揺れる想い 〜前編〜
曲名シリーズ 第三作品
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     ※


――ねえ、お父さん
――なんだい?
――宇宙人って、ほんとうにいるの?


     1


 かつてこの学校には、魔術実践を主体とした秘学研究活動を行うクラブが存在していた。
 日本はおろか、世界でも有数の財閥である来栖川グループの令嬢・来栖川芹香が発起人と言われるオカルト研究会。僅か3年という短い活動期間だったにも関わらず、職員あるいは生徒会などの上層部に多大なるトラウマを植え付けるほど強烈なインパクトを残した伝説の部活である。
 しかも奇妙な事に、廃部になった今でも誰も触れたがらないほどの存在感を持ったクラブでありながら、誰一人その詳細な活動内容を知る者がいないという事実。触れたがらないから話さない、ではない。それもあるにはあるが、何より、本当に誰も知らないのだ。
 活動が行われていた部屋は、今なお開かずの間として近寄る者もなく、活動期間中の資料は、クラブ活動登録届けを残してすべて消失。当時の顧問はすでに他校に転勤し、聞くところによれば心を病んで入院中だという。
 昨年卒業した前生徒会長にして、その数々の所業から"魔王"とも呼ばれる朝霧麻亜子ですらその実態を知ることのなかった、学校最大にして最深の謎。それがオカルト研究会である。
 しかし、そんな不穏な逸話が満載の研究会に興味を持ち、あろうことか入部手続きを取ろうとした驚くべき生徒がいた。
 それが、今年2年生になる笹森花梨である。

 それは、ちょうど一年前。まだ桜も散りきらない、四月初旬の放課後。
 鈴を転がしたみたいな朗らかな声が、平和な職員室に悲劇を告げにやってきた。

「すいません、オカルト研究会って、まだ活動してますか?」

 応対した教員は、その瞬間、時間の流れが止まる光景をはっきり見たという。
「いま…なんて言った」
「え? だから、オカルト研究会ですよ。探したけれど、部室が見あたらなくて…」
 癖っ毛なのだろう、つんつんと張りのある山吹色の髪を2本のおさげに結った、活発そうな女生徒だった。人なつっこそうに微笑を湛えて教員を見つめる瞳と、愛想良く笑う小さな口元は、まるで遊びをねだっている猫のようである。髪を飾るヘンな顔みたいなアクセサリーもどことなくユーモラスで、明るそうな彼女の表情によく似合っていた。
 全体的に明るさと元気さと少女っぽさが同居した、可愛らしい女の子だ。平常時であれば、愛想笑いの一つでも浮かべて、ちょっと猫なで声で応対したくなるような女生徒である。
 しかし、教員の目にはそんな数々の魅力的なパーツは何一つ映っていないらしい。華奢な体格からすれば意外なほど制服を持ち上げている胸元も、詰めて短くしたスカートからすらりと伸びた太ももも遥か彼方にすっ飛んで、何やら訃報を囁く死に神の如き印象だけが脳裏を支配する。
 喉は一瞬でからからに渇き、激しく脈打つ心臓の音が、耳が遠くなったおばあちゃんにすら聞こえるのではないかと思えるほどドクドクと鳴り響く。
 しかし、それでもその教員は、感嘆すべき精神力で体勢を立て直すと、ごくりとつばを飲み込んで喉を潤し、かろうじて「そんな部活はない」と口にした。
 だが当の花梨はというと、そんな教員の言葉に、途端に怪訝な表情になる。無理もない、オカルト研究会の噂は、実体こそほとんど伝わってはいないものの、そのイメージだけは近隣各県のまったく関係ない学校にまで伝わっているほど有名なのだ。
「ない? え、だって、この学校のオカルト研究会って、けっこう有名…」
 案の定、噂はきっちり聞き及んでいるらしい。しかし、ある意味幸運と言うべきか、教員の緊張の糸がその瞬間ぷっつりと切れた。
「ない」
「あの…」
「ないんだ! そんな部活はないんだ! ないんだ!」
「ちょ…ちょっと、あの!?」
「ないったらないんだ!」
「せ、先生!? どうしたんですか!? しっかりしてください!」
「ないんだあああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 その後、なんとか他の教員の助力もあって、すでに活動は停止しており部員もいないという説明がなされ、事なきを得た。廃部、という単語が使われなかったのは、もちろん意図しての事だったろう。
 だが、問題はそれで終わったわけではなかった。
 ないならないで作ればよいとでもいうつもりか、笹森花梨が新たに研究会を設立せんと、活動を開始したのである。どうやら、想像以上に活動的な性格らしい。

「すいませーん」
「!!! き、君はこの間の…!」
「あ、先生。大丈夫でしたか? なんだか、すごかったけど…」
「お、俺は何ともない! それよりなんだ、なんの用なんだ」
「えっと、クラブ活動を…」
「ないんだああああああ!!!!!!!」
「違います、違います! あの、新しいクラブ活動を作りたくて!」
「ああああああ…あ? ああ…、そう。そうか…。うん…。取り乱して悪かったね」
「いえ。それで、えっと、届け出用紙はこれなんですけど」
「うん、どれどれ…。クラブ名は…『ミステリ研究会』?」
「はい」
「………………………あの、活動内容の欄なんだが…」
「ああ、はい。主に宇宙人とか魔術研究とかUMA探しとか、そういう超常現象とかのミステリでオカルトちっくな色々を研究する活動で…」
「………………………」
 応対した教員は、再び時の流れが止まる光景を目撃したという。

 その後、緊急の職員会議が開かれ、笹森花梨という新入生について、職員全体としてどのように対応するかという問題が約4時間にもわたって議論された。
 もちろん、彼女自身に何か落ち度があったわけではないのだが、オカルト研究会の影を引きずるものとあれば深刻度は最大。脅威レベルは当然のように4をラベリングされ、入学わずか1ヶ月も経たずに、笹森花梨は教員のブラックリストにその名を連ねたのである。
 言うまでもなく、クラブ活動申請は却下。建前上の却下理由は『非科学への興味は青少年の健全な発育を妨げる恐れがあるため』という、出すところに出せば相当な物議を醸すであろうというものだった。
 面食らったのは笹森花梨である。部員が規定に満たないとか、割ける予算がないとか、断られるにしてもそう言ったものだろうと考えていたところに、提示された却下理由は活動そのものへの拒否反応だったのだから無理もない。
 即刻、判決を不服として控訴の宣言。つまり、再度クラブ活動登録申請を書いて、職員室に提出したのである。
 教員側にしてみれば、もちろん認められるわけもないから、即刻却下。
 再び却下された花梨も譲らず、三度提出。
 教員側、即刻却下。
 花梨、即刻再提出。
 教員側、即刻却下。
 花梨、即刻再提出。
 教員側、即刻却下。
 花梨、即刻再提出。
 …そんな不毛な攻防が、延々数ヶ月にもわたって繰り広げられたのである。

「だからっ! どうして認められないんですかっ!」
 夏休みも過ぎた秋口の放課後。職員室に響く怒鳴り声は、もうすっかりこの時間のBGMとして定着してしまった笹森花梨である。
 一学期にクラブ活動申請を断られてからこっち、3日にあげず職員室に現われては、判で押したように同一の内容を記述した届け出用紙を提出しているのだ。もちろん、先述したとおりの背景だから、毎回毎回予定調和のように断られているのだが、花梨の方もまったく譲る気はないらしい。普通なら3回か4回で懲りそうなものだが、これをすでに半年以上も続けている。
 いいかげん、職員室における放課後のルーチンワークと化した感さえある光景。晴れた日も雨の日も風の日も、まるで関係なく繰り広げられている。
「だからっ! 非科学への興味は青少年の健全な育成の妨げに…」
 とはいえ、応対している教員にしてみればたまったものではない。
 学生の生活指導委員もつとめているこの教員、名を藤田六郎という今年50歳になる2年生の教諭である。本来なら、1年生である花梨と関わる事はなかったはずなのだが、クラブ活動の各種申請を受け付ける係でもあったために、彼女のターゲットにされてしまっているのだ。
 たったそれだけで、すでに半年以上もこの迷惑な生徒の相手をしているのだから、気の毒という他はない。
 最近では気苦労も重なって、長年連れ添った妻から『あなた、少々やつれました?』と心配されているくらいである。
「そんなの聞き飽きました! でも、それって思想の自由とか言論の自由の否定じゃないですか!」
「そんなことはないっ!」
 花梨のもっともな意見に、斧で薪でも割るかのような一撃をもって返す藤田教諭。理屈も何もあったものではないが、ヘンに理論的に返すと負ける可能性があるのだから仕方ない。
 なにしろ、無理を通して道理を引っ込めようとしているのは、教員側なのだから。
 しかし、本日のミステリマニアさんは、何か非常な覚悟でも持ってきたのか、いつもよりも粘るようである。先ほどからずいぶんやり取りしているが、一向に引き下がる様子がない。
「ありますよっ! それに、非科学非科学って、宇宙人は非科学的じゃないですっ!」
「いや非科学的だろう、宇宙人だぞ!? いるわけないだろう、そんなの」
「どうしているわけないって言えるんですか! 世界中に目撃証言だってあるし、写真にもビデオにも映ってるし、NASAが独自に地球外生命体とコンタクトに成功したって、もう何年も前から言われてる話で…」
「テレビの見過ぎだそんなもん! そんなヒマがあったら勉強しろ、勉強!」
 実際には、宇宙人をこのように否定するのは科学的ではない。存在の有無を証明できなければ、いるかいないかは判らないというのが、正しい科学の在り方である。この方向性でまじめに議論を続けるのであれば、藤田教諭側に勝ち目はないと言えるだろう。
 しかし、彼もダテに半年以上このヘンな生徒の相手をしているわけではない。困った時の神頼み用に、奥の手が用意してあった。
「知ってるんだぞ、お前、この間の化学のテスト、赤点だったそうじゃないか!」
「ぐっ…」
 思わぬ角度からのカウンターパンチに、一瞬言葉に詰まる花梨。
 無理もない。数百に達する人数がいる生徒たちと違い、教員の数はどうがんばっても数十人の範囲内である。職員室に行きさえすれば、ほぼ全ての同僚がいるわけだから、情報の共有もそれなりにできているのである。
 ましてや、ブラックリストに載って久しい笹森花梨のパーソナルデータなど、すでに9割以上の教員の頭にインプットされているのだ。前提条件としての戦力が違いすぎる。
「この間だけじゃない。1学期の期末テストも、ずいぶんな成績だったそうじゃないか。おかげで、夏休みの大半は補習で学校。遊びにも行けずに、勉強の毎日だったんだよなぁ」
「そ…それは……」
 押し黙る花梨の様子に勝利を確信したのか、藤田教諭の高笑いが職員室に響く。通常であれば『少々言い過ぎですよ』と、教頭あたりがなだめに入りそうなものであるが、オカルト研の影はあまりにも濃すぎた。
「ほぉら見ろ、やっぱりテレビの見過ぎなんだ。言った通りじゃないか、非科学への興味は青少年の健全な育成の妨げになるってなぁ」
「…………………」
「ミステリ研究会? はっ。くだらん! こんなもの、物の道理の判らんガキの遊びじゃないか。まったく、近頃の生徒どもときたら、頭の腐ったような奴が多すぎ……」
 ――と、その時、不意に響いた小さな声。
「…………うっ…」
「……あ?」
「……うっ…………ひくっ……………………ひっく………」
「な…おい、ちょっと…」
 見ると、うつむいて小さな肩を震わせている花梨の姿。口をきゅっと引き結んで我慢しているようだが、それでも溢れてくる嗚咽をこらえる事ができないのか、ひっくひっくと小さな声が断続的に聞こえてくる。目はいつの間にか赤くなって、潤んだ目尻からひとつ、またひとつ、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
 あまりの教師の毒舌に、とうとう泣き出してしまったようである。
「おい、何も泣くことないじゃないか…」
 慌てたのは藤田教諭である。長い攻防の日々の経験上、まさか泣くとは思っていなかったので、どう対応していいのか判らない。
「ひっく…………だって………………だって……………………」
 そもそも目の前の生徒は、本来であれば単なる一般的な女生徒であり、別に何か悪い事をしたわけでもない。一方的に危険人物と決めつけて邪険に扱ってはいたが、"多少オカルト趣味な普通の少女"でくくれる存在である。
 そう考えると、何も泣かせる事はなかったんじゃないかと、一気に後悔の念がわき起こる藤田教諭である。
「いや、悪かったよ、ちょっと言い過ぎた。謝る。でもな? 認められない者は認められない――」
「う…………うわあああああああん!」
 肩に手を置いた瞬間、火でも付いたかのように大声で泣き声をあげる花梨。まるで、校内全部に響き渡れとでも言うような常識外れの声量に、職員室にいたすべての人間が一斉に彼らの方を振り向く。
「なぁっ!? おい、こんなところで大声で泣くんじゃない! みんな見てるじゃないか!」
「なんでダメなんですかぁあああああ! あたしはただ、クラブ活動がしたいだけなのにいいいいい!!!」
「よ、よせ! 泣くんじゃない! と、とりあえず生徒指導室に行こう、な?」
 そう言って、慌てて花梨の手を引いて職員室を出、廊下にいた生徒数人のいぶかしげな視線を懸命に振り払いつつ、隣の生徒指導室まで駆け込む藤田教諭。

 ――それが彼の敗北を決定づけた瞬間だった。

「ほ、ほら、そこに座って。な? ああ、そうだ、お茶菓子を用意しよう。落ち着くまで、ちょっと…」
 いまだどきどきと緊張の早鐘が鳴り続ける胸を懸命に抑えながら、藤田教諭が花梨を落ち着かせようと、妙に明るい声を出す。
 しかし――
「ああ、別にそんな、気を遣わなくていいですよ、先生♪」
 返ってきたのは、それにも増して明るい、まるで弾むような元気な声だった。
「…は?」
「ふふーん…」
 見ると、先ほどまで確かに哀しげな顔で泣いていたはずの花梨が、けろりとして藤田教諭を見ていた。
 いや、けろり、と言う表現は少し違っている。淡く微笑んだ顔は、おすまししているような雰囲気でありながら、それに収まってはいない。
 例えて言えば、蛇が蛙を睨んでいるかのような、そんな淡い笑み。
「…な、なんだ、その不気味な笑いは。それにお前、泣いてたんじゃ」
「やだなぁ、泣いてましたよ? もちろん。すごーく本気で」
 何か昨日の事でも語るかのように、花梨が明るく答える。
 その様子から導き出される解答と言えばただ一つ。
「…嘘泣き…か?」
「いえいえ。まあでも、いま落ち着きましたし」
「貴様…」
 狼狽の反動。からかわれたのだという確信と、職員室あるいは廊下で赤っ恥をかかされたのだという思いが、怒りとなって声に出る。
 しかし、花梨はと言えば、そんな藤田教諭の怒気などどこ吹く風というように、不敵な笑みを浮かべたままである。
「まあまあ先生、それよりちょっと見てもらいたいものがあるんですよ」
「あ?」
「いえ、これなんですけど…」
 そう言って、花梨がポケットから何かの紙切れを取り出した。
 見ると、L5版の紙にプリントアウトされた写真のようである。紙質が粗いので店でプリントされたものではないようだ。おそらく、デジタル画像をパソコンで印刷したものだろう。
「なんだ?」
「いえいえ、まあ見てください」
 写っているのは、どこか夜の風景だった。黒い夜空の下、どうやら明るいネオンがひしめく繁華街。ピンク、赤、紫など、目に眩しい色合いの――そして、どこか扇情的な色合いの――街の灯り。
 そして、中心に写っていたのは、一組の男女。腕を組んで、どうやらある建物の中に入っていくようだ。
「!!!!!!!!!」
 それを見た瞬間、藤田教諭の顔から、一斉に血の気が引いた。怒りで真っ赤になっていたはずの顔面が、ものの1秒も経たずに真っ青になる。
「ほら、これ。すごーくきれいに写ってますよね。藤田先生の横顔!」
 その男女の片方。男の方は、まさに藤田六郎その人だった。酒が入っているのか、写真の表情は少し赤く染まっていたものの、誰が見ても当人だとわかるくらいの鮮明さである。
 そして、腕を組んだ女性は、彼の年齢からすれば、娘と言ってもいいくらいの若い女性。
「わ、この人びじーん! でも、どこかで見た事があるかも…。だーれだっけ、なー」
 こちらもまた、酔って赤くなってはいるが、やはり誰もがわかるくらいの鮮明さで横顔が写っている。
 特徴的な黒縁眼鏡と、あまり垢抜けていない長い黒髪が印象的なその女性。今年入った新任教師として、1年生の古文を担当している、長田真由美教諭だった。
 生活指導教諭にして妻子持ちの藤田六郎教諭と、新任の長田真由美教諭が、ホテルに入ろうとしている――要するに不倫現場の写真である。
「ど…どこでこれを」
「先週の金曜日。ちょっとお出かけしたついでに。いやー、お巡りさんいっぱいで、危うく補導されちゃうどこでしたー。てへ♪」
 あっけらかんと笑う花梨。対照的に藤田六郎はと言えば、何を言っていいのか判らないのか声も出ない。そのままたっぷり5分ほど、生徒指導室に沈黙の波がたゆたう。
「…………何が望みだ」
 やがて、静寂に耐えられなくなったのか、絞り出すように藤田教諭がぽつりと呟く。
 しかし、それを聞いた花梨の方は、まったく心外だと言わんばかりに、笑いながらその問いを否定する。
「望み? あはは、やだなぁ先生。別にあたし、先生を脅迫しようとか、強請ろうとか、買収しようとか、恐喝しようとか、そんなのぜんっぜん考えてないですよ? ただ、ちょっと相談したいだけなんですよ」
「そ、相談?」
「最近、あたし、夢遊病の気があって。ひとりでに起きて、パソコンを起動して、なんとなくフリーメールのページを開いて、ランダムな宛先に添付ファイル付きでメールを送っちゃうんですよねー。あ、もちろん、学校のメールアドレスもばっちり登録してあります!」
「………………………………………」
 あんぐりとだらしなく開いた藤田の口。無理もない。要するに『自主的にオチろ』と言っているのだから、恐喝よりタチが悪い。
「先生、どうしたらいいでしょう? あたし、このままじゃ、おちおち夜も眠れなくて…。あ、そうそう、この写真、デジカメで撮ったんですよ。データはもちろんあたしのパソコンに…」
 ――どこで間違ったのだろうか。
 嘘泣きを信じて、人目の入らない生徒指導室に連れてきた事だろうか。
 切り札だと思っていた、花梨の成績の話を持ち出した事だろうか。
 それとも先週の金曜日、初恋の人に少しだけ似ていた長田とお酒を飲みに行った事だろうか。
 あるいは、そもそもの前提として、この女生徒と関わり合ってしまった事だろうか。
 いくつもの自問が藤田の中を駆けめぐるが、すでに盤上は詰んでいる。あと3手…いや、せめて2手…、最悪1手でも戻してもらえれば回避できたかもしれないが、待ったはおそらく通じないだろう。
「………………………………………わかった」
「うん? なーにがわかったのか、な〜?」
 ニヤニヤと悪魔のような笑みを浮かべながら、花梨が先を促す。その顔を引き裂いてやろうかという衝動を懸命に抑えながら、藤田は断腸の思いで、職員会議で最大のタブーとされてきた展開を口にする。
「認める…。クラブ活動の設立…」
「わ。ホント!? やったぁ! 先生大好き!」
「…だから、データは…」
「はい、もちろんデータはあたしがしっかり保存しておきます! 最短でも、卒業するまでは…ね♪ あ、そうそう。当然、顧問は先生がやってくださいますよね? 自・主・的・に♪」
「……………………………あ………悪魔……………」
「何か言った?」
「いえ。やらせていただきますと」
「よろしい!」
 秋も深まりつつある、爽やかな9月下旬の水曜日。それが、オカルト研究会の後継として、その後の学校に波瀾という名のプレゼントを提供し続ける事になる魔性のクラブ――ミステリ研究会の、まさに誕生の日であった。


     ※


「えっと…ここが…こうで…」
 ぱたぱたと手が触れ足が触れ髪の先が触れるたびに、はたはたと埃の舞う体育用具室の午後4時半。今はもう立ち入る者の音すら途絶えた、ほとんどガラクタ置き場と化したその一室で、あれやこれやとお仕事に励んでいる女生徒の姿は、なかなかに希有な光景といえるだろうか。
 女生徒はもちろん笹森花梨。埃まみれのガラクタだらけ、ゴミまみれのカビだらけの体育倉庫を、上から下までひっくり返しながら、大掃除の真っ最中なのである。
「わっ、なにこれ。あんパンの袋だけ? もう、どうしてこんなものがあるかなぁ」
 あの箱をこっちへ、この箱はあっちへ。古ぼけたマットはくるくる巻いて、使わなくなった跳び箱はがたがた積んで。
 棚の上の箱は、なにが入っているのだろうか。脚立をたてて上に昇って、うーんと背伸びで中身を確認。下から見上げたらスカートの中身が見えてしまうかも知れないけど、今は彼女一人だけ。なに気兼ねなく作業に没頭。
 箱の中身は、埃まみれでぼろぼろの卓球ネットが一本二本。使えそうなものはどうやらない。さっさと見限って脚立から降りて、今度は隣の箱の中身を確認。
 そんな感じで、整理と片付けと宝探しを同時にこなしながらはや1時間。始める前は乱雑を絵に描いたようだった倉庫の中も、それなりに広々として片付いてきた。
「けほっ…けほっ…。うー…。わ、ああっ! 髪に蜘蛛の巣がついたぁ! やだぁ、もう!」
 人が活動できるスペースを作ったら、今度は掃除。箒とハタキで埃をぱっぱっ。全開の窓からもくもくと追い出して、残った汚れは濡れ雑巾でごしごし。
 一人きりの作業だから、さすがに隅から隅までとは行かないが、それでも数十分も経てば、見違えるほどに清潔に変化していく用具室。
 そして、落ちた汚れと入れ替わるように漂うのは、山吹色のお下げが振りまくシャンプーの香りと、赤いセーラー服から立ち上るボディソープの芳香。
 人が立ち入ることすら何年もなかったのではないかと思わせるような古ぼけた部屋に、摘みたての花を溢れるほど活けたかのようなその香りは、絶えて久しい活気を呼び覚ますのに必要充分。忘れられた体育倉庫に、活気という名の花がふんわりと咲いていく。
「机はここで、時計はここ…って、あれ、電池がないのかな?」
 キレイキレイに掃除したら、お次は模様替え。どこからか運んできた長机を一つと、パイプ椅子。今は一人きりだけど、いつか増えるかもしれないからと、見栄を張って椅子は二つ用意。
 それから、いつでもお茶を飲めるようにと電気ポットを一つ。幸い、コンセントから電気は通じているから憂いはない。他にも電気を使うかもしれないからと、マルチタップも伸ばして準備は万端。
 殺風景な壁には、持ってきたカレンダーをぺたっ。予定を書き込めるボードも掛けて、だめ押しの賑やかし。
「うーん……。まっ、こんなところかな♪」
 扉の横に表札代わりの貼り紙で、予定していた作業は完遂。
 放課後からの約2時間の大掃除の甲斐あって、よどんだ空気のたまり場だった体育用具室も、見違えるような立派な部屋へと大変化。まだまだ貧乏くさいのは消えないけれど、それでも夢にまで見た彼女の部屋。
 そう、この体育倉庫こそが、彼女が半年以上の攻防の末に職員たちからもぎとった、念願の城――ミステリ研究会の部室なのだ。

 すべてがここから始まっていくんだと予感させる、夢いっぱいの彼女の部室がそこにあった。

「さぁーて! じゃあ、いくよ…」
 掃除したての部屋で、すーっと深呼吸。
 そして一呼吸おいた後、彼女は神様に誓うように、高らかに宣言する。
 記念すべき、ミステリ研初代部長の第一声だ。

「では今ここに、ミステリ研究会の発足を宣言しまぁす! ぱちぱちぱちぱちぱち!」


     ※


――お父さんは、いると思うなぁ
――でも、お友だちはみんな、そんなのいないよって言うよ?
――そうなのかい?
――あんなのうそだーって
――そうだねぇ
――やっぱり、いないの?
――どう思う?


     2


「じゃあ、ミステリ研究会の定例部会をはじめまぁす! ぱちぱちぱちぱち!」
 密やかな息づかいすら響きそうな静かな部室に、花梨の元気な声が響く。
 が、2秒、3秒と経ってみても、彼女のコールへの返事は一つもない。せいぜい、遠くの方から聞こえてくる、体育会系クラブのかけ声が聞こえてくるくらいだ。
「おやおやぁ? みんな元気がないなぁ。じゃあもう一回行くよ? ミステリ研究会の定例部会をはじめまぁす!」
 再度呼びかけてみるが、部室の中から応えはない。
 当然である。何しろ、部員は花梨しかいないのだから、返事があるはずがないのだ。
 誰もいない眼前に向かってコールをあげてみても、ただただ虚しいばかりである。
「はぁ…。ひとりぼっちじゃテンション上がらないよぉ…」
 所は部室として割り当てられた体育館第二用具室。打ち捨てられた、という表現以外に形容しようのないゴミ置き場と化していた部屋をなんとか整理した次の日、勇んで部室にやってきたは良いが、自分以外に部員のいないクラブで何をしたらいいものか、途方に暮れているのが現状である。
 とりあえず元気よく行ってみようと、何となく部会の宣言をしてみたが、効果と言えばますます虚しくなっただけだった。
「綾ちゃんもみっちゃんも、他のクラブに入っちゃってるし…。半年くらい待っててくれてもいいのに」
 花梨とて、何も最初から孤軍奮闘覚悟で部活を立ち上げたわけではない。4月当初は、やや消極的にではあったが、賛同してくれる友達がいるにはいたのだ。
 しかし、一向に認められないクラブ設立にしびれを切らしたのか、5月も終盤になる頃には、みな他のクラブ活動に片付いてしまっていた。
 無理もない。教師が頑として認めないようなクラブ活動に対して、花梨ほど積極的にはなれないだろう。これがスムーズに旗揚げを認められていたのならば、まだしも奇妙な友人のヘンテコな趣味に付き合ってくれたかもしれないが、彼女たちの心と常識のタイムリミットはとっくの昔に過ぎ去っていた。
 結局、残ったのは花梨一人。せっかく立ち上げたクラブ活動だったが、いまいち気合いが出ないのが正直なところなのだ。
 ――とはいえ、無い物ねだりをしても今は仕方がない。この時期に部員を勧誘しても集まらないだろうから、どうがんばっても来年度まではこのままなのだ。
「…ま、その内増えればいいか」
 多少納得いかないものは心に残ったが、それでも見切りをつけるより他にない。強引に意識を現実に引き戻すと、花梨は気分でも変えようと、カバンの中から最近愛読している、学研の『世界不思議大全』を取り出した。
「今日は〜、どこを読もうかなぁ〜」
 英語名で『An Encyclopedia of World's Mysteries』。かの『ムー』の執筆者数人が泉保也名義でリリースした本で、いくつかの項目に分かれながら実に80項目ものオカルトについて言及された、いかにも花梨が好きそうな内容の代物である。
 お気に入りの章はもちろん第五章の「UFO編」、そして第六章の「宇宙考古学編」。
 専門書ではないから、書かれている内容はいずれも簡素なものではあるが、エピソードの類は満載なので、読んでいて飽きない。1972年に山梨の小学生が宇宙人を目撃したという甲府事件の話など、たった数行しか書かれていないのだが、いつも花梨の胸を躍らせる。
 あんまりワクワクするので、いっそアウトドア装備を固めて、甲府の山中に何日も張り込んでやろうかと真剣に考えたくらいである。お小遣いが足りなかったのと、さすがに両親が心配するだろうと思ったので実行しなかったが、それさえなければきっと夏休みは甲府の山奥でキャンプの毎日だっただろう。補習はもちろんサボリで。
「UFOかぁ〜。この辺りで山って言うと、神社の裏山かな」
 不自由な高校生の身分を恨めしく思いながら、花梨は神社裏に広がっている小さな山のことを思い出す。山脈というようなたいそうな代物ではないが、それなりに森は広がっているし、探せばミステリーの一つや二つ転がっているかもしれない。
「UFOが出たって言う話は聞かないけど…。一か八か、土日使ってキャンプしてみようかなぁ」
 近場だしお金もかからないかなぁと、頭の中では早くも宇宙人と握手している妄想が全開。なぜか服装は川口浩探検隊ルックである。
 とはいえ、いかに近場であっても夜の山中は危険なことは花梨にも判っている。武道のたしなみがあるわけでなし、危ない感じの男に遭遇した日には、貞操の問題どころの話ではないだろう。
 妄想はしてみても、現状ではたいしたことはできないのだ。
 せめて部員が後2〜3人ほしい。最悪1人でも仕方ないかもしれないが、その場合は、ある程度信頼できる男の子が良いだろうか。夜中に2人きりになっても、襲ってくることのないような、そういう男の子。頼りがいがあって、安全パイで、それでいて体力があって、優しくて、話が面白くて、できればカッコ良い男の子。
「あはは、そんな都合のいい子、いるわけないよね」
 どこのマンガの主人公だというような設定に自分で苦笑する。どれか一つの要素ならともかく、全部満たすような人など、宇宙人より確率が低いだろう。
 普通に望むなら、まあ優しければそれで良いかな、という程度。色恋をしたいわけでもないし、わいわい楽しく活動できれば満足だ。何人かの仲の良い部員と一緒に、ああだこうだ言いながらUFOを呼んでみたり、魔術の実験をしたり、UMAを探してみたり。休日はミステリースポットに出かけていって、噂の真偽を確かめたりしながら活動できたら、きっと毎日面白くてたまらないだろう。クラブ活動は夢一杯である。
 …が
「わいわい…」
 そこまで考えて、ふと周りを見渡してみる。
 目に入るのは、使われなくなった体育用具と、花梨が持ち込んだいくつかの調度品ばかり。蛍光灯はワット数が少ないのか薄暗く、お世辞にも明るい雰囲気とは言い難い。
 わいわいどころか、猫の子一匹見あたらない部室。自分の息づかいだけが、やけに大きく聞こえてくる。
「……ちぇっ」
 夢想していたクラブ活動の理想とは、あまりに対照的な現実。
 活動の内容云々の前に、異性の好み云々の前に、まず一人、部員の確保が先決だろうか。UFOが見つからないのは今に始まったことではないから良いが、ひとりぼっちでは愚痴の一つも言えやしない。
 なんだか気分を削がれた感覚で、花梨は開いていた本をぱたんと閉じる。閉じた音が部屋に反響するのが、これまた侘しさを強調して何ともやるせない。
「…あー、もう! だめだめ! こんなんじゃだめ! 占いやるぞーっ、おーっ!」
 なんだか惨めな気分になってきた心を大声で無理矢理奮い立たせて、カバンの中から今度はタロットカードを取り出す花梨。黙っていても賑やかにならないなら、楽しいことでもやっているより他にない。
 しかし、手慣れた手つきでめくっていくカードは、この日は花梨の心を明るくすることはついになかった。


     ※


「きいちきいちさくむすびうんか、うないはっぽうごほうちょうなん、さくかんくくじ、たつげんとかん、たいちしんくん、きいちきいちさくかんつう、にょりつりょう!」
 曇り空みたいに薄暗い体育倉庫で奇妙な呪文を唱えているのは、もちろん笹森花梨である。
 モノは陰陽道。神仙として名高い太一真君との交感を行う呪文である。主な目的は、邪気を祓うとか大きな能力を得るといったようなもので、花梨はこれを使って体育倉庫に澱んだ負のエネルギーを一掃しようとたくらんでいるのである。
 もちろん、負のエネルギーというのは花梨の勘違いというか被害妄想である。そんなモノは別に溜まっていない。しかし、彼女にしてみれば、そうでも思わなければやっていられないというのが本音なのだ。
 無理もない。2週間もひとりぼっちで体育倉庫にこもっていれば、頭の中に負のエネルギーも溜まるというものだ。
 あまりにもやることがないので、適当に言いがかりをつけて呪術の実験をしてみようと、そういう魂胆である。いくらひとりぼっちの孤独な部活動とはいえ、早々に部長が幽霊部員化してしまっては示しが付かない。誰に示しが付かないのかは置いておいて、ともかく何かやってみようということである。
「うーん…。あんまり変わったような気がしないなぁ。何か声が聞こえるわけでなし…」
 呪文を唱え終えて1分半。じっと待ってみたが、特に何も起こらない。気合いを入れて身も清めたし、方位などもちゃんと正しくしていたから、神秘な声の一つでも聞けるかと期待していたのだが、まったく変化はない。耳を澄ましても、バレーボール部のかけ声くらいしか聞こえなかった。
 しかし、それも当然と言えば当然である。彼女自身には何も霊能力はないし、特別な修行をしたわけでもない。本を読んでその通りにしただけである。それで陰陽を行使できたら、安倍晴明だって世をはかなんで自害するだろう。
 しかも、呪文が間違っている。太一真君霊言を原文で書くと『奇一奇一乍結運化宇内八方五方長男乍貫九籤達玄都感太一眞君奇一奇一乍感通如律令』になり、日本語読みは『きいつきいつたちまちうんかをむすぶ、うだいはっぽうごほうちょうなん、たちまちきゅうせんをつらぬき、げんとにたっし、たいちしんくんにかんず、きいつきいつたちまちかんつう、にょりつりょう』が正しい。
 翻って花梨の呪言はと言えば、『たちまち』」を『さく』と読んでいる時点で絶望的だし、漢文の文法もまったく無視。他にも所々間違っている。仮に彼女に霊力の才があったとしても、これではどうにもならない。
 さらに、参考にした本の文中でも、ページをめくれば日本語読みがちゃんと書いてあったのだ。なんというか、あまりにも『あと一歩』が惜しすぎる。
「まぁいいや。ちゃんとやったし、来週あたり、新入部員が入って来ちゃうかも! うわぁ、どうしようどうしよう。お茶請けとか、用意した方が良いかなぁ〜」
 もちろん、次の週がさらにその次の週になっても、新入部員はおろか見学者の一人も来なかったことは言うまでもない。
 彼女の孤独な活動はまだまだ続く。


     ※


「うーん…うーん…」
 古いトンネルみたいに薄暗い体育倉庫で何やら唸り声を上げているのは、言うまでもなく笹森花梨である。
 目の前に置いた"モノ"に手を当てながら、じっと意識を集中させて念じることはや30分。微動だにせず、ひたすらうんうんうなっていたせいで、いいかげん腹筋が痛くなってきていた。
 何をやっているかというと、サイコメトリーの実践である。物質から意識を読み取るという、なかなか高度な超能力だ。もちろん常人に使えるわけはないのだが、何となくテレポーテーションよりは簡単そうだという、わけのわからない理由でチャレンジしてみたのである。
「うーん…うーん…」
 だが、案の定と言うべきか、意識の欠片も伝わってこない。
 だいたい、目の前にあるのは、単なるタマゴサンドである。工場生産で大量に作られたタマゴサンドから何を読み取りたかったのかは不明だが、普通に考えれば記憶も意識もなさそうだ。
 しかし、本人は至って真剣に、タマゴサンドの気持ちを何とかわかってあげようと頑張っている。涙ぐましい努力ではあるのだが、方向性が間違っていると言わざるを得ないだろう。
「うーん…うーん…」
 そして翌日、腹筋が筋肉痛になって往生したのは言うまでもない。


     ※


「左から、丸、四角、波線、プラス、星…」
 モグラの穴みたいに薄暗い体育倉庫でぶつぶつと不気味に呟いているのは、毎度のごとく笹森花梨である。
 今日は、目の前に伏せられた5枚のカードの図柄を当てるゲーム。いわゆる、『ESPカード』に興じているのだ。
 20世紀前半に、ジョセフ・B・ライン教授によって提唱された、超能力研究の一手法。いつしか超能力訓練の代表とも言われるようになった、有名なゲームである。
 ここ3日間というもの、彼女はずっとこのカード遊びに没頭しているのだ。
 もちろん、きっかけはサイコメトリーの失敗である。
  『大好きなタマゴサンドのことなら、気持ちをわかってあげられるはず!』と意気込んでみたものの、声の断片すら聞こえてこない結果に、彼女なりに相当落ち込んだらしい。
 ならば、基礎訓練から徐々に始めてみようということで、わざわざ東急ハンズで買ってきたのである。ちなみにお値段2500円と、意外と高かった。
「結果は…」
 ごくっと喉を鳴らして、端からカードをめくり始める花梨。ここまで127回の試行で、全部当てたのは24回目と59回目の2度だけ。なかなか当たらないので、さすがに悲しくなってきているところだ。
「左から、波線、星、四角、丸、プラス…」
 一枚も当たっていない。
「うぁあ、当たらないよぉ…」
 今回のハズレで、実に69連敗。一枚も当たらなかったのも27回目と、惨憺たる結果である。
「うう〜、もう一回! 次こそ当ててやるんだから!」
 誰にともなく宣言して、再びカードを裏向きに並べていく花梨。パタパタパタと5枚並べ終わると、再度意識を集中してカードの面を予想する。
「うーむむ……うー……」
 いいかげん、当たる確率も上がっても良さそうなものなのにと、今度は先ほど以上に力を込めて集中。
 10秒、20秒、30秒…、腕時計の秒針の音すら聞こえそうな静寂の中、沈黙のカードをじっと睨みつづける花梨。
 ――と。不思議な光景が目に映った。
 なんと、目の前のカードが透けて見えてきたのである。
「おお…」
 これは特訓の成果か。試行129回目にして、ついに超能力に開眼したのだろうか? とにもかくにも、目の前の光景にドキドキと胸が高鳴る。それと同時に、ひとりぼっちでがんばってクラブ活動を続けてきたことが報われたような気がして、彼女の胸がぽっと温かくなった。
「よし…。左から…星、波線、丸、プラス、四角! 今度はカンペキ!」
 高らかにカードの図柄を宣言して、勇んでカードをめくる。
 彼女には自信があった。ついに、やったのだと。
「結果は!? 左から、四角! 丸! 波線! 星! プラス!」
 通算129敗目の70連敗。
 彼女の開眼にはあと100年はかかるかもしれない。


     ※


「こっくりさん、こっくりさん、おいでください…」
 街灯の消えた田舎道みたいに薄暗い体育倉庫で10円玉に指を当てているのは、説明するのもバカバカしいが笹森花梨である。
 陰陽道も超能力も敷居が高すぎたんだとようやく反省して、今度は身近なおまじないの類から始めてみようという目論見である
 が、こっくりさんを1人でやろうとしている時点で、すでに成功の目はありえない。
 一向に10円玉が動かないどころか、次の日から2日間も、彼女は原因不明の高熱に襲われることになった。

 こっくりさんをやる時は、最低でも2人以上でやりましょう。


     ※


「我らが謙遜の念をもちて、この円に入らん。万能の神よ、我が開きし円に来たりて、我に力を与えたまえ。永遠の幸運、神の福音、完全なる力、溢れる慈愛をもちて、破邪の威光を示したまえ。あらゆる邪悪なる魂、ことに我が前に立ちふさがりし魔物を祓い、我に光の道を示し…」
 切れかかった豆電球みたいに薄暗い体育倉庫で怪しげな神言を口にしているのは(以下略)。
 こっくりさんで酷い目にあったので、とりあえずお祓いをしようと思ったのがことの始まり。しかし、陰陽道で失敗しているため、どうやら東洋呪術には才能がないらしいと判断して、今回は西洋魔術の実践である。
「おお、もっとも力強きアドナイよ、もっとも高きエルよ、もっとも聖なるアグラよ、義なるアレク、タウ、始まりにして終わりなる…」
 式は『ソロモンの大きな鍵』におけるタリスマンの作成である。この中で、今回作ろうとしているのは、『水星の5』。エル、アバ、エホバの力と水星の霊力を持ち、閉塞状況打破の効果があるとされる。
 最近というか、創立以来何をやっても失敗続きなので、やはり何か霊的にマズいものがあるのだろうと考えて、お祓いを兼ねてのチョイスである。
 もちろん、西洋魔術でこっくりさんのような東洋の動物霊を祓えるなどという言説はどこにもない。何となくノリで始めてはみたが、相変わらず方向性は微妙である。勉強不足と言うより、思慮が浅いと言うべきだろう。
 だが、本人は至ってまじめに儀式を続けていく。そしてしばらくの後、呪文を唱え終わったらしく、ふうと一息つきながらテーブルについて、用意していた本と道具を手に取る。どうやら、タリスマンの筆写に入るらしい。
「ええっと…。円を二重に描いて…、頂点に六芒星…」
 どんな筆記用具を使ったらいいのか判らなかったので、書道の筆をペリカンのボトルインクに浸して描くという豪快な手法で、またしても東急ハンズで買ってきた羊皮紙に図柄を写していく花梨。ちなみに、羊皮紙一枚40円だ。
 しかし、何しろ道具が書道の筆ということもあって、なかなか精密に描けない。よせばいいのに太い筆なので、円の線は太かったり細かったりと落ち着かないし、六芒星も子供の落書きのようになっている。円を囲む詩句である『詩編』24篇7節も、文字が潰れていて、なんなんだかよく判らない。
「うーん…。なんかヘンな形になっちゃった。描き直そ」
 とりあえず一枚描いては見たが、どうにも不格好な出来映えだったので、御利益は薄そうだと判断し、もう一枚羊皮紙を敷く花梨。根本的な問題として、筆を替えようという気はないらしい。
 だが、道具の選択を誤るとロクな結果にならないというのが、魔術実践におけるマーフィーの法則である。
「? あれ? 筆が抜けない…」
 ぴちょぴちょとインクに浸した筆を、ボトルから抜こうとした時、それは起こった。どうやら筆が入り口にハマッたらしく、抜けなくなったのだ。筆を深く突っ込みすぎたらしい。
「んっ…んんっ…。あれー?」
 フリフリしても抜けないので、インクのボトルを手で押さえてぐっと筆を引っ張る。しかし抜けない。あんまり力を込めて筆を突っ込んだつもりはなかったが、何か絶妙な角度で入ったようだ。
「くっ…。ううーっ!」
 やがて焦れてきたらしく、ボトルをひっつかんでぎゅうぎゅうと引っ張り始める。ガラス容器の中でインクが跳ねているのが透けて見えるが、それでも抜けない。
 頑固なボトルと筆を、渾身の力を持って左右に引き絞る花梨。もちろん、その後どうなるかなど考えてはいない。カタストロフィはもう間近。
「うーっ! うーっ! 抜・け・ろぉーぁーっ!」

 ぽんっ!
 びちゃぁあああっ!
「うぷぁっ!」

 ――何とも言えない大惨事。
 家に帰ったあと、母親にこっぴどく叱られたことは言うまでもない。

 なお、タリスマンの筆写は、"儀式の前に作成しておく"のが正しい。儀式はあくまでも、タリスマンに力を充填するためのものなのだ。
 筆がどうなっていようと、最初からやり方は間違っていたのである。


     ※


「魔術も超能力も呪術もやめやめ!」
 お通夜の晩みたいに薄暗い体育倉庫で(以下略)。
 クリーニングに出してもインクが落ちず、結局セーラー服は買い直し。そのおかげで、3ヶ月間のお小遣い停止処分をくらってしまい、踏んだり蹴ったりの彼女が悟ったのは『せめて新入部員が入るまで、難しそうなのはやめよう』というもの。
 なので、今日からは別のことにチャレンジする予定なのだ。
「やっぱり、クラブ活動の本命にチャレンジしないといけないんよね! 花梨ちゃん、間違ってたよ!」
 そう言って部室をあとにして校舎に戻り、階段を駆け上がっていく花梨。
 彼女の言う『クラブ活動の本命』とはズバリ、宇宙人との交信である。
 方法はもちろん、世界でもっとも有名なUFO呼び出しの呪文『ベントラー』。
 空に向かって、ただひたすら『ベントラー、ベントラー、おいでください宇宙の民よ』と叫び続ける、客観的に見たら頭のイッちゃてる感じのアレ。常人の神経では実践はちょっと難しそうだが、花梨にとっては朝飯前。
 これぞ自分の生きる道とばかりに、屋上の扉をバァーン!と開け放ち、いざUFOとの交信開始である。

 ――が

 ザァー…
 ピカッ、ゴロゴロ…

「あ…雨……」
 先ほどまで穏やかだった空が、体育倉庫から屋上に来るまでのほんの数分の間にどんよりと覆われ、凄まじい勢いの雨どころか雷まで鳴っている始末。
「こらー、笹森! 雷なのに何をやっとるか! 早く教室に戻りなさい!」
 折しも屋上の扉を施錠にきた体育教師の怒鳴り声。もちろん、言われなくても気勢はすっかり削がれている。
「はぁい…」
 がっくりと肩を落とし、とぼとぼと力ない足取りで部室に戻っていく花梨。

 まったく、やることなすこと、うまくいかない事この上ない。

 そして――慰める人の姿も影も、誰一人いない。
 ため息を一つ、雨で薄暗い廊下の陰に呟きながら、彼女は涙の雫を一つだけその場に落とした。

 

―――――――――――後編につづく

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