はるかなるいただき
第三話
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     3



 男って巨乳なら顔はどうでもいいの!?
      ――山田「B型H系」



     ※



 朝っぱらからひどい目に会い続けている姫百合瑠璃であるが、学校に着いたら着いたでこれまた災難続きである。
「やぁー! なになに? その胸なに?」
「やだ、これすっごい! ねえねえ、みんなも触ってみなよ! 瑠璃っぺの胸超サイコー!」
「えー? いいの?いいの? や〜ん、これいい〜! ふにふにするー!」
「ちょっとどうしたのよ、このおっぱい! なにカップ? G? すげえ〜」
「うわ、いいなぁ、これ。こんだけあれば、あたしも彼氏にいろいろしてあげるんだけどなぁ」
「え、え、なにそれ、なにするの? や〜、いまの大胆発言じゃない!?」
「なにって、そりゃもう、こう……こんな感じで、ほら、くにくにとか、むにむにとか、ふにふにとか」
「わぁ! すご! ちょっとそれすご!」
「いや〜、これいいわぁ〜。ねえねえ、持って帰っていいでしょこれ? いいでしょ?」
「何言ってんのよ佳織! これはあたしのでしょ〜?」
「あきらこそ何言ってんのよ。これはあたしが手塩にかけて育て上げた胸で……」
「ちょっとあかんて。瑠璃ちゃんはウチのやも。持って帰ってまったらあかんよ?」
「さんちゃんいいなぁ〜。ねえねえ、貸してよこれ。一晩で良いからさぁ〜」
「やだ、一晩てなによそれ! 何するつもりかぁ〜?」
「何って、そんなの、ねえ?」
「どんだけー」
「あ〜う〜……」
 とまあこんな感じで、朝のホームルームもそっちのけで、クラスの女子によってたかって堪能されているのである。その横ではもちろん、遠巻きに並んだ男子が前屈みになって、うらやましそうに見ていたりとか何とか。
 しかも、担任の社会科教師・山瀬和夫(42歳独身)に至っては、教室に入ってくるなり次の通りである。
「ほらー、みんな何をさわいどるかぁー。ホームルームをををををををををををを!」
 わらわらと散っていった女子の中から現れた瑠璃に、思い切り目が釘付けだったり。
「ななななななああああああああああ、なにかねそれはっ! けっ、けしからんっっ! けしからんでスヨッッッ!」
「な、なにて言うても、ウチ……」
「ま、まちたまえ、先生深呼吸するから。な? すぅー。はぁー。すぅー。はぁー。……よし、これで落ちつい……たぁあああああああああああああ!!!!」
「へ、ヘンな目で見たらあかん!」
「るっ!瑠璃クン! 腕で隠そうとするとますますヴォリュー……ムぉおおおおおおおおお! う、動かないで! ゆっ、ゆれっ! 揺れぇええええええ! はぁぅううううううううう!!!!!」
 直後、目からびゅーっと血を吹き出してぶっ倒れる山瀬先生。バレンタインデーに生徒からいくつかもらえる義理チョコだけが人生の楽しみな42歳独身教師には、少々刺激が強すぎたと見える。
 この瞬間、瑠璃に『独身キラー・ルリ』の通り名が付けられたことは言うまでもない。
 今日一日どうやって過ごそうか――、瑠璃の苦悩はまだまだ続く。



     ※



 そもそも、邪魔でしょうがないというのが巨乳の悩みである。もちろん、自身がそうなるまで思っても見なかったことではあるが、何というか、小学生がよくやる"前ランドセル"を常にやり続けているような感じだ。
「あぅ……」
 授業中、消しゴムを床に落としたので、椅子に座ったまま屈んで取ろうとした時である。普段なら、少し手を伸ばせば届く距離であるのに、膝に胸がつかえて手が届かない。冗談みたいな話だが、実際そうなのだから笑えない。
「ううーっ……」
 なにくそ、と無理矢理手を伸ばしてみるが、それでも届かない。それどころか、膝に圧迫された胸が痛い。もの凄く痛い。
 おかげで、普段なら座ったまま取れる消しゴムを、わざわざ椅子から腰を外して、しゃがんで取らなければいけなかった。
 悩ましいのはそれだけではない。
 何が怖いって、足下が見えないのだ。視線を下に下げると、まず目に入るのが自分の乳の上部なのだから。
 どーんと突き出たバストが制服を押し上げているその様。屈めばともかく、直立の状態では爪先がまったく見えない。隠れている。おかげで、廊下を歩いている途中、何度か転びそうになった。
 その他に見えるものと言えば、セーラーの胸元から覗いている、奥深い谷間くらいなものだろうか。これがまぁなんというか、ノーブラなもんだから、ゆったんゆったん面白いくらいに谷間が揺れているのだが、本人にとっては実際問題まったく面白くない。
 面白くないどころか、揺れる度に胸の先端の敏感な部分がシャツの裏地にこすれるものだから、なんだかもう勘弁してくれという感じである。そのせいで、ちょっと歩いた程度でくりくりと先端がかたくなって、制服を"ぽちっ"と押し上げるのだ。いったい何度、周囲に感づかれないように胸を手で覆ったか知れない。
 そう、それもまた頭の痛い問題である。
 何しろ目立つことこの上ないおっぱいだ。先ほどの女子の様子に言及するまでもなく、とにかく人目を惹く。
 授業中、放課時間を問わず、四方八方からちらちらと――あるいは、じろじろと――あるいはぎんぎんと――周囲の視線がちくちくと乳に突き刺さる。皆が皆、大きくなった瑠璃のおっぱいに、無遠慮な視線を投げかけてくるのだ。
 これがまだ女子の視線ならいいのだ。せいぜい"興味津々"とか"うらやましいなぁ"とか、その程度の思念しかこもっていない。
 問題なのは男子の視線である。これがまた何というか、いちいち下世話でしょうがない。
 もちろん、瑠璃の自意識過剰という線も、可能性としてはある。それどころか、おそらく昨日までの自分であれば、現在の自分に対して『考えすぎなんちゃう?』とでも言っていただろう。いくら巨乳とはいえ、そうそうじろじろ見られるはずはない――と。
 だが、いざ自分がなってみれば、とんでもない勘違いだったと言わざるを得ない。
 わかるのだ、周囲の視線が。
 わかるというか、もう物理的にそれを感じられる。いや、そうまで仰々しい話でなくとも、ふとした瞬間にこちらを見ている男子の目など、誰が見たって丸分かりなレベルなのだ。瑠璃がそちらを見た瞬間、慌てて視線をそらしている様など、いっそ哀れに思うくらいである。
 ちなみに、この数時間中に瑠璃に飛ばされていた男子からの"下世話オーラ"は、だいたい次のような感じである。
 『すっげ、あの乳マジかよ……』
 『や、柔らかそうだ……』
 『ノーブラってマジか?』
 『もっとよく見れば乳首が透けて見えねえかな……』
 『揉みてぇ〜』
 『揉みまくりてぇ〜』
 『いや、オレは舐めてぇ〜』
 『ばっか、おめえら、男なら挟んでもらうに一票だろ?』
 『何言ってんだ判ってねえな、ここは乳に石けんたらして、洗ってもらうのがだな』
 『それなんてエロゲ?』
 『いや、でも、あの姫百合に奉仕してもらうのって、なんか……なんかすげえ……』
 『い、いっそ姉妹揃ってメイド服とか着せてご主人様とか言わせて……う、うぉお……』
 『ていうか、何で俺ら、妄想の中で会話できてんの?』
 『瑠璃たん……瑠璃たん……ハァハァ……瑠璃たん……うっ』
 『誰だよコイてるやつぁ……』
 ゲンナリすることこの上ない。いつもなら、問答無用でキックの雨あられが降るところだが、朝の一件以来、それにもまた躊躇してしまう。またぞろ胸から男子につっこんでしまっては、いっそ舌でも噛みたくなることだろう。
 おかげで、発散したいストレスも発散できず、休憩時間はひたすら机に突っ伏しているしかない瑠璃である。もちろん、この間にもクラスメート女子からのお触り攻撃はやむことなく続くから、まったく休まる時がない。
 そんなことも一因か、3時限目に突入する頃には、今度はやたらと肩が凝ってきた。
 それも、もの凄くキッツイ懲り方である。未だかつて味わったことのない、すさまじい肩こりだ。
 無理もない。いったい何グラム、あるいは何キロあるのか判らないが、何か妙なダンベルでも肩からつり下げているのと同じなのだから。肩はおろか、首だの背中だの、とにかく凝って凝って仕方ない。授業中にもかかわらず、事ある毎にぐりんぐりんと腕や首を回して紛らわす必要がある。
 だが、その中でひとつ実感したことがあった。
『あ〜……、あれ、ほんまやったんなぁ……』
 たまに、何かの漫画とかで見かける行為。胸の大きな登場人物が、実に幸せそうに行っている行為。ホントにそんな必要があるのだろうかと、つい昨日までは信じていなかった行為。すなわち――
『机におっぱい乗っけると……むっちゃ楽やんなぁ……』
 いつもは教科書とノート、筆箱、それからたまに料理のレシピが乗るだけのパイプ机に、豊かな乙女の純情が"ぽよんっ"と乗っていた。ふにゃんと形を変えて、実に柔らかそうに。
 もちろんクラスの男子と、男性教師の目が余計に釘付けになっていたことは言うまでもない。



     ※



 さて、4時限目は体育の時間である。体育は男子女子に分かれて、2クラス合同で行われるため、通常は男女別々の場所で行われるのが通例である。例えば、男子が校庭でサッカーをやるとなれば、女子は体育館でバレーボールという具合に。また、両方ともが校庭を使うとなっても、競技はまったくの別物になる。
 だから普段であれば、お互いの授業中の光景はあまり目にしないものであるが、こと、夏のある授業だけは男女が一緒の場所で、一緒の授業を受けるのだ。
 すなわち――
「うわ〜……、やっぱり瑠璃ちゃん、迫力あるなぁ〜……」
 隣のクラスなので、朝以来久々に瑠璃の胸に再会したこのみが、またぞろ感嘆のため息を漏らす。
「こ、このみ……あんまり見んといてえな」
「う、うーん……努力はするけど……でも、こうしてみるとますます……」
 そう言って、さらに顔を近づけて、瑠璃の乳に視線を注ぐこのみ。そうとう近づいているものだから、何か子犬が匂いでもかいでいるような風情にも映る。
 だが、無理もない。何しろ、いまの瑠璃の格好というのが、これまた破壊力抜群なのだから。
「いや〜、うんうん、このみんの気持ち、判るよぉ」
 と、相変わらずおっぱいから離れないこのみの肩を叩いたのは、瑠璃のクラスの委員長・牧村佳織である。
「やっぱり? そうだよね、判るよね?」
「そりゃ判るよぉ。ただでさえキュートな瑠璃っぺがおっぱいぼーんで、しかも……」
 そう言って、瑠璃の肩紐をくいっくいっと引っ張りながら笑う牧村。
「スクール水着ときたらねぇ〜」
「あーうー……」
 そう、いま彼女たちがいるのは、学校の体育館横にあるプールの女子更衣室である。学校生活における夏の風物詩・水泳の授業が始まらんとしているわけであるが、ここでもやはり、主役は姫百合瑠璃である。
 何しろ、スク水である。
 ぱっつんぱっつんである。
 なんというか、布地がうにょーんと伸びきっている。
 今年買った水着ではあるが、もちろん乳の小さかった頃のものだ。
 購買部で買い直そうとは思ったのだが、合うサイズがなかったので、仕方なく着ている。
 再度言うが、ぱっつんぱっつんである。
 もう、胸の辺りなんか特に。
 想像していただきたい。
 透き通るような白い肌を包む、濃紺のスクール水着。
 機能最優先で作られた、ともすれば野暮ったいデザインのスクール水着。
 皆が平均的な体型に見えるようにと考えられた、地味なスクール水着。
 その製作者の狙いは、こと瑠璃に限ってはまったく役に立っていない。
 まず、何はともあれ胸である。
 ぜんぜん平均的に見えない。
 むしろ、水着ががんばってしまっているため、余計に目立って見える。
 胸元は谷間がむぎゅ〜っとできていて、いっそ指でも挟みたくなるほどだし、横からは包みきれなかった乳がふにゅっとはみ出ている。これがまた実に柔らかそうなのだ。
 そして、そういうオプションに彩られたメイン部分が、またなんとも迫力満点だ。
 布地の伸縮性を限界まで使い切ってもまだ足りないとばかりに、ぐいーーーーんと自己主張。前から見ていると、まるで、こちらに迫ってくるかのような錯覚すら覚える。
 もちろん、横から見てもこれまた凄い。水着が破れてしまうのではないかと、見ている方がはらはらしてしまうほど前方にぐおーーーーっと突き出ているのだ。もともと細い瑠璃であるから、なおさら目立つ。
 なんというかもう、スイカかメロンでも仕込んでいるのかというようなバスト。食べたら実に甘そうだ。
 そして、もともと美少女を地でいく姫百合姉妹の次女。他のパーツもこれまた抜群である。
 腕、腰、お尻、背中に脚に、指に髪と、基本のパーツ一式はもちろんのこと、とりわけ魅力的なのはうなじだった。これがまた妙に色っぽいのだ。
 透き通るような白さは、誘蛾灯のようなフェロモンを発散してやまない。思わずちゅーっと吸い付いて、キスマークのひとつでも付けたくなるような白さである。
 普段からお団子頭のヘアスタイルだからうなじは露出しているのだが、今はそれに加えてスクール水着の濃紺と絶妙なコントラストが作られていて、えもいわれぬ魅力を醸し出していた。
 もういいかげん、ここまでくると反則っぽい。ただでさえ普段から愛らしさ抜群だというのに、本日の瑠璃と来たらそれに加えて"ばーん"の"ぼーん"の"ズヴァーン"なのだから。どんな宝くじが当たったんだと言うようなモンだ。
 まだ更衣室の中だから女子しかないのだが、その当の女子軍団ですらうっとりと『顔埋めてぇ〜』と思ってしまっているのが、ありありと見て取れる有様。このまま男子生徒の前に出たら、出血多量で死者が出るんじゃないかという勢いである。
 その上、姉の珊瑚や柚原このみと言った、これまた掛け値無しの超一級美少女まで揃っているこのクラス。男子生徒にとっては、おそらく学校でも1、2を争う幸福さ加減であろう。
「いいなぁ瑠璃ちゃん。私ももっと大っきいのが良かったなぁ」
 先ほどからまたぞろふにふにと瑠璃の乳を触っていたこのみが、ぽつりと呟く。相変わらず、羨ましくてたまらないようだ。
「あはは、まあまあ、このみんはそれで良いんだって」
 多少しょんぼりした様子のこのみに、牧村佳織が声をかける。慰めているのかなんなのか判らないが、当のこのみは不満げな顔である。
「ええー、なんで?」
「ちっちゃくって可愛い〜が、このみんのステータスだかんね。大きくなったらダメ。今のままが良いんだよ、うん」
「そうかなぁ。かおりんは、自分がCカップだからそう思うんだよ」
「ん? んー、あたしはもうちょい欲しいかな」
「ええー、それズルい」
「いやいや、こういうのは似合う似合わないだからさ。このみんは今のままのスレンダー体型でいっちょ、ね」
「むー……」
 なおも納得いかない様子のこのみが、自分の胸と牧村の胸、それから瑠璃の胸と珊瑚の胸を行ったり来たりしながら、ため息のような声を漏らす。
 ――と
『似合う、似合わない――か』
 ふと、先ほどの牧村の言葉が瑠璃の心を小さく引っ掻いた。
 その傷は少しずつ瑠璃の胸に沁みてきて、やがて、僅かに痛みを伴い始める。
「瑠璃ちゃん?」
 ぽつんと下を向いた瑠璃の様子に気づいたのか、珊瑚が怪訝そうに声をかけてくる。
「どしたん? 瑠璃ちゃん」
「え……?」
「どっか痛いん?」
 心配そうな珊瑚の顔。双子だからだろうか、まるで瑠璃の痛みが伝染したかのような、そんな表情。
 だが、瑠璃はそんな珊瑚に、ふふっと笑いかけた。別になんにも痛いことなんてないよ、とでも言うように。
「……ううん、何でもあらへんよ」
「そない言うても……」
「ほらほら! もう授業始まってまうで。あー、ひっさしぶりのプールやんなぁ。きっと涼しいで〜。ほら、さんちゃん行こ行こ」
 なおも不安げな珊瑚の表情を振り払うように、瑠璃は元気な声を出して、たたっと更衣室の扉に駆けていく。
 後には、突然明るく笑顔になった瑠璃に呆気にとられたクラスメートと――
 少し、哀しそうな表情になった珊瑚が残された。



     ※



 授業開始のベルが鳴れば、いよいよお待ちかねのプールの時間である。
 で、まあ、なんというか大方の予想通りというか、一同一斉に前屈みになった男子生徒の姿がプールサイドに展開されていた。
 これだけ統率が取れていれば、さぞ授業もやりやすかろうと思うところだが、この時間については、男子側を率いている男性体育教師もろとも"く"の時になっているものだからどうしようもない。
 さすがに呆れた女生徒および女性体育教師から非難の視線が矢のように飛ばされているのだが、一斉蜂起したやんちゃ坊主は収まる気配もつもりもまったくないらしい。教師も生徒も、『これでもか、オラッ!』とばかりに、ピンクオーラのたたき売り。これが漫画なら『もんもん』と言ったような書き文字が、でかでかとバックに踊っているはずだ。
 まぁ、プールの水を赤く染めなかっただけでも、彼らにしては上出来と言えるだろうか。
 ――ちなみに、女子の一人である沢渡ちはる(野球部マネージャー)が、男子の一人である児島悟(野球部ピッチャー補欠)に、ほぼ怨念に近い眼光を飛ばしていたのだが、まあそれはともかく。
「瑠璃っぺ、見られてるよ、ほら、あれあれ」
「うう〜っ。あんのスケベどもがぁ〜……」
 ずらり並んだスク水軍団。出席番号順のおかげで集団に埋没しているはずなのに、それでも猛烈な存在感を発散しまくっている瑠璃である。いいかげん、歯ぎしりしながら"憎しみで人を殺せたら"とばかりに前屈み軍団を睨め付けているのだが、効果はあまり出ていないようだった。まぁ、今の男子生徒にとっては、瑠璃のキツイ視線もまた、色々アレな刺激となっているのだろうが。
「いや、もう、あれね、破壊力抜群。ダイナマイトなバディーってのはさ、きっと瑠璃っぺのためにあるようなモンって言うか……。ところで揉んで良い?」
「良いわけあらへん! カンベンしたってな、もうっ!」
「あはは」
 ただでさえ水着で恥ずかしいというのに、この上男どもの前で胸など揉まれてはたまらない。必死で首をぶんぶん振って拒絶の意思表示。
 が、首を振る勢いにつられて、胸もまたふるふると右左。ぽよんぽよんとまあリズミカルなことである。
 とたん、『おお〜〜〜っ!』とどよめく向かいのバカ軍団。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!!!!!」
「瑠璃っぺダメ! デッキブラシは意外と危ないから!」
 振り上げたエモノに込められるは殺意か呪詛か。青空の下のデッキブラシは普通さわやかに映るものだが、この日ばかりはそう見えない。
 と、さすがにそろそろ授業を始めないと進まないと思ったか、女子側の体育教師がパンパンと手を叩いてスク水ガールズの注目を集める。
「ほらー、みんなも、そろそろ静かにー。準備体操始めるよー」
『はーい』
「なんだか男どもが猿になってっけどー。ああいうバカどもを彼氏にすんじゃないぞー」
『はーい』
「エロは週に3かーい。それ以上ヤリたがるやつぁみんな猿だー」
『はーい』
「猿を見たらとりあえず撃っとけー。死んでもかまわんー」
『はーい』
 体育教師・前原里美32歳独身。気分はいつでもロックンロール。
 ともあれ、脇に置いてあったラジカセの再生ボタンが押され、おなじみの軽快なピアノが流れ出す。ラジオ体操第2の開始である。

 ♪ぱんぽろり〜ん、ぱんぽろり〜ん、ぱ・ぽ・ぽ・ぽ・ぴーんぽぱーん、ぱんぽろり〜ん、ぱんぽろり〜ん、ぱ・ぽ・ぽ・ぽ・ぽっ、ぽん♪

 イントロが終わると次は――

 ♪ぴぽぱぽぴぽぱっ、ぴぽぱぽぴっ、ぽん♪

 と、ジャンプを促すメロディが流れるわけで、そうなれば当然、隊列に参加している瑠璃も、1・2・1・2とその場でジャンプ。
 そしてまぁ、ジャンプに合わせて上下にゆったんゆったん揺れまくり。何がって乳が。

 『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!』

 と、これは猿の惑星からの轟音である。向かいでも準備体操が始まっているはずだが、そんなことはどうでも良いと言わんばかりの騒ぎよう。
「瑠璃っぺダメ! ビート板はあんまり威力がないから!」
「離してぇな、いいんちょ! ウチは、ウチはあいつらに地獄を見せたるんや!」
 バカどもの狂喜乱舞を見れば見るほど怒りゲージがたまっていく瑠璃である。



 さて、準備体操もつつがなく終わり、授業はいくらかの騒動を含みながらも進んでいく。
「はーい、じゃあ出席番号順に3人ずつ、こっち側のレーンから並んでー」
 前原教諭の声がプールサイドに響いて、女子たちがコースのスタート台に並ぶ。現在行われているのは、25メートルクロールのタイム計測。プールの反対側では、出席番号が後の方の生徒がストップウォッチを構えて、泳いでくる生徒を待っていた。
 なお、このカリキュラムは男女一緒に行われており、1コースから3コースまでを女子が、4コースから6コースまでを男子が使っている。なので必然、台に並ぶ時は男女一緒に並んでいるのだが、これがまた女子にとっては色々といまいましい。
「……ごくっ」
「……………」
 ちらちらちらちら、隣に並んだ女子に視線を送っている男子生徒。
 普段は見慣れない水着姿。二の腕やら太ももやら、いつもは服に隠れている部分が露出して悩ましいし、濃紺の水着は肌の白さを際だたせて色っぽい。おまけにスタートの直前、つまり飛び込む際にはぐっと前屈するから、横から見るとお尻のラインがくっきり浮かぶ。
 そう考えれば、確かに見たくなるのも無理はなかろう。なかろうがしかし、ちらちらちらちら、こうあからさまだと、ムカつくのを通り越して呆れかえるのもさらに通り越して、やっぱりムカついてくる女子たちである。
 そして、ここでも怒りゲージMAXなのが、毎度の如く瑠璃である。
「はい、じゃあ次はー、長谷川千香ー、姫百合珊瑚ー、姫百合瑠璃ー」
 とたん、『おおおおおおおおおおお』とどよめく、プールの向かいの猿の惑星。「俺は瑠璃ちゃん派だっ!」「いや、俺はさんちゃん派だっ!」「長谷川もなかなかっ!」と、これまで以上に女子の品定めに余念がない様子。
「瑠璃っぺダメ! その振り上げた塩素剤のパックをおろして!」
 すでに25回ほど殺意を噴出させているが、いずれも周囲の涙ぐましい努力により事なきを得ている現状。しかし、男子はと言えば、そんな女子の恩恵にまったく気づくことなく、相変わらず「いや俺は瑠璃ちゃんが」「いや俺はさんちゃんが」とやっている。
「ほらー、猿どもは無視だ無視ー。いいから並べー」
 仕方なしに塩素パックを元の場所に返して、スタート台に立つ瑠璃。高い位置に上ったことにより、よりよく見えるようになったのか男子勢からさらなる歓声が起こったが、全力で無視。
「んじゃ、よーい」
 前原教諭の号令に、ぐっと身をかがめて飛び込みの体勢に入る瑠璃。隣のレーンでは、飛び込みのできない珊瑚がすでに水に入って、歩き泳ぎの体勢万全である。
 ――と

  ぞくっ……

 と、いきなり背筋に悪寒が走って、思わず体勢を解く瑠璃。
「ん? どうした姫百合ー」
「あ、いや、なんかヘンな……」
 くるくると周囲を見渡してみる。が、特に変わったものは見あたらない。猿どもも先ほどと変わりないようだ。――多少、そしらぬ顔をしすぎているような気はしたが。
「あの日かー?」
「ちゃっ、ちゃうよ!」
 もう一度、周囲を見渡して異常がないことを確認し、再度スタート台に立つ。まだ違和感はぬぐえなかったが、変化がなければ仕方ない。
「じゃ、もう一度行くよー。よーい……」

  ぞくぞくぞくぅっっ!

「!!」
 またも猛烈な悪寒。今度はさっきより強く、太ももに鳥肌が立ってしまった。
「な、なんやねん!?」
 再び周囲をばっばっと見渡す。が、やはり何もない。
「どうしたー。やっぱりあの日かー?」
「ちゃいますて! なんか……なんか、よぉ判らんけどヘンなん!」
 だが、何度見回しても異常はない。今度はスタート台から降りて、とことこと周りをあらためてみたが、やはり結果は同じである。
「瑠璃ちゃん、どしたん? ウチ、そろそろ寒いねんけど……」
 プールの下から、珊瑚の声が聞こえてきた。夏真っ盛りとはいえ、先ほどから水につかりっぱなしで動いていないので、身体が冷えてきたらしい。
「あ、う……。さんちゃんは、なんも感じひん?」
「んー……、塩素がちょっとキツイ気がするかなぁ」
「そゆことやなくて……」
「ほらー、後がつかえてんぞー、そろそろ位置につけー」
「う……」
 前原に促され、しぶしぶスタート台に戻る瑠璃。確かに、自分がぐずぐずしていては周りの迷惑にもなるだろう。
 とはいえ、落ち着かないことこの上ない。自意識過剰と言えばそれまでかも知れないが、それでも、朝から好奇とリビドーの視線にさらされ続けて数時間。それなりに過敏になっていても仕方ないだろうとも思う。
 だが、何もないところでうだうだ言っていても始まらない。少しずれた水着のお尻を直しつつ、前原の号令を待つ瑠璃。
 と、不意に瑠璃に天啓が訪れた。
『あ、まさか――?』
 それならば、手段はひとつ。
「じゃあいくぞー、位置についてー」
 前原の声。その声に合わせて、瑠璃はぐっと飛び込みの構え――を、しようとした瞬間――

  ばっ!

 と、いきなり背後を振り向いた。

「あっ……!」

 ぶつかる視線。

「バカ! 何やってんだよ飯田!」
「おまっ……、いちばん良いところで見つかっ……。くぁあ! この役立たずがッ!」
 聞こえてくるのはプールサイドのバカ共の罵声。もちろん瑠璃に対してではない、瑠璃の視線の先にいる男子生徒、飯田健吾に対してである。彼が今いる場所はスタート台の背後、金網の外側だった。
 プールの外側で海パン一丁。それだけでも光景としては異様だが、さらに異様なのは彼が両手に抱えた、そのどデカいカメラ。なんだかキャノン砲のような凄まじいレンズが付いていて、いったいどこまで見えるんですかと聞きたくなるような代物だった。
「やべっ……」
「アンタ、何してんな……?」
 地の底から響くのは瑠璃の声。
 耳にする者すべてが思わず気をつけしてしまうような、冷気を伴った声。
「いや、その……」
「何してんねやって聞いてんやろ、コラッ!」
「ひっ! じ、自分はっ! 瑠璃さんが飛び込む時に前屈みになったところで! その時の背後からの光景をローアングルから撮影しようと思っていた次第です!」
 きっと成功していれば、とっても刺激的な画が撮れていたことだろう。
「…………………………………………」

  じゃきっ

 どこからともなく、瑠璃が武器を取り出す。
 ぶっとい銃身に直立したグリップ、オプションのプロサイトがいかにもな雰囲気ばっちりの、ヘッケラー&コックMP7A1電動サブマシンガンだった。来栖川ラボのスキモノに頼んで威力を倍加してもらった特製品である。190発連射マガジンも改造して、現在の装填数は760発。
 本当にどこから取り出したのかは不明だが、スクール水着に物々しいサブマシンガンの組み合わせは、いろいろ怖い。セーラー服ならぬ、スクール水着と機関銃。

 そして、今度は誰も止めなかった。

「死ねええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!」

 ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ!!!!!!!!!

 実行犯の飯田に対してはもちろん、他の男子にも容赦のつもりはまったくなし。超威力のBB弾が剥き出しの肌にビシバシビシバシ(作者注:電動サブマシンガンを人に向けて撃つのはやめましょう)。

「えー、というわけでー、さっき言った猿を見たら撃っとけーって教えを姫百合が実践してまーす。みんな手本にするようにー」
『はーい』

「逃げんなコラぁあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
「痛っ! やめ! 助け……うぎゃあああああああああああ!!!!!!!!!」


 ――十数分後。すっかり女子たちの引き上げたプールサイドには、身体中にBB弾の赤い痣を浮かべた男子生徒たちが、屍拾う者もなくゴミのように横たわっていたという。



     ※



  きーんこーんかーんこーん……

 6時限目のチャイムが鳴れば、今日の授業はすべて終了。あとは部活に行くなり帰るなり、あるいはどこかで暇をつぶすなりの、学生たちの自由時間。
 普段であれば気分は解放、うきうきと珊瑚と一緒にパソコン部の部室にでも行くところの瑠璃であるが、今日はいきなり机に突っ伏してしまうほど疲労困憊。プールの時もさることながら、その前にもその後にも、気の休まる時が少しもなかったのだから無理もない。
 あこがれ続けた巨乳であるが、まさかこれほど苦労を伴うものだとは。あらためて、"身の丈"と言うものの重要性を思い知る瑠璃である。
「瑠璃ちゃーん」
 と、そこに姉の瑠璃が声をかけてくる。こちらは別に大きくなってはいないから、いつもの通りの元気な声だ。
「今日は部活どうしよか? ウチはみっちゃんたちのテストとかあるから、部室行こ思てんけど、瑠璃ちゃんはどうする?」
「あー……」
 正直、もう帰りたいというのが本音である。
 だが、愛しの珊瑚の手前、なかなかそうも言えないところがつらいところ。惚れた弱みも何とやら、しばらく思案した後、結局瑠璃は「後で行く……」とだけぽつりと言った。
「んー……、無理せんでもええよ? なんかつらそやし。やっぱり今日は帰ろか」
「ええよ、そんなん。さんちゃん、お仕事あるんやろ?」
「家でもできるよ? なんなら、貴明に頼んで送ってもらおか」
「ええてええて。どうせこれからずっとこんなんやし、気にしても始まらんよ。ちょっと休んだら行くから、先に行っとって」
「そか。じゃあ、パソコン教室で待ってるな。何かあったら、ケータイ鳴らしてな?」
「ん。いってらっしゃい……」
 ゆるゆると手を振って、まだ心配そうにこちらを振り返る珊瑚を見送る。やがてその姿も廊下の向こうに消えてしまうと、また瑠璃は机に突っ伏して大きなため息をひとつついた。
「はぁ〜……」
 心労に加えて、さらにひどくなった肩こりも、間断なく瑠璃を責め苛む。
 珊瑚にはああいったが、これからずっとこうだとすれば、気が滅入ることこの上ない。はたしてこれからどうするか、未だかつて悩んだことのない命題で悩まなければならない瑠璃である。
『環姉ちゃんにどうすればいいか聞くか……、それかミルファに聞くかなぁ、確かイルファより大きくした言うてたし……』
 頭の中で、知り合いの巨乳さんの顔を思い浮かべてみる。大きな乳と言えば真っ先に向坂環の顔が思い浮かぶところだが、自分とは体格そのものが違うし、参考になるような意見が聞けるのだろうか。
 いや、そもそもそういったことより、まず下着を調達しなければいけないのではないか。今日だって、ずっとノーブラで通してきて恥ずかしくて仕方ないのだ。
 そうだ、部活に行っている場合ではない。イルファでも連れて、あるいは環にでもついてきてもらって、ランジェリーショップにブラジャーを買いに行くのが先だろう。
 そうしなければ、明日もまた、ノーブラでムダに色気を発散していなければならなくなるのだ。
 そう思い、瑠璃は自分の携帯電話を取り出して、珊瑚と、そして環に連絡を取った。

  「あー、そかそか、そやなぁ、ブラ必要やんなぁ。うん。じゃあウチ、ちょっとだけやっときたいことがあるから、30分後に昇降口で良い?」
  「そういえば今日ノーブラだったわね。いいわよ、私がよく行く下着屋さんがあるから、一緒に行きましょう。30分後に昇降口ね? ええ、じゃあ待ってるから」

 幸い、2人とも快く引き受けてくれてほっとする。これで、いくつかブラジャーを確保しておけば、明日からは少しはマシになるだろう。
 あとはせいぜい、瑠璃好みの可愛いブラがあればいいのだが、それは贅沢というものだろうか。大きいブラジャーは、大人っぽいデザインのものしかないというのはよく聞く話である。最近はひょっとしたら、そうでもないのかも知れないが。
「30分か……」
 壁の時計を見ると、今は16時15分。余裕を見ても、あと20分ほどは休憩できそうだ。
「ちょっと……寝ようかな……」
 ふぁ、とあくびをひとつ。疲れてしまったのだ。
 携帯電話のアラームを20分後にセットして、瑠璃はもういちど自分の机に突っ伏して、少しだけ仮眠を取ることにした。
「Gカップ……か……」
 ぽつり、と、眠りに落ちる寸前、瑠璃は淡く呟く。
「もっと可愛いのが……良かったな……」
 夏の砂浜にさしたパラソルで待つ珊瑚。そこへ歩いていく自分と、水着に包まれた胸。それは今よりもう少し小さな、可愛らしいおっぱい。
 そんな光景を頭に思い浮かべながら、瑠璃は浅い眠りの中に落ちていった。



     ※



 「お母さんのおっぱい、ええなぁ、大きいモン」
 「そう?」
 「ウチも、もっと大きいのがええな」
 「心配せんでも、瑠璃ちゃんもその内大きくなるよ」
 「ほんまー?」
 「お母さんだって、昔は瑠璃ちゃんくらいだったんやで。すぐに大きなるよ」
 「そかー。えへ、楽しみやなー」
 「ウチは? ウチは? ねえママやん、ウチは?」
 「あは、もちろん、さんちゃんも大きくなるよ。みんな、一緒やで」
 「そかー。みんな一緒かー」
 「みんな大きくなったら、お母さんと一緒に下着買いに行こうな?」
 「うん! 楽しみやなー。絶対、行こなー」



     ※



 ――
 ――――
 ――――――
 ――――――――♪たたた・たららん、たったー、たたたたん、たたー……♪

「ん……」
 軽快なイントロがポケットの中から飛び出して、瑠璃を眠りの縁からひっぱりあげる。
「ふぁ……。なんや、小さい頃か……?」
 ごく短く浅い眠りだったが、それでも夢を見ていた。たぶん、4歳か5歳か、そのくらい小さな頃のことだったと思う。珊瑚と一緒に、母親によく甘えていた頃のことだ。
「大きなるいうても、限度があるよなぁ……」
 母親のサイズは聞いたことがないが、おそらくCかDかといったところだろう。思い出してもそのくらいの大きさだったと思う。
 それにしても、その内母親が海外から帰ってきたとして、自分の胸を見てなんと言うだろうか? 関西ノリの明るい母親だったから、あるいは大ウケで笑い転げるかも知れないが。
「はぁ……、まぁいいや、そろそろ行こ……」
 アラームは5分前の設定にしておいたから、そろそろ約束の時間である。瑠璃は、よいしょ、と重たいかけ声をひとつ口にしながら、椅子から立ち上がろうとした。

 ――と、その時


「お、起きた?」
「!!!!!」


 心臓が――
 ――止まるかと思った。


 瑠璃の眼前、ひとつ前の席に、わざわざこちら向きに座り、じっと見ていた者がいた。
 起きた時はうつむいていたため判らなかったが、ずっとそこにいたようだ。
「な…な……な…」
 辺りには他に誰もいなくなった教室。すでに、クラスのみんなは部活やら、あるいは遊びに行くなり帰るなりしてしまったのだろう。廊下からも声ひとつ聞こえない、閑散とした教室の中で、目を上げたらいきなり顔が――それも、視界いっぱいに男の顔が――あったのだ。あまりの衝撃に、うまく声が出ないほどだ。
「な、な、な……、なんやの、アンタ……」
「か、可愛かった、よ。る、る、瑠璃たんの、寝顔……」
 同じクラスの男子だ。確か、名を真壁修也と言ったはずだ。瑠璃は直接話したことがないが、クラスの女子たちからはゴキブリのように嫌われている男子生徒である。
 恰幅が良いと言えば聞こえは良いが、ストレートに言えば太っちょの体型。メタルフレームの眼鏡をかけて、髪はぼさぼさ。しゃれっ気は全くなく、所々にニキビの浮き出た顔は、お世辞にもきれいだとは言い難い。おまけにお風呂にあまり入らないタチなのか、いつもすえたようなにおいを漂わせて、正直あまり近寄りたくない類の男の子だ。
 その真壁が、ぐいっとこちらに顔を近づけて、わけのわからないことを口にしている。
「る、瑠璃たん? なんやの、それは……」
「えへ、えへへ、ぼ、ボクだけ、だから……。瑠璃たんの寝顔、見たの、ボクだけ……」
「ひっ……」
 ぞぞぞぞぞ、っと、一瞬で全身の毛が逆立つような悪寒が走る。
 特に話したこともなく、言ってみればどうでもいい類の男子。関心も何もないまったくの赤の他人だが、それでも、瑠璃は目の前の人物が自分にとってよくない種類の人間であることを察知する。
「…………」
 関わり合いになってはいけない――そう直感し、瑠璃は無言で席を立って、その場から離れようとした。
 だが、入り口へ行こうとする瑠璃の手首を、いきなりむんずと掴まれた。それも、かなり強烈に、痛みを伴うほど。思わず、瑠璃の顔が苦痛に歪んだ。
「痛っ……」
「ま、待って、よ。無視しないでよ。お話、しよう」
「う、ウチは約束があるんやから。アンタと話してる暇なんかない」
「ボク、ま、ま、前から、瑠璃たんのこと、いいなって思ってて……」
 こちらの話などまるで聞いていないようだ。相変わらず、握りつぶすかのような勢いで瑠璃の手首を掴みながら、何やら脈絡のないことを話しかけてくる。
「し、知らんわ、そんなん! 離してえな、痛いやんか!」
「は、は、は、離したら、お話しして、くれる?」
「するわけないやろ! 約束がある言うてんやんか!」
「じゃあ、離さない」
「ふざけんな、ボケッ!」

  げしっ! げしげしっ!

 口で言っても判ってくれそうにない。そう悟り、渾身の力を込めてローキックを放つ。だが、手首を掴まれているため力が半減しているのか、あるいは体重差がありすぎるのか、あまり効いた様子はなかった。
「あ、あう…あう…、る、瑠璃たんの、キック。これが……」
「離せ! 離せえ!」
「だめだよぉお……」

  ぐいっ

 不意に、強く引っ張られた。
 そして一瞬の後、顔に当たるぽふっとした感触。
 何が起こったかその瞬間は判らなかった。
「あはぁ……、る、瑠璃たん、抱いちゃったぁ……」
「ひ……」
 気づくと、真壁の腕の中だった。
 両腕ががっちりと瑠璃の背中から逆側の肩までそれぞれ回っており、信じられないほど力いっぱいぐいぐいと抱きしめられていた。
 瞬間、胸元から異様な臭気が漂ってくる。それは、おそらく何日も着替えていないのであろう、汗の染み付いたシャツのにおいだった。
「うぷっ……」
 思わず吐き気を催すほどの刺激臭に、瞬間、息が止まる。だが、そんな瑠璃を知ってか知らずか、さらにぐいぐいと、骨も折れよとばかりに強烈に力を込める真壁。もはや抱いていると言うより、締め上げているといった風情である。
「ああ……、る、瑠璃たんの、感触ぅ……。は、はふ、はう、き、気持ちいい?気持ちいい?」
「い、良いわけあらへん……。離せ…離して……!」
「ふえ、や、やだね……。離さ、ない。あ、ああ…おっぱい……ぼ、ボクのお腹に、る、瑠璃たんのおっぱいの感触……ああ……」
「いやあ……!」
 必死で真壁の腕から逃れようとする瑠璃。だが、元より男と女の地力の差はいかんともしがたいものがあり、なかなか腕の力が緩む気配はない。
 あるいは、まだ瑠璃の頭が柔らかければ、相手を懐柔する言葉なりなんなりで活路を見いだせたかも知れないが、直情一直線の彼女にそんな器用なことはできないし、するつもりもない。甘い言葉を囁くくらいなら、舌でも噛んで死ぬことだろう。必死で、僅かに動く腕やら足やらを使って、真壁の身体に攻撃を加えて行くのみである。
「離せって言うてるやろ! このっ…このっ……!」
「お、おとなしく、してよ。せっかく、ふたりっきり、なんだからぁ」
「うるさいうるさい! 黙れこのヘンタイ! チカン! ごーかんまーっ!!」
 ゼロ距離からの攻撃ではらちがあかないと判断し、今度は自分と真壁の身体の間に腕をねじ込んで、ぐっと力を込めて離そうとする瑠璃。
 と、これはなかなかうまく力が入ったのか、だんだんと互いの身体の間に隙間ができてきた。腕力の差はあれど、窮鼠猫を噛むの如く、追い込まれてさらなる力を発揮できたのかも知れない。
「あ、う……、る、瑠璃たん、ダメだよ……」
「うううーーーっ…………!」
 1センチ…2センチ…、少しずつ、身体が離れていく。次第に清涼な空気が流れるようになり、呼吸もいくらか楽になった。もう少しで、この責め苦から逃れられるかも知れない。
 そして、さらに数分の攻防の後、瑠璃の腕がもう少しで伸びきるくらいにまでなった。これなら、そろそろ身体をひねって逃げることができるかも知れない。あるいは、金的に膝蹴りでもぶち込んでやるか。
 だが、あと少しで自由になれると言うところで、またも真壁が思わぬ行動に出た。

  がしっ

「やっ!?」
 不意に腕が解かれたかと思うと、今度はこちらの頭を抱え込むように引っつかまれた。
 そして、思い切り引き寄せられたかと思うと、瑠璃の唇めがけて真壁の顔が突進してくる。

「いやあああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

  ばちーん!!!!!!

「ぶべっ!?」

 間一髪――

 瑠璃の渾身の平手打ちが、真壁の頬を正確に、そして強烈に張り飛ばした。その衝撃で、ようやく真壁の腕が自分から離れる。
 もうあと一瞬判断が遅れたら、あまり――というか、絶対考えたくない事態に陥っていたことだろう。
「はぁ…はぁ……」
 荒く息をつく自分の呼吸が聞こえる。
 難を逃れたとはいえ、あまりの出来事にまだうまく言葉が出てこない。脚もがくがくと震えていて、しばらくその場に呆然と立ちつくす。
 だが、それでも本能が『この場にいてはいけない』と、大音量で喚き散らしている。その声に従って、瑠璃はよろよろと、まだ震える身体もおぼつかない足取りで、その場から離れようとした。一刻も早く逃げなければ、また何をされるか判らない。

 ――が

  がしっ

「ひっ!」
 再び、手首を掴まれた。
 今度は先ほどよりも、もっと強く。
「や、やめ…やめて……」
 恐怖。
 黒い粘液のような、不快な恐怖が足元からはい上がってくる。
「瑠璃たん……」
 なんの声だろうか。頭が追いつかない。
 早く行かなければ――
 そうだ、きっともう、珊瑚も環も、昇降口で待っている。
 早く行かなければ、せっかく自分のために集まってくれた2人を待たせてしまう。
 早く、いかなければ――

 だが

「痛いじゃないかっ……!」

 瞬間
 頬に
 信じられないほど熱い衝撃が

「あぐっ!!」

 我に返った時には、床に身体が放り出されていた。
 何をされたのか、判らなかった。
 その瞬間は、判らなかった。
 だが、数瞬の後、猛烈な痛みと熱さが、自分の頬から全身に広がる。

  殴られた――?

「い、いっ……。い……。あ、う……あ……」
 意味のある言葉が出ない。
 ただぼろぼろと、目から涙が溢れて落ちる。
 口の中には鉄臭い味。たぶん、頬の内側が切れたのだろう。
 全身の震えはおさまる気配を見せず、まるで痙攣するかのようにひくひくと、瑠璃の身体を責め苛んでやまない。
「る、瑠璃たんが……」
「え……?」
「瑠璃たんが、悪いんだよ……?」
「な……」
 思いも寄らない言葉だった。
 なぜ、自分が悪いのだろうか。
 どこからどうみても、自分が被害者のはずなのに。
「そ、そんなに…そんなに可愛くて……。ぼ、ボクを、誘惑したじゃないか……」
「な、何を……」
 誘惑? いつ?
 そんな覚えはもちろん瑠璃にはない。
 そもそも、誰かを誘惑したことなど一度もない。
 珊瑚にだって
 貴明にだって――
 一度だって、そんな破廉恥なことをしようとしたことはないはずだ。
「そ、そ、そのうえ、今日、今日になって……そんな、おっぱい、大きくなって……」
 ふくよかにふくらんだ瑠璃の胸。
 しかしもちろん、この男のために大きくしたわけではない。
 だが、真壁の罵声はなおも止まらず、床に転がった瑠璃に容赦なく降り注ぐ。
「さ、さわって、ほしいんでしょ? ホントは……。ね、ねえ、ボクの家にきなよ、ふ、ふ、ふたりで、楽しいこと、いっぱいしよう」
「や……」
 ふるふると、
 ふるふると力なく首を振る。
「いや……いや……」
 逃げなければ
 すぐに逃げなければいけない
 だが、二本の脚はまるでおこりにかかったように震えて動かず、ゆるゆると膝が少しだけ動いただけだった。
 それでも懸命に、瑠璃は後ずさりしながらその場から離れようと、必死で身体を動かす。
 だが、その瑠璃の様子を見て何を思ったか、真壁がにぃっと不気味に笑った。
「ほ、ほら、ほらぁ……またぁ……」
「え……?」
「そ、そうやって、ボクを、誘惑するんだぁ……」
 エフッエフッと、嫌悪感をもよおす笑い声を漏らしながら、真壁がこちらを指さす。その先は瑠璃の顔ではなかった。それよりももう少し、下の方。
「あ……」
 見ると、瑠璃のスカートがめくれて、水色の下着があらわになっていた。膝を立てながら後ずさりしていたせいで、こうなってしまったのだろう。そんなことに気の回る余裕もなかったから、太ももの付け根から全部見えている。
「やっ……」
 慌ててスカートを引っ張って隠すが、もうすっかり見られてしまった後だ。
「や、やっぱり、誘惑してるよね?してるでしょ? だから、瑠璃たんが悪いんだよ。ぼ、ぼ、ボクは、誘惑された方なんだから」
「し、してへん! ウチ、してへんも!」
「してるよぉ。瑠璃たん、そうなんでしょ? きっと、ボクのことが好きなんでしょ?」
「いや…いや…違う……違うもん!」
「ぼ、ぼ、ボクも瑠璃たんが好きなんだ。一緒に……」
「いやぁ……」
「一緒に……気持ちいいこと、しよう。えへ、えへ、エフッエフッエフッ……」
 気味の悪い笑い声。
「いや…」
 気味の悪い腕が瑠璃に伸びて
「いや…いや……やだ………」
 やがて、肩に気味の悪い手が触れて――


「いやあああああああああああああ!!!!!!!!!!!」



―――――――――――つづく

ここまでの展開で不安になった人へ
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