ぎぶ・みー・すまいる
act.2
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     プロローグ



 教室の中にこだまする級友の声が、自分の知らない人たちの声に聞こえたことはないだろうか?
 例えば隣に座っている女生徒。机の回りには仲の良い友だちが集まって、あの先輩が素敵だとか、同級生のあの子は優しそうだとか、新入生の彼は可愛らしいだとか、そんな屈託のない会話に花を咲かせている。
 あるいは、教卓の回りに集まっている男子生徒の群れ。体育会系なのだろうか、腕相撲に興じている2人と、周囲で響くいくつもの歓声。
 またあるいは、後方から聞こえてくる雨夜の品定め。見栄っ張りなのか本当に手の早いものなのかは判別つかないが、いずれにせよ女の耳の届かない場所でやった方が良いだろう。
 ともかく、そんな声のすべてが、越えようのない境界の向こうからやって来る異世界の音色。振り返れども高い壁は登るべくもなくそびえ立ち、できることといったら、だらだらと途切れることなく耳に流れてくる、覚えのない声にひたすら耐えることくらいだ。
 それはあたかも取り残された篭の中の兎。好奇の目で見つめられるのならまだしも、金網の向こうには寂寞たる荒野が広がるばかりで訪れる人もない。
 居場所がない。言ってみればただそれだけの、何とも平凡で芸のない一言だ。しかし、教室の中というコミュニティスペースで感じる孤独の冷たさは、それを抱えたことのある者にしか絶対に判らないだろう。
 かける言葉もかけられる声もなく、自分がいてもいなくても当たり前のように過ぎていく時間をただ眺めている毎日。こんなはずじゃなかったという虚しい悔恨と、もう戻ることのない篭の中の時計。
 待てども差し伸べられる手はなく、かといって自分から這い出る勇気もなく、叫びだしたくなる衝動をじっと耐えながら、俺は今日も憎らしいほど変わらない窓外の風景に目を移す。
『こんなはずじゃ……』
 目に映るのは鮮やかな桜。過ぎ行く春風の度に舞う花弁が彩る景色の中、どうやら次の授業の準備を始めるらしい生徒の姿。体育倉庫から持ってきたのだろう、石灰で白く汚れたライン引きを運んできた男子生徒の姿に、深くため息をつく。
 こんなはずじゃなかった。
 こんなはずじゃなかったんだ。
「おーい」
 本当なら、こんなちっぽけな教室の窓からため息混じりに外なんて眺めていないはずだ。きっといまごろ、もっと大きく、もっと大らかで、もっともっとどこまでも広がっていく青空の下、笑い声と歓声に包まれた毎日を送っていたはずだ。
「おーいってばよ」
 仮にそれが手に入らない理想だったとしても、せめて平凡なという形容でくくられる人生だけは確保しておきたかった。
 多くは望まない。ただみんなと一緒に暮らし、みんなと一緒に笑いあい、みんなと一緒に歩んでいける――、そんな生活。
 それだけでいい。本当に、それだけで良かったんだ。
「ちっ。このあたしをシカトするとは良い度胸じゃねえか。ちょっとばかり教育が必要だな」
 それとも、そんな地味で平均的で庶民的な願いすら、俺には贅沢だとでも言うのか?
 いや、そんなことはないはずだ。
 なぜなら去年まで――、より正確には去年の秋口くらいまでは、俺は先に挙げた程度の、慎ましやかな生活を送っていたはずだからだ。
「あー、ちょっとちょっと。こっち来てこっち。うん、ちょっと手伝って」
 多少、個性的すぎる女性の姿が多く目に映ったとはいえ、全体的には平和な毎日だと言えた。幼馴染みの寝坊助を起こし、同じく幼馴染みの姉弟を交えて登校し、平均程度に勉強して、生徒会の仕事もして、たまにお人好しの委員長を手伝って書庫の整理をしたり、ヘンな研究会で部活動もしたり……。特筆すべきことの少ない、そんな静かな毎日だった。
「うん、そうそう。そんな感じ。よ……っと。へへ、ちょっと支えてろよ。飛ぶから。うん、そう、飛ぶから。大空に向かって。え? パンツ? 構わねえって。ミッションコンプリートが最優先事項」
 全てが無くなったわけではない。いくつかの事項は、いまでも継続して続けられている。
 だが、中途半端に含まれた"日常"はよりいっそう"非日常"の存在を際だたせてやまない。
 ありふれた風景が目に映る度に、その回りを囲い込んだ異質さが飛び込んでくるのは、完全なる虚無よりも遥かにタチが悪い。いっそ、気が触れてしまった方がよほど楽だったのではないかと夢想するくらいに。
「いち、にー、の……さんっ!」
 そうだ、どうせならあの時、常夏の陽射しの下で暮らしていく決意を固めていれば、こんな感覚に襲われることもなかっ――


「どりるまーりゃんキィーーーーーーック!!!」



  どぐぉっっっ!!!!!!!



「ぐぇあ!」
 いきなりの側頭部への衝撃。何が何だか判らない内に、もんどりうって席から転がり落ちる俺。
 なに? 何があったの!? 世界の終わり!?
「ゲッチュ!」
 いや、ぜんぜんゲットされてない!
 つーか、続いて聞こえてきたこの悪しき高笑いは――
「何するんですかまーりゃん先輩!」
 小柄な身体に満ちた悪魔のオーラ。長い桃色髪をなびかせて威風堂々仁王立ち。ふんぞり返って高らかに笑うその姿は見間違えようもない、まーりゃん先輩その人だった。
「ぬぁーっはっはっは。ようやくこっちを見たなこのタカりゃん野郎!」
 なんだよタカりゃん野郎って。
「まぁーったく、呼べども叫べどもこっちを見やしねえったらありゃしねえ。このムチムチプリンが視界に入らないってどういうことだオイ。言っとくが、こう見えても脱いだらタマちゃん顔負けのナイスバディなんだぜオラァ」
 そう言って、まな板と呼んでくれと言わんばかりの胸板をグッと反らせる先輩氏。後ろで女生徒が涙をこらえたのが視界に入ったが、まぁそれはともかく。
「見るも何も、死んだらどうするんですか! 思いっきり側頭部に蹴り入れられたんですよこっちは!」
「心配するな。死なないように手加減してある」
 ウソくせえ! そんな器用なタイプじゃないってこの人は! 手加減どころか、豆腐をカットするのにチェーンソーすら持ち出しかねん。
 目的のためなら手段を選ばない、という程度ならまだしも、手段のためなら目的の生死は問わないがモットー。デッド・オア・アライブと書けば何となくカッコ良いが、ターゲットにされた方はたまったモンじゃない。
 たぶん、いま俺が生きているのは、手に入らなかった日常と引き替えに手に入れた"生存のための運気"のおかげ。決して目の前の小さな悪魔("小悪魔"ではない。念のため)に、慈悲の欠片があったからではないだろう。
「っていうか!」
 仁王立ちしすぎてバランスを崩したまーりゃん先輩からいったん目を外して、俺は彼女の背後に控えていた少女に声をかけた。
「このみもこのみだよ、なんで止めてくれないんだよ! むしろ手伝ってるのはどうしてなんだ!」
「だ、だって〜……」
 そう言って、ひとつ年下の幼馴染み・柚原このみが困ったような苦笑を浮かべる。あの顔は"何と言っていいものやら判んない"って時の顔だ。
 いや、もちろん俺だって、このみがまーりゃん先輩に意見できるとは毛ほども思っちゃいない。いないがしかし、わざわざ手伝うことはないだろう。ホントはちょっとだけ聞こえてたんだぞ、さっきのやり取り。
「まぁまぁタカりゃん、そう怒るなってばよ。同級生のよしみではないか。蹴りのひとつやふたつ許せ」
「許せるかぁーっ! だいたい、先輩は同級生じゃないでしょう! 同級生なのは……」
 そこで、はたと言葉が止まる。
 この先を言うのは、いささか――
 何というか、こらえねばいけないものがあるのだ。
「…………」
「同級生なのは……」
「…………」
「どうきゅうせい、なのは……」
「…………え、えへ〜」
 言いよどむ俺に、またもこのみが苦笑いを浮かべる。ひとつ年下の、このみが。
 より正確に言えば、ひとつ年下で、かつ、同級生の柚原このみさんが。


 ――再度問おう。教室の中にこだまする級友の声が、自分の知らない人たちの声に聞こえたことはないだろうか?


 俺は、ある。少なくとも今年の四月から。ほぼ毎日。


 なぜって――


「まぁまぁ、そんなに落ち込むなよタカりゃん! 留年したくらいでさぁ」
「誰のせいだと思ってるんだぁああああああーーーーーーーーーーーー!」


 怒り、悲しみ、やるせなさ。種々雑多な感情が渦巻き逆巻き空の上。
 五月の風をみどり色と表現したのは誰だったか。しかし、いま俺の目に映る五月の風は、どう見ても鈍色。
 夢にも思わなかった、"二度目の二年生"が過ぎゆく教室の中、抱きしめる者もない叫び声だけが、ただいつまでも尾を引いていた。



     act.1



 発端は去年の秋頃だった。もう思い出すのも億劫なので乱暴に片付けてしまうが、俺はかねてよりの知り合いだったまーりゃん先輩氏とただならぬ関係になった。
 ただならぬ関係というと何やら色っぽいのだが、別に恋仲になったとかそういう類のものではない。読者諸兄の予想を悪い意味で裏切って申し訳ないのだが、俺たちは絶海の孤島で救助を待ち続ける遭難者仲間となったのだ。文学的な比喩とかではない。文字通りの遭難者である。
 もちろん、遭難することが目的で海に繰り出したのではない。当初の予定では、その頃留学先として手続きが済んでいたアメリカに到着するつもりで旅に出たのだ。旅のメンバーは俺とまーりゃん先輩、そして、俺たちより一足早くアメリカに留学していたはずなのに、諸々の理由で日本に帰ってきていた久寿川ささら先輩。この三名で、アメリカは自由の女神を擁するニューヨークへと向かったのである。
 ところが、すったもんだのトラブル続きで、たどり着いたは大陸どころか、どこの国の領土とも知れぬ南海の無人島。トロピカルな雰囲気だけは無駄に横溢した常夏の島で、俺たち三人は数ヶ月の期間をサバイバル生活しながら過ごす羽目になったのである。
 その間、同行者である年頃の女の子二人と『あらあら』で『うふふ』な、健康男子としては燃えたり萌えたりのアレもあったりはしたが、何しろ状況が状況だ。桃色トピックばかりで埋め尽くされるわけもなく、生死の境すらさまよったことも一度や二度ではない。
 おまけに救助が来たのは、既に年も明けてしまった二月のバレンタイン。周囲の皆々様からいただいたのは、本命チョコレートでも「無事で良かったね」の一言でもない、烈火の如き大目玉。
 その上、手続きしっぱなしで連絡すら寄越さなかったのがよほど学長の逆鱗に触れたものか、留学そのものもパー。破り捨てられた留学届けと一緒に本国日本に送り返され、出戻り先でも留年決定。晴れてめでたく、この四月からこのみと机を並べるダブリ学生と相成ったのだった。
 可哀相なのは久寿川先輩で、ほとんど選択肢すら与えられなかった一方的な被害者であるはずなのに、巻き添えの留年で卒業のし損ね。おまけに、まーりゃん先輩の強引な決定により生徒会長を継続させられることになったものだから、『留年生徒会長』として目立つことこの上ない。
 本人があまり悲壮感を漂わせないのは救いだが、その理由というのが、諸悪の根源たるまーりゃん先輩に心酔しているからというのだから、やはりこれは救われないと言うべきなのだろう。
 もちろん俺だって、同級生だった悪友が上級生になったり、下級生だった妹分が同級生になったり、取り巻く環境はマイナス方向に激しくシフト。
 同居人のメイドロボからは、「シルファが家を守っている間に、ご主人様は南の島で女の子といちゃいちゃしてたんれす。ヘンタイなのれす」などと罵られる上、夕飯の飲み物にココナッツミルクが提供されるようになる始末。寿司の湯飲みにココナッツミルクが注がれていた時はさすがに目眩がしたものだ。
 おまけに、ただでさえ『らめっこご主人様(ダメっ子ご主人様)』と呼ばれていたのが『ちょーらめっこご主人様(超ダメっ子ご主人様)』にグレードアップしたしな。学校どころか、家でも肩身が狭い。
 卒業して、いまは九条大学に通うために街を出た向坂環――タマ姉が最後に言っていた「タカ坊をまーりゃん先輩に任せていくことだけが心配だわ……」という一言が耳に残って離れない。
 タマ姉、心配してくれるのは有難いが、そう思うなら何か手を打っておいてほしかった。


「と、言うわけでー」


 回想を断ち切るように発せられた一言に顔を上げると、生徒会室の長机にあぐらをかいたまーりゃん先輩が、『びしぃっ!』と、むやみに勢いよく虚空を指さしていた。念のために指さす方向を辿ってみたが、目に入ったのは『水を大切に』と書かれた標語のポスターがあるばかり。
「今日も元気に生徒会、行ってみよーう!」
 なにが『と、言うわけで』だったのか意味を測りかね、誰も何も言わない。というか、いちいち答えても意味がないとみな経験則で判っているから、もう誰も反応しない。
「なんだよなんだよー。景気悪いなオイ。五月病かー?」
「景気が悪いんです」
 そう言って、俺は手元にあったノートを開いて、長机の小さな帝王に見せつける。
「あん?」
「生徒会の予算残高――。五月現時点で二学期の予定支出分まで食い荒らしてます」
「うぉっ、こりゃスゲエな。上から下まで赤字がびっしりじゃん。くたびれたオヤジが使い込んだ競馬新聞みたいだな。いくら勝ったの?」
「負けてんですよ!」
「うわ、だっせぇー。おおかたチマチマ本命対抗ねらいでスリまくったんだろ。大穴ねらえ、大穴」
「だから、誰のせいだと思ってるんだぁああああああーーーーーーーーーーーー!」
 学生の活動とはいえ、学校生活全般の舵取りを仕切る生徒会のこと。予算も一般的なクラブより潤沢に用意されているのだが、すでに一学期分は綺麗さっぱりすっからかん。昨年度末に立てられた年間の収支計画は四月の時点で悲鳴を上げており、五月現在では二学期に予定されている学園祭の予算が着々と脅かされているところだ。景気が悪いにもほどがある。
 そして、誰が使い込んだかは言うまでもない。
「いったい何をどうやったらここまでお金を使い込めるのか、こっちが知りたいですよ! ああ、言わなくていい!言わなくていいですから! 知ってます、全部知ってますから!」
 主に校舎施設、および、什器の破壊損壊。それから前触れなく突発的に勃発するイベントが主な理由だ。
 食堂の従業員がある日突然メイドさんの集団になっているくらいは序の口、新制服と称してシースルーのセーラー服を開発してみたり、茶道部を巻き込んで耳かき茶屋を始めてみたり、空き部屋をショットバーに改装したりと、無茶っぷりは時を経るごとに加速。水泳部の水着をスリングショットにすげ替えるは、映像研究会に着エロビデオを撮影させようとするわ、やりたい放題したい放題。
 一歩間違えれば警察のご厄介になりそうなことまで、よくこれだけの悪行を成せるものだと感心するくらいなのだ。
「だいたい、先輩はいつも……!」
「ま、まぁまぁ、タカ君落ち着いて……」
「そうだぞー、貴明。怒ったところで現状打破にはほど遠いぜ」
 見かねてとりなしに入ったこのみの声に、やたら脳天気な声が続く。見ると、今日発売の漫画雑誌を机に伏せてこちらに向き直る男子生徒がひとり。かのタマ姉の実弟、向坂雄二だった。
「使っちまったモンは戻らないんだし。ま、気楽に行こうや」
「そんなこと言っても、このままじゃいくつかの行事の中止だって検討しなきゃいけないんだぜ? 気楽になんてできるかよ」
「俺的には、水泳大会と学園祭と体育祭だけやってくれりゃいいさ」
「なんでそのチョイス?」
「スク水とコスプレとブルマー」
 その言葉に、本人とまーりゃん先輩を除く全員の頭がガクンと落ちた。
 タマ姉が卒業してからというもの、文字通り我が世の春を謳歌している雄二だが、今日も相変わらずの飛びっぷりのようだった。
「うはは、その意見にはあたしも賛成だ。ゆーりゃん、なかなかイケてんじゃんよ」
「お褒めにあずかり光栄にございます、閣下」
「うむ、くるしゅーない。精進していれば、あたしの足を舐めさせてやっても良いぞ」
「それはご遠慮いたします、閣下」
「てめー、打ち首だコノヤロー」
 ああ、タマ姉が恋しい。なんでタマ姉はダブらなかったんだ……。
「ともかく……」
 偏頭痛を覚えたのは俺だけではなかったらしい。先ほどから黙って事の成り行きを見守っていた久寿川先輩が、額に指を当てながら重い口を開いた。
「残高グラフが右肩下がりなのは憂慮すべき事態です。生徒会員の節制節約はもちろんのこと、状況によっては先ほど河野さんが言っていたように、一部の行事の開催中止も視野に入れざるを得ません。……柚原さん」
「あ、はい」
「残りの……、と言ってもまだほとんど未消化だけれど、開催予定行事を読み上げていただけますか。始業・終業式、および、各種テストについては割愛してください」
「はい、えーっと……」
 久寿川先輩に言われて、このみが手元のノートに記載してある項目を読み上げる。
「修学旅行、PTA懇談会、エコロジー大会、学校協議会……」
 列挙されていくのは、去年一昨年にも行われた行事の数々。めぼしい新規行事もないようで、誰もが思いつく定番イベントの目白押しと言ったところだ。レクリエーション的なイベントも、さして多くはない。
 逆に言えば何かを中止した時のインパクトはそれだけ大きいと言うこと。それどころか、このまま予算食いつぶしが進行していけば、確定イベント以外は全て中止と言うことにもなりかねない。やめるわけにはいかないと言っても、無い袖は振れないのだから。
「――以上が今年度の全行事、……です」
「ありがとう。……やっぱり厳しいみたいね。どうやりくりしたものかしら……」
 久寿川先輩が漏らした弱音を呼び水に、なんとなく俯いてしまう一同。もちろん、約一名はどこ吹く風で元気いっぱいなのだが。
「まー、何とかなるって、うん。今までも何とかなってたわけだし」
「それは久寿川先輩が苦労してたからじゃないですか……」
「うおぅ、そうなのか!?」
「そうなのかじゃないですよ。一昨年なんか、実質久寿川先輩だけで予算のやりくりしてたっていうじゃないですか」
「すげー、さすがあたしの嫁だ。ちょっと泣き虫だけど、たぶん、世界一の嫁です」
 そう言って、何やら目をウルウルさせるまーりゃん先輩。そして勢いそのままに、「ありがとうという言葉を、あたしもひとつ風に飛ばしたい!」などと窓の外に向かって叫び出す始末。相変わらずわけの判らない人だ。
 世界一のお嫁さんだと思ってるなら、そんなくだらないフレーズを考える前に、少しでも伴侶の苦労を減らす努力をしてほしいもんだが、どうせこの人に言っても暖簾に腕押しなんだろうなぁ。
「――って、どうしたの?」
 ふと気付くと、机の端っこでむこうを向きながらぷるぷると震えている女生徒の姿。
「郁乃ちゃん?」
 この春から生徒会に入会した、現生徒会書記・小牧郁乃ちゃん。同級生の……、もとい、元同級生の小牧愛佳の妹さんである。というか、今では郁乃ちゃんが俺の同級生になっているわけだが。
「なんでもない……。ただ、ちょっと目眩が」
 車椅子のグリップを握りしめながら、何やら苦悶の表情を浮かべている郁乃ちゃん。
 もともと身体の弱い子なのでたまに体調を崩すことがあるが、今日も具合が悪いのだろうか? 手術自体は去年に終えているとはいえ、闘病生活長かったらしいしなぁ。
「体調悪いの?」
「大丈夫……。えっと、まーりゃん先輩、そのフレーズをどこで……?」
「にっふっふー。壁に耳あり障子にメアリー。トムはジェーンとしっぽりなー」
「いや、意味分かんないんですけど。とりあえず、あとでちょっとお話が」
 ぎりぎりと音を立てそうな挙動で向き直ると、これまたきりきりと軋みを立てそうな感じで笑い顔。なんだ? どうしたんだ?
「まーとにかく、さーりゃんももちろんだし、今期は副会長にこのみん、会計にタカりゃん、書記にいくのんと、歴代最強の布陣なわけじゃん? 心配いらねってばよ」
「あのー、まーりゃん先輩、俺は……」
「あれ? ゆーりゃんまだいたの?」
「ヒドい!」
「そういえばキミ誰だっけ」
「いま"ゆーりゃん"って言ってたのに!」
 歴代最強ねぇ……
 あらためて生徒会室の中を見渡してみれば、上座についた久寿川先輩の隣にはこのみの姿。
 そう、現生徒会副会長は、すったもんだの末にこのみと相成っているのである。ちなみに選抜理由は「マスコットっぽいから」。まーりゃん先輩の一存であることは言うまでもない。
 そして会計は前期に引き続いて俺が担当し、書記には郁乃ちゃんがついている。
 まぁ最強かどうかはともかく、それなりにバランスの取れたメンバーではある。
 副会長の人選はちょっと危なっかしいけど、このみの場合はなんだかんだでみんながサポートしてくれるし、郁乃ちゃんは郁乃ちゃんで頭の回転が早い。久寿川先輩についてはいまさら言うまでもない。
 ホント、OGの存在だけがなぁ……。
「な、なぁ貴明。お前もいま俺のことハブにしなかったか?」
「気のせいだ」
 勘の良いヤツ……
「そんなことより」
 パンパンと手を叩いて、散逸しがちな注意を元に戻す。
「予算の話をなんとかしないと」
 現実逃避は、言い換えれば『"現実自体"は逃避してくれない』ということだ。わいわいやっていたって、予算は戻ってこない。
 悩みの種を放っておけば芽を出し葉を出し、天にも届いてしまうだろう。そうなる前に、少しでも話を前に進めておく必要があるのだ。
「よーさーんー?」
 ……が、現実逃避の塊みたいな人は、相変わらずこちら側に戻ってくる気はないらしい。
 つーかさぁ、マジで話が進まないんだけど……。
「まぁだそんなこと考えてたのかよタカりゃんは。女々しいなー」
「女々しいとかそういう問題じゃないです……。っていうか、なんてカッコしてんですか!」
 見ると、そろそろダレてきたのか、足を放り出して半分寝そべりの体勢に入っているまーりゃん先輩。その上片足を立ててるモンだから、スカートの中身が全開だった。
「せめて足を閉じてくださいよ。まる見えなんですが」
 ……本日のお召し物はしましまか。白地にピンクのストライプ。
 相手が相手ならドキドキもするんだろうけど……。
「おお? タカりゃんめざといなー。油断も隙もありゃしねえ。このスケベ大魔神! 見たいか? ほれほれ見たいか? あたしのしまパンを!」
 そう言いながら、ますます足を開いて高笑いする先輩。
 ……何というか、世にこれほどそそられない女子パンツもなかろうと思う。
 というか、もういいかげん慣れっこになってしまった。ぶっちゃけ、その中身すら知ってるわけで……、あ、いや、なんでもないです。忘れてください。
「とにかくもう、姿勢を正すなり机から降りるなりしてくださいよ。会議中なんですよ」
「ちぇ、反応悪ぃの。もうパンツごときじゃ興奮しねえってか? それならこっちにも考えが――」
「先輩……」
「あん? なんだよさーりゃん」
「河野さんが困ってます。そろそろ大人しくしてていただけませんか」
「えー、なんだよなんだよー。つれないなぁ。さては、さーりゃんも混ざりたいんだなー?」
「は、はい?」
 取りなしに入った久寿川先輩に、いきなりムチャ振りし始めるピンクの悪魔。混ざりたいわけないだろう。
 ……いや、久寿川先輩ならあり得なくもないか。むしろ、そう思ってなくても『そうです』と言いだしかねん。
「みなまで言うな! 判ってる、判ってるって。そうだな、タカりゃんとばっかり遊んでて、さーりゃんの事、ほったらかしだったよな。寂しがるのも無理はない」
「あの、そう言うわけでは……」
「まぁまぁいいからいいから。ほら早く、机の上に乗って乗って!」
「あ、あの……」
「遠慮するなって、ほら」
「え、えっと。はい……」
 どうやら勢いに呑まれたらしく、目をぱちくりさせながら机に上る先輩。まーりゃん先輩とは違って上履きを脱いだのは感心だが、なんというかいろいろと間違ってる。
 それにしても、やっぱダメだったか……。
 どこまで行ってもまーりゃん先輩には勝てないんだ、この人。判ってはいたけど、こうまざまざと見せつけられるとガックリくるな。
「あー、そんな行儀良く座ってもしょうがねーだろ。ほら、もっと足崩して。違う違う、おにゃのこ座りじゃねえって。もっとがーっと! がばーっと! こう、無敵だぜオラァ!みたいな、こう」
「そ、そんな座り方したら、スカートの中が見えちゃう……」
「何言ってんだ、『見えちゃう』んじゃねえ、『見せる』んだって。全世界に向かって生中継。お茶の間の皆さんに、さーりゃんの恥ずかしい部分をズームイン! 1カメこっちこっち!」
 ねえよ、カメラ。あっても阻止するよ。
「みんなもさーりゃんのパンツ見たいよなー!」
「おーっ」
 もちろん返事をしたのは雄二だけ。このみと郁乃ちゃんは、頬を赤くしたまま目を逸らしっぱなしである。
「ほらほらー、期待されてることだし、ここは行くっきゃねーよなぁ?」
 可哀相に、おろおろとどうしたら良いか判らない風の仔羊に悪魔の追い打ち。久寿川先輩の耳に寄せられた唇から、蠱惑の囁きが注がれる。
 ……あと数秒ってとこかな。
「でも……」
「きっちりアピールすれば、タカりゃんも悩殺できるかもよ……?」
「……え?」
「さーりゃんのセクシービームで人類消滅。想い人の理性を焼き切って、後は煮るなり焼くなりしたい放題ヤリたい放題。二人っきりの生徒会室で迫られちゃうかも……」
「…………」
 ぽっと頬を染めた久寿川先輩がこちらに視線を流してくる。
 ……だめだ、こりゃ。
「わ、私……」
 潤んだ瞳と、赤く染まったうなじ。横座りになって流し目を送ってくる様は何とも色っぽい。
 しかし、陥落まで2分か……。前はもうちょっと頑張ってたんだけどなぁ。
「頑張ってみよう、かな……」
「キターーーーー!!」
「せ、先輩! ダメっ! 落ち着いてくださいっ!」
 さすがにマズいと判断したこのみが久寿川先輩を止めに入る。すっかりできあがって、服を脱ぐ脱ぐと言い張る生徒会長を必至になって制止。ああ、このみも少しは頼れるようになったのかな。
 その横では、やんやの囃子を送るまーりゃん先輩と雄二。こっちは日を追うごとに堕落していくようだ。
 そして郁乃ちゃんはと言えば、累が及ぶのを怖れたか、既に生徒会室から出て行ったらしく姿が見えない。相変わらず賢明というか、ちゃっかりしている。


 最後に残された俺は、騒ぎに参加する気力も、この場から立ち去る勢いもなく、相も変わらず続いている狂乱の中、どっかりとパイプ椅子に座り込むばかりだった。大きくついたため息が、予算記録ノートのページをそよと揺らす。


 ――どうやら、今日も内容のある会議は無理っぽい。このままで、はたして今年度を無事に乗り切れるのか。


 ホント……、これからどうなるんだろう。



―――――――――――つづく
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