透明人間に告ぐ 〜後編〜
ミステリ研活動中!
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 透明人間みたいに どこでもゆける
 うらやましいだろ
 教室の中でも 廊下を走っても
 みんな見てないみたい

 なんて自由なんだろ 波のない海

         ――――「透明人間」(Peace of Mind所収) 作詞:稲葉浩志




     ※



 日差しはそろそろ斜めに傾き加減な午後の街路樹の下、向坂環は道行く通行人の視線が思わず釘付けになってしまうほど完璧な足取りで、学校へと続く道を歩いていた。派手な赤いセーラー服と、長い赤髪が風に揺れる様が、実に目にまぶしい。
「やっぱりおかしい…」
 と、学校へと続く坂道を上りながら、環は思わず独りごちる。頭の中にあるのは今朝の一連の出来事である。
 すなわち、学ランだけが宙に浮いている情景、姿がまったく消えてしまっている中での食事、そしていやに優しい言葉をかけてくる雄二――。
 ヘンな幻覚を見るほど体調を崩しているのかとも考えたが、ベッドに入ってしばらく、怠け癖のない環には耐えられないほど、活動への欲求が高まってくる。
 要するに、健康そのものなのだ。
 であれば、今朝のあの信じられない情景はなんだったのか?
 幻覚でないとすれば、現実だったと考えるしかない。
 もちろん、頭からそんなことを信じることが出来るほど真っ平らな脳みそはもっていないが、かといって自分が発狂しているなどと考えるほどお人好しでもない。
 何らかの理由があるはずだ。そう考える。
 それが何なのかはまだわからないが、必ず言葉で説明できる根拠がある。そして、おそらくは、その"根拠"について、弟は何らかの情報を持っているはずだ。環はそう確信している。
「あの雄二のことだもの…。ぜったい、私をからかって悦に入ってるんだわ」
 きっと、自分の知らない何かを知っている。
 悔しい話だが、今時の流行りものやエレクトロニクス関連の情報については、自分とは比較にならないほど情報量を有しているだろう。週刊の情報誌やテレビ番組は欠かさずチェックしているようだし、パソコンでインターネットも楽しんでいるようだ。
 翻って環はと言えば、ファッション誌は少し読むものの、いわゆる情報系の雑誌など開いたこともない。テレビと言えば時代劇とニュースしか見ないし、パソコンなんてマウスが何をするためのものなのかいまだに判らない。柚原このみに勧められて買った携帯電話でインターネットはできるようだが、字が小さくて目が疲れるので、電話機としてしか使っていない。
「きっと、姿が見えなくなる薬とか…電化製品とかが売ってるんだわ」
 もちろんそんなもの売ってるわけはないのだが、環の知識量では判断できない。
「まったく、せっかくのお小遣いなのにロクなもの買わないんだから…。もうお小遣いはやめて、アルバイトでもさせた方が良いのかしら…」
 ぶつぶつと文句を垂れながら歩く環。
 やがて、いつもの学校前の坂道を登り切ると、貴明やこのみ、雄二たちの待つ学校が見えてきた。
「あら?」
 と、ふと違和感を覚える。
 その違和感の正体にはすぐ気づいた。校門が閉まっているのだ。
「ヘンね…。どうして閉まってるのかしら」
 学校の正門および裏門は、朝の予鈴時には、遅刻者をチェックするために閉められるのだが、始業ベルが鳴る頃には再び開け放たれる。そうしないと、外来客が来た時に困るからだ。不審人物締め出しのためにずっと閉めたままというのは、小学校かあるいは中学校、そうでなければ、以前通っていた九条院のような名門校くらいだろう。
 とはいえ、閉まっているからといって引き返すわけにはいかないので、とりあえず正門のそばまで歩いていく。インターフォンはついていないが、鍵がかかっていなければ自分で開けて入れば良い話だ。
 ――と
「………?」
 環の耳に、何やら騒々しい喧噪が聞こえてきた。
 少し遠い――おそらくは、学校の校舎内からであろう。わーわーと、大勢の人が騒いでいる声が聞こえてくる。
 その瞬間――環の全身に、えもいわれぬ不安が駆けめぐった。
 閉まっている校門、騒々しい校舎、そして――姿のない雄二。
 まさかとは思う。いや、思いたいが――
 向坂環は少し首を振ると、やがて意を決したように校門の取っ手を掴んだ。



     ※



 さて、向坂環が校門前に現れた時刻から、遡ること15分――向坂雄二は消えてしまった自分の制服を求めて、校舎内をうろついていた。姿はもちろん消したままである。
「くそっ、ここにも無ぇな…」
 科目別教室棟の1階、技術工作室のゴミ箱の中を覗きながら、雄二がちっと舌打ちする。
 制服が無くなっていることに気づいた後、様々な場所を探し歩いた。まずは職員室の落とし物コーナーを確認し、そこにないことが判るや、自分の教室の机の中、更衣室のロッカーの中、クラブハウス、そして各教室のゴミ箱の中を確認して歩いた。
 見つかるわけにはいかないし、誰かとぶつかってもいけないので慎重にならざるを得ず、なかなかスムーズに探索活動が進まないのがもどかしいが、それでもすでに主要なところはあらかた探し尽くしてしまった。今は、次にどこを捜せばいいのかと途方に暮れているところである。
「あとは生徒会室か…」
 残っている探索先はほとんどないが、その中に生徒会室がある。他の候補が全滅に等しい今、あるとすればほぼ本命といえるほどの場所だが、先ほど言った時には何やらたくさんの生徒がひしめいていて、とても入れる状況ではなかった上、柚原このみの姿が見えたので慌てて別の場所に移動したのである。今の雄二にとって、このみは特Aランクの最危険人物なのだ。
「もういなくなってるかな…。あれから結構経ったし、もう一回行ってみるか?」
 他に行く当てもない。どの道手をこまねいているわけにもいかず、雄二はゴミ箱のふたを元に戻して、技術工作室を出た。今は1階のどの教室も使われていないのか、人の声もなく静まりかえっている。
「それにしても…」
 雄二はこれまでのことを何となく思い出す。
 朝方の姉とのやりとりに始まり、1時限目の放課時間から現在に至るまでの過程。最初は『透明人間の力を手に入れてラッキー』というようなことしか考えていなかったが、まさかここまで事態が悪化するとは夢にも思っていなかった。
 原因は自分のミスから始まっているとはいえ、あそこでまーりゃん先輩に突撃されなかったら、あるいは、裏庭の木の陰から制服が消えてしまわなければ、今頃食欲を満たしていい加減に眠くなった頭を午後の妖精に託して、夢でも見ていただろうに。
 それが今では、校門その他の出入り口はことごとくまーりゃん先輩の呼びかけに集まったボランティア兵に固められ、蟻の子一匹はい出る隙もない。たまにすれ違う生徒からは『ねーねー透明人間だってー』『やだー』などと噂されるし、この調子ならおそらくこのみには全てを悟られていることだろう。お人好しの幼なじみのことだから、頼めば姉には黙っていてくれるだろうが、お人好しと同等かそれ以上におっちょこちょいなのもまた事実で、何かの拍子に口を滑らせる可能性も濃厚だ。
「どうしたもんかなぁ…」
 途方に暮れる、とはまさにこういうことかと、自嘲気味に心の中で呟いてみる。なんのことはない、夢のような力を手に入れたと思いきや、こんな危険な自爆装置だったとは。世の中、悪いことは出来ないものである。
 とはいえ――ステルス能力自体は微塵も揺らいでいない。
 今も、次の授業のために機材を抱えて教室へと向かう美術教師とすれ違ったが、雄二の姿はまったく見えていないようで、こちらに気づいた様子は微塵もなかった。
 針の穴のような狭き道、糸を寄り合わせただけのような頼りない綱とはいえ、まだ逆転ホームランの可能性は閉ざされていないのだ。
 ――このまま誰にも見つからず、制服さえ手に入れて授業に復帰すれば――

 ――しかし
 ――歯車はとうの昔に狂っている
 ――いまさら哀れな愚者がどうあがこうとも
 ――抗える術は、すでに無かった

「あーーーーーーーっ!!!!!!」

 びくっ! と、あまりの大声に思わずその場で小さくジャンプ。驚いたなんてものではない。
 声のした方を見ると、現在の危険度特Aランク幼なじみ・柚原このみが雄二をびしぃっ!と指さしてこちらを凝視していた。
『なっ…チビ助!』
「あそこっ! あそこにいるっ!」
「え? ど、どこや!? どこにおるねん!」
 そこにいたのはこのみだけではない。貴明と、どういうわけか姫百合瑠璃までいて、みな一様に、このみの指さした方に目を向けながら――すなわち雄二がいるあたりを見ながら――厳しい表情をしている。
『ま、まずっ! つーか、チビ助の奴、バラしやがったな!』
「家庭科室の扉の前!」
「よっしゃ、まかしとき!」」
 かけ声一閃、瑠璃が猛スピードでこちらに駆けてくる。
 友好ムードはかけらもない。悪鬼羅刹のごとき形相で、全速力で迫ってくる。どうやら、話あいによる懐柔は無理のようだ。
『くっ…』
 あわてて、雄二は来た道を引き返し、反対方向へと奪取する。その瞬間――
「おぉりゃぁあああっ!」

 ぶぉんっ!

 それまで雄二のいたあたり、ちょうど頭があったあたりを、瑠璃の脚が猛スピードで通過していった。瞬間、風が逆巻いたほどの、凄まじい飛び回し蹴りだった。
『し、死ぬっ!?』
「くっ、このみ! おらんで! ホンマにおるんか!?」
「瑠璃ちゃん! もう逃げちゃってる! 向こうに走って行ってるから、追いかけて!」
「よっしゃ!」
「いやいやいや! 2人ともちょっと待って! ていうか雄二! いるなら待てよ! 俺たちは別にお前を捕まえに来たわけじゃ――」
 親友の貴明が何か叫んでいるようだが、そんなことに耳を傾けてはいられない。立ち止まったら、さっきの恐るべきフライング・キックによって、雄二のささやかな頭部が灰燼に帰すことだろう。
 来た道を逆方向に、全速力で走る走る。
 とはいえ、廊下の長さは有限である。すぐに突き当たりの技術工作室の扉の前まで来ててしまう。雄二は即座に方向転換をすると、あまり気は進まなかったが、階段ホールから階上へと昇っていった。逃げ道の選択肢が増えるわけではないが、この際贅沢は言っていられない。
「瑠璃ちゃん! 左! 2階に上がってった!」
「ああ、わかっとる! 足音が響いとるさかい、バレバレや!」
『そ、そうかっ』
 いまさらながら、雄二はそのことに思い至る。姿が消えているだけで、その他は一般人と同等なのだ。走れば当然足音が響くに決まっている。
『く、くそっ、このままじゃ…』
 2階の階段ホールから躍り出て右に曲がり、化学室や生物学室、物理室などが並ぶ廊下をひた走るが、走り続けていてもどうやら逃げおおせられる可能性は低そうだ。
 足音を追ってこられるし、であるならば、あのこのみからスピード勝負で逃げられる可能性は著しく低い。
『どうする?どうする?どうする!?』
 渦巻く脳髄。考えがまとまらない。ただひたすら本能だけで走る走る。
 ――と、そんな雄二の前に突然飛び出した影一つ

「こらぁっ!! 何を騒いどるかぁっ」

『なぁあっ!?』
 怒声一発。化学教師の梅田大樹が鬼の形相で教室から出てきた。このみと瑠璃、貴明の叫び声と、廊下を走る音を聞きつけて出てきたのだろう。
 とはいえ、タイミングが最悪すぎた。彼が出てきたちょうどその瞬間、ほぼ1メートルと言うところに、雄二が駆けてきていたのだ。
『だぁああっ!』

 どすん!

 と、重いものがぶつかる鈍い音が響いて、あえなく激突。
「おぅわぁっ!?」
『くはっ!!』
 そのままもんどり打って転倒。したたかに廊下に投げ出されて、危うく意識を失いそうになった。
 いや、実際、梅田先生の方は、何ら準備をしていないところにいきなり何かがぶつかってきたために抵抗できず、背中を廊下に強打して気絶してしまったようだ。
『くそっ! ヘンなところで出てくるんじゃねえ!』
 追いかけられている状況でまったくタイミングが悪いことである。
 しかし、横を見るとちょうど開いている教室の扉。
『行けるか?』
 とっさの判断で、雄二は化学室に飛びこんだ。このまま闇雲に走り回るよりも、煙に巻いた方が良いと判断したのだ。
 教室の中にいた生徒は、いきなり転倒した梅田先生の様子にきょとんとしていたが、雄二の存在に気づいたものはいないようだ。このままこのみたちをやり過ごせば、ひとまずの危機は回避され――
「あっ!化学室の中っ」
『だぁーっ! くそっ、なんで判るんだよっ!』
 どうやら期待は甘かったようで、飛び込んだ瞬間、追ってきていたこのみに看破されたようだ。まったくもってやっかいなことこの上ないこのみの眼力だが、今それに悪態をついていても始まらない。
 仕方なしに、化学室を横断して向こう側の扉から外へ出るべくダッシュを再開。机と机の間は生徒たちがいるものだから、やむなく実験中の器具が並ぶテーブルの上に飛び乗る。
 もちろん、器具をよけて走るなんて言う余裕はない。走り抜ける端から、試験管は飛ぶはフラスコは跳ねるは、化学室のテーブル上のささやかな平和は一転、阿鼻叫喚の大惨事に変貌である。
「う、うわっ! なんだこれ!」
「いやぁっ! ちょっと、なになに?」
「え?え? なに? ホントに透明人間がいるの!?」
「こぉらぁ! またんかいボケーっ!」
 追いかけてきた瑠璃やこのみも雄二を追いかけてテーブルに飛び乗っては、実験器具を蹴立てて走り抜けていく。マナーも恥じらいもあったものではないが、この場にそんなことを気にする人間など、すでに誰もいない。
 いや、一人だけ、河野貴明が後ろからこのみや瑠璃に落ち着くように連呼していたが、彼の存在感はこの場の勢いを止めるにはあまりにも薄すぎる。
「待てコラ、こんのヘンターイ!」
「瑠璃ちゃん気をつけて! 足もと! あ、あ、扉から外に!」
 突発性の竜巻のようにいきなり現れた闖入者たち。化学室を思うさま蹂躙し尽くして、彼らのバトルはまだまだ続く。



     ※



 数刻前――草壁優季たちミステリ研究会チームもまた、科目別教室棟に来ていた。音楽室の前から移動して、現在はLL教室の前である。いちばん奥から教室棟の3階にある生徒会室まで、戻ってくるように探索しようという優季の提案である。
「イルファさん、何か見えますか?」
 先頭に立って索敵を行っているイルファに、優季が声をかける。今まさに、サーモグラフィからの映像がイルファのCPU内で処理されている最中なのだ。
「まだ何も変わったものは見あたりません。ミルファちゃんの方でも、成果はないようです」
 現在、イルファの内部では二つの映像が同時に処理されている。すなわち、右目に実装されたサーモグラフィからの温度分布映像と、左目に実装された通常の光学カメラからの映像である。
 この両者を比較して、サーモグラフィの映像には出現しているものが、光学カメラの映像――要するに通常の視覚映像――になければ、透明人間が存在する可能性があるということだ。
 ちなみに映像データと演算結果データは、ワイヤレスネットワークを通じて珊瑚がオペレーションしているノートPCに逐次送信されており、また、そこにはミルファからの同種のデータも送信され、蓄積されている。
 そこからさらに、イルファ側にはミルファの、ミルファ側にはイルファのデータが転送されているため、この3ポイントで情報の共有が為されていると言うことになる。
「そうですか。やっぱり、簡単には見つかりませんね」
「でも、まだ始めたばかりですし、ひょっとしたらその内ひょっこりと現れ――」
 ――と

 『あーーーーーーーっ!!!!!!』

「!?」
 突然、遠くの方から誰かの叫び声が聞こえてきた。遠くとはいっても、おそらくは同一の建物内から聞こえてきているようだ。
「な、なに? 何かあったのかしら?」
「反響しているので正確ではありませんが、距離、約70メートル。声紋の分布状況から、おそらくは柚原このみさんの声かと思われます」
「このみちゃんの? え、でも、このみちゃんは、生徒会室で待機していたんじゃ…」
「!? 待ってください、これは…」
「ど、どうしたんですか?」
「瑠璃様!」
「え?」
「るりさまぁ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
 と、何やら黄色い声で叫ぶやいなや、突然だっと走り出すイルファ。前方の図書室――その直前にある階段ホールに飛び込むと、階下へと転がるように駆けていく。
「ちょ、ちょっとイルファさん!?」
「あ、まさか、透明人間が見つかったとか!? 優季ちゃん、るーこちゃん、あたし達も行くよ!」
「るー!」
「あ、ま、待ってくださーい!」
 慌てて、優季達ミステリ研メンバーも後を追う。
 3階から2階、そして1階へと降りていくと、そこから左に曲がって技術工作室の方面へと恐るべきスピードで走っていくイルファ。何が彼女をそうさせるのか、タコメーターはレッドゾーン振り切りで、スピードは緩む気配もない。
「るりさまぁ〜〜〜〜〜〜〜!!!! イルファが今参りますぅ〜〜〜〜〜〜!!!!」
 とにかく脱兎のごとく廊下を駆け抜け、技術工作室の前の階段ホールに飛び込むと、今度は階上へと昇っていく。一番下まで降りてきた意味があまりない。
「イルファさん! ちょっと待ってください!」
 優季の制止の声も空しく、イルファがスピードを緩める気配はまるでない。非人間的なほど速いわけではないので、脚力にそれなりに自信のある優季は何とかついて行けるが、3階から1階、廊下を一本縦断してさらに2階と全力ダッシュし続けるのはさすがに疲れる。背後に気を遣う余裕はないが、いつもの声が聞こえないところを見ると、少なくともるーこはかなり遅れているようだ。
「瑠璃様!」
 今度は2階の階段ホールから右へと進路を変え、理科系の教室が並ぶ廊下に踊り出る。その瞬間――

 ダァーン!

 と、大きな音を立てて、どうやら化学室の扉が廊下側に吹きとんだ。
「きゃっ! な、なんですか!?」
「あっ…!」
 と、一心不乱に走り続けていたイルファが突然立ち止まり、なにやら前方を凝視する。そして、思いもよらないことを口に出し始めた。
「さ、サーモグラフィと光学映像のデータが一致しない…」
「え?」
「推測体型種別ヒューマン。発見しました、透明人間です! 距離、約10メートル!」



     ※



『くっ、このっ…』
 何とか化学教室を縦断した雄二だったが、なんと教室後ろの扉の立て付けが悪く、なかなか開かないのだ。確かに、この扉の開きにくさは雄二も知っていたのだが、さすがにこんな状況で問題になるとは思っていなかった。
 そうこうしている間に、追ってきている瑠璃とこのみが迫る。
「瑠璃ちゃん、扉の前!」
「ああ、わかっとるよ。そぉりゃあ!」
『くっ!?』
 飛び回し蹴りを警戒して、とっさの判断でダッキングする雄二。
 しかし、読みが甘かった。今度の攻撃はジャンピング・ハイキックではなかった。
「真空飛び膝蹴りぃいいいいいいっ!」
 一瞬かがんだ姿勢の後、勢いよく天に向かって突き上がる右膝。前屈姿勢になった雄二の顔面のやや左から瑠璃の膝が迫り――

 バキィッ!

「ぐぇあ!」
 見事、雄二のほほに突き刺さるかのような真空飛び膝蹴り。文句なしのクリーンヒットだ。慣性の法則に従って、扉にたたきつけられ、そのまま扉ごと廊下に吹き飛ばされる。

 ダァーン!

「がはぁっ!」
「よっしゃ! 手応えあったで! 観念しいやこのヘンタイ!」
 廊下に転がった雄二を見下ろしながら――実際には何も見えていないのだろうが――、瑠璃がさらなる追撃をかけるべくファイティングポーズを取りなおす。
『こっ、殺される…!!』
 フェイドアウトしそうな意識を無理やり立て直しながらも、雄二は目の前の少女の剣幕に恐怖する。いつもいつも、瑠璃にキックされる貴明を『女の子とじゃれあえていいよなぁ』と羨ましがっていたのだが、それがどれだけ恐るべき勘違いであったかを彼はこの瞬間思い知った。
 しかし、開始された不運のパレードはまだまだこれだけではない。
「発見しました、透明人間です! 距離、約10メートル!」
『あ!?』
 聞き覚えのある声。その方向を見ると、こちらを凝視している少女の姿。姫百合家のメイドロボ・イルファだった。
『い、イルファさん!? ま、まずい、まさか俺のことが見えて…』
 痛む頬の熱さごと、雄二の顔から血の気が引く。普通の市販のロボならまだしも、珊瑚の手が入ったメイドロボではどんな機能を装備しているか知れたものではない。
『くそっ、チビ助だけでも頭が痛いっつーのに…』
 しかし、地獄に仏といおうか、そこにいたのがミルファではなくイルファだったのは、多少幸運だったかも知れない。なぜなら――
「あ、な、なんや、イルファ!?」
「あっ、瑠璃様!」
 雄二を追いかけてきていた瑠璃に、イルファの視線が留まる。
「るりさまぁあああああ! どうしてイルファを置いて行ってしまわれたのですかぁあああ!」
「だぁああああ! 来んなアホ! 今はそれどころじゃ…」
『気がそれた!? よっし!』
 愛しい人を目にしたイルファが、雄二のことなど眼中にないと言った具合に瑠璃に突進する。瑠璃はと言えば、突然現れたイルファの姿に、思考が追いついていないようだ。
 この機を逃す雄二ではない、即座に姿勢を立て直すと、そのまま廊下を走って逃げる逃げる。
「る、瑠璃ちゃん! 逃げちゃったってば、ねえ!」
「そ、そないいうたかて…。い、イルファ、離しいな! 逃げられてまうやんか!」
「イヤですイヤです! 離したら、どうせイルファを置いて逃げてしまわれるのでしょう!? そんなのイヤです!!」
「だからぁ! そんなこというとる場合やないっちゅーねん! 離せぇえええ!」
『よっしゃ! この隙に…!』
 いまだ痴話げんかの終わる様子のない二人と、それをなだめる追撃メンバーを残して、雄二は階段ホールから階下へと逃げようとする。
 ――が、彼の包囲網はまだ切れたわけではない。
『う、おぁっ!?』
 階段を下りようとした雄二の目に、踊り場でいままさに階上へと走ってこようとしていた桃色髪の少女が映る。
 イルファの妹機、ミルファである。その後ろにはゴッデス・オブ・卑怯と名高い先代生徒会長まーりゃん先輩に、クラスのいいんちょ小牧愛佳、加えて、なぜか隣のクラスの由真までいる。
 そして、足音を聞きつけたらしいミルファが雄二の方を見るやいなや――
「あっ! 映像が一致しない…ってことは…」
「なになに? どうしたのみーりゃん?」
「透明人間みーっけ! いま階段の上にいる!」
『だぁあああ!やっぱ見えてんのかよぉおおおお!』
 泣く泣く階下は諦めて、かといって来た道を戻るわけにも行かず、やむなく階上へと進路を変える雄二。3階へと向かって猛然と駆け上がる。
「あっ!逃げた! 3階!」
「よっし、追うよみんな! ミステリ研より先に捕まえて、見せ物小屋に売り払うぜ!」
『売られてたまるかぁ!』
 何やら物騒なことを叫んでいるまーりゃん先輩の声を背中に聞きながら、急いで3階へと上がり、階段ホールから左に曲がって廊下を走る。先ほどから全力疾走のしっぱなしで正直なところかなりつらい状況なのだが、捕まったらそれこそどんな目に遭わされるかわからない。
 早鐘のような心臓と、酸素不足で痛む肺を精神力で抑えつけながら、自由を求めてどこまでも全力疾走。
 あっという間にLL教室の前を横切り、前方にある階段ホール目指して走る。そこから一気に1階まで駆け下りて表に出られれば、逃げおおせる確率はぐんと高くなる。
 ――が、なんと目前まで迫った階段ホールから、先ほどまで痴話げんかの真っ最中だったであろうイルファが躍り出た。
『なぁっ!?』
「発見しました! 前方7メートル!」
「え!? どこどこ!?」
 イルファに続いて、貴明が所属しているミステリ研の会長・笹森花梨の姿。その他、このみに瑠璃に貴明に、同じクラスのるーこ・きれいなそらに、小学生の頃の同級生だった草壁優季までいる。おそらく、ミルファ達が雄二を追っていったのを見て、反対側から回り込んできたのだろう。
 いくらなんでも、この人数このメンバーが相手では突破は不可能だ。つんのめりそうになる姿勢を全力でこらえて、逆側へ逃げようと引き返す雄二。
 しかし――
「あっ!こっちに来る!」
 前門の狼に、後門の虎。逆側からはミルファたち別働隊が迫ってきていた。イルファ側に比べれば数は少ないが、それでも突破は難しいだろう。
『挟まれた!?』
 追い込まれた劣勢。しかし、それを嘆く暇もなく、両陣営がじりじりと雄二に迫ってくる。
『くっ…!』
 しかし、実際には雄二はそれほど窮地にいるわけでもない。なぜならここは校舎を横切る廊下のほぼ中央であり、そして科目別教室棟に限り、普通教室棟には1階のみにしかないあるものが、2階3階にも建てられているのだ。すなわち、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下である。
 迷っている暇も理由もない。彼はすぐに方向転換すると、渡り廊下を向かい側の校舎めがけて全力疾走で駆けだした。
 追われるものと追う集団。宴の幕はまだまだ降りない。



     ※



「はやぁ〜…。ホンマにおったんやなぁ〜…」
 ノートパソコン のディスプレイ、いくつか開いたウィンドウの中に映し出されている各種の映像と、何かの解析結果を示しているらしいデータ類を見ながら、姫百合珊瑚が感嘆の言葉を漏らしている。
 久寿川ささらはそんな様子を見ながら、この状況が夢でも幻でも何かの冗談でもない、現実に起こっている事件なのだと言うことを再認識した。まったく頭の痛いことこの上ない。
「すごいで久寿川先輩、ほら、ほら、これぇ」
「そうね…。前代未聞…と言うべきなんでしょうね、きっと…。本物の透明人間を、ここまで堅固に証明したデータなんて、たぶん世界初だわ」
「はや〜、世界初かぁ。歴史の証人、ってやつやなぁ…」
 再度ディスプレイに目を戻しながら、珊瑚が嬉しそうにそういう。きっと、この少女にとっては、滅多に見られない珍しいものが目の前にあるということが純粋に嬉しいのだろう。
「歴史の証人も良いけれど、ここまで大騒ぎになってしまっては、後の始末がたいへんだわ…。どうしよう、一般の生徒たちになんて説明すればいいのかしら。きっと、メンタルケアが必要な生徒も出てくるわ。保健の先生に連絡を取って…。いえ、それより先に、この後透明人間を捕獲したとして、どんな機関に処遇を任せるべきなのかしら。保健所? 研究機関? ああ、もう、まーりゃん先輩が関わるとロクなことにならないんだから…」
「まぁまぁ、そない悩まんでもなるようになるんやない? それに、保健所なんて報告したら、それこそエラいことになる思うけどなぁ」
「どうして?」
「保健所って国の機関やんか? 透明人間なんて前例のないもんが連れ込まれたら、役所から厚生労働省に連絡が行くやろね」
「? ええ、そうでしょうけれど…」
「そうなると、当然他の省庁にも連絡が行くことになるやろ? そん中にはきっと防衛庁も入ってる。たぶん、軍事的に悪用しよう考えるで」
「あ……」
 いかに平和国家といえど、軍事計画をおろそかにして渡っていけるほど世界は温かくはない。ささらとてそのことが判らないわけではない。ならば、確かに保健所などに報告するのは得策ではないだろう。
「それに…、笹やんがいうとったやん。友達になりたいって。ウチもそうや。その透明人間さんがどんな人か判れへんけど、悪い人やなかったら、きっと友達になれる。それなのに、保健所なんて連れて行かれへん」
「珊瑚さん…。そうね、私が軽率だったわ…ごめんなさい。でも、いずれにせよ放ってはおけないわ。…こんなことは言いたくないけれど、あまりにも問題が大きすぎる。生徒会長として、一般の生徒に広範に影響が及ぶ要因を見逃すことはできないの」
「せやなぁ…。なら、長瀬のおっちゃんとこに頼もうか?」
「来栖川ラボラトリに?」
「おっちゃんとこなら、心配あらへんよ。みんな良くしてくれるんやないかなぁ。…まぁ、いろいろと研究に協力してもらうことにもなるやろけど。どんな理屈で透明になっとんのかとか、きっとみんな興味津々やで。それに、ここまで完璧な透過処理を実現できる仕組みが開発レベルで実装可能になれば、相当な範囲での応用が利くで? 理論によっては、例えば人体のある段階まで透明にできるなんてことが可能になるかもしれんやろ? そうすれば、これまでレントゲンでしか内部を確認出来なかった内臓や組織の様子が目視で確認できるようになる。そうなれば疾患の見落としや誤認がほぼなくなるやろし、手術の成功率もぐんと上がる」
「あ、そうか。医学…」
「それに、それにな?」
 ふと、珊瑚がにへっと笑顔になる。
「もしもやで? ウチも透明になれるんやったらなぁ、おもろそうやんか」
「そ、そうかしら?」
「きっとおもろいよ〜。えへへ、瑠璃ちゃん驚かして遊んでみたいなぁ〜」
 そう言って胸を張る珊瑚を見ながら多少呆れると共に、改めてささらはこの少女の入学時より噂されていた『創立以来の天才』という言葉が事実であったことを思い知る。メイドロボのAI設計についてもそうだし、いまも自分があれこれと校内への影響だけで頭を悩ませている間に、この少女は医療産業レベルの話にまで思考を進めていた。
 その上、それよりもなお心躍らせて期待しているのが、妹へのイタズラときている。これが天才の思考と言わずしてなんなのだろう?
 とてもではないが敵わない。
「…ふふ…もう、珊瑚さんたら…。じゃあ、もし捕まえることが出来たら、あなたに後のことはお願いしても良い?」
「ええよー。任しといて。まぁでも、まずは捕まえんことにはなぁ」
「そうね。イルファさんたちは大丈夫かしら?」
「いまのところ相手さんは逃げてるだけみたいやし、危険なことはないみたいやけどね。どっちかというと二次被害の方が心配――」
 と、その時、コンコンとノックの音が響いたかと思うと、生徒会室の扉ががらりと開けられた。
「ん?」
「あら? 向坂さん…」
 見ると、戸口に何やらしかめっ面をした生徒会副会長・向坂環が立っていた。
「ああ、久寿川さん…。それに、珊瑚ちゃんもいるのね。ごめん、遅くなったわ」
「いえ、それは別に…。あ、でも、今日は体調不良で欠席されていたのでは? このみちゃんから、そう聞いているのだけれど…」
 ささらがそう聞くと、環は彼女には珍しく大きなため息をついて、手近にあった椅子に腰を下ろした。
「いえ…身体は大丈夫よ。それより…、校門の前に立ってた子に聞いたわ。透明人間、ですって?」
「あ、ええ。信じられないかも知れませんけれど、どうやら本当にいるようです。いま、まーりゃん先輩たちが追いかけてるところです」
「そう…」
 そう聞くと、環はますます憂鬱そうな顔になると、机に肘をついて組んだ両手の上に額を乗せた。
「あ、あの、何かあったんですか?」
「…これから何かあるところ」
「え?」
「少し待たせてもらうわ…。あの子のことだから、その内ここにも走り込んでくるでしょうし」
「え?え? あの子?」
 だが、それ以上環は何も言わず、何やらぶつぶつと呟くばかりになった。
「?」
 ささらは珊瑚と顔を見合わせると、もう一度、赤髪の副会長の方を見やる。だが、彼女が何についてここまで憂鬱そうにしているかは、端から見ただけではついに判らなかった。



     ※



 さてその頃、雄二たちはと言うと、科目別教室棟から一般教室棟にレースの部隊を移して、現在もカーチェイスならぬヒューマンチェイスの真っ最中である。現在、1階にある1年生の教室群の前を疾走しているところだ。
 すでに透明人間の存在は全校中に知れ渡り、追跡隊が通過するたびに、あちこちから悲鳴と好奇と歓声の声が上がる。
『くっそー! いいかげんにしろっつーの!』
 とっくに体力は尽きている。しかし、尽きてはいるが止まるわけにはいかない。もはや捕まりたくない死にたくないの一心、精神力だけで疾走している状態である。
『なんとかまかないと、走り疲れで死ぬ…!』
 生徒たちが多いこの状況を何とか利用できないものか。そう思って周りを見渡すが、今のところ何も良い案は浮かばない。いっそ誰かの制服を奪って着用し、何食わぬ顔で姿が見えるようにしておけばやりすごせるかもしれないが、しかしこのみに対しては通用しないだろう。彼女はピンポイントで自分が透明人間だと看破している。
『ああ、もう! チビ助さえいなきゃあなぁ!』
 思い出せば、この追いかけっこのきっかけを最初に作ったのもこのみだった。彼女が瑠璃とともに自分を追い回し始めたのを契機に、イルファやミルファ、ミステリ研や生徒会の面々が続々とレースに飛び込んできたのだ。
 3時限目、1年生の更衣室に忍び込んだことを、いまさらながらに後悔する。あれさえなければこのみに見つかることもなかったし、ここまで悪い状況には追い込まれなかっただろう。
 だが、そんなことを頭に思い描いている暇など今はない。前方の生徒たちが騒ぎ始めたかと思うや、人混みの間からまーりゃん先輩が飛び出してきたのだ、すぐ後ろには由真と、そしてミルファもいる。
『ぬぁあっ!?』
「二人とも! 若干右斜め前7メートル!」
「斜め前だね!? よおっし! どりるまーりゃんキーック!!!!」
 ミルファの的確な指示を元に、まーりゃん先輩が一気に跳躍。そのまま必殺の跳び蹴りが雄二めがけて襲いかかる。
『くぉっ!』
 が、雄二もダテに向坂家の長男を務めているわけではない。姉譲りの恐るべき反射神経をここぞとばかりに発揮し、すんでの所でダッキングしてかわす。
「避けた!? 由真さん、アタック! 方向と距離そのまま!」
「了解!」
 ――が、オフェンスはまーりゃん先輩ばかりではない。ミルファの号令の元、即座に由真の追撃が入る。こちらはまーりゃん先輩とは対照的に、下からすくい上げるようなミドルキックだ。
『う、おぁ!?』
 走り込んできた勢いのままダッキングしているため、さすがに今度は避けられない。

 ドグァッ!

「捕ったぁ!」
 鈍い音を立てて、由真の脚がバットよろしく、屈んだ姿勢の雄二のテンプルを直撃する。双方勢いが付いていたためにかなりの衝撃があったらしく、身体ごと雄二の首が持って行かれて、廊下脇の壁に叩きつけられた。哀れ。
『くっ…いってぇー…! って、うぉあっ!?』
 ブラックダウンしそうな意識をかろうじて立て直した瞬間、今度はミルファが雄二に襲いかかってきていた。姿勢から察するに膝蹴りを叩き込むつもりらしい。いや、ミルファだけではない。見れば、姉のイルファまでが走り込んできていて、こちらも今まさに膝蹴りの体勢に移行したばかりのようだ。
『おいおいおいおいおいおい!』
 冗談ではない。メイドロボ2人の膝蹴りをまともに食らってはリアルに命が危ない。
 先ほどの由真の蹴りのダメージを無理矢理払いのけて、感動すべきスピードで彼はその場から転がり逃げる。
 ――瞬間――

 ドガァアアアン!

 それまで雄二がいたあたりの壁に渾身のニーキックが突き刺さり、衝撃で壁にクレーターのような穴ができた。
『なっ……!!!!』
 もし避けていなかったら――雄二の全身から血の気が引く。
「はずしたっ!?」
「ええい、ちょこまかと! おとなしくお縄につきなさい!」
『ば、バカいえっ! 冗談じゃねぇ!』
 こんなところで捕まったら、どんな仕打ちに合うか知れたものではない。急いで体勢を立て直して、彼は再び逃亡に戻るべく、立ち上がる。
 が、見るとすでに彼が逃げられるような隙間はどこにも開いていなかった。
『げっ…』
 周囲はがっちりと固められてしまっていた。メイドロボ姉妹はもちろん、雄二を取り囲むように、半径数メートルあまりの半円にならんで、まーりゃん先輩や由真、笹森花梨など多数の特殊人間たちがガードしていた。
「距離4メートル20。透明人間、完全に包囲しました」
 冷静なイルファの声が、瞬間水を打ったかのように静まった廊下に響く。
「ふむふむ。いいね、ようやく追い込んだってわけだね」
 イルファの言葉を聞いたまーりゃん先輩が、小柄な身体と童顔からは想像も出来ないほど邪悪な笑みを浮かべる。
 そして、どこからか何かの訓練で使うかのようなハンドスピーカーを取り出すと、「あー、テス、テス」と前振りしながら、雄二の方に口を向ける。
「あー、そこの透明人間に告ぐ、そこの透明人間に告ぐ! 君は完全に包囲されている! 無駄な抵抗はやめて、おとなしく投降しなさーい!」
『こ…これまでか!?』
 さすがに、ここまでがっちり固められてしまっては逃げるに逃げられない。壁を背にして180度、全方向隙間なく包囲網が狭められつつ――
『!? いや、あるぞ、穴が!』
 居並ぶメンバーの顔を一人一人見渡していた雄二に、この包囲網の"穴"といえる人物の顔が目にはいる。本人にはたいへん失礼な話にはなるが、雄二のクラスの学級委員長・小牧愛佳だ。
 他のメンバーに比べれば体力的に数段劣る上、超が付くほどのお人好し。事実、今も目の前の透明人間に対して、厳しく接したらいいのか優しく接したらいいのか迷っているのがありありと見て取れる。
 突破するならこのポイントしかない。
『いいんちょ、わりぃ!』
 逡巡している暇はない。即座に雄二は己の肉体にゴーサインを出す。
 床を蹴って愛佳に飛びかかり、渾身の――デコピン!

 ぴしっ!

「あひゃあ!?!?」
 案の定、デコピン一発で簡単にパニック状態に陥り、包囲網の輪が崩れる。まぁ、何もない空間からいきなりデコピンの衝撃が来たら誰でも驚くだろうが。
『チャンス!』
 とにかく、この機を逃す雄二ではない。由真と愛佳の間に開いた空間に狙いを定めるや、脱兎のごとく逃げだし――
「甘い!!」
 しかし、雄二が包囲網を突破するその一瞬前に、事態に気付いたらしいミルファが雄二の両足めがけて渾身のタックルを仕掛けた。
『う、うわっ!?』
 見事、ミルファの両腕が雄二の脚を捕らえる。そのまま物理法則に従って雄二の身体が床めがけて――いや、ミルファがタックルを仕掛けてきた方向とタイミングが良かったのか悪かったのか、雄二の倒れた方向にイルファがいた。

 どさっ!

「きゃっ!?」
「ってぇ!」
 そのまま、メイドロボ二人ごと、床に放り出される雄二。イルファがクッションになったおかげで幸い怪我はなかった。
 ――が、しかし、状況は再び最悪の状況である。いや、ある意味、先ほどより悪い状況に陥ったと言っても過言ではない。なぜなら――
「い、いてて…くそっ」

 ふにゅっ♪

「あ?」
 こんなところで倒れている暇はないと、床に手を突いて起き上がろうとした雄二の手に何やら柔らかい感触。今までに味わったことのない感触だった。
『なんだこれ…』

 ふにゅ、ふにゅ♪

「ひ、ひやあ!?」
 何かと思って再度握力を込めた瞬間、頭の上の方から妙な声が聞こえてきた。
「?」
 何かと思ってみるとそこにはイルファの顔。まじまじと雄二の方を見て、口をぱくぱくさせている。
『なんだ? って、こ、これは!?』

 ふにゅ、ふにゅふにゅ♪

 なんと、起き上がろうと手を突いた場所は床ではなかった。何かと言えば、イルファの胸部、つまりバストである。
 女の子のおっぱいを鷲づかみに、さらに握力を加えてふにふにと揉んでいる格好になっていたのだ。
『お、おおおー!?』
 途端、ふにゃりと幸せな気分になる雄二。普段からメイドロボ好きを公言してはばからない上、こんな可愛い子の胸を掴んでいるのだから、至福も良いところである。
 とはいえ――状況は決して幸せなものではないのだ。おっぱいの感触に吹き飛んでいるが、現在の雄二の置かれている状況は最悪そのものの状況だし、ましてや合意のないスキンシップを女の子が許すはずもない。
 ぷるぷるとイルファの身体が震えだし、そして次の瞬間――

「いやあああああああああああ!!!! ちかーーーーーん!!!!!!!!」

 ドガァアアアアアアアアアアアアン!!!!!!!!!!!!!!

「ぐぇぼぁあああああああ!!!」
 真っ赤になったイルファが、雄二を掴んで引きずり起こすと、問答無用とばかりに乙女の怒りの超アッパー。
 見事、渾身の鉄拳制裁が雄二の顎にクリーンヒットし、雄二の身体が天井めがけて吹っ飛ぶ。そして、凄まじい勢いで天井に激突したかと思うと、なんと鉄筋コンクリート製のはずの天井を突き破って階上へと吹っ飛んでいき、さらにそのまた天井に叩きつけられる。
「がはぁあっ!」
 さすがに天井にめり込んだまま落ちてこないなどと言うことはなかったが、重力の法則に従って2階の廊下に落下し、したたかに床に身体を打ち付けられる。
「い、いて…いててて…」
 だが、驚くべきことに彼はまだ生きているようだ。どういう身体の構造をしているかは不明だが、歩けなくなるほどの負傷をした様子もなく、何とか自力で起き上がって、さらなる逃亡を図ろうと歩き出した。恐るべき生命力だ。
 ――が、上を向いた彼の目に、再び悪魔の姿が目にはいる。
「ユウ君! やっぱりこっちに来た!」
 ツインテールの小さな悪魔・柚原このみだった。脇侍に瑠璃と貴明も従えている。
 どうやら、いつのまにかイルファ達と別れて、別行動に移っていたようだ。しかも、台詞から察するに、雄二が2階までやってくることを予期していたらしい。
『ち、チビ助…』
 最強の敵を前に、さすがの雄二も目の前が暗くなる。
 が、次の瞬間、このみの口から信じられない言葉が放たれる。
「ユウ君、このままじゃ捕まっちゃうよ! ね、このみたちと一緒に逃げよ?」
「なっ…?」
 思いもよらない言葉だった。てっきり、階下の一群と同じに、雄二を捕まえに来ているものとばかり思っていたのだ。
「に、逃げるって…」
「! その声…やっぱりユウ君なんだね。大丈夫、痛いこととかしないよ。ただ、約束してくれればいいから。もう悪いことしないって」
「あ…?」
「タカ君も、瑠璃ちゃんも、みんな味方だよ。大丈夫、生徒会室にユウ君の制服もあるよ。約束だけしてくれれば、タマお姉ちゃんにも内緒に…」
 その瞬間、ポップな電子音があたりに鳴り響いた。どうやら、このみの携帯電話が鳴っているようだ。
「あ、ちょっとまって。もしもし…あれ?タマお姉ちゃん? どうしたの?今日学校休んだって聞いて…え?学校に来てる? うん…うん…。 え?ユウ君? あ、えっと、このみは見てない…あっ!」
 しまった、と言うように、このみの表情がくにゃりと歪む。なぜなら、つい今しがたまで目の前にいたはずの雄二が、すでに遠く離れて逃げていたからだ。
『冗談じゃねえ! 姉貴が来てるんなら、もたもたしてられっかよ!』
 廊下を逃げながら、今後の算段を素早く頭の中でたてていく。
 この騒ぎの元凶が自分だと言うことに姉が気付いているかどうかはともかく――おそらく気付いているのだろうが――もはや何らかの不幸不運は覚悟せねばならないだろう。しかし、自分の制服のありかは先ほどこのみが教えてくれた。
 あとは生徒会室まで一直線! 制服さえ手に入れれば、まだ何とかなる可能性はある。
 雄二は最後の望みを託して、痛む身体を引きずりながら、向かい側の校舎にあるはずの生徒会室まで歩いていく。



     ※



「す、すげー!」
 イルファの猛烈なアッパーカットを目撃し、まーりゃん先輩の口から感嘆のため息が漏れる。なにしろ、対象が鉄筋コンクリートの天井を突き破るほどの威力である。全盛期のマイク・タイソンですら、これほどまでに強烈なパンチは放てなかっただろう。
「ちょ、ちょっと! 感心してる場合じゃないでしょ! 透明人間が死んじゃうじゃない!」
 大きな穴の開いた天井を見上げながら、笹森花梨が青くなっている。彼女としては、別に透明人間に悪意を抱いていたわけでもなく、ただ友達になりたかっただけなのだから無理もない。
 しかし、ミルファの口からは、その心配を否定する言葉が紡がれる。
「あっ、動き出したみたい。2階の廊下を走ってる」
「うそ!?」
「足音の波形が一致してるから、たぶん間違いないよ、あっちの方に進んでる」
 そう言って、ミルファが足音が遠ざかっていったらしい方角を指さす。
「ほ、ホントに!? 凄い生命力! じゃあ早く追いかけよう! みんな、行くよ!」
「あ、ささりゃん、待て! ほら、あちしたちも急ぐよ!」
「ほい来た!」
 花梨とまーりゃん先輩号令の元、一行は再び透明人間追跡を開始する。

 ――が、その隊列に加わらなかった人物がいた。

「? あら? どうしたんですかるーこさん」
 見ると、るーこが、何やら難しそうな顔をしてたたずんだまま動かない。
 優季は、慌ててるーこに駆け寄ると、どうしたのかと声をかける。
「おかしい」
「え?」
「あれほどの攻撃を受けておいて、なお平気で活動できる有機生命体がいるとは思えない。どう考えてもおかしい」
「そ、それはそうですけれど。でも、ミルファさんたちがそう言っているわけですから…」
「いや、実際に活動しているのはそうなのだろう。だが、やはりそれはおかしい。それに――」
「それに?」
「少し、思い当たることがある。うーき、るーに付いてこい」
 そう言うやいなや、るーこは、追跡隊とは別方向に歩き出す。
「え?え? どこに行くんですか?」
 慌てて優季も後を追う。方向からすると、科目別教室棟か、あるいはその先にある体育館のようだ。
「もし仮にあの攻撃を受けて、平気な場合があるとしたらどんな場合だと思う?」
 ふと、るーこが優季に問いかける。
「え?」
「るーの力を使えば、あるいはそれが可能かも知れない。絶妙に何らかのクッションが働いたとか、そう言う偶然を起こしてみるとかな。だが、そんな力の作用は、少なくともるーは感知していない。るーも当然使っていない」
「え、えっと…。そうですね、例えば、何か甲羅のようなものに覆われているとか?」
 思いついたまま、優季が答えを返す。しかし、るーこはふるふると首を振ると、その回答を否定する。
「その場合、甲羅の重量がかなりのものになるだろう。とてもではないが、素早く走り回ることは不可能だ。亀が猛烈なスピードで走っている様を想像出来るか?」
「亀が…。いえ、確かにそんな亀はいませんね…」
 優季の脳裏に、たすきがけをしながら徒競走に興じている、二足歩行の奇妙な亀のイメージが浮かんだが、現実問題として、そんな亀がいるはずもない。
「甲殻を持つ生物は、えてしてそういうものだ。防御力が増す代わりに、機動力は極端に落ちる。逆に、機動力を確保しようとすれば、防御力はそれに反比例して落ちていく」
「…と言うことは?」
「ありえないということだ。あんな状況は。だとすれば、特殊な力が働いていると考えた方がしっくりくる」
「特殊な力…」
「例えば…魔法の力、とかな」
「………! …まさか、るーこさん…!」
「思い至ったか、うーき。まぁ、るーの思い過ごしかも知れないが、確かめておく必要はあるだろう」



     ※



 一方、雄二はと言うと、廊下を駆け抜け渡り廊下を縦断し、生徒会室目指して走っているところだ。
 だが、一直線に走っていくわけにも行かない。なるべく妙なルートを走りながら、追ってくるこのみたちをまかなければいけないからだ。いかに生徒会室に服があることが判っているとはいえ、ただ奪取しただけでは意味がない。誰にも見つからずに、それを着用しきらなければいけないのだ。
 そのため、体力ばかりがむやみに削られていくのだとしても、蛇行運転スラローム走行をやめるわけに行かない。適当な教室に乱入しては混乱する生徒たちを追っ手たちの障害代わりにし、無意味に階段を上っては、逆側から降りてくる。
『くっ…このくらいあればいいか?』
 そうして、しばらくのチェイスの後、何とか追っ手との距離が開いてきたことを確認する。
 まだ絶対安全圏とは言えないかも知れないが、これ以上体力を消耗するのもまずい。
 一か八か、雄二はここから生徒会室への強襲を実行することに決め、悲鳴を上げ続ける自分の脚に再度ムチを入れる。
 ――そこに安寧と自由が待っていることを信じて。



     ※



 やがて、優季たちは目的の場所にたどり着く。
 体育館の片隅にひっそりとたたずむ、普段は誰も訪れるもののない忘れられた部屋――体育館第二用具室。すなわち、ミステリ研究会の部室である。
 そして、おそるおそる優季が扉を開けた瞬間、彼女たちの目に信じられない光景が飛び込んできた。
「こ、これは……!」
 最初は、何が起こっているのか判らなかった。
 いや、起こっていることのみならず、そもそも部室がどういう状態になっているのか、とっさには正確に判別できなかった。
 まず目に入ったのは青。
 青い光が、黒い漆黒と混じり合いながら、部室の中を渦巻いている。
 いつもはひっそりと静まりかえり、忘れられた体育用具が発する独特の匂いが漂っているだけの小さな部室の中に、まるで小さな竜巻でも発生したかのように、青い光が縦横無尽に駆けめぐっているのだ。
 青い光だけではない。何やら、小さな火の玉のような、あるいは小さな星のような光のボールがいくつも舞っている。
 そして、どうやら青い光も、黒い闇も、小さな光の玉も、ある一点から発生しており、そして、再びそこに収束しているようだった。
 それは魔法円に設置された、あの黒塗りの鏡。
 召喚した魔物が出現するためのゲートとして設置した、あの黒い鏡だった。
「い、いったい…何が…」
 変わり果てた部室の様子に、優季が絶句する。
 未だかつて、このような光景に出会ったことなど一度もないのだ。どうすればいいか判らず、思わず立ちつくしてしまう。
 だが、隣に立っていたるーこは、そんな優季を置いて、無造作に部室の中に足を踏み入れる。
「る、るーこさん、危ない!」
「心配ない。物理的な危害が加えられることはないようだ」
「で、でも…!」
 おろおろする優季を尻目に、るーこはずんずんと部室の中へと進んでいき、やがてテーブルの上まで来ると、その上にある本を一冊手に取った。
 そして、ぺらぺらとページをめくりつつ、何やら調べ物を始めたらしい。時折うなずいては、何やら納得したかのように独り言を呟いている。
「る、るーこさん…」
 扉口に立っていても仕方ないし、るーこの様子を見る限り特に危険性もないようなので、意を決して優季も部室の中に踏み入り、テーブルのそばまで歩いて行く。
 なるほど、確かに危害はないようだ。青い光が通過するたびに、風が吹くような感覚があるくらいで、他はどうと言うこともない。
「何か、判ったんですか?」
「見ろ、このページだ。昨日うーささが召喚を行ったのは、こいつなのだろう?」
「えっと…」
 るーこに示されたページを見る。そこには、魔王バエルについての説明書きが為されていた。
 すなわち、バエルが66の軍勢を率いた、魔界の東を統べる王であること。猫やカエルなど、いくつかの姿を持つこと。そして――
「人を…透明にする力がある…?」
「と、いうことだ。おそらく、うーささの召喚魔術は、あれで本当に成功していたのだろう。いったい誰が透明になっているのかは判らないが、部室の立地条件から考えるに、この学校の生徒かあるいは教師と言ったところだろうな。まさか外部からの侵入者というわけでもあるまい」
「じゃ、じゃあ…あの透明人間は、この学校の関係者だって言うことですか?」
「可能性の問題になってしまうが、そう考えるのが自然だ」
「…そ、んなことが…あるんでしょうか…」
「信じられないか?」
「だ、だって…。いえ、でも…透明人間は…いましたよね。それに、この部室…。…すいません、少し、混乱しています」
「うーささの言葉を借りれば、5000年もの長きに渡り、研究を重ねられた術なのだろう? ならば、何らかの成果が上がっていると考えてもおかしくはない。もし何も成果の上がらない、ただのインチキだとしたら…おそらく、それほど長い歴史は刻めない」
「………………そう……………ですね」
「だが、しかし、これはどうしたものか…。放っておくわけにもいかないが…」
「…花梨さんに相談して、術式を解いてもらうしかないのでは? 確か、精霊を呼び出す呪文と一緒に、退去させる呪文も書いてあったと思います。えっと…ほら、ここ」
 優季がページを繰り、呪文の書いてある場所をるーこに示す。
「これを読めばいいのか? ふむ…うーささに頼むのも良いだろうが…」
 そう言って、るーこはしばし黙考する。そして、その後優季に向き直ると、意外なことを口にした。
「いや、やはりるーたちだけでやろう」
「え? な、なんでですか?」
「なに、少し思うところがあるのだ。とにかくうーき、この呪文を読めばいいのだろう。できるか?」
「え?え? わ、私がやるんですか?」
「他星の者であるるーがやるよりは、うーきがやった方が良いだろう。なに、心配しなくても、失敗したところで何かあるわけでもあるまい」
「ほ、ホントですか? 危ないこととか、ないですよね?」
「危なければ、この部屋に踏み込んだ時点で、とっくに危ない目に遭っている。何かありそうならるーが助けてやるから、早くしろ」
「わ、判りました…。えっと、魔法円の中に立てばいいのかしら…」
 るーこに手渡された魔術書を手に、優季はおそるおそる、昨日花梨が立っていた魔法円の中央へと入っていく。
「ふ…わ…」
 途端、何か経験のない感覚が、つま先から頭へと抜けていくのが感じられる。いや、感覚だけではない。まるで風でも吹き上がるかのように、優季の長い黒髪が、ふわりと宙に舞う。
「何…これ…?」
「大丈夫か、うーき。苦しいのか?」
「い、いえ…そうではないです。大丈夫」
 それは決して不快なものではない。何か、内なる力が呼び起こされるような感覚。まるで大地から発せられる未知の力が、爪先から頭へと自分の体内を浄化していくかのような、そんな不思議な感覚だった。
 それこそ、髪の毛一本一本に至るまで、清らかな光に満たされていくような感覚。
『これが…魔法の力…?』
 まったく、次から次へと、今日は驚愕の出来事のオンパレードである。
 だが、感慨にふけってばかりも入られない。優季は、手に持った魔導書のページを開き、指で押さえて閉じないようにする。
 そして、一つ二つ深呼吸をした後、ゆっくりと、書かれた呪文を口にし始めた。
「……我は求める。我は訴える。汝、精霊バエルよ……」
 朗々と、朗々と、たなびく優季の髪のように、呪文が流れ出す。
 その瞬間――先ほどまで火が消えていたはずの蝋燭に、ぽっと青白い炎が咲いた。
「るっ?」
 さすがのるーこも驚いて、突然灯った蝋燭に目を奪われる。
 だが呪文はまだ終わったわけではない。
「聖なる魔術の所作に則り、大いなる神の栄光の下に現れし精霊バエルよ…」
 言葉は続く。太古より定められた式に沿って、退去を命ずる呪文は続く。
 流れ出す言葉とともに、青い光と黒い闇のダンスは、魔法円を中心としてますます勢いよく渦をなし、中心に立つ優季を取り囲むようにして逆巻く。
 そして――
「我、神が永遠に定めたる混沌の世界への退去を許可する者な……きゃっ」
 黒塗りの鏡の上。青い光を放出していた鏡面の上に、何かの形が出現した。
「る!? こ、これは…!」
 それは、奇怪な生物だった。3つの頭部――猫と、カエルと、そして醜い人間の顔を持った生物。身体は何かの昆虫のような甲殻に覆われて、じっと優季やるーこの方を見ていた。
「な、な…何なんですか…? いったい、なに…?」
 あまりにも醜悪なその姿に、優季の呪文が止まる。見れば、るーこも茫然自失と言った様子で、鏡面の上に現れた小さな生き物――おそらくは、魔王バエルを凝視していた。
「これが…魔王バエル…なのか?」
「バエル…? こ、こんな姿なの…?」
 確かに、魔導書には3つの頭部を持つ醜悪な姿だと書かれている。しかし、文章を読むのと実際に見るのとでは、その実感に大きな差がある。これほどまでに奇怪な姿をしていようとは思っていなかったのだ。
「うーき、止めるな! 呪文を続けろ! 何があるか判らない。早く退去させるがいい!」
「あ、はい! え、えっと…続きは…」
 るーこの言葉に我に返り、優季が魔導書に目を戻す。一方るーこは、優季に何かあってはいけないと、両手を上に突き上げて彼女独特の戦闘態勢に入った。
 だが、鏡面の上に現れた生物は特に何をするでもなく、優季が唱える呪文をただじっと聞いているだけのようだった。
「…な、汝の住まう混沌の宮殿にて、我が意志を為し、我が命に従いて、呼び出せり時には速やかに現れよ…」
 再び、優季の口から呪文が流れ出す。
 その間、誰も、少しも動かない。るーこも、鏡面の不気味な精霊も、まるで何かに縛られているかのように身動き一つしない。いや、できない。
 ただひたすら、じっと優季の紡ぐ呪文が完成するのを待っていた。
「エーヘイエー、テトラグラマトンの聖なる名において許可する。汝、精霊バエルよ…」
 呪文が佳境に入る。蝋燭の炎は燃えたぎり、青い光は狂ったように逆巻いて、魔法円の前に置かれた黒塗りの鏡に向かって収束する。
 そして、時は満ち――

「しかるべき扉より、いかなる災いもなく、速やかに退去せよ!」

 瞬間――
 凄まじい光の奔流が、部室を包み込んだ。
 そして一瞬の後、まるで何事もなかったかのように――
 いつもの部室の光景が戻ってきた。
 青い光も黒い闇もなく、蝋燭の炎は消え、鏡面には何も映し出されていない。

 すべては沈黙の中に消え、後にはただ――普段の世界だけが、広がっていた。



     ※



バエル Bael 
 地獄の悪霊66軍団を率いる王。東を統治している。人を透明にする力がある。
 猫やカエル、もしくは人の姿で現れるが、この三種が混じった姿のときもある。かすれ声で話す。
[バエルの起源は、おそらく古代バビロニアのセム人の有力な神バールにある。元来、バールという言葉は"主"という意味であり、カナン地方の豊穣の神であった]

          ――――「魔導書 ソロモン王の鍵」編著:青狼団(二見書房)



     ※



 ガラッ!

 っと、雄二は勢いよく生徒会室の扉を開いて、ロクに内部の様子も確かめずに中に飛び込んだ。とりあえず、追っ手はまだ来ない。このままロッカーの中にある制服をゲットして着てしまえば、自分の勝ちだ。
「はぁ…はぁ…間に合った…か…?」
 荒い息を吐き、よろよろと自分のロッカーの前へと歩いていく。
 だが、そんな雄二の耳に、いま一番聞きたくない人物の声が飛び込んできた。

「あら雄二。ずいぶん疲れてるみたいね? お姉ちゃんが見ていないところで、どんなトレーニングを積んできたのかしら?」

 ………………………

 ………………

 ………もしも

 もしも血の気が引く音が物理的に他者にも聞こえたなら、雄二の全身の血管という血管から一斉に血の潮が引いていく音が、大音量で聞こえたことだろう。

『いま…凄くイヤな声が…聞こえたような気が…するんだが…』

 ギギギ、と油の切れた蝶番のような音を立てて、雄二が声のした方を向く。
 そこには
 悪鬼羅刹が
「あらあら、どうしたのかしらそんな絵にも描けないような顔しちゃって。お姉ちゃんの顔に何か付いてる? それとも、あんまり私が美人なものだから、目が離せなくなっちゃったのかしらね?」
『み…見えてない…はず…だよな…?』
 生徒会室の中に姉がいたことは計算外だった。それは確認せずに飛び込んだ自分のミスとして納得できるだろう。
 しかし――
 なぜ、自分の様子を目で追える?
 姉にも、このみのような能力があるとでも言うのか?
 だがしかし、少なくとも朝は、自分の姿が見えている様子はなかった。
 見えていなかったのだ。
 それなのに――
「でもねぇ雄二。いくらトレーニングに集中していたからって、その格好で校舎を走り回るのはどうかと思うわねぇ」
「は…」
 その格好とは何か。
 どんな格好を指しているのか?
『ま、まさか…』
 おそるおそる、雄二は自分の手のひらを目の前に持ってくる。
『………!!!』
 見えている。
 見まごう事なき自分の手。
 消えているはずではなかったのか。
 慌てて自分の全身を確認すると、手どころではない、脚も、胴体も、大事なところも、余すところなく自分の目に映る。
 いや、この状態であれば、自分だけの目に映っているわけではないだろう。
 祈るような気持ちで、雄二は顔を上げて改めて周囲を見渡す。

 生徒会室には、姉の環の他に、二人の人物がいた。
 姫百合家の長女・珊瑚と、そして、あこがれの生徒会長・久寿川ささらの姿。

 珊瑚は――いつものほやんとした笑顔ではあったが、どうやら少し顔が赤くなっているようだ。
 ささらは――ゆでタコもかくやと言うほど真っ赤になってうつむき、その割に時折ちらちらとこちらの様子を興味津々と言った様子で伺っているようだ。

 二人の様子を見れば、もはや疑問の余地は何もない。

 ――見えている。消えていない。

 そう、雄二は知らなかったが、つい先ほど体育館第二用具室で、雄二の透明人間の力の根拠そのものが、消されてしまっていたのだ。
 いくら命じたとしても、もう身体が透明になることはない。

「あ、あは、あはは…え、えっと、姉貴…あの、これはだな、いろいろと深い訳が…」
「女子更衣室に忍び込んでたんだって?」
「ひぐっ!」
 単刀直入、ど真ん中ストレート。
 思わず言葉に詰まった雄二の様子に、環の目がすっと細まる。
「い、いや、いや、違うんだ、姉貴…」
「しかも、透明人間…なんだってね? いつからそんな破廉恥な特技を身につけたのかしら」
「ま、待ってくれ、俺は別に…」
「ロッカー」
「へ?あ?」
「入ってなさい。ロッカーの中に」
「な、なに?入る?え?」
「早くしなさい!」
「は、はい!」
 怒声一喝。一瞬鬼の形相になった環の迫力に押されて、雄二は目の前のロッカーの中に慌てて潜り込んだ。ちょうど、自分のロッカーだった。
 その瞬間――

 ガラッ!

 と、扉の開く音がして、すぐに大勢の人間がなだれ込んでくる音が聞こえてきた。
 どうやら、追っ手の連中が到着したらしい。
「あら、みんな。そんなに急いでどうしたの?」
「あ、あれ? タマちゃん? 休みじゃなかったのか?」
「こんにちは、まーりゃん先輩。ええ。午前中ですっかり良くなってしまって。午後から出席することにしました」
「あ、そう。いや、いやいやいや!それどころじゃない! タマちゃん、さっきこっちに透明人間が来なかったか!?」
「透明人間? いいえ? そんなもの来てませんけど」
「え? んなはずないって、だってこっちに走ってきてたって、みーりゃんたちが…」
「久寿川さん、見た? 見てないわよね?」
「え? あの、えっと…」
「…ね?」
「ひっ! …は、はい、見てません!」
「珊瑚ちゃんも、見てないわね?」
「う、うん…み、見てへんで? う、うち、なんも、見とらへんよ?」
「あれー?おっかしいなー…」
「ほらほら良いんですか? 早くしないと、本当に逃げられちゃいますよ?」
「あ、そか。しょうがない、みんな! もう一回校舎の方を探すぞ!」
『おーっ!』
 まーりゃん先輩の号令の下、再び乱雑な足音がして――
 やがて、追っ手連中全員、生徒会室から立ち去ったようだった。

 そして――

「さて…でてきなさい、雄二」
 あとには、秘密を知る最低限の者だけが、残った。
「あ、あのよー姉貴…。人間ってさ、話し合いっていう素晴らしい手段を持った、とても平和的な生き物だって、思わない?」
 ゆっくりとロッカーの中から出ながら、腕組みして待ちかまえていた姉に雄二は最後の抵抗を試みる。
「ええ、思うわ」
「そうだよね? いや、姉貴も話しがわかる…。えっと、何で鍵かけんの?」
「そうね…いろいろと…理由はあるけれど…」
「け、けれど?」
「とりあえず…、血を見るのは最低限の人数だけにとどめておきたいって、そう思わない…?」
 目が笑っていなかった。
「あ…あは…あはは…。えっと、じゃあ俺はこれで…着換えたら、教室に戻…」
「雄二」
「は…」
「念仏を……唱え始めなさい」
「ひ…」

 ……………

 ……………

 ……………

 その後――

 世にも恐ろしい光景が――

 珊瑚とささらの眼前に繰り広げられることになる

 この時のことを――

 二人はのちにこう述懐する

 『もうスプラッタ・ホラー映画なんて少しも怖くない』

 抜けるような10月の晴天の下――

 いつ果てるとも知らぬ阿鼻叫喚の地獄絵図が――

 いつまでも、生徒会室の中で繰り広げられていた。



     エピローグ



 真鍋さんは、透明人間というものはずっと昔からこの世にいるのだとぼくに語った。人間を透明にする薬も、もうとっくにできている。だから透明人間は、もうかなり前からこの地上に存在し、あちこちを歩いている。けれど透明だから、みんな気がつかないだけなんだ、と言った。

               ――――「透明人間の納屋」著:島田荘司(講談社)




     ※



「じゃあ…向坂君が?」
 次の日の昼休み――食堂に何人かの生徒が集まって、昼食を採りながら昨日の透明人間騒動について、おのおの知っていることや見たことなどを報告し合っていた。メンバーは草壁優季、るーこ・きれいなそら、河野貴明のミステリ研メンバー。加えて、今日は柚原このみも一緒である。
 その席上で、貴明の口から、昨日の透明人間の正体が語られたのだった。
「このみが言うには絶対そうなんだってさ」
 思わず聞き返した優季に、貴明が苦笑いしながら応える。
「それに、今朝は雄二のやつ学校に来なかったし、電話にも出ないんだ。タマ姉に聞いてもはぐらかすし…。これは、きっとそういうことなんだろうな」
「ユウ君…大丈夫かなぁ」
 持参してきていたらしいお弁当から卵焼きをつまみながら、このみが心配そうに呟く。
「タマお姉ちゃんに見つかっちゃったんだよね、きっと。ユウ君頑丈だから大丈夫だと思うけど…」
「まぁ、あいつのことだからな…。どんなに折檻食らっても、3日も経てば全快してるだろ」
「そうなんですか?」
「子供の頃の話だけどね、タマ姉に逆さ吊りにされて頭の血管破ったことがあるんだよ」
「え、ええっ? それって、大怪我じゃないですか。大丈夫だったんですか?」
 驚いて、優季が聞き返す。逆さ吊りとは尋常ではない。ヘタをすれば命に関わるだろう。しかし、貴明はそんな優季の様子に笑いながら驚愕の事実を述べていく。
「大丈夫どころか、次の日には完治してたらしいよ。医者が驚いてたって」
「ホントですか!?」
「ホントもホント。あの時はさすがのタマ姉も驚いてたみたいだったな。このみも覚えてるだろ?」
「うん、覚えてるよ。たしか、逆上がりの練習だーっていって、鉄棒の高いやつからロープを垂らして…」
「逆上がりの…練習…。どうしてそれが逆さ吊りに…」
「…案外、魔法の力などなくても、普通に大丈夫だったのかもしれんな…」
 向坂姉弟のあまりの武勇伝(?)に、優季もるーこも唖然とする。
 しかし、ふとるーこが漏らした言葉を、このみが聞きとがめる。
「魔法?」
「ん? ああ…。何、一昨日、部室で魔法の実験を行ったのだ」
「あ、るーこさん…、良いんですか? あんまりそう言うことは話さない方が…」
「構うこともないだろう。どのみち、透明人間などと言う非常識な事件があった後なのだ。むしろ、ある種の筋道が通る分、うーこのにとっても腑に落ちて良いだろう」
「え?え? どういうこと? 魔法って?」
 その後、るーこから、簡単にことの顛末が語られる。
 一昨日、文化祭の出し物の練習として、笹森花梨の手によって精霊の召喚が行われたこと。
 失敗に終わっていたと思われたそれが実際には成功しており、何らかの原因で雄二に魔王バエルがとりつき、透明人間にしていたこと。
 それに気付いた自分たちでバエルを退去させたこと――
 最初は呆気にとられていただけのこのみも、最後まで聞き終わる頃には、珍しく難しい顔をして、聞いたことの内容を頭の中で整理しているようだった。
「じゃあ…ユウ君に、悪魔がとりついてたって、そういうこと?」
「そうなるな」
「おいおい、るーこ…。それ本気で言ってるのか?」
「なんだ、うーは信じないか」
「いや、信じるも何も、悪魔だなんて…。いるわけないだろ、そんな」
「透明人間はいるのにか?」
「いや…それは…」
 るーこの言葉に貴明が言葉に詰まる。確かに、悪魔はダメで透明人間は良いなどとは、それは筋が通っていないだろう。
 貴明もそのことに気付いたのか、何となく納得しかねる様子ではあったものの、それ以上反論しようとはしなかった。
「…もしかして、ユウ君が悪いことしてたのも…その、悪魔さんがとりついてたから、なのかな」
「…さあな。それは判らん」
「あ、でも…」
 ふと、優季は思い出して、持ってきていた魔導書をバッグから取り出して開いた。
「ほら、ここ…」
「え?」
 優季が指さしたのは、次の一説。バエルについての説明書きの部分だった。

 『また、奸計を授ける力を持っていることでも知られている』

「かん…けい? …って何?」
「おまえな…国語の授業もうちょっとまじめに受けろよ」
「う、うう〜。い、いいでしょ、もう、タカ君のイジワル」
「奸計ってのは、要するに悪知恵とか悪だくみのことだよ。奸計を巡らすとか、そういう使い方」
「あ、じゃあ、やっぱり?」
 本から顔を上げて、このみが納得したような顔になる。
「きっとそうだよ。ユウ君、この悪魔さんにそそのかされちゃったんだよ」
「そうか?」
 しかし、貴明はと言えば、うさんくさそうな顔でこのみの言葉に疑問を投げる。
「雄二のことだからなぁ。ただのスケベ心だったかも知れないぜ? 普段からヘンなことばっかり言ってるし」
「むー、そんなことないよ。タカ君、ユウ君のこと信じてあげないの?」
「そうは言ってもなぁ…」
「ねえ、草壁先輩はどう思いますか?」
「私?」
「だって、タカ君ったらひどいんだもん」
「そうね…」
 このみの言葉に、優季は少し考える。
「もしも…悪魔に乗っ取られていたんだとしたら、普通ならどうなるかな」
「え?」
 言葉の真意を測りかねたのか、このみがきょとんとした顔になる。
「このみちゃんだったら、どうなるかな」
「うーん…わかんないよ。でも、やっぱりイタズラとか、悪いことするんじゃないかな」
「貴明さんは?」
「うーん、まあ、俺もそうかな」
「そうですね。きっと…想像もつかないくらい、酷いことをいっぱいするでしょうね」
「そう…だね」
「でも、向坂君は、そうじゃなかった。判っている範囲で言えば、女子更衣室を覗いたくらいですか? これって、ある意味凄いですよね。悪魔に取り憑かれていたのに、エッチなことしか頭になかったなんて」
「…まぁ、言われてみればそうかも。あいつらしいけどさ」
「ふふ…。そう考えれば、すごい精神力をしてますよね。きっと、悪魔さんも驚いたでしょうね…」
 くすくすと笑って、優季はあの時に見たバエルの顔を思い出す。
 ひょっとして、優季やるーこに危害を加えることもなく、黙って退去していったのは、宿主になっていたであろう雄二があまりにも自分の意のままにならなかったからなのかも知れない。
 せっかく人間界に来て、人間を乗っ取って、でも宿主がやることは女子更衣室を覗いたりするだけ。これでは、魔王としてやっていられないだろう。
「あ、あはは…先輩、それって凄いんですか?それとも、やっぱり凄くないのかな?」
「ふふ。うふふ…。さあ、どうなんだろうね? でも、いいんじゃないかな? 向坂君らしくて」
「…そう、ですね。ぷ…あはは…」
 優季と、そしてこのみの顔から笑みがこぼれる。きっと家で布団にくるまって、うんうん呻いているであろう雄二が、何とも可愛く思えてきたのだ。
「あ、そうだ…るーこさん、私、聞きたいことがあったんですよ」
「る? なんだ、うーき」
「あの時…どうして、花梨さんを呼びに行かなかったんですか? 結果として成功しましたから良いですけど…、本当なら、術者本人にやらせるのが良かったんじゃないでしょうか?」
「ふふ、そのことか。なに、別に深い意味はないんだが…」
 そう言って、るーこがふと窓の外に視線を移す。その先には、体育館の建物があった。
「うーささのやつ、あれはあれで責任感があるからな。あの騒動の元凶が自分だと判ったら、落ち込んでしまうかもしれない」
「ああ、なるほど…」
「いや…、実はそれは大きな理由ではないのだがな」
「え?」
「…秘密にして放っておけば…また、何かやらかすかもしれないだろう?」
 そう言って、るーこはふっと笑うと、彼女にしては珍しく、イタズラっぽくウィンクした。
「その方が、きっと面白い」
 優季も、貴明も、そしてこのみも、3人ともがしばしこのお茶目な自称宇宙人の言葉に呆気にとられる。
 だが、やがて誰からともなく笑い声が起こり――和やかな食堂に、笑顔の花が咲いた。
「あれー? 4人集まって何やってんの?」
 と、そこに、話題の的である笹森花梨がやってきた。手にはいつもの通りのタマゴサンドを持って、どうやらいまからお昼らしい。
「あは…、あはははははは!!」
 その姿を見た瞬間、またしても4人に笑いの渦。なんともまぁ、絶妙なタイミングで現れたことだ。
「え?え? なになになに!? 何が面白いの!? ねえ、ちょっと、あたしにも教えてよ! ねえってばー!」
 だが、当の本人はその真意を察する由もなく、何やら楽しげに笑っている四人の中に入っていく。
 何も変わらない日常がそこにあった。
『あ、ひょっとして…』
 るーこが本当に望んだものは、もしかするとそれだったのかもしれない――。
 優季はそう思う。

 うららかな秋の日の午後、いつもと変わらぬ笑い声が、まだ暖かい風に乗って、青い空へと溶けていく。
 和やかな時間は――これからも、まだまだずっと続いていく。


――――――――――――――――おわり


参考文献
「魔導書 ソロモン王の鍵」 編著:青狼団(二見書房)
「魔女と魔術の事典」 著:ローズマリー・エレン・グィリー 監訳:荒木正純、松田英(原書房)
「魔法事典」 監修:山北篤(新紀元社)
「透明人間」 著:H.G.ウェルズ 訳:雨沢泰(偕成社)
「透明人間」(Peace of Mind所収) 作詞:稲葉浩志(VERMILLION RECORDS)
「透明人間の納屋」 著:島田荘司(講談社)


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