はるかなるいただき
第一話
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     ※



貧乳はステータスだ。希少価値だ。
      ――――麻弓=タイム「SHUFFLE!」




     1



 例えば『あなたの長年の夢を不思議な力で叶えてあげます! ただし、今を逃したらもう叶わないかもしれません!』と言われたとする。
 どうしたものだろうか?
 短絡的に考えれば、せっかくだから叶えてもらおうとか、そういうことを思うだろう。
 しかし、あるまじめな人間がいたとすると、その人は『不正な手段で願い事を叶えるのは良くないんじゃないか』と考えるかもしれない。また、ある慎重な人がいたとすれば、その人は『何か不安だから遠慮しておこうか』と考えるかもしれない。それもまた、ごく自然なことだ。
 現在、姫百合瑠璃が直面している状況とは、まさにそれである。
「うう〜ん…………」
 学校が終わって、無事に帰宅してから多少の時間が経過した午後5時半。姉の珊瑚と共用のロフトの上に敷いたカーペットにちょこんと正座して、目の前のそれをじーっと凝視。まだ着替えていないセーラー服の裾をきゅっと握って、先ほどからずっとこの姿勢のままである。
 視線の先にあるのは、濃いべっこう色をした"いかにも"といった風情の小瓶だった。中には何粒かの錠剤が入っているらしく、胴体の白いラベルには手書きで薬品名が書いてある。よく見ると、右下隅の方に『連絡先:ミステリ研』ともあった。
「どうしよ…………」
 どうにも覚悟というか思い切りが不充分で、飲むのも捨てるのも決心がつかない。ひとりごちて手元の説明書に目を落とせば、そこには瑠璃が長年にわたり夢見た願望が、天使のダンスのように軽やかに踊っている。
 とはいえ、瑠璃とてプライドというものはある。いや、彼女の場合、その性格の無視できない割合がプライドという単語で埋め尽くされているわけで、他人の差しだした手にほいほいすがるのはどうしてもためらってしまうのだ。
 しかし……、しかしである。
「………………」
 薄い桜色のセーラー服に包まれた胸に手を置き、大きなため息を一つ。髪を飾るお団子も心なしかしょんぼりさんで、周囲の気温が冷んやりしたような錯覚すら覚える。
 そう、何度こうしてため息をついたか知れないのだ。
 昔は別にどうでも良かった。というか、大きくなれば自然にそうなるものだと信じていた。自分の母親や幼稚園の保母さんがそうだったように。
 しかしいつの頃からか、当然と考えていたその未来に疑問符は打たれ、年を経る毎に、月を経る毎に、日を経る毎に、希望は失望へと変化していった。わずかな期待は現実という名の特急に浸食され、いつの間にか諦観という形態へと姿を変えた。
 それでも瑠璃はまだ16歳。
 ひょっとしたら、来年になれば。ひょっとしたら、再来年になれば。そう思わないでもない。
 しかし、同級生のそれを見る度――、特に体育の授業などで着替えが発生する度に、後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、そして、いろいろと思い知らされるのだ。
 それを考えると、目の前の誘惑は、捨てるにはあまりにも惜しい。
「ホントに……」
 再度、ひとりごちる。
 正直、もうあまり時間は残っていない。ロフトの上から降りてこなければ珊瑚が心配するだろうし、当番で夕食を作っているイルファだって、いつ自分を呼びに来るかわからない。
 何日も持ち続けられれば良いのだが、この薬を提供してくれた上級生からは『日持ちしないから、今日中に使ってね』と言われているのだ。
 錠剤が日持ちしないというのはなんだか腑に落ちないが、モノがモノだけにそういうこともあるかも知れない。
 もう締め切り直前なのだ。
 だから――
「ホントに…………」
 もしも、願いが、叶うなら。
 少しでいい。今よりもっと、違う自分になれるなら。
 目の前の錠剤を手にとって、こくりと飲み込んでみたい。
 その誘惑はあまりにも抗いがたく、瑠璃の心をとらえて放さない。

「ホントに大きくなるんやろか…………ウチのおっぱい…………」

 これは、一人の少女が経験した、歓喜と苦悩と愛の物語――



     ※



 ことは数時間前までさかのぼる。
 そろそろ夏休みの気配が漂い始める、7月初旬の昼休み。いつものように珊瑚と一緒に中庭でお弁当を食べていたときのこと。トイレに立った珊瑚を待って、ぼんやりと空を眺めていた瑠璃のところに、一人の奇妙な女生徒がやってきた。
「あ! ねえねえ、ちょっといいかな」
「はい?」
 校章の色からすると、どうやら二年生のようだ。見知らぬ人ではあったが、上級生と言うことで、一応会釈する。
「なんですか?」
「あのね、あたしミステリ研の笹森花梨って言うんだけどね?」
 そう言ってその上級生は、二つに結んだ山吹色の癖っ毛を弾ませて、にこりと笑った。人なつっこそうな女生徒である。
「ミステリ?」
「そうそう。あのね? キミ、ちょっとこれ見てくれる?」
「? これは? ええっと……、『バーストアップZ(廉価版)』?」
「ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん! あのね、これは、人類すべての女性の夢を叶えてくれる、超画期的な薬なの」
 差しだされたべっこう色の小瓶にはいくつかの錠剤。笹森花梨と名乗ったその上級生は、なにやら得意げな顔で、瑠璃に瓶を手渡してくる。
「夢?」
「うん。これが説明書になってるんだけどね? なんと、この錠剤を一粒飲めばあら不思議! ブラのカップがワンサイズ上がるのでーす!」
 『ぱんぱかぱーん』と言う擬音でも背負っているかのような、自信満々の宣言。
 とはいえ、宣言された瑠璃はと言えば、何を言ってるんだろうとばかりに『きょとーん』の擬音。無理もない。
「は、はい?」
「要するに、おっぱいが大きくなる薬なの。バストアップ・サプリメントとでも言うのかな。すごいでしょー!」
「バストアップ? サプリメント?」
「そうそう。Aカップに悩む女の子には、あこがれのふくらみを。Bカップで満足できない少女には、手のひらサイズの夢を。Cカップでも不足なあの子には、ちょっとした肩こりを。Dカップでもまだまだな彼女には、彼の手からこぼれる魅惑をプレゼント! これぞ人類の夢! 秘学の極地! どう?すごいでしょ!」
 一気呵成にそこまで言うと、でーん!とばかりに胸を張る上級生。まったく気のせいではあるのだろうが、何となく『ぽよんっ』とおっぱいが揺れたように見えた。少なくとも自分よりは大きいようである。
 とはいえ、それが差し出されたもののおかげであると証明されたわけではない。というより、そんなことが果たしてあるのだろうか。そう思って、「そんなんインチキじゃ?」と疑問符を返した瑠璃だったが、当の笹森花梨はと言えば、何を心外なとばかりに首を振る。
「ノーノーノーノー! これはそんじょそこらに転がっているまがい物じゃございません! 去る筋から入手した精製技法に則って調合した、正真正銘の本物! ちなみに、材料はすべて自然界にある野菜とか果物とか牛乳とかだから、人体への影響も懸念なし! ま、いっぺんだまされたと思って、試してみてよ!」
「試す? ウチが?」
「そう! 実はこれをね、今回キミに、特別にプレゼントしちゃいましょー!って」
「ウチに?」
 そう言って、瑠璃は手渡された小瓶をまじまじと見つめる。怪しさは大爆発だが、言っていることが本当ならすごい話だし、仮にまがい物でも、野菜や果物が原料なら腹痛くらいですみそうだ。
 とはいえ、そういう問題よりも、気になることがある。
 それは自尊心の問題だ。
「そうそう。でね、とりあえず、使った後の結果とか感想とかを、説明書のここんところの連絡先にね、教えてくれるとうれしいかなーって。日持ちしないから、今日中に飲んでもらえるかな。明日になると痛んじゃう――」
「……それは」
「うん? どうしたの?」
「……どういう意味やねん。バストアップの薬をウチにって、どういう意味やねん」
「え? ……あ!」
 確かに認めざるを得ない部分はあるだろう。しかし、だからといって納得できる話ではない。それに、いくら小さいと言ったって、姉の珊瑚や友人の柚原このみよりは、"ある"つもりである。
 もちろん、Aカップが"かろうじてBカップ"になったところで、客観的に見てどんぐりの背比べではあるだろう。しかし、数多い学生の中から、なぜよりにもよって自分なのだと。
 腹の底からわき上がる怒気を存分に含ませて、瑠璃は笹森花梨と名乗った女生徒を思い切り睨めあげる。
「ウチの胸……、なんか文句でも……」
「え、えっと、そういう意味じゃなくてね? 別に、キミの胸が小さいって言ってるんじゃなくて、なんていうか、おっぱいの小さい子を探してたらたまたま――あっ」
「"あっ"てなんやねん! "あっ"て! だいたい、結果を連絡せえとか、それってまるっきしウチを実験台にしよ思てんやん!」
「えーっと、あのー……。……てへっ?」
「ぶりっこしてごまかすなぁーっ! このどあほーっ!!!」
 怒声一閃、すでに後ずさりを始めた笹森花梨めがけて、戦慄の右ハイキック!
 しかし、悪運が強いと言うべきか意外と反射神経が良いのか、ソニックブームすら発生しそうな恐るべきランバージャックは、彼女の鼻先1センチで空を切った。
 そして、瑠璃が体勢を立て直したときには、すでに姿が小さく見えるほど遠く彼方。賞賛すべき逃げ足である。
「そ、それじゃあまたーーーーっ!」
「うるさーい! またもなにもあるか、もう来んな、ぼけーっ!」

 そして――、瑠璃の手に、笹森花梨が忘れていった怪しげな錠剤だけが残ったのである。



     ※



「うう〜……」
 と言うわけで、何となくカバンに詰めてしまった『バーストアップZ(廉価版)』を前に、帰宅後からうんうん唸ること30分。いい加減、珊瑚がロフトの上を不思議そうに見上げる頃になっても、錠剤の処遇に困っている瑠璃である。
「ホントに……大きくなるんかな……」
 笹森花梨にはああ言ったものの、常日頃から『もう少し』と思っていたのも事実。同級生の発育の良い子が『肩こった〜』と言う度に劣等感に苛まれてきたおっぱいである。
 いや、無いことはないのだ。センチで言えば、実測80センチ。それなりに隆起はあるし、触ればふかふかと柔らかい。その上アンダーバストからのウェストラインがほっそりしているから、ぱっと見以上にメリハリは効いている。
 だが、"ある"と言うにはちょっと微妙。貧乳か豊乳かと言われれば、貧乳にカテゴライズされてしまうだろう。
 そんな瑠璃であるから、この話は正直すさまじく魅力的だ。
 しかし、――しかしである。
 そうは言っても簡単に手を出せる代物ではない。
 健康の話もそうだが、何より、『こんなものに頼っては女としての名折れ』という意識が強い。不自然にどこかを作り替えるより、今あるものの魅力を最大限に引き出すことこそ、女の腕の見せ所。そのくらい、化粧っ気のあまりない瑠璃にだってわかる。
 それに、世間には『ニセ胸』なんていう言い回しだってあるくらいだ。たとえ見果てぬ夢だとしても、自然の成長で大きくなるに越したことはないし、たとえ小さくっても、"天然"ならではの味があるはずだ。
 大きくても、小さくても、自分だけのおっぱい。唯一無二の、かけがえのないおっぱい。神様とお母さんからもらった、大切なおっぱい。
 しかし、――しかしである。
 いかにそれが正論であろうとも、それはそれとして大きくなりたい、というのもまた、偽らざる本心だ。
「一粒……、いや、半分……。半分に割って飲めば、ちょっと判らん程度のモンでいけへんかな……」
 ごくり、と喉を鳴らして、瑠璃は瓶のふたを開けて手の平に傾ける。
 白い錠剤が、一粒だけ手の平にのせられた。
「一粒で1カップ増しやから……、半分やと、B+に……?」
 瑠璃の脳裏に、B-からB+になった己の乳房が想起される。
 どうにも……変化が実感できなかった。さすがに微妙すぎる成長である。
「や、やっぱ1個まるまる飲まんとあかへんかな……。あれやね、うん、用法は正しくが薬の基本やし」
 今度は、Cカップになったバストが思い浮かぶ。
 それなりに隆起ができて、なんとなく色っぽかった。思わず『にへら』と笑みがこぼれる。
「あ、でも、イルファが確かDやったな……」
 同居しているメイドロボの胸の谷間を思い出して、しばし黙考。
 やがて、瓶の中からもう一粒錠剤をとりだす。単純計算で2カップ上がるとして、Dカップになるのだろうか。
 そして、例に漏れず今度はDカップになった乳を思い浮かべる瑠璃である。それは、"ぽよん"という音が聞こえてきそうな豊かなおっぱいをさらけ出して、色っぽくしなを作る自分の姿だった。
 魅惑的な乳房のラインは誘うような色気を放ち、頂上の桜色はそれに抗うかのように少女的。思わず"美乳"という単語が頭の中を駆けめぐった。
「でぃ……でぃーかっぷ……」
 もしそんなバストが手に入ったら……と思うと、意味もなくマンションの窓から身を乗り出して、『きゃっほー!』と歌い出したくなるような気分にさえなる。まるで夢のようではないか。もちろん、まだ夢でしかないが。
 だが、人の欲望というのは、とどまるところを知らないから"欲望"と言う。
「も……もう一粒足したら、すごいんちゃう……?」
 D、とくれば、次はE。震える手で、瑠璃は瓶の中からもう一粒取り出そうとする。
 しかし、勢い余って、瓶の中から錠剤が二粒まとめて転がり出てきた。
「あっ……」
 見ると、瓶の中身はもう空っぽ。錠剤は、全部で4つだった。
 いや、そんなことは問題ではない。
 問題なのは、おっぱいだ。
「え……えふ……?」
 B→C→D→E→F。全部飲んだらFカップ。
 Fカップと言えば、最近仲の良い(瑠璃の脳内ではあくまで『仲良くしてやっている』だが)河野貴明の幼なじみ・向坂環と同じである。
 姉の珊瑚が『ほわほわやで〜』と評したあの見事なおっぱい。"女性"というものの魅力を一身に体現したかのような、あの乳が自分のものになるのだろうか?
 四度、瑠璃の脳裏に成長した自分の姿。何だかソフトフォーカスがかかって、やけに甘ったるいヴィジュアルだ。
 それは頼りないほど細いひもで結んだ白い三角ビキニに包まれ、歩く度にゆさゆさと揺れている大きなおっぱい。ちょうちょに結ばれたそのひもを引っ張れば、"たゆんっ!"と音を立てて弾けそうな、けしからん乳房。
 ひとたび立ち止まれば、四方八方から見知らぬ男たちが押し寄せ『ねえねえ、キミ可愛いね〜』とか『きれいなおっぱいだね〜』と賞賛の言葉を次から次へと口にする。
 もちろん、瑠璃には珊瑚という心に決めた人がいるから、その他大勢の男の誘いなど受けるはずがない。『ウチ、先約があるから』と、余裕のまなざしで群がる男を袖に振り、そしてまた立派なバストを揺らしながら、パラソルで待つ珊瑚の元へと帰って行くのだ。
 そして、『瑠璃ちゃん、おそ〜い』と口だけの文句を言う珊瑚の頭を己の胸の谷間に抱きしめて、『あん、許してえな珊ちゃん』『ひゃうん、瑠璃ちゃんのおっぱい、ほわほわやから好きぃ〜』『珊ちゃん、いくらでも触ってええんやで? ウチのおっぱい』『うん! わ〜、ほわほわや〜』『ああん、珊ちゃん、ちょっとそこダメぇ……』――
「えへ……えへ……えへへへへへ……」
 おっぱいの妄想というか、何か違う方向に行ってしまって、瑠璃の顔に何ともいえない珍妙な笑みが浮かぶ。ちょっとアブない人に見えなくもない。
「こ……これさえ飲めば……ウチも……」
 どきどきと鳴る心臓を収めた小さくて頼りない胸。これが、この錠剤4つを飲みさえすれば、指で押さえる度に豊富な弾力を返してくるようになるのだろうか。
 そうであるなら、まさに夢のアイテム。人類すべての微乳女性の夢が、ここにある。
 これさえ、飲めば。
「………………よ………よーし……」
 震える手のひらにのせられた四粒の錠剤。それをゆっくりと、瑠璃は口元へと持って行く。その途中に、膝元に置いてあったミネラルウォーターをちらりと確認。中身はちゃんと、入ってる。
 これさえ、飲めば。
「………っ」

 ぱくっ

 魔法の香りは、魅惑の香り。
 ついに瑠璃は、四粒の錠剤を口中に収めてしまった。全部いっぺんに入れてしまったが、それぞれはあまり大きくないので、無理すれば一気に飲めるだろう。
 そうすれば、晴れてグラマーさんの仲間入り。
 これさえ、飲めば。
『ウチだって……』
 もう、体育の時間に恥ずかしい思いをすることもない。
 イルファの胸を見て、劣等感にがっくりすることもない。
 ランジェリーショップでだって、もっと堂々と振る舞える。
 大人っぽいビキニも似合うようになるだろう。
 きっと、貴明だってイチコロだ。
 これさえ、飲めば。
 これさえ、飲み込んでしまえば。
 なんの苦労もなく、
 なんの努力もなく、
 理想のバストが手にはいる。
 あっけないほど簡単に。
『努力……も、なく……?』

 ふと、
 心のどこかで、

『う……ウチは……』

 ちくり、と
 何かが痛んだ。

『何を、してるんやろ……』
 もし、手に入っても
 もし、大きくなっても
 そんな方法で大きくなった乳房で、本当に良いのだろうか。
 ズルをしてキレイになっても、
 それは、本当にキレイになったと言えるのだろうか。
 そんなのよりも、
 今のままの自分の方が、ずっとキレイな気がした。
『ウチの……胸……』
 そっと、自分の胸に手を当ててみる。
 心許なく、ささやかな弾力を返す自分の胸。
 でも、これは、
『ダメ……』
 ちょっとだけサイズは違うかも知れないけれど、
 珊瑚と二人、仲良く分け合ったもの。
 この世でたった二人、
 大切な双子の姉と、お揃いの――
『こ……こんなん……飲んだらあかん……!』
 かろうじて、
 最後の最後で、瑠璃は踏みとどまった。
 あと一瞬遅かったら飲み下してしまっていたかも知れないほど際どい間だったけれど、それでも、瑠璃の心の誇りが僅かに勝った。
 だが、この間にも、口の中の錠剤は徐々に溶け出していき、甘いような苦いような不思議な味が舌の上に広がっていく。
 その風味に何とも言えない不快感を覚えて、瑠璃はあわてて口の中のものをぺっと手の平に戻そうとする。
 理想のバストはほんの少し惜しかったけれど、でも、なりたい自分には自分の力でなってみせる。そう思えた。
 夢見る時間は、もう終わり。

 そう、

 終わる、はずだった。

「瑠璃ちゃーん、なにしとんのー?」

「!!!!!!!!!!!!」

 突然、ロフトのハシゴから珊瑚が顔を出した。いつまで経っても瑠璃がロフトから降りてこないので、心配になったのだろう。
 だが、いくら何でもこの瞬間は間が悪すぎた。さらに、瑠璃自身が部屋側を向いていたために、珊瑚の顔がちょうど真正面。錠剤を手の平にはき出そうとしたその瞬間に、いきなり飛び出てきた珊瑚とばっちり目が合ってしまう。

「っっっっごくっ!」

 魔法の香りは、魅惑の香り――
 びっくり仰天して、思わず口の中のものを飲み下してしまったのだ。はっと気づいたときにはもう後の祭り。いい加減に溶けかけた錠剤は、憎たらしいほどスムーズに瑠璃の胃の中に滑り込んでいってしまった。
「あ、……あ、あ、あ、あーーーーっ!!!」
「? どしたん?」
「さ、さんちゃん! あ、あの、なんでもあらへんよ?」
「そう?」
 顔面蒼白になる瑠璃とは対照的に、事情を知らない珊瑚がいつものほやんとした柔和な表情で話しかけてくる。いつもなら見ているこっちが幸せな気分になるような、綿菓子のようなふわふわ笑顔が、この時ばかりは恨めしい。
「ずっと降りて来ぉへんから、どしたんかなって」
「あ、え、あう……、えっと……、ちょ、ちょっと眠くなって……」
「そうなん? あ〜、瑠璃ちゃんひょっとして、ゆうべこっそり起きてたんやね? それで眠いんでしょ〜」
「そう! そやねん! もう眠くて。ウチ、夕飯まで、ロフトで寝てるな? イルファにもそう言……」
「じゃあ、ウチも一緒に寝る〜」
「いいいい、いい、いい!いい!いい!」
 一人きりになってさっさと胃の中のものを吐き出したいのに、近くに来られてはそれもできない。あわてて、上ってこようとする珊瑚を制する瑠璃である。
「えー、なんでー?」
「さ、さんちゃんは、なんやかやって忙しいんやろ? じゃましたら、わ、悪いやんか?」
「もぉ今日の分、終わったモン」
「そ、そうなん? あ、そや、アレや、えっと、今日はイルファが夕食の当番やで? 前にさんちゃん、イルファに料理教えてもらおうかなーとか……」
「今日はもう準備はじめとるモン。今から行ったかて邪魔やんか」
「あーうー……。えとー……えとー……」
 なんとかごまかそうとする瑠璃だが、情勢はいかにも劣勢である。
 しかも、挙動不審な瑠璃の態度に『邪険にされている』と思ったのだろう、何となく珊瑚の目が潤み始めていた。
「瑠璃ちゃん……。ウチと一緒に寝とうないん?」
「え!」
 思わず絶句する瑠璃。寝たくないどころか、いっそ学校なんか行かずに、一日中でもベッドの中で珊瑚と二人まどろんでいたいくらいなのだ。
 しかし時と場合と乙女の純情は、せっぱ詰まってサイレン鳴りっぱなし。お願いだからちょっとだけでいいからあっちへ行っててくれと願う瑠璃。いわゆる『空気読め』と言うやつだが、まさか珊瑚にそれを思う日が来ようとは。
「あ、いや、そやないねんけど……。今日は……」
「寝たないんや……」
「ちゃ、ちゃうよ! ウチがさんちゃんと一緒に寝たないなんて、あるわけないやん!」
「でも、瑠璃ちゃん、さっきからウチのこと避けてるモン」
「避けてない避けてない!」
「ウチのこと嫌いになったん……?」
「ううん!ううん! 嫌いになんてならへん! さんちゃんのこと、世界でいっちゃん好きやも!」
「……ほんま?」
「う、うん! 好き好き〜やで?」
「……いっこ足らへん……」
「ややややややや、足りてる足りてるて! 好き好き好き〜! もうめっちゃ好き好き好き好き〜!」
「いっこ多いで?」
「多くあらへんよ! ウチの好き〜は、あと100ぺんあっても足らんよ!」
「……えへ……、ほんま?」
「ほんまほんま! だからな? 機嫌直してな?」
「うん、わかった♪ ウチも瑠璃ちゃんのこと、好き好き好き好き好き〜〜やで?」
「う、うん。……ほな、さんちゃん……、……一緒に……寝よ………か…………」
 好き好きと連呼されて、幸せそうにほころぶ珊瑚の顔。対照的にがっくりうなだれた瑠璃の顔。
「うん! えへへ〜、瑠璃ちゃんやっぱ優しいなあ〜。じゃあ、一緒のクッション使おうな?」
「……………あーうー……」
 両手をロフトの床について、何が間違っていたのか自問するも時すでに遅し。部屋着のミニスカートからすらりと伸びた足をぱたぱたと、大きなクッションにお団子頭を埋めながらおいでおいでしている珊瑚の前に、瑠璃の嘆息は誰にも届くことなくぽとりと落ちた。



―――――――――――つづく
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