透明人間に告ぐ 〜前編〜
ミステリ研活動中!
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     プロローグ


「我は求める。我は訴える。神の名の下に、汝、精霊バエルを呼び起こさん」

 朗々と、雲のたなびきのように声は流れ、消える。
 薄暗い部屋の中、僅かに灯るキャンドルライトが、その少女の声に呼応するかのように灯火を揺らし、壁に少しだけ映りこんだ影が不規則に震える。床に置かれた香炉からは花の香りを乗せた煙が立ち昇り、普段は埃っぽい匂いが充満する部屋を、流れ行く声と共にうっすらと支配していた。

「あらゆる者の創造主、その至高の名の下に命ずる。あらゆる存在が跪く、その王の名の下に命ずる。万物の威光、すべての命の源たる神の名の下に命ずる」

 カーテンを引いた部屋の中は外界から隔絶された異世界のようであり、今まさに秋晴れの空が表に広がっていることを、この時ばかりは忘れそうになる。
 整理されているのに雑然とした部屋。静かであるのに騒がしい部屋。中央にいつも置いてあるテーブルは今は片隅に追いやられ、代わりに黒いシートが広々と敷いてある。
シートには白い線で幾重かの円が描かれており、円の中と周囲には、五芒星、六芒星、あるいはとりどりの文字による装飾が施されていた。
また、シートの上方には、三角形と文字で装飾された図形が描かれたシートが別に敷いてあり、その中央に丸い鏡が置かれている。その鏡の鏡面は黒く塗られており、キャンドルライトの灯火を僅かに映している他は、ほとんど何も映っていなかった。

「我はいと高き者の代弁者。我が命に応じよ。神によって生まれ、神の意思をなす我が命によって従い、現れよ」

 終わることを忘れたオルゴールのように、少女の声は続く。
 歌声の主は、シートの中央――描かれた魔法円の中に立っている。
 黒い三角帽子、黒いマント、左手には魔法書を携え、右手を中空に差し出して、視線はしっかりと前方に設置された黒い鏡に注がれていた。
 年の頃は16、7といったところか。真剣に結んだ表情は、しかしまだあどけなさを残した少女のそれであり、黒衣の下のセーラー服に包まれた身体つきはいかにも華奢だ。
 その少女の後方、部屋の入り口に近い場所から3つ並べられた椅子に、3人の男女が座っている。1人は興味津々と言った様子で、1人はぼんやりと何を考えているのかわからない表情で、もう1人は半信半疑に苦笑した様子で、じっと魔法円に立った少女の動向を見つめていた。

「アドニー、エル、エルオーヒーム、エーヘイヘー、イーヘイヘー」

 唱える文言が架橋に入ってきたのか、少女の声に力がこもる。
 それは祈りの歌。
 遥かな時の彼方に忘れられた神秘の歌。

「アーシャアー、エーヘイエー、ツアバオト、エルオーン、テトラグラマトン、シャダイ」

 それは願いの歌。
 幾星霜の想いを宿した儚い声。

「いと高き万能の主の名の下に、汝、精霊バエルよ」

  ――と
 黒い鏡が一瞬だけ揺らめいた――そんな、気がした。

「しかるべき姿で、いかなる災いもなく、我が前に現れよ!」


     1


 夏休みが終わり、衣替えも済んでしまった10月初旬。9月中はまだ残り香の濃い夏休み気分も、この頃になればもうすっかり抜けきって、今度は目前に迫った数々のイベントに頭を悩ませる毎日に包まれる。
 本分たる学業においては中間テストという名の試練。学校生活の楽しみたる各種行事においては体育祭の準備に追われ、そしてその後には、おそらく全校生徒にとって最大のお祭りである文化祭が待っている。
 夏の間は運動部に主役の座を奪われていた文化系クラブの面々も、この時ばかりは学校の主役。日頃の研究成果や練習成果を存分に発揮して、なんとか自分たちの努力を認めてもらおうと、授業後の各部室においてはそれこそ戦争状態の様相を呈する。
 無論、それは"末端"と呼ばれる部活においても例外ではない。ここ、体育館第二用具室に居を構えているミステリ研究会でも、来る文化祭に向けて、最近とみに活動が慌しくなっているところだ。
 先ほどの怪しげな儀式もその一環である。ミステリ研らしい催しを、という議論の中で『魔法の実践』が筆頭に挙げられたために、部長である笹森花梨を術者として、悪魔召喚の予行演習ということに相成ったのだ。
 結果はあいにくというか案の定というか、あっけなく失敗に終わり、悪魔どころか蟻の子一匹鏡から出てくるものはなかった。
「あーもう…うまくいかないなぁ」
「ふふ、残念でしたね…。でも、焦ってもうまくいかないし、地道に繰り返し試してみれば良いんじゃないかな」
 締め切ったカーテンとガラス窓を開け、外の光を取り込みながら、草壁優季はがっくりと肩を落として悔しがる笹森花梨に微笑みかける。
「大昔からの、秘められた術だからね。えっと…どのくらい昔からあったのかな」
「旧石器時代」
 優季の疑問に花梨が即答する。
「でもその頃の術式は、魔術というよりは、シャーマニズムだから。今で言う、魔術とか魔法っていわれるものが形として成り立ったのは、文明ができてから。近代魔術が確立されたのは17世紀に入ってからだけど…、それでも300年。古代魔術からなら5000年も昔からあるんだよね。それだけ長い間研究されてきて、体系化されてきたのに、どうしてみんなが使えるようにならなかったんだろう?」
「うーん…」
 口に手を当てて、優季は花梨の疑問を頭の中で反芻する。うつむき加減になった首筋から、黒く長い髪がひと房、さらりと前に垂れた。
「どうしてかな…。なるべくみんなが使えないように、大切なことをあえて伝えなかったとか?」
「えー、でもそれだったら、こんな魔法書なんて最初から作らないんじゃないかな」
 そう言って、花梨は手に持った本に目を落とす。
「それもそうだね」
「あーあ、本の通りにやったんだけどなぁ。練習が足りないのか、それとも何か道具が足りないのかなぁ」
 行った術式は、『ソロモンの王の小さな鍵』における、精霊バエルの召喚式。バエルとは、66の軍勢を率いて魔界の東を統治する王だ。
 72種ある召喚式の内、なぜこの精霊が選ばれたかは定かではない。が、花梨の性格から推して、おそらくは本の最初に載っていたからだろうと優季は思っている。
 それにしても、かのベリアルなどと並んで"王"のランクに位置するバエルをしょっぱなから召喚しようというのだから、無謀もここに極まれりだ。
「まぁ、草壁さんの言うとおり、そんなに簡単にはいかないんじゃないの?」
 そう言って花梨の肩を叩いたのは、研究会の黒一点、唯一の男子会員である河野貴明である。女の子のように中性的な顔立ちが印象的な男の子だ。
「秘術っていうくらいなんだから。何年も修行したりとか」
「そんなに待ってたら文化祭終わっちゃうでしょ。あたしは、いますぐ使いたいんだってば」
「そうは言っても…。ていうか、その本ってどこから手に入れたわけ?」
「これ?」
 手に持った本。その表紙には、『魔導書 ソロモンの鍵』と書かれていた。…日本語で。
「名駅地下街の三省堂書店だけど? えーっと、ISBNコードが4の576の…」
「…いや、そりゃ無理じゃないかな」
「えー、だって1800円もしたんだよ?」
「いや、金額の問題じゃなくて」
 …と、その時、壁際で三人のやり取りを聞いていた少女が、不意に口を挟んだ。
「それは興味深いな」
「え?」
 光にすかして向こう側が透けて見えそうな薄い桜色の髪の少女だ。名はるーこ・きれいなそら。宇宙人だと自称しているが、アメリカはカリフォルニア州出身の交換留学生というのが、学校における登録身分である。
 彼女はつかつかと花梨の方へ寄ってくると、ひょいとその魔法書を手に取った。
「"るー"では、こういった呪術の類は書店では売らない。親から子へ、口伝によって継がれていくものだ。いや、"るー"に限らず、こういった秘術の類は、どこの星へ行っても普通は公ではない。まして、通常の商店において金銭で取引されるなどありえない。隠されている。なのに"うー"では開かれているのだな。画期的だ」
「いやいや、違う違う! これはインチキ――」
「ちょっと、タカちゃん! インチキって何よ!」
「ふむ…、様々な術があるな。健康祈願、危機回避、大願成就…。人心掌握まであるのか。これは"るー"に持ち帰って研究材料とするべきだ」
 先ほどから口にしている"るー"とは、彼女の言うところの故郷である大熊座第47番星のことらしい。あくまで自称だが、本人はその星からやってきたと公言してはばからない。また、"うー"というのが地球、あるいは地球人のことを指しているようだ。
 もっとも、"るー"にしろ"うー"にしろ、その時々によって意味合いが微妙、あるいは大幅に変化するので、会話の相手はなかなかに大変である。
「だから! それは違うんだって!」
「違わないってば!」
「るー…。本物か偽物か、はっきりしろ。うーき、お前はどう思う」
「私ですか?」
 うーき、とは、るーこが優季を呼ぶ際の呼称である。
「そうだね…信じるものは救われる…ではないけれど」
 そう言って優季は少し舌を出す。イタズラっぽそうに、黒い瞳が少し光った。
「本物だ、って思ったほうが面白そうだね」
「うんうん! そうだよね、そうなんよね! ふふーん、優季ちゃんもあたしの味方だってさ。るーこちゃんも、信じるよね?」
「体系化された術であれば、それは呪、あるいは祝という理によって定義される。すなわち、言語、あるいは図形として出力されることが可能と言う意味であり、書物に反映させることもできる。反映できなければ、それはただの観念であり、定義された理論とは言えない。もちろん、その本の内容は精査してみないとなんとも言えないが、少なくとも現段階では偽物だと判断する材料は特にない」
「よっし!これで3対1だね。観念しなさいタカちゃん!」
「いや、3対1って…。草壁さんも、この人たちにあんまり滅多なことを言うのは…」
「あら、貴明さんは、笹森会長の言うことが信じられませんか?」
「え? ああいや、そういうわけじゃ…」
 困った顔の貴明を見ながら、優季は淡く微笑む。
「だめですよ? 私たちはミステリ研究会の会員さんなんですから」


 そう、優季たちは紛れもなく、この弱小クラブ・ミステリ研究会の会員である。
 きっかけは、今から半年ほど前、桜の花がまだ満開だった頃に遡る。
 当時ミステリ研究会に登録されていたメンバーは、会長である笹森花梨と、河野貴明の2人だけ。クラブ活動が認められるには、最低でも正会員2人と準会員以上1人の計3人が必要であるから、"部活"にはもちろん満たず、"同好会"の要件すら満たしていなかったのだ。
 かろうじて正会員が二人いたので、なんとかお目こぼしで活動は認められていたのだが、吹けば飛ぶようなクラブであったことは誰の目にも明らかだった、その上、以前に活動が認められていたオカルト研究会の噂があまり芳しいものではなかったせいか、露骨に嫌悪の表情を見せる教員も少なくなかったらしく、風の噂に優季が漏れ聞いた話だけでも、「どの程度の期間活動が継続するかのトトカルチョが行われていた」「裏でクラブ潰しの専属チームが結成された」「ミステリ研究会の話題を職員室で口にすると減棒される」「顧問に任命された教師が欝病を患った」など、悪評もこれだけ徹底されればいっそすがすがしいというようなものであった。
 もちろん、優季とて、普通に高校生活を送っていれば、ミステリ研究会に入部するという選択肢はなかったろう。別にオカルトが嫌いというわけではないが、入部する理由が特にない。転校してくる前は文芸部に在籍していたので、この学校でもそうなる可能性が最も高かったのだ。
 しかし、たいがいの場合において、運命などというものは本人の意思とは無関係に動いていく。
 転校の少し前に、彼女は人とは違う、不思議な体験をした。
 それについての詳細はここでは触れない。少しだけ言えることがあるとすれば、それは魔法あるいはファンタジーといわれるカテゴリに属する体験であり、また、河野貴明と深く関係する話であったということだ。
 その後、彼女は無事に今の高校に転向してきたのだが、それから数日もしない内に笹森花梨に目を付けられることになる。

 それは、何の変哲もない水曜日の昼下がり。優季が同じくこの時期に転校してきていたよしみで仲良くなったるーこと一緒に、体育館前を何気なく通り過ぎた時のことだ。

「る? …るー…」
「どうしたの、るーこさん」
「何か来る」
「え?」
「気をつけろ、うーき」
「え? え? 何に?」
「ちょーーーーーーっと、そこの2人、止まりなさいっ!」
 何やらヘンな箱のようなものを抱えて、目をギラつかせながら2人の下へ全力疾走でかけてくるお下げ髪の黄色っぽい女の子…それが笹森花梨だった。後ろに河野貴明を従えて。
「え? あの? えっと…? な、なんですか?」
「ズバリ、あなた宇宙人ね!」
「は?」
 いきなりの意味不明な指摘。しかし、これにいち早く反応したのが、普段から自分を宇宙人だといってはばからない桃色髪さんだ。
「るー、見事だ。よくわかったな」
「え? あの? るーこさん?」
「やっぱり! この花梨ちゃんの目に狂いは…」
「ちょっと待て! 違う! るーこもヘンなこと言っちゃダメだろ!」
 割って入ったのは貴明である。
「何が違うのよ、現にいま『よくわかったな』って」
「いや、だから、るーこはアメリカのカリフォルニア州出身の…」
「違う。るーは大熊座第47番星『るー』から、光より早い光に乗ってやってき…」
「頼むからちょっと黙ってて!」
「るぅ…」
「大熊座!? 光より早い光!? ねえねえ、それ何? るーってどこの星? そのピンク色の髪って地毛なの? UFOはどこにあるの? お仲間も来てる? うわ〜、本物の宇宙人って初めて見るよ〜。見た目、人間と変わらないんだぁ」
「いや、そうじゃないって! 笹森さん、ちょっとは疑うことを覚えようよ!」
「ちっちっち、そうじゃないんだなぁ、まずは信じることから、第3種近接遭遇の可能性が開けるんだよ?」
「遭遇はともかく、真偽のほどは…」
「このUFO探知機が反応したんだから、それで確定でしょ!」
「そんな出来損ないのコンパスで宇宙人が見つかるわけないだろ!」
「で、出来損ないの…コンパスですってぇ〜! ちょっとタカちゃん! 今のは聞き捨てならない…」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 怒涛の展開についていけなくなり、優季が間に割って入る。
「あの、さっきから何の話を…。それに、貴明さんも、こんなところでいったい何を?」
「え、あれ? 草壁さんじゃないか」
「お久しぶりです、貴明さん。こういう形で再会するとは思いませんでしたけれど」
「え? 何? タカちゃんと…えっと…」
「優季です。草壁優季」
「草壁さん? 2人とも、知り合いなの?」
「ええ、小学校の時の同級生です」
「ふ〜ん…。じゃあ、草壁さんの方は宇宙人じゃないのかな」
「あの、なぜ私たちを宇宙人だと?」
「ああ、それはね」
 そう言って、手に持った箱を2人に見せる。縦横30センチくらいの透明なプラスチックケースの中に、目覚まし時計と、磁石か何かを組み合わせた棒、それから何本かのリード線が組み込まれている。どうやら、棒がリード線に触れると目覚まし時計が鳴る仕組みになっているようだが、用途は全く不明である。
「このUFO探知機が反応したからだよ〜ん!」
「……えっと、今なんて?」
「だ・か・ら、UFO探知機が反応したから、だ・よ〜ん」
「……あの、貴明さん」
「ごめん、草壁さん。笹森さん、本気で言ってるから」
「UFOとは星間航行艇のことか? ほう、見かけによらず高性能なのだな。うーの科学レベルも侮られたものではないようだ」
「え?そう?やっぱり? いや〜、るーこちゃんだっけ? 話がわかる〜!」
「だから! ……いや、もういい」
 色々言いたいことはあったようだが、どうやら貴明はツッ込みを放棄したらしい。花梨だけならともかく、るーこも一緒では勝ち目がないと思ったのだろう。
「それじゃあ、るーこちゃんと…それから念のために、草壁さんも部室に来てもらおうかな。色々聞きたいこと、たっくさんあるしね〜」
 その後、インタビューと称する雑談大会が日の暮れるまで続けられ…、いつの間にか2枚の入部届けに、2人のサインがしっかりと記されていた。
 以来、暴走娘・笹森花梨を筆頭に、貴明、るーこ、優季のカルテットで、怪しげながらもそれなりに楽しく活動してきていている。
 余談だが、悪名高いミステリ研が現在まで特に何事もなく活動してこれたのも、ひとえに優等生オブ優等生との誉れ高い草壁優季の存在が、教員たちを牽制しているからだと噂されている。


「会員、っていってもなぁ…。現に精霊なんて出てこなかったし」
「確かに、今回の儀式は失敗ですね…。やはり、私たちにはレベルが高すぎたんでしょうか?」
 先ほどの儀式で使っていた黒塗りの鏡は、今も何を語るでもなく、静かに時が流れるのを見つめているばかりだ。花梨の方を見ると、痛いところを突かれた、とでも言うかのように頭を抱えて椅子に腰を下ろしてしまった。
「失敗…うーん、何にも出てこないんじゃ、出し物にならないよね…。あーあ、文化祭まであんまり余裕ないのになぁ…。どうしよう、UFO観測会でもやろうかなぁ」
「…文化祭、昼間だけで終わるぞ。夜になったら後夜祭が盛り上がるだけで、みんな来ないだろ」
「そーうーだーけーどー…じゃあタカちゃんはなにか良い案あるの」
「…ごめん、ありません」
「るーこちゃんは?」
「ミステリーとは言えないかもしれないが、るーの故郷のことでも話してやろうか? うーの者にとっては、未知なる星だろう」
「あ、それ良いかも。『宇宙人るーこ・きれいなそら講演会』みたいな」
 どれだけの人がるーこを宇宙人だと信じてくれるかは不明だが、それは名案だとばかりに、花梨は姿勢を正す。しかし、続くるーこの言葉は予想の斜め上を行っていた。
「そうか。ならば100日間使える講演会場を確保しろ」
「…え?」
「偉大なるるーをうーの言葉に直して語るには、それだけあっても足りないくらいだ。民族、文化、風習、生活様式、歴史、地理、他星との交流、科学技術、るーの力、はてはるーパパやるーママのことまで思う存分語ってやるから覚悟しろ」
「…また今度ね」
 文化祭は一般開放日と学内限定日の2日しかない。それに100日あったとしても、我慢強く来てくれる人など皆無だろう。
「るー…100日では不満か? ならば200日間使える講演会場を…」
「優季ちゃん、なにか良い案ある?」
 なおもアピールするるーこから強引に目をそらしつつ、花梨が優季に意見を求める。優季は少し考えて、思いついたことを口にした。
「そうですね…。占いとかどうですか?」
「占い?」
「ええ。普通の占いじゃなくって、今日やった魔術みたいな…。そういう本格的なものなら、ミステリ研究会らしいんじゃないかな」
「なるほど…占いかぁ。魔術は占いから派生したものなわけだし、うん、それいいかも!」
「会場はこの部屋でも、ちゃんとポスターやガイドに地図を載せておけばいいでしょうし」
「でも草壁さん、こんな体育用具室じゃ雰囲気でないんじゃないか?」
「飾りつけをちゃんとすれば大丈夫ですよ。暗幕で周りを隠して、蝋燭とかランプを灯りにしておけば、雰囲気はばっちりです」
「そうか、そこに、それ系の道具とかを散りばめておけば…」
「おおっ、タカちゃんもやる気になってきたね!」
「え? あ、いや、そんなんじゃ…」
「うんうん、よきかなよきかな。じゃあ、早速占いについて調べ物に行こうか」
 そう行って椅子から飛び起き、先ほどとは打って変わった元気な様子で花梨は部室の入り口へ向かう。
「ほらほら、みんなも早く! 今日のこれからの活動は、各自『占いの調査をする』だよ! あたしとタカちゃんは図書室に行って本を見てくるから、優季ちゃんとるーこちゃんもがんばってね!」
「おい、何で俺も図書室になってんだよ!」
「いいからいいから、ほら、さっさとする。時間は有限、努力は無限!」
「あ、花梨さん、先にここ、片付けないと」
「あー、ひょっとして占いに使うかもしれないし、そのままにしといて」
「そうですか。…じゃあ、るーこさん、私たちは本屋さんにでも行きましょうか?」
「うむ。仕方ない、協力してやるから感謝しろ」
「じゃあ、成果報告は明日ね。今日は解散!」


     ※


 魔術、あるいは魔法と呼ばれるものについて人々が抱くイメージは、おおよそ次のように分類されるだろう。
  1.現実に存在する
  2.存在しない
  3.ないと思うけど存在してほしい
 この内、日常において魔法と関わることになるのは、はたしてどのカテゴリに属する者だろうか?
 これについて、筆者は「1〜3すべてに可能性は存在する」と考える。
 もちろん、魔法と言うものの存在に"自発的"に関わろうと言う意思を持ち、また実践に移すのは1に属する者しかないだろう。笹森花梨などは良い例である。
 しかし、そういう意思を持っていたからといって、おいそれと魔法体験ができるわけではない。まがりなりにも闇の方術なのだ。
 故に、哀れな一般人においては、仮に魔法に関わることがあるとすれば「何らかの事件に巻き込まれる」というシチュエーションが最も可能性が高く、そしてそういう場面では、魔法を信じる信じないは関係ない。そこで語られるのは『運』と言う要素一点のみだ。
 そして――この世には、生来的に運の悪い人間と言うものが、少なからず存在する。

  コンコン

 体育館第二用具室の扉を軽くノックする少年が一人。
「ん? 誰もいないのか?」
 赤毛の髪と、すらりと伸びた体躯。切れ長の目に彫りの深い顔立ち。河野貴明の友人、向坂雄二がノックの手も手持ちぶさたに、冷え冷えとした体育用具室前の廊下に立っていた。貴明に用事があって、部室まで来たのである。
「今日は部活だって言ってたんだが…、ってあれ? 開いてんじゃん」
 何とはなしにノブを回してみると、くるりと反転して扉が僅かに開く。雄二はそのまま扉を開けて、中に踏み込んだ。
 ――もし、彼がこの時、誰もいないことに諦めて引き返してさえいれば、後に続く惨劇は起こらなかったであろう。また、起こっていたとしても、あれほどの大惨事にはならなかったであろう。
「おじゃましまーす」
 中に入ると、そこは魔術儀式の行われたそのままの状態が保たれた、怪しげな様相を呈している。カーテンは開かれているので光量こそ充分だが、蝋燭に香炉、魔法円にトライアングル、黒塗りの鏡など、いかにもといったアイテム満載の風景はなかなかに見る者を圧倒する。
「うわ、すげえな…。けっこう本格的にやってんだな」
 きょろきょろと物珍しそうに雄二は周囲のあれこれを物色する。入部するつもりはないが、こういったアイテムを間近で見るのは初めてのことなので、ついつい見入ってしまう。
 そして、雄二は一冊の本に目を留めた。
「『魔導書 ソロモンの鍵』…?」
 それは先ほど花梨が儀式に使っていた魔法書だった。
「なんだこりゃ、バーコードが付いてる。本屋でこんなもんが売ってるのか?」
 "にせものです"と全力で主張しているかのような書物に思わず苦笑する雄二だったが、他にすることもないので、とりあえず読みながら貴明を待つことにしたようだ。鍵が開いていたのだから、その内帰ってくるだろうと言う算段だ。
「ソロモンって、なんか聞いたことあるな。確か映画でそういうのがあったような気がするが…」
 つらつらと斜め読みしながら、ぺらぺらとページを繰っていく。本の内容は意外に多岐に渡り、魔術の歴史からメカニズム、基本訓練、そして実践編として護符の作成と、精霊召喚の儀式と手順が事細かに記されていた。総ページ数は200ページあまりと小ぶりな書物だが、内容はかなり力の入った作りである。
「魔王バエル…?」
 ふと、雄二の目にある精霊のページが目にとまった。くしくもそれは、先ほど花梨が召喚しようとしていた魔王バエルだった。中でも雄二の目を惹いたのは、バエルの持つ能力について言及された部分である。
「人を…透明にする能力がある?」
 最も醜悪な容姿の悪魔として名高い魔王バエル。変身を得意とし、召喚した術者に変身術を与えることでも有名であるが、主に語られるのは不可視の術の方であろう。悪巧みに優れ、術者に姦計を授けることも合わせ、召喚する側のモラルが問われる悪魔であることは間違いない。ましてや、性愛や官能について並々ならぬ知識をもち、人を堕落させることを喜びとしているのだから、余計にタチが悪い。
「透明…か。便利そうだな…。主に女子更衣室とか女子トイレとか女湯とか…」
 雄二の頭の中にピンク色の妄想が広がっていく。すでに何人かの女子が裸に剥かれているようだ。透明人間になってすることが覗きというのも貧困な発想だが、ある意味男の夢であるのだろう。とりあえず、こういう輩に召喚されるべきではないことは論を待たない。
「うひょ、うひょひょひょ…。いや、いいねいいね。秘密の花園に何食わぬ顔で忍び込み…。くあー、前から拝んでみたかった奴、いるんだよなあ。久寿川先輩とか、隣のクラスの長瀬とか、こないだ転校してきた草壁とか、るーこちゃんとか、ウチのいいんちょとかもイイ感じだし…。うぉあー、覗いてみてえー!」
 はたから見ればまるっきり変態の言動だが、かろうじて部屋には雄二一人だけなので問題はない。しかし、もう少し品のある行動を心がけてほしいものではあるが。
「いや、いやいや、待てよ。それよりも、姉貴の恥ずかしい写真でもゲットした方が後々のためにいいかもしれんな…。隠しカメラだと設置場所に困るが、透明人間ならアクティブに動けるし…。おお、我ながら名案じゃねえの?」
 今年の春先に実家に戻ってきたひとつ上の姉、向坂環の暴君ぶりに辟易している雄二である。たちまち姉を屈服させた際のイメージを増大させて、一人悦に入っていた。
「まずはメイド服を着せてだな、俺を呼ぶときは『雄二様』って言わせるようにするのは基本だよな。メシは当然俺の好物オンリーで、時々肩揉ませて、背中も流させて、夜は寝るまで添い寝させて、『雄二様、もうお眠りになられましたか』『いや、まだだ』『あらあら、では羊を数えましょうね』………? って、いや、何考えてんだ俺は」
 少し危険な方向に進みそうになった頭を無理やり振り回して正気を保とうとする雄二。もう一押しで禁断の道に入りそうな勢いだ。
「とにかく、この精霊だか悪魔だか、マジで呼び出せたら最高だなオイ。っていうか、マジ来いって感じ。いや切実に!」
 そうとう鬱憤が溜まっているのか、身悶えしながら叫ぶ雄二。神頼みもここまで来ると哀れを誘う。
 やがて興奮してきたのか、傍らに置いてあった三角帽子を被ると、雄二はそのまま魔法円の中心に膝を突いて、逡巡する様子もなく土下座を始める。
「神さま仏さま悪魔さまバエルさま! どうか哀れな子羊の願いをお聞き届けください! 一日だけ、ほんの一日だけでもいいんです、どうかこの向坂雄二めに、透明人間になる力をお貸しください! 一日あれば、あの暴君の如き姉を黙らせ、我が心の平穏が約束されるのです! ああ、どうかこの哀れな子羊めにお慈悲を〜」
 いい加減、哀れどころか少々イタい様相を呈してきているが、本人は至極マジメなようだ。頭を床にこすり付ける勢いで平伏し、不毛な願いをここぞとばかりにぶちまける。
 だが、数秒して熱が冷めてきたらしく。魔法円から出ると、先ほどまで座っていた椅子にどっかりと腰を下ろして、肩を落とした。
「……はぁ、何やってんだか。小学生か俺は」
 かっと雄二の耳が赤くなる。さすがに土下座して願い事はやりすぎたと気づいたらしい。
「貴明の奴も来ねえし…。帰るか、もう」
 特に重要な用でもなかったらしく、雄二は本をもとあった場所に戻すと、さっさと部室から出て行った。妙なパフォーマンスをしていたことが恥ずかしかったのもそれを手伝っていたのだろう。
 いずれにせよ、ゆっくりしていなかったせいで、彼は自分がしたことの意味と、それがもたらす結果にこの時は全く思いが至らなかった。

 雄二が部室から出て行った後の体育館第二用具室に描かれた魔法円…。その前方に設置された黒塗りの鏡。
 その鏡面がゆらゆらと揺らめいていることを知る者は、この時はまだ、誰一人いない。


     ※


「四柱推命、タロット、水晶占い…。うーん、どれもインパクトに欠けるなぁ」
 魔術実験を行った翌日の昼休みの図書室。ミステリ研メンバーはその片隅に集まって、昨日の調べ物の成果の報告と、継続の調査を行っていた。
 とはいえ、一日、しかも早めの終了だったとはいえ、部活動後の僅かな時間のみでは芳しい成果は得られなかったらしく、一般的な占いの方法が提出されるのみにとどまっていた。
「魔術っぽい占いっていうと、水晶占い、タロット、ルーン占いってところだけど、どれもみんな知ってそうだしなぁ」
「でも、それっぽい格好でやれば、水晶占いなんか神秘的じゃないですか? 花梨さんの魔女装束、カッコいいですよ」
「えへ、そうかなぁ」
 褒められたのが嬉しかったのか、花梨が相好を崩す。しかし、すぐに何かに思い至ったらしく、元のローテンションな表情に戻った。
「あー…でも、水晶がないや。あれ高いんだよね」
「そうなんですか?」
「占いに使えるような透明で大きいのだと、安くても40万円くらいかなぁ」
「40万円!? そんなにするんですか…」
 値段を聞いて、さすがに優季も驚愕の表情を浮かべる。せいぜい5〜6万円くらいかと思っていたのだ。思えば水晶は宝石の一種なのだから、大きければそれなりの値段はするものなのだが、なぜかそういう印象が薄かった。
「それは買えませんね…」
「ルーン占いしようにも、肝心のルーンがないし。そうすると、せいぜいできるとしたらタロットかなぁ。でもミステリ研としては平凡すぎるよね」
「別にそこまで気にすることもないんじゃないか?」
 先ほどから黙って聞いていた貴明が会話に参加する。
「それなりの雰囲気だけ作っておけばさ。やたら大掛かりなセットが必要な占いとかだと、逆に引かれる気がするな。ジャブ程度で良いんじゃないか」
「そうかなぁ。あたしだったら、もっと凄く非日常的なほうが良いけどなぁ。サバトの集会みたいな」
「いや、笹森さんみたいなどっぷりはまってる人の意見は参考には…」
「ええー。じゃあ、優季ちゃんはどう思う?」
「私ですか? うーん…どちらにもそれぞれの面白そうなところがあるし…。でも、プロデュースする側からだと、あまり難しいことをやって失敗するよりは、簡単なものをそれらしく見せたほうがいいかもしれませんね」
「あ、そういう考え方もあるんだ…。そうか、昨日の召喚術も失敗したもんね」
「じゃあ、タロットで決まりか?」
「占星術とかも面白いかも。ホロスコープとか、けっこうそっれっぽいし」
「他にも、こっくりさんなんか女の子は好きですよね」
「こっくりさん?」
「ええ。占いは占いでも、降霊術に近いものですけど」そう言って優季はぺろっと舌を少し覗かせる。「私も子供の頃、友だちとやりましたよ。こっくりさん、こっくりさん、おいでください…って」
「だめ」
 不意に、貴明が優季をさえぎる。
「貴明さん?」
 見ると、何か複雑な表情をして小刻みに首を横に振っている。
「どうしましたか? だめって、どうして?」
「だめ。こっくりさんは良くない。それだけはだめ。特に笹森さんにやらせるのはだめだ。ロクなことにならない」
 どうやら、何か思い出したくない過去があるようだ。時折ブルッと身体を震わせて、怯えるように身をすくめている。
「ちょっと、タカちゃん、それどーいうイミ…」
「ま、まあまあ…。きっと貴明さんには貴明さんなりに考えがあるんですよ」
「むう…」
「インパクトと言うなら、これはどうだ、うー」
 先ほどから占いの本をめくっていたるーこが何か見つけたようで、本のページを指差して皆の注目を集める。
「何々? えーっと…『腸占』。生贄の腹を捌いて内臓、主に肝臓を検査して占……」
「る、るーこ、これは…」
「これならインパクト絶大だろう。褒めろ、うー」
「わ、私、気分が…」
「か、花梨ちゃんもちょっと遠慮したいかなぁ…」
「そうか? ならばこっちはどうだ。手足を縛って湖や川に投げ込み、浮かんでくれば有罪、沈めば無罪。沈んだまま溺死した場合は不幸な事故…」
「…誰がやるんだよ、それ」
「うーに決まっているだろう。やましいことがなければ問題ない」
「沈んだ方がヤバイだろ!」
「るー…。うーは覚悟が足りない。男なら使命のために命を投げ出す甲斐性を持つべきだ。心配は要らない。骨はるーが拾って、母なる宇宙に散布してやろう」
「なんで文化祭のために死ななきゃならないんだよ! しかも宇宙葬で決定済みか!?」
「た、貴明さん落ち着いて…。周りの人の迷惑ですよ」
「え? あ…」
 我に返って周囲を見ると、『うるさい、静かにしろ』と訴える目、目、目。
「す、すいません…」
 赤面して席に座る貴明。同時に、くすくすという忍び笑いが方々から聞こえてくる。
「ふふ、みんなに注目されちゃいましたね?」
「最近カルシウム足りてないのかもね…。牛乳でも買っとくかな。…じゃあ、とりあえずタロットか占星術? それか両方?」
「両方ですか?」
「笹森さんが占星術やって、草壁さんがタロットとか」
「わ、私ですか? ちょっと恥ずかしいです」
 自分が魔女装束を着てタロットカードを切っているところを想像して、優季が赤くなる。これまで、どちらかというと地味な生活をしてきているので、人に注目されるのはちょっと苦手なのだ。
「いや、草壁さんなら絶対雰囲気ばっちりだって。魔女の格好とか、凄く似合うと思うよ」
「え?え? そ、そうかな。貴明さん、ホントにそう思います?」
「思う思う。保証するって。絶対似合う、可愛い」
「や、やだぁ…」
「たーかーちゃーんー」
 と、2人のやり取りの間から、不穏な声が一筋聞こえてきた。花梨である。
「え? あの、笹森さん?」
「ふーん…タカちゃんってば、優季ちゃんに気があるんだぁ…。花梨ちゃん、ぜーんぜん知らなかったなぁ」
「い、いや、俺は別にそういうことを言っているわけじゃ…」
「昨日だってー、花梨ちゃん魔女のカッコしてたのにー、なーんにも言ってくれなかったよねー、あーあ、タカちゃんは薄情だなーっと」
「そ、それはそういう話にならなかったし、笹森さんのそういう格好は見慣れてるし…。いや、ホント、可愛かったよ? マジで。魔女っ子笹森花梨!みたいな…」
「うー、二股は良くないぞ。どちらかに絞るがいい。それとも『浮気は男の甲斐性』というヤツか?」
「ち、違うって! 俺はそういうつもりで言ったんじゃないから!」
「ううっ、男なんて一度許してしまえば後は冷たいんよね…。出会った頃はこぉんなに積極的だったのに…」
「わ、わ、わーっ! ダメ! それダメ! その写真ダメ!」
「な、ちょっと、タカちゃん、ヘンなとこ触んないで…」
「ケダモノか、うー」
「タカちゃんに襲われる〜」
「いいから、それしまえよ!」
「み、みなさん、声が大きいです…」
 大騒ぎし始めた面々を前に、さすがに青くなって狼狽する優季。少し声が大きいくらいならまだしも、こんなにどたばたと騒ぎ始めては図書室から追い出されかねない。
 しかし、優季の心配は、次の瞬間図書室に闖入してきた、ある女生徒の衝撃的な一言で杞憂に終わることになる。

 ガラッ

「ニュースニュースニュース、大ニューーーーース!」
 突然、図書室の扉を勢いよく開けて飛び込んできた女生徒が、大声でそう叫んだ。何事かと振り向いた図書室利用者が非難の言葉を口にするより早く、その桃色髪の小柄な女生徒は続けてこう叫んだ。
「先ほど学校内で、透明人間の存在を確認! 現在校舎内を縦横無尽に逃走中! 繰り返す! 先ほど学校内で、透明人間の存在を確認! 関係者は直ちに生徒会室に集合せよ!」


     ※


 さて、ここで話はその日の早朝まで遡る。
「雄二ー! 雄二ー! もう朝よ、いい加減に起きなさい!」
 雀の声も軽やかな朝の風景に、威勢のいい少女の声が響く。両親が仕事で不在がちな向坂家を事実上切り盛りしている長女・向坂環である。すらりと伸びた長身に地毛の赤髪からもわかる通り、先述の向坂雄二の姉でもある。
 政界にも顔が利く地元の名士のお嬢様と言う肩書きを持つ彼女だが、今はエプロン姿にフライパンとおたまというコミカルな風体で、階段上の弟の部屋に向かって声を張り上げている最中だ。時折おたまでフライパンをカンカン鳴らしては、階上からの弟の返事を待っている。
「ちょっと雄二! いつまで寝てるつもりよ! 早く朝ご飯食べてくれないと、片付かないじゃない!」
 しーん、という擬音が聞こえてきそうなほど、階上は静まり返っている。応えどころかいびきのひとつも聞こえてこない。
「あっ、そう…。そういうつもり。いいわよ、それでも。あんたがそういうつもりなら、タンスの下から二段目の引き出しに作った二重底の中の本にあんたの筆跡で署名つけて、学生掲示板に煽り文句付きで掲示しておくから」
 と、階上からどたどたと何かが転げまわるかのような音が聞こえ、数秒後に悪魔の断末魔もかくやというような悲鳴が聞こえてきた。
「だぁあああああっ! ない、ないっ! 俺の可愛いメイドさんたちがいないっ! くそぉおおお、何でこの二重底を知ってんだよ姉貴!」
「あんたの考えそうなことくらいお見通しよ。わかったらさっさと起きる! 遅れれば遅れるほど、あんたの分のみそ汁がぬるくなるからね!」
「オニ!アクマ!」
「なんか言った?」
「いえ、女神様と」
「よろしい」
 弟の答えに満足すると、環は鼻歌を唄いながらキッチンへと引き返していった。弟をやり込めた後の食事は実においしいのだ。
 なお、彼女の名誉のために言っておくが、別に環は弟が嫌いなわけではないし、何かの鬱憤を虐待という形で発散しているわけでもない。むしろ平均的な姉弟の形からすれば、彼女は弟を溺愛している部類に入るくらいだ。ただちょっとだけ、仲の良い相手や好きな相手を困らせてみたりするのが好きだという、生来の天邪鬼さが弟にも適用されているに過ぎない。
 ともかく彼女はキッチンに入ると、可愛い弟のために、先ほど作ったみそ汁をもう一度温めなおすべくコンロに火をつけた。途端、なべの中から淡い味噌の香りが漂い始め、向坂家の朝の時間を彩っていく。
 それと同時進行に、フライパンに油を引いてコンロにかけて温め、充分熱くなったところで溶き卵を流して焼き始める。今から玉子焼きを作るのだ。
 何のことはない、冷めるぬるくなると言ってはいたが、雄二が起きて身支度をはじめ、食卓につくまでの時間を予測し、ちょうど膳を出してあげられるように、逆算して料理を作っているのだ。恩恵を受けている雄二は全く気づいていない、環の思いやりである。
「ふん、ふふん、う〜ん、我ながらなかなかのできばえね」
 いい感じに焼きあがりそうな玉子焼きの状態を見て、環が頬を緩める。何百回と飽きるほど焼いているメニューだが、上手にできればやはり相応に嬉しいものだ。
 と、廊下からとんとんと足音が聞こえてくる。雄二が着替えを終えて降りてきたのだろう。案の定、あくび交じりの声で「おはよう」という声がかけられた。
「はい、おはよう。さぁ、早く顔を洗って、歯を磨いて、おひげも剃っておい…で…」
 振り向いて弟に挨拶を返した環の声がだんだんとしぼんでいく。
 環の前に信じがたい光景が広がっていた。
「…………」
「? どうした? 姉貴」
「あ、いえ……」
 おかしい、ありえない、疲れているのかしら。
 色々な言葉が彼女の中で渦巻く。
 頭を振ってもう一度、環は雄二の方を向く。
 そこには制服があった。
 黒の男子学生用の詰襟。いわゆる学ラン。
 普通なら、制服を着た雄二がいた、とかそういう表現になるだろう。
 しかし、現在彼女が見ている情景はそれではない。
 "制服があった"と表現するしかない状態なのだ。
「雄二…よね?」
「あ? ああ…。なんだ、変な顔して。俺の顔に何か付いてるか?」
「顔…、顔ねぇ…。えっと、うん…」
 顔。本来なら詰襟の上に、いつも見慣れた弟の小憎らしい顔が乗っているはずだった。
 しかし…
 ない。
 顔があるべき空間に何もない。
 よく見ると袖から先――手があるべき空間にも、何もない。
 人間の肉体に相当する部分がすっぽりと抜け落ちている…ように見える。
 環はおたまを持ったほうの腕で目をごしごしと擦ると、再度、今度は『大丈夫、何かの錯覚よね』と自分に言い聞かせながら、ある種悲壮な覚悟で弟の姿を求めてキッチンの入り口に目をやった。
 …やはり制服だけが立っていた。
「っていうか、おい、玉子焼き、焦げないか?」
「え? あ、ああ…そうね」
 玉子焼き、今それを焼いていたことを彼女は思い出す。
 見ると、端のほうが少しめくれて良い感じになっていた。
「と、とにかく顔を洗ってらっしゃい…。ご飯、作ってるから」
「あ? ああ…」
 とりあえず、ご飯を作って気を落ち着かせよう。最近疲れてるのかもしれないし…と、問題を先送りにする環であった。無理もない。透明人間と出会った時の対処法など、親はもちろん学校でも普通は教えてもらえない。理解の範囲外なのだ。
 まぁ、玉子焼きが冷めて美味しくなる頃には元通りになっているだろう。そういうノリである。


 さて、ここで雄二の方に視点を移してみよう。
 姉の不可解な様子に首を傾げつつも、彼はいつものように洗面所に入るとコップに水を溜めて、歯磨きの用意を始める。だいたいここから、洗面、髭剃りと続き、髪をブラッシングして身だしなみを整えて、食堂へと向かうのがいつものコースなのだが、この日はそのほとんどを消化する前に、彼は身支度をする手を止めることになる。
 それは歯ブラシに歯磨き粉を塗りつけるようとした時だった。
「……あ?」
 視線の先に信じがたい光景が広がっていた。
 歯ブラシと練り歯磨き粉のチューブが宙に浮いているのだ。
 いや、より正確には"そう見えた"というほうが正しいか。
 自分の手がそれぞれを掴んでいるという感触はある。それが証拠に、左手を動かせば歯ブラシは前後左右と思い通りの方向に向きを変え位置を変えるし、右手に力を込めれば、練り歯磨きの白い半固形物がねりねりと出てくる。
 だが、操っているはずの手はそこにない。見えない。
「…………」
 おそるおそる、顔を上げて鏡を見る。洗面所に来たときはロクに見ていなかったが、予想が当たっていればそこには…
「ない…」
 案の定、顔がない。
「なっ…!」
 絶句。思わず手で自分の顔を撫で回す。いや、手も透明だから鏡には映っていないのだが、しかし感触は確かにある。撫で回す手、撫で回される顔、指の本数、位置、額にかかる髪の感触も、まだ剃ってないざらついた無精ひげの感触も、すべてはっきりとそこに存在していた。
 しかし、視覚という観点からは、まるっきりそこには何も存在していないのだ。

「………………………………………う」

 驚愕が大きすぎて脳の演算能力が追いついていないらしく、最初の音が出るまでに1分かかった。

「うおぁあああああああ! なっ、なんだこりゃぁああああああああああああ!」

 隣近所5軒先まで聞こえそうな大絶叫。無理もないが。ちなみに台所では環がビクッとなっていたが、まあそれはともかく。
「う、うそだろオイ…」
 泣きそうな顔で――と言っても実際には見えていないから、そう形作ったつもりで――鏡を見るが、学ランの襟の部分と肩周り、そして背後の壁やらが映り込んでいるばかりで、毎日見慣れた自分の顔はどこにもない。
「うそだうそだうそだうそだうそだうそだ…」
 うわごとのように呟きながら、目をそらしては深呼吸して鏡に目を戻し、ぎゅっと目を閉じてはそろそろと目を開きながら鏡を見、あはあはと突然笑い出したかと思えば黙りこくって鏡を凝視する。
 しばらく彼はそんな感じでためつすがめつ、必死になって鏡を確認していたが、やがてどうやっても映らないことを悟ると、ガクッと肩を落として洗面台の上に手をついた。絶望で上を向いていられなくなったのだ。
「なっ…なんで…」
 呟いたところで、誰も何も答えない。頼りの姉はキッチンから出てくる様子はなく、助けのくることのない洗面所で、彼は自分がなぜこのような状況になったのかという、ほぼ絶望的な問いに苛まれることになった。
「なんだよ、これ…。ええ? 透明って、オイ、透明人間かって…。はは、おいおい、勘弁してくれって、マジで。夢だよなぁ? …なんだよ、これ…」
 思わず涙が出てくる。このまま元に戻らなかったらどうしよう、誰にも見てもらえることなく一人ひっそりと死んでいくんだろうか、彼女だってまだ作ったことないのに、やりたいことたくさんあったのに…、そんなネガティブな感情が次から次へと沸いてきては涙となって流れていく。
「やだよ、オイ…、戻れよ、戻ってくれよ、なぁ。なんか悪いことしたかよ、ええ…? ああ、もう…もう…。ホンット勘弁してください、マジで…」
 ごしごしと溢れる涙を両手でぬぐい、そのまま髪を逆撫でしてがしがしとかきむしる。まだセットしきれていなかった髪がぐしゃぐしゃになったが、そんなことはもう気にならない。
 しばらくそうしてうじうじしていた後、彼はよろよろと起き上がると、自分の寝室に戻るべく洗面所を出て行こうとした。ベッドのぬくもりに逃避を求めたのだ。
 ――と
「…あれ?」
 何気なくふと鏡に目をやると――本当に何の気なしに、と言うかたまたま鏡が視界に入っただけなのだが――そこに、自分の顔が映っていた。
「…あれ?」
 再度疑問符を口にする。何か凄まじく唐突に自分の顔が元に戻っているような気がする。
「……えっと……」
 ぺたぺたと自分の顔を、もう一度撫で回してみる。顔どころか、ちゃんと右手も左手も鏡に映っているようだ。
「な、なんだ?」
 いきなり元に戻った。何の前触れもなく。何か特別なことをしたわけでもなく、本当に唐突に、何かのスイッチが自動で切り替わったかのように、それは元に戻っていた。
「…は、はは、な、なんだ、夢だったのか?」
 笑い顔。ちゃんと鏡に映っている。どこにもおかしなところはない。
 そうか、夢か、寝ぼけてたんだなと、先ほどまでの自分の狼狽振りが唐突にばかばかしくなってくる。考えてみれば、もし自分がそんなことになっていたのだとしたら、先ほど環と顔を合わせたときに何か言われていただろう。
「そういえば何か雰囲気がおかしかったが…はは、まあいいや。歯ぁ磨くか」
 気を取り直して、先ほど放り投げたままだった歯ブラシを拾う。そのままだと汚いので、蛇口を捻って水を出すと、歯よりも先に歯ブラシを洗い出す。
「しっかし、なんだ透明人間ってなぁ…」
 落ち着いて考えてみれば、なかなかに興味深い体験だ。普通はありえない。そういえば昨日ミステリ研の部室で神頼み(悪魔頼み?)したっけな、どうせならもうすこし非日常的な状況を楽しんでみたかったなと、いまさらながらに思えてくる。
「透明人間…うひょひょ。いいじゃん、もう一回ならねーかなぁ」
 そうのたまいながら、歯ブラシに改めて練り歯磨きを塗りつけようとした瞬間――両手が消えた。
「…………」
 一瞬静止。思考もついでに静止。
「う、うぉっ!?」
 慌てて鏡を見ると、またしても学ランを残して体が忽然と消えていた。
「だぁあああ! も、戻れ、戻れってば!」
 ――と

 ぎゅんっ

「あ、お…?」
 戻れ、と叫んだ瞬間、鏡に顔が再び映し出された。
「……? …消えろ」
 ぱっ、と顔が消えた。見ると両手も一緒に消えている。
「……戻れ」
 ぎゅんっ、と再び身体が元に戻る。鏡にも映る。
「消えろ」
 ぱっ
「戻れ」
 ぎゅんっ
「消えろ」
 ぱっ
「戻れ」
 ぎゅんっ
「…………なるほど…………」
 その瞬間、雄二の顔がニヤリと歪む。
「消えろ」
 再度そう口にして、彼の姿が掻き消える。それを確認すると、雄二は学ランのボタンを外して、いそいそと服を脱ぎ始めた。はたから見ると、宙に浮いた服がひとりでに動いて、ボタンが外れ、ジッパーが下り、シャツや下着が勝手に畳まれて積み上げられていっているように見える。
 やがて全裸になると――すなわち、完全に透明になり、姿形が見えなくなると――彼は手早く身支度を済ませて、洗面所から出て行った。


 さて、その頃の環はと言うと、すっかり食事の用意を整えて食卓についており、洗面所からなかなか出てこない雄二を待っていた。
 何やってんのよ、ご飯が冷めちゃうじゃないのと、いつもなら洗面所にずかずかと入り込んでアイアンクローのひとつでも決めてやるところだが、先ほどの珍妙な光景が頭にこびりついていてはなれず、今日はそういう気にならない。
「はぁ……」
 夢だ、とは思う。寝ぼけているのか、疲れているのか、とにかくそういう何かが自分の目にあんなものを見せていたのだと。
 何しろ透明人間だ。ことは重大である。というか、絶対ありえない。
 幼馴染の河野貴明が春先にミステリ研に入部したらしいが、本人によれば全く成果は上がっていないようだし、そもそも上げられてはたまらない。基本的に環はリアリストなのだ。
 だいたい、そんなことになっていたら、雄二の態度がああも平然と――顔は見えなかったが――しているはずはない。何がしかのアクションがあって然るべきだろう。先ほど洗面所から何か悲鳴が聞こえてきたのは気になるが。
 とにかく、さっきのはなんでもないんだ、気のせいなんだと、先ほどから必死に自分に言い聞かせている環であった。
「おはよう、姉貴。おっ、今日は玉子焼きか」
「え? ああ、おはよう、雄二…」
 不意に背後から声がかけられる。雄二が茶の間に入ってきたのだ。ぼーっとしていたせいで、入ってきたことに気づかなかった。
「もう、遅いわよ。洗面所で何やっ…」
 とりあえず小言のひとつも言ってやろうと、彼女は席につく雄二に向かって文句を言い始めたが、その口が途中でぴたりと静止する。
「ん? どうした、姉貴」
「やって…やってた…」
 そのまま、末尾の言葉を言い切ることなく、口をぱくぱくとさせながらいつも弟が座っている辺りの中空を見つめる。
 決して「弟を見つめる」ではない。あくまで、中空――何もない空間を見つめていた。
 何しろ、今度は学ランどころか、弟の姿形の一片すらそこになかったのだから、見つめようがないのだ。
「ヘンな姉貴だな」
 空気しか存在しないはずの場所から、弟の声が聞こえる。いや、それどころか――
「お、今日の玉子焼きはいつもより甘いんだな。はは、チビ助に教えてる内に、甘くする癖でも付いたのか?」
 箸が宙に浮き、ひとりでに玉子焼きをつまんで持ち上げる。持ち上げると、今度は人の口がある辺りの位置に玉子焼きが運ばれていき、そのまま口に放り込まれるかのように、玉子焼きがすっと消える。
 すると、今度はみそ汁のお椀が持ち上がって、またしても人の口がある辺りの位置まで運ばれていき、少し斜めにされたお椀から流れ出たみそ汁が、これまたやはり流れ出る端から消えていく。
 まるで、本当にそこに人がいるかのように、朝食が片付けられていく。
「ゆ…雄二…?」
「あん? なんだよ」
「あ、いえ…。えっと、雄二よね?」
「ああ、そうだよ。なんだよ、俺が貴明にでも見えるか?」
「え? ああ、えっと、そうじゃなくて…」
 もしこの時、環に幻視の力があり、雄二の顔をちゃんと確認できていたとしたら――悪巧みが成功して満面に笑みを浮かべた悪代官さながらの表情をそこに見ただろう。
「おいおい、さっきから食が進んでねーじゃんか。どうした? 風邪でも引いたのか?」
「風邪…ええっと、そういうわけじゃ…ない……と思うんだけど………」
 風邪…そうなのだろうか? そう自問する。
 言われてみれば熱っぽい…ような気がしないでもない。
 言われてみれば喉が痛い…ような気がしないでもない。
 言われてみれば頭が痛い…ような気がしないでもない。
「えっと、ちょっといいかしら」
「あん?」
 す、っと環はいつも雄二の顔がある辺りに手を伸ばす。
「なんだよ?」

 なでなで…

 感触がある。姿こそ見えないが、まぎれもなく弟の顔の感触である。忘れようもない。
「ある…」
「おいおい、こっぱずかしいからやめろって」
「え? ああ、ごめんなさい…」
 手を引っ込めると、環はじっと感触を確かめるかのように、じっと両手のひらをみつめる。
「マジで大丈夫か? なんかおかしいぜ、今日の姉貴」
「そうね…」
 そして、じっと黙り込むこと数分。雄二の食事の音を聞きながら、じっと彼女は両手を見つめていたかと思うと、おもむろに口を開いた。
「雄二…」
「あん?」
「今日、休む。なんか疲れてるみたいだから…。あの子達に言っといて」
 あの子達、とは、いつも朝学校に一緒に行く幼馴染、河野貴明と柚原このみのことだ。
「そうか。まぁ、ゆっくりしてろよ。学校が終わったら、あいつらも見舞いに来るだろうし」
「そうね…」
「ああ、後片付けも俺がやっておくから、姉貴は安静にしてろよ、な?」
「うん…。優しいね、雄二」
「よせよ」
「じゃあ、私は部屋に行くから、後はお願いね」
「ああ」


 いつもの待ち合わせ場所に行ってから、数分の間。今日は隣に姉の姿はない。
 彼はいつもそうしているようにガードレールにもたれると、先ほどの姉の様子を思い出しながら、くっくっと忍び笑いを漏らした。
 今はきちんと学ランを着込み、姿も消していない。
 環が家で寝ていることを除けば、いつもの通り、なんら変哲もない朝の光景である。
「雄二! 悪い、待ったか?」
 そろそろ出発しないと遅刻するかも、というくらいの時間になって、ようやく待ち合わせの相手二人が現れた。2人とも息を弾ませており、家からここまで走ってきたことがうかがい知れる。
「おーっす、貴明。また寝坊か?」
「俺じゃないよ、このみが」
「あーっ、タカくん、言っちゃダメだよ」
「何言ってんだ、いまさら」
「でもぉ…」
 少し赤くなって、このみがぷっと頬を膨らませる。しかし、すぐに彼女はきょとんとした表情になると、辺りをくるくると見回し始める。
「あれ? タマお姉ちゃんは?」
「ああ、姉貴なら、なんだか体調が悪いって、今日は休むってさ」
「ええ? そうなの? どうしたの? 風邪引いたの? お腹痛くなっちゃったの? 頭が痛いとか? どうしよう、タマお姉ちゃん、お見舞いに行かないと」
 矢継ぎ早に質問を浴びせたかと思うと、すぐにおろおろし始めるこのみ。姉のように慕っている環の体調不良とあっては、じっとしていられないのだろう。
「おい、落ち着けよこのみ。見舞いったって、お前学校はどうするんだよ」
「だ、だって…。タカ君だって、気になるでしょ?」
「そうだけど、学校サボって見舞いに来たなんていったら、逆にタマ姉に怒られるぞ?」
「う、それは…そうかも…」
「まぁまぁ、姉貴ならたいしたことなさそうだったし、見舞いは帰りでいいだろ?」
「う〜ん…ユウくんがそういうなら…」
 両側から説得されて、しぶしぶこのみが引き下がる。
「じゃあ、学校終わったら、お花買いに行こうね?」
「花? 大げさだなぁ…」
「えー? そんなことないよ、お見舞いはお花がないとお見舞いじゃないんだよ?」
「そ、そうか?」
 こうして、環を家に残して、雄二たちは学校へ向かう。このみと貴明はいつものように楽しくお喋りしながら、雄二のそわそわした様子に気づくそぶりもない。

 ――さぁて…まずはどうするかな。

 鬼のいぬ間の洗濯。最大の敵の姉は家に置いてきた。自分を縛るものは何もない。
 貴明とこのみの談笑を聞きながら、雄二は今日一日の悪巧みの算段を胸の内でたてつつ、学校への道のりをうきうきしながら歩いていく。
 秋風の舞う通学路。澄み渡った青い空に、世にも恐ろしい計画が渦巻いていることを、まだ誰も知らない。




――――――――――――――――中編1に続く


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