとっちまったよ、もう」
「え、そんなぁ。タカくん、ずるい」
「なんでだよ」
 たわいない会話。いつも毎日変わらないおしゃべりの花が咲く。
 そんなやりとりを1つ、2つ交わしていると、やがて周囲に3人、4人と増えていく制服たち。もうあと数分もすれば校門にたどり着くだろう。
「…あと3回か」
「え?」
「いや、こうやってお前と中学に行くの」
「卒業まで?」
「まあな。3年って、結構短いよな」
 ぽつりと落とした声音。その声に呼ばれるように、隣を歩く貴明を見る。
「けっこう好きだったんだけどな。学校」
 あの角を曲がれば、校門が見えてくる。その先に語りかけるように、どこか懐かしんでいるような声。そんな声を、これまでに聞いたことはない。
 ふと見ればいつの間にかずいぶん背の高くなった幼なじみの姿。少し視線を上げないと、よく顔が見えない。
 ――あれ、こんなに高かったっけ――? 
 いつもはもう少し、自分と同じくらいだったような気がして、彼女は背を測ろうと手を伸ばす。頭のてっぺんが、ずいぶん遠くになっていた。
「背――、高くなったんだね」
「ん? ああ、まあ、な。成長期だし」
「そっか」
 なんとなしに高鳴るような、くすぐったいような、そんな感覚が少しだけこのみの胸をよぎる。
 同級生の男の子とそんなに変わらないような気がしていたのに、やはり1学年違うとちょっとだけ大人っぽく見えるのかもしれない。そういえば、肩幅も少し広くなっただろうか? 女の子みたいに撫で肩だと思っていたのに、いつの間に男の子っぽくなったのだろう。
「ん? なんだ?」
「え?」
 突然名を呼ばれる。ぼーっとしていたせいで思考が追いつかず、なんだかきょとんとしてしまう。
 気がつくと、貴明の袖を『きゅ』と小さく握っている自分の手。いつの間に掴んでいたんだろうと、このみは不思議な気分になる。
「あ、ごめん」
「いや、いいけど」
 不思議そうに自分を見る貴明の顔。
 一瞬
『あれ――?』
 ほんの一瞬だけだったが
『タカくんって、こんな顔だったっけ――?』
 いつも見慣れた貴明の顔が、知らない男の人の顔に見えて、このみは少しだけ、寂しくなったような――そんな気がした。


     ※


 あの日と同じ道行く制服達
 ふと懐かしく胸に青い時間


     ※


 1日、2日、瞬く間に風が駆け抜ければ、明日は卒業式。この日の午後は通常授業の時間が割かれ、1・2年生共に、上級生を送り出すための準備が行われていた。
 主な作業は体育館および正門や来賓用玄関などにおける式の準備と、学校敷地内の一斉清掃。このみたちのクラスは清掃側の作業が割り当てられており、平常の清掃時間とは比較にならないほど入念に清掃せよとの指令が担任教師から発令されている。
「なんかさ」
 竹箒で昇降口前を掃いていた、同じクラスの子が不意に口を開く。
「うん?」
 その声にこのみは、こちらも持っていた竹箒を踊らせる手を止めて振り返る。
「卒業。なんか、ヘンな感じするよね」
 いつもの少し緑がかったような色の髪の先をいじりながら、友人の吉岡チエ――よっちが、ぼーっとした様子で何かを見ていた。視線の先を辿れば、昇降口に飾られた祝い花。
「ヘン?」
「部活とかやってなかったし。よく知ってる先輩って言うと、河野先輩とか向坂先輩とか…。そのくらいなんだけどさ」
「みんな、帰宅部だったもんね」
「うん。…なのに、寂しい、のかな。なんだろ、よくわかんないけど。卒業式って、ヘンな感じ」
「うーん…どうなんだろ? ちゃるは?」
 言わんとすることが何となくぴんと来なくて、このみはまとめたゴミをちり取りに集めていたクラスメートに声をかける。ちゃると呼ばれたその少女は、一段落ついたのか立ち上がると、少し考える素振りをした後、「……なんとなくわかるような気がする」と、ぽつりと呟いた。
「そうなの?」
「なんとなく」
 そう言って、まるい眼鏡の向こうで淡く微笑むちゃる。元気なムードメーカーのよっちとは反対に、ちゃるは落ち着いて物静かな雰囲気の少女だった。
 小学校の時からの親友同士だという彼女たち。その仲良しコンビに中学校でこのみが加わって、3人いつも一緒の仲良しトリオになっていた。貴明と一緒にいるより、いまはずっと、彼女たちと一緒にいる時間の方が長い。
「でも、むしろよっちがそんな繊細なこというのが意外」
「なんだとぉ。あたしだって、小学校の卒業式ん時泣いたんだぞ?」
「知ってる。私の胸で泣いてたから。服、鼻水だらけにされた」
「なんだとぉ」
「このみは、泣かなかったか?」
 がるると牙をむくよっちを軽くちりとりであしらいながら、ちゃるがこのみの方を向く。
「私? うん、泣いたよ。えへ。好きだった先生、いたし。そういうのなら、よっちが言ってること、私にもわかるなぁ」
 4年生から6年生まで受け持ってくれた先生のことをこのみは思い出す。まだ30代の若い女の先生で、お転婆なこのみのことをよく可愛がってくれていた。
 だが、よっちはこのみの言葉にふるふると首を振って否定する。
「いや、うーん。あたしが言ったのってそう言うんじゃなくてさ…。自分が卒業するとかじゃなくて、親しい人が卒業するのでもないけど、でも何となく…って、そんな感じ。卒業式なんだなーって、そんな感じ」
「…ふーん…? どうなんだろう。ちょっと、よくわかんないかな…」
 揺れる祝い花。花瓶に生けられた小手毬の花を少し眺めてみる。なんとなく"卒業式"という感じはしたけれど、よっちの言うことはまだわからない。
 そんなこのみに、ちゃるが声をかける。
「このみは、寂しくないか? 河野先輩、明日卒業だけど」
「タカくん?」
「一緒に学校に来るのも、明日で最後」
「あ、ていうか考えてみれば、このみがいちばん寂しがってないとおかしくない? いっつも河野先輩と一緒なんでしょ?」
 そういえばそうだ、とばかりによっちもちゃるに賛同する。このみと貴明の仲睦まじい様子は、二人ともよく知っているのだ。
「うーん。でもお隣同士だし、遠くに行っちゃうわけでもないし…。あ、それに、タカくんの高校ってここから近いから、学校も途中まで一緒に行けると思うし」
「……はぁ。あんたにそういうの期待する方が間違ってんのかも」
「え? なんで?」
 よっちのため息の意図がわからず、思わずきょとんとしてしまう。このみのその様子にますます苦笑すると、友人は一言「先が思いやられるなぁ」と呟いた。
「えー?」
「いやいや。ま、人には人のペースがあるしね。おばあちゃんになる前に気付けりゃいいか」
「むー。なんかバカにされてる気がする」
「ごちそうさま、って言ってんのさ。幸せものめ」
「ますますわかんないよ」
 何か自分の知らないところで置いてけぼりにされている気がして、ぷっと頬を膨らませてみる。最近、前にもましてこの友人二人組にからかわれることが多くなった。いつからだったろうか?
「ふふ。まあ、あまり気にするな、このみ。よっちも、あんまりいじめるとこのみが泣く」
「泣かないよぉ」
「それよりこのみ、ボタン、忘れないようにな?」
「え? ボタン?」
 またぞろわからないことを言われて、再度このみの頭に浮かぶはてなマーク。今日はよくよくからかわれる運命の一日らしい。
「あれでけっこう競争率が高い。遅れると、もうないかもしれない」
「そーそー。ちゃるの言うとおり。そのあたり、心配だねぇ」
 二人の友人揃って、にやにやしながらボタンボタンと連呼している。もちろん、ここで言うボタンとは男子生徒の制服のボタンのことだ。
 だが、このみは何を思ったのかくるくるとその場で回るかのように、自分の身体を眺めたりすかしたりし始める。そんなこのみの様子に、今度は逆に、友人二人の顔にはてなマーク。
 やがて気が済んだのか、ぴたっと止まるとこのみは二人の方を向いて、「外れてないよ?」と言った。
「え? なに?」
「だから…。ボタン、外れてないよ?」
「は?」
「ちゃんと着いてるよ。ここと、ここ…。ほつれてないし。いくらなんでも、こんなの忘れ物しないもん」
「…………どうしようか、ちゃるさん」
「…………どうしようね、よっちさん」
「えー?」
 顔を見合わせて苦笑いする友人二人を見ながら、ますますよくわからない気分のこのみである。
 と、そんなかしまし3人組に投げられる大声ひとつ。
「こらー、そこ! 掃除終わったのかぁ!」
 2年生の生徒指導教諭が、昇降口の中からこちらを見ていた。おしゃべりしていて、掃除の手が止まったのを見とがめられたらしい。
「やべっ。はいはーい! そろそろ終わりまーす!」
 3人慌てて、わざとらしく箒で掃いたりちり取りを置いたり。
 花瓶の祝い花は黙して語らず、そんな彼女たちをそっと眺めている。
 そんな風に、卒業式前日は過ぎていく。


     ※


 切なくて 出しそびれた手紙
 いつも遠くから君を思い oh


     ※


 体育館の中は、いつもと違う荘厳な雰囲気。紅白の垂れ幕。普段は見ない大人の人たちの姿。舞台の演台と並んだ来賓の席。スーツ姿の教師。グランドピアノの色まで少し違うような気もする。
 卒業式当日。このみは2年生の席のエリアの最前列で、式の色に染まった体育館の雰囲気の中で、貴明が入場してくるのを待っていた。彼女の席は、クラスごとに分けられたグループの一列目端なので、ちょうど卒業生が入場してきて自分の席へと向かう通路沿いになる。きっと、貴明や雄二の姿がよく見えるだろう。
 貴明の卒業風景を見るのはこれで2度目。1度目は小学校の時で、いつもと違う豪華なおめかしをした貴明が、ちょっとおかしく、ちょっと眩しく見えたものだった。
「卒業、かぁ…」
 この間よっちが言っていたことはまだよく判らない。たぶん、卒業式の前と後で、自分を取り巻く環境があまり変わらないせいだろうと、そうこのみは思っている。
 親しい3年生と言えば河野貴明と向坂雄二。どちらも小学校以前からの幼なじみで、卒業後の進路は地元の高校。すぐ近くにいて、おそらく登校も今までと同じで一緒になるだろうし、自分の卒業後の進路も多分同じ高校になると思われる。
 それよりも、3年生になったら受験勉強など、きっといろいろ大変になるんだろうなと、そっちの方が懸念なこのみである。特に、夏休み以降の貴明のがんばりを見ていたこのみには、かなりリアルにそれが想起されるのだ。自分にちゃんと勉強ががんばれるだろうかと、何となく今から憂鬱な気分にすらなる。
「卒業生、入場――」
 そんなことをつらつら考えている間に時間になったらしい。舞台横に設置された司会台で進行役の教師が開始の合図。
『はじまる――』
 実感はわかなくても、式は式で厳かな雰囲気。きゅ、と小さな手を握り、何となく緊張。
 やがて、体育館後方の大扉が開かれて、1組の生徒から3年生が緩やかに入場してきた。
 奏で始められたパッヘルベル。カノンのメロディが、いつもとは違った体育館の中に静かに響く中、男女2列に並んで歩く卒業生たち。敷かれたシートの道を進んでいき、用意された席へと着いていく。
 みな、一様に緊張した面持ち。いつもと同じ制服とセーラー服の胸元に、赤と白のリボンでできた徽章。ある者は笑顔で、ある者は寂しげな顔で、ある者はこわばった顔で、ある者は物思いにふけるかのように、様々な言葉を身体ににじませながら、中学生活最後の瞬間へと向かっていく。
「あ――」
 続々と進んでいく卒業生の列の中に、このみはまず向坂雄二の姿を見つけた。いつもフランクなノリの彼にしては珍しく真剣な表情で、ぴんと一本筋の通った姿勢を保持しつつ、力強い足取りで歩いていた。
 そしてそのすぐ後ろには、河野貴明。こちらは、やや緊張しているかのような雰囲気で、体育館を縦断するシートの上を進んでいく。
 少し、手でも振ってあげようかな――。
 そう思い、ほんとは良くないことだけれど、このみは少しだけ姿勢を横に向けて、貴明対置に合図を送ろうとした。
 が――
「――! ……」
 ちょうど横を通り過ぎようとした貴明たち。その横顔をもう一度見た瞬間、このみは振ろうとした手を引っ込める。
『あれ――?』
 いつもの貴明の横顔。雄二の横顔。いつも見慣れている。通学路、休日の商店街、学校、貴明の家、いろんなところでいつだって見慣れているはずの横顔。でも、今日は何か違った。
『なんだろう?』
 なんだろうか。真剣な瞳。真っ直ぐに前を見つめる瞳。いつもと同じようでどこか違うそんな視線だろうか。それとも、口。いつもは他愛もない言葉を紡ぐ口。今日は引き締められた口元だろうか。
『まただ――』
 3日前の通学路。なんだか少しだけ感じた違和感と寂寞感が制服のリボンをよぎる。
 はっと気付いた時には、すでにカノンの演奏は終わっていた。見れば、卒業生はすでに着席している。貴明たちは前方の卒業生の集団の中に紛れて、このみの席から見えなくなっていた。
「続きまして、来賓の紹介を――」
 式は滞りなく進んでいく。このみの心を置いて、ひとつ、ふたつ、なだらかな起伏を描くように、静まりかえった体育館の中を渡っていく。
 校長の祝辞、来賓の紹介、祝電披露、そして――
「卒業証書、授与」
 司会進行の教師の声を合図に、司会台に3年生の担任教師が立ち、ひとりひとりの名を呼んでいく。
 体育館に響く卒業生の返事。「はい」という凛とした声。名を呼ばれ、壇上へと向かう。このみたちの中学では、代表生徒1人ではなく、卒業証書はすべての生徒1人1人に校長が手渡しすることになっていた。
「卒業証書。3年1組、浅岡健治。右は――」
 次々に呼ばれる名。そのたび響く返事。1人1人の名が、碑に刻まれる言葉のように、在校生の耳へと届けられる。保護者の誰かだろうか、合間にはどこからか漏れ聞こえる泣き声。このみの周りでも、手に持ったハンカチで何度も涙をぬぐう者の姿。きっと、親しい先輩がいるのだろう。
 やがて連なる名前は重ねられ、親しい者たちの名が告げられる。
「向坂雄二」
「はい」
 はっきりとした声と共に、雄二が立ち上がり、壇上へと歩いていく。
『ユウくん…』
 瞬間――
『なん…だろう…』
 鼓動がひとつ、大きな音を立てる。
「河野貴明」
「はい」
 トクン――
『タカ…くん…』
 トクン――
 トクン――
 胸に響く鼓動の音。鳴りやまない音。
 歩いていく貴明たちの背中。
 どこかへ行ってしまいそうな、そんな気がした。
『どうして…』
 不安。
『私…』
 不安な音。いつだったろう。何か、どこか、いつの日だったか。あの背中を知っている気がする。
 鼓動。一瞬。不安。泣いている声。それは誰の声だったろう。
『やだ――』
 舞台に上がる背中。顔が見えない。いま、貴明はどんな顔をしているだろう。
 笑っているだろうか、泣いているだろうか、寂しい顔をしているだろうか。何も見えない。このみからは、貴明の顔が見えない。
 貴明が振り返る。先ほどと同じ、少し緊張した表情。見慣れている。見慣れていない。どっちだろうか。
 早鐘のような鼓動。隣の子に聞こえているかもしれない。その鼓動に導かれるかのように、泣きたいような気持ち。手が震える。
 やがて景色は滲んでいく。席に戻っていく貴明の顔がよく見えない。ぼやけた視界。式場に水が溢れているかのように、ゆらゆらと風景は揺れる。ぽろぽろと、ひとつ、ふたつ、雫が溢れて手に落ちる。
 慌ててハンカチを出す。なぜだろうか、涙が止まらない。
 寂しい。初めて、寂しいと思った。
 滞りなく進んでいく卒業式。
 自分だけが置いてきぼりにされているかのような感覚。
 知っている感覚。ずっと子供の頃にも、泣いていた。寂しくて泣いていたことを、このみは思い出す。
 さしのべられた手は、今何を思っているのだろう。涙でよく見えない視界の中に、このみはあの手をずっと探していた。


     ※


 言えなくて 悩んでいた あのseason
 いつの日か 卒業したね


     ※


 式の後、1時間のホームルームの時間。その後、生徒たちは卒業生在校生問わず、校舎内外へと解散になる。
 最後の別れの時。生徒たちは、規定の下校時刻になるまで、みな思い思いに語り合い、別れを惜しみ、旅立ちを祝い合う。
 早々に帰宅するもよし、連れだってどこかへと遊びに行くもよし。ルールはない。だが、誰ひとり校内から外へ出る者はいなかった。
 名残を惜しむ校舎に思いを残すかのように、それこそ廊下の隅、階段のひとつひとつに語りかけるように、別れの時に想いを馳せる生徒たち。
「タカくん――!」
 その中を、このみは脇目もふらずに走っていた。
 ホームルーム終了後、解散を告げる教師の言葉ももどかしく教室を飛び出し、2年生の教室棟を駆け抜け、3年生の教室が並ぶ廊下へと向かう。
 急かされるような心。焦燥感だけが膨らんでいく。
 鳴りやまない心臓の音。壊れてしまったように、トクントクンとうるさいくらいだった。
 会いたい。一刻も早く。なぜかそう思った。
 いつだって会えるのに。きっと毎朝一緒に登校できるのに。休みの日は一緒に遊びにだって行けるのに。しかし、このみはまるでこれが生涯の別れの時でもあるかのような感覚を胸に抱え、不安に押しつぶされそうになっていた。
 なぜかはわからない。だが、確信にも似た予感だけが渦を巻き、黒い憂鬱を心の中に広げていく。
 やがて卒業生たちの姿。カバンと、卒業証書の筒を手に持ち、穏やかな時間の中でさざめき合う巣立ちの人々。貴明の教室まであと少し。
 何人かの卒業生にぶつかりそうになっては避けて、一心不乱に走る。小さなつむじ風のように、生徒たちの間を駆け抜ける。たぶん、他の在校生の誰よりも早く、ここまで来ていただろう。
 だが――
「いない…?」
 貴明の教室の中を覗き、一瞬で目的の人物がいないことに気付く。まだ残っている生徒もいるのに、貴明の姿はどこにもない。
「どこ――?」
 すぐに教室から離れ、このみは校舎内の中に貴明の姿を求めて走り出す。階段、屋上、渡り廊下、中庭。貴明とよく一緒におしゃべりした場所をまわっていく。だが、それらのどこにも貴明の姿はない。
 次第に息が切れてくる。もうどのくらい走っただろうか、中庭を抜けて校庭へと続く校舎脇の途中で、さすがに疲れてこのみは膝に手を置いて息を整える。
「タカくん…どこ…?」
 再び、涙が溢れてきた。
 ふと、かくれんぼが嫌いだったことを思い出す。こんな風に、誰かを探して走り回るのが、たまらなく嫌だったのだ。
 誰の姿も見えない公園。ひとりぼっちになった公園。鬼になるのも、隠れるのも、取り残されたような感じがして嫌だった。
 だから、貴明たちと一緒に遊ぶ時、かくれんぼしようと言い出す子がいるたびに、泣いて嫌がった。そして、そのたび苦笑しながら自分の味方をしてくれた貴明のことが好きだった。
 いま、貴明がいない。あんなに自分のことをかばってくれたのに、いま、貴明は自分のそばにいてくれない。そのことが、寂しかった。
「ふう…ふう………」
 ひとつ、ふたつ、深呼吸。少しだけ息が整ってきた。のしかかる重たい気持ちに足が崩れ落ちそうだったが、がまんしてもう一度走り出そうとする。
 その時――
「チビ助?」
「え?」
 走り出そうとした背中にかけられる声。振り向くと、向坂雄二が立っていた。卒業証書の筒をぽんぽんと鳴らしながら、いつもの明るい顔で笑っていた。
「ユウくん…」
「どうしたんだ? こんなとこで。…って、おまえ…」
「え…?」
「…泣いて…たのか?」
「あ…」
 慌てて、顔に手をやる。こぼれ落ちた涙のあとがまだ乾いていなかった。
「違う…違うよ、えへ…」
「違うって…。なんだよ、誰かにいじめられたんじゃねーだろうな」
 とたん、雄二の顔がこわばる。心配そうな顔でハンカチを取り出して、ごしごしとこのみの涙をぬぐう。
「あ…ありがとう…」
「いや、いいけどよ。どうしたんだ、マジで。なんで泣いてた?」
「………わかんない」
「わかんないって、なんだそりゃ?」
「ね、ねえ、ユウくん…。タカくん、見なかった?」
「貴明? あ、いや、あいつは――」
 一瞬、雄二の視線が外れた。
「知ってるの?」
「いや、俺は…」
「どこ!?」
「…いや、後でいいじゃねえか。その内来るよ」
「…あっち?」
 一瞬だけ向いた雄二の視線。校庭を向いていた。
「いや、だから。後で来るって。それより、中庭にでも行こうぜ、こんなとこじゃ… あ!おい! 待てって! 行くなって!」
 制止する雄二の脇をすりぬけ、このみは全速力で校庭へと走っていく。
 校庭に貴明がいる。その想いが、このみの足を動かす。
 ただ1つ――、目をそらしたことがあった。
 雄二の胸。いつもは金メッキのボタンが並んでいる制服。
 その中で、上から2つめのボタンの場所だけが、すっぽりと空いていたことを。
 鼓動が早鳴る。胸が重くなる。不安が心を支配する。
『やだ――』
 桜の花が舞う校庭。生徒たちの姿が何人か見える。
 早咲きの桜。すでに満開に近くなっていて、そよそよと揺れるたびに、花弁が風に溶けていく。
 卒業。それまでは、何一つ感慨の沸くものなんてなかった。貴明や雄二が受験のために頑張っていたのを知っていたから、きっとお祝いしてあげようとか、その程度のものだった。
 友人の言葉の意味。よく考えなかった。人ごとのようだった。今にしてみれば、なんて浅はかだったんだろうと思う。こんな気持ちになるなんて、考えても見なかった。
『タカくん!』
 校庭でいちばん大きな桜の木。その下に、このみは貴明の背中を見つける。さらさらと鳴る桜の花弁が彩る中、貴明は向こうを向いて立っていた。
「タカく――」
 呼ぼうとした声。
 一瞬で止まった。
 貴明の向こうに、人影。
 貴明と何か話しているようだった。
『あ――』
 髪の長い女の人。卒業生のひとりなのだろう、卒業証書の筒を持って、胸にはリボンの徽章を飾りながら、何かを語りかけている。
 舞う桜。二人に降る雪のように、数え切れない桜の花弁が彩る。まるで、このみと彼らを隔てる幕のように。
 トクン――
 大きく打つ鼓動。
 早鐘。
 不安。
 焦燥。
 流れ落ちる涙の雫。
『どうして――』
 貴明の背中。
 とても、遠くに見えた。
 子供の頃から、誰よりも近くで見てきたはずなのに。
 なぜか、手の届かないほど遠くにいるように見えた。
 髪の長い女の人。
 その人の手に、貴明の手から何かが渡される。
 女の人は、それを宝物のように両手で包み込む。
 胸元に握られた何か。その人はひとつだけお辞儀をすると、貴明の前から離れて、このみの方へと駆けてくる。
 舞い散る桜の中、女の人はうつむきながら駆けてくる。やがてこのみの横を通り過ぎ、どこかへ行ってしまった。
「泣いてた――?」
 一瞬だけ見た表情。ぽろぽろと涙をこぼしていた。寂しそうな、哀しそうな、そんな顔。
 あの両手に包まれたものは、たぶん――

   『まってぇ……まってよぉ……』

 不意に、声が聞こえた。
 どこか遠くから投げかけられるような声。
 それは、このみの声だった。
 小さな頃、いつもみんなに置いてきぼりにされそうになった。
 はぐれるのが寂しくて、泣きながら皆の後を追いかけて。そんな頃のこと。
 あの頃、いつも手をさしのべてくれた男の子。
 自分の手を引いて、優しく声をかけてくれた男の子。
 いま、彼の手は何を握っているのだろう。
 彼の目は何を見て、どこに行こうとしているのだろう。
『やだ――』
 このみは、桜の向こうの貴明の背中を見る。
 舞い散る桜の風。幾千の風の中に、貴明の背中が見える。
 左手に提げられた卒業証書の筒。
 きっともう着ることのない中学校の制服。
 どこかに――行ってしまいそうな気がした。
『このみを――置いていかないで!』
 自然と、足が動いていた。
 遠く、遠く、どこか遠くに行こうとする貴明の背中。
 離れていくその背中を追いかけて、このみは桜の中を走る。
 こぼれる雫が視界をぼやけさせたけれど、それでもこのみは足を止めない。いま止まったら、もう二度と、貴明が笑いかけてくれないような気がしたから。
「タカくんっ!」
 あと10歩、9歩、8歩…。とても長い距離を走ってきたような気もする。このみは、目前になった貴明の背中に、身体ごとぶつかるように飛び込む。
「うわっ!?」
 不意打ちになったのだろう、急に背後からぶつかられた貴明がたたらを踏む。
「このみ!?」
 ぎゅっと背中から抱きしめられる感覚と、ぐすぐすという泣き声からわかったのだろう。貴明がこのみの名を呼んだ。
「タカくん…」
「な、なんだよ。どうしたんだ? なんで泣いてるんだ?」
「だって…だって…」
「どうしたんだよ…」
 心配そうな貴明の声。このみは、背中から回した手で、貴明の胸元をさぐる。
「な、なんだ?」
「ない…」
「え?」
「ボタン…」
「あ…」
 そこにあるべきもの。制服の第2ボタンがなかった。きっと、あの女の人が持って行ったのだろう。
「いや、これは…。なんか、くれって言うし、断る理由も別になかったし、だから…」
「…やだ…」
「え?」
「行っちゃ、やだ…」
「…このみ?」
「やだ…遠くに行っちゃ、やだ…」
「遠くって…」
「このみを…置いてっちゃやだ…」
「…このみ…」
 ボタンなんてよかった。
 なくってもよかった。
 ただ、そこに貴明がいればよかった。
 でも、ボタンと一緒に、貴明もどこかに行ってしまいそうな気がして――
 このみはぎゅっと両腕に力を込めて、貴明を背中から抱きしめる。
 どこへも行かないようにと願いを込めて、貴明を抱きしめる。
「どこへも、行きやしないよ…」
 貴明の声。
「行かないさ。いつ置いていくなんて言ったんだよ…」
「だって…だって…」
「ほら…」
 貴明が、このみの手を取ってほどく。
「あっ…」
 一瞬、また置いていかれるような気がした。しかし、貴明は取ったこのみの手を離すことなく、このみの方を向いて微笑んだ。
「タカくん…」
「泣き虫だな。このみは…」
「だって…だって…。また、タカくんに置いていかれるって…」
「だから、置いていくなんて言ってないだろ? 高校だってすぐ近くだし、家だって隣なんだし」
「…………」
「ずっと、一緒だって。な?」
「ほんとう…?」
「ああ、ほんとだって。約束するから…な? 泣きやめよ、もう」
「うん…」
 促されて、このみは左手でごしごしと涙をぬぐう。右手はしっかりと、貴明の手と繋いだまま。
 やがて気持ちが落ち着いてくる。あれほど重かった心の澱が消えていく。
 ふと見れば、ずっと微笑んでくれていたらしい、貴明の顔。よく知っている――このみが昔からずっと知っている優しい目が、そこにあった。
「もう、大丈夫か?」
「うん。…えへ〜」
「まったく、子供みたいだな? いくら卒業するっつっても、こんなに泣かれるとは思わなかったよ」
「だ、だって…」
「でも、ありがとな?」
「え?」
「そんな風に泣いてくれて。なんか、卒業したんだなって思うよ」
 はにかんだような貴明の顔。桜の花びらがひとつ、その笑顔に舞う。
「あ、ごめん…言うの忘れてた。…卒業おめでとう、タカくん」
「ありがとう。はは、なんか照れる」
 しばらく、2人で笑い合う。そこにはもう、不安なものなど何もなかった。

「そうだ…。このみ、春休みはまだ、予定立ててないだろ?」
「え? うん…」
「遊園地、行こうぜ。卒業旅行に連れてくのは無理だけど…、春休みなら、な?」
「ほんとう!? やったぁ!」
「なんならみんな誘ってさ、遊びに行こうぜ。雄二とか、このみの友達とか…」
「うん! うん――!」

 きらめく木漏れ日が降り注ぐ校庭の桜の木の下。陽だまりの桜に包まれて、2人はいつまでも微笑みを交わす。
 繋がれた手と手はたしかな温もりを交わしながら、舞い散る花弁と共に風に溶けていく。
 いつしか2人の姿も――
 幾千の桜に包まれて、陽の光の中へと溶けていった。


     ※


 心に刻み込んで
 I'll remember you and windy season...


     ※


 季節は巡り、再び桜の季節。
 待ち遠しかった日。このみは、はやる気持ちと高鳴る鼓動を押さえながら、貴明の家の呼び鈴を鳴らす。
 やがて、とたとたという足音の後、玄関が開き――

「あ、あのね…笑わない?」
「何を?」
「んと……とにかく笑わない?」

 それは桜色の頃のこと。
 幼い心がほんの少しだけ大人への扉を開いた頃のこと。

 それは舞い散る桜の季節。
 いつまでも覚えている、あの、桜の季節のことだった。



 ――――――――――終わり



引用:
「Season」 作詞:坂井泉水  …アルバム『揺れる想い』所収


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