アップルパイをもうひとつ
前編
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     1



 一人暮らし男子学生の昼休みと言えば、教室でパン、あるいは学食で定食というのが定番だと思うが、ここ最近はその選択肢をまったく取っていない。
 別にパンの値段が跳ね上がったとか、学食のおばちゃんが替わって味が落ちたとかじゃない。まぁ、落ちるほどの味はそもそもしていないのだが。
 ともかくいまでも、パンが必要以上にしっとりしているカツサンドの味が恋しいと思うし、やたらこってりしたカレーが無性に食べたくなる時もザラにある。安い、早い、うまくないをひた走る台所とはいえ、男子学生にとっちゃ、空きっ腹を満たしてくれるパラダイス。一度たりとも敬遠したことはないし、そもそも以前はチャイムダッシュが基本だった。
 それが今では、4限目の終了が宣告されても、ダッシュはおろか席も立たない。じっと座って、時がくるのを待つばかり。
 なぜなら――
「おい、貴明」
「ん?」
 呼ばれて顔を上げると、幼なじみの向坂雄二が仏頂面で立っていた。
「俺はお前に4つだけ言っておきたいことがある」
 見上げたこめかみに青筋が立っているのは、そろそろ衣替えという季節柄が理由ではないだろう。俺の机に恨みでもあるのかというくらい"ダン!"と音を立てて手を載せると、ずずいっと顔を寄せてにらみをきかせる。
「なんだよ」
「ひとつ、お前は幸せ者だ。ヘドが出るくらいに」
「あ、そう」
「ふたつ、しかもそれをさして自覚していないらしいところがヒジョーに腹立たしい」
「ふーん」
「みっつ、……っつーわけで、今日も来てるぜ」
 わざとらしいくらい大きな溜息をつきながら、雄二がくいっくいっと親指で教室の扉を指し示す。
 そこには、雄二の形容しがたい怒り顔とは正反対の、朝露を含んだ花みたいな笑顔が咲いていた。俺がそちらを向くのを待っていたのか、目が合うともう一段階笑顔のレベルが上昇。長い黒髪に彩られた頬の近くに手を持ってきて、小さくこちらに合図する。その愛らしい様子に、思わずこちらも手を振り返す。
「はぁ…………」
 と、またひとつ、目の前の仏頂面から溜息がひとつ。ついでに舌打ちも。
「ほんっと、なんであんな可愛い子がお前と付き合ってんだ……。世の中何かが間違ってる」
「お前、それちょっと失礼じゃないか?」
「何が失礼だ、このヘタレ王子が。今の内に吐いておけ、ラクになるぞヘタレ」
 ヘタレヘタレと失礼なレッテルを連呼しながら、雄二がさらに顔を寄せてくる。……こういうことしてるからいろいろと勘ぐられるんだよな。
「吐くって何を」
「手段はなんだ。脅迫か? 催眠術か? それとも買収か? どんな非合法な手を使って彼女をゲットした」
「お茶してデートして星を見た」
「他には」
「……鬼ごっことか」
「くぁああ、企業秘密もたいがいにしおけっての! それとも何か? 特権階級の彼女ゲッター様にとっちゃ、下々の独り身連中なんざ目にも映らず耳にも聞こえずってか? あーあー、あの頃の、厚い友情を語り合った貴明が恋しいなぁ!」
 そんなモン語り合った覚えはない。
 だいたいそこまで羨ましかったりするんなら、彼女のひとりでも作りゃいいだろうに。ルックスは悪くないんだから、メイドさんメイドさん言わなければ、すぐにでもできそうな気がするんだが。
「だいたい不正行為でもなきゃ――」
 そう言って、雄二は戸口の子が手に提げたバッグをびしっ!と指さす。
「――どこの世界に、毎日毎日弁当の宅配便が教室まで来てくれるなんていう、ご都合主義展開があるってんだよ!」
「あー……」
 購買からも学食からも遠ざかっている理由、それがあの手提げカバンの中身。すなわち、ボックス・ランチ・デリバリー。お弁当の宅配便。
 そして、彼女がこの教室の戸口に立つ瞬間こそ、一日の内で最も据わりの悪い時間だ。なんでって、目の前の雄二を代表とする男子の視線が一斉に突き刺さるからだよ。
 今も、"ギンッ"とか"ギラギラ"とか"フォオ"とか、そんなような視線のオノマトペがあちこちから放たれて、そろそろ背中が炎上しそうな勢いだ。もう蒸し暑くてたまんない。衣替えもまだのはずなんだけどなぁ。
「し・か・も、極上の美少女の手作り弁当だぁー? お前、一人モンの男子学生様になんか恨みでもあるんじゃねえだろうな、オイ」
「あるわけないだろ。だいたい、こういうのって雄二が言うほど上等なシチュエーションじゃ……」
「だぁあああああああ! 何を言いかけやがってんだバカたれ! もったいない!」
 もったいないってなんだよ。
「……だってなんかこう恥ずかしいだろ、いろいろと」
「なにが"恥ずかしいだろ"だ、この贅沢モンが。その針の筵に座りたがってる哀れな男が何億人いると思ってんだよ。それとも何か? 俺と替わってくれんのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
「かっ。なら文句言ってねーで、ちったぁ幸せそうにしてろ、この幸せモンが! さっさと行っちまえ女たらし!」
「判ったよ、もう……」
 言いたい放題だな。
 仕方なしに、俺はまだ喚いている雄二を背にして、教室の入り口へと足を向けた。
 だが……
「あ」
 不意にあることを思い出して立ち止まる。確かさっき――
「なあ雄二」
「なんだよ」
「さっき"4つ"って言ってたけど、最後のは何なんだ?」
「あーあー、4つめな! 『毎日毎日迎えに来させてんな、見せつけやがって!』、だよ。以上!」
 ……聞いて損した。
 さっきの雄二に負けず劣らず大きな溜息をひとつついて、待たせきりだった彼女の元に向かう。見ると先ほどと変わらず、その子は戸口に立って俺のことを見ていた。手にはお弁当の入っているのだろうバッグ。膨らんで少し重そうだ。
「ごめん、待たせちゃって」
「いえ、そんなことありませんよ」
 謝る俺に、彼女は小さく微笑みながらそう言う。
 とはいえ、なんていうか1時間待ってても2時間待っててもそう言う気がするんだよな、この子は。そう思うと、ほんの少しでも待たせてしまったことが、ひどく悪いように思える。
 ホントに、次からは俺の方から迎えに行ったほうが良いのかな。それもなんか自意識過剰っぽくてアレだけど。
「それより、お話はもういいんですか?」
「ああ、まぁ、なんていうかどうでもいい類の話だったから。……今日も上?」
 言いながら人差し指で真上をさす。その先は天井ではなく、階段を上った屋上。以前は中庭のベンチが定位置だったが、最近はいっそう暖かくなってきたせいか、風の良く通る屋上で食べることが多いのだ。
「はい。今日は天気も良いですから――」
 俺の指さした方を辿るように視線を上げ、彼女は少し目を細める。
「――いつもより遠くまで景色が見えますよ。……きっと素敵です」
 まぶたの裏にもうその風景が見えているのだろうか、よく手入れされた黒髪をさらりと肩口から流しながら、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせた。
 とたん、ふわりと揺れた黒髪から柔らかなリンスの香りがそっと漂ってきて、俺の鼻腔をくすぐる。
『あ……』
 身近にはいない、そのいかにも"女性"っぽい仕種。
 なんだかドギマギするのは、俺が女の子にまだ慣れていないせいだろうか。鼓動まで少し速くなってしまう。
 でも……、
「そ、それじゃあ」
 雄二たちが羨ましがるのは、ちょっとだけ理解できるかな。
 こんな子がお相手なら、ね。
「そろそろ屋上に行こうか――、草壁さん」
「はい♪」
 俺の言葉に嬉しそうに返事をすると、彼女――草壁優季さんは、まるでそこが定位置であるかのように、そっと隣に並ぶ。そうして俺の方を少し見ると、にこっと小さく微笑んだ。
 とたんに、教室の中から放たれていた視線の矢が倍加するが……
 ……ま、いいか。こういうのも。



     ※



「さっきは――」
 梅雨が目の前とは思えないような陽気が目に眩しい屋上のベンチ。金網の向こうに晴れ渡った景色から薫る風に少し髪を揺らしながら、草壁さんが口を開いた。
「――向坂くんと何をお話ししていたんですか? ずいぶんと、その……興奮していたようですけど」
「いや、興奮していたのは雄二だけなんだけどね」
 教室でのやり取りを思い出して苦笑する。なんというかいつもの雄二そのものなので、いまさら話す気にもなれない。
「まぁたいした話じゃないよ」
「そうなんですか? その割には……」
「その割には?」
「顔を寄せて、親しげでしたけど。……ちょっと、嫉妬してしまいます」
「ぶふっ」
 ヘンに頬を染めて、伺うような視線をこちらに送ってくる草壁さんに、さすがに愕然とする。まさか、彼女にまでそんな風に思われていたのか?俺は。
「いやいやいやいや、そういうんじゃないって! 何を言い出すの草壁さん!」
「でも……、その、貴明さんと向坂くんが……、ちょっと仲が良すぎるんじゃないかって、女の子同士ではけっこう……」
「それたまに聞くけど、ウソだから! そういう趣味はホント無いから! だいたいいま、現に草壁さんのことを……」
 と、そこまで言いかけて踏みとどまる。何を恥ずかしいことを言おうとしているんだ俺。
 しかし、ふと見ると草壁さんがきらきらした瞳でこちらを見つめていることに気付く。
「……『草壁さんのことを……』……何ですか?」
「え、あ……。それは」
 思わず口ごもる。
 いや、だって今さら……ねえ? 別に、言わなくても、そんな。
「続き、気になります。私には教えてくれないのかな?」
「な、なんでもないって」
「『草壁さんのことをなんでもない』、ですか? ……それは少し、ショックです」
 とたんにしょんぼりと肩を落とす。長い睫毛も伏せて、全身で『落ち込んでます』オーラを発散。
「って、判っててやってるでしょ」
「え? さあ……何のことでしょうか?」
「…………」


  ぱしっ


「あっ」
 デコピン一発。
「そういうのナシ」
「うふふ……、貴明さんに怒られちゃった」
 そう言って、弾かれたおでこに手を当てながら、ころころと鈴を転がしたみたいに笑う草壁さん。小さくぺろっと舌を出した様子が何となくお茶目っぽくて、思わずもう一発デコピンを打ってしまう。
「あいたっ。……あの、今のはどうして?」
「『好きなんだから』って……」
「え?」
「……だから、なんでもないって」
 そうして、だんだんと言葉の意味が伝わっていくに連れて――
「……はい。私も『貴明さんのことが……』……なんでもない、です」
 ――彼女の顔に、柔らかな笑みが広がっていく。
 俺はと言えば、草壁さんの言葉の途中から、もうまともに顔も見れない有様。
 勝てないよなぁ……。と、しみじみそう思う。
「そ、それより、お昼にしない? もう腹ペコでさ……」
「ふふ、判りました。いま準備しますね」
 そう言って草壁さんがセーラー服の膝上に置いたナプキン包みを解いていくと、もうすっかり見慣れた色のお弁当箱が2つ寄り添うように重ねられている。大きい方が俺の、小さい方が彼女の。ちなみに弁当箱を買ったのは俺ではない。
「今日は洋風にまとめてみました。鶏肉のハーブマヨネーズ焼きと、かぶとハムの炒めもの。それと、ほうれん草とじゃがいもにリンゴを加えたサラダです。お口に合えば良いんですけど……」
 お弁当箱のフタが開けられると、献立の通りに彩られたおかずが顔を覗かせる。
「それとも、やっぱり和風の方が良かったでしょうか?」
「いや、そんなことないよ。それより和風でも洋風でも、もっと簡単そうなので良いんだけど……。毎朝大変じゃない?」
 毎度のことながら、どう見ても相当な労力が注がれているように思えるお弁当。幼馴染みのタマ姉なんかもそうだけど、朝からこんなに作っていて大変じゃないんだろうか。
「前日に準備はしてありますから、そうでもないですよ」
 こちらも毎度の如くの回答。
「それに、お料理するのって楽しいですから」
 いや、そうは言ってもなぁ。俺だったらいくら自分の好きなこととはいえ、朝は時間が許す限りずっと寝ていたい。寝坊助のお隣さんを起こしに行くという仕事がなければ、たぶんもう10分か20分はベッドに入ったままだろう。
 それを思うと、やっぱりちょっと悪い気がするよな。いっそ、次は俺が草壁さんのために弁当を作ってくるってのはどうだろうか。
 …………
 ……ダメだ、2人とも不幸になるだけだな。
「じゃあ、今日もありがたくいただくよ。お箸もらえる?」
「ええ。ちょっと待ってくださいね」
 言いながら、草壁さんは手元のケースから白い箸を取り出した。いつも彼女が使っているものだ。俺のは青色の、もう少し大きいやつ。そしてもちろん、箸を買ったのは俺ではない。
 そして、草壁さんは家庭科の教科書にでも出てきそうな正しい持ち方で箸を構えると、おかずの中からサラダを少しつまんで、俺の方に差しだし……って?
「はい、貴明さん」
 ちょっと……
「いや、なに?」
「なにって……」
 きょとんとした様子で小首を傾げる草壁さん。
「あーん、です」
「そ、そういうのはちょっと」
「あら、どうして?」
 ……頼む、そんな不思議そうな目で見ないでくれ。俺の方が悪いことをしているみたいじゃないか。……いや、してるのか?俺。
「どうしてって……、見られたら恥ずかしいし」
「今日は他に誰もいませんよ?」
 周りを見ると、確かに今日に限って誰もお弁当組が見あたらない。なんでだ、いつも何人かはいるのに。
「だから、心配しなくても大丈夫です」
「で、でも……」
 それとこれとはなんか話が違うというか、いや違わないかもしれないけど、物には勢いというモノがあって、そう言う意味で既にいろいろ速度が足りないというか、このまま発射したら出力不足で墜落しそうじゃないか。墜落ってなにが?
 ともかく、差し出されたサラダはよだれが出そうなほど魅力的だけれど、かぶりつくための勇気が俺にはない。
 所詮サラダだろって? そうはいっても、今の俺には目を閉じて待っている女の子の顔にだって見えるよ。いきなり唇を差し出されて、じゃあいただきますなんて言えるか。いや、言った方が良いのか? もう何だかよく分かんないけど、とにかく無理。ぜったい無理。
「そんなに……、イヤですか?」
 と、なおも逡巡する俺に何を思ったのか、草壁さんが再び目にも判るほど"シュン"となった。
 えええ、ちょっと待ってよ、これってそこまで気にするほどのことなのか?
「私のお弁当……、食べていただけないんですね」
「いや、ちがっ……、そうじゃないって!」
「やっぱり和風の方が……」
「だから違うって! えっと、なんて言うかそういうのは俺たちにはまだ早いって言うか、ほら、手順とかあるし!」
「手順? どんな……?」
「え? えーっと……、だから、アレだよ」
「アレ?」
「……手を繋いだりとか」
 何を言ってんだ俺は。手ぐらいたまに繋いでるじゃないか。小学生カップルじゃないんだから。間抜けな発言に思わず自分で頭を抱えてしまう。ああもう俺のばか。
 ほら見ろ、意味不明な言動に、草壁さんまでますます不思議そうな表情に……
 表情に……?
 …………
 ……いや、違うな、ちょっとだけ口元が笑ってる。
「……草壁さん?」
「は……、はい?」
 ……うわ、ちょっと肩が震えてるし。
「判っててやってるね?」
「す……」
 やがてこらえきれなくなってきたのか、くすくすと小さな唇から笑い声が漏れてきた。
「すみません……、ちょっとだけ、面白かったもので」
「も、もうっ! ひどいよ草壁さん!」
 うあああああ、もう死にたい。恥ずい。
 さっきと同じような手にまんまと引っかかって、妙なことまで口走って。バカ丸出しじゃん、俺。
 それにしても、前から少しお茶目なところはあったけど、最近拍車がかかってきたような気がする。毎回毎回そのお茶目さんに転がされている俺も俺だけどさ。
 そう言うと、草壁さんはまだ可笑しそうにくすくすと笑いながら「だって……」と言う。
「だって、なに?」
「もっともっと、貴明さんの色々な表情を知りたいですから」
「そ……」
 その台詞は反則じゃないのか?
「で、でも、あんまりみっともない表情を見られるのはちょっとなぁ」
「あら、そう言うところも可愛らしいですよ」
「か、かわいい? うっそだぁ。なんでそう思うの?」
「だって私は、『貴明さんのことが……』……なんでもない、ですから」
「それはもういいっ」


  ぱしっ


「あんっ。ふふ、また怒られちゃった」
 弾かれたおでこに指を当てて、ころころと草壁さんが笑う。
 ああ、もう、そんな顔されたら怒れないじゃん。ホント、タマ姉や春夏さんとは別の意味で、この子には勝てる気がしない。
 改めて渡された俺用の箸でお弁当をつまみながら、またぞろしみじみそんなことを思う。
 でも、口に含んだお弁当は掛け値なく美味しくて、思わず頬が緩むほどだった。たいしたことないって言ってたけど、やっぱり手が込んでるように思えるよな。
 それに……
「はい、貴明さん、お茶どうぞ」
 水筒から注がれたお茶が出てくるタイミングも、寸分の狂いなし。
 ……ホント、勝てない。


 その後は滞りなく、静かなお弁当タイムが過ぎていった。
 遠くの方で鳴く鳥の声と、屋上から見える街に雲の影が流れていく時間。その中に、いくつかの会話と、食事をする箸の音だけが小さく響く。
 こういうゆったりした時間を楽しいと思えるようになったのが、彼女と付き合い始めていちばん変化したことだろうか。
 ……もっとも、以前は女の子が隣にいると言うだけで、緊張して汗が出てくるような有様だったから、ゆったりも何もないんだけどね。
「ごちそうさま」
 やがて、とりどりの料理が満載だったお弁当箱は空っぽに。ご飯粒のひとつまで綺麗になくなったそれを返しながら、もうひとつ「すごく美味しかった」と追加。
 俺にできるのはこのくらいだしな。
「そ、そうかな……。ありがとう」
 照れくさそうにそう言いながら、草壁さんは空のお弁当箱を包み直していく。心なしか、ナプキンの端を結ぶ手も弾んでいるようだ。
「でも、貴明さんはとても美味しそうに食べてくれるから、作りがいがあります」
「え、そうかな。そんな顔してる?」
「はい。とっても」
 それは……、なんというか気をつけよう。顔に出るのかな俺。いや、まぁ、隠すようなことじゃないのかもしんないけどさ。
「だから、今日はもうひとつ、追加で作って来ちゃいました」
「え? お弁当を?」
「いいえ。そうじゃなくて……。あ、でもお弁当、ちょっと足りなかったかな。男の子だし」
「いやいや、そういう意味じゃないよ」
 量も毎度の如く適量だった。まだ思い出して数えられるくらいの回数なのに、こちらの味覚やら腹具合やらはほぼ完全に掌握されてるっぽい。
「でも、それなら何だろう?」
「ふふ、デザートです」
 膝元のカバンから草壁さんが銀紙に包まれた何かを取り出した。
「フルーツか何か?」
「あ、惜しい」
 惜しいとか惜しくないとかあるのか?
「正解はアップルパイです。家で焼いてきました」
「え、ホントに?」
 それはまた面倒そうな。しかし、そう言うと草壁さんはやはり「昨日の内に下準備は済ませておきましたから、そうでもないですよ」ともういちど。ううむ。
「でもこういうのって、焼くのにも時間がかからなかったっけ?」
「オーブンで20分くらいかな」
「20分も?」
「でも、他にオーブンを使う物がなければ、準備した物を入れて他の作業ができますし、やっぱりそんなに苦ではないですよ」
「そうなの?」
「ええ。今日のお弁当でも、オーブンを使う物はなかったから。だから、そんなに気にしないで。それよりも、美味しく食べてくれた方が嬉しいな」
「それはもちろん」
 未だかつて、草壁さんにまずい物を出された覚えは一切無い。笹森さんのように、あえて妙な調味料に挑戦してみるってこともないだろう。その点では全幅の信頼を置けるというものだ。
 ……いや、惚気てるわけじゃないよ? ホントだって。
「それじゃあ、遠慮なくいただこうかな」
「はい♪ じゃあ、いま包みを……」
 ――と、その瞬間


  きーんこーん……


「あ……」
「あ、あれ? チャイムが鳴ってしまいました……」
 銀紙の端っこをつまんだまま硬直。
 ぽかーんと屋上入り口のスピーカーを眺める俺たちを笑うように、鳴り終わったチャイムの余韻が尾を引いていた。
 ……そういえば、ここに来る前も来た後も、なんだかんだと遊んでて時間潰してたっけ。もうちょっと気にしておくんだった。
「どうしよう。いまから食べてたら間に合わないよな」
「ご、ごめんなさい。先にデザートがあるって言っておけばもう少し……」
「いや、草壁さんのせいじゃないって」
 責任があるとしたら俺……、じゃないな。雄二だ、うん。くだらない話につきあわせやがって。と、そういうことにしておこう。
「じゃあ、そのアップルパイ、もらえる? 5限目の休み時間にでも食べるからさ。おやつ」
「そうですか? じゃあ、ちょっと待ってくださいね」
 そう言うと、草壁さんはカバンからビニール袋を取り出して、その中にアップルパイの包みを入れた。「包みが開いてしまうといけないから……」ということらしい。女の子ってマメだよな。男だと普通にポケットにつっこんじまいそうだ。
「食べる時、パイ生地がこぼれやすいから気をつけてね」
「うん、了解。ありがたくいただくよ。今度は一緒に食べよう。その……、次も作ってきてくれたら、だけど」
「あら。食べてない内からアンコールですか? ふふ、ご期待に添えられれば良いけれど」
「大丈夫だって、ぜったい。それじゃあ、戻ろうか」
「はい」
 手渡されたアップルパイを手にベンチを後にする。
 とりあえず、これは次の休み時間に食べるとしよう。
 それまで雄二とかに見つからないようにしないといけないな。



     ※



 甘かった……
「オマエはああああああ! 弁当デリバリーの上、デザート付きだ?この野郎!」
 5限目の休み時間、席を立って教室を出ようとした俺の肩をがしっと掴んで強引に椅子に座らせ、雄二が鬼の形相で迫ってきたのがついさっき。
 何ごとかと思う俺に向けられた第一声が「お前何か隠し事してるだろう」というものだった。そして、あまりの迫力につい「草壁さんにアップルパイをもらって……」と口走ってしまい、今に至る。
「ていうか、お前なんで気付いたんだ?」
「はっ、そんだけリンゴの匂いさしてりゃ、いやでも気付くわ!」
 ……アップルパイ、ビニール袋に入ってるんだけど。
「で、美味かったのか? ん?」
「いや、まだ食べてないって」
「食べ残しだと!? どんだけ贅沢三昧なんだコラ。好き嫌い言えるほど上等な人間さまか?」
「違うって! 何も言ってない内から暴走しないでくれよ!」
「じゃあなんだよ」
「時間が無くて食べそびれたんだよ。ほら、食べる前に色々あっただろ?」
「いろいろって、おま、いったいあの子に何を……」
「何もしてねえよ!」
 学校の屋上で何をするって言うんだ。自慢じゃないが、そんな度胸は俺にはねえよ。あったとしても行使しないっつの。
「とにかく、いまから食べに行くんだから、邪魔しないでくれよ」
「なぁにが『いまから食べに行くんだから♪』だ。可愛く言ったって逃がさねえっての」
 語尾に音符を追加するな。お前の中の俺は何モンなんだよ。
「逃がさないって……」
「要するにだ。……俺にも一口くれ」
「イヤだ」
「即答かよオイ」
 当たり前だ。なんで昼休み圧迫の元凶にアップルパイを恵んでやらなきゃいけないんだよ。
 おまけに、雄二が騒いだせいで、また男子生徒の怨嗟の視線が強くなって来てるし。踏んだり蹴ったりじゃん俺。
「いいからどいてくれよ。休み時間あんまりないんだから」
「まぁまぁ、そう急ぐなよ。俺たちは友達じゃないか」
「何を言い出すんだよ。……ちょっ、顔を近づけるなって!」
 男子生徒の視線に加えて、女子生徒のひそひそ話まで追加される。こんなんだから、漫研にヘンな同人誌作られるんだよ。
「だからな? 別に全部くれって言ってるわけじゃないんだ。一口……、あいや、一欠片でもいいんだ。恵まれない独り身男に愛の手プリーズ」
「雄二の"一欠片"は"全体の70%"だろ?」
「よくおわかりで」
「ふざけんな」
「というわけで、一欠片くれ」
 話が進まない……。
 10分しかない休み時間だってのに、ホント空気読め雄二。
 というか、もうこの時間は無理かもしれないな。仕方ないから、帰って家で食べるか……。家なら邪魔する人もいないし。
「どうしても、俺にはくれないと?」
「やるわけがない。やる理由がない」
「そうか……。そんなに言うんなら仕方ないか」
 お? 引き下がってくれるのか。ちょっと意外だ。
 しかし、雄二はゆるゆると首を振ると、鷹揚な感じで俺の肩をぽんぽんと叩く。
「でもな、貴明」
「なんだよ」
「世の中には"時すでに遅し"って言葉もある」
 ……なんだって?
「例えばそう、お前がポケットに隠したアップルパイがまだそこにあるとは限らない……」
「んなっ!」
 まさか、もう!? いつの間に!?
 慌てて俺は制服のポケットをまさぐって、大事なアップルパイを探す。取られたなんてことにでもなったら、草壁さんに顔向けできない。
 だが――
「……ん? あるぞ……?」
 指先に触れた感触を引っ張り上げると、手の中には先ほどと変わらず中身の入ったビニール袋。銀紙も膨らんでいるし、別段どうということもない。
 なんだよ驚かせやがって。
「チャァアアアアアアアアアンス!」
「はい?」
 と――


  ばっ!


「あっ!」
「アップルパイ・ゲーーーーーーッット!」
 高々と上げられたアップルパイ入りビニール袋。
 しまった、油断した!
「うははははは、ひっかかったな貴明! 安全を確認した直後こそ、人間が最も油断する瞬間なのさ! ダテに姉貴の弟を17年もやってないぜ!」
「こら、返せ! それは俺の……」
 慌てて雄二の手から奪い返そうと手を伸ばすが、すんでの所でかわされてしまう。その間にも、袋の中から銀紙の包みが取り出され、包装が解かれていく。
「もう遅い! たまにはテメエの幸せをよこしやがれってんだ。というわけで、いっただっきまーす!」
「やめ! やめろってば! あ、あ、あ、ああああああああああ!」
 絶叫虚しく――
 銀紙を解いたかと思うやいなや、アップルパイの影すら見せぬ早業で、雄二の口の中にさぞ美味なのだろうスイーツが放り込まれてしまった。
 そうして、もぐもぐもぐもぐごっくんと、『はい、咀嚼から嚥下はこのような手順で行われます』とでも言わんばかりに見せつけて、雄二の胃の中にアップルパイが……、ああ、ああああああああああ。
「くぅっ……」
 一声うめいて、雄二が身体を折り曲げる。
 そんなに美味かったのか!
「これが……、これが幸せの味……。初めて味わう女の子の味か……くぉおおおおお」
「いやらしい言い方してるんじゃねえよ! よくも食べやがったなぁ!」
「うるせえよバカ! いつもいつもハッピー光線を浴びせられる身にもなってみろってんだ。それがたとえホロ苦だろうと、うらやましさ余って憎さ100倍だ!」
「意味が判らんわ! 戻せアップルパイ! いますぐ!」
「食べちゃったものは戻りませーん! ……って、マジで指を口に入れようとすんな、落ち着けって!」
 これが落ち着いてられるか。せっかく作ってきてくれたアップルパイを『他の男に食べられちったー』なんて、こっちは口が裂けても言えないんだよ!
 それこそ一欠片でも良いから、その胃の中から戻してくれ、頼むから!
 しかし、揉み合う俺たちをあざ笑うかのように、六限目の予鈴が鳴り響く。


  きーんこーんかーんこーん……


「あっ……」
「うははははは、時間切れー、時間切れー。残念だったな、貴明!」
「くっ……」
 覚えてろよ雄二。この恨み、はらさでおくべきか。
 ていうか……


  『それよりも、美味しく食べてくれた方が嬉しいな』


 草壁さんになんて言えば――!



     2



 6限目はまったく集中できなかった。
 そもそも何の授業だったかすらよく覚えていない。水曜日の6限だから英語だと思うが、マイケルもジョージもジャネットも出てきた気がしない。
 とにかく頭の中は『どうしようどうしよう』の繰り返し。アップルパイひとつで情けないと言えば情けないが、他人のために作ったお菓子が目当ての人間に食されたなかったと本人が知ったら……と思うと、とてもではないが顔向けできない。
 ましてや、草壁さんの言葉を信じれば、昨日から念入りに準備していたパイなのだ。それも、他の誰でもない俺のために。もうやるせないやら悔しいやらで、頭の中はパニック状態もいいところ。
 ああ、もう、ホントどんな顔して草壁さんに会えば良いんだろう。
 いっそこのまま逃げ出して、南の島にでも隠遁しようかな。そうして、俺は日々満天の夜空を眺めながら、この星を草壁さんもいま見ているのだろうかとか、そんなことを想いながら静かに暮らすんだ。時差? 何それ、美味しいの?
 ……なんて、アホなこと考えてる場合じゃない。さっきからモップを構えた女子生徒が『早く帰れよ掃除の邪魔』とばかりに睨んでくるし。あんまりここでぐずぐずもできないだろう。
 それに、たぶんもう昇降口では、俺を待って草壁さんが所在なげにしているはずだ。あまり待たせると、それこそ『また河野貴明が女の子を泣かせてんのか』とか言われかねない。
 これというのも雄二が……。くそっ、こんなことになるんなら、殴り倒してでも教室から抜け出すんだった。
 とはいえ、今さらそれを嘆いたところで、アップルパイはもう帰ってこない。いまごろ雄二の胃の中で、良い具合に消化吸収されていることだろう。
 仕方なしに、2〜3回首を振ると、俺は席を立って昇降口へと向かった。
 当然、うまい言い訳は全く思いついてない。



「あ、貴明さん」
 重い足取りで昇降口までたどり着くと、入り口付近で行儀良く立っていた草壁さんが手を振った。
「こっちです。今日は掃除当番だったんですか? 言ってくれればお手伝いしたのに」
「あ、いや、そういうんじゃないんだけど……」
 うう、無邪気に話しかけてくる笑顔が心に痛い。
「ちょっと、ほら、友達に捕まってて」
 せめてこれがタマ姉相手だったらなぁ。そうすれば、雄二がアイアンクロー喰らって一件落着なのに。こと草壁さんに限っては、間違ってもアイアンクローなんて繰り出しそうにない。せいぜいデコピンが良いところだ。それも喰らう側。
「そうなんですか? あ、何か用事があるんだったら、私は遠慮しますけど……」
「いやいや、大丈夫だって。もうみんな帰ったから」
 って、なにチャンスをフイにしてんだ俺は。いま便乗しておけば、問題を先送りにできたのに。……先送りにしたって、妙案が浮かぶとも思えないけどさ。
「それじゃあ、帰ろうか?」
「はい」
 ええいままよ、こうなりゃヤケだとばかりに、2人並んで帰宅の途につく。
 制限時間は駅前で別れるまでの数十分。それまでになんとか当たり障りのない回答を見つけるべし!
「そ、それで……あの」
「え?」
「あ、いえ。アップルパイ……どうだったかな、って」
「あぁ……」
 って、いきなり来たよ……。
 そりゃそうだよな。草壁さんの立場なら『もし美味しくなかったら……』って心配だっただろうし、気になるに決まってる。
「えっと……」
 くぉお、考えろ、考えるんだ俺!
 どう言ったら相手を傷つけずに真相を伝えることができるのか!?
 普段あまり使ってないんだ。こういう時こそ頭のエンジンをレブリミットまで回さなければ。どう言う? どう言えばいい?
 だが、あれこれ迷っている間に、草壁さんがおずおずといった様子で口を開いた。
「……あの、貴明さん?」
「あ、なに?」
「その……、お口に合わなかったのなら、そう言ってくれた方が嬉しいな」
「え?」
 俺が口ごもったのが気になったのだろう、草壁さんが上目遣いでこちらを見つめながら、おそるおそる聞いてくる。
「やっぱり美味しいものを食べてほしいから……。だから、ヘンな味してたならそう言ってほしいな。次は、それを参考にして作りたいから」
「そ、そんなことないって!」
 言っている間にもうなだれてしまいそうな草壁さんの様子に、思わず声を上げてしまう。何ごとかと周囲を歩いていた他の生徒が振り向くが、とりあえず今はどうでも良い。
「そうじゃなくて、えっと……」
 どうする、どうする、どうする???
 アクセル全開、タコメーターはレッドゾーン。唸れ脳細胞。
 そしてはじき出された結論は――
「どうやっておいしさを表現しようか迷ってたんだよ!」
 ――――――――
 ――――――
 ――……言っちまった。
 うああああ、ホントのことが言いにくいからって、嘘つくことはないだろ俺!
「え、えっと……?」
「だ、だからさ。あまりにも草壁さんのアップルパイが美味しくて、それをどう言い表したらいいか判らなかったんだ。もう、俺の好みバッチリで……」
 さらに重ねられる言葉。言うまでもなく大ウソだ。美味しい美味しくないの前に、そもそも口にだって入ってないのに。
 そして草壁さんはと言えば、最初はきょとんとして意味が判っていない様子だったものの、時間が経つに連れて、ぱぁっと花が咲くように笑顔になっていく。もう、眩しくて直視できないくらいの幸せそうな笑み。
「も、もう。貴明さん、大げさです」
「そんなことないって。ほっぺたが落ちそうだったって言うか、もうヤックのアップルパイなんか食べられないね、俺。グルメじゃないからうまく言い表せないけど、もうすんごく美味しかった。海原雄山だってびっくりだ」
 毒喰らわば皿まで。マシンガンのように空虚な褒め言葉の一斉掃射。
 しかしそうとは知らない草壁さんは、嘘八百の言葉の羅列に、心の底から嬉しそうだ。今も、もじもじとカバンの取っ手を握り直しちゃったりしてる。
「良かった……。美味しくないものを食べさせちゃったら――って、心配だったんです」
「はは、そんなことあるわけないよ。草壁さんの作ったものなら、なんでも美味しいって」
「も、もうっ。貴明さん褒めすぎです……。おだてても何も出ませんよ?」
 そう言ってぽっと頬を染める様子に、もうズキズキ心が痛みっぱなし。
 ……なんか俺は三国一の極悪人かもしんない。



     ※



「あー……」
 家に帰ると、そのまま自分のベッドに顔面からダイブ。
 ぽふっと柔らかい布団の感触が顔を包み込んで気持ちいいが、気分は最悪だ。


  『それじゃあ、また明日も作ってきますね♪』


 なーんて……
「うぁああああああ!」
 もう俺のばかばかばか。
 確かに誰も傷つかずに済んだと言えば済んだけど、これっていちばん選んじゃいけない選択肢だったんじゃないか? あんな誠実な態度に嘘で返すって、どんなんだよ俺。
 仮にがっくりさせても、『ごめん、雄二に強奪されて食べられなかったんだ』って言うべきだった。
 ……って、今さら言っても遅いけどさぁ。
 あーあ、いまごろ何してるかなぁ、草壁さん。
「またアップルパイの下準備とかしてるのかな……」
 彼女のことだ。きっと俺のために、入念に生地だかなんだかを作っているに違いない。俺の褒め言葉を真に受けて、嬉しそうな顔で。
 きっと面倒な作業なんだろうなぁ。昼間は『昨日の内に下準備は済ませておきましたから』なんて言って気軽さをアピールしてたけど、逆に言えば下準備は手間がかかるっていうことじゃないだろうか?
 いったい、どのくらい手間がかかるものなんだろうな、お菓子とか作るのって。テレビ番組よろしく3分でできるわけでもないだろうし、家庭科の時間を参考にすれば、1時間とかそのくらいか?
 でもあれは、レシピを忠実にトレースしただけの、シンプル・イズ・ベストな工程だからなぁ。隠し味とか、そういうオリジナリティを追求し出すと、相当かかるようになるんじゃなかろうか。
 それに、見た感じ凝り性っぽいからなぁ、草壁さん。2時間とか3時間とかかけてたらどうしよう。
 それに、料理だけでも時間がかかる上に、学校の宿題だってあるだろう。いや、なくったって予習とか復習とかがある。どう考えてもそれをおろそかにするタイプには見えないし、勉強もきっちりこなした上で作業するんだろう。お菓子に加えて、弁当の準備まで。
 翻って俺はといえば、友人にお菓子を取られて、それを正直に言えなくて嘘ついて、ベッドの上で転がりながら悶々としてるだけ。もちろん、勉強をやる気なんか1パーセントもない。
 ……もうなんて言うか、自分がこんなにダメ人間だとは思わなかった。釣りあってんのかな、俺。草壁さんに。
 ………………
 …………
 ……釣り合ってるわけないか。
 ごめん、草壁さん。俺もっとがんばるから。


「……がんばる……か」


 ぽつりと呟いて、ベッドの上をまた転がってみる。
 ごろんと仰向けになると、目に映るのは手入れの行き届いていない天井。
 夕暮れには少し間があるのか、窓の外はまだ明るい。
 とりあえず……
「謝んなきゃ、な」
 そう、とりあえず最初はそこからだよな。『がんばる』という言葉に対しては小さすぎる一歩だけど、さすがにこれをおろそかにできない。
 よし、明日ちゃんと謝ろう。正直に『食べられなかった』って言って。
 でも、うーん……
「ただ謝るだけじゃダメだよな、やっぱり……」
 草壁さんのことだから、俺に気を遣って、あんまり怒ったそぶりを見せないかもしれない。それだと傷ついてるのは彼女だけで、俺だけ安全地帯に座り込みだ。それじゃあおかしい。
 んん……、なんかこう、口で言うだけじゃなくて、もっとばしっと気持ちが伝わるような謝り方ってないかな。不器用でもなんでも良いから、とにかく俺の気持ちがこもるような……。
 ……
 ……ん、不器用?


  『いっそ、次は俺が草壁さんのために弁当を作ってくるってのはどうだろうか』
  『……。……ダメだ、2人とも不幸になるだけだな』


 ……そうだ、アップルパイを作ろう。草壁さんのために、俺の手で。
 お弁当が失敗したら2人とも不幸になるだろうけど、アップルパイくらいなら失敗しても空腹に悩まされることはないだろうし……。
 いや、何を弱気になってるんだ。失敗しても良いなんて、そんな考え方じゃダメだ。それこそ不誠実そのものじゃないか。
 必ず成功させる!
 そうだ、ぜったいに美味しく作ってみせる! 石にかじりついてでも!
 そうと決まれば善は急げ。早速ネットでレシピを調べて……、うん、これならなんとかできそうだ。
 材料は近所のスーパーで揃うだろう。時間はたっぷりあるし、家庭科の調理実習だと思えば楽勝楽勝!
 ふふ、待ってろ草壁さん。俺が世界でいちばん美味しいアップルパイを作っていくから!


 そうして3時間の後――


「……草壁さんは偉大だなぁ……」
 俺の目の前には、なんというか"原形を留めていない"という形容がぴったりのキッチン。
 ペーストとは名ばかりのぐちゃぐちゃのリンゴに始まり、鍋に焦げ付いて異臭を放っているバター、ひっくり返して凄いことになっている砂糖入れ、ぼろぼろのパイ生地に塗りたくられた、破壊的に不味そうな溶き卵。
 加えて、オーブンの中では、ぐつぐつと妙な具合に沸騰しているアップルパイもどきが、扉を開けられるのを待っているはずだ。
 うう、レシピには「誰にでもできる簡単なアップルパイの作り方」って書いてあったのに。ぐすん。嘘つきめ。
 それにしても、こんなの朝から作ってるのか草壁さんは。
 アップルパイひとつにこの有様になっている俺からすれば、毎朝お弁当なぞを作り込んでくるなんて、ほとんど魔法使いの所業だ。それと世の主婦さんたちも。
 そういえば前にこのみが弁当作ってきたことがあったっけ。あの時は辛過ぎのウィンナーとか崩れた卵焼きとかをバカにしちゃったけど、いま思えばあれも相当よくできた部類だよな。少なくとも食べられるものはできてたんだから。すまん、このみ。いつか俺の手料理でお詫びするからな。いつになるか判んないけど。
 と、そんなことを思っている間に、オーブンが『チン』と鳴った。どうやら20分経ったらしい。
「できたか……」
 できた、と言えるものができていればの話だが。もうこの時点で見るのも億劫だ。
 とはいえ、入れたものは出さなきゃしょうがない。気は進まなかったが、とにかくオーブンの扉をガコンと開けてみる。


  ……バタン


 そしてそのまま見なかったことにする。
「ああ……」
 さすがに頭を抱えた。
 どうしよう、こんなんじゃ持っていけない。
 心がこもっていれば――と言ってみたって、こんな口に入れるのもためらわれるような代物を食わせたりしたら、お詫びどころか単なる嫌がらせだ。
「いっそ春夏さんに頼んで作ってもらうとか……」
 ……って、んなアホな。それじゃあ何の解決にもなってない。
 これ以上嘘に嘘を重ねてどうするよ、俺。
 とはいえ料理でなんとかするのは無理だと言うことは身に沁みて判った。
 仕方ない、他の方法を考えよう。いったん部屋に戻って計画の立て直しだ。
 俺は酸鼻を極めた台所の有様をとりあえず放置して、2階へと続く階段を上る。
 途中、なんとはなしに目をやると、階段の隅っこに掃除されていない埃が溜まっているのが見えた。あまり衛生的ではない。いかに日頃から家事をしていないかが判るというものだ。料理もそうだけど、掃除もこまめにやってかないといけないな。
 そんなことを思いながら、俺は自室のドアを開けて中に入る。
「……ん?」
 と、ふとベッドの上に放り投げられていた携帯電話に目が留まった。外側のLEDがチカチカと点滅している。
「着信があったのか……」
 いかんいかん、お菓子作りに夢中で(というと聞こえだけは良いんだが)携帯電話をポケットに入れるのを忘れてた。誰からだろう。
 二つ折りの本体を何気なく開くと、そこには『着信あり』と『メール着信あり』の表示。どちらも草壁さんからだった。電話に出なかったから、メールを送ってくれたのだろう。



  『5/21(Wed) 18:04
   From: yuki_k@azwave.ne.jp
   Subject: ごめんなさい
   Dear 貴明さん
   ごめんなさい、無理させてしまって。
   さっき帰ってきてから気がつきました。
   そうならそうって言ってくれても良かったのに。
   あ、でもそれが貴明さんの優しさだもんね。
   そういうところも好きかな、なんて。照れ照れ。
   アップルパイ、また明日、ちゃんと作っていきますね
   今度は美味しく食べていただけますように。from 優季』



 ………………
 …………
 ……


  ちゃらーん♪


 小気味良い電子音と共に、携帯電話の電源が落ちる。無意識に停止ボタンを長押ししていたらしい。
 て、いうか……
 ば……
「バレたあーーーーっ!?」
 近所迷惑も顧みず、部屋で絶叫。隣の小池さんの耳にも届いただろうか。いや、そんなことはどうでも良い。
 ていうか、なんで!? どうして!
 帰ってきてから気付いたって、いったい何をどうやって気付くんだ!?
「まさか雄二から草壁さんに……?」
 いや、そんなはずはない。
 無駄に女の子に甘い雄二だから、わざわざ草壁さんを怒らせるようなことを報告するはずはない。
 とはいえ、その可能性を除外すると、本気で理由が分からない。


 い、いや、そんなことより……
 明日いったいどんな顔して会えば良いんだろう……!?




 ――――――――――後編に続く
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