温もりの残り香
ToHeart2 AnotherDaysレビュー
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 以下の文章は、2008年3月7日、ToHeart2 AnotherDaysオールクリア直後の率直な心情吐露としてブログ上にアップしたものです。プレイ直後の沈んだ気持ちのまま勢いに任せて書いた物なの で、いつもの日和見調子ではなく、相当に辛辣で批判的な文章になってしまっています。
 正直なところ、あまり客観性を持った意見とは言い難く、ここに掲載するのはどうかとも思いましたが、こういった生の情動が表出した文章も、これはこれで貴重であろうと考え、アップした次第です。
  その点、ご理解いただきますよう、お願いします。


 トゥルーシナリオ……いわゆる「真ルート」というのが嫌いだ。
 いくつかの個別シナリオをクリアした後に現れる、本当の意味での作品の核。作品の根幹を為す最重要シナリオ。
 タイプとしてはいくつかの種類がある。個別シナリオでは回収できていない、または回収しなかった伏線を解決していくもの。あるいは、個別シナリオでは語 られていなかった、裏の真実を描くことで作品世界を裏打ちするもの。あるいは、個別シナリオで構築したものを瓦解させることが目的のもの。

 いずれ共通するのは、真ルートこそが作品の最大の見せ場であり、これに対して個別シナリオが奉仕する立場にあることだ。制作側の意図するところがたとえ別にあったとしても、作品自体はその思惑を越えて真ルートを軸とする。

 では……、そうであるならば、真ルートではない個別のストーリーとは何なのだろうか。
 真ルートが存在しなければ意味をなさないものだろうか。そこで描かれた世界、テーマ、それらは果たして何のために生み出されたものなのだろうか。

 いや、もう少し直接的に書こう。

 個別シナリオは真ルートよりも劣るものなのか?

 それが、いつも心に引っかかる。

 一般的なヒロイン攻略型のノベルゲームを例に取ろう。たいていは、まず何人かいるヒロインのシナリオを先にやらされることになる(いきなり真ルートを遊 べるものもあるかもしれないが)。全員クリアする必要があるのか、特定のヒロインのみを攻略すればいいのかはそれぞれで違っている。いずれにしても個別 ルートでは対象のヒロインと結ばれるかして、幸せになるというような描き方で終わることが多い(例外ももちろんある。一部のねこねこソフト作品と か……)。多少、構成がいびつだったり、伏線がほったらかしだったりしても、そういったメタ的な部分ではなく、作品世界内の日常レベルの話としては、ある 程度幸福な形で終わっているし、それなりのテーマも用意されている。
 各ヒロインはたいてい可愛らしく描かれているし、作品の出来が良ければ愛着も沸くだろう。この子を幸せにしてあげたいと思うかもしれない。それは作品を "読む"際の感情移入として自然なことだし、そういった感情が生まれるのは、作品が丁寧かつ丹念に制作されていることの証左でもある。

 だが、真ルートが存在するということは――、用意されたその幸せ、その結末は「かりそめのものなんだよ」と、そう言われているのと同じだと思うのだ。真 ルートの出来が良く、個別シナリオを包括する意味を持っていればいるほど、その思いは強くなる。そこに注力するなら、なぜ紡いだ個別シナリオにもっと強い 意味を持たせてあげなかったのだろうと、そう思ったりもする。
 裏のテーマや作品の真意は、なにも言葉として還元するしか表現の手段がないわけではない。個別の物語がそれぞれ描いた"真実"がそれぞれに共鳴しあい、全体としてひとつの真実を描くことだって可能だ。わざわざ紡いだものを反故にする必要はない。

 無論、真ルートを用意する手法が、物語を描く手段として有効であり、かつ、既に一般化していることは理解している。今更この風潮が覆るとも思えないし、 現時点で良作、名作の類も無数にあるのだろう。また、この手法によってしか描くことができない作品も存在するかもしれない(実際に見たことはないとして も、だ)。

 しかし、趣味レベルとはいえ、仮にも物語を紡ぐ人間にしてみれば、せっかくこの世界に生み出されたシナリオたち――それはいわば、愛された子供たちのよ うなもの――に対して、わざわざ優劣を付けているような気がして、読んでいてとても哀しい気持ちになる。もっと愛してあげればいいのに。もっともっと愛し てあげられたはずなのにと。

 それは読者(プレイヤー)の身勝手だと、そう言われればそれまでだが、幼い頃から推理小説などの"一冊で完結する物語"に慣れ親しんだ身としては、この 感覚は既に分かちがたくこの身の一部になっている。十代の頃ならいざ知らず、今さら価値観が変わることはないだろう。


 さて、上記を踏まえてToHeart2 AnotherDaysに移る。
 いきなり話を覆すようで申し訳ないが、この作品に真ルートは存在しない。作品の在り方としては、個別シナリオがそれぞれに立脚し、全体として作品の価値を保証するタイプの作品だ。要するに、このToHeart2 AnotherDays単体で見れば、私の好きなタイプの作り方をしている。

 そう、単体としてみれば――、だ。

 問題となるのは前作ToHeart2あるいは、ToHeart2 XRATEDの存在だ。AnotherDaysは主にXRATEDの世界観を引き継いでおり、随所に前作からの要素が顔を見せる。そもそも主人公は河野貴 明だし、ヒロインは前作のサブヒロインたちがそのままメイン格に昇格したものだ。作品自体の立脚地点が通常の単体作品とはまったく異なるし、作品に対する 理解のアプローチも、これを前提としなければ一歩も進まないという徹底ぶりである。いっそここまで来ると清々しいくらいだ。
 とはいえ、本編における各ヒロインたちのシナリオは充分単体レベルで意味を持つように構築されているし、そもそも「AnotherDays」の名の通 り、「もう一つの、別のお話」ということで、前作の何かを覆してしまうようなストーリーは本編中にはない。まーりゃん先輩とささらの関係については言いた いことが腐るほど出てきてしまったが、この辺りも無理矢理に納得できる地点は見つけている。
 郁乃シナリオについても、愛佳シナリオの後日談としてみれば良くできていると思うし、一個の物語の変奏曲として立脚しているだろう。

 しかし、たった一つだけ、前作のシナリオと別個であると考えることが難しい物語がある。
 このみ&環シナリオがそれだ。

 周知の通り、このシナリオは、前作の柚原このみシナリオでのバッドエンド(という言い方が正しいかは判らないが、少なくともトゥルーエンドではない)から始まるストーリーになる。
 しかし、この前作のバッドエンドというのがかなり問題である。これはストーリーにおいて、最後に向坂環が投げかけた「このみを女の子として意識でき る?」という問いに対して、「このみは幼なじみ」と答えた場合なのだ。意識できない、したくないと答えているのである。要するにこのみシナリオを俯瞰して みた場合に、もっとも選択してはいけない選択肢を選んでしまったエンドに他ならないわけで、当然、あの時点でこのみと結ばれることはない。ラストはコミカ ルに終わるにしろ、ある種の罪悪感めいたものがつきまとうエンドになっている。

 だが、今作AnotherDaysでは、あのエンド後のストーリー……、ほとんどこのみを裏切っているようなシナリオの後日談であるにも関わらず、このみも環も手に入れてハーレム状態になるという破格の待遇を貴明に用意しているのだ。

 もちろん、前作のあのエンドではこのみ、そして環までもが一緒になって「それでもいい、それでもあなたが好き」と貴明に伝えているわけだから、ある意味無理のない展開であるとは言える。
 言えるのだが、しかし、じゃあこのみシナリオにおけるトゥルーエンドの存在はなんなのだ、環シナリオにおけるハッピーエンドの存在は何なのだという話になってしまう。

 無論、幸福というのは侍らせている女の子の数ではないし、そもそもこのみも環も納得して幸せになっているわけだから、横やりを入れるのは筋違いというか野暮なのだ。そんなことは重々承知である。承知ではあるのだが、この違和感はぬぐえない。
 このみが、環が、自分たちは幸せでありこれで良いのだと語る度、では前作のあのエンドはウソだったんだろうかと、そんな気になるのだ。

 まぁ、ウソとはさすがに言い過ぎかもしれない。しかし、「タマお姉ちゃんと一緒がいい。このままがいちばん良い」と語るこのみを見るに付け、前作のトゥルーエンドは、ウソではないまでも「最善ではなかったのか?」と疑わざるを得ない。
 あの時、このみを女の子として見ることができた貴明よりも、このみを女の子として見ることを拒否した貴明の方が、このみを幸せにできたのだろうかと――。

 それは、「すぐに答えが出なかっただけで、このみをないがしろにしたわけではない」という考え方で解決する問題なのかもしれない。むしろ、貴明は真摯に 考えていたのだと、そう思うこともきっと可能なのだろう。あのエンドでの貴明の独白は、それを示唆しているといって差し支えはない。きっと、彼なりに真面 目に考えた結論なのだろう。

 
 ――でも、それでも、

 前作のこのみシナリオにおいて――、最後の選択肢で「意識できる」を選んだ時の、あの物語。夕暮れに染まった河原で悲しみをこらえるこのみと、それを見て痛んだ心。気付いた恋心と、伝えられた想いと、最後に心に宿った温かな幸せ。

 環シナリオであれば、募る想いを伝えられずに泣いていた環と、自分のふがいなさを恥じた貴明。二人がようやく交わした、幼くも切ない恋心と、そこに生まれた幸福の花。

 あの温かな想い。心から心へと伝わる優しさに溢れたあの笑顔が、「真ルートよりも劣るもの」とは決して考えたくはない。

 どちらが上とかではない。だからどっちも本当なんだ。それはきっと正論なのだろう。しかし、閉じた物語をわざわざ開いてまで、そんな物語を用意してほしくはなかった。

 もちろん覚悟はしていた。事前情報の99%はカットしていたとはいえ、「前作のサブヒロインがヒロイン格」「このみ&環が登場する話があり、それはこの みシナリオの後日談にあたる」というくらいは知っていたから。だから、このみ&環シナリオは、決して開けてはいけない箱を開けてしまった物語なのだと、や る前から判っていた。

 だから、きっと耐えられると思っていた、のに。

 でも、やはり――、耐えきれないほどに、哀しい。

 自分が愛した物語を覆されることほどつらいことはない。改めてそう思う。

 ――でも

 たったひとつだけ、それでも納得できる解は、ある。
 それはAnotherDaysという副題に象徴される、これが「Another」な物語であるということ。
 副題だけではない。舞台は伝統の春ではなく、春の裏の秋になっているし、テキストは画面全体表示ではなくテキストエリア式だ。エンディングテーマを歌っているのもAKKOではないし、オープニングムービーに至っては前作のセルフパロディである。

 そう、これはきっと、「オフィシャルから出された二次創作」。

 だから、前作を覆そうと何だろうと構わない。それはあくまでも、オリジナルを元にした二次創作であり、オリジナルとなったToHeart2を否定するものではない。あくまで同人ゲームのような位置づけなのだ。
 それが証拠に、あるシナリオのマップ選択で「?」のキャラアイコンを選ぶと、裏方と化したキャラたちがせっせとゲームを構築している様が見られるではないか。あれが「これはメタ要素を含んだ壮大な同人ゲームです」というメッセージ以外のなんだというのか。

 そう思えば、このみや環がそこらの安っぽいエロゲーヒロインのように描かれていたって問題ない。それはそれでアリだろう。ましてやオフィシャルのライ ターが描いたシナリオに、オフィシャルの原画師が絵を描いている二次創作だ。こんな贅沢な同人ゲームは他にない。コミケで限定発売すれば、10万円の値付 けをしても売れるんじゃなかろうか。



 だから、きっと、これは偽り。
 AnotherDaysなストーリーなのだ。



 でも――

 それでも、理解できることと、納得できることは違う。


 胸を焦がした恋が、いつまでも美しく心に宿り続けるように、


 どれだけ自分をごまかしてみても、あの夕暮れに繋いだ手の温もりまではごまかせない。


 だから、今は――


 拭い切れない違和感と、


 漠とした寂しさのようなものを感じながら


 まだ、この作品への接し方を決めかねている。


初出:2008年3月7日


(画像:(c)Leaf/AQUAPLUS 「ToHeart2」)

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