透明人間に告ぐ 〜中編1〜
ミステリ研活動中!
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     2


 2時限目後の放課時間。友人の小牧愛佳といつものように談笑しながらも、由真はもやもやと覆いかぶさるような眠気に耐え切れず、思わずあくびを漏らした。
「ふぁ………ん………」
「由真、眠そうだね」
「あー、ごめん、かなり眠い。昨日深夜番観ててさー…。2時くらいまで起きて…ふぁ…」
「もう、だめだよ由真。夜更かしは女の子の天敵なんだから。何を観てたの?」
 くすくすと目を細めて笑う友人の顔もあくびの涙で滲む中、由真はぼんやりとした記憶の中を辿って番組の内容を思い出す。
「なんだっけ…。なんか映画。怖いやつ」
「覚えてないの? あんまり面白くなかった?」
「どうだったかなぁ…」
「由真ったら…。授業中寝たりしちゃだめだよ?」
「そんなこといったって眠いものは眠いし…」
 頭の中の靄はちょっとやそっとでは晴れそうにない。そもそも、暑くもなく寒くもなく、中途半端に涼しいやら温かいやらの今の季節は、ただでさえ眠いのだ。表へ出れば焼き芋のテーマがどこかから聞こえ、コンビニに行けばおいしそうな中華まんが並んでいるような世間の雰囲気もそれを後押しして、ふわふわと真綿のような空気は手ごわいことこの上ない。
 それでも文化部に所属しているような身であれば、来たる文化祭のための準備に追われもするだろうが、由真様はといえば天下無敵の帰宅部だ。追い立てるものは何もない。
「なーんか一発、これだ!っていうような事件でもあればねぇ…目も覚めるかも…知れない…けど…ふぁあ〜、ふ」
 平坦な平和を謳歌していけば、いずれ変革を望むのは世の常とはいえ、眠気覚ましに事件を所望するというのも不謹慎な話である。
 それでも…運命の女神は彼女の願いをちゃんと聞いていたらしい。
 いや、あるいはこの場合、天網恢恢疎にして漏らさず、といった方が良いのかもしれないが。
「ん…?」
 ふと脚に違和感を感じて由真が立ち止まる。
「どうしたの?」
 不意に立ち止まった友人にきょとんとしつつ、愛佳が由真を振り返る。
「あ、いや…。なんか変な感じがして…」
 そう言って自分の足元を確認する。だが、特に変わったことは何もないようだった。
「……?」
「大丈夫?」
「あ、うん…なんでもない、のかな?」
「寝ぼけてちゃだめだよ? 由真」
「違うって…ほんとに何か…」
 そう言って歩き出そうとした瞬間、再び何か脚に感触が走った。脚というか、むしろ脚の周辺といった方が近い感覚だったが、何かに引っ張られるような、そんな奇妙な感覚。
「え? 何?何?」
「由真?」
 慌てて足元を再度確認するが、やはり何もない。虫でもいたのかと思い、ぱっぱっと払ってみるが、何かが触れた感触はなかった。
「やだ、何だろ…」
「ねえ、もし具合が悪いんだったら、保健室に行った方が良くない?」
「具合が悪いわけじゃ…」
 そこまで言って、由真はふと周囲の視線…主に男子生徒の視線が自分に集まっていることに気づいた。
「な、何…?」
 皆一様に驚いた顔で、なおかつ、何やら鼻の下が伸びたような顔で、じっとこちらを見つめている。そういう表情で見つめられることは初めてだったが、何か本能的にイヤなものを感じて、由真は思わずあとずさった。
 ――と、その時ある男子生徒の呟きが耳に入ってきた。
 『しましま…』
「…へ?」
 しましま、確かにそう言った。意味は掴みかねるが、単語を素直に解釈すればストライプ模様のことを言っているのだろう。
「しましま? …しましま…」
 何のことかと反芻してみるが、いまいちピンとこない。
と、その瞬間、またしても脚の周りに違和感がまとわりついた。今度はよりはっきりと、強く。
 そして――男子生徒の視線がよりいっそう集中したのも感じられた。
「……まさか」
 この時、しましまという単語で思い浮かぶものがひとつあった。恐る恐る、彼女は自分の足元――より正確に表現すれば、スカートの状態を確認した。
「……あっ、由真、スカート!」
 由真が認識するより一瞬早く友人が反応した。
 『しましまだ…』
 『うん、しましま…』
 『青と白のしましま…』
 どういうわけか持ち上がっているスカート。まるで、両手でつまんでアピールしているかのような、そんな持ち上がり方。それも少しだけではない、かなり大っぴらに、大胆に。
 わかりやすく言えば、スカートの前がめくれて、彼女がはいている青と白のしましまコットンぱんつが丸見えになっていた。
 『しましまぱんつ…』
 『これがあのしましま…』
 『うっ、しましまにあてられて鼻血が…』
「……………い」
 風が吹いているわけでもない校舎内でめくれ上がったまま静止しているスカート。そして一身に注がれる男子生徒の視線。
 さしもの由真もすぐには反応できなかったが、なんとか5秒後に我に返った。

「いやーーーぁっ!!! ちょっと、なによこれぇ!!!」

 慌ててスカートの前を押さえて、男子生徒の視線から逃れる。押さえたときに、スカートを何かが掴んでいるかのような感覚があったが、とりあえずめくれたスカートは元に戻ってぱんつが隠れる。
「ゆ、由真!?」
 驚いた愛佳が目を白黒させて由真に声をかけるが、由真の頭の中は『なんで?』のパニック更新状態だ。
 しかも、事態はこれで収束してはいなかった。
 また不意に妙な感触があったかと思ったら、今度はスカートの後ろがめくれて、可愛らしいしましまぱんつのお尻が露に。
 『おおーっ、しましま!』
 『ありがたやありがたやしましま…』
 『お、俺もうしましまが目に焼きついて離れない…』
 薄い布地に包まれたお尻は、しかしきゅっと締まって無駄な部分無くシェイプされている。しかしそこには固そうな雰囲気は微塵も無く、女の子特有の丸みは美しいラインを描いて腰から足の付け根へと続いていき、その丘陵の柔らかさと、奥に隠された密やかな部分がどれだけ甘い蜜に彩られているかを、嫌が応にも喚起させられる。
 そして、それを包み隠してイタズラっぽく微笑んでいる、青と白のしましまぱんつ。早くも男子生徒の中には、興奮のあまり失神してしまった者もいるようだ。
 無理もない。女の子の、それもとびっきり可愛い女の子のぱんつなど、滅多に拝めるものではないのだから。皆一様に、目の前に現れた健康美溢れる小さなお尻にむかって合掌し、中には滂沱の涙を流す者さえいる始末。ある意味不憫な光景ではあるが。
「や、ちょっと! み、見ないでっ!」
 何が何やらわからなかったが、とにかくこれ以上白日の下に乙女の純情を晒してなるものかと、両手でスカートの前と後ろをしっかり掴んでガードの体勢を取る由真。
「ゆ、由真、いまの何…?」
「あ、あたしにもわかんないわよ…って、愛佳、スカートっ!」
 心配そうに声をかけてくれる友人に返答を返そうと顔を上げた瞬間、由真の目に魅惑のスウィートピンク。
「へ?」
 なんだろう、とばかりに下を向いた愛佳がそのまま静止する。ああ、愛佳って驚くと止まるんだな、と何となくそう思う由真だったが、自体はあまりのんきなものではない。
 『ぴんくだ…』
 『うん、ぴんく…』
 『いいんちょ、ぴんくなんだ…』
 こちらもやはり、スカートが何かに持ち上げられるようにめくれあがって、愛佳のはいていた薄いピンク色のぱんつが、孵化したばかりのヒナのようにおずおずと周囲を見渡していた。
「あ、あぁ、あー…あの、えっと、あれれ?」
 口をぱくぱくさせつつ、何やら言葉にならない声を出しつつ、おろおろとその場で足をぱたつかせる愛佳。どうやら事態に思考が追いついていないらしい。
「ま、愛佳、ちょっと、早く隠してっ!」
 そう声をかけるが、やはりパニック状態になっているらしく、哀れな友人は口元に手を当てながら、スカートを全開にして立ちすくんでいる。
 ガーリーなピンク色。普段は恥ずかしがって決して顔を出すことの無い少女の秘密が、いまは惜しげもなく外気に晒されて、無垢な香りが辺りに漂うかのような錯覚さえ覚える。リボンのワンポイントに至っては、くらくらするほどキュートだ。
 男子生徒はといえば、先ほどのしましまの興奮さめやらぬ状態そのままに、今度はぴんく色のフェロモンにあてられているのだからたまらない。皆一様に前かがみになって、夢のような光景に視線を注いでいる。
「ああ、もおっ!」
 仕方なしに、由真は呆然としている愛佳の代わりに、スカートを掴んで下着が見えないようにする。しかし、その瞬間、今度はまたもや由真のスカートが舞い上がり、ぴんくと入れ替わりにしましまがこんにちは。とたん、甘いぴんくのフェロモンに変わって、爽やかなブルーの色香が漂い始める。
 『しましま…』
「ひゃあっ!?」
 悲鳴を上げてスカートを押さえると、今度は愛佳のぴんくがごきげんよう。
 『ああ、でも俺はぴんくの方が』
「あ、あ、あ、あのあのあの…」
 再び愛佳のスカートを押さえると、再びしましまのお出ましに。
 『バカ、お前わかってねーよ、しましまのロマンってやつを』
 しましまを隠すと、ぴんく。
 『いや、でも俺もぴんくに萌えるものが…』
 ぴんくを隠すと、しましま。
 『やっぱしましまだろ、うん、間違いない』
 しましまを隠すと、ぴんく。
 『いやいや、ぴんくこそ正義、ひゃっほーっ!』
「だぁあああああっ! 愛佳、いくよっ!」
「へ? きゃうんっ!」
 このままでは埒が明かないと判断し、愛佳の手を握って全力ダッシュでその場を離れる由真。猫を追うより魚を退けろ、だ。
 『ああっ、おれのしましまちゃんが!』
 『ぴんく様、いくなぁ〜』

「〜〜〜〜〜!!! これで勝ったと思うなよぉ〜〜!!!」


     ※


 さて、由真の捨て台詞の余韻が残る校舎内。事件現場のすぐそばの階段の陰で、ひとりほくそえむ男子生徒がいた。
 ただし、その姿は見えない。彼が存在しているはずの空間には、視認できる何物も存在していない。それでも、"気配"を察知することのできる人間が近くにいれば、彼の存在を実感することができただろう。
 そこには、透明人間になった向坂雄二がいた。
「うはは…、縞々とピンクか…。らしい下着つけてんじゃねーか、へへ」
 先ほどの由真と愛佳を思い出し、思わず顔をニヤつかせる雄二である。なんのことはない、昨日ミステリ研部室で夢想した通り、透明人間になって励むことは女の子の恥ずかしい姿を拝むことだったようだ。今もまだ、二人の下着を思い出しては一人悦に入っている。
 しかも、それだけでも恥ずかしい上に、今の彼の姿といえば素っ裸である。服までは消せないものだから、姿を完全に隠すには全裸になるしかなかったのだ。
 透明だから他人には見えないが、仮に視認できたとしたら、そこには素っ裸で奇妙にほくそ笑むわけの判らない男子生徒の姿があるわけだ。しかも、えっちなことを考えているものだから、男の子のシンボルがちょっと明記するのをためらう状態になっていると言うオマケつき。まるっきり変態である。
 学生掲示板に号外新聞が載るくらいなら良いが、おそらくは警察のごやっかいになること確実だろう。加えて一部女子生徒の妄想小説かあるいは漫画に、妙な感じで描写されでもしたら、男の沽券に関わる。まぁ、素っ裸で往来を歩いている時点で、沽券も何もないのだが。
「さーて、次はどうするかなぁ」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら階段の下から出て、次なる獲物を求めて歩き出す。まだ惨劇の宴は始まったばかりだ。


     ※


「…――『相手がいることはまず間違いないにしても、紅司の頓死をいぶかしんで氷沼家へ訪ねてでもくれば格別、いまの処はまだ噂の中の、影のような存在にすぎない』」
「はい、そこまで」
 朗読の声に国語教師の声が挟まれると、漠とした緊張感がつっとほぐれる。3時限目の空気はそれなりに眠くもなく、それなりに空腹でもなく、かといってやる気が出るでもなく、ぼんやりと提灯の明かりみたいな倦怠感が教室を包みながらゆっくりと流れていく。
「ここでようやく、避けてきた問題に向き合うことになるわけですね、登場人物たちは。今までは問題の周囲をちくちくとつついてきてお茶を濁してきたわけですが、前に進むには苦痛を享受しなくてはいけないわけです」
 もともと現国の授業など、活字好きでもなければ集中の続くものではない。ダラけて紙ヒコーキを作る者、友だちにメールを打っている者、中には早くも次の時間の数学の教科書を開いて、予習に励む者もいるほどだ。いずれ、勉強したところで点を取れない者は取れないし、できる者は勉強せずとも高得点が狙える科目である。
 教師もその辺りは判っているのか、生徒の注意が黒板に向いていようといなかろうとすでにお構いなしの構えである。目の前ですやすやと寝息を立てている女生徒にすら何のアクションも起こさず、教科書の次のセンテンスを次の生徒に朗読させるべく、名簿の名前を確認している。
「では次の鍵括弧から、えー…向坂」
 だが、教師の呼びかけに応えはない。とりあえず、しーん、というような静寂こそないものの、意思のある返答はどこからも出されなかった。
「向坂?」
 再度名前を呼び、教師は教室を見渡して向坂雄二の姿を求める。が、いつもなら廊下側の真ん中辺りでグラビア雑誌を開いている赤髪の影は形もない。
「ん? 向坂は休みだったか? 出席簿にはマルがついてるが…」
「先生、あの、雄二なら授業始まった時からずっといません」
 いぶかしむ教師に、別の生徒から声が上がる。河野貴明だった。
「ん? そうか? 早退?」
「あ、いや、それは知りませんけど…」
「そうか。まあいい、じゃあ河野、次読め」
「え? あ、はい…」
 まあいいの一言で片付けるのもどうかと思われるが、とにかく細かいことは気にしないことに決めたようだ。
 国語教師・天下泰平のヤマちゃんこと山下渉。今日もまた、彼の脳内は天下泰平のようだった。


     ※


 さて、全校授業中の校舎内を素っ裸でうろついているのは、言うまでもなく雄二である。相変わらず視認できれば男版けっこう仮面もいいところの姿だが、透明になっているから寒いのを除けば怖いものなしだ。
 先ほども、鉄の女と名高い30歳独身女教師のスカートのジッパーを下ろして、日ごろの溜飲を下げてきたところである。
「いや〜。なんつーかあれだね。ああいう女が水玉ぱんつを穿いてるってのも、意外と萌えですなぁ〜」
 すとんと落ちたスカートの下から露になった赤い水玉模様と、きょとんとしか表現しようのない数学教師の表情を思い出して、ひとり悦に入る雄二である。2時限目放課の件といい、姉の環が聞いたら一昼夜は折檻地獄が続きそうな所業の連続だ。
「さ〜て、つ・ぎ・は〜っと。久寿川先輩のお着替えシーンとか見たいよな〜っと」
 不届きな独り言を呟きながらスキップを刻む彼の目に、その時ちょうどよく『女子更衣室』のプレートが目に入った。
「おお〜。良い感じ良い感じ。…っても、ここ1年生のか」
 校舎内は3階から順に3年生、2年生、1年生の割り当てであり、現在1階なので目の前の扉は1年生の更衣室ということになる。
「久寿川先輩のじゃないしなぁ…」
 先ほどから口にしているのは、現生徒会長にして雄二の憧れの君である久寿川ささらという女生徒の事である。別に現在彼女が更衣室で着替えているとか、体育の授業を行っているとか、そういう事実は雄二には確認できていないのだが、何となくそれは彼の中で確定事項となっているらしい。
 が、目の前の更衣室の誘惑はなかなかに強いらしく、とりあえず校庭を確認して、体育の授業を行っているであろう女生徒のレベルを確認することにしたようだ。
「どれ…」
 校庭では、赤いブルマー姿の女生徒の群れが、なにやらラケットのようなものを各々携えて、チームに分かれてわいわいと何やらゲームに興じているようだった。
「ラクロスか…。う〜ん、ブルマーが良いねぇ」
 ブルマーとラクロスはなんら関係ないのだが、とりあえず彼の中ではブルマーの優先順位が高いのだろう。たくさんの下級生の小さなお尻があちらこちらへと走り回る様を、実に幸せそうに眺めている。
「まぁ、そこそこイケてる感じの女子が多いかな、と。んー…、3年生とか体育館でやってんのか? そっちも確認した方が良い……おっ?」
 女子のプレイヤーを一人一人眺めていた彼の目に、思わぬ人物の姿が映った。黒髪セミロングのツインテールと、ぴょこんと飛び出たアンテナを目印に、小柄な身体を元気一杯に躍らせている女生徒。幼馴染の柚原このみである。
「チビ助じゃん」
 ラケットを手にゲームに興じている小さな幼馴染を見つけ、思わずそちらに注視する。
「あいつ、ラクロスなんてできんのか?」
 本気で鍛えれば陸上競技でオリンピックすら狙えるとまで言われる幼馴染であるが、致命的に不器用なのも動かしがたい事実である。ただ走るだけならともかく、繊細な動きが要求される球技は向いていないだろうというのが、周囲の一致した見解だった。
 案の定、やたら前へ後ろへと走り回ってはいるが、一向に得点に絡む気配はない。ボールをひたすら追いかけてはいるのだが、いかんせん敵には簡単にかわされるわ、味方からパスは来ないわ、とにかく役に立っていない。とりあえず本人は楽しそうにプレイしているから悲壮感はないが、見ている方はなかなかやるせない気分になる。
「ま、チビ助がぶきっちょなのは今に始まったことじゃないが…」
 それにしても、と、雄二は改めてこのみの姿を見つめる。
 10月になったとはいえ、まだ残暑の名残が顕著な陽気の下、ブルマーから伸びた健康的な脚や白い首筋に汗の雫を光らせるこのみの姿が、青空の下の校庭によく映えていた。時折楽しげに笑う表情が、陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
「へぇ…」
 見慣れない姿に、雄二は少しだけどきっとした。中学生の時には体育祭で見ることもあったが、高校に進学してからは体操服姿を見る機会もなかったため、実に2年ぶりに見るブルマーなのだ。何とはなしに窓枠に身体を乗り出してしまう雄二である。
「いや、しかし…なかなか…」
 焦点を身体全体から、胸だのお尻だの、ピンポイントにしぼってズームしつつ、体操服の上から身体のラインをトレースする。
 見たところ相変わらずの幼児体系ではあるが、それでも2年前に比べれば、それなりに丸みを帯びているようだ。赤い布地に包まれた小さなヒップが右に左に動く様は、遠目にも判るほど蟲惑的で、普段年上の女性が理想だと公言してはばからない雄二も、思わず鼻の下が伸びるほどだった。
「あれはあれで成長してんなあ…」
 とはいえ、と、雄二は幼馴染から目を離して、背後の扉を確認する。
「…うーん…やっぱマズいか?」
 なんとはなしに扉を見つめてしまう雄二である。
 チビ助チビ助といって子供扱いしてはいるが、客観的に見て周囲から頭ひとつ飛び出た美少女であることは雄二もよく判っている。欲を言えばちょっとだけ着替えの服に手を伸ばしてみたい気もするが、しかし、もう一人の幼馴染の顔を思い出すとさすがに悪い気がしたのだ。
「貴明、が、なぁ…。やっぱ悪いしなぁ…」
 毎朝仲睦まじく、楽しそうにおしゃべりしながら並んで歩くこのみと貴明の顔を思い出すと、この扉を開けるのがためらわれるのだ。
 恋と友情なら恋を選ぶとしても、性欲と友情を秤にかけるようではさすがに男がすたる。ましてや相手が長年連れ添った親友であればなおさらだ。
 いつになく真面目そうな顔になって、彼は首を横に振りながら「ふぅ」と一息ため息をついた。…とりあえず全裸なのでまったくキマっていないのが哀しいが。
「やっぱやめとくか。明日からまともに顔見られなくなっても困るし」
 そう言って扉から目を引き剥がして、再度校庭に目を向ける。
 フィールドでは、やはりボールばかりを追いかけて戦況が見えていない風のこのみが、相手チームと思われる女生徒にかわされたところだった。
 ――と、思わず雄二の目が、今このみをかわした女生徒に向けられる。
 スッ、スッと身軽にステップを刻みながら、ボールをキープしつつゴールに向かって駆けていくその少女。このみほどに身体能力は高くないようだったが、それなりに運動神経はよさそうで、なおかつなかなかに器用そうだ。
「あれは――」
 紫がかった髪をお団子にまとめたヘアスタイルに、きりっとした瞳。この春に貴明を通じて知り合いになった後輩、姫百合瑠璃だった。
「瑠璃ちゃーん♪」
 男のくせに黄色い声を上げ、思わず窓枠に飛びついて身を乗り出す。先ほどの真面目な顔は5分ともたなかった計算だ。すでにすっかりスケベ野郎の顔になって、フィールドを走る瑠璃の姿に釘付けになっていた。
 親友と共通の幼馴染という後ろめたさもないので、もう完全にリビドー全開で舐め回すように頭のてっぺんから爪先までを吟味する。
「おおほぉ〜、いいねいいね! あのお団子にブルマーの組み合わせが、なんとなく小学生っぽくて背徳的っつーか、イイ! その上、意外と胸もあるのがナイス!」
 平均よりは華奢であるものの、きちんと出るところは出ているボディラインに狂喜の雄二。年上が理想とか言っているが、実際にはそこまでこだわりはないようだ。
「いや〜。チビ助と同じクラスだったっけ? それとも隣のクラスか? いいね〜、可愛い子が揃い踏みってのは、なんつーか心が癒される…、はっ! もしかして珊瑚ちゃんもいるのか?」
 瑠璃の双子の姉である姫百合珊瑚の存在を思い出し、慌てて校庭内を確認する。と、フィールド内でラケットを手に突っ立っているもう一人のお団子頭が確認できた。
「いた、いたいた! 珊瑚ちゃん、みーっけ!」
 妹と同じお団子のヘアスタイルだが、対照的に目つきはぽやんと温和。マシュマロをほおばったような平和そのものの表情で、自分もゲームに参加しているにも関わらず、どうやら妹の応援に余念がない様子の、姫百合珊瑚の姿がそこにあった。
 すでに誰もゲームへの参加を期待していないのか、敵も味方も彼女の横を何事もなく通り過ぎていっているばかりである。唯一瑠璃だけがたまに何事か声をかけているのだが、そのたび珊瑚が両手を上にあげて何事か叫ぶと、諦めたように瑠璃も珊瑚を置いて試合に復帰する。
「はは、ありゃきっと『るー!』とか言ってんだな。瑠璃ちゃんも苦労するねぇ〜」
 るーこ・きれいなそら以外に唯一るー語を駆使する珊瑚のトークを思い出して、雄二も苦笑する。
「と・いうことは…。この扉の向こうに珊瑚ちゃんと瑠璃ちゃんの着替えがっ!」
 びしっ! と扉を指差して、気勢を上げる雄二。もはや先ほどのためらいはかけらもないようで、左右を見渡して通る者がいないことを確認すると、素早くドアを開けて更衣室の中に潜り込んだ。

「おじゃましまーす♪」

 誰もいない更衣室の中に形ばかりのコールをかけて、後ろ手にドアを閉める。
 とたん、先ほどまでの校庭の喧騒が聞こえなくなり、カーテンのひかれた薄暗い更衣室の中、かすかな静寂が思わず耳にざわめいた。
「ふ……」
 知らず呼吸が上ずる。
 しん、と静かな更衣室は、動くものもなく佇んでいる。
 何かの香料だろうか、汗の匂いを消すように、甘い香りがそこかしこに漂っている。
 調度は2つの長テーブルと、それを囲むように両側にスチールのロッカー。何脚かの椅子。
 そんなわけはないのに、そこかしこから女の子のさざめきが聞こえてくるかのような気配。
 女子更衣室の風景が、雄二の目前に広がっている。  ごくっ…  思わず生唾を飲み込む。女好きでならす雄二も、さすがに女子更衣室に忍び込むのは初めての経験だ。知らず、両手には汗が滲み出て、心臓はどきどきと早鐘を打つように鳴っている。
「…へへ、さすがに…緊張するな、オイ」
 誰に話しかけるともなくひとりごちる。カーテン越しの陽の光は薄ぼんやりとして心もとなく、静かに暗く沈黙した部屋の中は、秘密の鍵がかけられているかのように、触れてはいけないような雰囲気がかもし出されている。
 足を踏み出すのを少しだけ躊躇してしまうような、そんな気配がそこにあった。
「でも、ま…。時間かけてっと、授業が終わっちまうしな…」
 触っちゃいやオーラをそこら中から感じつつも、せっかく入って何もせず帰るわけにはいかない。雄二はぴしゃっと両頬を自分で叩くと、瑠璃と珊瑚の着替えを求めて、ロッカーのドアを開けていく。
「落合…まだ"お"か、じゃあこっちは…佐藤…、まだこっちか…?」
 一人一人に割り当てられているわけではないが、使用時は入り口から見て左側から名簿順にロッカーを使うのが規則だ。雄二は適当な扉を開けて、中の体操袋に書いてある名前を確認しつつ、目的のロッカーを探す。
「生天目…? 何て読むんだこれ。まあいいや、こっちは…萩原…。お、近いな。じゃあ隣は…」
 都合5つ目のドアを開けて、中に入っていた体操袋を確認する。
「おっ! 発見! 珊瑚ちゃんのロッカー!」
 黒のマジックで姫百合珊瑚という名前が記されていた。体操袋自体は、今現在珊瑚が体操服を着用しているために空だったが、ロッカーのハンガーにはしっかりと珊瑚のものらしきセーラー服がかけられていた。
「おおお〜、なんか眩しい!」
 別に光を放っているわけではないが、それでも後光が差しているような気がして、思わず雄二は目を細める。
 桜色のセーラー服。別になんてことはないただの布地のはずなのに、『珊瑚が着ていた』という事実だけで、何物にも替えがたく素晴らしい存在のように思えるのだから不思議である。
 さっそく雄二はロッカーから制服を取り出すと、鼻を近づけて――特にいつも珊瑚の胸が当たっているであろう場所に近づけて――思いっきり深呼吸した。
 とたん…
「おお…」
 なんとも言えない良い香りが体の中に流れ込んでくる。
 華奢で、繊細で、でもおおらかで、何かに包み込まれるような、誰かに抱きしめられるような、そんな心地良い匂い。ケーキのような、あるいはプリンのような、そんな柔らかくて甘い香り。
 それはどこまでも優しく暖かく、いつもニコニコと笑顔の珊瑚にふさわしい香りだった。
「…………………………………………ふぉお……………………………………………」
 思わず感嘆のため息。胸いっぱいに充満した陽だまりの香りが、汚れきった性欲をも洗い流していくような感覚だった。思わず感動の涙が流れ出てくる。
「神よ、感謝します」
 雄二は今この場にいることの感謝を、全身全霊を込めて神に捧げた。
 …もっとも、性欲自体はあとからあとから湧き出て尽きることはないため、かなり俗まみれの祈りではあったが。
「なんつーか、もう、俺ここで死んでも悔いないかもしれん…」
 蕩け切った頭でぼんやりとそんなことを呟きながら、珊瑚の制服をロッカーに戻す。頭の中はすっかりピンク色になって、再び男の子のシンボルがちょっとアレな状態になった。
 それでも――あるいはそうであるからなのか――彼の視線はロッカーの中にちらっと見えた何かを見逃すことはなかった。
「ん?」
 目の端に捕らえたそれは、折りたたまれた布のようだった。折りたたまれているとはいっても、ハンカチのようにぺたんと平らになってはいず、何か丸っこくふんわりとまとまっているかのような按配である。
「これは…」
 雄二は手を伸ばして、その白い布地を取り出してみる。肌触りは、どうやらコットンのようだった。
「こっ、こここ、これはっ…!」
 純白の布地。ワンポイントに赤いリボンがあしらわれていて、実にラブリーだ。
 姫百合珊瑚のぱんつがそこにあった。
「珊瑚ちゃんの…おおお〜。なんだこれ、なんでぱんつが? え? つーかなに、ひょっとして珊瑚ちゃん…」
 先ほどの珊瑚の姿を思い出す。白い体操服、赤いブルマー…。そして、雄二の手の中の純白ぱんつ。
「の、ののののののノーパンっ…」
 思わず鼻血が出そうになって、慌てて上を向いて首をトントン。まさかとは思うが、何しろ現物が手の中にあるので、妄想の信憑性はきわめて高い。
 ブルマーの下の慎ましやかな花園を想像し、雄二の股間がますます元気になった。
「ていうか…」
 ごくっ、と再び生唾を飲み込み、珊瑚のぱんつに目を落とす。
「穿いてた…ってわけだよな、これ」
 いつもの珊瑚の笑顔を雄二は思い出す。
 あの可愛らしい笑顔。体つきは妹の瑠璃よりも華奢だが、その立ち居振る舞いから無防備な気配が立ち込めているせいで、外見以上にえっちっぽい雰囲気をいつもかもし出していた珊瑚。
 その珊瑚の下着が手の中にあり、そして先ほどまで着用していた可能性が極めて高い。
「……いくか……?」
 すーはーすーはーと、意味もなく深呼吸。
 いや、意味はなくもない。
 目の前の秘宝が内包しているであろう香気をより大きな振り幅で楽しむために、先ほどの制服の香りを逃がしているのだ。
 それにしても、薄暗い女子更衣室で全裸の男が下着を握り締めて深呼吸している様は、かなりハイレベルにシュールである。写真に撮って、然るべき雑誌に投稿したら、それなりの賞をもらえるかもしれない。
「………………よし」
 とにかく、しばらく深呼吸を続けていた雄二であったが、やがて時が満ちたらしく、きっと目を見開いた。そして、手の中のぱんつをゆっくりと顔に近づけていく。
「珊瑚ちゃんの……」
 ゆっくりと、ゆっくりと…
 まるで自分を焦らしているかのようにゆっくりと、彼は時間をかけてぱんつを持ち上げていく。
「あそこ…………」
 あと30センチ、あと20センチ…
 スウィート・スポットは着実に彼の眼前に近づいていく。
 すでに頭の中では、仮想の珊瑚の香りが渦巻いているくらいだ。
 あと15センチ…10センチ…
「いざっ…」
 ――と
「…ん?」
 不意に何か物音がしたような気がして、雄二は手を止めて耳を澄ます。
「……? なんだ…?」
 しばらくそうしていると、扉の向こうの遠くから、何か足音が聞こえてきた。それも一人ではない、かなり多数の足音だ。そして、その音に混じって、きゃっきゃっというざわめきも聞こえてくる。
「あ…、や、やべっ!」
 その音の正体に思い至り、雄二の顔から血の気が引く。体育の授業を終えた女生徒が校舎に帰ってきたのだ。
 通常、授業はチャイムが鳴るまでは終了することはない。が、体育の授業に限っては、複数のクラスで更衣室を共有するため、後のクラスが授業開始までに着替え終わるよう、先に使うクラスがチャイムの前に授業を終えて着替えを始めるのである。
 男子女子共にそれがならいになってはいたのだが、いちいち時計を確認していなかったのと頭がトンでいたせいで、意識の上からすっぽりと抜け落ちていたのである。
『あ〜、ちょっと腕が痛いかも…』
『あはは、このみは手加減せえへんからなぁ。あんだけ思いっきり振り回してれば、そら腕も痛くなるやんな』
『え〜。だぁってぇ〜…』
 やがてざわめきどころか会話の内容すらかすかに聞こえてくるまでになる、慌てて雄二は隠れ場所を探して四方を見渡すが、狭い更衣室のこと、隠れられそうなところはどこにもない。ロッカーは皆使用されているし、仮に空きがあってもいまから探していては間に合わない。
 ――が
「って、俺いま透明人間じゃん」
 そのことに思い至り、とりあえずほっと胸をなでおろす。扉を開けられようとなんだろうと、自分の姿は見えないのだからどうってことはない。
 笑いながら彼は珊瑚のロッカーの扉を閉め、やがて入り口のドアを開けてやってくるであろう女生徒の群れを思ってほくそ笑んだ。何しろこれから、女子更衣室に堂々といながらにして、女生徒の着替えを思う存分鑑賞できる時間が始まるのだ。普通こんなチャンスは願ったってありえない。
「くひひ、あとは女子にぶつからないように気をつけなきゃな…机の下にでも潜っとくか?」
 長テーブルは、人一人くらいなら下に潜めそうな大きさである。姿を見られる心配はないが、物理的な接触は可能であるため注意は必要なのだ。
 とりあえず彼は隠れ場所をテーブル下に定め、身を屈めて潜り込もうとした。
 ――が、手を床につこうと伸ばした瞬間、雄二の目に純白の何かが飛び込んできた。
 珊瑚のぱんつだった。
「なっ…!」
 先ほどロッカーを閉めた時、手に持ったまま中に入れ忘れたのだ。
「ま、まずい…!」
 不自然にテーブルの下に下着が落ちていたのでは、まかり間違って雄二の身体に手が伸びてくる可能性もある。慌てて雄二はロッカーにぱんつをしまおうと立ち上がる。
 が、時すでに遅し。扉の向こうに人の気配が下かと思うと、がちゃりとドアノブが回されて入り口から女生徒が入ってきた。
「――――――!!!」
 万事休す。テーブル下に隠れるどころか、手にぱんつを握って立ち上がった姿勢のまま、入り口から女生徒が入ってきてしまった。
 が、すんでのところで彼はある隠し場所に思い至り、電光石火の速さで珊瑚の下着をその場所に隠した。
 すなわち――
 たたんで丸めて、口の中に放り込んだのである。
 見事、珊瑚の下着は中空からその姿を消し、入ってきた女生徒の目には、いつもの更衣室の風景が広がるばかりになった。
「――あれ?」
 …が、いちばん最初に入ってきた女生徒だけは、かすかに白い色を目撃したらしく、いぶかしげに目を細めて雄二が立っているあたりをじっと見つめた。柚原このみだった。
「ん? どしたん?」
 続いて入ってきた女生徒――姫百合瑠璃が、このみの様子に怪訝そうな目を向ける。
「え? えっと…なんか、ヘンなのが見えたような気がしたんだけど…」
「ヘンなの?」
「うん、何か白いの」
「白い? 羽虫かなんかやないの?」
「えっと…どうだったかな」
 そんな会話を横に聞きながら、雄二はと言うと抜き足差し足で更衣室の隅っこの方に逃げている最中だった。
 女生徒たちが入ってきたからには物音を立てるわけにはいかず、必然素早い動きができなくなる。テーブル下に慌てて潜って頭でもぶつけた日には目も当てられないので、仕方なしに隅の方へと逃げ場を求めたのだ。
「瑠璃ちゃん、どうしたん?」
「あ、さんちゃん…」
 瑠璃の背後から声がする。どうやら珊瑚のようだった。
 このみと瑠璃が入り口付近に陣取って動かないので、何かあったのかと声をかけたらしい。
「このみが、なんやヘンなもん見たって」
「ヘン? なんやの?」
「白いのやって」
「白い? エクトプラズムちゃうか?」
「エク…? それ何なん?」
「霊魂やね。出っ放しやと死んでまうで」
「そ、そんなんおらんよ」
「そう? 瑠璃ちゃんの口からなんかでてるけど、だいじょぶ?」
「あーうーっ! このみー、さんちゃんがイジワル言うよぉーっ」
「あ、あはは…」
「わーい、瑠璃ちゃん泣いたぁー。子供やぁ〜」
「泣いてないぃ〜っ!」
 姫百合姉妹の相変わらずのやりとりが更衣室内にこだまする。それを契機というわけではないが、その後から続々と女生徒が入ってきて、先ほどまでひっそりとしていた更衣室の中が一気に喧騒に包まれる。
 そんな中、雄二は掃除用具箱の前をエスケープゾーンと判断し、小さく屈んで身を潜めながら女生徒の着替えを眺めていた。人口密度が上がったために完全に気を抜くことはできないが、とりあえず女生徒が近寄ってきさえしなければ、安全を確保したといってよい場所だった。
『ふぉお…』
 目の前では、すでに幾人かのお着替えタイムが始まっている。まさかそんなところから男の視線が放たれているとは思ってもいないから、皆何一つ躊躇することなく体操服を脱ぎ捨て、体育の後の上気した素肌をさらしていく。
 雄二にしてみればユートピアにいるも同然の状態で、眼前に広がるとりどりの女体に、今にも伸びきった鼻の下がポトリと落ちそうだ。
 下級生の体とはいえ、入学から半年も経過すれば、この時期の女の子はなかなかに成長するものだ。個人差はあるとはいえ、皆一様に女らしく丸みを帯びていて実に柔らかそうである。
 目を部屋の端から端に走らせれば、飛び込んでくる様々なセミヌード。
 ピンク、グリーン、純白、黄色、ブルーにグレーに水玉模様。包まれるは大きいの小さいの中くらいのに、弾力がありそうなのふわふわしてそうなの迫力があるのと、もう何かどこかで開かれている展覧会もかくやといった趣だ。
 男にとって、あるひとつの理想郷に、いま雄二はいるのである。
 とはいえ、そんな数多くの女体以上に、興味のある存在がまだ着替えを始めていない。
 最初に入ってきた三人の女生徒である。
 このみの目撃した『何か』について議論していた分だけ、周りのペースから遅れているのだ。
『ったく、何やってんだ、早くしろっつーのチビ助め…』
 先ほどまで雄二が立っていた場所を見つめながら、一向に着替えを始める様子のない幼馴染に心の中でブーイング。友人に悪いと思って更衣室から離れようとしたことはきれいさっぱり忘れているらしく、姫百合姉妹と共に、幼馴染のお着替えシーンも覗き見する気満々である。まぁ、これだけ周りに女の色香が溢れていては、理性が吹っ飛んでもおかしくはないが。
 ともかく、そんな雄二の欲望が時を動かしたのか、『何か気のせい』と結論を出したらしい3人が各々のロッカーの前に歩いていく。どうやら着替えを始めるようだ。
『よっし、来たっ!』
 思わず屈んだまま前のめりになる雄二。もう興奮を抑えきれないらしい。
 が、そんな雄二のヒートアップを制するかのように、ロッカーを覗いていた珊瑚が「あれー?」と声を上げた。
「おかしいなぁ…」
「さんちゃん、どしたん?」
 突然声を上げた姉に、何事かと瑠璃が声をかける。声を聞きつけたこのみも寄ってきて、結局3人とも着替えはお流れだ。
『ちっ、何やってんだ…』
 心の中で文句を垂れる雄二。
 しかし、彼は忘れているようだが、原因は雄二にある。
「パンツがあらへん」
「パンツ?」
「替えのパンツ…」
 そう、雄二が先ほどから口に含んでもがもがやっている、珊瑚のぱんつのことである。
 何のことはない、ノーパンで体育の授業を受けていたわけではなく、汗をかいた時のための替えの下着を用意してあっただけなのだ。
 とたん、雄二の方からがくんと力が抜ける。ありがたがっていた下着が着用前だったのがこたえたようだ。
「珊瑚ちゃん、それ、家に忘れたとかじゃない?」
「ううん、だって、ウチ、カバンから出して、たたんでここに置いておいたんやもん…」
「そっか…」
「瑠璃ちゃん、知らへん?」
「ウチも知らんよ。ウチのはちゃんとあるし…。さんちゃん、よう探したん?」
「探したよぉ。でもないもん。ウチのパンツ、のうなってもた」
「まさか…」
 瑠璃の目尻がきっと上がる。何かに思い至り、怒っているようだ。
「さんちゃんのパンツ、下着ドロに盗まれたんちゃうかな」
「下着泥棒さん?」
「さんちゃん〜、泥棒をさん付けで呼んでどないすんねんな。下着ドロや、ドロ」
「ええ〜、でも知らん人のこと呼ぶときはさん付けせなあかんて、ママやんが言うとったで」
「悪いヤツのことまでさん付けせんでもええて」
「わからんで。悪い人のフリした下着ドロさんかもしれへんで」
「どんなんやねん、それは」
 もはや素で漫才の二人の会話であるが、事態は下着ドロよりはるかに深刻である。何しろ全裸の出歯亀が堂々と更衣室に鎮座しているのだから。もちろんそれに気づくはずもないのだが。
 一方、当の雄二はと言えば、天然ボケ関西姉妹のやり取りを前に、笑いをこらえるのに必死である。
「ちょっとちょっと、下着ドロってホント?」
「ええ〜、ヤバイんじゃん、それ」
 二人の会話を聞きつけたのか、他の女生徒たちもいっせいに騒ぎ始める。
「みんなはのうなったもん、ないん?」
「こっちはないよ」
「あたしんとこも大丈夫」
 瑠璃の問いかけに、皆いっせいに持ち物を確認し始めるが、当然他になくなったものなどない。
「さんちゃんだけを狙ったんかな? 下着ドロのクセにええ趣味しとるやんか」
「瑠璃っぺ、そういう問題じゃないんじゃない?」
「まあ、そやけど…」
「で、どうする? 先生に相談しに行こうか?」
「せやなぁ。後で言いにいかなあかんよね。でもその前にさんちゃんのパンツどうしよか。さんちゃん、他に持ってきてへんのやろ?」
「持ってきてへん〜。まさか取られるなんて思うてないもん」
「ウチのパンツ貸したろか?」
「それじゃ瑠璃ちゃんのパンツないやん」
「ええて、そんなん。さんちゃん、汗かいたやろ?」
「んー。そんなでもないよ。動いてへんし。瑠璃ちゃんのほうがべちゃべちゃやん?」
「べ、べちゃべちゃって、やな言い方やな。えっちぃで」
「えー、なにがえっちぃん? 瑠璃ちゃん、何がえっちぃな?」
「あーうーっ!」
「…あんたたちホント緊張感ないね…」
 2人の会話を聞いていた女生徒が苦笑を浮かべる。きっといつもこんなやり取りを聞かされているのだろう。
「じゃあ、着替えたら職員室行こうか」
「せやな。いいんちょもついてきてくれるん?」
「まあね、あんたらだけじゃ、報告そっちのけで漫才でしょ?」
「ま、漫才ちゃうぅ〜」
「あはは、はいはい」
 委員長と呼ばれた女生徒が笑いながら着替えに戻ると、場の緊張感が程よく緩んで、先ほどまでの和やかな雰囲気になる。どうやら他に特に取られたものもないため、緊急性は低いと判断したのだろう。何人か、机の下などを覗き込んで下着を探してくれている娘もいたが、やがて諦めて全員着替えに戻ったようだ。
『ふ〜…。咄嗟の判断とはいえ、我ながらうまい隠し場所もあったもんだよな』
 再び広がるユートピアを前に、珊瑚のぱんつを口に詰め込んだまま、雄二が自分の判断を自画自賛する。
『ていうか…。ついに、チビ助たちの着替えシーン!』
 見れば、このみが体操服の裾に手をかけたまさにその瞬間だった。ついに10年来の幼馴染の脱衣現場を拝める時がきたわけだ。
 思わず『ぎんっ!』と、思い切り視線に力を込めてしまう。
 ――が
「?」
 ふとこのみが裾をまくる手を止めて、きょろきょろと辺りを見渡しはじめた。不思議そうな顔で、何やら周囲をくるくると確認しているようだ。
『ちっ、何やってんだあのバカ。さっさと脱げっつーに。オラ脱げ、早く脱げ、今すぐ脱げ!』
「…………?」
 しかし、雄二の邪念をよそに、このみはぱたっと着替えるのをやめて、ますますきょとんとした顔で右を見つ左を見つ、何かを探しているようだった。
「このみ、どしたん?」
 ブルマーの上からスカートを穿いた瑠璃が、このみの方へと寄ってくる。一向に着替えようとしないこのみに何かあったのかと思ったらしい。
「あ、瑠璃ちゃん…。えと、なんかヘンな感じがして」
「ヘン? 何や、まさかこのみもパンツ盗まれたん?」
「そうじゃないけど…、なんか、ヘン」
 瑠璃の問いかけにも、応えは曖昧である。どうやら本人にもよく判っていないらしい。
『なんだ? チビ助のやつ…』
 よく判らないのは雄二も同じである。せっかくベストポジションをキープして覗きに没頭していると言うのに、先ほどからメインディッシュ3人が一向に着替えを始めないのだから無理もない。
 案の定と言うか、珊瑚もこのみの様子に気づいて、スカートを穿いたまでで着替えの手を止めてしまう。
「どしたん? 早よ着替えんと、次のクラス来てまうよ?」
「うん…」
 言われて、このみは再度裾に手をかけて着替えを始めようとする。が、やはりすぐに手を止めて、辺りをきょろきょろと見回し始める。
「なんか…誰かに見られてるような気がする」
 不意にこのみがそんなことを呟いた。
「誰か? 誰かって何や、まさかノゾキがおるんか!? さっきの下着ドロやないやろな!」
 このみの言葉にいち早く反応したのは瑠璃である。珊瑚の下着が盗まれたらしいのが、まだ腹に据えかねているらしく、すぐに目を吊り上げて辺りをきょろきょろと睨み回し始めた。
 それより何より驚いたのは雄二である。姿は見えないはずなのに、いったいなぜ自分の気配に気づいたのか、全く予想外のこのみの反応なのだ。
「どこや!どこにおるん!?」
「えっと…私もよくわからないけど…」
 瑠璃の剣幕に押される形で、このみがおずおずと方向を定める。少し右に左にと迷っていたようだが――
「こっち、かな」
『!!!!!』
 指差したのは掃除用具箱。まさに雄二が陣取っているその場所に間違いなかった。
 当の雄二はわけがわからずパニック状態だ。見えざる姿は絶対の保証だと思っていたのに、いまその信頼が崩れつつある。
『マズい…!』
 だが、うかうかしていれば本当に見つかってしまうかもしれない。現に、このみの指差した方をきっと睨みつけた瑠璃が、つかつかと掃除用具箱の方へと歩いてきているのだ。
『くっ…』
 咄嗟に雄二はその場から離れて、今度は机の下へと場所を移動する。すでに大半の女生徒は着替えを終えて教室に戻っていたので、先ほどよりも動きが取りやすい。
「掃除用具箱に隠れてるんか? ええ度胸しとるやんか、この下着ドロ。覚悟しいな!」
 雄二と入れ替えに瑠璃が掃除用具箱の前に立ちはだかって啖呵を切る。
 間一髪。もう少し遅れたら、歩いてくる瑠璃の足に雄二の頭が蹴飛ばされていたところだった。
「出てこんかいっ!」

 バンッ

 威勢良く瑠璃が掃除用具箱の扉を開ける。仮に本当に除き魔がそこに隠れていれば、鬼の形相の瑠璃の剣幕に縮こまって、身動きひとつ取れなかったろう。
 が、実際にはそこには誰の姿もなく、ただ箒やらバケツやら雑巾やらが雑然と詰め込まれているだけだった。除き魔どころか猫の子一匹いない。
「……なんもおらんで?」
 拍子抜けした瑠璃がこのみに声をかける。
 が、このみはというとすでに掃除用具箱には目を向けていない。彼女はばっちりと雄二が潜り込んだテーブルの下を見つめていた。
『な、なんなんだよチビ助の奴…』
 もうわけが判らない。移動は細心の注意を払い、ほこりひとつ立てなかったはずだ。ましてや足音など、はっきりと判る痕跡は何一つ残していない自信がある。
 なのに、このみはといえば、まるで雄二の姿が見えているかのように、じっとテーブルの下を見ていた。
「このみ?」
「あ、うん…」
「なんもおらんけど…」
「あ、あは。やっぱり私の気のせいかな」
「……でも気になるん?」
「う、うん…」
 このみの様子にただならぬものを感じたのか、瑠璃も辺りを見回して、このみのいう気配を探す。だが、瑠璃には何も感じられないらしく、このみのように一点を注視することはなかった。
 そんな2人の様子に、珊瑚が声をかける。
「なぁ、遅れてまうで?」
「あ、さんちゃん…」
「なんもおらんし、気にしてもしゃあないんちゃう?」
「そやけど、下着ドロの件もあるしなぁ」
「じゃあ、体操服のまんま授業受ける? ウチはそれでもええけど…」
「そ、それもイヤやな」
 クラスの中、自分たちだけブルマー姿で授業を受けるところを想像したのか、瑠璃がぶるぶると首を振る。

 きーんこーん…

「ほら、チャイム鳴ってもたし」
「せやな…」
 やがて何も見当たらない更衣室に諦めたのか、瑠璃もブルマーを脱いで着替えを再開し始める。上着を脱いだ背中が白く輝いて、実に美しい光景が無機質な更衣室に広がる。
 が、雄二はと言うと、そんな天使たちの着替えシーンに熱中する余裕もなく、自分に向けられたこのみの視線に必死で耐えていた。
「……………………」
『……………………』
 着替えを再開した二人をよそに、このみはまだテーブルの下を覗きこんで、不思議そうな目を雄二のいる辺りに向けている。よほど何か違和感を感じているらしい。他の場所には目もくれることなく、ただじぃっと雄二がいる辺りを見ていた。
 それどころか、しばらくすると彼女は足を曲げて屈みこみ、本腰をいれたようにテーブルの下をじっと見つめ始める。まるでそこに何かの影を物理的に見ているかのように。
「……………………」
『……………………』
 ここまで来るとほとんど根比べである。見つめる者と見つめられる者、どちらが先に折れるかの勝負だ。もっともこのみの方は、気にはなっているとはいえやはり姿は見えないらしいから、このままじっとやり過ごせば雄二のほうが条件的には圧倒的に有利であるのだが。
 しかし、そのまま1分も経過しようという時、またぞろこのみが信じられないことを口にした。

「……………………もしかして……………………ユウくん?」

『!!!!!!!!!!!』
 いきなりのサプライズ。すんでのところで両手で口をふさいので声は漏れなかったが、心臓が一瞬停止するほどの衝撃だった。
『な………なん………』
 ぶるぶると身体は震え、顔から血の気が引く。脂汗が背中からにじみ出る感触がやけにはっきりと感じられ、涙は今しも目から零れ落ちていきそうだった。
 見えていない、絶対見えていないはずだった。今もこのみはこちらに向いているとはいえ、視線は雄二の視線から若干ずれているし、そもそも本当に見えているのなら"もしかして"も何もないだろう。
 しかし、現実に彼女はそこに潜む自分の名を言い当てている。
 不思議そうな顔でこちらを見つめる瞳は、しかし今の雄二にとっては閻魔大王の睨みよりも恐ろしいものに思える。
 生まれて初めて、雄二はこの小さな幼馴染が、あるいは自分の姉以上の脅威であるかもしれないことを感じていた。
「このみ、やっぱり気になるん?」
「あ、瑠璃ちゃん…」
 すっかり着替えを終えた瑠璃と珊瑚が、まだ着替えを始めようとしないこのみに心配そうに声をかける。
「どないすんの? そんな気になるんなら、保健室とかで着替えたらええんやないかな」
「うん…」
 瑠璃の提案に、このみは少し考えるそぶりを見せていたが、やはり更衣室の中は落ち着かないらしく、そそくさと荷物をまとめて出て行ってしまった。
 入れ替わりに、次のクラスの女生徒たちが続々と入ってきて、再び室内が騒然となった。
『ふぃ〜………』
 安堵したのは雄二である。ほとんど最大の危機を何とか逃げ切ったのだから無理もない。またも目の前に広がる桃色の光景に注目するような余裕すらもう残っておらず、今なおバクバクとうるさく鳴る心臓の音を聞きながら、先ほどのこのみの視線を思い出していた。
『なんで気づいたんだ…? あいつ、あんなに鋭かったっけ…』
 最後の最後で確証を掴まれたわけではないにせよ、このみの前にこの姿で現れるのは危険なようだった。
 女生徒たちの着替えを眺めながら、雄二はぼんやりとした頭で、現在は姉の環の名前しか書かれていない脳内ブラックリストに、柚原このみの名前をしっかりと書き込んだ。


     ※


 ブルブルブル、ブルブルブル……

「なんだ? このみから電話? ……はい、俺だけど?」
『あ、タカくん?』
「ああ、どうした? 学校で電話なんかしてきて」
『うん、あのね…。ユウくん、そっちにいる?』
「雄二? いや、いないけど…」
『おトイレ?』
「いや、そうじゃないと思う。さっきからいないんだよ、ずっと」
『そう…なんだ』
「なんだ、雄二だって携帯持ってるだろ? そっちにかけないのか?」
『かけたけど、留守電になってて』
「そうか」
『いつからいないの?』
「3時限目にはもういなかったなぁ」
『そっか…。じゃあ、やっぱり…』
「どうした? 雄二に何か用事?」
『あ、ううん、そんなんじゃないよ…。えと、ユウくんが戻ってきたらね「もうあんなことしちゃダメだよ」って、言っておいて?』
「あ、ああ…。いいけど。なんだそれ?」
『多分、言えば判ると思うから』
「あ、そう…」
『じゃあね、今日も一緒に帰ろうね?』
「ああ」
『それじゃ…』
「ん」

 プツッ…

「なんだ? このみのやつ…」


      ※


 この学校にクイーンと呼ばれる者がいるとすれば、それはある2人の女生徒が該当するだろう。
 一人は向坂環である。流れるような赤髪に派手なボディライン、堂々とした立ち居振る舞いと、時折見せる女性らしい表情は実に魅力的で、同性から見ても憧れの対象となりうるほどの存在だ。
 そしてもう一人が、この学校の現生徒会長久寿川ささらである。
 去年までは、『鬼の副長』とまで渾名されるほどの苛烈な方針で活動を続けていたために、畏怖されこそすれ憧れられることはなかった。が、3月に行われた卒業式でのある出来事から彼女の意外な一面が知られることになり、それまでの評価が一転、一気に好意的なものへと変化したのだ。
 もともと環にひけをとらない美女であるのも加え、その時見せた儚い少女の一面が強く生徒たちの心を打ち、またそれ以来打って変わって温和な物腰になったため、反動も手伝って一気にファンを増やしたのである。
 3年生であるためこの文化祭をもって生徒会長の任を降りることを、仕方ないこととはいえ惜しむ声がすでにあちこちから上がっているほどだ。

「会長ー、いくよー?」
「あ、はい…」
 さて、その久寿川ささらであるが、今は4時限目の体育の授業中である。種目はバドミントンで、今は相手側から飛んでくるシャトルを待ち構えているところだった。
「それっ」

 パシュッ

 小気味良い音を立てて、シャトルがラケットから打ち出される。
 ささらはその音に敏感に反応すると、シャトルの軌道を読んで落下地点に素早く移動する。その動きに合わせて、色素の薄い反面ヴォリュームのある豊かな髪が波打つ様は、周囲で応援している女生徒たちですら思わず息を飲むほどに幻想的な光景だった。
 ――が

 すかっ

「あっ」
 振りぬいたラケットは完全に空を切り、妨げられることのなかったシャトルが体育館の床にバウンドする。見事な空振りである。
 その瞬間、ささらの耳が真っ赤に染まる。実は相当に運動音痴なのだ。

 きーんこーんかーん…

「あ…」
 と、その瞬間、ゲームの終わりを告げるようにチャイムが鳴った。4時限目の後はお昼休みなので、この時ばかりは時間一杯まで授業が続くのだ。
 ちなみにポイントは17対0。言うまでもなくささらの惨敗ゲームである。
「はい、そこまで〜!」
 体育教師の声が体育館に響き渡り、みなの緊張感がさっとほぐれる。とたん、ささらの相手が両手を上に挙げて「勝ったぁ〜」とガッツポーズをした。
「うう…また負けた…」
 対人種目で一度として勝ち星を挙げたことのないささらががっくりと肩を落とす。このままでは、卒業するまで負け続けの人生を歩み続ける可能性大だ。
 勉強ではトップクラスの成績を記録しているとはいえ、元来負けず嫌いの性格であるので、やはり一度くらいは勝利のガッツポーズを決めたいのである。
「あはは、まぁ誰にでも得手不得手はあるからねぇ〜。勉強で勝てない分、こういう時に勝っとかないとね」
「うう…」
「ほらほら〜、会長も泣かない泣かない」
「えー、何々? 静ってば会長泣かしちゃったの?」
「ダメじゃん静〜。会長泣かして良いのはあたしだけなんだからさぁ」
「わ、私泣いてなんか…」
 鬼の副長と呼ばれた去年の面影などすでにどこにもない。そこには和気藹々と仲間と戯れる少女の姿があるばかり。幸せな時間が、彼女の周囲を確かに包んでいた。


 ――と、そんな彼女の姿を、物陰からこっそり見つめている視線があった。
 透明人間になった向坂雄二――ではない。小柄な女生徒だ。
 いや、正確には女生徒ではない。学校指定のセーラー服を着ているから紛らわしいが、彼女自身はすでにこの学校を卒業したOGである。
 桃色の長髪に、このみといい勝負のスレンダー体躯。イタズラっぽい瞳と、にやりとほくそ笑んだ口元。先代生徒会長にして、その数々の所業からゴッデス・オブ・卑怯の通り名を欲しいままにする小さな悪魔。
 人呼んでまーりゃん先輩がそこにいた。
「くぅ〜…さーりゃんってば、もうすっかりみんなと打ち解けちゃって…。くっ、お母さんは嬉しいよ!」
 言うまでもないが彼女はお母さんではない。
「あぁ、でもなぁ、あの調子だとあちしのこと、忘れちゃうかなぁ。はぁ…捨てられた女なんて、いつだって儚い存在なのねっ!」
 別にささらと付き合っていたわけでも、捨てられたわけでもない。
「…と言うわけで、ちょっとインパクトのあるイタズラで、あちしのことを忘れられないようにしてあげる必要があるのだよ、キミぃ。わかったかね?」
 話し相手が周りにいるわけでもない。
 とにかく先ほどから意味の判らない独り言を呟きながら、なにごとかあれこれと画策しているようだ。誰もいない体育館、すでに隠れる必要もないのに物陰から離れる様子もなく、体育館の壁に好き放題落書きしながら、イタズラの策を組み立てている。
 その行動に一貫性はない。言うなれば、これがまーりゃん先輩という人物の世界観なのだ。
 やがてニヤリと笑みを浮かべると、彼女は体育館を後にして、ささらを求めて校舎へと侵入していった。

 波乱の種は、この時その芽を息吹いたのだ。


 さて、その頃の雄二はと言うと、相変わらず更衣室にこもって女生徒の着替えシーンを覗こうと頑張っているようだった。
 しかし、今いるのは1年生の更衣室ではない。3年生のそれである。
 先ほど体育館を確認しに行った折、そこにささらの姿を見つけたために、いそいそと校舎に戻って更衣室に忍び込んだのだ。
 前回の教訓を活かしてロッカーの中身にこそ手を出していないものの、何しろ今度のターゲットは普段から憧れの君と称してやまない久寿川ささらであるので、期待度は比較にならないほど高い。
 今も油断していれば思わず鼻血が垂れそうなほどに興奮しきりの雄二である。
「まーだっかな〜、まーだっかな〜。くっすがっわせっんぱっい、まーだっかな〜」
 やがて奇妙な鼻歌まで唄いだす始末。ここでも彼の姿について言及するが、視認できさえすれば、全裸でテーブルの下で体操座りをしている男子生徒が鼻歌を唄っていると言う、なんとも形容しがたい光景である。できれば鏡に映して本人に見せてやりたいものだが、何しろ鏡にすら映らないのでどうしようもない。
 いずれにせよ、ピンク色のフルーツジュースに脳内を満たされた彼にとって、自分の客観的な姿などどうでも良いのかもしれないが。
 ともかく、先ほどのチャイムの音から数分。やがて扉の向こうに喧騒が漂い始めると、おもむろにガチャリとドアノブが周り、続々と3年生の女生徒たちが入ってきた。その中には当然、久寿川ささらの姿もある。何やらセーラー服のままの女生徒も一緒に入ってきたが、生理か何かで見学している生徒は珍しくない。
 そんなことより雄二の目は、すでに手を伸ばせば撫でまわせるほどの近くにある、ブルマーに包まれたささらのヒップに釘付けだ。
 普段から制服越しにもわかる肉感的な身体のラインが、ぴったりとフィットしたブルマーのおかげでよりいっそう強調されて、なんとも言えずエロティックである。
 その上、一学年上の年齢でもあるせいか、先ほどの1年生たちとは比較にならないほどのフェロモンはくらくらと目眩がするほど濃密だ。まるで男たちにもぎ取られることをまっているかのような、そんな雰囲気すら漂う果実である。
『ふ、ふおぉおおおーーっ!!』
 究極セクシーなささらの後姿に、ボルテージは一気に上昇。もはや頭の血管がぶち切れて、煩悩の血がそこらじゅうに降り注ぎそうな勢いの雄二である。鼻血どころか、大事な部分から何か妙なものが危うく吹き出そうになるほどだ。
『ああ、ついに…ついに先輩の着替え…。うぉお…』
 まるで誘蛾灯に引き寄せられる蛾のように、彼はささらの尻に引き寄せられていく。
 我慢の限界はとっくのとうに超えており、姫君の生着替えを少しでも近くで見ようと、テーブルの下から這い出ていた。もうあと少し理性のたがが緩めば、後先考えずにささらに飛び掛るかもしれない。もはや誰にも彼の煩悩はとめられそうになかった。

 ――が

 いつだって、運命のステアは神の手によって簡単に切り返されるのだ。

 1速2速3速…
 アクセルに合わせて吹けあがるエンジンの回転に合わせてシフトは切り替えられ
 加速度をつけた風景は水のように流れゆくとしても
 叩きつけるようにブレーキを踏み込み
 こじるようにステアリングを切ってしまえば
 グリップを失った4つのタイヤはいとも簡単に滑り出し
 慣性に任せて車体はくるくると回転を始めるのだ

 そこから立て直された風景が
 以前と同じである保証はどこにもない

「ぼいん、たーっちっ!!!」

 更衣室に突如響いた明るい声。まーりゃん先輩が、背後からささらめがけて襲いかかったのだ。
 どうやら先ほど体育館で立てていた作戦は、何食わぬ顔で更衣室にもぐりこみ、ささらが着替え始めた瞬間を狙って背後から胸を揉みしだくという、実に単純なものだったようだ。

 ――が、普段なら成功していたであろうこの作戦も、今日ばかりは失敗に終わることになる。
 なぜなら――

 どんっ!

「あひゃあ!?」
「おわっ!?」
 まーりゃん先輩とささらを結ぶ直線状に、今まさに興奮の波に取り込まれていた雄二が腰を落として屈んでいたのである。
「あ、あ、あ、あーっ!?」
 そのままバランスを崩して、雄二の上ででんぐり返しをするような形で前方にひっくり返るまーりゃん先輩。慣性と重力に抵抗すらできず、雄二を乗り越えてすってーんと背中から床に叩きつけられる。ちょうど一回転したのだ。
「あいたぁっ!」
「ま、まーりゃん先輩!?」
 背後の悲鳴に驚いたささらが振り返ると、ひっくり返ってしましまぱんつ全開のまーりゃん先輩の姿が目に入る。ますます驚いて彼女に駆け寄ると、背中に手を回して上体を起こしてやる。
「あぅ〜…いたいよぉ…さーりゃん、いたいよぉ…」
「何やってるんですか、こんなところで…」
「さ、さーりゃんのおっぱい揉もうかなーって…」
「……………………」
「そ、そんな顔するなよぅ。それより、誰だよこんなところにヘンなもの置いたのは…?」
 そう言って彼女は雄二のいるほうに視線を向ける。が、当然何も見えるものはない。
 不可解な情景に、さすがのまーりゃん先輩もきょとんとした顔になった。
「ありゃ? なんもない…」
「え、何々、まーりゃん会長じゃん。なにやってんのこんなとこで」
「あれー。先輩まだ学校に通ってたんだっけ?」
 と、まーりゃん先輩の姿を見つけた他の女生徒たちもいっせいに駆け寄ってくる。これで意外と人気があるらしい。
 が、まずいことに雄二がまだ床にうずくまっているままだった。思いも寄らぬ方向からまーりゃん先輩に体重をかけられたせいで、床に顔面をしたたかに打ち付けて呻いていたのだ。
 当然の如く、近寄ってきた女生徒の一人が雄二にけつまづく。先の被害者のように勢いはついてなかったので前転一回転と言うことにはならなかったが、バランスを崩して前のめりに転んでしまった。
「わっ!?」
「えっ? なに、涼子どうした?」
 驚いて駆け寄った女生徒が、続けて雄二にけつまづいて転ぶ。
「わわっ!?」
 もはや大惨事どころか、『世にも奇妙な物語』の世界である。何もないように見える空間にけつまづいて、人間が転ぶ転ぶ。
 トラブルメーカーでならしたまーりゃん先輩も唖然とした表情で、何か絶対領域のように侵入を拒否する空間を――つまり雄二がいる辺りを見つめていた。
『や、やばい…』
 慌てたのは雄二である。ささらの色香に迷って、とんでもない事態を招いてしまったことに今更ながら気がついたのだ。見れば四方を女生徒に囲まれていて、逃げ出す隙もない。なんとか突破口を見出そうと必死で辺りを見渡すが、少なくとも現状はほぼ絶望的な状況だった。
 だが、ことはこれにて終わりというわけではない。
「あっ!?」
 不意にささらが驚きの声を上げる。
「どした、さーりゃん?」
「あ、あ、あの…そこっ! そこから、何か…」
「あに? って、おおいっ!なんじゃこりゃあ!?」
 ささらの視線を追ったまーりゃん先輩も"それ"に気がついたらしい。その声につられるように、方々から驚愕の声が上がる。
『な…なんだ…?』
 さっきまでとはまた違う異様な雰囲気に、雄二も思わず怪訝な顔をする。が、すぐに彼も、周囲が何に驚いていたかを思い知ることになった。

 ぽたっ…

『ま…まさか…』
 おそるおそる、自分の鼻に手を持っていく。
 べちょりとした感覚があった。
『…………げっ』
 手を見れば、赤い色。
 手だけではない、床にはすでにいくつかの飛沫ができている。
「こ…これってまさか…血…?」
 女生徒の間から声が漏れる。
 まさに、雄二の鼻から鼻血が垂れていたのだ。どうやら、先ほど床で顔を打った際、鼻にダメージを受けたようだ。
『…………ヤバイ』
 顔から血の気が引く感覚。先ほどまで熱かった顔面はすでにしっかりと冷え切って、『どうする?』の声だけが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
 と、頭の辺りになにか感触があった。
「ま、まーりゃん先輩!? 大丈夫なんですか!?」
 ささらの声。
 見ると、まーりゃん先輩がこちらに手を伸ばしていた。その手はしっかりと雄二の頭の上に乗せられ、ぽんぽんと感触を確かめるように叩かれる。
「何かいる…!」
「な、何かって…」
「見えない何か、でも感触がある何か…」
 まーりゃん先輩が、確信を持ったような声で話し始める。
「あちしのぼいんたっちを邪魔し、涼子ちゃんやえみこちゃんをも毒牙にかけた"何か"…」
 ごくっ、と唾を飲み込む音が周囲から聞こえる。みな、固唾を呑んで、小さな先輩の口から発せられるであろうとどめの一言を待っているのだ。
 一呼吸、二呼吸、間が開く。
 やがて満ちたのか、彼女はびしっと指を雄二に向けて、声高らかに宣言した。

「ズヴァリ、透明人間だっ!」

「い…いやあああああああっ!」
 とたん、狭い更衣室が切り裂くような悲鳴に包まれる。
 あちこちで逃げ惑う者や興味津々で覗き込む者、呆然と突っ立っている者が右往左往に入り乱れて大騒ぎになった。
「くっ…」
 雄二は混乱の中を掻き分けるようにして逃げ出す。透明人間の存在を気づかれたとはいえ、それが自分であると看破されたわけではない。とにかく今は逃げることが先決だ。
 きゃあきゃあと女生徒にぶつかるたびに上がる悲鳴を強引に振り払って、彼は更衣室の扉を開けて外に跳び出て行った。

 後には子羊のように震えた女生徒だけが残り――いや、更衣室から飛び出してきた影が一人あった。まーりゃん先輩である。
 彼女はきらきらと、まるで何か凄い宝物を見つけた少年のような瞳で、廊下に滴り落ちた鼻血の雫を見つめると、何事か思いついたらしく、その場からいずこかへと走っていった。


「か、会長…大丈夫?」
「あ。うん…大丈夫だけど」
 喧騒冷めやらぬ更衣室の中では、ささらが呆然とまーりゃん先輩の出て行った後の扉を見つめていた。
「でも…」
「でも?」
「あ、ううん…なんでもない」
 ささらは、一人心の中で、大きなため息をついた。
 透明人間、そしてまーりゃん先輩。
 とても穏便にはすみそうにない要素が、今校舎を駆け回っているのだ。
 卒倒しそうな目眩を感じ、ささらはもう一度、心の中で大きなため息をついた。


      ※


『全校生徒に連絡! 全校生徒に連絡!』

 昼休みの校内放送。いつも小さく流れているクラシックの旋律が途絶えたかと思うと、突然大音量で女生徒の声が響いた。まーりゃん先輩である。
 先ほどまで、校舎中を走り回って透明人間現るの喧伝をしていたのだがやがて走り疲れたらしい。きびすを返して階段を駆け下り、1階の職員室横にある放送室に乱入すると、制止する放送部の面々をハリセンで叩きのめしながら、マイクに張り付いたのだ。

『先ほど学校内で、透明人間の存在を確認! 現在校舎内を縦横無尽に逃走中! 繰り返す! 先ほど学校内で、透明人間の存在を確認! 関係者は直ちに生徒会室に集合せよ!』

 何度も繰り返したフレーズを、ここぞとばかりに大声でマイクに叩きつける。それが生み出す騒動など、彼女の頭にははなっからない。とにかく、面白い事件が起こればそれでよいのだ。

『なお、ただ今より生徒会室を作戦総本部とし、全校生徒による透明人間捕獲作戦を開始する! 関係者は直ちに生徒会室に集合せよ! また、各出入り口近辺にいる者は、至急扉を封鎖して、透明人間の逃走を防ぐべし! 再度繰り返す! 先ほど学校内で、透明人間の存在を確認! 現在校舎内を縦横無尽に逃走中! 関係者は直ちに生徒会室に集合せよ!』

 前代未聞の透明人間騒動。
 後々まで黒い歴史として語り継がれることになる、学校創立史上最大の騒動の火蓋が、いま切って落とされたのだ。




――――――――――――――――中編2につづく


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