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「恋に狂う」とは言葉が重複している
……恋とは既に狂気なのだ
――『シェイクスピアの女たち』著:ハインリッヒ・ハイネ
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今は授業時間。俺はそのことを思い出そうとして失敗する。
「どうした、うー……。顔が赤い。熱があるならベッドで添い寝してやるぞ……?」
今は授業時間。俺は無理矢理にでもそのことを思い出そうとして、やっぱり失敗する。
いや、無理だろ……
「うー、なぜそっぽを向いている。こっちを向くがいい。寂しいぞ」
るーこの声がやけに近くに聞こえる。
囁くような声。それだけなら内緒話をしているのかとも思えるが、実際にはそうではない。
なぜって、るーこが口を開く度に、彼女の吐息が俺の首筋をやけに温かく撫でていくから。
「その……、も、もうちょっと離れてくれると……」
「それはできない。離れたら、るーのお尻が椅子から落ちてしまう」
お尻、という単語がなぜか強調されていた。
あたかも、そこに何か凄い秘密が隠されてでもいるかのように。
「そ……そうは言っても……」
いったい――
いったいどうして俺はこんな状況に置かれているのだろう?
何がいつもと違う?
何がいつもと違っていた?
俺は、ぐるぐると音を立てて撹拌されている頭で、今日これまでに起こったことを思い出す。
朝は――、朝はいつも通りだったはずだ。
起きて、顔を洗って歯磨きしてトースト食べて、いつものように幼なじみのこのみを迎えに行って、雄二とタマ姉と一緒に登校してきた。
学校へと続く坂の途中で珊瑚ちゃん瑠璃ちゃんの姉妹と合流し、由真にマウンテンバイクで追いかけ回されながら校門に入ったところで久寿川先輩と挨拶し、昇降口で笹森さんにUFOについての講義を受けて、廊下を歩いていた草壁さんと談笑し、教室に入ったら愛佳がおろおろしていた。席についてしばらくしたところでるーこが教室に入ってきたが、その時はおかしな様子はなかったはずだ。
普段通り。いつもと同じ、普段通りだったはずだ。
我ながら妙に女の子とのイベントが多い気はするが、それはいつものこと。今日に限って変わった点は特にないと思う。
そう、そこまでは、いつもの通りの日常だった。
変化が現れたのは四時限目。昼前でお腹の音がうるさくなる世界史の授業、その開始一分後くらい。
それまで特に何ごともなく静かにしていたるーこが、教師が板書を始めた瞬間、突然立ち上がったのだ。
『黒板がよく見えない』
そう、彼女は確かにそう言った。
視力検査で両目とも二・○を記録し、百メートル先のサンマの値札すら読み取れるるーこが何を言っているのだろうと、教室にいた全員が思ったことだろう。
しかし、教師が何か言う前に、彼女は『席を移る』と有無を言わせぬ口調で宣言し、そして、やおら俺の席へとやってきた。
そして、状況をうまく飲み込めていない俺を手でぐっと押し、椅子から尻が半分ほどはみ出た頃合いを見計らって、るーこはその空いたスペースに自分の腰を割り込ませたのだ。
ひとつの椅子を分け合う二人。彼女がこの学校に転校してきた当初はしょっちゅうだった行為だ。
しかし桜が散る頃にはそれも少なくなり、夏の気配が濃厚になった最近では、移動するどころか、教室の後方から『るー、るー』という寝言ばかりが聞こえてくる有様。
それなのに、なぜいきなり思い出したように俺の席に来たのか、皆目理由が分からない。
問いただしても明確な応えは返ってこないし、教師や他の生徒はかつての如く『まぁ、るーこちゃんだからな』と、触らぬ神に祟りなしの体勢。
いや、まだそれだけならいい。以前のように俺の席で二人窮屈にしているだけならいい。それなら、まだ『るーこの気まぐれ』であきらめが付く。
今日が他と決定的に違っていたこと、それは――
ふわ……
――俺の脇腹の辺りから、るーこの体温が感じられる。
わずかに、でも確かに預けられた体重。
彼女は俺の右腕をわざわざ自分の腰に回させ、小さな隙間も許さないぞと決意表明するかのように、上半身を俺の身体に密着させていたのだ。
だから、彼女が小さく身じろぎする度、布越しに感じられる温かい感触もまた動く。
いつもはまるで意識することのない、ささやかな二つのふくらみも、今日ばかりはやたらとその存在を誇示してやまない。
「うー、緊張しているのか?」
「そ、それは……。そんなにくっつかれるとだな……」
「ふふ、おかしなうーだ。親愛の情は、触れ合いによって生まれることを知らぬわけでもあるまい」
くすくすと、おかしそうにるーこが笑う。そして、何を思うのか、さらにぐっと俺に体重を預けて身体を密着させる。既に『寄りかかられている』と言うレベルにまで達しているだろう。
いや、確かにるーこの言うことは正しい。それについて間違っていると言うつもりはない。
しかし、物には限度があり、人には節度があり、できれば女の子には恥じらいがあってほしいと思うのは、男のわがままだろうか?
まして今は授業中。勉学に励むことが第一義のこの時間、異性との触れ合いは御法度というか、男女七つにして席を同じくせずというか、ふにふにと何だか柔らかいのが当たってと言うか、薄い桜色の髪から漂う香りが理性を刺激してやまないというか、公園の土管で寝泊まりしているくせになんでこんなに石けんの良い香りがするんだろうというか、いや、そういうことじゃなくて、あの、簡単に言うと、神様助けてください。
「もっと……、くっついていいのだぞ?」
その声が、やけに艶めかしく聞こえたのは俺の気のせいだろうか?
「い、いや、遠慮し……」
「つれないことを言うな、うー」
やんわりと断ろうとした俺の言葉を、るーこが遮る。
「るーが嫌いか? るーにくっつかれるのは嫌なのか?」
それは……ズルい。
そんな風に言われて『嫌だ』と答えられる奴なんかいないだろ。
まして、るーこみたいな可愛い女の子から言われたならなおさらだ。
でも、だからといって『じゃあ』とくっつくわけにも行かない。そこまで勢いを付けるには、経験値と度胸が足りてない。だって、まだ学生なんだモン。
「そ、そう言うんじゃなくてさ……」
「ならば、もっとくっつくがいい。るーは寂しい」
寂しいって、るーこの口からそんな言葉を聞く日が来ようとは。
弱気な台詞なんて口が裂けても言いそうにないと思っていたのは俺の気のせいだったのか?
「冷たくするな、うー……」
小さくそう言って――
そっ……
俺の太ももに、るーこの手が乗せられる。
――――――ここから先は、「恋愛の才能 vol.1」本誌にてどうぞ
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