Seven Rainbow
曲名シリーズ 第二作品
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     ※


 君が夢 嬉しそうに話す顔が好きだった
 それをずっと黙って聞いているのが好きだった


     ※


 葉桜から落ちる雨の雫が傘をたたく帰り道。所々にできた水たまりを避けるたびに触れる肩がなんだか気恥ずかしくて、向坂環は隣を歩く男の子からそっと目をそらす。
 学校帰りの公園前。何度も一緒に通った道なのに、どうしてだろうか、ここ数日はそばに感じる息づかいがなんだかくすぐったい。

「タマ姉?」
「え?」

 ふと名を呼ばれる。見ると、隣を歩いていた少年――河野貴明がこちらを不思議そうに見ていた。思いがけず目が合ってしまい、再び環は目をそらす。
「あ、えっと…」
 目をそらしてしまったことに、自分自身少なからず驚いたが、すでに後の祭りである。気を悪くさせてしまっただろうか、怒っていないだろうかと、頭の中にぐるぐると後悔の念がわき起こる。
 それでも気丈で知られる環のこと。なんとか気の利いた応えを返そうと、必死に頭を回転させてみる。しかし、いったん崩れた調子がそうそうすぐに戻るわけもなく、伸ばした長い赤髪の先がくるくると指先に巻き上がるばかりで、頭の中はまったくまとまらない。最終的に口から出たのは「何?」という気の遠くなるほど月並みな返答だけ。その事実に、再びがくんとうなだれる環である。
「いや…肩、濡れるよ?」
「あ…」
 言われてみれば、傘の端からこぼれ落ちる雨雫が赤いセーラーを湿らしている。その上すでに内側にも浸みているようで、なんだか冷やっこい。
「あ、あは。傘…小さいね。2人だと、濡れちゃうわ」
「それもあるけど、タマ姉、ちょっと離れすぎじゃない?」
「え?」
 1つの傘の中に並んだ2つの肩。でもその距離は、相合傘と言うには少々離れすぎているだろうか。並ぶ足音は何となくそれを拒んでいるが、確かにもう少し近くに寄れるようではある。
「ほら、もうちょっと中に入らないと」
「あっ…」
 不意に貴明の瞳が近づく。その途端、右肩を打っていた雨だれがやんで、代わりに、ほんのりと左肩に温もりが伝わってきた。中途半端に傘の中に入ろうとしない環を見かねて、自分から寄り添ってくれたらしい。
「肩、濡れてない?」
「あ、え、と、…だ、大丈夫、じゃないかしら?」
 再度、声のトーンが上昇する。そろそろ何を言っているのか自分でもわからなくなってくる。心臓の音はこれでもかと言うほど大きく高鳴り、息のかかりそうなほどそばにいる貴明の耳に届いてしまいそうなほど。静まれ、静まれと心の中で必死に言い聞かせるのだが、落ち着くどころかよりいっそう大きな音で鳴り響く。
「そう? ならいいけど」
 だが、貴明はと言えばそんな環の煩悶もどこ吹く風。まったく意に介していないらしく、どうやら前方の水たまりを回避するのに余念がないようだ。
 そして、そんな貴明を見ていると、今度は『何よ、自分ばっかり平然としちゃってさ』とばかりに、ふつふつと怒りがわいてくる。彼女にしてみれば、一つ傘の下でくっついているのに、相手になんらの動揺も伺えないというのは、なかなかに自尊心にダメージのある状況なのだ。
 いわゆる"女の子の沽券"に関わる問題。かわいさ余って憎さ百倍ではないが、ちょっとムカつくから足でも引っかけてやろうかしらと不穏なことまで頭に浮かんでくる始末。

    『それとも…』

 だが、しばらく無言で歩いている内に、ふと脳裏に不安がよぎる。

     『やっぱりこのみみたいに、小さい女の子の方が可愛いのかしら…』

 幼なじみの柚原このみの、無垢な笑顔が思い出される。2つ年下で、小さくて素直で、いかにも女の子女の子したこのみ。あの子に比べると、自分はずいぶん大柄でひねくれていて、お世辞にも"可愛い"とは言えないのではないか?
 そう思うとなんだか憂鬱になって、今度は大きくため息をつく環である。

    『あーあ…、私ももっと背が低かったら良かったのにな』

 例えどうであっても自分は自分。…と、理屈では判っていても、人間なかなかそう割り切れるものではない。いまさら無い物ねだりなのは重々承知だが、少々発育の良すぎた体躯をちょっとだけ恨めしく思う。
「どうしたのタマ姉? ため息なんかついて」
「え? ああ…。タカ坊は、大きいのと小さいのと、どっちが好きかな、って」
「…なんか、どっかで聞いたような…」
 ――それにしても、先ほどから、ドキドキしてみたりイライラしてみたりため息をついてみたり恨めしく思ったりと、心がくるくる忙しい。
 いつからだったろうか。こんなにも胸が騒ぐようになったのは?
 ちょっと前までは、くっついてみたり困らせてみたり抱きしめてみたり、どれだけ一緒にいてもこんなに胸が苦しくなることなんてなかった。それなのに、今は彼が隣にいるだけで、まるでクローゼットをひっくり返したように、色とりどりの心の波が寄せては返し、返しては寄せて、気の休まる時がない。

 本当に――

「あっ…」
 不意に、貴明のうわずった声が聞こえた。
「どうしたの?」
「あ、いや…」
「?」
 見ると、どういうわけか真っ赤になっている貴明の耳。耳だけではない、幼い少年のようにほっぺも赤いし、目はおろおろと前方をさまよっている。いや、前を見ているようで、よく見るとちらちらと環の方を覗っているようだ。少しこちらに目を向けては、また前を見る、その繰り返し。不自然きわまりない。

    『あ…、ひょっとして、ようやく意識してくれたのかしら?』

 ――そうよね、相合傘でくっついて、いくら鈍感でもそろそろ意識してくれても良い頃よね。もう、学校からここまでどれだけ歩いてきたと思ってるのよ。ホント、気付くのが遅いんだから。もうちょっと教育が必要よね――。
 先ほどやきもきさせられた分、心のガッツポーズもひとしおである。心がビジュアルで投影されたとしたら、そこにはポディウムの頂点でシャンパンファイトに興じている環の姿が確認できただろう。
 だが、そんな無邪気な喜びもつかの間、どうも貴明の様子がそれだけでないようであるのに気がつく。
「…………えと」
 ちらちらとこちらを覗いながら、何かを言いたそうにしている貴明。その様子は、魅力的な女の子にドキドキしていると言うよりも、何か見てはいけないものでも見ているかのような趣である。
 それに、視線の角度がいやに下向きである。確かに貴明よりは環の方が背が低いにせよ、顔の位置はそんなに変わらない。視線を合わせづらいにしても、いくら何でも下すぎだった。少なくとも、首より下に向いているような感じである。

    『!』

 ふと、思い至ること一つ。あわてて自分の視線も下に向けてみると――

    『あっ! しまっ――』

 先ほどまで肩に滴っていた雨。濡れたセーラー服は冬服といえど白い部分はそれなりに多くて、ぴったりとくっつけばそれなりに内側は透けてしまう。
 そこにあるのはほのかなピンク色。
 シンプルで行動的なものを好んでいた中で、最近ちょっとだけ可愛らしいデザインのものも集め始めた彼女の下着が、少しだけ色を浮かしていたのだ。

    『――――っっっっ!!!!』

 慌ててばっと両手で胸を隠す――のは余計にそれを意識させてしまいそうでためらう。とはいえこのままにしておくのは顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう――
 こんな時、普通の女の子はどうするのだろうか? 可愛く笑って許す? 恥ずかしげに隠す? 見ていたことを咎めて怒る? それとも平然として気がつかないフリ?
 何しろ、今までこんな状況を経験したことなど一度もない。いや、子供の頃はあったかもしれないが、なんやかやといろいろ違う。
  ああ、こういう時の対処法を、きっと何度も経験しているであろうこのみ辺りにレクチャーしてもらっておくんだったと、怒濤のような後悔が渦巻く。
「ど、どうしたのタマ姉?」
「にゃっ!?」
 どうやら貴明にも動揺が伝わったらしい。突然ぎくしゃくと動きがぎこちなくなった環に、心配そうに声をかけてきた。
 が、逆にそれが決壊を壊したようで、臨界点を越えた環の手が貴明に伸び――

「いひぇひぇひぇひぇひぇ!!??」

 ほっぺたを思いっきりつねりあげた。すでに何をどうしているかなど彼女の頭にはない。ほとんど本能的なものだ。そして、本能的であるが故に、手加減は一切なし。ぎゅっと目をつむりながら、ぎゅーっとほっぺをひねりあげる。
「や、やめ、いひゃい、いひゃい! やひぇ、やむぇて!」
「え? あっ…! ご、ごめんなさい」
 貴明の悲鳴にようやく気がついて、あわてて指を離す。よっぽど強くつまんでいたらしく、離したあとがぷくっとふくれて赤くなった。
「ひ、ひどいよ、タマ姉…」
「あ、え、っと。で、でも! タカ坊が私の下着なんか気にしてるのがいけないんでしょ!」
「え? あっ…。あれは、その…」
「もう、エッチなんだから。タカ坊も男の子よね」
「ち、違うって。なんていうか、だから…」
「まあ…、でも、愛しのタマお姉ちゃんの下着だもんね? 釘付けになっちゃうのも仕方ないかな〜?」
「べ、別に、見てないって! 気にしてないし…」
「あら、ホントかしら? じゃあ…腕なんか組んじゃったら、気になるのかな?」
「わ、わあっ!? ちょっと、歩きにくいからやめてってば!」
「んふふふ〜♪」
 一度臨界点を突破してしまったせいか、だんだんと普段の調子に戻ってきた様子の環。本当に、今日はくるくると忙しい一日である。

    『ほーんと…。いつから、こうなったんだっけ?』

 あの日、成り行きでキスしてしまった日からか――
 音楽室で眠ってしまった貴明の横顔を見た日からか――
 河原で膝枕してもらいながらお昼寝した日からか――
 何年ぶりかの再会を果たした日からか――
 それとも――
 犬に追いかけられていたのを助けてもらったあの日からか――
 初めて会ったその日からなのか――

 たくさんの思い出が、胸の引き出しの中から顔を覗かせる。
 会えない日は長かったけれど、それでも思い出話には事欠かない。

 そうだ、そういえば、あの時も雨が降っていたんだっけ――

 ふと、ずっと前のことを――小学生の時のことを、彼女は思い出す。
 それは、霧雨の降る、ある夏の日のことだった。


     ※


 ちょっと言葉が(It's gonna be all right)
 Ohh 足りなくて誤解されるけど


     ※


「たーかあーきくーん! あーそーぼっ!」
 7月初旬の日曜日。昼下がりの住宅街に元気の良い声が辺りに響いて数秒後、河野家のドアが開かれて、貴明の顔がひょっこりと覗いた。同じ小学校の、一学年年下の男の子。口の端に少しだけ白い跡が残っているところを見ると、何かクリームのお菓子でも食べていたのだろうか。
「タマ姉。雄二も」
「よお、貴明…」
 環の背後から、こちらは対照的に元気なさげな弟の雄二が手を挙げて挨拶。ダダをこねていたのを無理矢理引っ張ってきたので、拗ねているのだろう。
「どうしたの? っていうか…どこ行くの?」
 環たちの出で立ちを見た貴明が、怪訝そうにそう言う。
 無理もない。大きなリボンに薄い黄色のワンピースはいつもの格好そのままだが、手に持った装備品が違う。
「双ツ池に行こうと思って。タカ坊の分も持ってきたから、早速行くわよ」
「ええー?」
 途端に、貴明の顔がふにゃりと歪んだ。心底イヤそうだ。
 環と、それから雄二が手に持っていたもの。それは少し大きめの手さげ道具箱とタモ、バケツ、そして何本かの釣り竿だったからだ。
 もちろん、普段であれば貴明もそんな顔はしなかっただろう。せいぜい、『ああ、またタマ姉の気まぐれが始まったんだな』とでもいうような呆れ顔程度だったろう。
 しかし――
「今日、雨降ってるよ?」
 貴明の言うとおり、どんよりと雲に覆い尽くされた空からは、霧雨のような細い雨がしとしとと降り続いていて、やむ気配もない。環たちが差している傘の端からもぽたぽたと雨が滴っている。それなりに覚悟の必要そうな空模様だ。もちろん、子供が勇んで釣りに出かけるような天気にはほど遠い。いくら7月初旬とは行っても、下手をすれば風邪をひいてしまいそうだ。
 しかし、環にしてみれば、そんなことは来る前から分かりきっていることである。雨だからと言って拒否させる気は毛頭無い。
「だ・か・ら、行くんだってば。タカ坊知らないの? こういう日の方がよく釣れるんだから」
「そうなの?」
「そうなの」
「嘘に決まってるじゃねえかよ。んなの、俺だって聞いたことねえって…」
「何か言った?雄二」
「いや、別に…」
 文句を言いかけた雄二をひと睨みで黙らせると、環は持っていた釣り竿を貴明の方に突きつける。
「ほら、これタカ坊の分よ。私のもついでに持ってね」
「うーん…、でも僕、今日はこのみの宿題を見てあげる約束だし…」
「ああ、それなら心配ないわ」
「え?」
「ついてきてるから。このみ」
 きょとんとする貴明に笑いかけると、環は雄二の背後に向かって、ちょいちょいと指で合図を送った。すると、門柱の影から、いつもの黄色いリボンで結ばれたツインテールがひょっこりと顔を覗かせる。
「えへへ…。来ちゃった」
 そう言って、貴明のお隣さんの柚原このみが門柱から顔を半分だけ出して、バツが悪そうに小さく笑う。こちらもまた、白い半袖ブラウスに水色のジャンパースカートといういつもの格好。違いと言えば、服と同じ水色の長靴と、最近買ってもらったと言って喜んでいた桜色の傘を差している所くらいだろうか。環といいこのみといい、いまいち釣りに行く格好には見えない。
「来ちゃったって、このみ。宿題はどうするの? 昨日、まだ終わってないって言ってなかったっけ?」
「うんとね、今日の夜、タマお姉ちゃんが手伝ってくれるからって…」
「…あ、そう…」
「ねえ、いいでしょ? タカくんも、遊びに行こう?」
「うーん…。でも雨なのに…」
「あー、もう! 雨くらいでぐずぐずしないの! あたしも雄二もこのみも行くんだから、タカ坊も行くの! ほらほら、わかったらさっさと支度する!」
「わ、わかったよ、もう…。ちょっと待ってて」
「よろしい。早くしてね?」
 出かける準備をしに家の奥へと走っていった貴明を、満足そうに見つめる環。思えば、この頃から貴明は彼女の尻に敷かれる運命だったのかもしれない。


「……」
「……」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
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「……………………………………………………………………………………釣れない……」
「静かにしなさいよ、タカ坊。魚が逃げちゃうでしょ?」
 暗く沈んだ双ツ池。相変わらずしとしととやる気なさげに降り続く雨に濡れた岸辺に並んだ傘の花。そこから伸びる数本の釣り竿はと言えば、先ほどからずっと沈黙を守って、いっそ昼寝でもしているのかという按配である。至る所に雨の波紋を描く水面に釣り針を落としてはや2時間になるが、いずれの釣り竿にもヒットの様子はない。いいかげん、ダレて来たところである。
 ひょっとしてエサだけ持って行かれてやしないかと、時折針を戻してみるのだが、持って行かれているどころか囓った跡すら付いていない。しかたなしに、すっかり匂いの消えてしまったエサを替えてはまたぽちゃんと池に投げてみるのだが、何度繰り返してもなしのつぶてである。
「そうは言っても、姉貴、こんな雨の上に釣れないんじゃ、泣けてくるって」
 貴明の言葉に、雄二も賛同する。傘は差してはいるものの、少なくとも片手は竿から離すわけにはいかないからどうしても不安定で、よろよろと傾いては雫をまともに頭からかぶって、今ではすっかり濡れ鼠。薄い布地のTシャツは肌にぴったり張り付いて、そろそろ身体も冷えてきているし、なおかつボウズと来ては、年配のベテランアングラーだって泣けてくるだろう。
「2人ともうるさいわねえ、このみを見習いなさいよ。文句一つ言わないわよ?」
 そう言って環は、水辺にしゃがんで浅瀬のオタマジャクシを探しているらしいこのみを指さす。
 まだ釣り竿を持っていないので、もっぱらタモで魚をすくい上げる係を担当しているのだが、今日は前述の通りの具合だから、いつまで経っても出番が回ってこない。その割には、不満を口にすることもなく、自分で楽しそうなことを見つけて静かにしているようだった。せいぜい、たまに環や貴明にせがんで、釣り竿を少し握らせてもらっている程度である。
「ホント、男どもと来たら我慢の"が"の字も知らないんだから。そんなんだから釣れないのよ」
「自分だって一匹も釣れてないじゃんか」
「あなたたちが騒ぐからでしょ! これからよ、これから。いいから、静かにしてなさい」
「ちぇっ…」
 環に怒鳴られて、しぶしぶ水面の浮きの動きに目を戻す貴明と雄二。
 それからしばらくの間は、みな無言で、水底にたゆたうお魚さんとの邂逅を待ちながら、時折ケコケコと軽やかに響く雨蛙の鳴き声を聞いていた。雨は相変わらずしとしとと鬱陶しく、岸辺の雑草に水滴を作りながら降り続く。
「……」
「……」
「……」
「……」
 しかし、静かにしているだけで魚が釣れるなら、世の中の誰も釣果に苦労しない。
 いかに魚アタマとはいえ、相手のある勝負において"必勝"の2文字など無いのだ。最強と言われるチャンピオンだって、負ける時には格下にあっさり負ける。
 釣りだって、釣れない時は釣れないのだ。どんなに美味しい餌を用意しても、どんなに好位置のポイントで張っていても、神が「今日は釣れないよ」って言ったら、釣れないのだ。それが、世界の真理。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 そして、この日は神が定めたもうた"釣れない日"そのものだった。待てど暮らせど、練り餌に食らいつく様子はない。フナもブルーギルもブラックバスもコイも、まるでその姿を見せないばかりか、水面で跳ねる様子もない。いっそ、誰か凄い達人が、この池の魚を全部釣り上げてしまった後だったんだろうかと思うほど、魚の気配がそよともしない。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
 ただ空しく時間だけが過ぎていく、夏の日の日曜日。家でおとなしく遊んでいれば、今頃テレビゲームのボスでも倒せていたかもしれない。みんなで遊ぶのなら、きっと人生ゲームが何周も終わっていただろう。3時になればおやつも出ていたかもしれない。エアコンの効いた快適な部屋で、何一つ不満のない幸せな時間が過ぎていっただろう。
 しかし、今流れている現実はそれとは正反対だ。
 霧雨の降る空の下、じめじめと濡れた草の生えたぬかるんだ地面にしゃがんで、傘を差しながら釣り竿を握って、ぴくりとも動かない浮きを眺めながら、滴る雨雫にびしょびしょになって震えている。もちろん、おやつは出ない。
「…………………………………………」
「…………………………………………」
「…………………………………………」
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 座して念じること、そろそろ再び2時間経過。都合4時間を消化したことになり、いいかげん辺りも夕暮れの準備を始めそうな気配である。
 もう夏も良いところなので、まだ暗くなるには早いにせよ、気の早い家なら夕餉の支度の音がトントンと響いてきてもおかしくない。スーパーのレジには、赤札の貼られた夕食のお総菜を差し出す主婦がたくさん並んでいるだろう。
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「……………………………………………………………………………………釣れない……」
「……………………………………………………………………………………そうね……」
 いまさら望むべくもないが、晴れていたら「カラスが鳴くからか〜えろ」のお時間。頑固で負けず嫌いの環も、さすがに4時間ボウズはこたえたのか、珍しく泣きが入る。
「おかしいなぁ…。雨の日の方がよく釣れるって、ちゃんと本に書いてあったのに…」
 父親の書斎にあった釣りの本を斜め読みして得た知識。環は古ぼけていかにも威厳のありそうだった書棚の釣りの本の内容を思い出して、ため息をつく。夏の雨は水温を下げるから、魚が元気になってよく釣れるようになる――そんなことが、確かに書いてあったのだ。
「本読んで釣れるようになるんだったら苦労しねえよ。ったく、何時間も池に張り付けにされてボウズじゃやってらんねーって」
 もうすっかり諦めモードに入っていた雄二が、これを機にと竿を水面から引き上げる。針先にまだ残っていた練り餌を外して投げ捨てると、くるくると糸を巻いて早々と帰宅の準備を始めた。
「う、うるさいわね! たまにはこういうこともあるわよ!」
「たまには、じゃねえだろ! もうちょっと後先考えろっつの。見ろよ、このみなんて待ちくたびれて寝てんじゃねーか」
 雄二の指さした先には、しゃがんだままこっくりこっくりと船を漕いでいるこのみの姿。オタマジャクシに飽きて数時間、動きのない水面を見るばかりで眠くなってしまったらしい。カラフルな雨傘をかついだまま、ぽやんと夢の世界へ旅立っているようだ。勢い余って池に転がり落ちないか、少々心配である。
「う…」
 いつもなら雄二の文句にアイアンクローで反撃するところだが、年下のこのみを数時間も雨の下に釘付けにしてしまったのにはさすがに罪悪感を禁じ得ない。所々濡れて黒いしみになっているジャンパースカートを寒そうにまといながらまぶたを閉じているこのみの姿を見て、思わず押し黙ってしまう環。
 このみだけではない。傘も満足に差せない中、ぐっしょり濡れてしまった貴明と雄二の姿もたいがい凄まじい。Tシャツはと言えば肌にぴったりと張り付いて透けているし、ごわごわのジーンズだって水を吸ってかなり重そうだ。この分だとパンツの中までびちょびちょで、寒いやら冷たいやらでたいへんだろう。全体をぎゅっと絞れば、一日分の水分くらいは確保できそうな勢いだ。
 もちろん環も似たような状況である。お気に入りのワンピースは上から下まで霧吹きで吹き続けたかのようにしっとりして、健康的な肌がこれでもかとばかりにシースルー。しゃがんでいるから今は判らないが、立ち上がればきっと、コットンのいちご模様がうっすら透けてしまうだろう。
 一同揃って、絵に描いたような濡れ鼠。これで血色が悪ければ、どこの可哀相なお子さんですかと、お巡りさんに保護されそうだ。
「ほら、このみ、起きろ」
「……ふ……?」
 雄二の呼びかけに、ぼんやりとこのみが目を開ける。
「ふぁ……。…ユウくん、おさかなさん釣れたの?」
「んにゃ、さっぱりだ。…そろそろ帰るぞ」
「帰るの?」
「ああ。悪かったな。こんな雨ん中、付き合わせちまって」
「タマお姉ちゃんは?」
「え…?」
「タマお姉ちゃんは、何か釣れた?」
「あ…えっと…私も、釣れなかった」
「そっかー…。タマお姉ちゃんが釣れないんじゃ、しょうがないよね」
 残念そうに、そう呟くこのみ。責めている様子は全くない。たぶん本当に、環が釣れなかったのなら、誰がやっても釣れなかっただろうから仕方ない――そう思っているのだろう。
「………ごめんね………」
 そんなこのみの目を見ている内、環の目にうっすらと涙がにじんできた。こんな冷たい雨の中で退屈させてしまったこと、妹分の期待に応えてあげられなかったこと、様々な悔恨が彼女の心に溢れて流れた。
 雨蛙の鳴き声が遠く近く響く中、環は帰り支度に道具をまとめ始めた弟を横目に、少しだけ声を殺して泣く。
 幸いと言うべきか、頬も雨に濡れていたから、このみに気付かれた様子はなかった。
「ううん。しょうがないよ。また今度、釣りに来ようね。今度はお父さんの釣り竿を貸してもらってくるから、このみも一緒に釣らせてね?」
「うん…また今度ね。ホントにごめんね」
 環がそう言うと、それに応えるように、にっこりとこのみが微笑んだ。――ひょっとしたら、気付かれていたのかもしれない。
「…じゃあ、もう帰りましょうか。タカ坊、行きましょ?」
 少しだけ横を向いて涙を拭き、環はまだ池に向かって粘っていた貴明に声をかける。
「うん…」
 だが、当の貴明はと言えば、聞いているのかいないのか曖昧な返事をもぐもぐと返しただけで、その場から動く様子はない。
「タカ坊?」
 見ると、相変わらず貴明は水面に浮いた棒浮きを見つめながら、微動だにせずしゃがんでいた。すでに雨をしのぐのは諦めたらしく、傘は傍らに折りたたまれていて、Tシャツの背中は雨に打たれるままになっている。緑色に塗ったら、雨蛙に見えるかもしれない。
「どうしたの? 今日は釣れないみたいだから、もう帰りましょ」
「うーん…」
「タカくん、帰らないの?」
 そんな貴明の様子に、このみも不思議そうに声をかける。しかし、やはり貴明は曖昧な返事を呟くばかりで、その場を離れようとしなかった。
「ねえ、タカくんってば」
「いや…。まだ家は晩ご飯の時間じゃないし、もうちょっと頑張ってみようかなって」
「はぁ? おいおい貴明、マジか?」
 荷物をまとめ終えて肩に担ぎ、もはや帰るばかりになった雄二が呆れたように声を上げる。
「釣れやしねーって。やるだけムダムダ。早く帰ろうぜ」
「でも、タマ姉がさっき言ってたじゃん。本に書いてあったって。だったら…、ひょっとしたら釣れるかもしれない」
 そう言いながら、貴明が環の方を見る。
「そうなんだよね?」
「タカ坊…。…でも…こんなに待ってても釣れなかったし…。ひょっとしたら、私の勘違いかもしれないし…」
 いつもなら、「当たり前じゃない!」と強気の発言一辺倒の環も、さすがに今日ばかりは消極的である。ひょっとして、海釣りか何かの本と間違えてしまったのかもしれないと、自分の記憶にいまいち自信が持てない。
「あーあー、そうに決まってるって。なんか絶対勘違いだって。間違いない」
「う……」
 実際には、夏の雨の日に魚がよく釣れるというのは本当のことである。その点において環は間違ってはいない。
 ただし、ただ一点彼女が知らなかったのは、それが"降り始め"あるいは、"降る直前"に限定されることだ。長く降り続いてしまうと、逆に釣れなくなる。環が参考にした本にもそれは書いてあったのだが、その部分を見落としてしまったのである。
 そして、今日は昨夜半からの長雨が、朝と言わず昼と言わず降り続いている。双ツ池の水面に浮かんでは消える波紋はとどまることを知らず、すでに星の数ほどにも達していただろう。
「だからほら、もう帰ろうぜ? 時間の無駄だって」
「うーん…」
 いいかげん、濡れた服が冷たくて仕方ないのだろう、雄二がしきりに帰宅を急かす。しかし、再三の催促にも貴明は首を縦に振らない。何か思うところでもあるのか、じっとその場を動かずに、池の中へと伸びていく糸の行方を目で追っているようだった。
「なんかさ」
 不意に、貴明が口を開く。視線は水面に向けられたまま、あたかも池にぽつりと針を投げ込むかのように呟いた。
「あん?」
「悔しいし」
「悔しい?」
 貴明の言葉を、雄二がオウム返しする。
「日曜日に…雨降ってるのに池に来てさ、びしょびしょになって一匹も釣れないのって。…僕は、悔しい」
「いや、そりゃ、まあ…」
「だから、せめてもう…あと30分だけ。もうちょっとだけ」
 そう言って、ずっと浮きばかり見つめていた貴明が、ようやく3人の方を向いた。いつもの通りの穏やかな瞳。しかし、意志は固そうだった。
「………あーあ、ったく…。こう言う時、がんこだよなー、お前」
 そんな貴明の様子に、呆れたように雄二が呟く。そして、持っていた釣り道具をその場に放り投げると、泥で汚れるのも構わずにどかっと貴明の左隣に腰を下ろした。
「30分だけだかんなー」
「悪ぃ」
「今度ジュースおごれよ?」
「缶でいい?」
「ペットボトル」
 言いながらお互い顔を見合わせ、にかっと笑いあう。男の子同士、何か通じるものがあるのかもしれない。
 と、その様子をはたから眺めていたこのみが、たたっと貴明の右隣に駆けよると、こちらもまたすっとその場にしゃがんだ。さすがに泥で汚れるのはイヤなのか地面に腰を下ろすことはしなかったが、やはり貴明を見てにっこりと笑う。
「このみも、もうちょっとだけいるね?」
「お前は帰ってもいいんだぞ?」
「ううん。タカくんたちがいるなら、このみもいるよ」
「しょうがないな、お前も」
「えへ〜。…このみにも、ジュースおごってね?」
「マジか。…このみはパックのやつでいいよな?」
「ううん、ペットボトルがいいな」
「マジか」
 3人並んで池に向かい、皆すっかり戦闘態勢に入ってしまったようだった。逆に環はといえば、こちらはすっかり乗り遅れてしまった格好だ。
「ちょ、ちょっと、私も!私も残るわよ!」
「あーあー、姉貴は帰っていいって。俺らで頑張っとくから。ボウズ姉貴にゃ、用はねーよ」
「なっ…なんですってぇー!」

 ガッ

「念仏を唱え始めなさい!」

 ギリギリギリ…

「あだだだだだ! ちょっ…待…割れる割れる割れる!」
 調子に乗った雄二の一言にカチンときた環の手が伸び、必殺のアイアンクローが哀れな弟の顔面を捉える。ギリギリと万力のような締め上げに、いつもの通り雄二が悲鳴を漏らし始めた。
 見慣れた姉弟のスキンシップ。これが出るようなら、調子はすっかり戻ったと言うことだ。
「ちょ、ちょっとちょっと2人とも! あんまり騒ぐと魚が逃げちゃうって!」
 微笑ましいやり取りを交わす向坂姉弟に苦笑しながら、貴明が"しーっ"と口に指を当てて注意する。せっかく粘ると決めたのに、場の静寂を吹き飛ばされたんでは元も子もないだろう。
 そのことに気がつき、かっと赤くなりながら雄二を解放する環。どうにも今日は調子の狂う日である。
「ご、ごめん…」
「はは。ま、いいけど。じゃあ、もうちょっと頑張ろうね」
「うん。…ありがと、タカ坊」
 微笑む貴明に、環にしては珍しく素直に感謝の言葉を口にする。頬が赤くなったのは、恥ずかしかったからだけだろうか?
「いや、別に…。僕がもうちょっとやりたかっただけ……あっ?」
 不意に、貴明が声を上げる。
「え?」
「いま…」
「何?」
 ばっと池に戻った貴明の視線を追って、環も水面に目を戻す。
 そこには、先ほどと同じようにカラフルな色の浮きが浮いていて――

 ぽちゃん…

 それは、一瞬のことだった。
 浮きが、消えた。まるでテレポーテーションでもしたかのように――

「う、うわぁっ!?」

 突然、貴明が前のめりにつんのめった。そして、たたらを踏みながら立ち上がると、ぐっと腰を落として竿を必死に握りしめる。
「貴明! どうした!?」
「かかった!」
「マジか!?」
 貴明の言葉に、改めて水面を見る。
 そこは、もうすでに戦場だった。
 水面は静寂とはほど遠く、ばしゃばしゃとあちこちにしぶきを蹴立て、伸びる糸は右へ左へとひっきりなしに揺れ動いく。ぴんと張り詰めた緊張からは、そこから両手に伝わっているのであろう大きな力を容易に見ているものにも想起させた。
「っていうかでかい! なんか、むちゃくちゃでかい! う…わああっ」
 悲鳴を上げて、貴明がつんのめり、危うく池に落ちそうになる。慌てて雄二が助けに入り、2人がかりで竿を掴んで耐える。
「ちょ、ちょっと! 何よ、そんなに大きいの!?」
「でかい…って言うか、なんだこれ…」
「くっ…2人がかりでようやくこれかよ…」
 必死の形相で竿を握りしめる男子勢。竿は池釣りにしてはかなり大きめのものを用意してきたはずなのに、それがすでに相当しなっているところを見ると、よほどの大物がかかっているのだろう。
「あっ!」
 不意に、このみが声を上げる。
「何? どうしたのこのみ!」
「コイだっ! いま跳ねた! すごく大きかった!」
「コイ? どのくらいの?」
「えっと…このくらい!」
 そう言って、このみが両手で幅を作る。それは、きっと遠目だからよく判らなかったのだろうと疑いたくなるくらい、大きな幅だった。
「う、うそでしょう?」
「ホントだよ! ものすごく大きかったもん!」
 このみの目測が正しければ、おそらく70センチになんなんとする大きさだ。ならば、大人でもかなりの腕力が必要な大物である。
 いつもフナだのブルーギルだのの小さいものばかり釣り上げている子供たちには、明らかに手に余る大魚だった。正直なところ、にわかには信じがたい。
 だが、2人がかりで懸命に踏ん張ってこらえている貴明たちの様子を見ると、70センチのコイかどうかはともかく、まれに見る大物がかかっていることは間違いなさそうだ。
「だ、だいじょうぶ!?」
「わかんない…」
 絞り出すような声で、貴明が環の声に応える。腹に力を込めっぱなしのせいなのだろう、少し喋りづらそうだった。
 糸の先は、いまだ右へ左へと狂ったように暴れ回る水面。おそらくは深々と刺さった針を力づくで引っこ抜こうとでもしているのか、まるで後先考えないような運動量の抵抗が水中で行われているようだ。
 しばらくの間、水中のコイと陸上の男の子達の間で力比べが繰り広げられる。
「貴明…、行けるか?」
 だがそんな中、ぐいぐいと引っ張られているであろう竿を握りしめながらも、雄二が貴明に声をかけた。少しだけ、余裕ができたらしい。
「わかんないけど、何とか…、雄二こそ、大丈夫か?」
「キツイ…。でも、このまま行ける…か?」
 一瞬でアイコンタクトする貴明と雄二。そして、こらえるばかりだった竿が、コイの動きに合わせて右へ左へと揺れ動く。
 どうやら、このまま動かして疲れさせて、弱ったところをすくい上げる作戦にしたらしい。何とか足場も確保したらしく、先ほどまでのような危なっかしい様子はなかった。大物にヒットしたのは初めてだが、本能的に戦闘態勢を整えたようだ。
「だいじょうぶ?」
 そんな2人に、再び環が声をかける。すると、今度はしっかりと「何とか」という返事が返ってきた。
 そして、さらにしばらくの間、ばしゃばしゃと跳ねる水の下にいるであろう敵をしとめるべく、彼らの奮闘が続く。
 ――と

「がんばれ…! がんばれ…!」

 いつ果てるとも知らぬ戦いを見ながら、環の背中に隠れたこのみが、泣きそうな顔で男の子たちにエールを送り始めた。ぎゅっと環の服のすそを握りしめ、何度も何度も、何度も貴明たちに声援を送る。

「がんばれ…! がんばれ…!」

 小さな女の子が唄う応援歌。だがしかし、それは何よりも大きな力となって、男の子たちの両手に力を宿す。

「がんばれ! がんばれ!」

 やがてそこに環の声も重なる。2人の女の子の声が合わさって、さながら即席のチアリーダーのようになった。小さな池に、少女たちの応援歌が響きわたる。

「がんばれ! がんばれ! がんばれ!!」
「ああ! ぜったい釣り上げてやる!」

 女の子たちの声に頼もしく応え、2人の男の子がにっと笑顔を見せた。身体はずぶ濡れ、服は泥だらけ、頭はボサボサの全身汗びっしょりでお世辞にもキレイな雰囲気ではなかったけれど――、でも、その姿は他の何よりも、女の子たちの心を高鳴らせた。
 そして、戦いは続く。追う者と追われる者の戦い。狩るものと狩られる者の戦い。どちらに勝利の軍配が上がるのか。いまだ、それは神の戯れる手の中。
 終幕未定の勝負だけが、風のようにその場を駆け抜けてゆく。
 そして1分…2分…。いや、もっと経過しただろうか。
 時間の感覚はすでに環たちにはなく、あるのはその場に集中された、張り詰めた空気だけ。一瞬の油断も許さない攻防が支配する。
 ――だが、永遠に続く戦闘などない。
 矢は尽き、剣は折れ、弓弦は切れて、戦いは収束へと向かう。誰も、その理から抜けることはできない。
「行ける…!」
「もうちょっと!」
 先ほどまで、釣り人たちを池の中に引きずり込まんばかりだった魚の勢いが、次第に緩やかになってくる。尾びれで水面を蹴立てる回数もずいぶん減った。
 さしもの強者も、長きに渡る攻防に、ついに疲れてきたのだろう。ようやく、貴明たちの作戦が実を結ぼうとしていた。
 それからさらにしばらくの持久戦を経て、ついに――

「タマ姉!このみ! タモ用意して!」
「う、うんっ!」

 待ってましたとばかり、指示を受けたこのみがタモを手に持って水縁に近づく。本日ようやくの出番である。もちろん、これだけ男の子たちを苦しめた大物を、このみ一人ですくい上げられるわけもない。このみと一緒に、環もタモの柄に手を添える。
「いつでも良いわよ!」
「よし、せーの!」
 かけ声一閃。ゆっくりと引き寄せてきた獲物にとどめの一撃とばかり、ぐいっと力を込めて引っ張る。すでに疲弊しつくした相手は抵抗むなしく水際まで引っ張られ、そして――

「とったぁ!」

 ――環とこのみが突きだしたタモの網に、ついにその身を捕らえられた。
「…って、わわっ、重いっ!」
 しかし、予想以上の大きさに、思わずよろめいてしまう2人。重量としてはたぶん持ち上げるのも可能な大きさのはずだが、柄の先の網に入っているためかなり重い。このみはもちろん、近所の子供たちのガキ大将として名高い環でさえ、思わずたたらを踏んでしまう。
 ――と、
「大丈夫? このみ、代わるよ」
 環たちの手こずっている姿を見た貴明が、釣り竿を放り出してこのみと入れ替わった。柄が折れないようにだろう、より網に近い部分に手を添えて。
「う、うん。タカくんお願い」
「よし。…タマ姉、大丈夫?」
「あ、う、うん」
 2人で1本のタモの柄を握っているせいか、思いがけず貴明の顔が環の目の前にきた。おそらく手で顔をこすったのだろう、頬が少し泥で汚れていたが、いつになく真剣な表情の貴明の顔に、思わず胸がドキンと鳴る。
「じゃあいくよ、いち、にー、の…」
 だが、見とれる間もなく貴明はタモの先に目を戻して、音頭を取り始める。慌てて環も目を戻して、握る手に力を込めた。
「さんっ!!」
 そして、貴明号令の元、ぐっと力が込められ網が水面から引き上げられる。最後の抵抗なのだろう、びちびちと勢いよく獲物が暴れるが、構わず一気に引き上げて――

 びたん!

 と、大きな音を立てて、ついにこの日最初で最後の釣果が岸に打ち上げられた。

「う、わぁ〜…」
 その成果を目にした一同から、一斉に感嘆のため息が漏れる。
 それは、先ほどこのみが言っていた通りの大きな魚。いや、示していたサイズよりも、さらに一回りは大きいだろう。目測で80センチを越える勢いの、とても大きなコイだった。
 もちろんこの場の全員、こんな大物を釣り上げたことなどいちどもない。せいぜい、環やこのみの父親の書斎に飾ってある魚拓で見たくらいなものだった。
「は…はは…すげー…、はは…」
 感情をどう表現していいか判らなかったのかもしれない。雄二が、半ば笑い声交じりでぽつりとそう言った。
「はは…」
「ふふ…あはは…あははは…」
 そして、それが呼び水となったように、4人の中に笑い声の輪が広がっていく。始めはくすくす笑い。最後には、もうわけのわからない大爆笑になって、泥にまみれるのもどこ吹く風とばかりに、岸辺を転げ回る。

 ――いつの間にか、雨はやんでいた。

「タカ坊っ!」
 少しだけ切れ目の開いた雲の間から覗く空の青。満開の笑いの花の中から飛び出して、環は子猫が仲間にじゃれつくように貴明に飛びついた。
「わっ、タマ姉!?」
「すごい! すごいすごいすごい!!」
 そして、驚く貴明をぎゅっと抱いて、勢いよく頬ずりを始める。周りのことなどもう見ていない。感情の赴くまま、愛情の赴くまま、その腕に少年の身体を抱きしめる。もし本当に猫だったら、ごろごろと盛大に喉が鳴っていたことだろう。
 その代わりと言うべきか、いまは彼女の胸が、ドキドキとうるさいくらいに高鳴っている。
「すごいよタカ坊! もう、みんなあきらめてたのに、こんな大きなコイを釣っちゃうんだもん。ホントにすごい!!」
「へ、へへ…。そう…かな」
 環の言葉に、貴明が照れくさそうに笑う。
 だが、彼女にしてみれば、これでもまだまだ褒め足りないくらいだ。自分のせいで友人たちをがっかりさせるだけに終わりそうだった中、貴明の"もう少しだけ"の一言が、こんな大きな成果となって帰ってきたのだから。
 この瞬間、まさに少年は、少女にとってのヒーローだった。
 そして――
 可愛いヒロインがかっこいいヒーローにあげるお礼と言えば、昔から相場は決まっている。

「タカ坊…ありがと!」

 ちゅっ♪

「わっ!?」
 ほっぺにちゅ。少しだけ泥でざらついたけれど、それでも、この世の何よりも甘いキス。
「あーっ、タマお姉ちゃん、タカくんにちゅーしたぁ!」
 と、それを目ざとく見つけたこのみが、驚いて騒ぎ出す。
「ずるーい! このみもタカくんにちゅーするぅ!」
「だーめ。このみにはまだ早いわよ」
「そんなことないよぉ。タマお姉ちゃんばっかりずるい!」
「ふふーん」
「ふ、2人とも、ちょっと離してって…」
「だーめ。タカ坊は、もうちょっとこのまま抱かれてなさい?」
「このみも、このみもぉ!」
「あのー…、貴明だけじゃなくて、俺も手伝ったんスけど…。なんかご褒美は…」
 さざめく声は夏の風。ゆっくりと晴れ間の広がっていく空の下、明るい笑い声はいつまでも続いていく。

 それは夏の日のこと。今は遠いあの幼い日の夏の夢。
 ふと見ると、東の空の向こうに、七色の虹。
 雨上がりの虹が、雨蛙の鳴き声をどこかに運んでいくように、高く遠く架かっていた。


     ※


 教えてRainbow Seven Rainbow
 本当に好きなのは 君だとなぜあの時
 はっきり答えられなかったのかナ


     ※


    『ほっぺにちゅ…か。素直だったんだな、私…』

 ほんのりと唇を指でなぞれば、あの時の貴明の頬の感触が甦るかのようだ。環はそっと頬を染めて、夏の日の思い出に浸る。
 あの頃、自分の気持ちをストレートに好きな子に伝えられた。
 自分の心、好きだという心、全身で相手にぶつけられた
 いつからだろう? 恋に臆病になったのは。

    『もう7年も経つのね…。それなのに、進歩はほっぺから唇に移っただけ、か』

 まるで眠たい牛のような歩みの遅さに、自分でもがくんとくる。長い間離ればなれになっていたとはいえ、さすがに少し進展なさ過ぎではなかろうか。
 だが、それはたぶん、環のせいばかりではない。相合傘で隣を歩く少年の、天然記念物並のニブさがおおいに働いているはずだろう。
 そう思うと、なんだか自分ばかりワリを食っているような気がして、またぞろぷんぷんと腹が立ってくる環である。
 ようし、ちょっと文句でも言ってやろう。いつまでもニブいばっかりだと、その内痛い目を見るんだからね。そんなことを思いながら、環は隣の貴明に向かって口を開こうとした。
 ――が
「あっ」
 不意に貴明が声を上げたせいで、環の口が"タカ坊"の"タ"の形のまま止まる。完全に出鼻をくじかれた格好で、それがまた環の神経を逆なでしたが、賞賛すべき精神力で何とか彼女はそれを抑える。
「な、なに?」
「いや、雨やんでるなって」
 その答えに、再度環の肩ががくんと落ちる。『そんなことか』と、そんな感じだ。
 だが、言われてみれば、先ほどまでしとしとと降っていた雨がやんで、そればかりかずいぶんと晴れ間が広がっている。思い出に浸っていたせいで、気付かなかったようだ。
 ――相合傘の時間は、もうおしまい。ばさばさと2〜3回ほど開け閉めして雨の雫を払いながら、貴明が傘を畳む。
 まだ葉桜から滴る雨の名残がぽつぽつと歩道を叩いていたが、それもやがて風に溶けていくだろう。
「それに、ほら…」
「え?」
「虹」
「あ…」
 貴明が指さした方。雨上がりの雲の端から覗いた青空の下に、くっきりと虹が架かっているのが見えた。赤、黄、青、七色の光の橋が、環たちを待っているように高く遠く。
「綺麗ね…」
 遠い空に輝く虹。思いがけず、追憶の虹と二重写しになるようなその光景。
「なんだか久しぶりに見た気がするな」
 遥か空に描かれた架け橋を、つっと手をかざしながら見つめる貴明の横顔。
 それが、まるで過去からの呼び声であるかのように――、環の胸がトクンと高鳴る。
「タマ姉と最後に見たのは…いつだったかなぁ。釣りに行った日…?だっけ」

 トクン

「釣り…?」
「…あんまり思い出したくない気もするけど。雨の日に、タマ姉に引っ張られて…、双ツ池にコイを釣りに行って…。違ったっけ。帰り道に、見たような気がする」
 少し笑いながら、貴明が記憶を辿るように、あの日の思い出を口にする。
 つい先ほどまで回想していたその光景を今、貴明も心に描いているのだろうか?

 もし、そうなら――

「ううん、違わない…。覚えてたの?」

 もし、そうなら――
 それはきっと、神様のくれた瞬間――

「…何となく…ね。タマ姉がいて、雄二がいて、このみがいて…」

 まったく――
 ただ、一緒に帰っていただけなのに――

「そうだ、確か大きなコイを…」

 間が良いのか悪いのか――
 いつも、振り回されてばかりよ、私――
 そういう貴方だから――
 だから、私はいつも、貴方に釘付けになる――

   『いまなら、いえるかな』

 ねえ、知ってる――?
 どうして、私が帰ってきたのか――
 幾年の時を経て――
 この街に、どうして私が帰ってきたのか――

「…その後、そう、タマ姉が…」

 ねえ、覚えてる――?
 あの日の思い出を――
 貴方と私の、あのお別れの日のこと――

 あの時、私が言いたかったこと――
 あの時、私が言えなかったこと――
 きっと貴方は知らないよね――

 わたしね――

 ずっと――

 ずっと、ずっとね――

 あなたのことが――

「ねえ、タカ――」
「あのさ」
 不意に貴明が声を上げたせいで、環の口が"タカ坊"の"ぼ"の形のまま止まる。またしても完全に出鼻をくじかれた格好だった。

   『〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッッ、こいつは〜〜〜ッ!!!!!』

 なによなによなんなのよ、あたしがいまどんなおもいで、なにをしゃべろうとしたとおもってんのよ、このー! …と、頭の中は一気に沸騰。先ほどまでのセンチメンタリズムはどこへやら、方向180度転換で憎さ100倍。貴明に対する罵詈雑言の嵐、嵐、嵐がコンマ数秒の間に数千フレーズを優に越える数量で脳裏を駆けめぐる。
「ああ、いや、タマ姉の方から」
「…私は良いわ、もう。なに?タカ坊」
 環が何か言おうとしたのに気付いたのだろう、貴明が場を譲ってくれようとしたが、環の方はもうすっかりそんな気分からは遠のいている。
「あ、いや…たいしたことじゃないんだけど」
 たいしたことじゃないってなによ、じゃあじゃましないでよ、もうっ! …と、さらに数千の悪口雑言が脳裏に渦巻く。
 しかし、次の一言は、完全に予想の範囲外だった。

「…大きい方が、好きだな」

「…え?」
「さっきの話。…何となく、言っておいた方が良いかなって」
「……………?」
 貴明の言葉に、立ち止まって頭の中を検索する。コイのことか…?それとも…?
 指を顎に当てて数秒。しかし、思い当たることは特にない。
「はは、まあ…いや、ホント、たいしたことじゃないから」
「そう?」
「そうそう。それよりほら、手…繋ぐ?」
「え? あ、えっと…そうね」
 しつこい後輩を煙に巻くために始めた恋人ごっこ。雨がやんだから、また手を繋いで歩けるだろう。

 だが、その瞬間――

   『え――?』
   『後輩――?』
   『後輩――』
   『小さい――?』
   『大きい――?』
   『大きいのと小さいの――』

「――――――――――あ…」

 大きい方が好き。
 それは、たぶん――

「――――っっっっ!!!!」

「いひぇひぇひぇひぇひぇ!!??」
 ほっぺにちゅ、ならぬ、ほっぺをぎゅ。沸騰しすぎて飛び上がった環の渾身のつねり攻撃が炸裂して、雨露きらめく街中に貴明の悲鳴がこだまする。

   『あーあ、また言えなかったな――』

   『でも、…ま、いいか』

 言いそびれた言葉は時を駆ける想い。
 遥かな時を駆ける、小さな胸に咲いた恋の花。

 それはまだ咲ききらない蕾だけれど
 それでも――

「や、やめ、いひゃい、いひゃい! やひぇ、やむぇて!」
「やめないわよ、バカ!」

   『いつかきっと――ね』

 春を舞う桜風は恋の色。
 雨の向こうに架かった七色の虹を含ませて、少女の恋を運んでいく。

 輝く季節はもう、すぐそこで待っている。



 ――――――――――終わり



引用:
「Seven Rainbow」 作詞:坂井泉水  …ミニアルバム『ときめきメモリアル SOUND BLEND 〜featuring ZARD〜』所収


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