雪の夜のサンタクロース 前編
〜Story of ring in SASARA〜
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   1


 吐く息が白く凍って輝く12月のイーストリバー。絶え間なく降り続ける雪が川沿いの景色を白く染める中、久寿川ささらは流れを望む欄干から少し離れた場所で、川向こうに見えるマンハッタン島の街並みを眺めていた。
 休日のブルックリン・プロムナード。夏から秋にかけては、河を望むベンチに座って本を読んでいる女性や、鳩に餌をやっている老人、また、イーストリバーのクルージングを眺める若いカップルや、楽器の演奏に没頭するアマチュアミュージシャンで賑わう園内も、ニューヨークを白く覆い尽くす雪の季節とあっては温かい暖炉の前から離れられないようで、摩天楼ひしめく川向こうのマンハッタンとは対照的に、白く舞う妖精たちだけがひそひそと内緒話をしているばかりである。
 そんな中、豊かな髪に雪をまとわせながら寒さに震えている日本人の女の子の姿は、この時期としてはなかなかに変わった情景である。とはいえ、長い睫毛に飾られた瞳を少し伏せて、渡る風にクリーム色の髪を揺らめかせながら佇む美しい少女の姿は、さながら絵本の中から現れた姫君のようであり、この場にもしアートをたしなむ者がいれば、即座に頭の中に何行にも渡る詩を組み立てていたことだろう。
 しかし、本人にとっては自分の外観上の評価などに気を配る余裕はない。この場の寒さに耐えるので精一杯なのだ。
 厚手のセーターとロングスカートの上にミンクのコートを羽織り、同じくミンクのメーテル帽子にマフラーで固めてはいるものの、冬のイーストリバーの空気は身を切るほど冷たく、無防備な頬を風がかすめていくたびに、ささらは手袋に包まれた手で頬を覆って温めているような状態である。そろそろ、赤くなった耳にしもやけができそうだ。
「早く来ないかしら…」
 冷えてきた身体をもてあまして独りごちる。
 何も好きこのんでこんな場所で寒さに震えているのではない。待ち合わせしている友人がなかなか来ないのだ。
 アトランティック・アベニューに買い物に行く約束を前日に交わして、待ち合わせの場所に先ほど来てからというもの、時間を10分ほど過ぎても友人はまだ来ない。もともとおおらかな性格の友達ではあるのだが、さすがに待ち合わせの場所がこんな場所では、早く来てもらわないと凍えてしまう。
 もう一度、マンハッタン島に目をやりながら、ささらは少しだけため息をついた。
 そう言えば日本にいた頃にも、こんな風に待ち合わせの場所で、一向に来ない相手を待ちながら佇んでいたことが何度かあった。こういう場面での運に恵まれていないのか、はたまたそう言う友人に気に入られる何かを持っているのか。いずれにせよ、来なかったことを咎めて帰ってしまうような気の強さも持ち合わせておらず、ただひたすら寒さに耐えて、まだ来ない友人を待つばかりのささらである。

 ――と

「きゃっ!?」
 不意に、頬に熱い何かが押し当てられて、ささらの口から悲鳴が漏れる。
「な、何?」
 振り返ると、そこには湯気の立つカップのコーヒーをこちらに差し出しながら、明るく微笑んでいる一人の少女の姿があった。
「ハイ、ささら。遅くなってごめんね」
「サラ! もう、びっくりしたわ。急に押し当てるんだもの、それ」
「ごめんごめん。だって、ささらがあんまり可愛いんだもの。ちょっとイジワルしたくなっちゃったのよ」
 そう言って、待ち合わせの相手――サラ・ウィリアムズは快活に笑った。プラチナブロンドのポニーテールがその声に合わせて揺れる。
「はい、あなたの分よ。ごめんね、待たせちゃって」
「そんな、いいのに」
 差し出されたカップを受け取ると、手袋越しにも琥珀色の温もりが伝わってくる。遠慮の言葉は口にしてみたが、実際、凍えそうな身体にはありがたいおみやげだった。少し口に含むと、ミルクと砂糖がたっぷり入れてあるらしく、甘い香りが身体いっぱいに広がる。
「おいしいわ。ありがとう」
「甘すぎなかったかしら」
「ううん、そんなことない」
「そう? よかった。…それより、寒くなかった? 耳が少し赤くなっているわ」
「ええ、少し…。日本で住んでいたところは、こんなに寒くはなかったから」
 そう言って、ささらは故郷のことを少し話す。クリスマスが近づくと、駅の歩道や階段に電飾がきらめいていたあの街。きっと今年もとりどりの光の花が咲いているのだろう。
「雪もそんなには降らないし。北海道…北の方はまた違うと思うけれど」
「そうなの? 私はもう慣れっこだけれど、ささらには少しつらいのかな。年が明ければ、まだまだ寒くなるけど、大丈夫かしら」
「ううん、平気よ。厚着していれば大丈夫」
「あは、そうね。じゃあ、クリスマスにはきっとマフラーをプレゼントしてあげる。いま編んでるのよ」
「そうなの? え、でも悪いわ。大変なのでしょう? 編み物」
「気にしないでよ。だって…」
 そう言って、サラは舞い落ちる雪のかけらを一つ、手に乗せる。
「クリスマスは特別な日、なんだから」


     ※


 ささらが日本からこの地へと越してきたのは、汗ばむほどの陽気が街路樹に踊る7月初旬のことだった。  大人になるため、幸せになるため――、 日本で恋人と誓った約束を胸に、それなりに奮起して長いフライトを終えてきた彼女だったが、しかし、降り立った街で待っていたものは、意外にも"暇"と言う名の敵だった。
 日本でも直前であったが、アメリカの高校ときたらすでに夏休みの真っ最中で、転入手続きだけを済ませれば、新学期の始まる9月の中旬までやたらと長いバケーションを消化しなければならなかったのだ。
 ブルックリンの高級住宅地に借りた部屋は、先に来ていた母親によってあらかた片付けられていたために、与えられた自室の家具調度や日用品、衣類を整理してしまえば、やるべきことはもう残っておらず、右も左も判らぬ異国の街で、彼女はずいぶん途方に暮れたものだった。
 英語の授業は苦手ではなかったが、生きた英会話の経験がなかったから、おいそれと外出する勇気はなかったし、せいぜい近所のスーパーマーケットに清涼飲料水を買いに行くのがやっと。せめて顔見知りの友人でも近くにいれば、街のスポットでも案内してもらえたかもしれないが、そんな都合の良い知り合いは近くにいない。じゃれあう兄弟姉妹もいなければ、母親は毎日忙しく仕事をしているしで、誰もいないマンションでぽつんとひとり、『せめて夏休みが終わるまで日本にいるんだった』と、携帯電話の待ち受け画面で微笑む故郷の恋人の顔を見ながら何度も何度もため息をつくのが、引っ越し直後の彼女の日常だった。

 しかし、いくら心細いからといっても、一週間も部屋でぐずぐずしていれば、やがてどこかに遊びに行きたくなるものだ。ささらとて年頃の女の子、せっかくニューヨークに越してきたのだから、日本ではテレビで見るばかりだった場所を実際に見てみたくもなる。
 『よし、ちょっと足をのばしてみよう』と、よそ行きにおめかしして新しい靴を通し、向かったのはコニーアイランド。
 ブルックリン南部に位置するこの小さな半島には、ビーチはもちろんのこと遊園地も建設されており、休日には観光客やカップル、家族連れなどでよく賑わう。特に今の時期は夏真っ盛りの中ということで園内には人があふれ、ひとりぼっちで歩いているささらはなかなかに見目立つ存在だった。
 とはいえ、ささらの目的地自体は、それなりに一人でも様になるかなという場所だ。園内にある水族館――ニューヨーク・アクアリウムが、彼女のお目当てである。
「わあ……」
 照明を落としたブース、湛えられた水だけが青く光っている水槽の前で、ささらは感嘆の声を上げた。クラゲの水槽である。
 ゆらゆらと、空に羽衣が舞うように水に漂うクラゲの幻想的な姿が彼女はとても好きだ。身体が紫色なのは猛毒を抱えているからなのだが、そんなことは気にならない。自分も水の中で日がな一日ゆらゆらしていたらどんなに気持ちいいだろうかと、そんなことを考えて一人悦に入る。
 他にもカブトガニに触れるコーナーがあったり、小さな水槽のイソギンチャクが愛らしかったり、デンキウナギと目が合ったりと、時間が経つにつれて上機嫌になるささらである。渡米してからこっち、暇で寂しくて退屈で仕方なかったが、ようやく生き返った心地だった。
 やっぱり水族館は癒されるなと、猛毒のクラゲを見ながら思うささらである。

 2時間ほどたっぷり海棲生物を楽しんでいると、時計の針はもう13時を指そうかという時刻になっていた。さすがにそろそろお腹が空いてきたので、多少名残惜しく感じながらも海の民に別れを告げ、ささらは館内から外に出て食事ができる場所を辺りに探す。
 ほどなくして、ファストフードを売っているらしいスタンドが目に入った。ホットドッグ、ハンバーガー、フライドポテトに各種のソフトドリンク。日本でもよく売っているたぐいのメニューが並んでいるのが見える。
 あれならおいしく食べられるだろうと、ささらはスタンドのそばまで行く。屋台の中では彼女と同い年くらいの女の子が店番をしており、ささらを見るとにっこりと笑いかけた。綺麗なプラチナブロンドの長い髪をポニーテイルにまとめた、可愛らしい子だった。
「あの、すいません。ホットドッグをひとつと、それからオレンジジュースを…」
 財布を取り出しながら、注文を口にする。スタンドの女の子はそれを聞くと、手慣れた手つきでジュースを用意し、パンにソーセージを挟む。
「ホットドッグがおひとつと、オレンジジュースひとつで、4ドルになりまーす」
 店員の声に、ささらは財布の中から紙幣を取り出そうとする。とはいえ、まだアメリカの紙幣に慣れないので、さて1ドル札はどれだろうと、なんとなく財布をのぞき込んでしまう。
 ――と
「きゃっ!?」
 財布の中に気を取られすぎて、周囲に気を配る余裕がなかった――というのは多少酷だろう。はしゃいでいたどこかの子供がささらにぶつかったのだ。
 なかなかに勢いよくぶつかってきたため、思わずたたらを踏んでしまう。かろうじて地面とオトモダチになる事態にはならなかったが、しかし、衝撃で口の開いた財布から硬貨が飛び出て辺りに散らばった。
「あ、あ、あ…」
 ちゃりちゃりと音を立てて転がっていく硬貨。どうしようどうしようとおろおろしている間に、あっちこっちへ広がって大惨事になってしまう。ぶつかった子供はささらのことなどまったく振り返ることなくどこかへ行ってしまった。
「ひ、拾わないと…」
 数瞬の後に我に返り、しゃがんでコインを拾い集め始めるささら。せっかく水族館でいい気分になっていたというのに、ツイていないことこの上ない。
 だが、その時、泣きたくなるような気分の彼女に声をかけた人物があった。
「大丈夫?」
「え?」
 見ると、スタンドの女の子がいつの間にか隣にしゃがんでいて、ささらがこぼした硬貨を拾っていた。すでにいくつか握っていたそれをささらに差し出し、先ほどと同じように彼女はにっこりと笑う。
「あ、ありがとう…」
「いいのよ。それより早く集めよう? みんな見てる」
「え? あ…」
 周囲を見ると、パークに遊びに来ていた他の客たちの何人かが、笑いながらこちらを見ていたことに気付く。途端、ささらの顔がかーっと熱くなった。
「ほら、早く」
「は、はい」
 1セント硬貨、5セント硬貨、10セント硬貨……、あまり硬貨を入れていなかったので数こそそんなに無かったが、どこに行ったのかと探すことから始まる作業なので、ひとりではとても時間がかかる。だが、幸いにも店員の女の子が手伝ってくれたためか、数分もするとほとんどの硬貨が手元に戻ってきた。
「どう? 揃ってる?」
「あ、えっと…」
 だが、ひとつだけ足りない硬貨があった。財布に一枚だけあったはずの、50セント硬貨が見あたらない。
「50セント? ないの?」
 心配そうな店員の声に頷くささら。大金ではないものの、なくしたまま放っておくようなもったいないことはできない。だが、周囲を見渡してみても、目に付くところではもうコインの影はもうなかった。
「どこに行ったのかしら…」
「…あ」
 途方に暮れるささらの様子に、ふと何かをひらめいたのか、店員が声を上げた。
「え?」
「ひょっとして…」
 と、その女の子は不意にその場にしゃがみ込んだ。いや、それに終わらず、顔を地面にこすりつけるかのようにうんと体制を低くして、地面を横に見始めた。どうやらスタンドの下を見ているようだ。
 スタンドのユニフォームだろうか、はいていた短いスカートから下着が見えそうになり、慌ててささらは持っていたカバンで彼女のおしりを隠す。
「ちょ、ちょっと、あのっ!?」
「あった! やっぱりスタンドの下にあるわ!」
「す、スタンド!?」
 おろおろするささらを尻目に、女の子は手をぐっと伸ばす。やがて屋台の下から腕が引き抜かれると、彼女の手には鈍く光るコインが乗せられていた。
「はい、これ。これで最後かしら」
 立ち上がり、ささらに手渡される50セント硬貨。しかし、ささらの方はもうコインのことなど見ていない。
「さ、最後です。でも、それより…」
「なに?」
 ささらはカバンからハンカチを取り出すと、急いで店員の女の子の顔を拭き始めた。先ほど地面に顔をこすりつけていたせいで、砂で汚れていたのだ。
「す、すいません。あの、私の不注意で…」
「あら、あなたのせいじゃないわ。あのやんちゃな男の子のせいだと思うけど」
「でも…」
 砂汚れは取れたものの、なおも謝ろうとするささら。もともと、人から厚意を受けることに慣れていないので、こう言う時にどうしたらいいものか判らない。
 だが、当の店員はというと、あっけらかんとまったく気にしていない様子で、右往左往するささらを見ながら笑っていた。
「ホントにいいってば。あんまり気にしないで。せっかく遊びに来たんでしょう? あなた、日本人よね? 観光に来たの?」
「え? いえ、あの…。この間、ブルックリンに引っ越してきて…、留学で…」
「あら、じゃあ、地元じゃないの」
「そうなんですか?」
「留学って、大学?」
「いえ、私は…」
 ささらは、自分が編入する先の高校の名と学年を告げる。すると、店員はびっくりしたような顔でひとこと「私と同じ学校の同級生になるのね」と、口にした。
「え、じゃあ、あなたも?」
「そうよ。ふふ、こういう偶然ってあるのね…」
 そう言うと、彼女はスタンドの台にすでに用意してあったホットドッグとジュースを手に取ると、ささらに手渡した。
「はい、これ。ご注文の品よ」
「あ、はい、えっと…4ドルでしたっけ」
「いいわ。今日はサービスよ」
「え? そんな、悪いです」
「いいのいいの、せっかくじゃない。気にしないで」
「でも…」
「そうね…。じゃあ、お引っ越し祝い! それでどう?」
「お引っ越し祝い?」
 目を白黒させるささらの手を彼女は取り、強引に握手する。当のささらはと言えば、展開について行けずにおろおろするばかりだ。
「ねえ、あなた、名前はなんて言うの?」
「え? えっと…。ささら。久寿川ささらです」
「ササラ・クスガワ…。うん、覚えたわ。じゃあ…」
 そう言って、彼女は一呼吸おき、そして――

「ようこそ、ささら。ニューヨークへ! 私の名前は、サラ・ウィリアムズ。お友達になってくれる?」

 それが、サラとの――、この街で最初の、そしていちばんの親友との出会いだった。


     ※


 休日の商店街とはいえ、白く染める雪の日とあってはなかなか大賑わいとはいかないようで、クリスマスの飾り付けが昼間からきらきらとネオンを放っている店頭は、せわしさとはほど遠いゆったりとした時間を刻んでいる。
 プロムナードから古い建物の間を散策がてらに歩いて少し、ささらとサラは食料品店の店先で、メモを見ながらあれでもないこれでもないと、とりどりに並ぶ野菜や肉、果物などを物色していた。
 来るクリスマスに向けて、料理のできない女二人、一緒に台所仕事の練習をしようというのが、今日の目的である。
「ラム肉、ビーフ…、ええっと、あとポテトも買うのよね。ビーンズと…」
「ちょ、ちょっとサラ、そんなにたくさん作るの? 私たちで作れるかしら。卵も満足に焼けないのよ、私たち」
「うーん…、やっぱり難しいかな」
「それに…作りすぎても食べきれないわ」
「あ…、そういえば、ささらはあまり食べられないんだったわね」
 そう言って、サラは少し申し訳なさそうな顔をする。小さい頃からのある事情により、ささらが人の手による料理を長く受け付けられなかったという話を思い出したのだろう。
 いわゆる心の病である。彼女はずっと、ブロックタイプの栄養調整食品やサプリメント、若干の野菜、あるいはファストフードやレトルト食品しか口にできなかったのだ。
 それでもアメリカへ移る少し前から、僅かずつではあるが、誰かの作る手料理を口にできるようになってきている。今ではたまにサラと一緒に厨房に立ち、卵を消し炭へと化してみたりするくらいには回復していた。
 とはいえ、まだまだお腹いっぱい食べられるというわけにはいかない。いさんでたくさん作っても、今のささらではきっと食べ残してしまうだろう。
「ごめんね、ちょっと浮かれてたのかしら。忘れてしまっていたわ」
「ううん、気にしないで。私こそごめんなさい。でも、いつかサラの料理、お腹いっぱい食べてみたいな」
「うん、いつかね! じゃあ、今日はミートパイだけにしておこうか?」
 そう言って、サラはかごに入れたいくつかの食品を棚に戻していく。
「そうね。ふふ、今日は焦がさないように気をつけようね」
「あ、この間のことを言ってるんでしょう。もうあんな失敗しないわ」

 ――と

「あれ? お客さん、買わないのかい?」
 背後から、陽気な声一つ。振り向くと、店名のロゴが入ったエプロンを着けた、背の高い青年が立っていた。
 日本人では見かけないほど高い背にがっしりと筋肉が付いて頑強そうな体躯、笑った笑顔はどことなく少年のような趣の、不思議な雰囲気の青年である。柔らかそうなアッシュブラウンの髪の毛も、それに拍車をかけているかもしれない。
「ウチの商品は、新鮮さが売りなんだけどね。買って損はないと思うけどなあ」
「イーサン!」
 店員の顔を見るなり、サラが嬉しそうに声を上げる。彼女の恋人の、イーサン・カーターだった。
 ささらたちと同じ高校に通う同級生で、同校では最も優秀な生徒として名高い人物である。学業は首席、スポーツも非の打ち所なしという、名実揃った優等生である。とはいえ、話してみるととてもで気さくでフランクな人柄で、嫌みなところは全くない。男性が少し苦手なささらでも、気後れせずに話し合える、魅力的な男の子だった。よくサラに、こんな素敵な人を恋人にしているんだと自慢されるくらいである。
「ヘイ、サラ。またキッチンを爆破する算段でもたててるのかい?」
 そう言って、イーサンは快活そうに笑う。
「失礼ね! ちょっとボヤを出しただけよ。バターの量を間違わなければ、あのパイだってきっとあなたの口に入っていたわ」
 イーサンの言葉にムッとした様子で、サラが言い返す。とはいえ、ふくれた頬に乗った目は、楽しそうに笑っていたが。
「バターの量でボヤが出たのかい? そりゃびっくりだ。とりあえず、明日のニューヨーク・タイムズを楽しみにしておくよ。ホッケーの試合結果とどっちが大きいか、今から賭けておこうか」
「もう!」
「こんにちは、イーサン君。ちょっとその言い方はひどくないかしら?」
 ほとんどけんかに近い会話に花を咲かせる二人に苦笑しながら、ささらも二人の輪に加わる。
「ハイ、ささら。今日は君も共犯かい?」
「………」
「ああ、ごめんごめん、そんなつもりじゃないんだ。謝るよ」
 困ったような顔をして黙ってしまったささらに、さすがに悪いと思ったのか、イーサンが謝る。しかし、すぐに謝ったイーサンを、今度はサラがじとっと睨んだ。
「あら、ささらには優しいのね?」
「いやいや…、悪かったって」
 思いがけず反撃されたイーサンだったが、女二人には敵わないと見るや、すぐに白旗を揚げた。両手を少し上に上げて、ホールドアップ。
 そんな彼の様子を見て、ささらとサラは二人顔を見合わせながら、くすくすと笑う。サラとイーサンのコンビは、いつもこんな感じだった。
「ま、いいわ。覚悟しておきなさいよ? 今はまだうまくできないけど、その内うんとおいしい料理を作って、びっくりさせてあげるから」
「…そうかい?」
 ふと、イーサンが複雑な表情を浮かべる。どこか寂しげなそんな様子。
「どうしたの?」
 サラもそれに気付いたのだろう、青い色の瞳を少し曇らせて、彼の顔をのぞき込む。
「え? いや、なんでもないよ」
 何か慌てた様子で、イーサンはすぐに元の笑顔へと戻った。とはいえ、先ほど見せた表情は、白い紙に落とした水滴のように、じわりと心に浸みて乾かない。
「…ほんとう? 何かあったんじゃないの?」
「ああ…」
 ちら、とイーサンがささらの方を見た。
「いや、うん…。今日は、これから二人で?」
「え? ええ…。サラの家で、お料理の練習をするつもり」
「そう。…あのさ、サラ。明日は空いてるかい?」
 唐突に、イーサンがサラに予定を確認する。いきなりそんなことを言われて、サラが少し目を白黒させる。
「明日? ええ、まだ特に決めていないけれど…」
「そうか。じゃあ、少し時間をもらえるかい?」
「そうね…」
 少し考えるような仕草をしながら、サラがささらの方を見る。特に約束はしていなかったが、最近はいつも二人でいたので、確認のつもりなのだろう。もちろん、恋人たちの邪魔をするほどささらも野暮ではない。『私は構わないよ』とばかりに頷く。
 それを見ると、サラはイーサンに向き直ってにっこりと笑った。
「うん、いいわ。明日ね」
「ありがとう。じゃあ、待ち合わせの時間とかは、また今夜電話するよ」
「うん」
「じゃあ、僕は仕事に戻るから。ああ、レジに来てくれれば、サービスするよ」
「ホント? じゃあ、高いものたくさん買っちゃおうかな」
「はは、お手柔らかに頼むよ。じゃあ」
「ええ。また」
 サラに見送られて、イーサンはレジの方へと歩いていった。姿が見えなくなるのを確認してから、ささらはサラの方を向いて、少し冷やかす。
「良かったわね、サラ。明日はデート?」
「そうね。最近はずっとささらと一緒だったから、ちょっと放ったらかしだったかも」
「そうなの? せっかく近くに恋人がいるのだから、もっと構ってあげないと寂しがるわ」
「ふふ、そうね。あれで、子供みたいなところがあるからね」
 そう言って、何かを思い出すように、サラはくすくすと笑った。きっと、何かデートの時の思い出があるのだろう。
「ねえ、そういえばささらの彼とはどうしてるの?」
 思いがけず自分に話が振られる。日本にいる恋人のことは、サラには話してあった。
「え? 私は…」
「クリスマスに来るんでしょう? そういうのもロマンチックで素敵だわ」
「クリスマス…」
 7月の空港。別れ際に彼が――河野貴明が約束してくれたことを、ささらは思い出す。クリスマスに、誓いの証を持って、ニューヨークへ来てくれるという約束。
 もちろん、忘れたことなど片時もない。あの約束を信じられたからこそ、お互い顔も見ることのできない境遇の中で、愛情を温められ続けたのだから。
「来たら、ちゃんと紹介してよね? あなたの恋人なら、きっと良い人なんでしょう」
「ええ、とても…」
「じゃあ、しっかり料理の練習をしておかないとね! 今日こそおいしいものを作ろ?」
 そう言うと、サラは少し笑って、再び買い物かごと商品棚を見比べ始める。ささらも、クリスマスにきっとやってくるであろう大切な人の顔を思い出しながら、その後を追っていった。


     ※


久寿川先輩へ

 先輩がアメリカに行っちゃってから、もう5ヶ月もたちましたが、お元気ですか。柚原このみです。
 いま、日本ではクリスマスの真っ最中です。…あっ、えっと、まだ25日じゃないんだけど、クリスマスの飾り付けとか…雰囲気がってことです。家で飼ってるゲンジ丸って言う犬の犬小屋にも、お母さんがイルミネーションをつけちゃってるくらいです。夜になるとちょっとまぶしそうです。毛が長くて目がかくれちゃってるんだけど、でもきっとまぶしいと思います。
 そうそう、聞いてください。これ、ショックが大きそうだから、内緒にしておこうかってみんなで言ってたんですけど、でもやっぱり言っておいた方がいいかなって。
 なんとですね、2ヶ月前の文化祭で、ユウ君が生徒会長になっちゃったんですよ。もう、みんなびっくりしちゃって、夢じゃないか、何かの間違いじゃないかって言ってたんですけど、やっぱり嘘じゃなくて。
 タカ君やタマお姉ちゃんは、最初はぜったい先輩には言っちゃダメーっていってたんですけど、そろそろあきらめがついたって言ってて。驚きましたか? あ、ちなみに、副会長はタカ君です。私は書記のまんまです。会計には、新しく入ってきた郁乃ちゃんっていう子がなっています。
 そんなわけで、生徒会はちょっと先行き不安な感じですけれど、でもみんな元気に、楽しく活動しています。でも、もっと久寿川先輩やまーりゃん先輩たちと一緒に生徒会やりたかったな。えへ、そんなこと言っちゃダメなのかな。あーあ、私もタカ君たちと同い年だったらなあ。
 とりあえず、2学期最後のお仕事として、21日の終業式の日に、生徒会主催のクリスマスパーティを開催することになりました。私は、サンタクロースの服を着て、みんなにお菓子を配る役です。トナカイ役はタカ君です。
 そうだ、ニューヨークももうクリスマスなんですよね? 本場のクリスマスって、やっぱり凄いのかなあ。きっと、マンハッタンとか、サンタさんがいっぱいいて「メリークリスマス!」って言って、プレゼントを配るんですよね。私も、行ったらもらえるかなあ。
 それじゃあ、今日はこのくらいで終わります。また、お手紙書きますね。
 先輩も、風邪とかひかないで、元気でいてくださいね。

 柚原このみより また会える日を楽しみにしています。


     2


 月曜日のハイスクール。再来週にはクリスマスを控えた中とはいえ、授業はなかなか真剣に行われている。公は公、私は私できっちりと線引きはできているのだろう。
 活発にディスカッションが繰り広げられる教室の中で、ささらはしかし、頭の中にある別の問題に思考を割かれていた。
『どうしたのかしら、サラ…』
 今朝、通学途中の道すがら、一人でとぼとぼと歩いているサラを見かけた。きっと日曜日の楽しい話を聞かせてくれるだろうと期待して声をかけたのだが、しかし、振り向いたサラの表情は、今までに見たこともないほど憔悴したものだった。

「ああ、ささら…」
「あ、あの…、どうかしたの? サラ…。なんだか、元気がないみたい」
「…そうね…」
「何かあったの?」
「…何もないわ」
「でも…」
「何もないってば!」

 そう言って、サラは、ささらを残して校舎へと駆けていってしまった。
 クラスは別々なのでその後は会えず、詳しい話は何も聞けずに、ただ友人の見たこともない表情だけが脳裏にこびりついて離れない状況である。
 おかげで、今日の授業はちっとも身に入らず、それどころか普段まじめなささらがまったく上の空というので、クラスメイトや教師にまで心配されてしまったほどだった。
『けんかでもしたのかしら…』
 土曜日、サラとイーサンが約束していたことを思い出す。あの後はサラの家で二人で料理に没頭していたし、その時何かあったというわけでもない。帰り際に見た、サラの笑顔も覚えている。まさか突然嫌われたと言うこともないだろう。
 ならば、その後…おそらくは日曜日に何かあったのだと考えられる。イーサンと二人で遊びに行ったのならば、きっと、二人でけんかしたのに違いない。
『どうしようかな…。二人のことに口出しするのも気が引けるし』
 親友のことは心配だが、もし自分の考えが当たっていればそれは二人の問題だろう。サラから相談されたのならともかく、まだ話もしたくないと言うことであれば、無理に聞き出したりするのは失礼に当たる。
 とはいえ、もしも放っておいて取り返しの付かないことになったらと思うと、少しくらいは何かアクションを起こした方が良いような気もする。
『どうしよう…どうしたらいいのかな…』
 日本にいた頃、決して友達づきあいの良い方ではなかったから、どうにも糸口か見つからない。
 さて、どうしたものだろうと窓の外の雲をぼんやりと見ていた時――、不意に、ささらの携帯電話がぷるぷると振動した。
「?」
 振動はすぐに収まったから、おそらくメールが届いたのだろう。図らずも、時計はそろそろランチタイムになろうとしていた。


     ※


「イーサン君」
「ああ、ささら…。悪いね、呼び出して」
 ささらが中庭のベンチにやってくると、呼び出し元のイーサンはすでにそこにいた。晴れているとはいえ、12月の寒い中ではわざわざ表に出ている生徒もおらず、ささらはすぐにロングコートを着込んだ彼の姿を見つけることができた。
 冷たい風が吹き抜ける中、彼の様子はそれよりもなお、何か他のものに耐えるような、そんな雰囲気を醸し出していた。

 やっぱり何かあったんだ――、直感的に、ささらはそう思う。

「ささらは今日もブロック食品かい?」
「ええ。お弁当でも作れれば、頑張って食べてみたいけれど、まだちょっと…」
「それは体質の話? それとも、味の話かな?」
「……意地悪だわ」
「悪い…。ああ、座りなよ」
「ええ」
 促されて、ささらはイーサンの隣に腰を下ろす。
 先ほど届いたメールはイーサンからのものだった。相談したいことがあるから、昼休みになったら中庭のいちばん東側のベンチに来て欲しいという内容が簡潔に書かれていた。
 詳しい相談内容などは書いていなかったが、きっとサラとのことだろうと見当をつけて、授業が終わるやいなや、トレンチコートといつも持ち歩いているブロック食品をひとつ携え、急いでベンチへとやってきたのである。
「相談したいことって、サラのこと?」
「ああ…、サラから、もう聞いたのかい?」
 その言葉にささらがふるふると首を横に振ると、イーサンは苦しげに顔をゆがめて、頭を抱え込んだ。
「そうか…。君にもまだ話してないなんて。よっぽど怒らせちまったらしいな」
 そう言ってうめくイーサンの様子に、ささらはただならぬ気配を感じる。ひょっとしたら、自分が思う以上に大変なことが起こっているのかもしれなかった。
「何があったの? 日曜日に」
「何かあったというか…。何かあるといった方がいいのかな」
「え?」
「……ささら、君は、僕の志望を知っているよね?」
「え?」
 唐突に問われて、少し意表を突かれる。しかし、そのこと自体は以前からサラやイーサン本人に聞かされていたため、ささらはすぐに答えた。
「ええ…。情報工学の技術者を目指しているって。確かお父様もシリコンバレー出身で、自分もそれを目指そうと」
「うん。そうだね。そのために、かなり学業には力を注いできたつもりだ」
 かなりどころではない。この高校自体名門と呼ばれている中で、彼は入学以来首席を守ってきたと評判なのだ。そのことは、ささらもよく知っている。スポーツにおいても、よくバスケットボール部の練習に混じっては、部員たちをも凌ぐプレーを見せていたものだった。
「そうね。それは私もサラもよく知っているわ。でも…、それが?」
 彼の言葉の真意を測りかねて、ささらは隣で頭を抱える青年を促す。すると、彼はよりいっそう苦しそうな声で、意外なことを口にした。
「……1月に、大学に入学が決まったんだ」
「え?」
「飛び級ってやつだ。決まっていた、と言った方が良いかもしれないが」
 アメリカの大学は、日本の大学と違い、年に何度か入学の機会がある。セメスター制の大学なら8月と1月の2回、クォーター制の大学なら、9月、1月、4月、6月の計4回である(高校の卒業月は6月)。
 これは、在籍年数による基準を持たず、単位と学位の取得によってのみ進級や卒業が決まるアメリカの大学ならではのシステムである。そのため、こういった時季での入学や編入が珍しくない。
「本当に? 願書を送っていたの?」
「ああ。飛び級とは言っても、もう高校3年だからね。たいしたことはないんだが…」
 そう言って、イーサンが謙遜する。とはいえ、高校在籍中に入学が決まる生徒など、そうそうどこにでもいるわけではない。数の上ではたくさんいるように見えても、実際に近しい人がそうなるのは希だろう。
「そんなことないわ。凄いと思う。おめでとう。ニューヨーク州立大学なの? どこのキャンパスに入るのかしら」
 自分の友達が飛び級で大学に入るという事実を前に、ささらは素直に感嘆の言葉を口にする。だが、イーサンの表情には一片の微笑みも戻る気配はない。それどころか、彼はまたしても意外なことを口にし始めた。
「…違うんだ。ニューヨークじゃない」
「え? じゃあ…」
「カリフォルニア」
「え……?」
 次の瞬間――、それこそ、これまでに聞いた中で、もっとも驚くべきことを彼は口にした。
「スタンフォードだ」
「! 本当に!?」
 スタンフォード大学。カリフォルニア州にキャンパスを擁する、世界屈指の名門校である。シリコンバレーの中心に位置するこの大学は、歴史的にも、そして実務的な意味でも他を圧倒する存在であり、特に、情報工学の分野では、世界の最先端を走っていると言っても良いだろう。ダグラス・エンゲルバート、あるいはアーパネット・ノードといった、コンピュータの世界での歴史の転換となった人物やエピソードなど、実にそうそうたるものだ。
「こんなこと冗談で言えるもんか。自分で願書を送っておきながら、通知を見た時は何かの間違いだとまで思ったよ。MITやハーバードと並んで、全米の理系学生たちの憧れの的の大学だ。最初は落ちるもんだと思ってたくらいなんだ」
「でも、それじゃあ…」
「…ここから発つ。たぶん、クリスマスだ」
「! そんな…」
 それを聞いて、ささらは先ほどから何がそんなにイーサンを苦しめていたのかを初めて理解する。
 ニューヨークは東海岸、カリフォルニアは西海岸だから、北アメリカ大陸のまったく正反対の場所にある。とうてい、毎日交通機関を使って通うなどと言うわけにはいかないから、どうやってもここから移り住まなければいけないだろう。
 それがクリスマスまでと言うなら、一緒にいられるのは、もうあと2週間もない。
 しかし――
「で、でも、どうしてそんな急に? せめて年明けではダメなの?」
「カリフォルニアに母方の祖母がいるんだ。僕が向こうに行くって話したら、じゃあ年内から来てくれって言うんだ」
「お祖母さまが?」
「普通なら断るだろうけど、祖母も最近は病気がちでね…。元気な頃は60過ぎてもハーレーを乗り回すような人だったけど、もうあまり床から離れられないらしいんだ。そろそろ弱気になってるんだろうな。次のクリスマスまで持たないかもしれないなんて言われちゃ、断れないさ…」
「そんな…。サラは…サラは知っていたの」
「……言えなかった。」
 ささらの言葉に、イーサンは首を横に振る。何かを思い出しては顔をゆがめ、一つ一つの言葉を絞り出すように口にしては、まぶたを震わせる。
 そういえば、目が赤い。昨日から寝ていないのかもしれなかったし、また、たくさん涙を流したのかもしれなかった。
「言えるもんか。いや、言わなければいけなかったんだろう、可能な限り早く。でも…、会うたび、顔を見るたび、彼女の笑顔が僕に向けられるたび、挫けた。こんな時期になるまで…言えなかったんだ」
「そう…なの…」
 イーサンの紡ぐ言葉を聞きながら、あの6月のことを、ささらは思い出す。河野貴明――彼女の恋人に、渡米を伝えたあの日のことを。
 自分も、その決断を口にするまでに、ずいぶんと苦悩したものだった。そばにいたいという想い、笑顔に応えてあげたいという想い、悲しんでほしくないという想い、一人になりたくないという想い、それらがない交ぜになって、眠れぬ夜を何度過ごしたかしれなかった。
 だから彼のその苦悩は、ささらには痛いほど理解できた。
 しかし――
「どう…するの?」
「どうって?」
「大学…やっぱり、行くの? ニューヨークの大学ではダメなの?」
「ダメってことはない。でも…、"格"を考えれば、明らかなんだ。逃すには、魅力的に過ぎる」
「サラは、どうするの…?」
 おそらく、もっとも残酷なことを聞いているのだろうと、ささらは思う。それは理解しているつもりだった。
 しかし、それでも――、一緒にいられる可能性が僅かでもあるのなら、一緒にいた方がいいと思う。もちろん、そのために自分を、あるいは自分の夢を踏みつぶしてしまえばいいなどとは思っていない。ささらと貴明だって、自分たちの未来を信じたからこそ、今こうして離れているのだから。
 しかし、イーサンなら、どこでだってやっていけるのではないか――、そう思うと、サラのことを聞かずにはいられなかったのだ。
「……君と君の恋人のように、遠距離恋愛を続けたいって、そう思ってる」
 彼はゆっくりと、自分の想いを確かめるように口にする。
「いや、そうなれるって信じてる。…都合の良いこと言ってるって思わないでくれ。僕は、どんなチャンスも、夢も、大切な人も、逃したくないんだ」
「…………」
「サラはもちろん大事だ。あんな素敵な女性なんて他にいない。でも、シリコンバレーへの道だって、僕には大事なんだ。だから、カリフォルニアへは行こうと思う。いや、行くんだ。そう決めた」
 きっぱりと、そう言いきった。揺るがない決意がそこに見える。
 自分の未来を、自分の道で歩いていく者の言葉がそこにあった。
「…信じているのね?」
「もちろん」
「そう…」
 そうまで言われてしまっては、ささらに引き留めることはできない。
 誰にも、そんなことはできないだろう。おそらく、サラですら。

 別れの時は、もう動かせないのだ。

「それまでの時間、できるだけサラの側にいたいと思ってる。でも…、昨日から、電話にも出てくれない。何度もかけていたら、着信拒否されちまった。朝、通学途中のサラを捕まえようとしたら、顔を見るなり逃げられる体たらくだよ」
「そんな…。だって、もう2週間もないのに」
「だから、頼みがあるんだ、ささら。僕が謝っていたこと、そして、僕の気持ち…、サラに伝えてくれないか」
 そう言って、これまでに見たこともないほど真剣な表情で、イーサンがささらを見る。
 ささらはすぐに応えた。
「ええ、わかったわ」
 日本に残してきた恋人と遠距離恋愛を続けるささらには、単純に、いつも近くにいて笑い会える境遇の二人が羨ましく、また、微笑ましくもあった。だからこそ、二人にはずっと、仲良しでいて欲しい。たとえ遠く離れたとしても。温かい心を通わせて欲しかった。
 だから、ささらはイーサンの頼みに、すぐに頷いた。
「私からも話してみる。力になれるかわからないけれど…」
「いや、君なら大丈夫だよ。友達の多いサラだけど、でも、君ほど仲良くなった奴は他にいないんだ。逆に言えば、君でもダメなら、他には誰にもできないってことさ」
「…プレッシャーかけないで」
「ああ、いや、そんなつもりじゃないんだ、すまない。でも…頼んだよ。僕のアドレスとナンバーは知っているだろう? 何かあったら連絡してくれ」
「ええ」
「それじゃあ…。ランチタイムもそろそろ終わるし、僕はもう行くよ。貴重な時間を使わせて悪かったね。じゃあ」
 そう言い残して、イーサンはベンチをたち、校舎に戻っていく。その後ろ姿がなんとなく寂しそうで、ささらは思わず声をかけた。
「あの…。元気、出してね」
 その言葉に、イーサンは少しだけ左手を挙げて応え、冬枯れの風の中を歩いていった。


     ※


 その日の授業後――、ささらはいつもより早く校門に来て、通り過ぎていく人並みの中に、サラの姿を探していた。
 何となく気が重い。イーサンの気持ちは痛いほどよく判ったから、彼の頼みを快諾したはいいが、サラの気持ちを思うと何ともやるせない気分になる。
 どんな言葉をかければいいのだろうか。"きっとうまくやっていけるよ"、"すぐに会えるよ"、どれも空虚に思える。
 空こそ晴れていたが、それでも寒空の色はどんよりと重く見え、ささらはそっとうつむいてため息をついた。
 ――と、そうこうしている内に、ささらの目にとぼとぼと寂しげに歩くサラの姿が見えた。
 逡巡しているわけにもいかず、ささらは意を決して友人に声をかける。
「サラ」
「ささら…」
 驚いたような顔。しかし、それも一瞬のことで、また元の暗い顔に戻ってしまう。
 だがそれでも、友人に心配をかけまいとしているのか、彼女は少しだけ表情を崩した。より正確に言えば、崩そうとした。
 無理している――、明らかにそう見えた。
「今朝はゴメンね。少し、気分が悪くて」
「いいのよ、気にしてないわ。…一緒に帰りましょう?」
「うん」
 そう言って、二人は並んで歩道を歩き始める。

 古い建物が並ぶ街。いつもなら何の気なしに、あるいは、美しい煉瓦造りの建物に年月の息吹を感じながら歩く道のりが、今日は重く苦しい。どう切り出したものか、タイミングが判らず、なかなか話を切り出すことができないのも、また思い雰囲気に拍車をかけていた。
 しかし、そんなささらの雰囲気から察したのか、やがてサラの方からそのことについて話し始めた。
「…日曜日に、ちょっとね。彼とけんかして」
 たぶん、ちょっとどころではないのだろう。
 努めて軽く装ってはいるが、ささらにはその裏にある心が見て取れる。
「ランチタイムに、イーサン君が来てたわ」
「…そう、じゃあ、聞いたんだ」
「ええ。スタンフォード…。名門大学ね」
「名門…そうね、世界一の名門だわ」
 名門、と言う言葉に、少しだけサラは苦笑した。
「でも、私には、世界一遠すぎる」
「……」
「日本の大学に行く、って言ってくれた方がマシだったわ。そうしたら、ささらについてきてもらって、私も向こうに行くのに」
「サラ…」
 やがて押さえきれなくなったのか、口調が早くなる。言葉の刃がいくつもこぼれ落ちて、枯れてしまった街路樹の間に転がっていく。
「何よ、カリフォルニアって。飛行機で何時間かかると思ってるのよ。電話する、メールする、手紙も書く、って。そんなの。声は聞こえても、手はつなげないのよ」
「…でも、心は見えるわ」
「心…、そうね、ささらには、見えるのかも知れないわ。でも…」
「遠距離恋愛…。つらいけど、でも、あなたたちなら、私、大丈夫だって…」
「違うのよ」
 ささらの言葉に、サラは首を振る。
「え?」
「違う…。遠距離恋愛? そうね、できるのかもしれない。でも、でもね、じゃあなんで彼は、もっと早くに言ってくれなかったのよ。一言で良かったのに」
「それは…」
「せめて、願書を送ろうと思ってるって、もっと前に、スタンフォードに行ってみたいって…。受かったんなら、受かったよ、スタンフォード大学、遠く離れちゃうけど、でも大丈夫だよね、って。どうして? どうして、私には何も言ってくれなかったの?」
「サラ、それは…」
「ええ、そうね。きっと、私のことが大事だったからって、そう言うんでしょ? でも、そんなの、後から言われたってイヤよ…」
「……」
「恋人って、そういうものでしょ? 違う? いつもいちばんで、誰よりも近くて、そばにいたいって、いつも話を聞かせて欲しいって、抱きしめてくれて、キスしてくれて、悩んでる時には一緒に泣いて、そいういうものじゃないの? 私はそう思ってる」
「サラ、きっと彼だってそう思ってるわ」
 だが、サラは首を縦に振らない。それどころか、ますます強い口調で、イーサンに対する怒りをぶちまけていく。
「思ってないわよ! 何よ、一人でなんでも決めて。いっつもそう! わたしの言うことなんて、何も聞いてくれないじゃない!」
「サラ…」

 静かな街に、少女の声が響き渡る。
 まるで、煉瓦の壁を、アスファルトの道路を切りつけるような声。
 軒先に止まっていた小さな鳥が驚いて、一羽、空の向こうに飛び立っていくのが見えた。

「…ごめん。ささらに当たっても仕方ないのに…」
 少しだけ落ち着いたのか、サラが謝る。
「ううん、いいの。でも、サラ、あと2週間もないのよ。今すぐじゃなくてもいいから…」
「わかってる。でも…。ごめん、まだ、気持ちの整理がつかないの」
「うん…」
「そうだ…。これ、ささらにあげるよ」
 そう言って、サラは持っていたショルダーバッグから、何かを取り出した。
「マフラー?」
 それは、赤い毛糸で編み上げられたマフラーだった。ところどころ編み目の大きさが違っているところを見ると、手製のものなのだろう。よく見ると、不器用なハートのマークも付いている。
「これは…」
「クリスマスプレゼント…。たぶん、その頃は今よりも塞いでいると思うから、先にもらっておいて」
 そういえば、土曜日に会った時、マフラーをくれると言っていた。これがそうなのだろうか。
 受け取ると、毛糸の乾いた温もりが伝わってくる。本当なら、クリスマスに受け取るはずだったマフラー。赤い色合いが、今日だけは何か寂しげに見えた。
「サラ…。無理、しないでね。何かあったら…」
「うん…。でも、今はそっとしておいて」
 一言そう言うと、サラは足早にその場を立ち去ってしまった。
 彼女の後ろ姿を見ながら、ささらは自分の無力さに、またひとつ、大きなため息をつく。
「仲直り…できるかしら…」
 誰に言うでもなく、舞う風に独り言を乗せる。あの仲の良い二人に、一刻も早く戻って欲しかった。


     ※


拝啓 久寿川ささら様

 師走の候、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。向坂環です。
 …なんて、ちょっと堅苦しいかしら。あんまり他人行儀に書いちゃうと、きっとこのみに怒られちゃうわね。
 そろそろ年末。日本ではそろそろ雪が降るのかな、というくらいに寒くなっているけれど、そちらはどうですか。霜焼けなど作っていないか心配です。久寿川さんは肌が敏感だったからね。せっかくの白い肌、大切にしてね。

 そうそう、この間送ってくれたチョコレート。どうもありがとう。みんなで美味しく食べさせていただきました。雄二なんて、よほど嬉しかったのか、いくつもいっぺんに食べるものだから、にきびなんて作っちゃってね。まったく、いい年の男の子がだらしないんだから。
 でも、それだけ、あなたのことを慕っているんでしょうね。もちろんタカ坊も、このみも、まーりゃん先輩も、そして私もね。
 会えない日が長く続いているけれど、またあなたとお話しできる日が来ることを、みんな信じて心待ちにしています。
 …でも、それも意外と近いのかもしれないわね。そろそろ冬休みなのだし。きっと、会える機会、時間もあることでしょう。

 あまり長く書いても迷惑だと思いますので、このくらいで筆を置くことにします。
 寒さが厳しくなってまいりますので、体調には十分ご留意ください。

   敬具

   平成19年12月14日 向坂環

 追伸 手紙に同封して、向坂家に伝わる製法で作った軟膏を送ります。ちょっと工夫して、あまり匂わないようにもしておきました。霜焼けなどによく効くので、もしよかったら試してみてください。床に就く前に塗っておくと良いと思います。では。


     3


 サラと話してから数日。しかし、二人の間に変化はないようだった。
 いや、それどころか、サラはますますふさぎ込むようになり、仲直りどころか、いまだに電話の着信拒否すら解除されていないようだった。
 イーサンとは何度か連絡できる機会があったが、二人とも何ら有効な手を打てず、ただいたずらに時間ばかりが過ぎていった。
 そうこうしている内に週は半ばを過ぎ、週末になり――、最後の別れの日まであと一週間となってしまった。
 "そっとしておいて"とは言われていたものの、このままではクリスマスの日まで、お互い顔も会わせない日が続いてしまうだろう。無為に通り過ぎていく日々の中、たまりかねて、ささらは日曜日の午後、サラをブルックリン・プロムナードに呼び出した。

「サラ…」
「遅れてゴメン。今日は晴れているけれど、やっぱり水辺は寒いわね…」
 約束の時間に5分ほど遅れて、サラがやってきた。
 先週から雪も降っていないプロムナードは所々に残り雪を積もらせているだけで、日差しがよく地面を照らしていたが、マンハッタン島を望むイーストリバーからは冷たい風が身を切るように駆けていく。
「呼び出してごめんなさい。でも、どうしても話しておきたくて」
「イーサンのこと?」
 先回りして、サラが言う。
 この一週間、そのことしか話すことなどないのだから、当然である。
「うん…」
「もう、いいんだ」
「いいって?」
「別れる」
「! そんな!」
「勘違いしないで…。嫌いになった訳じゃないのよ。自信がない…。そう、自信がないんだ、私」
「自信?」
 真意を測りかねて、ささらが問う。ささらの目に映るサラは、いつも明るくて、活発で、自信がないいう言葉とは無縁のように見えたからだ。
「ささらも知っているでしょう。スタンフォード。名門だわ。私なんて、逆立ちしたって入れっこない。全米どころか、世界中から才能が集う大学よ」
「ええ、知っているわ。もちろん…。イーサン君、優秀なのね」
「そう…。勉強も、スポーツも…。きっと、彼なら、スタンフォードでだって、トップにまでたどり着けるわ。そう信じてる」
 よどみない口調。本当にそう信じているのだろう。
 イーサンに対する、絶対の信頼がそこにかいま見えた。
「そして、それを私は応援してあげたい。彼が行きたいのなら、カリフォルニア、行くべきだと思う」
「サラ…」
 少なからず、ささらは驚いた。彼女の紡ぐ言葉が真意なら、何の憂いもないはずだったからだ。
 しかし、次の瞬間――、サラの目から一滴、涙がこぼれ落ちた。
「え――?」
 それは後から後から溢れて止まらず、ぽたぽたと、いくつも彼女の膝の上に落ちていく。それは、まるでつららから落ちる水滴のように、コートの布地に弾けて浸みる。
「怖かったんだ――」
 涙の雫にひとつ、言葉が落ちる。
「わかってる。私、怖かったんだ。日曜日からずっと、ベッドの中で泣いていたわ。いつか忘れられちゃうんだ、って」
「そんなこと! 彼は…」
 何を言うのか。イーサンに限って、そんなことあるわけはない。ささらはそう思う。だから、すぐに彼女はサラにそれを言おうと思った。
「今は!」
 しかし、それを制するように、サラは強い口調でささらの言葉を遮る。
 そして、またひとつ、またひとつと、こぼれ落ちる心を乗せて悲しみを紡いでいく。
「…今は、私のことを好きでいてくれる。でも…でも…きっと、もっと素敵な女の子が現れるんだわ。私なんかより、ずっとずっと可愛くて、優秀で、素敵な子よ」
 まるで、それがもう昔から決められていた約束でもあるかのように、サラは語る。自分に向けられる愛情が、他へと移っていくことを、確かなことだというように。
 それは、どんなにつらい確信なのだろうか。
「だって…、彼は一流、なんだもの」
「そんな…」
「ささら、知ってる? 私ね、ずっと、友達がいなかったんだ」
 不意に、そんなことをサラがいう。ささらは驚いて、友人の顔をのぞき込んだ。とても、そんな風には見えなかった。
「ずっと…。子供の頃は暗い性格で、いつも本の世界に閉じこもっているような子だったの。でもね、そんな自分がたまらなくイヤだった。だから、高校に進学したら、きっと変わろうって、なりたい自分になろうって、そう思ってた」
「なりたい…自分?」
「明るくて、素直で、みんなと友達になれる、そんな女の子」
 それは、今のサラそのものだった。
 もし彼女の言葉が本当なら、きっと、そうなるために、たくさんの勇気が必要だったのだろう。ささら自身も、かつてずっと自分を変えたいと思い悩んでいたから、そのことはよく判る。
「ずっと、あこがれてた。でも、でもね、それで友達は多くなったのに、でも、やっぱり…私には、本当に友達って呼べる人はいなかった。うわべだけよ」
「……」
「そんな時、イーサンと出会った」
 その時、今日初めて、彼女の顔に笑顔が浮かんだ。それは、はっとするほど幸せそうな顔だった。
「…天使が舞い降りたんだ、って思ったわ。明るくて、頼りがいがあって、いつも優しくて、私を理解してくれた。あんな素敵な人、初めて見たわ」
 繋ぐ言葉は、とても優しい。本当に好きなのだろう。
 でも、それがクリスマスの日には――
「彼に惹かれて、少しずつ、私は本当の意味で変わっていったんだと思う。友達のことだって、それまで以上に好きになって、信じられるようになった。それから少し経った頃よ」
「何が?」
 サラは微笑んで、ささらを見つめる。
「ささらと出会ったの」
「私と――?」
 あの夏の日のこと。コニーアイランドのスタンドで一緒にコインを拾っていた8月の日。砂で少し汚れた顔で微笑みながら、友達になってほしいと言われた、あの日。
 ささらも、よく覚えている。
「そう…。彼とつきあい始めて、3ヶ月目だった。不思議ね…、世界でいちばん好きな恋人と、世界でいちばん大切な友人が、ちょっとの間にできちゃったんだもの。でも…、きっと、それは夢だったのね」
「夢なんかじゃないわ。私はここにいる。それに、イーサン君はあなたを…、そして、あなただって彼のことを…」
「だから、怖いのよ」
「え?」
 再び、彼女の顔に濃い陰の色が落ちる。それは見る間に彼女を覆い尽くし、先ほどの笑顔をすっかり隠してしまった。
「夢じゃないから…怖い。これが夢だったら、私はいつかベッドから起きて、本当の日常に戻れる。怖い夢は、そこで終わり。トーストが焼き上がる頃には、もう忘れてしまえるわ。でも、夢じゃないから…つらいことも、悲しいこともぜんぶ、続いていくんじゃない」
「それは…」
「私、あなたが羨ましい」
 唐突に、サラはそんなことを言う。じっとささらを見て、ささらの瞳の中に何かを探しているかのようだ。
「え?」
「日本にいる恋人…、私には、無理。きっと、忘れられる怖さに耐えられない」
「だから…忘れてしまうの?」
 長い沈黙。だが、やがて彼女は小さく――、そして、はっきりと頷いた。
「うん…。そう、決めたんだ」
 それは夢の終わりを告げる鐘。
 楽しく、そして、楽しいが故に残酷な夢に告げられる終幕のチャイム。
 誰も望まなかった決断が、そこにあった。
「そんなの…、そんなの、間違ってる…」
 絞り出すように、ささらはそれだけ言った。
 この世に正しいことなど何一つ無かったとしても、その決断は間違っていることは確かだと、そう思った。
「そうかもしれない。でも…でも、やっぱり…私はあの頃のまま、だから…」
 またひとつ。涙の雫が流れて落ちる。
 それを合図に、彼女はベンチから立ち、プロムナードの舗道をゆっくりと歩き出す。
 慌てて、その後を追おうと、ささらもまたベンチから立ち上がった。
「サラ!」

「来ないで!」

 しかし、その気配を察した友人から発せされたのは、強い拒絶の言葉。はっとして、ささらはその場に立ち止まる。
「サラ…」
「来ないで…もう、一人にしておいて。せめて、彼がニューヨークを発つまで…、私をそっとしておいて」
 そう言い残し、彼女はその場から駆けていってしまった。そしてすぐに公園の木々の間に見えなくなり、あとにはただ、イーストリバーを抜ける風と、そして、ささらの漏らす嗚咽だけが残った。

 誰も悪くないはずだった。
 誰もが誰かの幸せを願い、ただ優しく日々を歩いていただけだった。
 それなのになぜ、心は通うことをやめてしまうのだろう。
 なぜ、温かい旋律はとぎれてしまうのだろう。
 広がる青空の下には、きっと優しい言葉が交わされているはずなのに。
 なぜ、睦まじい恋人たちの間に、恋の言葉は届かないのだろう。

 ひとしきりプロムナードで泣いた後、ささらは重い足取りで、イーサンがパートで働いているスーパーへと向かった。
 1階にある生鮮食品売り場。彼は清涼飲料水のたくさん乗った台車を傍らに、棚の整理をしていた。声をかけると、彼はゆるゆると振り返り、腫れぼったい目でささらの方を見た。
「やあ、ささら…」
「イーサン君…」
「…参ったよ。相変わらず全然電話に出てくれないんだ」
 持っていたラベラーを台車に積まれた箱の上に乗せて、彼は重くため息をついた。
「家にも行ってみたけど、カーテンに隙間だってできやしない」
「ごめん…なさい…。私…、力に、なれなくて…」
 目の下の隈、普段よりろれつの回っていない口調。イーサンのそんな様子を見て、ふたたびささらの目に涙が溢れる。
「違う、君のせいじゃない。君が責任を感じることじゃないよ」
「でも、あなたに頼まれたのに…。私、サラになにもしてあげられなかった」
「そんなことはない。君はサラのそばにいてくれてる。何もしてあげられなかったのは僕の方だ」
「イーサン君…」
「自業自得、なのかな。もっと、彼女と向き合うべきだったんだ。失うことを恐れた結果がこれだ。まったく…、大学に入れたって、大切な人の涙を止められないんじゃな…」
 自嘲気味に、彼は視線を落としながら、自分を責める。
 その言葉に、以前のような覇気は感じられない。本当に、憔悴しているのだろう。
 この一週間の彼の苦悩を思い、ささらも胸が締め付けられるような感覚を味わう。
「もう、このまま終わってしまうの?」
 かろうじて、それだけを口にした。最後の、抵抗のつもりだったのだ。
 しかし、イーサンの顔に生気は戻らなかった。
「……24日18時。飛行機の時間だよ。あと1週間しかない。何とか頑張ってはみるけれど…。思い出を作るには、あまりにも短すぎる」

 絶望の色が、世界を覆い尽くしていく様を、ささらはその時はっきり目にしたような気がした。


     ※


 夕暮れのブルックリン。そろそろ辺りは闇に閉ざされようとする中、ささらは一人、とぼとぼと家路を辿っていた。
 胸を覆うのは夜よりも暗い闇。寂しい風が逆巻く闇が、しこりのように彼女の心をさいなみながら、だんだんとふくれあがっていくかのような感覚。

 何が間違っていたのだろう――

 ささらはもう一度、この一週間のことを思い出す。

 どこで間違えてしまったのだろう――

 もっと何か他にできることはなかったのか。彼女たちのために、自分にもっとできることがあったのではないか。"そっとしておいて"と言う言葉に怯えず、もっと毎日話しかけて、説得するべきだったのではないか。

 しかし、いくら問いかけてみても、正しい答えも、歩んでいるべきだった道も、彼女には思い浮かばなかった。
 ただ、澱のように、自己嫌悪だけが心にのしかかる。

 無力な自分。大好きな友達のために、何もしてあげられなかった。
 ただ、無為な時間ばかりを重ね、結果、最悪の結末を迎えてしまった。

 もしも、あの人たち、だったら――

 ささらは、かつて自分を救ってくれた人たちのことを思い出す。
 きっと彼らなら、自分なんかより、ずっと彼女たちのために、何かをしてあげることができたのではないか。

「貴明さん――、まーりゃん先輩――」
 空の向こうに語りかけるように、ささらは大切な人たちの名を呼ぶ。
「助けて…。私、もう…どうしたらいいか、わからないよ…」

 赤く染まる歩道。彼女は遠く離れた空の下に、きっと今も明るく咲いているであろう大切な人たちの顔を思い出しながら、もう一度、涙を流した。


     ※


「あら、お帰りなさい、ささら。友達と会ってきたの?」
 あれから1時間ほどして、ささらは自宅へと戻ってきた。高級マンションの最上階に借りた部屋。珍しく早めに仕事が終わったのか、母親のかぐらがすでに帰宅しており、帰ってきた娘に微笑みかけた。
 ささらのそれと同じ色をしたショートボブ。まだ帰って間もないのかスーツ姿のままで、リビングのテーブルの上にコーヒーを置き、何かの書類を整理しているようだった。
「うん…」
 しかし、ささらは母親の言葉もうつろに、ただ条件反射のようにそれだけ返すのみだった。他のことで頭がいっぱいで、話しかけられても届いていないのだ。
「まだ食事はしていないのでしょう? どうかしら、ちょっと足を伸ばして、リバービューにでも食べに行かない?」
「うん…」
 外食の提案にも、ささらは生返事を返すばかりである。
 いつもは素直に会話に応じてくれる娘のふさぎこんだ様子に気付いたのか、かぐらが少し心配そうな表情になる。
「あら…どうしたの? 元気がないみたいだけど…」
「うん…」
 だが、ささらの反応は鈍い。心ここにあらず、まさにそんな感じだった。
「えっと…。ああ、そうそう! あなたにとっても素敵なニュースがあるのよ。ちょっと待ってて」
「うん…」
 そう言って、彼女は広げた書類の脇に積んであった、何通かの封筒を取り上げる。赤と青と白のストライプで縁取りされた封筒。一番上の封筒の表面には「AirMail」という記載があった。
 だが――
「ほら、これ、見て。エアメール。あなたの大切な人たちから…。あ、ささら? ねえ! どうしたの!? ささら!?」
 かぐらがそれを娘の方に差し出したときにはもう、ささらはリビングを出て、自室の扉を閉めてしまった後だった。



 ――――――――――後編に続く



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