揺れる想い 〜後編〜
曲名シリーズ 第三作品
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     ※


――うーん…わかんない。お父さんは、どうしているって思うの?
――そりゃあ、いた方が楽しいからさ
――楽しい?
――宇宙の人たちとお友だちになれたら、きっと楽しいと思うなぁ
――お友だち…


     3


 ぴくっ…

「おっ」

 くんっ…くく…

「おっ、おっ…。反応アリ! 行けるかも!?」
 妙なL字型の棒を両手に持って、背負ったリュックには地図とバナナ。ポケットにコンパスといくらかの小銭を入れて、数時間前からうろうろと街を徘徊しているのは、誰あろう笹森花梨である。
 年も明け、雪のちらつく寒さも今は少しずつ遠のきつつある3月19日の土曜日。吹き渡る風にそろそろ桜色の季節が囁き始める穏やかな午後の街中で、両手に奇妙なアンテナを構えてあっちへウロウロこっちへウロウロ。はたから見ればまったく規則性のない足取りで節操なく歩き回る女子高生の姿は、はっきり言って怪しさ大爆発。現在、彼女はダウジングの真っ最中なのだ。

 あの雷の日からこっち、いちおう他にもいろいろとやってはみたものの何一つうまくいかない。いいかげん気力が尽きても良い頃だが、賞賛すべきド根性で、3学期もそろそろ終わりという頃になってもしぶとく活動を続けている。それもひとえに創立までの苦労があってこそなのだが、成果という意味では相変わらず地を這い続けているミステリ研。
 それでも、今年4月の新入部員獲得は目指したいし、ならば実績の一つくらいは今の内に作っておきたいのだ。
 新入部員が入ってくれば、活気が出るに違いない。
 一緒に活動してくれる人がいれば、きっと楽しくなるに違いない。
 そうでも思わなければ、挫けてしまいそうなのだ。だから、頑張る。
 そして、本日挑戦しているのが、ダウジングによる宝探し。水脈か、鉱脈か、温泉か。そんなたいそうなものでなくとも、せめて何か一つ面白いものが見つからないかと、お弁当をリュックに詰めて朝から街を探索しているのだ。

 なお、誤解されがちであるが、ダウジングそのものは特殊能力の類を必要としない、誰にでもできる探索技術である。
 もともと占い師に優秀なダウザーが多かった上、中世において呪術や魔術と同種のものとして扱われるようになってしまったため、今でもそのような見方が根強く残っているが、実際にはそうではない。ベトナム戦争時のダウジングによる地雷発見は言うに及ばず、石油発掘、水道局の水脈調査など、実際の探索作業において現在でも広く採用されている、きわめて身近な技術なのだ。
 その歴史もきわめて深く、一説に寄れば七千年前にはすでに実施されていたとも言われている。最近では、ダウジングの科学的な検証も行われており、人間が持つ本来的な能力として、論理的に立証される可能性も否定できないだろう。
 見た目には、L字型のアンテナをピコピコ揺らしながら歩く不気味な光景に映るかもしれないが、なかなかどうして侮れない技術なのである。
 これなら何とか自分にもできるのではないかと花梨が思ったのも無理はないし、実際にその選択は間違っているとは言えないだろう。
 ある意味、もっとも初心者向きのミステリー実験なのだ。
 とはいえ、いきなりたいそうなものが見つかるほど世の中甘くない。何かあったとしたら他の誰かが見つけていると考えるのが妥当だし、仮に見つかっていないとすれば見つかりにくい理由があると考えるべきである。
 案の定、半ドンの土曜日の午後いちばんに学校から出発したこの探索も、2時間を消化した15時現在、未だめぼしい収穫はない。
 それでも、何か一つ、どんな小さなものでも良いから一つ、収穫を求めて歩いている内に、先述の反応があったというわけである。

「こっち…?」
 アンテナが指し示すのは南の方角。感覚を信じて、花梨は足をそちらに向けて歩き出す。
 地図上のダウジングから始めて、公園や商店街などを横切りつつ、所はすっかり見知らぬ街並。川を渡る橋もすっかり越えて、閑静な住宅街も良いところの場所だった。こんな所にお宝が眠っているかどうかははなはだ疑問であるが、L字アンテナはピコピコと反応を示している。
「すごい…これって、ひょっとしてひょっとしちゃうのかな!」

 くっ、くっ…

 ゆらゆらぴくぴく、アンテナが揺れる。示す方向はどうやら一点のようで、歩いている内に通り過ぎたりするのか、ゆっくりと角度を変えながらどこかを指している。
 歩幅と歩数と、アンテナの角度の変化を考え合わせるに、どうやらそれなりに近くに目標はあるようだ。
「何だろ、何だろ、何だろう〜。え、え、もし温泉とかだったら、花梨ちゃんってば大金持ち? ううん、そういうのじゃなくても、例えば誰も知らないミステリースポットとか、神秘のオーパーツとか、ツチノコとか、UFOの着陸地点とか、チュパカブラとか〜…」
 むしろ後半に行くにつれて確率が低そうな話であるが、夢だけなら見るのはタダ。ようやくの大物ヒットを予感させるL字アンテナに、嫌が応にも期待は高まるというものだ。
 そしてしばらくの探査行。突き当たりのT字路を右に、次の交差点は真っ直ぐ、その次を左へ少し。
 歩く内に、さらにぴくぴくと反応を示すアンテナ。これは、冗談抜きで凄いことになるのかもと、先ほどまでは半信半疑だった花梨の心も引き締まる。
 やがて、彼女の前に現われたのは――
「うわ…、大きなお屋敷ぃ〜」
 それは、塀の端から端まで優に百メートルは超えているのではなかろうかというような、見たこともないほど大きなお屋敷だった。門はと言えば、まるで時代劇にでも出てきそうな威圧感のある構えだし、周辺はよく掃除されているらしくゴミ一つない。かろうじて表札に『向坂』という名字が入っているから民家だと知れるが、もし『名所』と書かれた立て看板でもあれば、すんなり信じてしまえそうなほどだった。
「え、もしかしてここ…」
 嫌な予感がして、再度彼女はL字アンテナに目を戻す。もしこんな頭に『ヤ』の付く自由業の人の家みたいな屋敷の中だったとしたら、入るに入れない。
 しかし、物事がうまくいかないのは、ある意味彼女のスキルのようなものである。
「…この中なんだ…」
 見事予感は的中。ロッドの先はぴたりと門の向こうを示していた。
「そんなぁ…」
 がっくりと肩を落として、目の前の門に目をやる花梨。さすがにこの中に忍び込むには、勇気と勘違いした無謀さが必要である。気後れするなという方が無理な話だ。
 とはいえ、4月の入学式までもう間がないのも事実。ある意味、瀬戸際である。
「……どこか……見つからないように入れる通用口とかないかなぁ」
 虎穴に入らずんば虎児を得ず。いや、この場合は、窮鼠猫を噛むとでも言おうか。勇気と勘違いの無謀かどうかはともかく、ここまで来て手ぶらでは帰れないと、彼女はあたりを見渡して、忍び込む隙がないかと探し始める。
 だが、とりあえず見える範囲では、わざとらしいハシゴも、とってつけたような通用口も見あたらない。3メートルはくだらない高い塀が、どこまでも続いているのが見えるばかりである。
 試しに、外周の裏側にも回ってみたが、めぼしいものは特にない。裏口は確かにあったが、鍵がかかっていた。
「はぁ…。やっぱだめか。それに、人の家に忍び込むのも良くないよね」
 門の前まで戻ってきて、ため息を一つ。ロッドの反応は惜しいが、入れないのでは仕方ない。もう一度、他の場所をダウジングしてみようかと、彼女はその場から立ち去るべく、きびすを返そうとした。

 ――と

 ぎぃいいーっ…

「え?」
 何か、大きなものがきしむような音が聞こえて、花梨は慌ててその場を振り返った。見ると、向坂家の大きな門が開いて、中から赤い長髪が印象的な、見たこともないような美女が顔を覗かせていた。
「あら?」
 その女の人は、花梨の姿を見ると、これまた見たこともないような完璧な微笑を浮かべて、ゆっくりと会釈をした。思わず花梨も姿勢を正して、会釈を返す。
「あ、えっと…」
「お客様かしら?」
 そう言って、おそらくはこの家の娘さんなのであろう女性が、門の外まで出てくる。花梨よりも頭一つ分くらい上背のある長身で、スタイルもうっとりしてしまうほど非の打ち所がない。パンツルックなのに女性らしさはまったく隠しきれておらず、思わず心の中で、ぼん・きゅ・ぼん、と奇妙な擬音を奏でてみる花梨である。
「あ、あの、いえ、えっと…。そういうわけじゃ、ないんですけど」
「そうなの? てっきり、雄二に彼女でもできたのかと思ったのだけれど」
「ゆうじ?」
「私の弟。あなたと同い年くらいだと思うから、なんとなくね。…ああ、ごめんなさい、名前も名乗らなくて。私は向坂環。この家の長女よ」
「え? あ、その、あたしは、笹森花梨って言います」
 そう言えば自分も名乗っていなかったと、慌てて返す花梨。門前でウロウロして、見つかっても名乗らないでは、どこの泥棒だか知れたものではない。
「笹森さん、ね。で、どうしたのかしら?」
「あの、あたし、ダウジングしてて」
「ダウジング? 超能力の?」
「はい。で、あの、このお屋敷の中に、何か宝物みたいのがあるんじゃないかなぁって」
「ふうん…。でも、ダウジングって、鉱脈とかを見つける時に使うやつでしょう? この土地の地下にそう言うのがあるなんて、聞いたことがないけれど」
「あ、ダウジングは、そういうのに限らなくて…」
 ここで、しばらく花梨のダウジング講座が開陳されることになる。簡単な説明ではあったが、幅広い用途に用いられると言うこと、それから超能力と言うほど特殊なものではないことは、どうやら向坂環にも伝わったようである。
「へえ。じゃあ、何か宝物みたいのも探せるわけね?」
「はい。それで、あの〜…。少しだけで良いんですけど、この家の…」
 そこで、何となく言いよどんでしまう花梨。無理もない。いきなり押しかけて、ダウジングで反応したから家の中を探させてくれと言ったところで、普通は断られるだろう。
 しかし、意に反して、目の前の女性はイタズラっぽい笑顔を浮かべると、こくりと首を縦に振った。
「ふふ、そうね。いいわよ」
「ホントですか!?」
「ええ。だって、面白そうじゃない? 宝探しなんて、子供の時以来だわ。その代わり、ちゃんと私も付き添わせてね?」
「もちろん!」
「じゃあ、即席の探検隊ね。ほら、いらっしゃい」
「はい。じゃあ、おじゃましま〜す!」
 何とも奇妙なでこぼこコンビの探検隊だったが、とにもかくにも向坂家の探索がここに開始されたのである。


     ※


「えっと…こっち」
「ふんふん。じゃあ、やっぱり蔵にあるものじゃないのね」
 向坂家の門の内側すぐから再度ダウジングし直してから数分、二人は母屋に上がって、ゆっくりと目的の場所がどこかを探していた。最初、環は蔵にあるものが反応しているのではないかと言っていたが、始めてみるとどうやらそういうわけでもなさそうだった。
「でも何かしら? 私も久しぶりに帰ってきたばかりだし、お父様が新しい焼き物でも買われたのかしら」
「久しぶりに?」
「ええ。この間まで九条院にいてね。先週の日曜日に帰ってきたばかりよ」
「九条院!? すごい名門なんだ〜」
 九条院と聞いて、花梨の顔に驚きの色が広がる。九条大学付属女学院と言えば、日本トップクラスのお嬢様学校として名高い、名門中の名門校である。卒業後はそのまま九条大学に進学するのが通例だが、東大、京大、あるいは海外の名門大学へ進むものも少なくない。その九条院出身と言うことは、家柄もさることながら、本人の資質も日本有数にハイレベルだと言うことだ。
 だが、当の本人はと言えば、そんな花梨の驚愕を笑って否定する。
「ただの山の中の鄙びた学校よ。閉鎖的なだけで、たいしたこと無いわ。あんまり楽しくないから、こっちの学校に転校してきちゃった」
「そうなんですか?」
「ええ。まだこっちの友達には挨拶に行ってないけどね、明日あたり、会いに行くつもり」
「そうなんだ〜」
「そういえば、あなた一人なの? 他の部員さんとかは?」
「え? あ…、あの、あたし一人で…」
「そう…。じゃあ、来月あたり、部員が増えるといいわね」
「はい!」
 励ましてもらって、何となく気分が晴れる花梨である。そういえば、家族以外でこんなに優しい言葉をかけてもらったのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
 ――どうせなら、この人が入ってくれれば良いんだけど――というのは贅沢な願望だろうか?

 くんっ…

「あ、こっちかな」
 何となく会話に没頭しかけたが、ダウジングは続いている。ロッドの先は再び傾いて、どうやら階段を昇りたいようだ。
「こっち? じゃあ、お父様の書斎でもないのね…。私の部屋でもないみたいだし、どこに向かってるのかしら」
 この家の中としては意外な方向に向かっているらしく、環がますます首をかしげてL字のアンテナを見つめている。
「2階だと、雄二の部屋があるけれど…。あの子、骨董品とかには興味がないし」
「ミステリちっくなものとかは?」
「そういうのも聞いたことないわね。手品はやったことあるみたいだけれど、ミステリーとは違うでしょ?」
「うーん。じゃあ何だろう…?」
「何かしらね…」
 双方首をかしげつつ、階上へと上がっていく。ほどなく上がりきると、左側に『開けるな危険』という札のかかった扉が見えてきた。
「危険?」
「気にしないで」
 ロッドはやはりこの部屋の中を示している。
「まあ、とにかく探してみましょうか」
「いいんですか? 弟さんの部屋なんじゃ?」
「構いやしないわよ。男の子なんだし、見せられないようなものなら、最初から持ってなければいいんだから」
「じゃあ、遠慮なく…」
「行っちゃって行っちゃって」
 なんだか少し気が引けるものの、姉が良いと言っているので、思い切って『開けるな危険』の扉を開けてみる。中には誰もいないようで、特にとがめる声も聞こえてこなかった。
「うわぁ…、なんていうか…」
 初めて見る男の子の部屋。案の定というか噂に聞いた通りというか、服は脱ぎ捨てられているしカバンは放りっぱなし、本はカバーが外れているし、CDの蓋は開きっぱなしで散らかり放題。
 なんともはや、いかにも『男の子の部屋』と言った風情である。
「まったくあの子は…。あれほど、私がいない時でも部屋は綺麗にしておくように、って言っておいたのに。帰ってきたら、よーく叱っておかなくちゃ」
 内部の惨状にあきれた様子で、環がぶつぶつと文句をつぶやく。部屋の主には気の毒だが、どうやら穏便には済まなそうだ。
「まあいいわ。で、ダウジングはどうなったの?」
「ええっと…、こっちみたい」
 ロッドは先ほどからある一点を指し示しているようだった。その先には、年代物らしい、古びたタンス。
「タンス?」
「ふうん…、この中か。何か隠しているのかしら」
 と、環はロッドの先を確認するやいなや、無造作にタンスの扉を開け放った。中にはジャケットやジャンパーなどの上着類と、いくつかのネクタイ、それから鏡が据え付けられている。上着類の下方には引出しが並んでおり、おそらくはシャツや下着などが入っているのであろう。
「あの、開けて良いんですか?」
「大丈夫大丈夫」
 大人っぽそうな外見とは裏腹に、ずいぶん大胆というかさばけた性格の人のようだ。プライバシーなどどこ吹く風とばかりに、まったく躊躇することなく衣類をかき分け、引出しを開けて、中身を改めている。
「うーん…、たいした物は入ってなさそうだけれど…。どの辺りとかはわかる?」
「ええっと…」
 促されて、花梨はタンスの中にロッドを突っ込んで反応を調べる。何度かアンテナの先を上下させている内、ある一点でロッドがピクリと反応した。一番下の引出しのようだ。
「ここみたいです」
「…ふうん。何となく判ったわ」
「え?」
「よいしょ」
 と、いきなり環が引出しをタンスから引っこ抜いた。あとにはもちろん、ぽっかりと開いた空段。
「え? なに?」
「たぶんね…、この奥」
 そう言って環は腕を突っ込み、何やらごそごそと手探りしだす。やがて何か見つけたのか、ゆっくりと腕を引き抜いた。
 その手には、一冊の本。
「……これは…」
 大判の装丁で、表紙には色とりどりのフリル付きの衣装を身にまとった可愛らしい女の子が数人写っている。
 そして、環が少し本を開くと、無意味に開いた胸元の谷間を強調したり、スカートを持ち上げて下着を見せてみたり、お尻を突き出して四つんばいになっていたりと、思わず赤面してしまうような扇情的なポーズがページに乱舞。PTAに持って行ったら、お堅いおばさん連中がヒステリーでも起こしそうな内容である。
 本のタイトルは『ときめきのメイドさん 〜ご主人様、だあい好き♪〜』。
 ある意味なかなかのお宝といえるだろうか。
「…ミステリーじゃないぃ…」
 思わず落胆の声を落とす花梨。だが次の瞬間、花梨の耳に、物理的な冷気を伴った声が聞こえてきた。それはこの世の誰も聞いたことのない音――
「…………笹森さん」
「はい?」
「ありがとう、よく見つけてくれたわね」
「え、いえ、あの…」
 ゴゴゴと擬音が聞こえてきそうな強烈なオーラを感じて、思わず花梨が後ずさる。
「それと…何か、言いたいことはあるかしら…? 雄二」
 ゆっくりと、環が振り返る。
 表情は微笑。しかし、内面の感情は明らかにそれとは違うと知れる表情。
 そして、人の気配を感じた花梨が背後を振り返ると、そこには――
「は…はは……。いや、姉貴、俺の部屋で何やってんの…」
 どう顔面の筋肉を動かしたら、これほど引きつった表情になるのだろうかと言うような顔で、こちらを見つめている男の子。ほとんど涙目になって、環が手に持った写真集を凝視していた。
 どうやらくだんの向坂雄二その人であると思われる。
「宝探し…」
 ぱっと聞きでは穏やかな声で、環が雄二の問いに答える。
 しかし、端で聞いている花梨の腕に思わず鳥肌が立つような、凶悪な波動がそこにはあった。
 ここにいてはいけない。何かが強く、花梨の心を叩く。
「た、たから? ああ! それね! うん、すごいお宝なんだよね、それ! え? ああ、勘違いしなくても、何て言うかえろえろ〜んなやつじゃなくて、普通の健全なグラビアで、もうまったく問題なしっつーかなんつーか…。なんで言い訳してんだろうな、俺、はは…」
「雄二」
「は…」
「念仏を…」
「まて! まてまてまて! 姉貴ちょっと待て! 違うんだ、これは男なら誰しも通る道であって、決して人の道に外れた行いでは…」
「唱え始めなさい!」

 ガッ
 ギリギリギリ…

「あだだだだだ! 割れる割れる割れる! ちょっ…、割れるから! 死ぬから!」
 目にも留まらぬ早業とはまさにこのことか。一瞬で間合いを詰めると、赤髪のお姉さんは、いたいけな弟の顔面をむんずと握って、ギリギリと締め上げる。見事なアイアンクローだった。
 思わずあんぐりと口を開けて、目の前の光景に圧倒される花梨。姉弟げんかの現場を生で見るのは初めてだが、どこの家庭でもこういうものなのだろうか?
 と、その時、驚いて声も出ない花梨を振り返って、環がにっこりと微笑んだ。正直、怖い。
「笹森さん」
「は、はいっ!?」
 思わず気をつけの姿勢。
「いだいいだいいだだだだだだ! 割れる割れる! 頭骨が割れる! 何か出る!」
「ごめんなさいね、ちょっとこの子の教育が必要になっちゃったみたいだから…。悪いんだけれど、今日は帰っていただいても良いかしら?」
「わ、わかりました! 花梨ちゃん、今日はもう帰らしていた、いたた、いただきます!」
「ちょ、ちょっと待てそこのアンタ! 俺を見捨てて行くんじゃな……」
「し、失礼しましたぁ〜〜〜〜!」
 三十六計逃げるにしかず。助けを求める向坂雄二氏の悲鳴に耳を塞いで、彼女は全力で階段を下り、廊下を走り、玄関を駆け抜けて、門から外へと飛び出した。
「いやだから待て! 頼むから待っ…、って死ぬ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! 頭骨が割れる! 脳が出る!」
「うるさいこのバカ! あんたのせいで、大恥かいたじゃないの!」
「俺のせいじゃねえええええええ〜〜!」
 時刻はそろそろ午後4時。夕暮れがゆっくりと西の空を染めつつある住宅街に、哀れな少年の悲鳴が長く尾を引いていた。


     ※


「あー…びっくりしたぁ」
 惨劇の向坂家を後にして数分。ここまで来れば大丈夫だろうと一息ついて、花梨は先ほどの一件を思い出す。ずいぶん強烈なアイアンクローのようだったが、はたしてあの男の子は大丈夫なのだろうかと、少し心配になってくる。
 だが、それより何より、ダウジングの結果見つかったのが『ときめきのメイドさん 〜ご主人様、だあい好き♪〜』だったのが、猛烈にがっくりと来てしまう花梨である。
「男の子にはお宝かもしんないけど、あんなの見つけてもぜんぜん嬉しくないよ、もう…」
 しかし、それでもダウジングそのものはいちおう成功と言って差し支えないだろう。ものはどうあれ、ロッドが示す場所にアイテムはあったのだ。
 少なくとも空振りではない。
 ホームラン前の大ファール――そう思えば、先ほどの失敗も何とか納得できないこともなさそうだ。
 ひょっとしたら次。次こそ、何か凄い発見にヒットするかもしれない。
 そう思い直し、彼女はもう一度両手のロッドをピコピコと、ダウジングを再開する。
 だが、少なくとも野球には『三振前の大ファール』という慣用句も存在する。
 それを示すものとして、次の1時間で花梨が発見したお宝は以下のようになる。

 1.パンクしたサッカーボール
 2.端の欠けた茶碗
 3.フレームの歪んだ自転車
 4.潰れたミカン
 5.鍵穴に何か詰まっている南京錠
 6.湿ったエッチ本

「あーーーーもう! 全部ミステリーじゃないぃ!」
 時刻は既に17時。いいかげん陽も長くなってきたとはいえ、夏至にはまだまだ遠い3月のことであるから、辺りはもう夕暮れというのもはばかられるほど暗くなっている。
 夜の眷属に覆われゆく空にはいくつかの星。まだ高くない場所にオリオンの三連星が光っている。あと少しすれば、まだかすかに赤みを残した西の空も、すっかり濃紺に染まるだろう。
 そろそろ切り上げて帰らないと物騒だし、親にも心配をかけてしまう。
 しかし――
「もう一回…もう一回だけ、やってみようかな…」
 ロッドに目を落として、花梨は再度のチャレンジを口にする。
 それも無理からぬ事だった。いくらハズレくじばかりを引き続けているとは言え、まるっきりの空振りというわけではない。確かにモノは出てきているのだから。
 しかも、お宝の価値を二の次にすれば打率は10割。ある意味、調子はすこぶる良い。このまま帰って運気をリセットするのは、あまりにも惜しかった。明日になって、今度は何も見つからなくなったでは目も当てられない。
「次! 次ダメだったら帰ろう。これが最後…」
 意を決すると、彼女はラストチャンスに念を込め、アンテナをピコピコ揺らしながら歩き出す。示す方向は西。
「お願い…」

 ピコ ピコ

 街灯が照らす路地の中、寒風に震えるようにロッドが揺れる。
 相変わらず、アンテナの反応はそれなりに強い。何か意志でもあるかのように、示す方向は定まっているようだ。
「ちょっとだけでいい……何かまともなもの……」
 十字路を左、その次のT字路も左、次の交差点は右。
 示す先に何があるのかは判らない。割れた茶碗や南京錠でないことを祈るばかりである。あまりにも何も見つからないと、来月に控えている始業式の、クラブ活動オリエンテーション時のアピールにも困る。
 ただでさえマイナーぶっちぎりの分野。成果も何もなく、ただ『来たれミステリ研!』などとコールするだけでは、獲得できる可能性は皆無だろう。
 どうしても何もなければ、非合法手段でも使おうかとも考えてはいるのだが、それで入部させたところで、継続して参加してもらえるかは不明である。意固地になって来ない可能性もあるだろう。できるなら、自主的に参加してほしい。
 だから、一つでも良いから、何か見つけておきたい――、そう花梨は思う。
 少しだけでも興味を持ってくれれば、そこから何かが生まれるかもしれない。両手のロッドは、彼女の夢のありかを示すコンパスでもあるのだ。
「こっち…?」
 また少し、反応が強くなってきた。
 場所は、先ほどと変わらず閑静な住宅街。多少違っているところと言えば、向坂家が建っていたところよりも、幾分か庶民的というか、こじんまりした家が密集していることだろうか。
 灯りの付いた窓から夕餉の匂いが漂ってくる辺り、親しみやすいというか慣れた雰囲気の街並である。
 そして、どうやらその中の一件を、ロッドの先は示しているようだ。
「あの家かな?」
 街灯にぼんやりと照らされた壁は煉瓦調。どうやら屋根も似た色のプレートで葺いているらしく、暖かそうな色合いにまとまった家である。芝生の庭には周りを囲むように花や木がたくさん植えられ、どうやら裏庭に至るまで緑で覆われているようだ。かまぼこ形のポストなどのエクステリアとも相まって、全体的にカントリー風のたたずまいだった。
「ゆずはら?」
 表札には『YUZUHARA』の文字。譲原か、あるいは柚原とでも書くのだろうか。いずれ、灯りが付いていないところを見ると、出かけているのかなんなのか住人はいま居ないようである。
「どうしよう、誰もいないのかな…」
 ロッドはこの家を示しているが、まさかピッキングで忍び込むわけにもいかない。さすがに無人の家の中では手の出しようがない。
 だが――
「あれ?」
 途方に暮れかけた花梨だったが、アンテナの先をよく見ると、微妙に家の中とは違う場所を示しているようだ。
 どうやら、庭の中のどこかのようだ。
「庭…? 何か埋まっているとか?」
 幸いというか、塀で囲われた家ではなく、庭にはそのまま入り込める。不法侵入とはいえ、庭にちょっと入るくらいなら怒られないだろうと考えて、花梨は示す方角に向かって足を踏み出した。
「こっち…?」
 1歩、2歩、3歩。すっかり暗くなった中を、ロッドの感覚だけを頼りに歩いていく。街灯の灯りはあるが、切れかけているのか、いまいち明るいとは言えなかった。

 ――と

 ムギュッ

「キャイン!」
「ひゃっ!?」
 何かぐんにゃりしたものを踏んだような感覚。それと同時に聞こえてきた悲鳴のような声に、さすがの花梨も驚いて飛び上がった。
「な、なに?」
「クゥ〜ン…」
 見ると、何か毛むくじゃらの生き物が、足下で蠢いていた。かなり大きい。
「け…毛羽毛現!?」
 どマイナーな日本妖怪の名を口にして後ずさる花梨。だが、のっそりと起き上がった毛羽毛現の顔が薄暗い街灯に照らされると、どうやら大きな犬のようである事が判った。
 クゥンと切なげな声を上げて後ろを振り向くと、ぺろぺろと自分の尻尾をなめ始める。
「あ、ああ、ごめん、しっぽ踏んじゃったかな」
 デリケートな部分を踏んづけてしまったかと、花梨が慌てて犬に謝る。日本語が通じるかは不明だが、誠意は見せておかないと吠えられかねない。
 ましてや、こんな大きな犬――犬小屋の表札には『GENJIMARU』と書かれていた――に襲いかかられた日には、リアルに命の危機である。
 だが――
「スン、スン」
「あれ?」
 意に反して、少し尻尾を気にしたかと思うや、ゲンジ丸氏は怒るどころか何事もなかったかのように振り返ると、犬小屋の中にのそのそと入っていってしまった。そして、小屋の中で「あふぅ」と大きくあくびをすると、そのままふにゃりと寝そべってしまう。花梨のことはどうでも良いようだ。
 そして、スンスンと2〜3度鼻息を立てたかと思うや、すぐさまぐうぐうと鼾をかいて眠りについてしまった。
「お、大人しいって言うか…のんきな犬だなぁ…」
 見知らぬ人間に庭の中まで入ってこられ、さらに尻尾を踏んづけられたにも関わらず、その相手にはまるで興味を見せず犬小屋に入って寝てしまう犬など、世界広しといえども、この犬だけだろう。
 ある意味凄まじい大物なのかもしれないが、番犬としてはまったく役に立ちそうにない。
「まあいいや、この隙に…」
 夢の世界に旅立ったゲンジ丸氏をおいて、再度花梨はアンテナに目を戻す。
 だが、彼女はすぐに首をかしげて、目の前のロッドと犬小屋を見比べ始めた。どうも、アンテナの示す先がおかしいのだ。
「これって…」
 なんと、示す方向はまさにゲンジ丸の犬小屋の中だった。妙な場所を示すロッドに、花梨の首がますますかしげられる。
「え、まさかホントに毛羽毛現じゃ…ないよねぇ?」
 いくらなんでも…と思いながら、眠ったゲンジ丸の顔を近くでじーっと見つめてみるが、見た目は長毛種の犬そのものである。牧羊犬というのだろうか、血統書が付いているのかは判らないが、ちゃんとしていればそれなりに気品のありそうな感じだ。目がすっかり隠れるくらいの長い毛は、よく手入れされているのか清潔そうで、手で触るとふかふかな感触で気持ち良い。飼い主に大切にされている犬なのだろう。
 となれば、ターゲットは犬ではなく、犬小屋の中の何かと言うことだろうか?
 だが、犬小屋の中にはゲンジ丸が寝そべっていてよく見通せない。バッグから懐中電灯を取り出して隙間を照らしてみるのだが、なにぶん犬の身体が大きすぎてよく見えない。
「ね、ねえ、えっと…げんじまるちゃん? ちょっと、そこどいてもらっても…」
 ちょいちょいと、ゲンジ丸の鼻の上をつついてみる。大人しそうな犬だから、噛まれることはなさそうだという判断だ。
 だが、ちょっとつついただけでは、蚊に刺された程度の刺激もなかったらしい。ゲンジ丸の反応はと言えば、スンスンと鼻息を少し鳴らしただけだった。
 しかたないので、今度はもう少し強めに鼻先をつついてみる。
「ねーえ、ちょっと、そこどいてくんないかなぁ〜。ちょっとで良いから…」
 猫なで声――この場合は犬なで声とでも言うのか、精一杯甘ったるい声で花梨がゲンジ丸におねだりする。が、反応は相変わらず鈍い。

 ツンツン
「ねーえー」
「スン、スン」

 ツンツンツンツン
「おーきーてー」
「スン、スン…、あふぅ…」

 ツンツンツンツンツンツン
「おーねーがーいー」
「……………………」

 ツンツンツンツンツンツンツンツン
「げーんーじーまーるーちゃーん」

 どうあっても寝ようとするゲンジ丸に、どうあっても起こそうとする花梨。寝ているゲンジ丸にとっては迷惑なことこの上ないだろう。
 だが、このまま妨害され続けてはたまらんとでも思ったのか、ついにゲンジ丸がのっそりと重たそうに顔を上げた。
「ヲフ…」
「きゃ♪ 起きた起きた♪ ごめんねえげんじまるちゃん、ちょっとだけどいててね?」
 だが、花梨の意に反して、ゲンジ丸は犬小屋からは出てこなかった。
「あれ?」
 その代わり、ゲンジ丸は小屋の中で身体を反転させると何かもぞもぞと捜し物を始めたようだ。そして、すぐに目的のものを見つけたらしく、再度顔をこちらに向けて、口にくわえた何かを花梨の方に差し出した。
「え? 何これ? これがお宝?」
 慌てて花梨はゲンジ丸が差し出したものを受け取る。すると、ゲンジ丸は一仕事終えたとでも言うように、犬小屋の中で伏せって寝てしまった。1から10まで、寝ることしか頭にないようだ。
 その様子に少し呆れる花梨だったが、しかし、今重要なのはゲンジ丸にもらったプレゼントの方である。早速、渡されたプレゼントに懐中電灯の光を当ててみると、何やら棒のような形のものである。
 だが、しばらくモノを改めていた花梨の口から、思わず落胆の声が漏れた。
「………………何これ」
 手のひらに乗せられた、ゲンジ丸からのプレゼント。それはでこぼこと所々へこんで、端の方も少しちぎれている様子の茶色い棒。かすかに香ばしいような匂いを発散していて、いかにも犬が好きそうな――
「犬用のガムじゃないの…」
 しかも食べかけ。
 これもまた、ゲンジ丸にとってはお宝といえるのかもしれない。
「〜〜〜〜っっっ、ミステリーじゃないぃ〜〜〜」
 本日最後のダウジング。成果は『食べかけの犬用ガム』。もう何度そうしたかわからないが、今度もまたがっくりと肩を落とす事になった花梨である。すやすやと気持ちよさそうな寝息を立てているゲンジ丸が実に憎らしい。
「はぁ…帰ろ…」
 ガムを犬小屋の入り口付近にちょいと立てかけると、花梨はすっかりやる気をなくした表情でバッグにロッドをしまい、帰り支度を始める。いい加減辺りは真っ暗だし、これ以上続けても無意味だろう。
「なーんにも見つからなかったな…」
 ぽつり、ため息交じりの一言。学校が終わってすぐに始めてもう5時間以上になるというのに、何一つ興味深いものは見つからなかったのだ。ため息ぐらい出るというものだ。
 また明日、今度は逆方向の地域か、いっそ裏山に行ってみようか。そんな事を考えながら、花梨は柚原家の庭から出ようと、歩き出す。

 ――と


  「わっ?」


「?」
 どこからか、小さな叫び声が聞こえてきた。少し幼い感じの女の子の声だ。
「なんだろう?」
 悲壮な感じの声ではなかったが、何となく気になって、花梨はその場でくるくると辺りを見渡してみる。


  「は〜、危なかった〜。もう少しで、ジャガイモ落とすとこだった」


 どうやら、隣の家かららしい。ジャガイモという単語からして、何か料理でもしているのだろうか。
 何とはなしにそっちの方を見てみると、柚原家の庭の木々の間から、隣の家の窓の中が見えていた。
「あの子かな?」
 白いブラウスを着た小さな女の子が、システムキッチンの向こうで包丁を構えているのが見える。どうやらジャガイモの皮むきをしていたようだ。先ほどの悲鳴からすると、まだ慣れない手さばきなのだろう。
 その横ではお兄さんなのだろうか、花梨と同い年くらいの男の子が心配そうな顔で、女の子に何か話しかけている。


  「貸してみろ、あとは俺がやるから」
  「あっ、ダメだよ。今日は、わたしがお料理を作るんだから。タカくんは、テレビでも見て待っててってば」


「タカくん? 兄妹じゃないのかな…」
 兄を『タカくん』と呼んでいけないことはないだろうが、普通なら本名呼び捨てか、あるいは『お兄ちゃん』などの類になるような気がする。
 とはいえ、年齢は離れているようだから恋人ではないのだろう。親戚の類か何かかもしれない。
 いずれにせよ、はたから見ても仲の良さそうな2人である。


  「あ、そうだ。このワイン、勝手に使っちゃったから」
  「ああ、あるやつは何でも適当に使ってくれ……え? このみ、それってどこにあった」
  「ん〜、むこうの棚にあったのだよ〜。た〜ら〜ら〜♪ ふわ〜、いい香り〜。隊長隊長、このワインとってもいい香りでありますよ〜!」


「楽しそうだな…」
 窓の中、2人の会話とこぼれるような笑顔が、何だか眩しい。見ていると、何となく胸が締め付けられるような気さえする。仲睦まじい2人の様子を目に、今更ながら冬の名残を残した風の冷たさが身に沁みて、花梨はきゅっと自分の身体を抱きしめた。


  「ぐずっ、タカくん……」
  「うわっ!? ど、どうした? 指、切ったのか?」
  「ぅ……ぐずっ……」
  「どこだ、見せてみろ」
  「タマネギが〜……」
  「……」
  ズビシ!
  「あいたッ!?」


 紛らわしい事をして、このみと呼ばれた女の子が、タカくんと呼ぶ男の子にデコピンされている。それでなくとも、先ほどからどうにも失敗続きのようだ。やはり、まだ料理に慣れていないのだろう。
 しかし、見守る男の子の表情は、心配そうではあっても怒っている様子はない。おてんばな妹分を前に『しかたないなぁ』とでも思っているような、そんな風情だ。
 そういえば、先ほどの向坂姉弟にしても、今思えば似た雰囲気はあったように思う。
 憤怒の形相で弟に攻撃を加えていた彼女にしても、心の底から怒っているふうではなかった。弟の方にしても、姉の攻撃を避けもせずに受け止めていたのは、それが大事には至らないと確信していたからだろう。
 そこにあるのは、お互いに対する"信頼"という名の温かな光。窓の中の2人もまた、その光を持っている。
 色や形は違うかもしれないが、それはずっと自分が求めてきたものだった。

 照らす街灯の光はあまりにも小さく、心の底まで届かない。
 窓の中の灯りは、とても温かそうで、とても楽しそうで、とても――うらやましかった。

「ヲフ…」

 ひとつ、小さな鳴き声。見ると、いつの間にかゲンジ丸が、花梨の足下に寄り添うようにお座りしていた。
 そして、スンスンと鼻を鳴らし、ゆたゆたと尻尾を2〜3回振ると少しだけ花梨の方を見て、もう一度「ヲフ」と鳴いた。
 毛で隠れた眼差しがどのような色をしているのかは、花梨には判らない。
 けれど、彼女は自分を見つめるその瞳に、何か優しいものが含まれているような気がして、少しだけ胸が温かくなった。
「げんじまるちゃん…」
 ゆっくりと花梨はその場にしゃがみ込む。そして自分を見つめるふさふさの頭をそっと撫でると、今日何時間かぶりに、にっこりと微笑んだ。
「慰めてくれるの…?」
「ヲフ」
 人の言葉が判るのだろうか。花梨の問いかけに応えるように、ゲンジ丸がひとつ鳴く。そして、再び尻尾をゆたゆたと振ると、しゃがむ花梨の身体にそっとその身を寄せてきた。
「大丈夫。あたしは大丈夫だよ。心配しないで」
 ふかふかの背中を撫でてやりながら、花梨はこみ上げるものを抑えるように、ゲンジ丸に話しかける。本当に大丈夫なのか、自分でも自信がなかったが、それでも、そばに寄りそってくれる犬に、言葉をかけていく。その度に返される小さな鳴き声が、彼女の心に温かく灯るようだった。
「優しいね…」
「クゥン…」
 とはいえ、3月の夜はまだ肌寒い。それなりに厚着している花梨も、ともすれば寒さに震えそうな夜である。このまま表に出させておくのも悪い気がして、彼女は犬小屋を示しながら、ゲンジ丸に戻るように促す。
「ほら、まだ寒いでしょ…。あたしのことは良いから、家の中にお入り」
 だが、ゲンジ丸は不思議そうに首をかしげるばかりで、その場から動こうとしない。
「スン、スン」
「ほら…冷えちゃう、よ……」
 いつの間にか――花梨の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。ゲンジ丸に話しかける声音も少しずつ震えるようになる。
「……っく………うっ………ぐすっ…………」
 やがて、しゃくり上げる衝動は抑えられなくなり、大粒の雫がゲンジ丸の鼻先にぽたぽたと落ち始める。そして、彼女は毛で隠れた奥の目で自分を見つめているゲンジ丸の頭をぎゅっと抱きしめ、声を殺して泣いた。

 ――隣家の窓の中からは、ふわりと美味しそうな香り。きっと、もうすぐ夕食ができるのだろう。弾む声は先ほどと変わらず、明るい光を宿して、辺りに響く。
 そして、その温もりから隠れるかのように、夜の帳が降りた街の中に、押し殺した息づかいが響く。

 その声は長く、長く、誰も知らない街の片隅で、いつまでも続いていた。


     ※


――もしお友だちになれたら、UFOに乗せてもらいたいな
――UFO?
――お父さんはね、いちどでいいから月に行ってみたいんだ


     4


 4月に入ると、にわかに学校の雰囲気はあわただしくなり、各所でクラブ活動の勧誘合戦が見受けられるようになる。
 この学校名物のエクストリーム部は言うに及ばず、大人数の部員を抱える野球部、サッカー部、バスケットボール部、水泳部などは早期から計画を立てていたらく、かなり力が入っているようだ。その上、オリエンテーションでの魅力的なアピールから嫌みのない勧誘のコンボで早々と新入部員を確保したらしく、入学式の明けた次の日には、もう1年生を交えた練習を始めていた。
 文化部なら、吹奏楽部、美術部あたりは堅実に新入部員を集めつつあるようだし、他にも文芸部や料理部などが、今年の人気クラブだということだ。
 もちろん、成果のはかばかしくないクラブもあるが、どこもまだ諦めが入っているわけではない。せめていちど体験入部に来てくださいと、普段日の目を見ないクラブも、今こそ奮起の時とばかりに力を入れて活動しているようだ。
 そして、それはミステリ研究会もまた例外ではない。
「あ、ねえねえそこのキミ!」
 昼休みの廊下、いましも食堂に向かわんとしているらしい一年生の男子生徒を花梨は呼び止める。
「はい? 俺ッスか?」
 振り返ると、眼鏡をかけて何となくひょろっとした感じの男の子。後ろ姿から判断した通り、運動部とは無縁のようだ。文化系かどうかは判らないが、体格のいい男の子に声をかけても期待はできない。ちょっと頼りなさそうだが、この際贅沢は言っていられない。
「クラブ活動、もう入った?」
「まだッスけど…」
「きゃ♪ ちょうどよかったぁ〜! あたしさ、ミステリ研究会をやってる、笹森っていうんだけどね? ちょっと部活の勧誘してるんだけど、話を聞いてもらえるかなぁ」
 男子生徒の言葉に、ここぞとばかりにたたみかける花梨。悠長に世間話から話しているヒマはないから、一気に核心である。
「ミステリ? 推理小説の?」
「あー、そっちじゃなくて、ほら、超能力とかUFOとか…」
 だが、『超能力とかUFOとか』と聞いた途端に、男子生徒の顔から、かろうじて浮かんでいた"興味の色"が失せていく。どうやら、ミステリーはお気に召さないらしい。
「あ、俺そういうの興味ないッスから」
「あ、そ、そう? でもほら、見学とか体験入部とかもやってるし、ちょっとだけでも…」
 もちろん、花梨もただでは引き下がらない。もともとマイナー路線なことは判っている。だからせめて見学だけでもと、なんとか部室に来てもらおうと食い下がる。
 しかし、いったん失せた興味は元には戻らないらしく、その生徒は「や、ホント、興味ないんで」とにべもない。
「そ、そう…」
「そろそろ食堂行きたいんで…じゃあ」
「う、うん…」
 立ち去る男子生徒の後ろ姿を見ながら、花梨は大きなため息を落とす。こうしてむげに断られるのが何人目か、既に数えていない。
 日付は入学式の週も明けた4月13日。もうそろそろ一人くらい部室に来てくれても良さそうなのに、未だ体験入部はおろか、見学者すら皆無である。
「うまくいかないなぁ…」
 みな、最初はちょっとだけ話を聞いてくれるのだ。先ほどの男子生徒のように推理小説と勘違いする者もいたが、テレビの超能力番組の影響か、何となく興味があるような素振りを見せるものも少なくなかった。
 しかし、それをきっかけにと花梨が熱心に話を始めると、途端に相手は興味を無くしてしまう。そして、最後には、「他に入りたい部活があるから」「部活には入らないことにしてるから」というお決まりの言葉で、立ち去ってしまうのだ。
 いちおう昨日、アンケートと偽った騙し討ちで『課外活動参加届』に署名させた同じ学年の男子生徒はいたものの、今のところ連絡はない。昨日の今日だからまだ早いのかもしれず、放課後あたりにひょっこり顔を出してくれるかもしれないが、不正な手段で取った署名を律儀に守ってくれる可能性は、普通に考えれば低いだろう。
 他のクラブでもそういった手段で部員を獲得した所があるようだが、案の定というか、たいていはその日の内に、部室にすら顔を出すことなく退部届が提出されるらしい。まぁ無理もない。
 だが、まごまごしている時間はない。ただでさえ、他のクラブに比して圧倒的に出遅れているのだ。このままでは、新入部員ゼロという最悪の事態にもなりかねない。
 とりあえず断られてしまった男子生徒のことは忘れることにして、花梨はその場をあとにする。


「うーん…、風が気持ちよくなったなぁ…」
 渡り廊下から中庭に降り立つと、正午の日差しを浴びてぽかぽかと暖かそうな芝生に、何組かのグループがおのおの車座になってお弁当を広げているのが見える。芝生に座っているのは主に女生徒が中心で、その一方、いくつかあるベンチは男子生徒が占拠しているようだった。
「んー、みんなご飯食べてるし…、話を聞いてくれるかなぁ」
 めぼしい人はいないかと辺りを見渡しながら、花梨は昼の日差しが踊る中庭を歩いていく。目に入るいずれのグループも、仲の良い友達と楽しそうにおしゃべりしながらのランチタイム。和やかな雰囲気があたりに漂っていて、部外者の入り込めそうな余地はないように見えた。
 漏れ聞こえてくる話し声も、ミステリーとはおよそ関係ないものばかり。部活動関連で言えば、どこそこの部活に入ったとか、新入部員は何人いたとかいう話が大半で、まだ迷っているとか言うような会話は聞こえてこない。
「お腹も空いたし…あたしもお昼にしようかな」
 立ち寄る場所を間違えたかなと、花梨は独りごちながらその場を後にしようとする。
 ――が、渡り廊下に再度戻ろうとしたその瞬間、花梨の耳に思いがけない声が聞こえてきた。


  「ねえねえ、そう言えば、昨日のテレビ、観た?」
  「どれ?」
  「ほらあれ、怪奇現象とかUFOとかのやつ…」


「え――?」
 驚いて振り返ると、そこには2人組の女生徒が芝生の上に昼食を広げて談笑していた。校章の色からすると、一年生のようである。


  「あー、観た観た。なんか宇宙人の解剖とかやってたやつでしょ? 爆笑問題の…」
  「そうそう! ねえ、あれってホントなのかなぁ」
  「まっさかぁ」


 どうやら、昨晩やっていた春の特別番組のことを言っているらしい。その番組なら花梨も観ている。


  「でもなんかホントっぽくない?」
  「えー、そうかなぁ。太田くんが冗談ばっかり言ってるから、なんか嘘っぽかった」
  「あー、太田くんはねー」
  「それに、ホントだったら怖いって」
  「そうかなぁ、あたしはけっこうああいうの好きだなぁ」


「ね、ねえ!」
 と、そこで我慢の限界を突破した花梨が、2人の間に割って入った。当然、女生徒たちはきょとんとした様子で、いきなり飛び込んできた上級生の事をぽかんと見つめるばかり。
「ミステリーとか、興味あるの!?」
「は、え、ミステリー?」
 いきなりミステリーと言われて、何のことかよく判らなかったのだろう。向かって左側の、ショートカットの女生徒の方が鸚鵡返しに聞き返す。」
「だ、だから! いま話してたみたいな、UFOとかのミステリー!」
「え…、あたしたち、別に…」
「でもでも! なんとなく! なんとなくは、興味あるんでしょ?」
「えっと…」
 突然のことについていけないらしい。ショートカットの子が、向かいに座っている茶髪のボブカットの子に助けを求めるように視線を投げる。
 とはいえ、茶髪の子も状況は似たり寄ったり。かろうじて、「まあ、少し…」と返したくらいだった。
 しかし、花梨にとってみれば、その一言で問題なし。『ようやく見つけた』とばかりに、勧誘アピールの開始である。
「あのねあのね、あたし、ミステリ研究会やってる2年の笹森っていうんだけどね?」
「ミステリ研究会?」
「そうそう! いままさにキミたちが話してたミステリーを研究する会! 怪奇現象で、UFOで、超能力チックなあれ!」
「そ、そうですか…」
「いまね、体験入部期間でしょ? 無理にとは言わないけど、ちょっとでも興味があるんだったらさ、ね? 体育館の第二用具室だから、来てみてくれると嬉しいなぁ。あ、占いとかそういうのもやってるし、魔法とかの研究もやるんだよ? けっこう手広くやってるから、飽きないと思うなぁ」
 ここぞとばかりに、2人の女生徒にミステリ研の売り込みを行う花梨。テンションメーターは振り切って、熱く語ること炎の如し。何とか少しでも興味を持ってもらおうと、日頃から考えている売り文句を次から次へと繰り出していく。
 しかし、花梨の盛り上がりと反比例するかのように、語れば語るほど、2人の視線はよく見慣れた冷たいものに変わっていく。
「ねえ、なんなの?この人…」
「さあ…」
 2人に浮かんだうさんくさそうな表情に、しまったいきなり勢いが良すぎたかと、慌ててアピールの矢を弱める。ミステリーに興味のある人は少ない。ここで勧誘に失敗してしまっては、またあてもなく彷徨う日々が待っているだけだ。
 しかし、いったん宿った不信感はなかなか消えそうにない。女生徒たちはこちらをちらちらと見ながら、何やかやと耳打ちし合っている。
「あ、あはは。ごめんね、ちょっと盛り上がっちゃって」
「いえ、いいですけど…」
「あのね、これがチラシになってるんだけどね…」
 そう言って、花梨は持っていたバインダーの中からビラを二枚取り出す。レタリングされた大字の『ミステリ研究会!』と、簡単な内容説明。それから、いくつかのへたっぴなイラストと、簡単な部室の地図が描かれた、彼女力作の広告チラシである。
 だが――
「いえ、いいです、いりません」
 ショートの子が、手渡そうとする花梨の手をぐいっと押し戻した。瞳には、拒絶の色が浮かんでいる。
「え…?」
「興味ないです」
「え、え、でも…。さっき、そういう話を…」
「テレビで観るくらいはしますけど、部活でやろうとは思わないし、それに…」
 一呼吸置いて、彼女ははっきりと言った。
「そういうの、ホントは信じてません。それに、人の話を立ち聞きするなんて、失礼だと思います」
「そ、それは…そうだけど…」
「って言うか、センパイはなんでそんなの信じてるんですか? そっちの方が信じられませんけど」
「え?」
「ちょ、ちょっとチカ…」
 前触れもなく険悪な雰囲気が漂いそうになり、茶髪の子が慌てて仲裁に入ろうとする。が、チカと呼ばれた女生徒は言い始めては収まらない性格らしく、ますますいきり立って花梨に突っかかる
「正直、非科学的だと思います」
「非科学的って…。そ、それを言うなら、科学でだって解明できてないこと、いっぱいあるでしょ? 科学だけが正しいとか、そういう考え方っておかしいよ!」
「そうかもしれないけど、だからってすぐ怪奇現象だとか宇宙人だとかいうのもおかしくないですか?」
「それは…」
「それに、さっきもなんか言ってたけど、魔法なんてそれこそあるわけないし」
「だ、だから、あるかないかはともかく、そういうのを調べていこうっていうクラブなんだし…」
「ないんなら時間の無駄じゃないですか。じゃあ聞きますけど、いままで何か発見とかしたんですか?」
 その質問に、ぐっと言葉が詰まる。魔法のみならず、何度も何度も色々なことにチャレンジして、結局何一つ達成できたものはなかった。つらかったことが一瞬のうちに思い出されて、胸が少し痛くなる。
「…ない、けど…」
 そう言うと、チカと呼ばれた子は「やっぱりね」と言って、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「はっきり言いますけど、そういうのって子供っぽいと思う。高校生になってまで何やってんの?って感じ」
「え…」
「ち、チカ! 言い過ぎだよ! ご、ごめんなさい、あたしたち、もう行きますから」
 さすがに上級生に向かって失礼だと思ったのだろう、茶髪の子がようやくショートの子の袖を掴んでひっぱる。
 だが、既に花梨の耳に、その言葉は届いていなかった。
「謝ることないよ、ユイ。元はと言えばこの人が…」
「いいから! ほら、行こ!」
 その後、まだあれこれと言い争う声が響いていたが、彼女たちの姿が中庭から見えなくなる頃にはそれも聞こえなくなった。
 後には、ただ呆然と立ちすくむ花梨の姿がひとつ。どうやら、他の生徒たちはみな、食事を終えて教室に帰ってしまったようだった。
「子供っぽい…」
 立ちつくしたまま、花梨はさきほどの女生徒が言っていた台詞を反芻する。
 それはまるで、返しのついた針のように深く心に食い込んで――、
 そして、放課後になっても抜けることなく、ずきずきと花梨の心に刺さり続けていた。


     ※


「……はぁ……」
 くすんだ窓から、西に傾いた日差しが部屋を薄明るく照らす体育倉庫。曇りガラスに遮られてとても明るいとは言えないその光が、少しだけ花梨の背中に当たって、長机の上に影を落としていた。
 そして、いつしか光はしぼむように弱々しく力尽きて、どこへともなく霧散する。
 彼女のため息もまた、そうであるように。

「がんばったのに、な…」

 古びた長机に突っ伏して、再度彼女はぽつりと独りごちる。もう、何度目か判らない。
 カビ臭い部室の中、彼女は昼休みからこっち、ずっと机に突っ伏してため息ばかりついているのだ。
 午後の授業は当然すっぽかし。とても、出席する気になれなかった。また担任の先生にあれこれと言われるだろうが、今の彼女にはどうでも良いことだった。

「子供っぽい、かな…」

 あの女生徒たちと話してから何もやる気がしない。
 冷たい視線と、心に痛い言葉。
 まるで、自分の存在すら否定されるかのような、敵意のこもった瞳。
 立ち聞きしたのは悪かったかも知れないけれど、それでも、どうしてああまで一方的に言われなくてはならなかったのか。
 だが、その問いに答える者はいない。ただ、いくつもの嘆息と独り言だけが、誰もいない部室にこぼれて落ちる。
 言葉の針は、まだ胸に突き刺さったまま。

「誰も来ない、な…」

 昼休みの一件だけではない。
 結局、勧誘はひとつも成功しなかったのだ。
 そのこともまた、彼女の胸を苛んでやまない。
 冷たくあしらわれ、むげに断られ、子供っぽいと言われ――
 未だ、彼女はひとりぼっち。

「…ミステリー…楽しいのに、な…」

 このままでは、遠からずミステリ研は廃部になるだろう。なぜなら、最初から花梨のミステリ研は部活動の規定を満たしていないのだから。
 そもそもの前提として、本来ミステリ研究会は、部活動はおろか『研究会』ですらない。勝手にミステリ研だと名乗っているだけで、書類上の定義では『同好会』である。さらに言えば、同好会としての規定――正会員二名と、準会員一名――すら、満たしてはいないのだ。認められるはずのない同好会を、藤田教諭の力で強引に認めさせているのが実情である。
 だが、半年以上を経過して部員は未だ花梨一人。このまま4月が過ぎ、結局ただの一人も部員が増えなかったとすれば、事態はとうてい楽観視できなくなるだろう。藤田一人が頑張ったところで、他の教師たちやクラブの手前、いかんともしがたくなる時が来ることは想像に難くない。

「やっぱり…ダメなのかな」

 それでも、切り札となる藤田教諭の浮気写真が手の中にあれば、通るはずのない無理を、藤田に通させることは、僅かとはいえ可能性として残っていると言えるだろう。
 しかし、彼女のPCのHDDにはそのデータはもう残っていない。
 より正確に言えば、最初からそんなところには保存していない。
 メモリーカードから直接プリンタで印刷した後、すぐにカードをフォーマットしてしまったのだ。
 そうしなければ――、いつ外部に漏れてしまうか判らなかったから。
 バラすつもりなど始めからない。あの時、藤田に強硬に抵抗されれば、あの写真はなかったことにするつもりだったのだ。部員が増えて、正式にクラブ活動としての規定を満たすほどになれば、きっと先生たちも認めてくれる。だから、それまでの間だけ――、本当に、それだけのつもりだったのだ。
 部員も増えて、ちゃんとやっていけるという状況が出来さえすれば、あの写真だって、燃やしてしまうつもりだった。その程度のものだったのだ。
 ならば、誰一人そばにいる者のない今――、あんな写真を仮に何千枚持っていたところで、意味などない。

「もう…ダメなの、かな…」

 歩む道には孤独な足音が響くばかり。
 交錯する足跡のひとつも、まだ見えない。

 このままひとりぼっちで続けても、寂しい気持ちが大きくなるばかり。
 みじめな気持ちが大きくなるばかり。

 だから――

「もう…やめちゃおう、かな……」

 だから――彼女はその時、初めて弱音を吐いた。
 熱で寝込んだ日も、雷が鳴った日も、あの優しい犬に慰められた日も、一言だって口にしたことはなかった。
 けれど、この部室に陽の当たることがないのなら――
 歩き続ける気力は、もう残っていない。

「やめちゃおう、かな……」

 同じ台詞を、もう一度。
 その言葉につられて、つっとひとすじ涙が流れる。
 そして、彼女は机の端に積んであった書類の束から、一枚の紙を引っ張り出した。
 それは、少ししわの寄った廃部届。

 せめて楽しい思い出のひとつでもあれば良かったかもしれない。
 何か一つ、明るい思い出があれば、まだもう少しがんばれたのかもしれない。
 でも、それすらも、彼女のアルバムにはなかった。

 思い出されるのはつらかったことばかり。
 やはり自分は間違っていたのかもしれないと、そう思うしかなかった。
 そう思わなければ――
 とても、ボールペンを握る手に、力は入らなかった。

「さよなら…、あたしの、ミステリ研…」

 別れの言葉。
 誰も聞く者はいない。

 窓の外には、春の日差しが踊っているというのに――
 それは紛れもなく、たった一人で頑張ってきたクラブ活動の、終わりの時だった。






 だが――


 彼女はまだ知らない――


 鳴り響く "終わり" の鐘と時を同じくして――


 "始まり" を告げる足音が、確かな音色で近づいていることを――


     ※


 ダァーン! と、威勢良く体育館の扉が開かれて、一人の男子生徒が飛び込んできた。
 放課後の体育館、まだ少し早い時間なのか、クラブ活動は始まっていない。
 教室からここまで走ってきたのだろう、息切れした肺にぜえぜえと酸素を送りながら、彼は辺りを見渡す。
 探しているのは体育館第二用具室。ミステリ同好会の部室である。


     ※


 ――夏が忍び足で 近づくよ
 ――きらめく波が 砂浜潤して


     ※


「?」
 遠くから聞こえた物音に、花梨はふっと顔を上げる。廃部届を半分ほど書き終わった後だった。
「なにかな…」
 クラブ活動の子たちだろうか。そういえば、もうすっかり部活動の時間である。しかし、いくら体育会系とはいえ、扉の音がこの部屋まで響くほど勢いよく入ってくるものなのだろうか。
 何とはなしに気になって、彼女は棚に置いてある小型モニタの画面に目を向けた。そこには、体育館の物影にこっそり仕掛けた監視カメラの映像が映し出されているのだ。部活動の子なら、体操服にジャージ姿で、いそいそと準備を始めている様子が映し出されているだろう。
 だが、そこに写っているのは一人の男子生徒。
 その顔を見て――
 彼女は一瞬、息が止まるほどの衝撃を受けた。
「え……?」
 信じられない思いで、彼女はもう一度、画面を凝視する。
 だが、何度見直しても、その顔は変わらない。
 そこには、昨日『課外活動参加届』に、騙し討ちでサインをさせた男子生徒の姿があったのだ。
「うそ……」
 会いに来てくれたのだろうか。
 あんなことをして、騙してサインさせて、怒っていないのだろうか。
 花梨の脳裏に、昨日サインをしてくれた時の、人の良さそうな微笑みが思い浮かぶ。
 名前は、そう、確か『河野貴明』と言ったはずだ。


     ※


 ――こだわってた周囲を すべて捨てて
 ――今 あなたに決めたの


     ※


「第二用具室って、確か、バレーボールのネットや卓球台なんかをしまってあるところだよな…」
 少し息が整ってきたのだろう、膝に付いていた手をあげ、彼――河野貴明は普段使っている体育倉庫がある方に走っていく。
 無理矢理サインさせられた『課外活動参加届』を取り返しに来たのだ。ミステリだかなんだか知らないが、柚原このみや向坂雄二、向坂環らと過ごす、穏やかな放課後の平和を手放すつもりは、今のところない。
 いや、ただでさえ向坂環の出現で、安穏とした日々は崩れつつあるのだ。これ以上のやっかいごとは、まっぴらごめんである。
 走る足をより速く、彼は第二用具室を求めて体育館を駆けてゆく。


     ※


 ――こんな自分に合う人はもう
 ――いないと半分あきらめてた


     ※


 どきどきと、花梨の胸が高鳴る。
 今、彼女は部室から飛び出して、放送室へと向かって走っているところなのだ。
 おそらく、河野貴明は第二用具室がどこだか判らずに、途方に暮れることだろう。
 花梨だって、最初はあの部室のありかが判らなかったのだから。
 チラシを持っていれば地図は描いてあるから良いが、サインをさせた時はミステリ研であることを隠していたから、彼には渡していない。
 ならば、お出迎えしなければならないだろう。
 それもできうる限り、盛大に。
 だって――、彼は初めてのお客さんなのだから。
「ううん、もしかしてもしかすると…」
 ずっと、一緒にいてくれる人かもしれない
 ひとりぼっちだった自分のそばにいてくれる人かもしれない
 あの雨の日のことも、夜の街でのことも、冷たく罵られたことも、みんな忘れさせてくれる人かもしれない――

 ――と、その時

「夜の、街…?」

 不意に、思い出す
 3月のあの夜、ゲンジ丸という名の犬に慰められた時のことだ。
 暖かそうな隣家の窓の中、横顔ばかりでうまく容姿が思い出せないけれど――
 あの女の子に『タカくん』と呼ばれていた男の子は、まさにいま体育館にやってきた男子生徒ではないのか?

「あの人、なの…?」

 そうだ、きっとそうに違いない。
 名前だって、たかあきの『タカくん』だ。
 もしそうなら――
 あの優しそうな微笑みを、自分にも向けてくれるかもしれない
 恋人は無理かも知れないけれど
 花梨のことを、優しく包んでくれる人かもしれない――

 それは、贅沢な期待だろうか。
 望んではいけない夢だろうか。
 でも、胸のドキドキは抑えようもなく高鳴り続ける。
 そして、ひとつ鼓動を打つ度に、彼女の中の冷たいものが、次々に溶けていく。
 あの心に刺さった針も、知らない間に抜けていた。

 代わりにそこにあるのは、温かな光。

 彼女の瞳に、それまでの冷たいものとは違う涙が、いつしかとめどなく溢れていた。


     ※


 ――揺れる想い 体じゅう感じて
 ――このままずっとそばにいたい


     ※


 がちゃがちゃとノブを回したが開く気配はない。そもそも、扉の上のプレートには『第一用具室』とある。
「じゃ、じゃあ、第二用具室って?」
 判断ミスに気付くが、しかし、ではどこが目的の場所なのかと言われると判らない。だいたい、『第二用具室』など本当に存在するのだろうか? 考えてみれば、そんなところはいちども使ったことがない。
 とはいえ、教師からの伝言でそこを指定されているのだから、あるにはあるのだろう。
 彼は辺りをもう一度見渡すと、それらしい部屋がないかをチェックする。しかし、めぼしい場所は特に見あたらない。ただ時間だけが無為に過ぎていくばかりである。

 だが――、彼の運命の歯車を動かす足音は、もう、すぐそこまで迫っていた。


     ※


 ――青く澄んだ あの空のような
 ――君と歩き続けたい in your dream......


     ※


 彼女は放送室にたどり着くと、こんな事もあろうかとあらかじめ作っておいたスペアキーで扉を開け、急いで放送機材のスイッチを入れる。
 準備を進める手は震えて、まるで自分のものではないような感覚だ。ひっきりになしに胸を打つ鼓動は、やむ気配もない。
 宙に浮く感覚。そうとしか言いようがなかった。
 それでも、機材の電源はブゥンという音と共に隅々まで行き渡る。それに呼応してランプは次々と灯り、赤から黄色へ、黄色から青へとシグナルを変えていき、数秒もしないうちに、すべての用意が整った。
 いよいよ――、あの男子生徒を迎える時が来たのだ。

「たかあき、くん…。こうの、たかあきくん…」

 マイクに立つ前、彼女はもう一度、男の子の名を呼ぶ。
 心地よい響き。まるで、約束された恋の名のように、すっと胸に溶けていくような感覚。
 でも、彼の名前が自分の胸をぽっと熱くしたことに、彼女はまだ気付いていない。
 気付くには、鼓動がドキドキと高鳴りすぎていたから。


 ――やがて、彼女は意を決したように、マイクの前に立ってボリュームのつまみを上げる。
 この日のために用意した台詞。
 大丈夫、ちゃんと言える。
 そして彼女は息を大きく吸い込み、万感の想いを込めて、いま――


「河野貴明くん、ミステリ研にようこそ!!」


 それは、ひとひらの花弁
 長い冬が明け、ようやく花開いた桜が風に乗せた、ひとひらの花弁


 そして、この瞬間が、桜舞う夢の季節の到来を告げる春風であったことを
 運命の女神の白い羽根が、そっと舞い降りた瞬間であったことを――

 ――この時の彼女は、まだ、知らない。


     ※

     ※

     ※


――お月さまに行くの?
――そうだよ。行ってみたくないかい?
――行ってみたい!
――じゃあ、まずは宇宙人とお友だちにならなきゃね
――うん! あたし、ぜったい宇宙人とお友だちになる!
――その時は、お父さんにも紹介してくれよ?
――うん、約束する!
――ははは…。楽しみだなぁ。

―― がんばるんだよ、花梨――



 ――――――――――終わり



引用:
「揺れる想い」 作詞:坂井泉水 …アルバム『揺れる想い』所収

参考文献:
「世界不思議大全」著:泉保也(学研)
「図説 日本呪術全書」著:豊島泰国(原書房)
「魔女と魔術の事典」 著:ローズマリー・エレン・グィリー 監訳:荒木正純、松田英(原書房)
「魔導書 ソロモン王の鍵」 編著:青狼団(二見書房)
「魔法事典」 監修:山北篤(新紀元社)

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