飾り翼のデブ
この短編は「遊楽空間」管理人:人形氏の短編「飾り翼の天使」のパロディです。
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 大歓声が、会場内に轟いている――。
 それは、いまだかつて誰も経験したことのない、異様な興奮であった。
 会場に詰めかけた観衆の、その大勢の人間たちは皆はらはらと涙を流し、たったいま自分たちが目撃した奇蹟に、胸をいっぱいにして感動していた。
 その騒ぎの中心人物であるその男――ひときわ大きな体躯をしたその大男の名前が、会場内にこだまする。彼の、一世一代の大舞台は、そんな熱気の中、今まさに終わりを告げんとしていたのである。
 有終の美――そう、言い表すならその言葉がもっともふさわしい。
 あまりにも劇的なその終幕。キリストの復活以来、おそらく一度きりしかないであろう、その奇蹟。
 だがしかし――
 彼のいでたちは、頭に奇妙な輪を針金で固定し、背中に張りぼての翼を付けた、およそ名場面にふさわしくない格好であったのだが――。

      ※

「死神…ねぇ」
 そう呟いて、黒ノ富士はファメールが持ってきた葬式饅頭をむさぼり食った。そして「オタク連中にはそれで受けるかも知れないがねぇ」と無責任なセリフを、饅頭の残る口でフガフガと言い切り、「でもあれだね、いくらなんでもその張りぼての翼と天使の輪っかじゃあ、説得力がない」と結び、力いっぱい咀嚼物を飲み込んだ。
「だからぁ、説得力がどうとかじゃなくって、私は事実、死神なんですってばぁ〜」
 そろそろ涙目になり始めた瞳を、さらにウルウルさせて、ファメールは懸命に説得を試みるが、形勢はいかにも不利である。
 所は、とある病院の霊安室。腐敗防止のために、室内温度を抑えてあるその部屋の中で、裸形の男と、張りぼての翼を服の背中に縫い付けた美少女が、向かい合っていた。
 少女のほうはともかくとして、その男の風体たるや奇ッ怪の極みである。
 身長は190センチ、体重は150キロを超えるだろうか。でっぷりと太ったその身体は、多少の寒波が来てもびくともしないと思えるほどで、冬はともかく夏場はあまり近づきたくない。匂うような…という言葉があるが、色気とは全く違う意味で、その男は匂うような、いや、臭うような身体をしていた。
 そして、視線の角度を上にあげれば、とてもファッションの流行にはなり得ないような、奇妙な髪型。おサムライさんのちょんまげではない、大銀杏であった。
 ここまで書けば判るであろうが、さらにもう1つ付け加えておくと、その男が着ていたものはマワシであった。というか、マワシしか身に付けていない。
 力士、取的、角力、関取、相撲取り…呼び名はそれぞれだが、要するに『おすもうさん』である。
 マワシを締めて乾坤一擲、土俵に上がるばかりになったおすもうさんが、霊安室のベッドの上に座っている。
 四股名は『黒ノ富士』。去年横綱になったばかりの、九日部屋のエースにして角界期待の星である。
 そして、向かいに座った少女はといえば、これが世にも稀なる美少女である。
 名をファメールと言う。ゆるくウェーブのかかった髪を肩口で切りそろえ、寝起きのようなぼんやりした瞳は霞がかかったように青く、清冽な美しさと共に少女らしい愛らしさも兼ね備えている。そして、真っ白でふわふわのピンクのドレス、という色彩が奇妙に複雑なファッションに身を固めているその姿は、『可愛い』という以外に形容詞が思い浮かばない。強いて言えば『萌える』という、あまり多用したくない言葉があるくらいか。
 だが、むしろ彼女の特徴を如実に表しているのは、背にしょった張りぼての翼と、頭上に針金で固定した輪っかだろう。
 昨今はやりの『コスプレ』ではない。
 彼女は、世に言う『死神』なのである。
 巨漢力士と、可愛らしい死神――そんな2人が、冷んやりとした霊安室の、ぼんやりとした蛍光灯の下で、向かい合っていた。
「事実ッたってねぇ、死神ッていやぁ、こう、でっかい鎌持ってね、ホウキにまたがって空を飛び、満月の夜には狼に変身して、『早く人間になりたーいッ!』って叫ぶ、あの骸骨の顔した薄ッ気味悪ィバケモンだろう?」
 ムチャクチャである。
「なんですかそれ?」
「嬢ちゃんには判らねえかなぁ」
「ええ、さっぱり」
「嬢ちゃん、無知だな」
「そんな死神なんか、どこ探したって、いやしませんよッ!」
 そう言われてもさっぱり動じず「でもさぁ、少なくともこんな嬢ちゃんが死神だって言うよりは、説得力のある話じゃないのかなあ」と言いながら、手を伸ばしてファメールの頭を撫でなでする。
「頭を撫でないでくださいよぉ〜」なんだか馬鹿にされているような気がして、ファメールが涙目になる。
「可愛い可愛い♪」
「むぅ〜〜」
「そんなに拗ねるなよ、なんなら俺の頭撫でるか?ほれほれ」
 そう言って大銀杏の載った頭をこちらに向けてくる。もちろん彼女にしてみれば、別段そんなもの撫でたくはないので、代わりにぺちっとはたいてやった。だが、いったい何が嬉しいのか、はたかれた頭をさすりながら、黒ノ富士はうっすら微笑を浮かべている。
「ううん、なかなか」
「ま、マゾですかあんたは」
「ちょっとだけ」
「………はァ………」
 なんだか気が抜けて、ファメールは近くにあったストゥールを持って来て座った。
「もぅ…真面目に話し合いしましょうよ。とにかくね、私は死神で、黒ノ富士さんは死人なんです。だから、私がこうしてあなたの魂を刈りに来たってわけで、そこまでは判っていただい…ちょっと、あの」
 やおら立ち上がり、ツカツカとドアの方へと歩き出す力士。
「ちょ、どこへ行くんですかぁ!?」
 慌ててファメールが呼び止めると、ただ一言「帰る」。
「帰っちゃだめですよッ! これから冥界に行って、魂の査定をしてもらうんですからぁ!」
「俺より強い奴に会いに行く」
「なに馬鹿なこと言ってるんですかッ!」
 先ほども書いたように、ファメールの職業は死神である。ここで相手を逃すわけには行かない。全力でドアに先回りし、両手を精一杯広げて『通行止め』の体勢に入った。
 だが、巨漢力士を前にしてやるその体制は、どうひいき目に見ても、上司との約束でゴルフに行かなければならない父親に『動物園に連れて行ってほしい』と言って、玄関でイヤイヤをする子供にしか見えなかった。
「しょうがねぇなぁ。もうちょっと嬢ちゃんの遊びに付き合ってやるか」
「遊びじゃなくてぇ…ついでに泥棒でも、不法侵入者でも、マニュアル教育に一石を投じようと立ち上がった精神錯乱者でもありませんからねッ」
「じゃああとは、魚屋かウェイトレスしか…」
「それはス○イヤーズじゃないですかッ!」
「知っとるんかい」
「とにかく!私は死神なんですッッ!」
「可愛い可愛い♪」
「頭を撫でないでくださいッ!」
 おお怖い怖い――と呟きながら、黒ノ富士はベッドに座りなおした。
「今日は白星全勝をかけた、大事な千秋楽なんでぇ。早いとこ終わらしてくんな」
「そんなの無理ですよ。だって黒ノ富士さんは死んじゃってるんですから。土俵になんか上がれっこないですよ」
「なにが『死んじゃってるんですから』だ、このうすらトンカチ。俺はこの通りピンピンしてるじゃねえかよ」そう言ってやおら立ち上がると、突然ベッドの上で四股を踏み始めた。
「どすこーい!」
 ドスン、ドスンと音がしてベッドがきしむ。3回四股を踏んだところで、ベッドの底が耐え切れなくなってバキッと沈んだ。
「きゃあッ!?」
「ごっつぁんです」
 認めたくはないが見事な四股だった。
「なにやってるんですかッ!病院の備品壊しちゃって!」
「ほらな?」
 勝ち誇ったような表情で、黒ノ富士はファメールの眼前に立ちはだかった。さすがにこの巨体で迫られると、冗談抜きに怖いものがある。玉のような汗が、そこここに光っているのも不気味である。
「な、なにが『ほらな』なんですかッ?」
「俺がユーレイだったら、こんなことできるわけねえじゃねえか。あんなフワフワした煙みてえなヤツが、ベッドなんか壊せるか?ん?」
 顔を目いっぱい近づけて、ファメールを威圧する。だが、確かに怖いが、むしろ嫌だったのは、大銀杏の鬢付け油が発する、強烈な匂いの方だったりする。
 鼻を抑えながら、無言でファメールがベッドを指差す。先ほどの四股の影響で、底が傾いたベッド…その上に、いかにもしんどそうに横たわっているものがあった。霊安室のベッドの上なのだから、もちろん死体なのだが、その顔はなんと黒ノ富士その人である。
「それ、黒ノ富士さんの顔でしょう?」
「あッ」
「あッ、じゃなくて」
「いい男じゃねえか」うっとりしたような表情になる黒ノ富士。
「だから、そういう問題じゃなくて! あなたは今日のお昼過ぎに、交差点で交通事故に遭って、ぽっくり逝っちゃったんですッ! 判ってます?」
「まあ細かいことは気にするなぃ」
「ぜんぜん細かくないです。力いっぱい細かくないです」
「そう目くじら立てなさんな。葬式饅頭でもどうだい?」
「いりません! それよりさっさとあきらめて付いて来てくださいよぉ〜」
「ンなこと言ったってさぁ」饅頭をほおばりながら、破壊されたベッドの端に腰を下ろすと、黒ノ富士は上目遣いにファメールをにらみつけた。
「俺があんたに付いて行って、何のメリットがあるわけ?」
「天国に行けるかもしれませんよぉ〜♪」
「行けなかったら」
「地獄行きですね」
「さぁて、土俵入りの時間が近いぞ」すっくと立ち上がって、歩き出す黒ノ富士。
「あ、待って、待ってくださいっ!」出て行こうとする黒ノ富士を、必死でドアの前に回りこんで通させまいとし、相変わらず、イヤイヤをする子供のような体勢になる。そして、決意をみなぎらせた表情で「わかりました」と一言。
「おっ、ようやく解放してくれんのかい」
「ただで付いて来いとは言いません。1つ、交換条件ということでどうですかぁ?」
「交換条件?」
「はいぃ♪ 付いてきてくれたら…」
「付いてきてくれたら?」
「ほっぺにちゅーしてあげますッ♪」
「さて、土俵入りだ」
 精一杯の条件のつもりであったが、黒ノ富士は意にも介さぬ様子である。
「ちょ、こんなかわいこちゃんのちゅーが気に入らないんですかぁ?」さすがに女の子のプライドが許さないものと見え、猛然と抗議をする。だが、黒ノ富士は鼻でふふんと笑うと「ほっぺにちゅーだけじゃねぇ…」とのたまった。
「じゃあ何すればいいんですか?」
「チチもませろ」
「はぃい?」あんまり自然に言うので、何を言われたのかすぐには理解できなかった。
「なんて言いました?」
「チチもませろ」
「な…」
「チチもませろ」
「い、いやですよッ!」さっと腕を交差させて、胸を防御する。羞恥心がどうのというより巨漢の力士にもまれたら胸がつぶれるんじゃないかという恐怖の方が強い。
 それを見た黒ノ富士関、もう一度ふふんと鼻で笑うと「まぁそんなAカップのぺちゃパイじゃあ、もみ甲斐もないんだがね」と、恐るべき暴言をはいた。
「し、失礼なッ! そんなに小さくないもん!」
「じゃあもんだっていいじゃん」
「それとこれとは全ッ然、話が違いますッ!」
「けち」
「そういう問題でもなーいッ! それしか頭にないんですかあんたはッ!」
 黒ノ富士はすっと真顔に戻ると、ただ一言「ない」と言い切った。
「そ、そうきっぱり言われると、突っ込みようがないんですけどぉ…」
「修行が足りん」
「何の修行ですか、何の」
「そうだな、まずは風呂で、自分のチチをマッサージすることからはじ…そんな怖い顔するなよぅ」
 さすがにからかいすぎたと思ったのか、おとなしくベッドに戻る黒ノ富士。
「私のことも察してくださいよぉ〜。このまま黒ノ富士さんが付いてきてくれないと、課長に怒られちゃうんですからぁ」
「課長だぁ?」
 こくり、とうなずくと「死神も大変なんですからぁ〜」と、涙混じりに語り始めた。
「私だってね、一生懸命やってるつもりなんですよぉ。でもみんな、死んだってこと認めてくれなくて、いくら言っても付いて来てくれなくて。でも、ノルマ分こなさないと課長にデコピンされちゃうし、お給金減らされちゃうし、だから仕方なく、そこらへんで車に轢き殺された猫ちゃんの魂とか刈ってごまかすんですけど、やっぱりノルマに届かなくって。人間さんとの間に何か契約を取り付ければ、生きている人の魂も刈れるんですけど、今時そんな人あんまりいないし。先輩たちにはいじめられるし、もう1週間もお茶漬けしか食べてないし。このまま行ったら猫まんまでがまんする生活になっちゃうかもしれないんですよぉお?」
「そうか、お嬢ちゃんも大変なんだなあ」
「ええ、すっごく」ぶんぶんと、思い切り良く首を上下させる。
「じゃあ俺はこれで…」
「待てい」再度ドアの方に逃げようとした力士の腕をつかむ。むにゅっとした感触が、少々不気味で、少々気持ちよかった。
「なんだよ、話は終わったんじゃねえのかい」
「黒ノ富士さんが『付いて来る』と言うまで終わりませんっ!」
「頑固だな。せめて今日の取り組みが終わるまで待ってくれんか」
「だからぁ、取り組みも何も、黒ノ富士さんはもう幽霊なんですから、一般の人たちには見る事だってできないんですよ。ほら、影だってないでしょう?」
 ファメールが床を指差す。そこには当然あってしかるべきはずの『影』がどこにも見当たらない。蛍光灯はついているのだから、たとえどんなにそれが薄かろうとも、そこに物体が存在している以上、影もまた存在していなければならない。
 だが、黒ノ富士は全く意にも介さぬ様子で「気合いで何とかなる」と言い切った。
「気合いでどうこうできる問題じゃありませんってば」
「四股踏んだら、ベッドは壊れたじゃねえかよ」
「それはポルターガイスト現象です。物質に影響は与えられますけど、磁力が目に見えないのと同じで、他の人間にあなたが見えるわけじゃないんです。それはまた別の問題ですから」
「けち」
「私のせいじゃないですよぉ〜……」
「それなら嬢ちゃんは何なんだよ、嬢ちゃんには影もしっかり付いてるじゃねえか」
「それは私が付けてる、この輪っかと翼のおかげですぅ♪ 輪っかによってこの世界の人々と意思の疎通を可能にし、翼によって存在確率を固定するという…あの、なんですかぁ?」
「へっへっへ、すると、その輪っかと翼さえありゃあ、何の問題もないってことか」
「え、ええ……で、でも、渡しませんからねッ! 絶対渡しませんからねッ!」そう言ってファメールは虚空に手をかざす。すると、瞬間まばゆい光が走り、直後には彼女の手に、巨大な鎌が握られていた。
「おお、おっかねえエモノ持ってやがんなぁ」
「これは人間の魂を刈るためのマインドシックルです。ゆ、言うことを聞かないと、この鎌でざっくり行きますからねッ、ええ、ざっくりとッ!」
 だが、横綱は不敵な笑みを浮かべたまま、動じた様子もない。そのまま無造作にファメールに近寄っていく。いたいけな少女(死神ではあるのだが――)に、一歩一歩地響きを立てるかのように近寄っていくその巨大な姿は、ほとんど悪鬼羅刹のそれである。何しろ身体はこれでもかとばかりに筋肉と脂肪で覆われており、身につけているものはマワシひとつだけだ。怖いというより、異様である。
 一方ファメールの方はといえば鎌を持っていようとも、さすがに体格に違いがありすぎた。その迫力に後ずさりながら「来ないでくださいッ!」と叫ぶものの、さっぱり迫力がない。そのうち、壁際まで追い詰められてしまった。
「おっと、嬢ちゃんどうしたい?震えてるじゃねえかよ」
「わ、わ、私に逆らうと、後が怖いですよッ!」
「ほう、どうしてくれるんだい?」
「ミ、ミントアイス2リットルの刑です、ええ、2リットルですからッ」
 もちろんそんな脅しに屈する横綱ではない。「どすこおおおおおおおい!」と一声叫んで、強烈な張り手を放った。
「きゃあああああああっっ!?」
 一閃、その勢いで竜巻の一つでも起こりそうなほどの激烈な張り手が、彼女の横をすり抜け、瞬間――ドガアアアアン!という猛烈な音とともに、ファメールの背後の壁が粉々に吹き飛んだ。壁の向こう側は裏庭になっているらしく、湿っぽい植え込みと夕焼けに赤く染まりつつある空が見えた。
「ば、化け物かあんたはッ!」
「おうよ、幽霊横綱黒ノ富士たぁ、あ・俺のことでぇい!」歌うように見得を切ると、ファメールが身につけていた天使の輪と翼を、強引にむしり取った。
「きゃああッ!やめてくださいッ。デコピン食らっちゃいますッ、猫まんまの生活になっちゃいますッ!」
 ファメールの哀願もどこ吹く風。輪を支えている針金を大銀杏に差し込み、翼をマワシに差し込むと「パ−チャック!」と意味不明の言葉を叫んだ。
「それはパーマンですッ!」
「知っとるんかい」
 不意にドアの向こうから、がやがやという喧騒が聞こえてきた。
「ああああ、いまので病院の人が来ちゃったじゃないですかぁあ!」
「髪型ヘンじゃねえかな」
「そんなこと気にしてる場合じゃありませんッ!早くそれ返してくださいよぉお!」
 ばたん!と勢いよくドアが開かれ「なにごとだっ!」という大声が室内に響いた。見ると白衣を着た初老の医師が、扉口で仁王立ちになっている。
「あああッッ!見つかっちゃったじゃないですかぁああ!」
「うおぅッ!? な、なんじゃオノレらはッ!」
「先生、いまの音はいったいなに…な、なぁあッ!?」
「どうしたどうした、なんかすっごい音が…ひぇええ!?」
 続々と病院関係者が訪れ、静かなはずの霊安室は今や『喧騒』を絵に描いたような有様である。無理もない、ベッドは傾き、壁は壊され、部屋の中にいるのは巨大な鎌を持った少女と、頭にわけの判らない輪を付け、背中にわけの判らない翼を背負い、マワシひとつ締めてたたずむ、わけの判らない裸形の力士である。
 これで騒ぎにならない方がどうかしている。
「ああああ、デコピンだわ、いじめだわ、猫まんまだわぁあ。どうしてくれるんですかッ、どうしてくれるんですかぁああ!」
「行くぞ」
「え? うわきゃっ!?」
 よいしょっ、とばかりに黒ノ富士はファメールを小脇に抱え、そのまま猛然と壁に突撃した。
「ひええええええええ!?」
 どごおおおおん!!という恐るべき破壊音とともに、かろうじて体裁を保っていた壁がちりあくたと化す。
 勢いよく表に飛び出た黒ノ富士は、そのまま植え込みを突っ切り、道路に飛び出ると、国技館目指して猛然と走り出す。
「いやあああああ!お願いだからこれ以上注目を集めないでくださいぃいいいい!」
 声を限りに叫ぶファメールの願いを完全無欠に無視して、天下の公道を走る走る。
 しかも恐ろしく速い。人間がもつ限界をあっさり越えて、非常識なまでに速い。
 なにしろ死んでいるのである。そもそも疲れることがないし、どれだけ筋肉を酷使しようとへっちゃらである。道路を走るカローラもマーチもレガシィもランエボもNSXもモデナもガヤルドも911も、みんな裸形の力士に追い抜かれていく。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラぁあああああ!俺様の前を走るんじゃねええええええええッッ!」
 対抗車線を走っていたセダンがクラクションを盛大に鳴らした。道路脇を走っていた自転車が見事にコケた。歩道でおしゃべりをしていた女子高生のスカートが風圧でめくれた。ビルの窓を掃除していた清掃員の男が、危うく落下しそうになった。買い物帰りの主婦が持っていたスーパーの袋の中で大根がぽきりと折れた。近所のおばあちゃんのリューマチが治った。
 ありとあらゆる人間の度肝を抜くこと30分、ファメールが悲鳴をあげ続けて、喉が枯れてから15分、二人がようやく両国国技館に到着するころになると、すでに『力士、霊安室より遁走す』のニュースが、テレビで放映されていた。そしてそれが、大相撲本場所の放送スタジオに届くのにも、たいした時間はかからなかった。

     ※

「呼び戻し!呼び戻して、貴眼力の勝ちです。いやぁ、ずいぶんと珍しい決まり手が出ましたねえ、解説の藤代親方」
「そうですねぇ、別名『仏壇返し』と言うんですが、近頃は滅多にお目にかかりませんね。それというのも、技自体がとても難しいからなんですが…」
「貴眼力も、いよいよ技術に磨きがかかって来た、というところですか」
「そうですねぇ、琴床も出だしは良かったんですがねぇ、少々慌ててしまいましたねぇ」
「これで貴眼力、12勝3敗で、本場所千秋楽を終えました。琴床は7勝8敗、いまいちぱっとしない今場所でしたが…」
「まあ左腕の脱臼が、思ったよりもひどかったんでしょうねぇ、名古屋場所に持ち越さなければ良いんですが」
「さて、いよいよ結びの一番なんですが……。なんと言っていいものか判りかねますが……解説の藤代親方」
「惜しい人材を無くしたものですねぇ。黒ノ富士は、近年まれに見る大横綱として、角界を引っ張っていってくれるものと信じていたんですが……」
「ええ、視聴者の皆さんにお伝えしなければならないことがあります。黒ノ富士関は今日正午過ぎ、両国国技館に向かう車中、居眠り運転をしていたトラックと正面衝突して重傷を負い…救急車で病院に運ばれましたが、間もなく息を引き取りました……。謹んで、ご冥福をお祈り……え?なんですか?え?………」
「どうしました?杉田さん」
「え?…ええええ!? ちょっと、そんなことはないでしょう、いくらなんでも馬鹿げてますよ」
「杉田さん?」
「え?本当なんですか? いや、信じられないですよ、これ…え? 目撃証言? え、まさか…」
「どうしました? なにかありましたか?」
「わ、判りました。えー…失礼いたしました。ただいま入りました情報によりますと……えー、大変信じられないことではありますが…えー…このようなことは私の放送経験からいっても例を見ないことでありまして…なんと言って良いものやら」
「なにがあったんですか?」
「えー、黒ノ富士関が運ばれていたK総合病院から、えー…黒ノ富士関が脱走したとの情報が入った次第でありまして」
「だ…ちょっと待ってください、そんなことはないでしょう」
「私も大変戸惑っておりますが…とにかく、脱走した黒ノ富士関は、国道を車のごとき速さで駆け抜け、ここ、両国国技館に向かって、時速およそ80kmから120kmの速度で進んでいるとの…」
「120キロ!? そんな非常識な数字はないでしょう、時速12kmの間違いでしょう」
「あ…、あああああああ!? ふっ、藤代親方、あそこッ、あそこッッ!花道に!」
「え? …な、なあぁあああ!?」
「くっ、黒ノ富士関ですっ! 横綱黒ノ富士関が、花道に現れましたぁああ!」

     ※

 夏草や 兵どもが 夢のあと――は、この場合にはさっぱり当てはまらなかった。
 両国国技館の興奮は、結びの一番が終わって30分たっても、まだ覚めやらぬ様子で、それどころかますますそのボルテージは上がっていくようだった。
「くっろのっふじっ!くっろのっふじっ!」という黒ノ富士コールはひっきりなしで、もし何も知らない人間が見たのなら、天皇陛下と相撲でもとったんだろうかと勘違いしそうな、異様な熱気である。
 そして、土俵の上では今まさに、優勝力士の表彰式が行われていたのである。
 だが、そんな劇的な場面の中――たった一人、試合直後の矢吹丈のように、真っ白に燃え尽きて、もはや立ち上がる気力も残っていない者が一人だけいた。
 言わずもがな、マス席に座ったファメールである。
 彼女の頭の中には、先ほどの結びの一番で、黒ノ富士が全勝優勝を決めた決まり手――行事が声高らかに宣言した、その決まり手の名前が頭の中でごわんごわんとリピートされていた。
 決まり手は――
 あまりにも出来すぎていやしないか? ファメールはその名前が、行事のでっち上げた嘘であると、懸命に自分に言い聞かせようとしていた。
 決まり手は――
 ああ、今日の晩ご飯は何にしようか。お茶漬けはもうやだなぁ、スパゲッティが食べたいなぁ。
 決まり手は――
 何でこんなことになっちゃったんだろうねぇ、なんだか理不尽だよねぇ。
 決まり手は――。
 そうそう、なんていったっけ、黒ノ富士さんがやった技――
 決まり手は――
 そうそう、あれだ!
 決まり手は――頭捻り(ずぶねり)!

 大相撲始まって以来の珍事――死人が土俵に上がるという奇蹟はこのようにして成されたのである。


 ――――――――――終わり

(この作品に登場する人物、事件等は、現実に存在するいかなるものとも無関係のような気がします。見逃してください。)

 (初出:2000年7月20日)

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