雨に歌えば 〜Story of ring in YUKI〜
第二回葉鍵板最萌トーナメント出展作品
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   ※


 ――見つかった?
 ――…ない。…なくなっちゃった…。
 ――そ、そっか。
 ――ごめんね…ごめんね…せっかく…
 ――い、いいよ、ほら、あのくらい…。
 ――そんなこと無い、それに…それに、あれは、初めて…


  1


 街行く風が、木々の葉にうっすらと露の化粧を運ぶ季節。6月の歩道を彩る雨傘の中に、二つ並んで仲良く歩く二人の高校生は、そこだけ春の陽射しをまとったように楽しげにステップを踏んでいた。初めの頃は恥ずかしそうに視線をそらしていた、すれ違う人々の微笑ましそうな視線にも今ではすっかり慣れっこで、晴れた日には空いている手を絡ませて歩くのも、もう約束された習慣のように当たり前のことになっている。
「今年の紫陽花は、青い色になるでしょうか?」
 二人のうちの一人、歩道の内側を歩いていた少女が、脇に茂った紫陽花の植え込みを眺めながら、ふとそう呟いた。「雨が多いですしね。咲くのが楽しみです」
 そう言って、少女は深い色の瞳を、隣を歩いていた少年に向けて淡く微笑んだ。雨の匂いを少しだけ含んだ長い黒髪が印象的な、整った顔立ちの少女である。すらりと細い身体に桜色のセーラー服をまとい、少し短めのスカートから健康的な脚が伸びている様は、道行く人々が思わず見蕩れてしまうほど魅力的だった。美少女、という言葉がよく似合う。
「青…って、紫陽花って、そうか色が変わるんだっけ?」
 少女の言葉の意味を捉えかねたのか、少年は自信無げにそう応える。濃い目の栗色の髪、大きめの瞳。もう少し背を低くして、顔立ちをほんの少し丸くすれば、まるっきり女の子に見えるであろう、童顔の少年だ。頼りがいのある好青年、というより、可愛がってあげたい男の子、といった風情である。
「ええ、そうですよ。紫陽花は、雨の量によって色が変わるんです」
「へぇ?そうなんだ。自然に色が変わるもんだと思ってたよ」
「何もしなくても変わりますけど、一番の要因は雨なんですよ。もっと正確に言うと土が酸性か、アルカリ性かによるんです」
「リトマス試験紙?」
 思いついた単語を口にしただけだったが、少女は我が意を得たりと頷いた。
「ええ、そうです。色は逆になりますが、ちょうどそんな感じですよ。雨がたくさん降ると…土は酸性になって、紫陽花の色を青く染めるんです。逆に雨が降らないと、土中の塩分が上ってきてアルカリ性になるので、赤く染まるんです」
「へぇ…知らなかったなぁ。草壁さん、花とか詳しいんだ?」
「詳しいというほどでもないんですけど」草壁さん、と呼ばれた少女――草壁優季は、照れたように頬を赤く染めて謙遜する。「だって、面白いじゃないですか。まるで…人間みたいで。そう思いませんか? 貴明さん」
「人間みたいって? そうだなぁ…今の草壁さんみたいに、赤くなったりとか…うん、確かに人間みたいかもね」
 貴明さん、と呼ばれた少年――河野貴明は、悪戯っぽく微笑んで、優季をからかう。
「も、もう…からかわないでください。そうじゃなくて…いえ、そうでもある…のかもしれませんけど」ぷっと頬を膨らませて怒った振り。こんなやり取りが幸せなものになって、1ヶ月が経った。「雨が降って青くなる…なんだか寒いな、寒いな、って言っているみたいじゃありませんか? 逆に、雨が降らないと、暑いな、暑いな、って言って赤くなる…」
「ああ、なるほど…」
「今年は雨が多いから、きっと…紫陽花さん、少しだけ寒くなっちゃうかな?」
「そうかもね。暖かくしてあげれば、赤くなるんじゃない?」
「ふふ、じゃあ…湯たんぽを用意して、傍において上げましょうか? それとも、カイロでしょうか?」
「ストーブもいいかもね。ああ、でも雨が降ってる中だと危ないか」
「じゃあ、おコタを出しましょう。みかんを載せて、テレビを見るんです」
「紅白歌合戦?」
「そうそう! 年越し蕎麦は、ゆく年くる年が始まるまで、食べてはいけませんよ?」
「今年はどっちが勝ったんだっけ?」
「え? 白組…でしたっけ? 赤だったかな」
「はは、草壁さん、今年はまだ紅白やってないよ」
「え? あ…、もう、貴明さん!」
 色取り取りの雨傘が、歩道を飾る。街行く風が、木々の葉にうっすらと露の化粧を運ぶ中、幸せな笑い声は、いつまでも続いていく。
「ねぇ、貴明さん。雨の日って…とっても楽しいですよね?」
 そぼ降る雨の音を眺めながら、優季はそっと貴明に問いかけた。


  2


 晴れた日にはカラフルな装いが笑いさざめき合う駅前のカフェテラスも、雨とあっては店内に引っ込まざるを得ないようで、いつもよりも広く感じられる店先には、雨に濡れたテーブルと椅子が、誰かが座るのを待っているかのように佇んでいるばかりである。
「貴明さん、覚えてますか?」
「え? 何を?」
 カフェの前に差し掛かったとき、ふと優季が貴明に問いかけた。
「小学生の頃…私が、まだ『高城さん』だった頃…。一度だけ、このカフェで、貴明さんと紅茶を飲みました。覚えてますか?」
「え、あー…」
 そんなことあっただろうか?と、貴明は記憶のそこを手探りしてみる。が、どうにもそんな記憶は見当たらなかった。こんなところで…小学生がお茶をしたら、それが例え女の子と一緒でなくても、覚えていそうなものなのだが。
「ふふふ…判りませんか? ヒントは…夏の日、ですよ」
「夏? 夏…」
 その時、ぽっと心の中に浮かんだ風景があった。
「駅前の…夜店…」
「……」
「ああ、そうだ。思い出した…。確か、駅前の七夕祭りで」
「ぴんぽん。当たりです。まだ、転校することも、両親が離婚することも決まっていなかった頃…。七夕祭りに遊びに来ていた貴明さんと、偶然会ったんですよ」
「そう、思い出したよ。たしか、商店街の提灯や幟で飾られて…たぶん、カフェに見えなかった。草壁さんに言われるまで、あれがここだって判らなかったんじゃないかな。頼んだ物だって、僕は確か紅茶じゃなくて…」
「ええ、貴明さんは、コーラを飲んでいましたよ」
 懐かしそうに、優季は目を細める。
 もう5、6年前になるだろうか。まだ小学生だった頃、貴明は幼馴染2人と一緒に、七夕祭りに遊びに来ていたのだった。
 たくさんの夜店、通りを埋め尽くした人、街灯と街灯をつないだ提灯の群れは、いつも見慣れた駅前の風景とは別世界で、親から特別にもらったお小遣いをポケットに入れた子供たちは、この日ばかりは帰る時間を気にせずに、夜空の下を駆け回ることができた。
 貴明たちも、周りの子供たちと同じように、こういう時でしか見られない夜店の屋台を次から次へと見て回り、金魚すくいや射的に興じていた。
 しかし、そんな楽しい時間の中で、いつの間にか貴明は他の2人とはぐれてしまっていた。落とした100円玉が人波の間を転がっていき、それを追いかけている内に、2人がどこかへ行ってしまったのだった。
 いつもなら、2人の幼馴染の片方がこなしている役割を自分が演じることになってしまい、どうしたものか途方に暮れている時、たまたま同じように遊びに来ていた優季が、朝顔柄の浴衣にカラコロと色下駄の音を響かせながら、貴明の前に現れたのだった。
 その後、……きっと、照れくさかったからだろう、ぎくしゃくと通り一遍の挨拶をした後、お互いが何か上の空で、ぼんやりとした明かりの下でにぎわう夜店の間を、どこへ行くともなく歩き…そして、このカフェテラスへと腰を落ち着けたのだった。貴明はコーラ。優季は、覚えたてのミルクティーを頼んで、夜のカフェテラスで向かい合っていた。
「あの時…貴明さんは、あんまりコーラを飲もうとしなかったですよね。せっかく頼んだのに…ストローには、あまり口をつけないで」
 熱い紅茶を、火傷しないようにふーふーと冷ましながら、ちょびちょびと口に運んでいく優季とは対照的に、貴明はなかなかコーラを飲もうとせず、ついには半分以上も残したまま、席を立つことになったのだった。
「なんか…恥ずかしくてさ。草壁さんは紅茶で、大人っぽくて。でも、自分はジュースなんか頼んでさ。…その上…草壁さんは、浴衣で、いつもと違ってて」
 少年の目に、浴衣の少女はそこだけ映画の中から切り取ってきたかのように、幻想的に映っていた。振り返って自分はといえば、お仕着せのTシャツとジーンズのセット。はき潰したシューズは泥で汚れていて、お世辞にもカッコ良いとは言えなかったし、まして大人っぽさなど微塵もない。思えば、自分の服装を子供っぽいと認識した、それが最初の瞬間だったのかもしれない。
 かてて加えて、目の前の少女は、自分の知らない飲み物をたしなみ、小さな口を美味しそうに綻ばせている。コーラと紅茶。今なら別にどうということもないが、小学生の自分には、自分と相手の歴然とした差に思えたものだ。
 ちなみに…、誰にも話したことはないが、貴明がコーヒーをブラックで飲むようになったのは、この一件が発端になっているのだった。
「そうだったんですか…。でも、ちょっと意外です」
「え?」
「ふふっ、貴明さんは…ちょっとプレイボーイなのかな、って思ってましたから」
「はぁ!? なんで? どこが?」
 驚いて聞き返す。そんなことを言われたことは、生まれてこの方一度も――ひとりだけ、似たようなことを言う悪友・向坂雄二がいたが――なかったからだ。
「そうですね、例えば…朝、登校している時、放課後に帰る時…いつも、女の子と一緒でした。下級生の小さな女の子」
「このみのこと? あれは…」
 このみとは、子供の頃からいつも一緒に遊んでいた4人組のメンバーの内の一人。いまでもずっと仲の良い、幼馴染のお隣さん――柚原このみ。
 あの頃、4人組が1人減って、3人組になった。その1人減った女の子――向坂環を姉のように慕っていたこのみは、彼女が転校してしまった後、前にも増して寂しがり屋の泣き虫になってしまい、授業中以外と、このみが同学年の友人と遊んでいる以外の時間は、ずっとこのみに付きっ切りでなければいけなくなっていたのだった。
「それに、雄二だって一緒だったし」
「ふふふ、知ってますよ…。プレイボーイだな、って思ったのは…その後です」
「後?」
「覚えてませんか?」再度、優季は問う。「あの夏祭りの夜…貴明さんは、私にプロポーズしてくれたんですよ?」
「なっ、……えええええ!?」寝耳に水。プロポーズとは不穏でない。いくらなんでもありえない。自分はまだ小学生で…。「いや、えっと、プロポーズって、だって。ちょ、ちょっとまって、えっと…」
 懸命に記憶の底を辿って、優季の言葉に該当するエピソードを探る。しかし、どれだけおもちゃ箱をひっくり返してみても、そんな思い出は転がり落ちてきそうにない。
 頭を抱えている貴明を面白そうに優季は眺める。実は…プロポーズといったのは、彼女の茶目っ気たっぷりの誇張である。本当は、もっと微笑ましいものだ。
『確か…このテラス。このテラスの、駅寄りのテーブルで…』
 思い出のテーブルの位置を、優季は現在のテラスに探す。テーブルの形は変わっていない。これで配置が変わっていなければ…、それは、きっと――。
「あら?」
 ふと、テーブルのひとつに目を留める。より正確には、テーブルの下、だが。
「貴明さん…猫がいますよ」
「え?」
 カフェテラスの端。駅寄りの通りを望むテーブルの下に、一匹の猫が鎮座ましましていた。つやつやとした黒い毛が背中を覆い、胸のところだけ綿飴を貼り付けたように真っ白な猫。香箱を作るでもなく、雨に濡れたカフェテラスのテーブルの下、4つ脚で佇みながら、どうやら貴明たちをぼんやりと眺めているようだった。
「こっちを見てますよ? ふふ、女の子かしら。貴明さん、プレイボーイだから」
「だ、だから、違うって!」
「ほら、ちっちっち…」
 抗議する貴明を横に、優季は少し腰を折りながらそっと猫に近づき、コミュニケーションを図る。あわよくば、背中を撫でてやろうという魂胆である。猫との距離は、さしずめ5メートルほどだった。
「怖くない…怖くないですよ」
 猫は、じっとそんな彼女の様子を見ている。何を想っているのだろうか、身じろぎひとつせず、猫脚になってこちらを誘惑している人間を眺めていた。
 ふと――そんな1人と1匹の様子を見ていた貴明は小さな違和感を覚えた。それは――
「あっ…」
 もうあと30センチほどに迫った時、優季の手をするりと抜けるように、猫はたたっとテーブルの下から出て行ってしまった。
「あらあら…フラれてしまいましたよ?」えへ、と舌を出して、貴明の方を振り返る。「やっぱり、女の子だったのかな?」
「もう…だから、俺はそういうんじゃ…」いくらなんでも、猫を誘惑したことはないはずだ。猫っぽい幼馴染なら知っているが。「…って、あれ? まだ、こっちを見ているね」
 見ると、テーブルからでて少し先の歩道に佇んで、猫はまだこちらをじっと見ていた。
「警戒されちゃったかしら? ソーセージか竹輪でもあれば良かったんですけど…」
「もう追いかけないの?」
「一度逃げられちゃいましたからね。あんまり付きまとったら可哀想です」
「そっか…。じゃ、もう行こうか。猫も落ち着かないだろうし」
「ええ」
 そう言って、二人はまた並んで、帰途に着こうとした。…が。

  ――ナーオ…

「え?」
 一声…通りに響くように大きく、猫の鳴き声がした。
 振り返ると、先ほどの猫がまだ、じっとこちらを見ている。そして…

  ――ナーオ…

 と、またひとつ鳴いて、そして身を翻して数歩その場から離れ…また、こちらを振り返り、二人をじっと見詰める。
「貴明さん…。もしかして、呼ばれて…いるんでしょうか?」
 雨の降り続く駅前商店街。水たまりに跳ねる雨脚は、一時期よりは幾分か和らいだとはいえ、まだそれなりに音を立てている。傘の端からぽつぽつと滴り落ちる雨雫は、守られた空間から外に出れば、ポットのお湯が沸くくらいの時間で濡れ鼠にしてくれることを確約してくれているようだ。
 そんな中…黒い猫は身じろぎひとつせず、丸い瞳を迷える高校生に向けて、何を想っているのかじっと…ただ、じっとそこに立ち尽くしている。

  ――ナーオ…

「はは、まさか…」
 笹森会長じゃあるまいし…と、強制入部させられている研究会のことを口にしようとして、貴明は口をつぐむ。やはり…違和感が、貴明の胸の内に湧き上がったからだ。
 それなりに人通りもある商店街。
 歩道からよく見えるカフェテラスの、目立たない場所に設置されているわけでもないテーブルの下。
 決して物陰でもない、雨が打つ歩道の途中。
 それなのに…
 通りを行く人々は、そこに猫がいることなどまるで見えていないかのように、
 ある者は友人とさざめきあい、
 ある者は雨に濡れながら、
 ある者は急ぎ足で、
 ただ、通り過ぎていくだけなのだ。

  ――ナーオ…

 またひとつ、あの黒い猫の呼び声。
 四度目の鳴き声がまだ尾を引いている中――二人の足は、黒猫の誘う道へとその歩を進めていた。


  ※


 買ってもらった朝顔柄の浴衣と、履きなれない色塗りの下駄。
 よく晴れた夜空に浮かぶ月明かりと、薄ぼんやりとした提灯の明かり。
 友達と一緒に歩くカラコロと小気味よい足音は少しだけ照れくさくて、
 人波の間に、あの子の横顔を見つけた瞬間、思わず顔を伏せてしまった。
 ――ほら、優ちゃん。河野くん、いるよ?
 ――でも、でも…
 ――あたしたちのことは良いからさ、ほら
 ――でも、私、浴衣で…恥ずかしいよ
 ――大丈夫だよ、優ちゃん、凄くかわいいよ
 結局、おませな友人に冷やかされながら、カラコロという音とともに、少年の前に押し出された格好になる。
 ――あっ…
 ――あれ…高城さん?
 ――あの、あの…
 何を話していいものか、言葉が出てこない。
 それに、目の前の男の子も、自分の名を呼んだきり、その後を続けない。
  やっぱりヘンなんだ――
 買ってもらう時には、夢のように可愛いと思った浴衣。
 でも、大人のお姉さんが着ているならともかく、子供の自分にはきっと似合わない。
  ほら、河野くんだって、何を言っていいのか困ってる――
  もっと、普通のカッコにしておけばよかった――
 後悔の言葉が、少女の中を渦巻く。
 もう逃げ出そうか、そう思い、来た道を戻ろうとした、その時、
 ――浴衣、着てるんだ
 少年が、一言、そう言った。
 ふと見ると、微妙に視線を外した少年の耳が、ほんの少し赤くなっているのが見えた。
 ――似合う、かな…
 自然と、少女の口から言葉が紡がれる。
 少年は、何も言わなかった。何も言わない代わりに…はっきりと、首を縦に振った。
 それだけで、少女は――
 きっと、今日一番であったろう、こぼれるような笑顔を、少年に向けた。


  3


「『不思議の国のアリス』では…」決して駆け足になるほど速くもなく、かといってゆっくりと散策するというような風情でもなく、一定の速度を保ちながら、時には振り返りつつ進んでいく猫の後を追いながら、優季がふと呟く。「忙しそうな白ウサギを追いかけて、アリスは不思議の国へと迷い込んでしまうんですよね」
「白ウサギ?」
 『アリス』を読んだことのない貴明には、忙しそうなウサギというイメージがよく判らなかった。
「上着のポケットから懐中時計を出して、『たいへんだ、たいへんだ、遅刻してしまうよ!』と…。あの黒猫は、私たちをどこへ連れて行ってくれるんでしょうね」
「ワンダーランド…なわけないか」
「あら、そうですか? 私は少し楽しみですけれど…。トランプの王国、気ちがい帽子屋と三月ウサギのお茶会、身体が伸び縮みするお菓子、ハートの女王様とクローケしたり…。きっと、楽しいです。それに…」貴明を振り返り、目を細めて優季は笑う。「貴明さんとは、よく不思議の国へ行っていたようにも思いますけど?」
「いや、それは…そうかも」
 言われて、貴明は自分たちが辿ってきた、数奇な『運命的出会い』を思い出す。なるほど、確かに…優季とは、幾度か不思議の国へと迷い込んでいたのかもしれない。
「少なくともお茶会はしたね…。その、帽子屋とウサギはいなかったかもしれないけど」
「でも…猫が」
「え?」
 猫がどうかしたのか、と、貴明は前を行く猫を再度確認する。が、特に先ほどと変わった様子は見られない。
「猫がどうしたの?」
「いえ…。ふふ、なんでもありませんよ」
 会話する間にも、猫はすいすいと前に進んでいく。いつの間にか大通りから外れ、建物と建物の間、裏路地に入り込んでいる。
 もともと薄暗い路地は、雨模様の天気の下でさらに沈んでいる。そこかしこに、どこから飛んできたものか、アイスキャンディのビニール袋やら、コーヒーの空き缶やらが落ちていて、その間には、申し訳なさそうに雑草が少し、また少しと生えていた。切り取った空の隙間から落ちてくる雨を滴にまとった雑草から香る独特の匂いが、ふとここが住み慣れた自分の街であることを忘れさせそうになる。
 でも…と、貴明は思う。この見慣れない風景は、それでも子供の頃には、確かに自分たちの居場所として認識していたはずだった。
 今よりも低かった視線、今よりも敏捷だった感覚は、街の裏通り、家々を隔てる壁の向こう、体育館の裏、橋の下の草陰に、いつも自分たちの遊び場所を見つけていたものだ。
 神社裏の林の中、土手になっている箇所の少しくぼんだ空間に、段ボールや朽ちたベニヤ板を組み立てて"建設"した秘密基地。お小遣いを貯めて買った子供向けのエアガンや、駄菓子屋の軒先で売っているパチンコ。漫画雑誌やラムネの空瓶や、どこから持ってきたものか、大人が読むようなエッチな本も隠してあったあの秘密基地。タマ姉と呼ばれ、近所の悪ガキたちのリーダーであった向坂環にさえ教えなかった、男の子たちだけの秘密基地。その匂いは、確かに今かいでいる、この雨に濡れた草の匂い。
 いつ、忘れてしまったのだろうか?
「貴明さん」
 ふと、優季が呼ぶ。
「もしも、本当に不思議の国へ迷い込んだなら…貴明さんなら、どうしますか?」
「陽が暮れるまで、遊んでいようかな」すぐに貴明は答えた。「ごはんの時間になるまで、きっと、遊んでいるんだと思うよ」
 予想外の答えだったのか、優季はきょとんとした顔をする。しかし、やがてその答えの真意に気がつくと、目を細め、淡く微笑んだ。
「それは、きっと…素敵ですね」


  ※


 ――コーラ、飲まないの?
 ――え? 別に…
 ぼんやりとした提灯の明かりが飾るカフェテラスの端。駅寄りの通りを望むテーブルに着いて、少年はコーラを、少女はミルクティーを頼んだ。
 しかし、熱い紅茶を冷ましながら、それでも少しずつカップの中の温もりを口に運ぶ少女と対照的に、少年はストローの刺さったコーラをほとんど飲もうとはしなかった。
 つまらないのだろうか――、ふと、そんな不安が少女を襲う。しかし、少年はつまらなそうというより、どちらかというと『落ち着かない』といった風情で、なにか気になることでもあるのか、そわそわと脚を組み替えたり、テーブルにつく手を替えてみたりと忙しい。
 ふと、思い当たって少女は問う。
 ――今日は、1人できたの?
 ――え?
 ――いつもいっしょにいるお友だちは?
 ――あ、えと、はぐれた。
 ――え? じゃあ…探さないと。
 しかし、少年は「いい」と首を振る。
 ――でも、みんな探してるんじゃ? それに、河野くん…さっきから、そわそわしてる。
 ――え?
 ――気になるんでしょ?
 ――そういうわけじゃ…。
 ――私のことは、いいから。…ね?
 しかし、少年はやはり「いいよ」と首を振り、そして、さっきから口をつけなかったストローを加えると、ずずっと中身を吸い込んだ。
 ――まだ…コーラも残ってるから。
 何が少年をとどめているのか、少女にはわからなかった。けれど…一緒にいてくれるということは、単純に彼女にとって幸せなことだった。だからその後はもう、その話を持ち出すことはなかった。


  ※


 裏路地を抜けると閑静な住宅街が広がっている。通る者のない夕刻の住宅街は、時が止まったかのように静かにその身を横たえている。
 そんな中、黒猫は相変わらず一定の速度を保ちつつ、迷いを感じさせない足取りで何処かへと向かっているようだった。
 もうどのくらい歩いたものか、道路脇にできた水たまりをたたく雨脚は、先ほどよりも幾分か和らいで、傘を打つ雨の音も穏やかになっている。
「どこまで行くんでしょうか…」
 再度、猫が家と家の間に伸びる裏路地に入り込んだところで、少し不安になったのだろうか、優季が貴明を振り返る。
「わからないけど」貴明にしても、猫の行き先など知りようはずもない。「まぁ、帰れなくなりそうなほど遠くじゃないよ。仮に隣町三つ越えたとしても、電車で帰ってこれるわけだし」
 幼い子供ではない。行動範囲は、猫のそれよりは圧倒的に広いのだ。
「帰れなくなるほど…。そうですね、今の私たちなら、どこへでも行けますよね。でも…」
「どうしたの?」
「子供の頃は…こんな所まで、探しに来なかったな…って」
「探しに? 何を?」
「さあ、なんでしょう?」
 言って、優季は微笑む。
「『女の子には、秘密がいっぱい』って?」
 優季がよく口にする言葉を、貴明は先手を打つように言う。しかし、優季は首を横に振ると、貴明の言葉をやんわりと否定する。
「ふふ…惜しいです。正解は…」
「正解は?」
「子供たちには、秘密がいっぱい…ですよ」


  ※


 通りを彩る屋台には、子供の好きそうな食べ物やおもちゃがたくさん並んでいて、さしずめ宝箱をひっくり返したような趣である。
 金魚すくいは言うに及ばず、焼きとうもろこし、ヨーヨー釣り、りんご飴、三角くじ、たこ焼き、誕生日占い、ベビーカステラ、輪投げ、じゃがバター。一つ一つは、そんなにたいしたものではないはずなのに、お祭りの時しか目にしないせいか、それら全てが何か夜空の星くずのように、素敵なものに思える。
 射的の的の人形だって――お祭りが終わって、家に帰ってみれば、そんなに珍しいものではないのに、なぜかその瞬間だけは魅力的に思えるのだ
 ――あの人形?
 エアガン…というよりは空気鉄砲とでも言うのか、仰々しい見た目の割には、ポンという音と共に威力のない弾が飛んでいくだけの射的のライフル。それを逆さにしてコルクを詰めながら、少年が問う。
 ――うん。いちばん上の、右から3番目…。
 期待と不安をない交ぜに、少女はお目当ての景品を指差す。  あの後――カフェでお茶を楽しんだ後、再び七夕祭りの中を廻っていた二人は、射的の屋台に目を留めたのだった。
 特にどうということはない、ありふれた射的の屋台。欲しい物があったわけでもないが、テーブルの向こうに並ぶ棚に載った景品を見ている内に、なんとなくひとつの人形に少女は目を奪われていた。
 タキシードを着て、手にはステッキを持ってすましている、デフォルメされた白いウサギの人形。それは、どこかおかしくて、どこか可愛くて…少女はじっと、そのウサギを見つめていた。
 ――欲しいの?
 ――え?
 ふと気がつくと、一緒にいた少年が自分を見つめて、何気なく問いかけていた。
 ――えっと、あの…
 少女は不意をつかれて言いよどむ。欲しい、と言ってしまったら、きっと少年は射的に挑戦するだろう。少女の知っている少年は、そういう男の子だった。でも…自分のわがままで、少年にお金を使わせるのはためらわれ、なんとなくそれを言い出せない。
 しかし、少年はそんな少女の回答を待つより早く、ポケットから硬貨を出して、店のおじさんに渡していた。
 ――もっと…もうちょっと…
 ぐーっと身を乗り出して、少年は空気鉄砲の銃口を、可能な限り人形へと近づけようとがんばる。
 あんまり前に乗り出しすぎて、向こうに落ちてしまうんじゃないだろうか? 男の子の行動力に慣れていない少女は、バランスを崩さないかとハラハラして少年の様子を見つめていた。
 ――だいじょうぶ? 気をつけてね…
 ――だいじょうぶ、だいじょうぶ…。よし、行けっ!
 少年がトリガーを引くと、ポン、という音と共に、銃口に詰められたコルクが人形めがけて飛んでいく。
 しかし、狙いよりも左にずれて、コルクは景品の間の何もない空間を素通りしていった。
 ――あっ。くそっ、ずれた。
 ――惜しかったね。
 実際にはかすりもしていないのだが、少女には素直にそう思えた。きっと、自分がやったら、まるきり見当違いの方向に弾は飛んでいくだろうことが予想できたから。
 その後、少年は狙いを修正して3回弾を飛ばしたが、いずれも左にずれた空間を、コルクは通過していく。残弾は、あとひとつきりになった。
 ――左にずれるのかな…。
 少年はそう呟いて、最後の弾を銃口に詰めると、今度は少し右寄りにずらして、狙いを定めなおす。
 ――この辺り…?
 その様子を、目を離さずに少女は見つめる。
 別に、人形が取れるかを気にしていたわけではない。
 いつになく真剣な少年の横顔。『かっこいい』と、少女は思う。
 ――当たれ…っ!
 ポン
 5回目の発射音。最後のコルクの弾が飛んでいく。
 しかし少年の期待とは違う弾道を、コルクは辿っていった。あまりに右にずらしすぎたせいか、弾道は人形の正中線より右に偏ってしまっている。
 ぱすっ
 コルクは、ウサギの左肩あたりに当たって、そのまま床へと落ちていった。
 ――あっ…あー…
 狙いが外れたことを確認し、少年があからさまに落胆した声を出す。
 しかし…次の瞬間、信じられないことが起きた。
 ぐらぐらとバランスを崩した人形が、ちょうど真横に倒れたのだ。いや、それ自体はそう珍しいことではないし、それだけであれば景品は貰えないわけだから、どうということもない。景品は、棚から落ちてはじめて手に入るのだから。
 しかし、人形の横にあった景品にウサギが持っていたステッキが命中したのだ。その衝撃で横方向に力が加わった影響で、そのもうひとつの景品はくるくるとバランスを崩し、見事、棚の下へと落下していったのだった。
 呆気にとられたのは少年だけではない、少女も、それから店のおじさんも、並んだギャラリーも、全員が呆然とその様子を見ていた。
 落ちたのが、お菓子や100円程度のおもちゃだったら、誰もそんなものを気にしなかっただろう。しかし…そこにあったのは、おそらくこの屋台でも1、2を争う高価なものだったのだ。本来、コルクで弾を当てるだけでは、到底落ちないように台座を重くした、つまりどうあっても取られたくない景品。
 それが落ちた。年端も行かぬ少年の手によって。
 おそらく、コルクの当たる衝撃よりも、人形の重量のほうが大きかったせいだろう、真横から力が加わったのも、想定外だったのかもしれない。
 店のおじさんは、ひとつ大きなため息をつくと、棚の裏に落ちたそれを持ってきて、少年の手に乗せる。
 ――ほら、このガキめ…。
 ――え、あっ…
 ――可愛い嬢ちゃん連れてやがって、おまけにこいつまで持ってかれちまうとはな。
 少年の手に載せられた、その景品。キラキラと輝いて、星の欠片のようだった。
 ――ま、悪ガキには過ぎたモンだが…連れの嬢ちゃんなら、そのうち似合うようになるかもな。
 少年の手に載せられたそれを、少女も覗き込む。
 ――けっ、持ってけドロボーだ。たまにゃサービスしてやるよ。
 それは、銀の光をその身体に、白の光をその瞳に湛えた、一輪の指輪だった。
 
  ※


 住宅街の裏路地は意外なほどに入り組んでいて、右に、左に、かくかくと曲がりながら予想外の距離を進んでいく。近所の子供たちの遊び場になっているのだろうか、時折見かける落書きが、並ぶ壁のそこかしこを飾っている。
「こんなところがあったんだな…」
 貴明は呟く。子供の頃、雄二やこのみ、環らと一緒に色々な所を遊び場にした。それこそ、この街で知らぬ場所などないというように。
「知っていたら…きっと、タマ姉あたりが率先して探検の舞台にしたろうなぁ」
「向坂先輩ですか?」
「うん、ガキ大将だったからなぁ、タマ姉は」
「貴明さんはよくそう言いますけど…私には、少し信じられない気もします」
 学校での環を思い出しているのだろう。優季は納得いかなさげにそう言う。
 無理もない。学校における向坂環は、圧倒的な存在感こそ昔のままとはいえ、立ち居振る舞いや言動は、悪ガキどころか、大人の女性さながらに洗練されている。
 一部の男子生徒からは畏怖の対象のように思われているフシもあるが、一般には――特に女生徒の大半には――世にも珍しい大和撫子として認識されているのだった。
「あんなに綺麗な方なのに…。知っていますか? 向坂先輩のファンクラブ、大盛況なんですよ」
「はは、まぁ…ねぇ…」
 それは知っている…。いや、むしろ、その手の話は、女子である優季よりもよく知っている。何度『向坂環について知っていることを洗いざらい吐け』と、強面の男子生徒に脅迫されたか知れないのだ。
 もっとも…聞かれるのは、環のことだけではなかった。
 貴明たちが2年生になった今年度、男子生徒の間では、ひとつのキーワードがまことしやかにささやかれていた。
 『三柱の頂神、降臨す』
 三柱(みはしら)とは「3人」の置き換えであり、頂神とは、4月に入って相次いで現れた3人の女生徒のことを指す。
 3年生の向坂環、1年生の柚原このみ、そして…2年生の草壁優季。
 彼女たち三人こそが、各学年に降臨した女神である――それが、今年度男子生徒のコモンセンスだった。
 そして、彼女たちに最も近く、あろうことかその女神の一人と付き合っている不届き者、河野貴明。
 色々な意味で男子に襲撃されるのが、すでに日課に近い状態の貴明である。環が周囲にどう思われているかなど、知らぬはずがない。
 逆に、女神と呼称される当事者の三人は、その評価について、自分たちが最も疎いのだった。
「まぁ…草壁さんも、その内わかるよ…」
「そうでしょうか…?」
 首をかしげて、優季は相変わらず納得いかないようだった。
 そうしている間にも、猫はどんどんと裏路地の間を抜けていく。
 いつしか、道は少しずつ広くなり、先ほどまでは広げた傘がやっと通るくらいだった道幅が、いまでは二人並んで通れるくらいにはなっていた。
 もう、ほとんど止んでいるに近い状態の曇り空。2人は共に傘をたたみ、肩を並べて猫の足取りを追う。


  ※


 ――これ…
 屋台を後にし、人通りの中にスペースを見つけて、少年は少女を振り返る。
 ――え…?
 少年の手に、先ほどの指輪。おもちゃの指輪ではない、大人の指を飾るための指輪。
 ――あげる。
 ――い、いいよ。それ…きっと、高いよ。
 本物か、それともイミテーションか…。子供の自分たちにはわからなかった。しかし、仮にイミテーションだとしても、ちゃんとしたお店で売っているようなものなら、それなりのお金を出さないと買えない。
 ――僕が持っててもしょうがないし。
 ――でも…
 なおも、受け取るように勧めてくる少年。しかし、以前、母親と立ち寄った宝石店で見かけた、信じられない桁数の金額が記載されたプライスタグを思い出すと、少女はとても目の前の指輪を受け取ることはできなかった。
 ――じゃあ…
 じれたのか、少年は次の瞬間信じられないことを口にした。
 ――捨てる。
 ――え、ええっ!?
 何を言うのか。せっかく手に入れた指輪を、あろう事か捨てると言い出したのだ。
 ――なんで、どうして?
 ――僕はいらないし…。指輪とか、持ってても付けないから。
 ――だ、ダメ、ダメだよ、そんなの。それは…
 ――じゃあ…
 少年は少女に問う。
 ――もらってくれる?
 ――こうの、くん…。ずるい、ずるいよ。
 ――ごめん、でも…高城さんに、指輪、もらってほしいから
 ――……え?
 少年の言葉は、喧騒に包まれて、聞き取りにくかったけれど…
 少女の耳に、それはいつまでもこだましていた。


  ※


 不意に前を行く猫がこちらを振り向いた。

  ――ナーオ…

 と、次の瞬間、猫はその身を翻して、突き当りの角を左に駆けていってしまった。
「あっ!」
 完全に不意を衝かれた格好で、二人は呆気に取られてしばらく動けなかった。
「あ…あ、追わないと!」
 一瞬早く我に返った貴明が、優季の手をつかんで猫の後を追う。
 道を左に折れると、緩やかにカーブした路地を猫が走っていくのが見えた。あわてて2人はそれを追いかけるように走り出す。

 ふと…貴明の脳裏に、いつかの光景が思い出された。
 あの日も、確か…こうやって、猫を追いかけていたはずだった。


  ※


 ――少し、大きいみたい…。
 何度かはめる指を替えながら、少女は指輪を眺める。
 子供の自分には少し輪が大きすぎて、どの指にはめても隙間ができてしまう。かろうじて、親指がちょうど良いような気もするが、せっかくの指輪を親指にはめるのは少しかっこ悪い。
 とりあえず、左手の中指に指輪をはめて、少女は少年にそれを見せる。
 ――えへ、似合うかなぁ。
 ――うん、似合うと思うよ。
 少年の言葉に、少女はめいっぱいの微笑みを返す。
 大きめの指輪。あしらわれた透明な石は清楚な光を放ち、少しだけ大人になったような気分にさせてくれた。
 何より…これは男の子にもらった、初めてのプレゼントなのだ。
 きっと、この日のことを、自分は一生忘れない。大人になっても、きっと。
 少女はそう心に誓い、宝物をくれた少年の顔をじっと見つめた。
 照れくさそうに、目をそらしている少年。
 いつか、この指輪の意味がかわる日が来れば、もっと素敵。そう少女は思う。それは夢のような、素敵な期待だった。

 しかし…幸せな時間は、あまりにも唐突に終わりを告げる。
 ――あっ…
 通行人の一人が少女にぶつかった。中年のおばさんだった。おばさんは彼女を一瞥したが、特に謝る事もなく、何事もなかったように行ってしまった。
 バランスを崩し、少女はたたらを踏む。かろうじて転ぶことはなかったが、しかし、開いた指から、指輪が外れて落ちてしまった。
 ――指輪が…
 あわてて拾おうとした、その時――何か黒いものが目の前を横切った。
 ――きゃっ…
 思わず少女は手を引っ込めた。そして、次の瞬間…黒いものが通り過ぎたその場所に、確かに落ちたはずの指輪が消えていた。
 驚いて、少女は振り向く。いま通り過ぎた黒いものが、指輪をさらっていったはずだった。そうでなければ、確かにそこに存在した指輪が消えるはずがない。
 はたして、そこには真っ黒な猫がいた。額と、足の先だけが白い毛に覆われた、一匹の黒猫。
 その口元に、きらりと光るものが見えた。猫が、指輪をくわえているようだ。
 少女と目が合うと、黒猫はすばやく身を翻し、雑踏の中に消えてしまった。

 その後、懸命に猫の行方を…指輪の行方を捜したが、ついに、消えてしまった宝物が見つかることはなかった。
 初めて男の子にもらった宝物。大好きな男の子にもらった指輪。
 それは、一匹の黒猫と共に…夏の夜の喧騒の中、何処かへと消えてしまった。
 

  ※


 カーブを抜けると、そこには小さな公園とでもいうようなスペースが開けていた。
 住宅街の中、たぶん、通り抜けの悪さから家の建つことの無かった空間。かわりにその場に設置されていたのは、子供が遊ぶためのバネ式遊具が何台かと、いくつかのベンチ、噴水を模した水飲み台がひとつ。
 猫は、水飲み台の隣にちょこんと座り、追いついてきた2人の人間を、またじっと見詰めていた。
「不思議の国…というわけでもないようですけれど」
 通りの突き当たりに開けた空間は、それなりに非日常の空気を纏いそうな雰囲気はあるが、不思議の国と言うほどのものではない。
「ここに何かあるんでしょうか?」
「さあ…?」
 猫は、じっと水飲み台の隣から動かない。
 変わった形の水飲み台だ。四角い柱が地面から伸びており、その四方の面に水道の蛇口が付いていて、子供たちが水を飲めるようになっている。柱は上に行くほど細くなっていき、ちょうど大人の胸の辺りの高さに、皿のようになった水溜めがある。子供が乗って遊べるほどの大きさは無いが、代わりに皿の中心から、水の出る口が突き出ていた。壊れているのか、緩んでいるのか、今もちょろちょろと水が溢れ出ていて、受け皿の端からぽたぽたと水が滴り落ちている。
 どこかに隠れているのであろうコックを開けば、たぶん、小さな噴水のような趣になるのであろう、そんな水飲み台だった。
 その横に、ちょこんと黒猫が座っており、何か言いたげに2人を見ている。
「あそこに何かあるのかもしれませんね」
 そう言って、優季が水飲み台に近づいていく。必然、猫にも歩み寄ることになるが、先ほどまでとは打って変わって、猫はもう逃げるような素振りは見せなかった。
「どうしたの? ここに、なにかあるの?」
 腰をかがめて、優季が猫に話しかける。無論、猫は何も答えない。
「見た所、何も変わったところは無いみたいだけど」水飲み台の周りをざっと眺めて、貴明は言う。「上の噴水口が壊れてるのかな、水が少し出てる。猫の水飲み場になってるんだろうね、きっと」
「直してほしいんでしょうか?」
「はは、まさか…水が出てるほうが、猫にとっては好都合だろうし」
 その後も周りを少し調べてみたが、特に変わったところは見られない。
「うーん…別に、何も無いみたいだね…」
 途方に暮れて、貴明は猫を見つめた。黒い猫は、済ました顔で何を言うことも無く、人間2人を見ている。
 …と、猫は突然、水飲み台を見上げたかと思うと、後脚にぐっと力を込め――
 たっ
 と、宙に身を躍らせ、人の胸の高さもあるだろう水飲み台の皿の部分に飛び乗った。
 皿に溜まった水で少し前脚が濡れてしまったのか、猫は縁のわずかなスペースで器用にバランスを取りながら、ぱっぱっと前脚を振って水を切る。
「わっ、凄い。猫ちゃん、凄いですね」
 猫の持つ身体能力に驚いて、優季は素直に感嘆の言葉を口にする。頭を撫でてやると、猫は嬉しそうに目を細めた。
「ナーオ…」
 一声、またあの声で猫が鳴く。
「え? なあに?」
 猫はおもむろに水面に前脚を突っ込んで、じゃぶじゃぶと水をかき回し始めた。それは、何か水の底をすくっているようにも見える。2度、3度、右前脚を左前脚に替え、また脚を替えて、見えない何かを取り出すかのように、じゃぶじゃぶと水をかく。
「…ちょっと見せて」
 優季たちの様子を見ていた貴明は、ふと思いついて水面を覗き込む。すると、猫はそれを待っていたかのように水をかくのをやめて、じっと貴明を見つめた。
 やがて、波立っていた水面が穏やかになり、皿の底…深さは20センチくらいだろうか、水底の様子が見えるようになった。
「……なにかある」
 水底の一番深い場所。ちょうど、噴水口の根元の部分に当たる箇所のすぐ脇に、何かきらりと光るものが見えた。少し陰になっていて、よく目を凝らさないと見えないが、確かに何か異質なものが底に落ちているようだ。
「何ですか?」
 優季も、水底を覗き込む。貴明よりも背が低いせいでよく見えないのか、背伸びしてそれを確認しようとしている。
「ちょっと待って、取ってみる」
 腕まくりをし、貴明が手を水皿の中に手を入れる。水面から見える光景と水の中の状態とに差があるのか、少し手を動かしつつ探っていたが、その内目当てのものに指が届いたのか、その動きが止まった。
「これだ」
 言って、貴明は腕を抜き、手にしたそれを掌に乗せて、優季にも見えるようにする。
「あっ…」
 最初に声をあげたのは、優季だった。
 見ると、信じられない、とでも言うような顔で、貴明の手に乗せられたそれをじっと凝視している。
「草壁さん、見覚えがあるの?」
 貴明が聞くと、優季はぶんぶんと彼女にしては珍しく、勢いよく首を縦に振る。
「見覚えだなんて…忘れるはずありません。だって、これは…」
 銀の光をその身体に、白の光をその瞳に湛えた――
「あなたが私にくれた、初めてのプレゼント、ですよ…」
 それは幼い日に、小さな男の子が小さな女の子に贈ったはずの、一輪の指輪だった。


  ※


 ――見つかった?
 ――…ない。…なくなっちゃった…。
 ――そ、そっか。
 ――ごめんね…ごめんね…せっかく…
 ――い、いいよ、ほら、あのくらい…。
 ――ううん、そんなこと無い、それに…それに、あれは、初めて…
 言って、少女は言葉に詰まる。
 それは、初めてのプレゼント。好きな男の子に初めてもらった、大切な宝物になるはずだったプレゼント。
 さっきまで、あんなに幸せだったのに、あんなに嬉しかったのに。
 ほんの些細なことで、いつもならどうってことない、小さなことで、それは、自分の手の中からするりと抜け落ちて、どこかへ行ってしまった。
 悲しくて、やりきれなくて、少女はぽろぽろと、ぽろぽろと涙を流す。
 さっきまで、あんなに幸せだったのに、あんなに嬉しかったのに――。
 なだめる少年の言葉も耳に遠く、少女は楽しげな夜祭の喧騒の中、ひとり、立ち尽くして泣いていた。


  ※


「そうか、これ、射的で取った指輪か…七夕祭りの」
「ええ、そうです。ほんの少しの時間しか目にしなかったけれど…私は、片時も忘れたことはありませんよ…」言って、優季は遠い目をする。「指輪は目の前からなくなってしまったから、だから、せめて覚えておこう、自分の心の中に、ずっと覚えておこう…って」
「……」
「あの後家に帰って、真っ先に、くずかごノートにその事を書きました。思い出せる限り、鮮明に絵を描いて。今でも、私の机の引き出しにしまってあります」
 それは、うれしかったこと、楽しかったこと、綺麗だったこと、おいしかったこと、ふと思いついたこと、そんな色々なことを忘れないように書き込んでいるノート。優季はそれをくずかごノートと呼んで持ち歩いていた。きっと、家には何冊ものくずかごノートが保管されているのだろう。
「まさか――こんなところで、再会するなんて…夢にも思いませんでした」
「それにしても、よく今まで誰にも見つからなかったもんだなぁ」
 あの時から、もう5年以上の歳月が流れているはずだ。その間、指輪はずっとこの水飲み台の底で、誰にも見つからずに息を潜めていたのだろうか?
「どうでしょう…ずっとここにあったのか、どこかを転々としてきたのか…でも」優季は水飲み台を眺めて言う。「ずっとここにあったとしても…気づかなかったことは、不思議ではないと思いますよ」
「どうして?」
「この水飲み台…お皿の部分が、少し高い位置ですよね。男の人なら…貴明さんくらいの背丈があれば、中を見通すこともできるけど、女の人は背伸びをしないと見えないし…それに、子供には多分水底まで見えない」
 事実、優季も背伸びをしながら、見づらそうにしていた。
「それに、水口からずっと水が漏れていたのだとしたら、この受け皿にはずっと水が溜まりっぱなしだったわけですから、余計に中は見えなかったんじゃないでしょうか? …いえ、仮に水口がどうだったとしても…わざわざここを覗き込む人が、いたかどうか。私たちだって、最初はここを見ようとはしなかったですし」
「そうだな…」言って、貴明は、今は優季の足元に座り込んで香箱を作っている猫を見た「この猫が、教えてくれたんだよな…」
 黒い猫…やつやとした黒い毛が背中を覆い、胸のところだけ綿飴を貼り付けたように真っ白な毛に覆われた猫。
「あの時の猫だっけ?」
「いえ…少し違うと思います。でも、そっくりですから…ひょっとしたら、あの猫の子供なのかもしれませんね。もしそうであるなら…親猫のイタズラを、謝りに来てくれたのかな?」
「…そうかもしれないね。でも…なんで、今日だったんだろう?」
「え?」
 貴明は思い出す。商店街のカフェテラスのテーブルの下、まるで自分たちを待っていたかのように、じっとこちらを見つめていた猫の瞳。
「雨に濡れて、寒かったろうに。どうして、こんな雨の日だったんだろう」
 しゃがんで、背中を撫でてやる。もうあがったとはいえ、雨の名残は猫の体中をびしょぬれにして、いまも少し寒そうだった。
「そうですよね…。晴れた日では、いけなかったんでしょうか?」
 それは、優季にも判らないようだった。首をかしげて、自分たちをこの場所に連れてきた不思議な黒猫を見つめる。
 何が、この子を駆り立てたのか…。
 しかし、その答えはすぐに判ることになった。
 ――『クロ! クロ!』
 辺りに、何事か呼ぶ声が響いた。
 振り返り、自分たちが来たほうを見ると、公園の入り口に一人の少女が立っていた。中学生くらいであろうか? ポニーテイルの髪がぴょこぴょこと元気そうな女の子だった。
「あっ、クロ! もう、こんなところで!」
 少女はそう言って、こちらに…正確には、優季の足元に座っていた猫のもとに駆け寄ってきた。
「今日はダメだって、言ったのに…ああ、もう!ずぶ濡れじゃない!」
 言って、少女はびっしょりになった猫を腕に抱えあげた。着ていた服が濡れて、少し黒ずんだ染みになったが、少女は特に気にはしないようだ。
「あの…」
 優季が少女に声をかけた。
「はい?」
「その子、あなたが飼っているの?」
「ええ、そうですけど…。クロちゃんと、遊んでくれてたんですか?」
 一瞬いぶかしげな表情を浮かべた少女だったが、悪い人ではなさそうだ、と一瞬で判断したらしく、すぐに人懐こい笑みを浮かべて、優季に聞いた。
「ええ、そうよ。クロちゃん、って言うのね?」
「はい、ノラのクロちゃん。可愛いでしょ?」
「え?ノラ? 飼い猫じゃないの?」
 驚いて優季が聞くと、少女はいたずらっぽそうに笑った。
「いえ、飼い猫なんですけど…この子、ずっと前に家に住み着いちゃった野良猫が、物置の中で産んだ子なんです。3匹も産んじゃって…でも捨てるのも可哀想だからって、親猫もいっしょに家で飼うことになっちゃたんですけど…。今でも時々、この子達がイタズラしたりすると『こら、ノラめ!』って言って叱るんですよ」
「へえ、そうなんだ…。ふふ、じゃあ、ノラのクロちゃん、ですね」
 微笑んで、優季は少女の腕の中に納まった猫の頭を撫でてやる。気持ちよさそうに、猫は目を細めた。
「それで、あの…言いにくいんですけど」
「なぁに?」
「明日…私たち、引越しするんです」
「…え?」
 予想外の少女の言葉に、優季も貴明もきょとんとする。
「父の転勤で…。ずっと遠くだから、あの…この子も、もうここには…」
「そうなの…」
「ごめんなさい」
 言って、少女は頭を下げた。
「あ、そんな、あなたが謝ること無いよ。それは仕方ないことだし、私たちが勝手にこの子と仲良くなっただけだから」
「うん、でも…。仲良しの子が、突然いなくなっちゃったら…それは、悲しいから」
 何か思うところがあるのか、少女は目を伏せてそう言った。
「この子の親…ミー子っていう名前だったんですけど、先月死んじゃって」
「え…、あ、そうなの…?」
「だから、やっぱり…いなくなったら、お姉さんたちだって、悲しいと思うから」
「…ありがとう。優しいんだね」
 優季は目を細めて、少女の頭を撫でた。きっと、他人の心の痛みがわかる子なのだろう。
「…ね、ひとつだけ、聞かせて?」
「はい、なんですか?」
「そのミー子ちゃん…。ひょっとして、額と脚だけが白い黒猫だった?」
「え?」
 驚いて、少女が目を見開く。
「知ってるんですか? ミー子のこと…。病気になってからずっと、家から出なかったはずなのに…」


  ※


 泣きじゃくる少女を前に、少年はどうしたらいいのか、途方に暮れていた。
 幼馴染の女の子がやはり泣き虫で、よくわんわんと泣いていたが…同学年の女の子に目の前で泣かれたのは、これが初めてだったのだ。
 なだめても、すかしても、少女はぐす、ぐすと泣き止まなかった。
 なんとかしてあげたい――
 心から、そう思った。
 目の前の少女の涙を、どうにかして止めてあげたかった。
 でも、幼い自分には、その方法がわからない。
 無力な自分が、恨めしかった。
 だから、思わず――正直、よく考えもしないで――大風呂敷を広げてしまった。
 ――新しいの、買ってあげるから!
 ――…え?
 ――い、今は無理かもしれないけど…大人になって、もっともっとお金持ちになったら…
 もう、必死だった。自分の言っていることの意味は、この時、少年には判っていない。
 ――きっと、ダイヤの指輪、買ってあげるから!
 ダイヤモンドは四月の誕生石…。
 それは、幼い日の、精一杯のはったり。
 買える保証なんてどこにも無かった。
 だが…その言葉が、少女の涙を止めるのに、どれだけの力を発揮したか…
 しかし、それすらも、この時の少年は知らなかったのだった。
 ただ、ひとつだけ…少女の顔が、ぱぁっと明るく輝いたことが、ただ純粋に嬉しかった。


  ※


「きっと、あの子には判っていたんでしょうね…」
 少女の腕に抱かれて帰っていった猫を見送った後、優季がぽつりとそう呟いた。
「今日、この日を逃したら…もう、私たちに会うことはないんだって。会えなかったら…あの指輪が、もうずっと誰にも見つからないまま、失われてしまうんだって…」
「そうだね…」
 貴明もうなずく。猫が人の心を理解するのか、それは判らなかった。けれども…あの猫が、自分たちのために、雨に打たれながらもこの場所を教えてくれたこと…それは、疑いようのない真実だと、そう思えたから。
「指輪…どう?錆びちゃってない?」
 優季の手に握られた指輪。ずいぶん長いこと屋外に放置されていたはずだ。
「そうですね…リングの部分が少し黒ずんでますけど…磨けば元通りになると思います」
「だいじょうぶなの?」
「銀の錆びは、実際には錆びじゃなくて、空気中の酸素などに反応して硫化水素が表面に浮き出ているだけなんです。だから…磨けば、元通りになりますし、それに」
「それに?」
「この石…腐食してないみたいです。ガラスやプラスチックじゃないんですね、きっと」
「え? じゃあ」
「お店のおじさん…悔しかったでしょうね…」
 ふふ、と笑って、優季は目を細める。あの時の、屋台のおじさんのことを思い出しているのだろう。
 貴明も、数年前の記憶を掘り起こし、あの時のことを思い出す。
 『――もってけドロボー』
 なるほど、確かにそう言いたくもなるだろう。貴明も、思わずくくっと笑いを漏らした。


  ※


 ――ほんとう? ほんとうに、指輪、買ってくれるの?
 ――ああ、ぜったいに! だから…もう、泣くのやめようよ
 ――…うん。わかった、わたし…ずっと、待ってるから

 
  ※


「さて…とりあえず、はめてみようかな」
 手の中の指輪をハンカチでこすって汚れを取り、優季は指を替えながら、指輪を試す。
「人差し指…中指…少し、小さいみたいですね。小指だとぶかぶかで、また落としちゃいそうです」
 左手の指、残るはあと一本。
「あらあら…そうなると、この指しかありませんね?」
「いや、そこは。それに、右手はまだ試してないよ」
「右手は、色々と作業するからダメです。左手じゃないと」
「そうかもしれないけど、だって」
 貴明の声を聞いているのかいないのか、優季はおもむろに左手の残る指に、指輪をはめた。
「あらあら…あつらえたみたいにぴったりです」
 最後の指に、銀のアクセサリーはぴたりとフィットしていた。
「どうします? これ…」
 言って、優季は貴明にそれを見せる。
 左手の薬指。約束のリングをはめるための指に、それは確かに白く輝いていた。
「どうしますって…それは、だって…」
「外したほうが良いですか?」
「え? そ、そう…かな?」
「…そうですか、私がここにはめるの、嫌ですか…」
 あからさまに優季が肩を落として見せる。
 それはどう見てもフェイクだと思うのだが、それでも貴明はあわてて弁明せざるを得ない。
「いや、そういうわけじゃないよ! ただ、だから、まだ早いって言うか、心の準備とか」
「嫌なんですか?」
 直球ストレート。絶妙のタイミングだった。
「嫌じゃないよ!」
「じゃあ良いんですよね?」
「……」
 三振。バッターアウト。いや、ピッチャーフライだろうか?
「では、貴明さんの許可も出たことですし」言って、優季は歩き出す。「そろそろ帰りましょうか?」
「はぁ…負けたよ」
 頭脳戦では、どうやら優季にはかないそうもない。いや、頭脳がどうとかではない。根本的に、男は女に勝てないように…そう、できているのだろう。
「あとひとつ…ま、出費が減ったと思えばいいのかな…」
「え? 何ですか?」
「さあね。子供には…きっと秘密がいっぱいあるんだよ」


  ※


 それは幼い日の約束。
 いつか大人になった時、果たされることを願った、夏の夜の夢。
 運命が、たとえ2人を引き裂くことがあったとしても…
 いつか、きっと、約束の指輪は、互いの指に輝くだろう。
 2人でひとつ。
 小さな男の子と、小さな女の子。
 幼い日の約束が、時を越えて、いつかきっと叶えられますように。


  ※


「あら?雲が…」
 公園に、赤い日差しが少しかかる。
 雨はすっかりあがり、途切れた雲間から、赤い夕日が顔を覗かせていた。
「…行こうか。そろそろ…ごはんの時間になるよ」
 猫が誘う不思議の国に、夕餉の香がかすかに漂い始める。
「あっ…」
 貴明は、優季の左手を取り、ゆっくりと歩き出す。


  ※


 ――じゃあ、行こう。今度は、綿あめ食べようよ。
 ――うん!
 少年は、少女の左手を取り、雑踏の中へとその身を躍らせる。
 カラコロと、可愛らしい下駄の音が響いて…
 二人の影は、夏祭りの人波の中へと消えていった。
 悲しみは胸に痛いけれど、それでも…
 いつか出会うであろう幸せは、確かな予感として、夜空の星に溶けていった。


  ※


「貴明さん…」
「うん?」
「雨の日って、とても…」
 アリスが川のほとりで目を覚ますように、夢のようなひと時は終わりを告げる。
 それでも…
 人は、また夢を見る。
 夜空に星を探すように。
 雑踏に黒猫と出会うように。
 夏祭りの夜に、想い人を見つけるように…
 生きている限り、誰かを想う限り、何度でも、何度でも、人は夢を見る。
 それは、とても――
「とても、運命的…、です」

 夕焼けに伸びた二人の影が仲良く並ぶ。
 それはいつまでも、いつまでも、
 赤く染まった雨上がりの街並みの中を寄り添うように並んでいた。
 そして、少女の左手には…
 幼い日の、夏の夜の夢が、
 いつまでも、いつまでも、きらきらと輝いていた。
 
 
 ――――――――――終わり


参考文献
『不思議の国のアリス』 著:ルイス・キャロル


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